彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

October 2014

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

1 石清尾山古墳群を代表する積石塚古墳とは


高松市の中心市街地の南西部に位置する石清尾山(標高232m)や紫雲山(同200m)などを擁する石清尾山塊の尾根上に4世紀から7世紀にかけて造成された200余基におよぶ古墳群が存在する。

1・石清尾八幡神社の後背に石清尾山を見る
石清尾八幡宮の鳥居から石清尾山山頂を見る

そのなかでも有力な古墳のほとんどが弥生時代後期(3世紀後半)から古墳時代前期(4世紀)にかけて築かれた積石塚という墳丘を石で積み上げた特殊な形態の古墳である。


その形態がよくわかる積石塚の代表例が善通寺市の有岡古墳群にある野田院古墳(3世紀後半)である。積石は後円部にみで、前方墳は盛土となっている。

2・善通寺・野田院古墳
積石塚の野田院古墳(全長44・5m 前方後円墳・3世紀後半)

全長44・5mという大規模な前方後円墳はこの善通寺一帯を支配していた豪族の首長の王墓とみられるが、標高616mの大麻山(おおさやま)北西麓の瀬戸内海を一望する高所(405m)に築かれている。

0・野田院古墳から瀬戸内海を一望
野田院古墳から瀬戸内海を一望

1700年前もの昔にどうしてこんな山の稜線上の高みに墓所を構えなければならなかったのか。


これから見る石清尾山(いわせおやま)古墳群の積石塚も野田院古墳同様に見晴らしの良い山の稜線上に造営されていることと考えわせ、その理由を探ってゆくことにする。


その善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。

善通寺市の王墓山古墳
有岡古墳群の中央部に位置する王墓山古墳(全長46mの前方後円墳・6世紀半ば)

そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。


この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6−7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。


ただ、国外に目を転じれば高句麗の首都・扶余(現在の中国東北地方集安県)に多くの積石塚が存在するほか中央アジアにも存在することから、遊牧民あるいはそこから派生した騎馬民族の墳墓形式とする見方もできる。


因みに朝鮮の古代国家・新羅の古墳群が慶州に存在するが、その形式は円墳である。第13代王である未鄒(ミチュ)王(在位 262−284年)の墓をはじめ23基もの円墳が集まる大陵苑の写真が下である。

4・慶州の大陵苑古墳群
慶州の大陵苑古墳群

高さは20数メートルにもおよぶ小高い丘のように見えるものが固まって造営されている。形状は円墳が基本的なものだが、皇南大塚のように円墳が二つつながった双円墳も変化形として存在する。


さらに、最近では、前方後円墳が日本独自の古墳形式だとするこれまでの学説を翻すかのように、前方後円形の積石塚古墳が扶余の周辺で数多く発見されている。


大和王朝を中核に据え続ける唯我独尊の日本考古学をひっくり返す発掘・発見が大陸においては既になされているのである。


つまり類似した墳墓形式を有す部族が朝鮮半島や中国北東部から渡来したという見方を裏打ちする、前方後円墳という墳墓形式が日本独自のものではなく、大陸にも存在していたという事実である。


そうした大陸の墳墓形式の系列に属するとみられる日本で珍しい形態の積石塚古墳を有する石清尾山古墳群をこれから紹介していこうと思う。


国会の役割は政策論議・立法化にあり、大臣の首のすげ替えは本義にあらず

10月20日、関連政治団体の不明朗会計の責任を取り辞任した小渕優子前経済産業相の後任として翌日付で就任した宮沢洋一経産相の資金管理団体のSMバーへの支出が問題化されようとしている。

 

2010年9月6日に広島市のSMバーへゆき交際費として支払った金額1万8230円の問題である。宮澤大臣本人はその店へ行ったこともなく名前も知らぬと説明。

 

