彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

August 2014

京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京田辺市普賢寺下大門13


最近の朝日新聞に関するブログ投稿で荒んでしまった心を落ち着かせねばと、先月、南山城を一日かけて周り、気高き仏様をお参りし心が穏やかに安らいだことを思いだし、写経でもするつもりで心に残ったいくつかの寺院をご紹介する。


まず、南山城、京田辺市にある観音寺である。

1・観音寺
観音寺・本堂を見る

観音寺は白鳳2年(662)天武天皇の勅願により、義淵僧正が親山寺(筒城寺)を開基。その後、天平16年(744)聖武天皇の勅願により良弁僧正(東大寺の初代別当)が伽藍を増築し、息長山普賢教法寺(そくちょうざん ふけんきょうほうじ)と号し十一面観音立像を安置したといわれている。

2・観音寺略縁起
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そもそも今回、南山城を訪ねる契機となった寺院が実は観音寺であった。


というのは、今年の葵祭を観覧した際に京都国立博物館で開催されていた“南山城の古寺巡礼”展を併せて参観した。

3・南山城古寺巡礼・禅定寺の重文十一面観音立像

南山城地域に点在する十一の寺院の寺宝が一堂に会する機会は稀だということで、ちょうどよい機会と京博を訪ねたのである。

4・京都国立博物館
南山城の古寺巡礼展が開催された京都国立博物館

観音寺もその一つの寺院として参加していた。そして、国宝であるご本尊は出展されていなかったのだが、観覧後、京博の売店で “これは美しい”と記念に買い求めた絵葉書が、実は観音寺の国宝・十一面観音菩薩立像であった。


当日、たくさんの仏像を見たことで、この美しい観音様もいらしたと思い込んで買ったものだ。後日、ブログにその写真を掲載したところ、京博にその観音様は出展されていませんでしたよとのご指摘がコメントで送られてきた。


いやはや、赤面しきりの失態であった。


そこで、今回、祇園祭観覧の合間を縫って、一日、木津川沿いに点在する南山城の寺院巡りを敢行、観音寺の国宝十一面観音菩薩さまにお会いしてきたのである。

5・木津川沿いに多くの古刹が点在する
海住山寺から木津川沿いに観音寺へ向かった

当寺はまず本堂手前左手前にあるご住職(三神栄弘氏)のご自宅のインターフォンで来訪を伝え、ご本尊を拝観したい旨を伝える。

6・ご住職のお宅
住職がお住いのお宅

すると当日は住職の体調が優れぬと奥様が出てこられ、本堂へと案内された。

7・本堂
本堂

本堂の階段を昇り、引き戸を開けて堂内へと導いてくれる。

8・ここから上がります
ここで靴を脱いで正面の引き戸から入ります

堂内に差込む陽光で明るくなった本堂には奥様とわたしら夫婦と運転手さんの4人だけ。身の引き締まる厳粛な空間である。


そこで奥様が諄々とご説明をしてくれるのである。まさにご本尊様を独り占めにしている気分である。

9・本堂斜めより
この本堂内の厨子に十一面観音菩薩立像が安置されている

そして大きな厨子の観音扉が開けられる。あの絵葉書で見た十一面観音立像が現われた。単に気高く気品のある御顔立ちという以上に、どこか母にも似た慈愛に満ちた御顔なのである。

10・大御堂観音寺・国宝十一面観音立像
国宝・十一面観音菩薩立像(京博売店絵葉書)

そして、仏様に対してこう申し上げるのは甚だ不謹慎であることは重々承知であるが、その腰のくびれた立ち姿はどこか艶めかしく、肉の量感が伝わってくるのである。


厨子の真ん前に立ち喰い入るように見上げていると、奥様が少し離れてご覧になったほうがこの仏様はもっと美しいですよと教えてくれた。


そして見る方向でお顔が変わって見えるとも教えてくれた。そこで左斜め、右斜めと立ち位置を変えてみると、あら不思議、仏様のお顔がふっくらと見えたかと思うと、今度はすっきりしたお顔に見える。


名工の造形の妙であろう、光の加減なのだろうか、本当にその面立ちが変わって見えるのである。仏像の国宝は数多くあるが、これほど艶めかしく、にも拘らずに気高く美しい仏様は珍しい。木心乾漆造という手法がこの質感と嫋(たお)やかな曲線美を造りだしているのだろうか。


