彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

December 2014

平成26年12月22日、今年は朔旦冬至というのだそうだ

朔旦冬至(さくたんとうじ)とは陰暦11月1日(朔日)が冬至の日にあたることをいうのだそうだ。

柚子湯
香りがふわっと・・・朔旦冬至の日の柚子湯

冬至の日は、古代、弱まった太陽の力が復活する一年の始まり、つまり元旦を意味していた。

 

一方で、陰暦では、新月が現れる日がその月の最初の日(朔日)とされている。

 

太陽と月がそれぞれ復活する日が重なる時が19年に1回廻って来る。いわば、蘇りの力が倍増する日が19年に一度の朔旦冬至ということになる。

 

それゆえに、古来、宮中では、この朔旦冬至を瑞祥吉日として盛大にお祝いしたのだという。

冬至のカボチャ
甘いカボチャでした

我が家では、そうは言っても、いつも通りの柚子湯と南瓜で蘇りの儀式を慎ましく行いました。



日本書紀をたどり明日香を歩く=1・磐余(いわれ)の池・磐余宮

日本書紀において神武天皇(漢風諡号=しごう)の国風諡号(死後の贈り名)は、“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”という長〜いお名前である。因みに古事記では、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”と“磐余”“伊波礼”となっている。

1・2005年11月 橿原神宮・外拝殿と畝傍山
橿原神宮と畝傍山(神武天皇橿原宮の跡)

漢風諡号は大宝律令(701年制定)に続く養老律令(757年施行)体制の下、養老律令(全三十編)の第二十一編・公式令(くうじきりょう・全89条)・平出(*へいしゅつ)条(の第十二)で、「天皇諡〔てんおうのし〕(=天皇の、生前の行迹を累ねた死後の称号。)」が定められているが、それに基づき天平宝字六〜八(762〜4)年に神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された事が漢風諡号を奉られた初見といわれている。

〔*平出(ひょうしゅつ=平頭抄出)とは文中に貴人の名や称号を記す時に敬意を表わす意味で改行しその名や称号を行頭に書くこと〕


つまり、それ以前に神武天皇といった呼び名(諡号)はなく、和風の“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”なり、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”が、大和王朝の初代天皇に贈られた諡号であったということになる。


古代天皇制において天皇が死去した際、王権は一時的に群臣に委ねられ、新たな天皇が決まるとそこで王権を返上するという形であった。その王位継承の正統性を担保する儀式として諡号贈呈があった。そして、その国風諡号は崩御された天皇の生前の功績評価を群臣が行いその諡号を定め奉ったのだそうだ。


ということで、神武天皇の国風諡号の話に戻るが、そのなかに“磐余(いわれ)”という文字が入っている。王朝の初代の諡号に与えられた“磐余”という文字がその功績、王権の権威を知らしめるためにどのような意味、価値を持っているのだろうか。


日本書紀のなかに、神武天皇が大和侵攻の際にその地の首魁・長髄彦を討伐する前に、配下の兄磯城(えしき)が陣を布いていたのが磐余邑(いわれむら)という地であるとの記述が出て来る。

2・2005年11月 葛城山から大和三山
大和三山 中央・畝傍山の右上の低い山が香久山、その向こう側が磐余の地

その磐余の地は旧名を片居といっていたが、長髄彦軍を征伐し、天皇軍がその地に満ちあふれていた〔満(いは)めり〕ので、名を改めて“磐余(いはれ)”としたとある。


さらに日本書紀の神功皇后3年1月(202年)、誉田別皇子(ほむたわけのみこ=応神天皇)を立てて、皇太子としたので磐余に都をつくり、これを若桜宮と謂うとある。


さらにずっと時代は下り、履中天皇2年10月(401年)に、磐余に磐余稚櫻宮を造営し、さらに11月には磐余池を作るとある。

3・式内稚櫻神社・石柱
式内・稚櫻神社

最近、稚櫻神社(桜井市大字池之内字宮地1000)の西北西200mほどのところ、橿原市との境界あたりに、六世紀後半以前に人工的に造られた堤の遺跡が発掘された。

4・丘の頂上に稚櫻神社・北東から見る
右の小高い丘の頂上に稚櫻神社 北東より見る

現在、磐余という地名は字名(あざな)にも残っておらず、桜井市の南西部にある池之内の稚櫻神社の周囲一帯を磐余の地と呼んだのであろうと推定されている。

5・稚櫻神社・拝殿  6・稚櫻神社本殿
稚櫻神社 左:拝殿            右:本殿

履中天皇の宮に稚櫻とあることと、その名を冠する稚櫻神社は「池之内」にあり、辺り一帯に現在でも「池尻」(橿原市)、「橋本」(桜井市)など池に関する地名が多く残り、所在について諸説はあるものの、先の堤の遺構の発見などともあわせ、この一帯が磐余と呼ばれたことは確からしい。