これまでの宮沢洋一議員の国会質疑の内容水準の高さ、質疑姿勢の端正さを日頃より高く評価している者として、同議員がこれに関与しているなどとは端(はな)から思ってはおらぬし、そうしたことを関係者がやっていたことも知らなかったと言うのも真実だと思う。

 

政治と金の問題は永田町をめぐる根深い問題として国民が常に監視を続けねばならぬことであることを否定はしない。

 

しかし、小渕前経産相の多額に及ぶ政治資金収支の不突合は別として、松島みどり法相のうちわ配布の件や今回のSMバーの問題に至っては、難癖といってもよいきわめてレベルの低い話であると考えている。

 

逆に、こうした話で国会審議をいたずらに遅延させたり、本来、急ぐべき政策論議を後送りにすることの方が国民にとってのマイナスは較べようもなく大きいと言わざるを得ない。

 

わたしがそう考えるSMバーの問題について朝日新聞デジタルニュースは10月23日の配信記事で民主党の対応を次のように伝えた。

 

「首相官邸は違法性はないとして問題視しない考えだが、民主党は閣僚のドミノ辞任を狙って追及する構えだ。

 

「『「あぜんとした。こうした問題を国会で取り上げざるを得ないのは、大変情けない」。民主党の枝野幸男幹事長は23日の記者会見で、宮沢氏をこう批判した。民主党執行部の一人は『チャンスだ。さらに変なことを言えば、完全にクビを取れる』と語り、辞任に追い込むことも視野に入れる。」

 

そもそも、わたしは10月7日の参議院予算委員会でうちわ問題を問い質す民主党の蓮舫議員の姿を見ていて、あまりに下らぬ、もっと議論すべきテーマがあるだろう、なぜ正面から政策論を挑まぬのか、テレビ越しに蓮舫という小賢しげな政治家に毒づいたものだ。予算委員会は大臣の首のすげ替えを本旨とするものではなく、立法府たる国会の重要な政策論を討議し、法律案を審議する場である。

 

最近のネットでは蓮舫議員が過去に配ったコースターのような丸い形をしたものを選挙区で配っていたとして、色々とうちわ問題追及のブーメラン効果が取りざたされている。

 

蓮舫議員のコースターのようなものには選管の証紙が貼ってあるからOKなのだとか、松島前大臣の時には選挙期間中ではなかったので、選管のお墨付きの証紙を貼ってもらおうにも無理であっただのといった井戸端会議が喧(かまびす)しい。

 

ネット上でも蓮舫議員のうちわ追及に対し、下らぬ議論、低レベルとの評価も多く、もっとやるべきことがあるだろうと手厳しく健全な意見も見られる。

 

国民の方が今どきの国会議員よりも数倍、賢明で大局観がある。

 

10月17日に民主党の階猛(しな・たけし)衆院議員が公職選挙法違反の容疑で松島氏を東京地検に刑事告発したが、もっと国政の方でやるべきことはたくさんあるだろうにと、事の軽重、ものの優先順位も分らぬ国会議員にはほとほと嫌気がさし、野党第一党だか何だか知らぬが、民主党には一分の見識というものもないのだろうと改めて再確認するだけであった。

 

民主党がそこまで言うのならば、菅直人元総理大臣が在日韓国人から計104万円の献金を受け取っていたことや同議員の資金管理団体から北朝鮮との関係も疑われかねない日本人拉致問題関連団体への6250万円の献金問題など、政治資金規正法22条違反(外国人からの寄付禁止)などもっとどす黒い政治と金の問題の方を先に追及すべきではないのか。

 

そして、今回の1万8230円のSM問題を報じるテレビ局、新聞社など大手メディアも、SMなどといった言葉を昼日中、白昼堂々と報じる必要があろうか。もっと青少年にも配慮した表現を考えるべきではないだろうか。

 

さらに、現在の我が国を取り巻く国際環境は厳しさというより危険度を増してきていると言わざるを得ない。尖閣諸島への領海侵犯に加え、最近は小笠原諸島周辺の排他的経済水域に侵犯し、紅サンゴの乱獲を繰り返す中国船などの問題である。日本国民の生活が法令順守など糞くらえの他国によって脅かされているのである。