美しい菩薩さまといえば、わたしは薬師寺東院堂の聖観世音菩薩もその御顔立ち、シルエットともにやはり気品のある美しい仏様で大好きである。

11・薬師寺・西塔  12・聖観世音菩薩
薬師寺廻廊越しに西塔    聖観世音菩薩立像

鋳造と乾漆の違いなのだろう、十一面観音立像はその体温までがわたしのところに伝わって来るかのような温かみのある嫋やかな曲線美をもつ仏様であった。


そして、最後に一番のビューポイントを奥様が教えて下さった。


住職が日々の勤行をされる時にお座りなる場所、磬子(けいす)の前の座布団に坐って仰ぎ見るお姿が一番美しいのだと。


そこで、わたしたちも順番にそこへ坐らせていただき、御本尊のお顔を仰ぎ見た。


美しく、荘厳である。


京博で勘違いした仏様・・・こうしてお会いできて本当に幸せであった。


それから外へ出て、本堂手前左手の小高い丘陵の上に、当寺の鎮守である地祇神社が祀られていた。鳥居が本堂のすぐ脇にある。

13・地祇神社
地祇神社鳥居

延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社に比定されており、社名はクニツカミノヤシロと読むが、地元ではチギ神社と呼ばれているとのこと。


創祀は聖武天皇の時代、この観音寺(普賢寺)が創建された頃まで遡るという古社である。延喜式には祭神一座とあることからみると、オキナガタラシヒメ(神功皇后)を主祭神とするらしい。


地祇神社が建つこの地は、もともとの普賢寺「息長山普賢寺」があった場所と推定され、塔の礎石や7、8世紀の古瓦などその遺構と思われる遺跡、出土品が存在する。

14・本堂前に池
往時は大伽藍を擁した観音寺(普賢寺)もいまは本堂前に小さな池があるのみ


また、普賢寺に隣接する天王地区には、これも延喜式式内社である朱智(しゅち)神社が位置している。貞観11(869)年に朱智神社の祭神として祀っていた迦爾米雷命(カニメイカヅチノミコト=牛頭天王)を祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に遷したことから八坂神社の勧請元となる神社である。


そうした縁起から朱智神社は“元祇園社”と呼ばれ、祇園祭に際しては朱智神社の氏子が奉じた榊をここ天王地区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷」という行事があり、その榊を受けて山鉾巡行を始めたとい言い伝えが今に残されている。現にわたしはその伝誦を観音寺の奥様から直にお伺いした。

15・鐘楼の前に東大寺お水取りととの所縁の石碑
鐘楼前に”お水取り”の竹送りの碑(良弁上人の所縁)

祇園祭を楽しみに京都を訪れ、たまたま美しい観音様にお会いしに伺った場所の辺りが“元祇園社”と呼ばれる深い所縁を持つ神社に所縁のある場所であったとは、何か十一面観音様のお導きのようなまことにもって不思議な縁を感じたのであった。


週刊文春・“朝日新聞『売国のDNA』”の広告拒否 朝日新聞社、“表現の自由”・“知る権利”はどうした!

朝日新聞社は慰安婦問題について、1982年9月に、吉田清治といういかがわしい人物の「日本官憲による済州島での慰安婦狩り」という虚言を記事に取り上げて以降、32年間にわたり、「日本軍が組織的に朝鮮人女性を強制連行した」、「朝鮮人女性が女子挺身隊として強制的に慰安婦にされた」といった事実と異なる虚偽報道を繰り返してきた。


そして、この8月5日の朝刊で、なぜか、従軍慰安婦問題を巡る報道について誤りがあったことを認め、「女性を強制連行した」との証言を紹介した記事(過去16回分)についてのみ撤回することを表明した。

朝日新聞社は、慰安婦問題によって当事国たる韓国はいうにおよばず広く海外に、日本という国が過去、国を挙げて朝鮮人女性を拉致し、性奴隷として強制連行した破廉恥極まりない人権無視の国であるということを、繰り返し刷り込むようにして報道を拡散させてきた。