7・拝殿内と奥に本殿・本殿左が天満神社、右が高麗神社
拝殿内から本殿 本殿左:天満神社 右:高麗神社

稚櫻神社の北北東700mほどにある吉備池廃寺・吉備池の畔には、天武天皇の第三皇子である大津皇子の辞世の句である歌碑、“ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”が建てられている。

0・稚櫻神社由緒書き
稚櫻神社・由緒書き

日本書紀で磐余に営まれた宮は神功皇后の磐余・若桜宮を嚆矢として、履中天皇(在位400−405)が401年10月に磐余稚櫻宮を造営、清寧天皇(在位480−484)が480年1月に磐余・甕栗(みかくり)で即位し、その地に宮を定めている。

8・南東から稚櫻神社を見る
稚櫻神社を南東側から見る

次いで継体天皇(在位507―531)が即位後20年目にして、磐余・玉穂に遷った(526年9月)とある。河内・楠葉宮で即位(507月1月)したのち、山背・筒城(511年5月)、山城国・乙訓(518年3月)と転々とし、大和へ入るのに20年もの歳月を要した理由は誠に興味深いところであるが、その大和の地として磐余を選んだことも、この地が王の地として人民が認識していた、王の居る聖なる地の証なのではなかろうか。

9・この辺りに市磯池(いちしのいけ)があったのかも・・・
稚櫻神社の東側 この辺りに市磯池があったのだろうか

最後に聖徳太子の父、用明天皇(在位586−587)が586年9月に磐余に宮を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と名づけたとある。磐余の池のまさに畔に宮殿を構えているのである。


神武天皇紀に初出の、この“磐余”の土地は、神功皇后の御世を経て401年の履中にはじまり用明天皇の586年まで、時々の抜けはあるにせよ数百年の間、王家の宮殿を擁する聖なる地として特別な崇敬を集めていた場所であったといえる。

10・稚櫻神社の南裾、東から西を見通す
神社の南裾 東側から西を見通す

それから千数百年後の現在、この磐余の地には、小高い丘にぽつんと取り残されたようにして稚櫻神社が鎮座するのみで、周辺は田地と人家が散在する鄙びた何の変哲もない場所となっている。

11・境内階段上から西(磐余の池)方向を見る
稚櫻神社の階段から神社西方向、磐余池の辺りか

哀しいかな、稚櫻神社の丘をめぐる一帯には磐余の池や市磯池の痕跡はもちろんない。往時の栄華を偲ばせる縁(よすが)は微塵もないのである。




STAP細胞はありません!! STAP細胞再現実験取り止め=理研記者会見

19日午前10時半から理化学研究所は検証実験チームの相沢慎一リーダーや、STAP細胞論文の共著者だった丹羽仁史副リーダーらが出席の下、東京都内で記者会見を開き、すべてのSTAP細胞の再現実験を打ち切ると発表した。


4月から始まった丹羽仁史氏の検証チームによる再現実験と7月から始めた小保方晴子研究員本人による再現実験共に、これまでにSTAP細胞の再現ができず、これ以上の検証は無意味との判断から、本日、実験の取り止めを発表した。


ねつ造疑惑が噴出して4月に小保方晴子氏出席のもと記者会見が開催されたが、その席上、同氏は「これまで200回作製に成功した」、「作製には独特のレシピーがある、コツがある」、「名前は言えないが、第三者がSTAP細胞の作製に成功している」と強弁し、STAP細胞は存在するという点では徹底抗戦の構えであった。


その後、小保方氏のネーチャー論文作成の指導に当たった笹井芳樹CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長が自殺するなど、学問の世界の話とは思えぬスキャンダラスな展開を見せてきた。