 

度重なる波状攻撃的な違法侵犯の取り締まりに海上保安庁の巡視艇が足りない状況だという。早急な予算措置、国防体制の整備・見直しといった国防の根幹に触れる議論、対策立案も焦眉の急である。

 

一方でデフレ脱却政策で三本の矢を謳ったアベノミクスの先行きに黄色ランプが灯り、消費税の10%への増税の見極めの討議も、財政再建の国際公約とも併せ、慎重かつ神経質な議論が必要とされている。

 

他に、朝日新聞社の誤報というよりねつ造による慰安婦問題で毀損された国家の品格の回復の問題、国内に目を転じれば原発再稼働と将来のわが国のエネルギー政策の立案といった我が国産業の基盤を規定する重要な政治決断といった難題が内外の問題にかかわらず山積している。

 

立法府たる国会がいまなすべき役割は1万8230円のSM問題などではなく、直面する内外課題に対する迅速な対応、その法的根拠を与えるための立法、改定作業こそ本義であると考える。

 

一国民のわたしが言うのはまことに心苦しいが、国会議員はより大局的な視野を以て国政に従事してもらいたいと衷心より願っている。


人情味熱い不思議な京料理のお店 八坂神社前・“かじ正(かじしょう)”

流山の京料理“かねき”はホンモノの職人の味!!(2012.4.17)
餡子好きには堪らぬ、甘泉堂の“とりどりもなか”=旅人の見た京都のお菓子(2014.5.19)

東山区東大路通四条上ル祇園町北側300 ムーンビューティー祇園ビル3F

 ☎ 075−525−8211

午後5時から営業 定休日水曜日


9月の下旬、八坂神社西楼門のすぐ脇にある京料理・”かじ正”を訪れた。

1・八坂神社西楼門
この横断歩道を渡って左手徒歩1分のビルに”かじ正”

東大路通りを挟んで祇園花月会館の斜め前に位置するムーンビューティー祇園ビルという小さなビルの三階に”かじ正”はある。

2・ムーンビューティー祇園ビル  3・3階です
この小さなビルの三階に京料理”かじ正”がある

“かじ正”は、カウンター7席、小上り座敷6人のこじんまりしたお店である。

4・かじ正

ご主人である梶原孝徳氏は、京の老舗仕出し料理店(天保元年(1830)創業)・“菱岩(ひしいわ)”で10年間、修業をされていたという。


そして、梶原氏と奥様のお二人で切り盛りする家族的雰囲気のする温かなお店である。


このお店を知った契機は、ここで時折、修業をする篠宮氏の誘いであった。

同氏は京料理かねき(流山市流山5丁目194)の支店、西麻布の“かねき”(2013年8月閉店)の料理長をしていたが、かねてよりここに来てはいろいろと修業を重ねているという。


今回はちょうどひと月ほど“かじ正”にいるので、ついでがあったら訪ねてもらいたいと電話があった。


そこで、家内の実家・四国の高松へ向かう途中、京都に一泊だけの途中下車にて、かじ正に伺った。


ひと晩は篠宮さんが木屋町の“割烹やました”へ一度は行ってみたいというので案内をした都合で、“かじ正”はその翌日の17:00の開店と同時に入店、午後9時半の岡山行き新幹線に間に合うようにと少々、駆け足の訪問であった。


その為、私流のカウンター越しの会話の合間にトロトロと料理や日本酒を口へ運ぶというわけにもいかず、かなり失礼を”かじ正”にはしてしまった。次回は家内同伴のうえゆっくりと腰を落ち着けて“かじ正”を食べ尽すつもりである。