その結果、韓国や米国に慰安婦像が設置され、われわれは国際的恥辱を味わわされ、切歯扼腕、国連をはじめとする国際世論になかなか抗しがたい事態となっている。


朝日新聞社がこれまで社を挙げて、この慰安婦問題を武器に事あるごとに日本政府を糾弾し、追い詰めてきたことは周知の事実である。


それを過去32年の「16本の記事は取り消します」だけで、日本の品格をここまで貶(おとし)め、国益を少なからず毀損してきた看過できぬ責任については何ら触れていないし、謝罪(謝罪ですむべき話ではないが)の一言もない。


そんな会社が、週刊文春が “朝日新聞『売国のDNA』の見出しで特集を組んだ広告掲載を拒否したという。


日頃、慰安婦の問題はいうにおよばず報道の自由、表現の自由、国民の知る権利だと大声あげて無理を通してきた朝日新聞社が、事、自分に向けられて“自由に表現”されたものは、名誉棄損だとかなんとか御託を並べて広告掲載を拒否する。


なんという身勝手、筋の通らぬ会社であることか。


これまで、週刊誌がさまざまな企業の醜聞、不祥事、そして謂われない誹謗中傷記事を書いたとしても、その記事がその企業の名誉を棄損するからといって、朝日新聞社が広告掲載を拒否したことなどないはずだ。


今回も記事の内容は当社はまだ読んでいるはずはない。ただ、タイトルだけを見て、掲載拒否をする。ふざけた話である。


他人さまが誣告(ぶこく)されるのは自業自得、身から出た錆と、隙あらば、週刊誌と一緒になって責め立て、囃したてる。国民の知る権利の代行者だから、執拗にその企業を追い詰める。


だが、自社は違う。国民に白も黒も併せた様々な情報を与えることは自社の名誉棄損となるため、国民は知る必要がない、そんなことを勝手に書く出版社は表現の自由を行使する資格はないのだと、今回の広告拒否という行為は言っているのである。

表現の自由とは、自社にとって都合の良いことを語るときにのみ許される、きわめて特権的、排他的な憲法上、許された権利なのだと、朝日新聞社は考え、信じ込んでいるのに違いない。


こんな卑劣で狡猾な企業がこれまで報道機関である、社会の木鐸であると、白日の下で嘯(うそぶ)いてきたかと思うと、ホント、日本人として情けなくなるし、いや、腸(はらわた)が煮え返る思いでいっぱいである。


今度、こちらは福島第一原発の吉田証言であるが、これが公表された暁に“命令に違反し撤退”した卑怯者が実際にはどうだったのかが判明した時、週刊誌の広告を今度はどう取り扱うのか、朝日新聞社が云う”表現の自由”の意味とはどういうことなのか、よくよく注目しておかねばならぬ。

最後に、28日、新潮社が週刊新潮の広告についても、「『朝日新聞社』の辞書に『反省』『謝罪』の言葉はない!」という文言などを理由に、掲載拒否を受けたことを公表した。

何ともいやはや、自分の意に沿わぬ表現は”朝日”という検閲機関によって問答無用の御裁きを受けることになるようだ。




吉田調書公開へ、朝日新聞社と云うどこぞの国の機関紙をどう葬るか

わたしは、こんなことをもう書きたくない。

美味しい料理や楽しい旅や可憐な花々の話をここでゆっくりと語るのが一番、幸せだと思っている。

なのに、やはり書かねばならぬ。朝日新聞、なぜ、ここまで日本という国を貶めるのか、何が目的なのか、わたしは本当に理解に苦しむ。以下、いやいや、時間を費やし記述するので、同じ思いをお持ちの方もおられよう、是非、ご一読願いたい。

20付け朝日新聞朝刊
ネット ”NEVERまとめ”から引用

菅義偉官房長官は25日の記者会見で、東電・福島第一原発の事故に関する故吉田昌郎元所長の「吉田調書」を「9月のできるだけ早いタイミングで公表したい」と述べた。


政府方針で非公開としていた“吉田調書”を急遽、公開とした理由は、巷間伝えられるように朝日新聞の5月20日付朝刊一面の報道にあることは自明である。


朝日新聞は吉田調書を入手したとして、5月20日の朝刊で、“原発所員、命令違反し撤退”の一面大見出しで、第一原発の所員の9割が吉田所長の命令に背き、第二原発に撤退していたと報じた。


