彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

September 2014

“藤屋(THE FUJIYA GOHONJIN)”に魅(ひ)かれて、善光寺参り

長野市大門町80  ☎ 026−232−1241


「牛に牽かれて善光寺参り」という諺があるが、この度は“THE FUJIYA GOHONJIN”というイタリアン・レストランに“魅かれて”の善光寺詣でとなった。

1・善光寺・山門
善光寺・山門

THE FUJIYA GOHONJIN”というお店がJRの会員誌・ジパング倶楽部だったかで紹介されていた。そのアンティークな雰囲気を醸す写真がとても気に入ってイタリアンつきの善光寺参りということになった次第。

2・メインダイニング
THE MAIN DINING WISTERIA(ウィステリア)

「御本陳藤屋」は1648年(慶安元年)に“御本陳藤屋旅館”として創業、旧北国街道善光寺宿の本陣として加賀百万石・前田家藩主の常宿となるなど格式を誇る老舗中の老舗である(藤屋は本陣を“本陳”という字に替えて店号としている)。

3・歴史を感じさせる玄関

その輝かしい歴史を有す旅館業を8年前に休業、“THE FUJIYA GOHONJIN”と名称を変え、ウェディングやパーティー会場、レストランなどを兼営する複合的施設へと変貌を遂げている。

4・アール・デコ調の洋館

THE FUJIYA GOHONJIN”のアール・デコ調の風格ある洋館は善光寺の門前町のなかでもひと際目立つ建物であり、ランドマーク的存在となっている。

5・善光寺門前町・右手の洋館がFUJIYA
右手の三階建て洋館が藤屋旅館、車道突当りに仁王門が見える

そんな老舗で戴くイタリアンにわれわれ夫婦は興味津々で伺った。

参道の人影も少なくなった午後7時過ぎ、お店へ着くと玄関内のソファでダイニングルームへの案内を待つ。

6・エントランス
エントランス かつての藤屋旅館の玄関

そして、いよいよTHE MAIN DINING WISTERIA(ウィステリア)へ向かう。

藤屋旅館時代に、伊藤博文や福沢諭吉、高村光雲などが歩いたはずの板敷きの廊下をいまは靴のままで通ってゆく。

7・この奥の方へ入っていきます
ここを曲がって、さらに左にまっすぐゆくとレストラン

外観は鉄筋コンクリートにタイルを貼ったアール・デコ調であるが、内部は木造数寄屋造の和風建築である。奥まった場所へ長い板の間の廊下を進むのだが、嫌が応にもレストランへの期待は膨らんでゆく。なかなか凝ったアプローチである。

HE MAIN DINING WISTERIA
、その空間へ足を踏み入れた瞬間、藤色が浮き出すランタンのほの灯りの世界が目の前に広がる。

8・藤色の間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出す
藤色の世界・・・

当夜は日本庭園の見える窓際にわれわれの席は用意されていた。

9・窓際の席
窓際のテーブルでした

窓外には庭の緑が燈された灯りにほんのりと浮かびあがり、どこか幽玄の世界に身を置くような感覚にとらわれる。心奥に静かに緑葉が舞い落ちてきたような、心落ち着く空間である。

まだ開店間近とて、後方を振り向くと店内にお客は少ない。奥に藤をモチーフとする何枚もの大きな壁画が飾られている。

10・THE MAIN DINING WISTERIA
壁に藤の花の壁画が・・・

室内を彩る藤色の灯りが“THE FUJIYA GOHONJIN”のディナーの世界を一層、盛り上げてくれる。

当夜の料理であるが、食いしん坊のわれわれ夫婦、いろいろと食べてみたいとアラカルトでオーダーすることにした。

そして、ここは一部屋をワインセラーに改造するなど、ワインも魅力があるとのことで、ワインリストからお薦めの赤ワインを注文した。

まず、アピタイザーに温かい二品を頼んだ。もちろん、それぞれを仲良く半分こです・・・

一品目が“フォアグラのソテー 無花果とパイを添えて”

11・フォアグラのソテー

さぁ、これをどうやって上手に、しかも均等に、いやいや、パイを崩すことなく・・・きれいに分けるのか・・・


その老夫婦のひそやかな神経戦の気配を察知したのか、ダイニングマネージャーの福島香里さんが「お分けしましょうか」と、間髪入れずの好アシスト!!