さて、そんな事情のなかでの当日の料理はおまかせであった。

後日、メニューを篠宮さんからメールで送っていただいたので、これを写真とともに次に記す。


八寸  このわた大根・合鴨ロース・蛸軟煮・落花生・銀杏コロッケ

5・八寸

造り  かつお・鯛・鱧焼霜

6・お造り(鰹・鯛・鱧焼霜)

焼物  子持ち鮎塩焼き

7・子持ち鮎の塩焼き

造り   鱧落とし(暖)

8・お造り・鱧落とし(暖)

焼物   焼き胡麻豆腐

9・焼胡麻豆腐

炊き合わせ  鰊(にしん)茄子

10・鰊(にしん)と茄子の炊合せ

さすが“菱岩”に長年、おられただけあり、食材の吟味、味つけ、気の利いた目先をちょっと変えた料理、ともに及第点である。


お造りが二点になっているのは、梶原さんと鱧談義になり、梶原さんのいう美味しい鱧調理の一品をいただいたものである。


わたしが鱧の湯引きの梅肉付けがどうも苦手で鱧は炙りが大好きだと言ったところ、「鱧落としの温かいのも自分は好きだ」と言われたので、急遽、料理していただいたわけである。


なるほど、身はプリンとしたまま上品な味つけの汁仕上げの一品であった。


時間の都合で、御料理も中途でお仕舞としてしまったが、こうして写真を選んでいるともう一泊してゆっくりと”かじ正”の夜を愉しむべきであったといま後悔しきりである。


こうした”かじ正”、どちらかといえばくっきりとした味付けは京料理の苦手な東京人にも受け入れやすいのではないかと感じたところである。また、自分の好み、我が儘も訊いていただけるようなそんな親しみ易さを感じさせたお店である。


また一店、訪ねたいお店ができてこれからの京都への旅の楽しみがふえたひと夜であった。


加えて、新幹線の乗車時刻が迫るなか、話題があの”とりどり最中”の”甘泉堂”(かじ正から至近)に及び、食いしん坊のこのワタシ、「まだ水羊羹はあるのだろうか、食べてみたいな」と、口走った。

11・甘泉堂店内

すると奥様は即座に甘泉堂さんへ「今から大丈夫ですか」と電話で確認を取ってくださり、梶原さんが走って買ってきてくださるというご夫婦の連携プレイ。

とんでもない自儘、不躾をお許しいただいた。


何せ、甘泉堂の水羊羹は季節限定のレアものである。当日、遅くに高松へ到着、夜食に早速、この甘泉堂の水羊羹をいただいた。梶原さん、ありがとうございました!!

12・甘泉堂・水羊羹
この水羊羹は癖になる!

こうした出来の悪いお客の勝手にまでご配慮というか心遣いをいただき、本当に、この”かじ正”、これから大切にしていきたいハートフルで人情味熱い不思議な京料理のお店である。


次回、じっくり伺った際に再度、詳しい”かじ正”のご案内をブログにアップすることにしたい。

2014年の八千穂高原・白駒池(しらこまいけ)の紅葉は終了

蓼科の秋、見つけた!=白駒池・横谷渓谷の紅葉の見ごろ(2010.10.18)

10月11日、まだ大丈夫だと思い、八千穂高原の白駒池の紅葉を見に行った。

1・白駒池

ちょうど紅葉のシーズンということで、白駒池周辺の駐車場は満杯で、路上駐車の車も数十台という混雑ぶり。

駐車場も一杯

苔と原生林をぬけて白駒池へと向かう。

3・苔と原生林
ここはいつも幻想的・・・

紅葉への期待は高まるばかりである。


麦草峠の傍にある標高2115mという高地に位置する白駒池。白駒池の紅葉は4年前の2010年10月17日に訪れていた。


その際のブログには一週間前が見ごろであったとある。その時も、紅葉の白駒池を十分には堪能しきれなかったとあった。


今回訪れた11日はちょうど、その盛りの頃であったはずである。

4・終わっています、紅葉
あ〜あ・・・

だが、残念!! 無念!!