その本人による11月末とする再現実験の期限に到達、それを受けての本日の記者会見である。小保方研究員は体調不良のため同記者会見には欠席であった。


この再現実験取り止めにより今年1月からの一連のSTAP細胞騒動は一応の決着を見せたことになるが、何とも後味の悪い事件?であった。


そのひとつが小保方氏の言動から一度たりとも科学者としての精神、スピリッツを感じることができなかったことである。演繹、帰納であれ、客観的な現象からある結論を導くことは科学に限らず、ひとつの説を他人や社会に納得させるには必須の手続き、約束事である。


然るに、そうした思索回路を同氏の言動からまったく認めることが出来なかったことは、本当に残念である。


さらに、理研自体の組織としての問題である。問題と言う点ではこちらの方が重大であるし、ここに至ってもその疑念はひとつとして晴れてはいない。


すなわち、これほどやっても再現できなかったSTAP細胞を存在するとして作成された論文がなぜ、日本を代表する研究機関である理研で承認され、しかも世界的な学術雑誌であるネイチャーに掲載されたのか、ここに至った経緯、意思決定システムなどの説明がなんら成されていないことは、今後の日本の研究開発、科学の発展にとってもっとも大切な事柄であり、その点については文科省をはじめメディア、学会などでさらなる解析が必要とされる。




今こそ憲法を論ずる時、思考停止に陥る“九条教”からの解脱を

今回の選挙結果を受けた感想を、JT生命誌研究館館長の中村桂子氏があるNPO法人の会報のコラムで、


「投票率が史上最低という形で終ったのは気になります。ここでしか意志を伝えることはできないのに。」

「その結果、安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」


と書いておられた。


前段の、戦後最低の投票率となった点はおっしゃる通りであるが、引っかかるのは後段の部分である。


中村桂子氏といえば生命科学分野で専門的業績は言うに及ばないが、難解な生命科学の世界を世の中にわかりやすく紹介、啓蒙された功績でも評価されている人物である。


そうしたいわゆる知識人と呼称される人たちは、どうしてこうも現行憲法について語る時に一瞬にして思考停止の状態になってしまうのか、不思議でしようがない。


日本の言論界(そんなインテリジェンスな世界がこの国にあったとしたら)やメディア、そして知識人と総称される中村先生のような聡明な方々が何故にこうも憲法改正を頭から否定し、改正は悪だと与件として語るのか。


わたしにはそこがいつも分らず、理解に苦しむところである。


特に、他の様々な分野のお話において非常に見識の高さを示される人物が、こと9条問題や憲法改正問題について話される時に、決まってその脳軟化症といおうか脳硬化症という方が適切だと思われる病状に陥るのか。


中村先生ももちろん色んなことは分ったうえで、小さなコラムにちょっと書かれた感想であるから、いちいち目くじら立てて云うんじゃないとお叱りを受けるのは覚悟の上で、少々、やはり申し上げるべきと思い、愚考するところを述べることとする。


今後、2017年の参議院議員選挙において議席の2/3以上を確保し、衆参両院で与党がその条件を満たすことになったとしても、中村先生がおっしゃるような「安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」になるわけではない。


国会は憲法改正案を国民に対し発議することができることになるだけで、その後の国民投票において国民の過半数の賛成を得て初めて憲法改正は成る。


憲法第96条は、現在、その発議に必要な2/3を1/2に改正したいという自民党内の動きで注目を浴びたが、この条項自体は日本国憲法のなかで第9章“改正”とわざわざ章立てがなされて規定されているものである。


次にその第9章を記載するが、第9章は第96条の1条(二項)のみで成り立っており、第2章の“戦争の放棄”が第9条の1条(二項)のみで成り立っていることと同じ扱いであるともいえる。


第九十六条

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」


申すまでもないことだが、憲法改正の是非は主権者たる国民(2007年5月成立の「憲法改正手続法(国民投票法)」で18歳以上の日本国民)が判断するのである。


飽くまでも主権者たる国民が最終的に裁可するのであって、少なくとも、「安倍さんが思うままに」などはできないことは確かなことである。


もし、「思うままに」とおっしゃることが本音であるとしたら、それは国民主権というそもそも憲法の前文ならびに第一条で規定されている文言を信用されておらぬということになるし、また、国会で決められたことを国民は鵜呑みで賛成する、日本国民は愚かにも自己判断能力を持たぬということを言っておられることとなる。