12・ダイニングマネージャーの福島さん
チャーミングな福島さん(掲載の許可はとっています)

見てください、このお手並み。

13・ダイニングマネージャーに取り分けてもらいます

上手でしょ、こんなにきれいに、しかも・・・キ・ン・ト・ウに・・・(*´▽`*)

14・さすがプロ!
お見事!

さすがプロのお手並み、そのあとの料理の仕分けもすべて彼女が依怙贔屓なく?やってくれました。

次のアピタイザーが“ズッキーニのスカモルツァ・アフィミカータ 生ハム添え”

15・ズッキーニとスカモルツァアフィミカータ

メニューには載っていなかったが、当夜の特別メニューということで奨められてオーダー。

これも見た目ではスカモルツァ・チーズがよく判らなかったが、そこは福島さんがテキパキと仕分けながら懇切丁寧に説明してくれる。

16・黄色いのがスカモルツァチーズです
生ハムの下の焦げ目のついたのがスカモルツァチーズです

大好きなズッキーニに温かくてちょっとスモーキーなスカモルツァというチーズがおいしい温前菜でした。

17・ビューティフル
もっちりしておいしかったぁ〜

次にわたしの好物のパスタ。もちろん、スパゲッティです。


黒豚のラグー スパゲッティ アラビアータというものでした。これも仲良く“半分こ”でした。レトロ調に撮ってみました。

18・”半分こ”の量です

黒豚が予想以上にしっかり入っていたので、ここらあたりでお腹も結構、一杯になりかかったが、唐辛子が上手いように効いているので食が逆にすすんでしまう。パスタはしっかりとした腰で、麺類好きのわたしの喉越しも“GO〜かく”

そしていよいよ本日のメイン。

まず、スズキとじゃがいものロースト。

19・スズキとじゃがいものロースト

これまた、しっかりとした大きさでもちろんハーフ、ハーフに切り分けていただきました。ハーフでもこの量です。

20・鱸のポワレ これでも結構な量でした

それでも、レモン汁をかけてあっさりしていたのでペロッといってしまいました。

それから本日最後のメイン、“ホロホロ鳥のカチャトーラ”

21・ホロホロ鳥のカチャトーラ

ご覧のように骨付きの大振りの肉です。これは絶対にテーブルスタッフか福島さんのような方にお願いしないと、素人がフォークとナイフで勝負するのは難しい。福島さんの手に掛かれば、次のように見事な因数分解の解が認められる。

22・ホロホロ鳥も見事に因数分解

もちろん素手で骨を掴みかぶりついてもいいように新しいお絞りも用意されたが、とくにわれわれのようにシュアーにシェアする場合は、迷うことなくスタッフの方にお願いするのがよい。

この最後のホロホロ鳥によりわれわれの胃袋は無条件降伏、壊滅的ダメージ・・・いや・・・幸福感一杯でもう一片のデザートも受け付けぬ状態に・・・ でも、しぶとくわたしはシャーベットをオーダー。

ってなことで、これでこの夜の晩餐も終了・・・と思いきや・・・

テーブルスタッフの可愛らしい岡田さんが、BARの方で残りのワインとデザートをいただいてみてはいかがでしょうかと囁く。ちょっと気にはなっていた場所だったので、それではと移動する。

中庭に面した窓際の二人席が用意されていた。

23・素敵です・・・

老年夫婦にはここまで暗くなくてもいいですよと言った感じの、アヴェックには最適なムーディーなBARでした。

テーブルの上に置かれたランプの灯りに仄見える君の笑顔・・・

24・大人の雰囲気のBAR

そう・・・そんな時間が、時代が僕らにもあったねぇなどとお互いに目と目で頷き合いながら、わたしはワインとエスプレッソ・シングルを彼女はシンプル・ブラックをオーダー。