今回も紅葉はすでに終わっていた。湖畔の縁にわずかに残るモミジを無理やり撮影。

5・わずかに残る紅葉をアップで
アップで無理やり・・・

白駒池の紅葉を一応、堪能・・・した形とした。


そして・・・ポップカラーで撮ると、あらあら、こんなに紅葉が綺麗に・・・

6・ポップカラーで撮影

来年はホントのリベンジで9月の末あたりに来ようと心に誓った。そして、まともな写真を一枚、きっと撮ってみせると思った。


標高の違いでこんなに紅葉の度合いが違うとは・・・


そんなことで、悔しかったので白駒荘の温かいコーヒーを、これまたかなり肌寒い湖畔のデッキでグッと飲んで帰ってきました。

7・白駒荘のコーヒーをいただきました

ソーサーに載っているのは食用ほおずきで、これ初めて食べたが美味しかったので、一袋購入しました。


いつものようにしずかに時を刻む蓼科の秋

この三連休、秋の蓼科へと足を伸ばした。台風が襲来する前に急きょ、帰京という短い滞在になったが、蓼科の足早の秋を文字通り足早に愉しんだ。

1・色づく山肌

蓼科の秋は朱色より黄色のイメージである。

2・急速に色づく山

高い山に囲まれた蓼科には、紅葉する楓が少ない。

3・秋です

ただ、山肌ははっきりとその装いを秋色に変えはじめている。

4・色づく八子ヶ峰

秋のぬけるような空にその彩りは美しい。

5・秋の空に黄葉が映える

天気の良い連休の前半、蓼科東急の上から紅葉をはじめたリゾートの森の向こうに八ヶ岳の稜線が幻想的な蒼色のグラデュエーションを見せる。

6・八ヶ岳と紅葉

静かな時間である。聞こえてくるのは秋風に蕭々と鳴る木々の葉音と時折、奏でられる小鳥の啼き声のみである。

7・秋色に染まる

わが山荘にもいつのころからかハウチワカエデが生育し、庭のあちこちに秋色の迷彩をほどこす。

8・ハウチワカエデが緑に映える

京都の高雄の燃えるような紅葉とはまたことなった趣きを見せてくれる。

9・ハウチワカエデ

いつものことだが蓼科の秋は束の間である。梢から舞い落ちる葉っぱが地面に散り敷くや冬将軍が凍てつくような真っ白な息を吐き出しながら足早にやってくる。

10・黄色・緑・赤とりどりのハウチワカエデ

赤や黄色を装った落葉はその氷のような息であっというまに土色の朽葉へと変じてゆく。


いつものしずかに時を刻む、蓼科の四季のひとこまである。



 

縄文時代のパワースポット“尖石(とがりいし)遺跡”で国宝・“仮面の女神”を見よう

茅野市豊平4734-132


長野県茅野市にある”尖石(とがりいし)縄文考古館”を久しぶりに訪れた。

1・尖石縄文考古館
尖石縄文考古館

思い立った契機は蓼科の道を走っていて道路の両側に縄文のビーナスと仮面土偶をあしらった幟をそこここで目にしたからである。


縄文のビーナスは昔、尖石縄文考古館で見たことがあったのだが、仮面土偶を観た記憶はなかった。


仮面土偶を初めて見たのは、二年前に辰野へ蛍狩りに行った際に立ち寄った辰野美術館でのことであった。

2・辰野美術館
仮面土偶を展示する辰野美術館(上伊那郡辰野町)

その時、写真で見たことのある宇宙人のような遮光器土偶を想起し、不思議な土偶が長野にもあるのだなと感じたことを思い出した。辰野美術館の仮面土偶はここをクリックしてください。HP所蔵品サイトへ飛びます。