もちろんそんなことを聡明な中村先生が考えておられるわけではないし、おっしゃるわけはない。


だから、憲法問題については丁寧な議論、言い回しが必要となるのではないかと愚考するのである。


1946年11月3日に公布された日本国憲法は、その後68年間にわたり改正は行われていない。


戦後70年目となる来年、その間に国際社会の構造やわが国を巡る周辺環境は大きく変化した。さらに民主主義に対する国民の理解も深まり、最近では税金の使い道といった視点でも、国民主権という考え方は、われわれ国民の血肉となってきたとも感じられる。


そうした歴史認識、現状認識に立ったところで、現行憲法を素直に読むと、この憲法が作られた70年前とは大きく国際情勢、国内情勢、そしてわが国国民の民度が変わって来ている。色々と現実にそぐわぬ、これは国の存亡にかかわるという点が多々、出てきているなというふうに正直に思うのである。


ひとつ、例えば憲法前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と赤字の部分など、現下の竹島情勢、尖閣諸島情勢、小笠原諸島での珊瑚乱獲に見る領海侵犯の問題、北朝鮮の核ミサイル開発問題等を列挙するまでもなく、“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して”、国民の生命と財産を守ることなど危なくてしようがないと考えるがどうであろうか。


第2章第9条の「戦争の放棄」も、もちろん第二次世界大戦を惹起した枢軸国の一員として大きな反省に立ってのものであることは否定しないが、前文の赤字部分の理想的な国際情勢認識といおうか願望を前提にしたものであることも否めぬのである。


現実にこの国は激変を重ねる国際情勢のなかで日米安保条約という軍事同盟を背景に戦後の経済発展を享受し、経済大国としての地位を確立してきた。


しかし、それは米国の核の傘があっての、日米地位協定という不平等で屈辱的な条件下での、平和の享受、経済繁栄の享受であったということも冷厳なる事実である。


真の独立国家とは何か。


この一点で戦後70年となる2015年、その目指すべき国家像を議論し、若者たちが誇りをもって生きていける国造りをなすために議論を尽くし、深めてゆくべき時機(とき)が来たと考える。


その詰まるところが憲法議論である。現行憲法を所与のものとする思考回路はもう棄てなければならぬ。硬直的な思索、いや、宗教ともいってよい“九条教”をまずは脇に置いて、誇りある真に自立した独立国家たるにはどういった課題を解決しなければならぬのか、核や国防軍など安全保障の問題を含めどういった国家としての構えが必要なのかを、真摯にかつ冷静に議論を進めてゆくべきである。


そう考えた時に、その“とば口”で、憲法改正は悪である、戦争国家への道だと決めつけて、憲法議論を脳内で封殺することだけは勘弁してほしいと思うのである。


安倍晋三が右寄りで怖いと考えるのはもちろん自由である。しかし、二一世紀の“複雑怪奇なる国際情勢”のなかで真の独立国家として生きてゆく道筋は何か、これからの誇りある日本人、若者たちのためにも、憲法議論に真正面から取り組んでいく覚悟が必要であり、その義務、責任がわれわれ大人にはあるのだと考える。


 


 



第47回総選挙・自公大勝の先に見たい景色

2014年11月21日の奇襲的な衆議院解散。12月2日に公示を受け、12月14日に施行された第47回総選挙は、自公の政権与党が全議席(475議席)の2/3(317議席)を上回る326議席を獲得する大勝利で終わった。

議事堂

大義なき解散とか税金の無駄遣いといった悲鳴のような声が野党側から挙がった今回の解散総選挙。


衆議院の2/3超という圧倒的議席数を誇っていた自公連立内閣が小渕経産大臣と松島法相のダブル辞任というスキャンダルにまみれ坂道を転がり落ちてゆく危機に直面、そのなかで勝負に出た解散・総選挙。


今回、解散を決断した時は、「自民は過半数確保、公明は現状維持、民主は伸び悩み」という情勢判断であったという。


自民党総裁室
自民党総裁室

内閣支持率をジリ貧に降下させてゆき、結果として政権交代という麻生内閣の悪夢を再来してはならぬというトラウマも今回の不意打ち解散の大きな要因であったと考える。


さらに、解散直前のサンプル調査では「自民は多くて30議席減、民主が85〜95議席で三桁に届かず」という数字。


そして、いよいよ14日の開票結果である。投票率は戦後これまでの最低であった2012年の前回衆院選を6・66%下回る52・66%(小選挙区)という低水準となった。


その投票結果を下の通りである。


         *( )内数字は(公示前議席比増減・前回選挙時獲得議席比増減)