FUJIYAに魅かれて”の素敵な善光寺参りの一日は静かに更けていったのです・・・

帰りにホテルまでのタクシーをエントランスの椅子席で待つ間、福島さんがずっとわれわれのお相手をしてくれる。

彼女が安曇野出身だと云うこと、そこの有明山神社の奥にある伝説の王、八面大王の墓所といわれる“魏石鬼窟(ぎしきのいわや)”へいったことがあるという話。

われわれも3年前にそのパワースポットへ行ったこと、松本のおいしい“フレンチレストラン澤田”を彼女もよくご存知だったこと、安曇野の旅館、“なごみ野”のお料理が美味しいことなどなど・・・

その福島さんにはタクシーのドアまでエントランススタッフの方と一緒にお見送りをしていただいた。

何だか同郷の人にでもお会いしたような心温まるひと時を最後の最後まであたえてくれたおもてなしのレストラン・“THE FUJIYA GOHONJIN

一度は訪ねるべき価値のあるとっておきの場所である。

それと・・・岡田さん・・・代々木体育館・・・大丈夫だったかな・・・デング熱・・・次、伺ったときに名刺をいただきますね。



京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

木津川市加茂町西小札場40


祇園祭宵山の日中を使って、南山城へと足を伸ばした。

1・宵山・函谷鉾
祇園祭宵山・函谷鉾

先にアップした観音寺(京田辺市)、海住山寺(木津川市加茂町)につづき、皆さんも一度は耳にされたことがあろうかと思う浄瑠璃寺といういかにも旅情を誘う名の古刹を参拝した。

2・浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺参道

当日は生憎、中央の宝池が州浜遺跡の発掘調査中であった。

3・遺跡調査

そのため伽藍配置の美しさが半減したきらいはあったが、人影も見えぬ山深い境内でその在りし日の州浜を思い描きつつ浄土世界に想いを馳せることができたのも一興であった。

4・宝池は調査中
浄土式庭園の中央に宝池、右手に阿弥陀堂、左手に三重塔

パンフレットによると浄瑠璃寺は平安時代、1047年に西小田原浄瑠璃寺(本尊・薬師如来)として創建されたことに始まる。

5・浄瑠璃寺山門
浄瑠璃寺山門

そして、白河院や鳥羽院が治天の君として院政を布いた11〜12世紀頃、京都を中心に皇室をはじめ貴族たちの間で九体阿弥陀堂の建立が争われた。


この浄瑠璃寺においても1107年、その背景となった新たな仏教の教えに基づき、現在の本堂となる九体の阿弥陀仏を安置する “九体阿弥陀堂”が造営される。

6・1九体阿弥陀如来像
本堂に安置された九体の阿弥陀如来像(浄瑠璃寺・絵葉書より)

その新たな教えが九品往生(くぼんおうじょう)という考え方であった。


浄土三部経のひとつ“観無量寿経”のなかにある人間の努力や心がけなど衆生の機根によって極楽往生するにも下品下生(げぼんげしょう)から上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという九品往生(くぼんおうじょう)という教えである。


この教えに拠って、己の極楽往生を願う貴族たちが、九つの往生のパターンを具現する阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を競うようにして建てたというわけである。

6・九体阿弥陀堂
九体の阿弥陀仏が祀られる九体阿弥陀堂・本堂

あの藤原道長が寛仁4年(1020年)年に建立した無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)を嚆矢(こうし)として30余例が記録に残っているが、唯一現存するのが1107年に建立されたこの浄瑠璃寺本堂である。