そして、これは新しく発掘されたものであるに違いないと尖石縄文考古館を訪れたというわけである。


”仮面の女神”と名づけられたこの仮面土偶は、実は今から14年前の平成12年8月に茅野市湖東にある中ッ原(なかっぱら)遺跡から出土したのだという。

4・発掘時の状態
出土時の”仮面の女神”

作製年代は縄文時代後期の前半(約4000年前)で、全長34センチ、重量2・7キロの仮面土偶と呼ばれるタイプの大型土偶である。

5・仮面の女神
国宝 ”仮面の女神”

発掘時の様子が館内写真に掲示されていたが、ほぼ完全な形で出土しており、当寺から国宝級との呼び声が高かったという。


そして、道路上に幟が立っていたのはこの3月の「“仮面の女神”は国宝指定が妥当」との文化審議会の答申を受けて、縄文のビーナスにつづく二つ目の国宝指定が待たれる茅野市が縄文遺跡の町をアピールする“町おこし”の一環としての企画であったと知った。


その記念すべき国宝指定がわれわれが訪ねたわずか2日後になされたことをこのブログアップの時に知って、喜びも一入(ひとしお)であった。


さて、“仮面の女神”に先立つ”縄文のビーナス”は、1986年9月に八ヶ岳山麓の茅野市米沢に位置する棚畑遺跡から完全な状態で発掘されている。

6・縄文のビーナス・発掘時の状態
国宝 ”縄文のビーナス”の発掘時写真

その後、1995年に国宝指定を受けた全長27センチ、重量2・14キロの大型土偶である

7・縄文のビーナス
国宝 ”縄文のビーナス”

その姿はお腹とお尻が大きく張り出した妊娠した女性である。それは生命に対する礼賛の心をストレートに表わしており、おおらかな縄文人の生きざまを見るようでもある。


この縄文のビーナスや仮面の女神などが展示されている尖石縄文考古館の付近一帯は縄文時代中期(今から4〜5千年前)の住居跡がこれまでに219ヶ所も発見されるなど縄文遺跡の宝庫となっている。

8・尖石遺跡説明図
尖石遺跡説明図

縄文考古館に隣接した北側に”与助尾根遺跡”が位置する。

9・与助尾根遺跡・竪穴式住居
与助尾根遺跡

ここには縄文時代の竪穴住居跡が39か所発見されており、現在、6棟の竪穴住居が復元されている。

10・与助尾根遺跡
復元された竪穴住居

また道路を挟んで考古館の南側には、”尖石(とがりいし)遺跡”が位置する。

11・広々とした尖石遺跡
開放感一杯の尖石遺跡

広々とした草地に昭和29年に三笠宮殿下が調査された33号住居址が遠い縄文の時代の悠揚とした営みを語りかけているようで、何とも心持ちが豊かになってくる。

12・尖石遺跡・33号住居址
尖石遺跡・33号住居址

そして、尖石遺跡の名前の由来となった“尖石(とがりいし)”がその遺跡群の原っぱの南端を少し下ったところに5千年を経た今もそのままの姿で鎮座する。

13・縄文人の人影・尖石遺跡
尖石遺跡に縄文人が顕れる

その先端の尖った自然石は地中の深さは不明であり、地上に顕れた個所で高さ1m、根元の幅が1・1mという大きさであるが、古くから村人の信仰の対象となっており、いつの頃か傍らに石の祠が祀られている。

14・信仰の対象”尖石”
尖石・右手階段を下りて来る

尖石の右肩の窪みは縄文時代の磨製石斧を製作した際に共同砥石として利用されたとも、また、地上に突出した尖石が祭祀の対象となっていたとの見方もあるという。


そんな一大縄文遺跡の中心地に展示された“仮面の女神”であるが、国宝指定を機に、当館での実物展示は、仮面の女神が11月12日(水曜日)までだというのだ。“縄文のビーナス”は残念ながら10月2日で終了している。