自民党 291 (−2・−3)

公明党  35 (+4・+4)

民主党  73 (+11・+16)

維新会  41 (−1・−13)

共産党  21 (+13・+13)

次世代   2 (−17・+2)

みんな   0 (0・−18)

その他  12 (−12・−6)

合計数 475 (−4・−5)


総議席数 475 与党 326 野党 149  与党比率 68・6%

公示前時 479 与党 324 野党 155  与党比率 67・6%

前回選挙 480 与党 325 野党 155  与党比率 67・7%


上表の数字からその選挙結果が語るところをまとめてみた。


まず結論であるが、自公両党の獲得議席数は解散時比+2、前回選挙獲得議席数比+1と総議席が0増5減するなか絶対数を微増ながら増やし、与党比率という点でいえば公示前より1%アップの68・6%を占めるに至った。


逆に野党は解散時比、前回選挙獲得議席数比ともに−6議席と議員定数の削減の影響以上に議席数を減らした形となっている。


野党共闘という掛け声のもと小選挙区での野党一本化という画策もあったものの、結果を見る限り、その効果は限定的で、逆に野党同士のつぶし合い、足の引っ張り合いであったというのが今回の選挙結果の数字に表れているといえる。


すなわち、日本維新の会から分派した次世代の党がどう転んだか。

さらに、結の党への分派(衆院9)と最終的に解党に追い込まれたみんなの党(衆院9)の票がどこへ行ったか。


その議席合計37議席をどう野党で取り込めたかということであろう。


みんなの党からは維新と結いの党との合流で、9名が移動。


さらにみんなの党からは選挙前の駆け込み寺として民主へ3名。残りは無所属などでの選挙対応。


民主は他にも生活の党から2、新党大地から1、無所属から1の転籍があり、不意打ち解散の焼け太りで、みんなの党の3名を含め7名の議席増となっていた。


そうした野党の選挙前のドタバタを経て、臨んだ選挙。


結局、政策の摺り合わせなどを無視しての離合集散を重ねた野党陣営で、自民批判票の受け皿として国民の負託を受け得る党は出現しなかった。


そこで政権党になりうる政党としては認識されておらぬ日本共産党が、消極的な自民批判票の受け皿となった結果、13議席増と単独で議案提出が可能となる20議席を一議席超える21議席を獲得するという、いわば小さな漁夫の利を得た形となった。


こうして安倍総理も想定外の大勝利を得た国会であるが、今回の選挙でひとつ国民にとってひと筋ではあるが、今後の政治をわかり易くする道筋がほのかに見えてきたようにも思える。


左翼陣営から見てゆくと、社民・共産につづいて大きく左から右翼も包含する民主の右に、公明、維新、そして自民が並んだポリティカル・マップが見えてきた。


欲を言えば、自民の右に次世代のような自主憲法を掲げる20名程度の議員を抱える政党が必要であるが、この時点で多くを望むまい。


こうしたマップにおいて、今後、どうしても政党内外で整理してもらいたいのが、明確な政党綱領の改定、提示である。


民主党で言えば、たとえば集団的自衛権についての政党としての意見集約である。国の安全保障、現行憲法の扱いにおいて根幹となる国家観が決定的に異なる議員集団がひとつの政党の旗の下にいることが、この党の言うことが国民に信頼されない最大、致命的な欠陥である。


野党第一党がこういう一貫性を欠く主義主張のその場凌ぎの態度をとり続ける限り、せっかくのバブル政党の整理が進むなかで、自民党の対立軸の受け皿たる政党は出現しないというしかない。


是非、再来年の参議院選挙へ向けて真摯な政策協議を成し、明快な政党綱領を作り上げる作業に着手して欲しい。


対立軸はやはり護憲、改憲、自主憲法という国家観の相違点に着眼したものが国民にとってはわかり易い。


昨今、日々、周辺情勢が緊張度を増している国際情勢の真っただ中において、そうした視点、問題意識での政権選択を国民に可能とさせることが、いま、日本の政治家、政党に強く求められることである。