7・本堂・中尊の見える空間
本堂正面、一体々々の如来が堂前に一枚の板扉を持つ

そして1178年には、東面する阿弥陀堂(彼岸)の前に苑池を置き、東(此岸)に西面する薬師如来を祀るいわゆる浄土式庭園が造られ、現在の寺観が整備される。

8・此岸から本堂を
東の此岸から阿弥陀堂を見る

現在の浄瑠璃寺の伽藍配置は次の如くである。

9・浄瑠璃寺伽藍配置図
浄瑠璃寺のパンフレットより

中央の宝池を中心に東に薬師如来を祀る国宝・三重塔が建つ。

10・浄瑠璃寺・三重塔  11・彼岸から三重塔を
国宝三重塔、内に秘仏薬師如来像を安置

池の西、三重塔に対するように阿弥陀如来九体を安置する本堂・九体阿弥陀堂が建つ。

12・三重塔階段上から石燈籠と阿弥陀堂を見る
三重塔から西の阿弥陀堂を見る。手前の石燈籠は重文。

このように当庭園は平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)などの擁する浄土式庭園の平安中期頃からの典型的な様式となっている。


さて、ここで浄瑠璃寺のパンフレットの説明に分りやすく書かれているので、簡単に仏さまについて転載しておく。


薬師如来

「東の如来“薬師”は過去世(かこせ)から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。」

13・秘仏・薬師瑠璃光如来像
三重塔内の秘仏・薬師如来像(絵葉書より)

釈迦如来弥勒如来

「苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこの世に出現して教えてくれたのが、“釈迦”であり、やがて将来出現してくれるのが“弥勒”で、共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。」


阿弥陀如来

「西の如来“阿弥陀”は理想の未来にいて、すすんで衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏、未来仏、また来迎の如来という。」


そして、太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来であり、太陽がすすみ沈んでゆく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来ということなのだそうだ。

14・九体阿弥陀如来像・中尊
九体の阿弥陀如来の中尊像

だから、当寺の寺号はそもそも創建時のご本尊である薬師如来がおられる浄瑠璃浄土に因んでいることがこれによってよく理解できると思う。

さらに本来の礼拝の作法であるが、同じ形態の宇治の平等院でもこの浄瑠璃寺でも、古来、人々は浄土の池の東、当寺では三重塔が建つ側(此岸)から彼岸におられる阿弥陀仏に来迎を願って礼拝したという。

そして、春分・秋分の“彼岸の中日”には九体仏の中尊、来迎印を結ぶ阿弥陀如仏の後方へ沈んでゆくのだという。

浄瑠璃寺は南山城のさらに奥まった静寂の地に位置する。

15・山門から夏の参道を
山門から夏の参道を見る

阿弥陀堂内のうす暗い空間にわが身と九体の阿弥陀さまだけが存在する世界。ひたすらに内向的な心象世界が瞼に映し出される。

そんな聖なる空間をもとめてこの清浄の地へおもむき、現世の懊悩をすすぎ落とし未来の心の安寧を静かに願ってみてはいかがであろう。

古館・報道ステーションの慰安婦問題検証番組、公共の電波を使い朝日新聞の言い逃れを一方的に言い募る、噴飯ものだ!!

いかにも客観的にテレ朝は報道しているのだと、巧妙というには程遠い見え見えの番組、肝心のところは視聴者に伝えない今夜の報道ステーションであった。


例えば、訂正が遅きに失したというが、32年も訂正に時間を費やした、吉田証言が虚偽であることが周知の事実となってから(済州島の地元紙で強制連行の事実はなかったとの記事掲載、1992年の朝日新聞が吉田証言に裏付けの事実が見つけられなかったとの言及にとどめた慰安婦特集記事等)少なくとも17年間にわたって吉田清治氏の虚偽証言を取り扱った記事の取り消しを行ってこなかった。

この92年以降、朝日新聞は慰安婦問題について物理的な行為である“強制連行”という言葉を、実に巧妙に“強制性”という慰安婦が感じた心理的な問題へと表現をすり替えて行っているのである。


その間、慰安婦の強制連行につき、事あるごとに日本政府を追及してきたあくどさ。わたしは事実を突き付けて時の権力を追及することは、ジャーナリスト、ジャーナリズムの本義であると信じる。