15・縄文のビーナスと仮面の女神
国宝の実物二つのそろい踏み写真

ここでは幸いにも心置きなく撮影できた“仮面の女神”の乱れ撮りを記録のためにいくつか掲載しておくこととしたい。

仮面の土偶の拡大写真。

16・仮面の女神・拡大

仮面の接近撮影。

17・仮面の女神・仮面

斜め正面から。

18・仮面の女神斜め正面から

側面から。

19・仮面の女神・側面より

後方から。

20・仮面の女神・後方より

頭部斜め後から。

21・頭部斜め後ろから

こうしてディテールにまでこだわった作者のことを考えると、そして“仮面の女神”が気の遠くなるような4000年前にこの茅野の地で製作されたのだと思うと、人間の持つ無限の可能性を無条件に信じたくなるとともに、現代人は果たして技術的に進歩していると云えるのだろうか、心をふくめ豊かさとはいったい何なのだろうかという思いにどうしても駆られてきてしまうのである。


何はともあれ11月12日以降はレプリカ展示となる。“実物”をじっくりと写真に収めたい考古オタクは今からでも遅くない、茅野市の尖石縄文考古館へと急ぎ、足を運ぼう。

22・館内
尖石縄文考古館館内

そして、やはり、何といっても実物の持つパワーは違う。生命力あふれる縄文人の放つパワーは半端ではない。


尖石縄文考古館ではこの10月11(土)、12日(日)の連休に茅野市5000年 尖石縄文まつりが開催される。


それを目当てにご家族で、縄文時代のパワースポット巡りをされてみてはいかがであろうか。

世界遺産富岡製糸場、近代日本の曙を見る

富岡市富岡1番地1  ☎ 0274−64−0005


長野の善光寺参りの帰途、日ごろ利用することの少ない上信越自動車道を通行した。

好天にも恵まれ、帰宅までの時間も余裕があったことから富岡ICで下車、約10分(駐車場まで)のところにある富岡製糸場を見学した。

1・富岡製糸場正門
富岡製糸場正門

日本の世界遺産は、現在、14件の文化遺産(法隆寺、京都の文化財など)と4件の自然遺産(白神山地、知床など・富士山は文化遺産)の合計18件が登録されている。

2・法隆寺・世界遺産石碑
日本初の世界文化遺産の法隆寺

富国強兵を強力に推し進めた近代日本の象徴でもある富岡製糸場は、長期間の蚕種貯蔵を可能にした“荒船風穴(下仁田町)”や清涼育という養蚕技術を確立した“田島弥平旧宅(伊勢崎市)”などの養蚕関連の文化財と合わせ「富岡製糸場と絹産業遺産群」として平成26年6月25日に、昨年6月の富士山につづき世界遺産の文化遺産に登録された。

3・木骨レンガ造りの東繭倉庫
木骨レンガ造りの東繭倉庫

富岡製糸場について我々世代は、機械がズラッと並ぶ工場内で生糸生産に励む着物姿の女工さんたちの写真を教科書で一度は目にしていると思う。


富岡ICから富岡市の公設駐車場が富岡製糸場の徒歩10分圏内に4か所設けられている。われわれはちょっと遠いが、唯一の無料駐車場のP4に停めてのんびり徒歩で20分ほどゆき富岡製糸場へ到着。P1〜3の有料駐車場(100円/30分)からは徒歩10分ほどで便利。

4・上信電鉄”上州富岡駅”前歩道
上信電鉄・上信富岡駅前舗道

また、駐車場から製糸場への途中には駐車料1000円ほどの数台程度停められる私営の臨時駐車場があり、足元が悪い人は休日の混雑時でない限り工場近くまでアクセスが可能である。


当日は横川ICから富岡製糸場問い合わせの番号に電話し、混雑を確認した。12時過ぎであったこともあり、待ち時間は5分ほどとのことであったが、実際に工場に着き、受付の時間待ちはなく、とてもスムーズに入場できた。