今回の選挙結果を糧に、そうしたクリアーな景色を見せて欲しいと切に願うところである。


 


 



大神(おおみわ)神社参拝の際には、そうめん處・“森正”でひと休み=奈良グルメ

桜井市三輪535 ☎ 0744-43-7411


そうめん處・“森正(もりしょう)”の三輪素麺は評判が良くお馴染さんがたくさんいることは聴き知ってはいた。

麻暖簾の架かる風情ある店構え”森正”
麻暖簾の架かる風情ある店構え・森正(もりしょう)

ただ、今回は折悪しく中途半端な時間であったため、素麺ではなく、早朝から歩き通しの一日の疲れをとるために甘味処として利用させていただいた。


時刻は14時40分。当日はこれから参拝というタイミングであったが、明日香村を精力的に廻ってきた疲れが足腰にどっときて、甘いものがほしいと体躯が要求していた。


そこで、まずは一服ということで二の鳥居の真ん前左手に店を構える“森正”さんに入った。

大神神社・二の鳥居
大神神社・二の鳥居 ここを左折、すぐ森正

麻の暖簾をかき分けて、石敷きの店内へ足を踏み入れると、時間が中途半端ということでお客はわれわれ二人のみ。

奥庭より店内を見る
店内にはわれわれ二人だけ・・・静かでした

古い大きな日本家屋の庭先でお店を開いており、庇の先に葭簀(よしず)葺きの屋根を設けたなかなかに風情を感じさせるインテリアである。

店内には井戸や囲炉裏もあります
井戸や囲炉裏もある店内です

加えて橙黄色の燭光が店内にほんわかとした温もりを伝えてくれる。

そんな“森正”、わたしは“でっち羊羹”なるものを注文。家内はもちろん“わらび餅”。

お品書き
お品書き

そして雨催いの一日、冷え切った体躯にはホットコーヒーも当然、オーダー。見てください、コーヒーも葭簀に似合う流儀で出てまいりました。

コーヒーとでっち羊羹
コーヒーに干し柿

くっとひと口、咽喉に流し込んだマイルダな味・・・。あぁ、温かい・・・


次にお目当ての“でっち羊羹”・・・何だろうと頼んでみたが、どうも見た目は水羊羹である。それにしてもしっかりと量がある。何だかうれしくなって、心もあったまる・・・単純です。

でっち羊羹
でっち羊羹・・・量が・・・量が・・・あぁ〜

まず、ひと口。おいしい・・・

そしてまたひと口・・・おいしいです。

上品な甘さで、これは言っては何だが、あの祇園の甘泉堂さんの水羊羹にも十分引けは取らぬとお見受けした。


次に家内が本物のわらび餅との感想を述べる“わらび餅”・・・にも触手を伸ばす。

わらび餅
純正わらび餅

三輪山の湧水かそれとも狭井神社の薬井戸のあの薬水でも使用しているのだろうか、透明感のあるヒヤッとした口触りが何ともいえぬ清涼感を口腔に広げてくれる。これまた、上品でしっとりとした一品である。


ゆったりとした時間の流れるお店でもう少しゆっくりしたかったのだが、これから三ツ鳥居を拝観し、拝殿で参拝をしにゆく身。


ごちそうさまとお礼を言って、“森正”をあとにした。


大神神社参拝の際には地にも味にも優れた“森正”。一足止める価値のある一店である。次回は温かい“にうめん”をスルスルといきたいものだと思っている。


 



霊験あらたかなる安倍文殊院の“五芒星の落雁”=奈良グルメ

奈良県桜井市安倍山



京都宮津・智恩寺の切戸の文殊、山形・大聖寺の亀岡文殊とならんで日本の三大文殊のひとつ、「大和安倍の文殊さん」として名高い安倍文殊院の本堂を拝観すると、お抹茶券が一緒についてくる。