しかし、虚偽であろうが人口に膾炙していった事柄、それも自らが撒き散らし、あたかも事実のように思わせてきた虚偽証言をネタに、長年に亘り意に沿わぬ政府を転覆させようとしてきたことは、報道機関としてはあってはならぬ行為である。


そして今夜、朝日新聞木村伊量社長の謝罪会見を待ってとしか言いようがないタイミングで、40分程を費やし慰安婦問題につき特集を組んだテレビ朝日も同じ穴の狢と断罪するしかない。


テレビ報道は記者会見でもないので、もちろん、質疑応答などない。

テレビ朝日側というより朝日新聞社の言い分を全面的に反映した人権問題への問題のすり替えを行なったうえでの一方的な言い逃れを垂れ流したに過ぎない。


古舘伊知郎という似非キャスターの賢(さか)しらな解説と言おうか、大朝日に対するお追従なのだろうか、顔を見るのも嫌になったが、今日は我慢した。


さらに、河野談話は吉田証言に依拠していないという心証作りに利する反朝日の人物のインタビューの片言隻句をつまみ食いしたコメント放映などあざとくも卑劣な番組作りにさすがに怒り心頭であった。


そして、慰安婦問題で国際的に日本国が大きなダメージを被り、貶められたことは朝日の吉田証言報道とは直接、関係はない。


国連人権委員会に報告され、世界的に性奴隷を喧伝し、日本の信用を大きく失墜させた「クマラスワミ報告書」(1996年)についても、吉田証言が引用はされていても、「それが当時の日本官憲が慰安婦強制連行した大きな根拠ではない、慰安婦に直接ヒアリングした結果である」とするラディカ・クマーラスワーミ女史の証言を紹介。


要は、テレビ朝日は、朝日新聞社の吉田証言誤報は慰安婦強制連行という非人道的行為を時の日本官憲が行ったという誤解を世界に広めたことに責任はないと40分にわたって報道、いや、言い逃れをしたのである。


公共の電波を使って一私企業の言い分を一方的に代弁し、言い募るテレビ局。大変な問題である。


放送法第四条を以下に掲載する。


「放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 公安及び善良な風俗を害しないこと。

 政治的に公平であること。

 報道は事実をまげないですること。

 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」


今夜の番組、慰安婦問題に関し朝日新聞社グループと意見を異にする識者の意見がそこここの場面にコメンテーター的に配されていた。放送法第4条第4項を体した狡猾な番組制作である。


なぜなら、全体を通して番組を見たときに、そうした識者の意見はきわめて意図的に編集され、先ほどの朝日は日本の国益毀損に責任はないという一点につき編集されていたのである。


放送法第4条第3項にいう“報道は事実をまげないですること”という報道の原点に照らしてみたとき、今夜の検証番組は、何をもって“事実”を視聴者に伝えようとしたのか。


ジャーナリストとしての一分の魂でも残っているのであれば、国民の利益に資するというより、この場合は棄損された国民の利益を原状回復するためには、朝日グループはこれから何をなさねばならぬかを真摯に視聴者に向かって語るべきであった。

そして、最初に吉田証言を記事にした植村隆という記者がある意図をもって作成したのだという事実についても正直に視聴者に対して伝えるべきであった。


さまざまな点であまりにも往生際の悪い胸糞の悪い三文芝居を見せられたようで、寝つきが悪いことこの上ない。


錦織、全米オープン決勝戦、敗れる

3ー6、3ー6、3ー6のセットカウント0-3のストレートで敗れる。
チリッチがサービス、ストロークとも錦織を圧倒。
最後まで、錦織に流れ来ず。エアーKの技を完全に封じられる。