ただ、場内にはボランティアガイドさんに引率された団体、グループの見学者が多く、そうした人々の波を上手に掻い潜り自分のペースで見て回りたい方々は受付でイヤフォーンガイド(200円)を借りるとよい。

5・場内には団体客が多い
平日でも団体客で賑わう(東繭倉庫前)

興味があるところはじっくり、そうでもないところはさっと見るだけといった臨機応変の見学が効率性もよく、おすすめである。

6・繰糸場内と製紙機械
繰糸場内、ここで着物姿の女工さんが製紙器械を操作していた

また、ちょっとしたエピソードや詳しい説明が欲しい人はちょっと面倒でもボランティアガイドさんに引率された見学が質問も可能であるのでお薦めである。


われわれはイヤフォーンを借り、通りすがりにボラティアさんの面白そうな話は立ち止まって耳を傾けるといった都合の良い廻り方をした。

7・繰糸場外観
繰糸場外観

そんなこんなで約1時間半で富岡製糸工場見学を終えたが、多分、混んでいるときにはもう少し時間の余裕を見る方がよいと思う。


残念であったのは、今年2月の豪雪で乾燥場がほぼ全壊し、それがまだ再建されずに見学不能であったことである。

8・雪害で崩壊した乾燥場と煙突
雪害で乾燥工場は崩壊、煙突のみ残る

世界遺産登録が確定していたにもかかわらずにこうした被害に合わざるを得なかったのは、この国の文化財行政予算の貧困によるものではなかったかと慙愧に堪えない。


富岡製糸場は明治5年(1872)に日本初の近代的官営工場として設立、運営された。

BlogPaint
東繭倉庫入口上部に”明治五年”の刻字

そして、富国強兵を企図する明治政府が日本の輸出産業の柱となる生糸生産の近代化を急ぎ、その結果、外貨獲得に大きく寄与したと理解していた。


しかし、今回の見学で、その工場の設立目的が直接的な生糸生産にあるのではなく、全国に近代的製糸工場を増やしてゆく際の機械操作の女性指導者を育成する教育機関であったことを初めて知った。

10・女工館(仏人女性指導者宿舎
女工館(仏人女性教官の宿舎)

フランス人のポール・ブリュナ(Paul Brunat)がその日本人幹部女性の教育指導に当たったが、当初は彼が呑む赤ワインは若い女性の生血であるといった話が信じられ、全国から応募を募ったが人が集まらず、大変な苦労をしたのだという。

11・ブリュナ館  12・ブリュナ館・裏手より
壮大なブリュナ館(左:表側 右:裏手よりテラスつきの広大な住居)

そしてそんな苦労を乗り越え、器械製紙産業の普及、技術者育成という当初の目的が遂げられた明治明治26年(1893)に三井家に払い下げされ、ここで民間企業としての歴史を刻み始めている。


その後、明治35年には横浜の三渓園で有名な原合名会社に譲渡され、昭和13年には株式会社富岡製糸所として独立。戦時色の強まる昭和14年には当時、日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併された。

13・旧・片倉組事務所(岡谷市)
岡谷市に現存する旧片倉組事務所

戦後も現役の製糸工場として稼働を続けたものの、生糸産業の衰退も極まり、昭和62年にとうとう操業停止のやむなきに至った。


明治初期から昭和62年までの115年間におよぶ富岡製糸場の歴史の内、官営工場であった期間はわずかに21年間であったことは、ちょっと意外であった。

14・西繭倉庫
西繭倉庫

明治政府の官がやるべき時は官、民がやるべき時期には民という機動性、迅速性、効率性といった政治哲学は、今の政治がなかなか上手く公営事業の民営化を果たすことが出来ぬことと較べ、学ぶべき点が数多あると思い知らされたものである。

15・右が東繭倉庫、左が女工館
右が東繭倉庫、左が女工館

秋の好日、そんな近代日本の曙の息吹が感じられる世界遺産・富岡製糸場を見学できたことは実り多い貴重な一日であった。


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