智恩寺山門
宮津・智恩寺の山門

まず、そのご本尊であるが、日本最大(7m)の大きさを誇る獅子にまたがる渡海文殊菩薩である。1203年に仏師・快慶によって造られ、国宝に指定されている。

安倍文殊院
安倍文殊院・本堂

堂内でお坊さんによる丁寧な説明を聞いた後、傍近くからご本尊を見上げ、深い智恵を授かれますようにと手を合わせる。



その後に本堂脇のお部屋でお抹茶をいただく。その際に智恵のお抹茶に添えられお茶請けに出てくるのが“吉野くず入りの手作りらくがん”である。

安倍文殊院の落雁

目の前に供されたお茶請けに、あぁ落雁かとあまり期待せずに口にしたところ、これが中の餡子が上品で何これ?ということで、お坊さんにお聞きしたところ寺務所で販売しているとのこと。そして、早速に購入したものである。



 

当院は遣唐使として科挙の試験に合格、唐の高官となった阿倍仲麻呂や陰陽師・安倍晴明などを輩出した安倍一族の氏寺であるが、当地で晴明が陰陽道の修業をしたとの伝承もあるなど文殊菩薩の智恵のみでなくなかなかに霊験あらたかなる場所なのである。



そうした当院の手作りの落雁。口にし、胃の腑に入ると、何ともいえぬ妙なる声が身内に満ちてくるではないか。五芒星が刻印された落雁・・・霊験は確かにあると確信したところである。



 

ネット通販でもとチェックしたが、やはり、当院へ伺い、本堂でお詣りして初めて手に入れることのできるものでありました。おいしいです。何かうまくいきそうな予感のする御菓子でありました。


 


 


 

あと3日、東京国立博物館にて開催中の日本国宝展へ急ぎ足を運ぼう

東京国立博物館の平成館特別展示室において開催されている「日本国宝展」 はこの12月7日(日)までで終了。好評のため最終日の7日まで毎日午後8時まで時間を延長し開館中とのこと。

東京国立博物館
東京国立博物館

この2日まで奈良へ行ってきた。日本書紀の記述の跡を巡る旅であったが、そのなかで、せっかく訪れたのにお目当てのお宝がなくて気落ちしたのだが、この東京で開催中の国宝展に出品中とのこと。

日本国宝展・平成館
平成館にて開催中

帰京直後であったが日にちがない。雨模様の寒い一日であったが、上野まで足を運んだ。


まず、法隆寺の玉虫厨子。

玉虫厨子
玉虫厨子(館内売店絵葉書より)

大宝蔵院に置かれているはずの“玉虫厨子”がなかった。百済観音はお目にかかれたが、そこでわれわれは厨子の複製を目にしたのみであった。今回、東博平成館で入場と同時に本物の“玉虫厨子”に対面できた。江戸の敵を長崎で討つことが出来た? ちょっと違うか・・・


次に安倍文殊院で日本三大文殊のひとつ、国宝・渡海文殊菩薩像を拝観したが、その脇侍仏である国宝・善財童子立像と国宝・須菩提像がやはり東京へ出張中。

安倍文殊院善財童子立像
可愛らしい善財童子立像(同上)

それも本日、ようやく本物とご対面。文殊院では写真パネルが文殊菩薩の両脇に置かれておりました。何だかなぁ・・・味気なかったなぁ・・・


そして、奈良市の元興寺(がんごうじ)では宝物殿に置かれているはずの五重小塔が見当たらず、その場所にはほかの仏さまが・・・

元興寺五重小塔
五重小塔(同上)

そんな五重小塔、いやりっぱな五重塔であった、何せ高さが5・5mもあるのだから・・・やはり目にしてみて初めてその小塔という名はふさわしくないと思うほどに大きかった。


例の漢の委の奴な国宝の金印も・・・と思ったが、これは11月末で終了でした。残念!!

IMG_0003
悔しいので金印の絵葉書、買っちゃいました

国宝展のポスターに採用されていた三千院の阿弥陀如来の脇侍、勢至菩薩坐像と観音菩薩坐像の二体は久しぶりのご対面であった。

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左:勢至菩薩坐像    右:観音菩薩坐像

厳しい大原の寒さの中、阿弥陀如来さんはさぞかしお寂しいことであろうとご同情申し上げたところである。


一度は目にした、耳にしたことのある有名な日本の国宝が一堂に会した国宝展、行って損はしません。

日本国宝展
平成館館内

今日は天候不順ということか20分待ちの行列ですんだが、多い時は2時間待ちというが、国宝、それも名品ぞろい、ぜひぜひ、ご覧あれ。あと3日です!!


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