全米オープンテニス決勝戦、錦織が第二セットも落とす

3ー6で、落とす。

全米オープンテニス決勝戦、第二セット、初めてブレイク

チリッチがサービス、ストロークともに優位。錦織、ペースつかめず。
3ー5に戻すも、依然。苦戦中。

全米オープンテニス決勝戦、第二セットも先にサービスゲームを落とす

ゲームカウント3ー1でチリッチがリード。

錦織、第一セットを落とす

全米オープンテニス決勝戦、第一セットを3ー6で錦織は落とす。

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む

京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

木津川市加茂町例幣海住山境外20

海住山寺(かいじゅうせんじ)は、木津川市加茂町の三上山(さんじょうざん)またの名を海住山と呼ぶ標高432mの中腹に位置し、かつて恭仁京(740-743)があった瓶原(みかのはら)を一望し、遠くに春日山を望む。
1・ご本尊横顔
重文・十一面観音立像横顔(当寺絵葉書より)

寺伝によると、創建は恭仁京造宮に先立つ六年前、天平七年(735)という古きに溯る。

2・本堂正面より
海住山寺・本堂

東大寺の大盧舎那仏造立を発願された聖武天皇が大工事の平安を祈るため良弁僧正(東大寺初代別当)に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を安置し、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとされる。そして、保延三年(1137)の火事により、伽藍はことごとく灰燼に帰し、再建されることなく廃址となった。


それから七十余年を経た承元二年(1208)、笠置寺からこの廃墟に移り住んだ解脱上人貞慶によって補陀洛山海住山寺として再興がなされた。

3・文殊堂
重文・文殊堂

麓の瓶原から細い急坂を登ってゆくが、当日はタクシーで回ったので大事なかったが、マイカーで行くのは一部、すれ違いに難儀する個所もあり、運転に自信のない方は注意が必要である。

4・海住山寺入口
ここから細い急坂を登っていきます

さて、境内から少し低い場所にある駐車場からこれも結構、勾配の急な坂道を歩いて境内へと入ってゆく。

5・海住山寺への坂道
駐車場からまだ少し急坂を行きます

補陀落山海住山寺と刻まれたりっぱな石碑が見えると、もう平坦な境内はすぐである。

6・境内入口に立つ石柱
石碑の奥右手に本堂、左手が山門

本堂境内へ入ると、すぐ左手に鐘楼がある。

7・鐘楼
鐘楼・その先の葉叢のあたりが山門

鐘楼のすぐ先、南側に山門がある。

8・五重塔から山門を
五重塔から山門を見る。山門の正面に本堂

歩いて来られる方は下からの急な階段を昇って、この山門をくぐり、本堂へお参りすることになる。

9・階段下より山門を
急階段の先に山門
10・山門から本堂を
山門正面に本堂

その方がどう考えてもお詣りのご利益は多かろうと思うが、根が不精、杖をつく身をよい言い訳に、脇からの本堂境内への入場となった。

11・境内
駐車場から来ると、境内入って右手に本堂を見る

だが、先ほどの新しくりっぱな石碑が建てられているところを見ると、この高齢社会の到来とともに、こうした寺院への参詣ルートも時代と共に変わってゆくものなのかも知れぬと、いま、自分の不信心をよそに、自らの気持ちを納得させているところである。


さて、急坂を登って来たわれわれには、本堂のある場所は平坦かつ広さもかなりあった。

12・五重塔から本堂前境内を
五重塔(南)から本堂前の境内

本堂へ向かう誘導路に奇妙なものがあった。茄子の形をした腰掛である。

13・本堂へ
この誘導路から本堂へ

ここに坐ると何か願い事が叶うということであったが、檀家さんの寄贈物のようであり、ちょっと山深い寺院には不釣り合いな、でも、ちょっとくすっと笑ってしまう置物ではあった。

14・願いをかなえる茄子の腰掛

その先に、今度はぐっと時代は遡り、鎌倉時代の岩風呂が無造作に置かれているのを見つけた。

15・修行僧が使用した岩風呂
鎌倉時代の岩風呂

何ともその配置のアンバランス、いや、妙に脱帽といったところである。


この岩風呂は岩船寺の山門まえに置かれていた岩風呂と同様に僧侶が修行前に身を浄めるときに利用したものであろう。

16・岩船寺石風呂
岩船寺の岩風呂

いよいよ本堂であるが、現在の本堂は、旧本堂が明治元年(1868)の山津波で倒壊したのち、明治17年に再建されたものだという。

17・本堂
東面する本堂を南東側から

静かな堂内に入ると住職の奥様が坐っておられた。

18・本堂の中を
本堂正面から入ります

本堂正面の一段高処にある厨子のなかにご本尊・十一面観音菩薩立像が安置されている。

19・海住山寺本尊・十一面観音像(重文)・平安時代
本尊・十一面観音菩薩立像(絵葉書より)

まずは参拝し、それから堂内を廻る。奥様にご説明をいただき、しばらく歓談。


外へ出て、本堂南側に建つ国宝五重塔へ向かう。一層目に裳階がついているため一見すると六重塔にも見える。

20・五重塔
国宝・五重塔

興福寺や東寺、仁和寺といった典型的な五重塔とはかなり趣を異にしている。

21・興福寺の五重塔と鹿   23・仁和寺・五重塔
左:興福寺五重塔        右:仁和寺五重塔
22・東寺の五重塔   24・東寺五重塔の一層目
東寺五重塔と一層目

そして、外見からは分らぬが海住山寺の五重塔は心柱が初層の床まで届いていず、二層のところまでしか達していないという。だから、構造的に初層の四隅を支えるように柱を建て廻す必要があったのだそうだ。

25・五重塔第一層
海住山寺五重塔の裳階と一層目

この裳階をつけた様式は法隆寺にそれを倣うが、法隆寺は第一層に柱を建て廻す構造とはなっていない。

4撮影)
裳階のついた法隆寺五重塔

また、法隆寺の心柱は仏舎利が収められている塔の礎石の上に乗っかる、五重塔本来の構造となっている。

27・法隆寺五重塔・一層目と裳階
法隆寺裳階と一層目。柱はない。

さて、海住山寺のいくつかの寺宝が奈良国立博物館に寄託されている。過去の山津波といった自然災害で寺宝が滅失するのを避けるため致し方のないことなのかも知れぬ。


そうした寺宝は秋の「文化財特別公開 国宝五重塔開扉」のときに奈良国立博物館から里帰りする。ひとつが奥の院に安置されていた小振りの木造十一面観音像である。貞慶上人の念持仏と伝えられている。

28・解脱上人の念持仏・十一面観音菩薩立像(重文)・平安時代
丈45cmの十一面観音菩薩立像(絵葉書より)

もうひとつが、五重塔の初層に仏舎利を囲むように配されていた木造四天王立像である。

29・持国天像・鎌倉時代
持国天(絵葉書より)

例年、その時に五重塔内部とともにここ海住山寺において拝観がかなう。

30・国宝五重塔内陣
五重塔内に安置された四天王像(絵葉書より)

2014年の特別公開は10月25日(土)〜11月9日(日)の2週間と案内されている。

あと、本堂と五重塔の間の山裾に三社が祀られている。

31・五重塔
緑陰から五重塔を見る

解脱上人貞慶が春日明神のお告げによりここ藤尾山観音寺の廃墟へ移り住み補陀落山・海住山寺として再興を果たしたことから、春日神社が勧進されているのだそうだ。

32・境内の三社
本堂の南側に”三社”が祀られている

境内から瓶原(みかのはら)を一望に見おろすのは、高く生い茂った木々に遮られ、難しい。

0・境内から瓶原を見る
五重塔脇から瓶原を望む

奥様からお薦め戴いたが、脚力のある方々はぜひ本堂北側から急勾配の道を数分ゆくと絶好の眺望が得られるので、トライしていただきたい。


わたしはもう足のつっぱりが限界に来ていたので、上へさらに上がるのを断念した。帰りに下り坂を降りて行く際にタクシーの中から写した景色でもこれほどの絶景である。

33・海住山寺への急坂から瓶原と春日山を
かなりな急坂である

真下に大海原に見立てられた瓶原が広がり、その果てに補陀落山に見立てられた春日山の山脈が望まれた。


雲海が低く垂れ込めたときなどはさながら大海原に補陀落山が浮かんでいるように見えるに違いない素晴らしい景観である。

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