そして“東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた”と、東電の隠蔽行為を批判している。


そして、この朝日報道を契機に、 “フクシマ・フィフティーズ”と世界のメディアから称賛された第一原発の崩壊阻止に命懸けで戦ってきた人々は、「福島のヒーローは、実は怖くて逃げた。全く異なる恥ずべき物語が明らかになった」(オーストラリア有力紙・オーストラリアン)、「パニックになった作業員が福島第1原発から逃げ出した」(米紙ニューヨーク・タイムズ)などと、一転、“有事に逃げ出した”卑怯者が大勢いたとその栄誉は汚辱にまみれたものとなった。


その一方で、その後、吉田調書を手に入れた産経新聞が8月18日付の朝刊で、「吉田所長、『全面撤退』明確に否定 福島第1原発事故」との見出しで朝日報道を否定した。


そこでは、吉田元所長が「所員らが自身の命令に反して撤退したとの認識は示していない」とも報じられており、朝日新聞の“命令違反”報道に大きな疑問符をつけた。


同じ吉田調書の原文コピーを入手しているとすれば、この二紙は同一事象をまったく逆の理解・認識で記事にしていることになる。


菅官房長官が公開方針に転じた理由を、「記録の一部を取り上げた記事が掲載され、このまま非公開とすることは、かえって本人の意思に反する」と述べたのはまさにおっしゃる通りである。


吉田氏は自分の証言が、「記憶の薄れ、混同により事実を誤認している部分もあると思う。全てが事実であったかのように独り歩きしないか危惧する」ので非公開としてほしい旨、上申書で伝えていた。


しかし、まさに証言の一部を捉えた報道で、まったく逆の評価を下す報道がなされ、その一部の見方は海外メディアのかっこうの餌食となって独り歩きを始めている。


ここで、吉田調書を即座に公開し、白日の下で、シロクロはっきりさせたらよい。


朝日が正しいのか、産経が正しいのか、国民はよく目をかっぴらいて注視すべきである。


今般、慰安婦報道の“誤解”を認めた形の朝日新聞だが、一切、謝罪はまったくしていない、問題のすり替え、開き直りの卑劣な記事であった。それも社として社長の名による報道でもなく、なんとも日本人をなめきった会社である。


これだけ国益を毀損する大誤報、いや捏造記事を32年間ものあいだ阿漕(あこぎ)に悪用してきたのに、この態度である。


今回の吉田調書報道も、まだ公開前ではあるが、朝日新聞デジタルHPにて日本語、英語版で一部、同社が入手したものが公開されている。


命令違反か否かを該当する部分を自分なりに読み込んでみた。日本語版はこの部分はどうも会員登録をしないと読めないようで、英語版にその該当する証言があった。


Actually, I never told them to go to 2F. This is the typical stuff with relayed messages. We were discussing, “Should we head for 2F if we are ever going?” I said, “Take shelter, get automobiles.” And somebody who relayed my message told the drivers to go to the Fukushima No. 2 plant. I thought I was saying, “Take temporary shelter somewhere near the Fukushima No. 1 plant, where radiation levels are low despite its location on the plant site, and wait for the next instruction,” but I was told, “They have left for 2F,” so I thought, “Heck!” I said, “Tell them to let us know once they have arrived at 2F, and tell ‘Group Manager’ level workers (senior employees) to return in the first place.” That’s how the GM-level staff had to return in the first place.


以上のように吉田元所長は語っていたのである。


拙訳すれば、こうなるだろうか。


実は、私はみんなに第二原発へ行けなどとは一切、言っていない。これは、伝言ゲームのような(情報が誤って伝えられる)典型的なものだ。


万が一、我々が出るということになれば、それは第二原発なのだろといった話はしていた。


ただ私は、「自動車を使って避難できる場所へ行っていろ」といった。


私のメッセージを伝えづたえに聞いた人間がドライバーに第二原発へ行けと言ったのだ。


「この第一原発構内でも放射線濃度が低いところがあるのではないか、そこに一時的に避難し、次の指示を待て」と、言ったつもりだった。


しかし、「彼らは既に第二原発へ向かった」と云われたので、「ちくしょう!」と思ったが、

「第二原発に着いたらすぐ私たちに知らせろと言え、そして、グループマネージャーレベルの人間(中堅社員)に元の配置へ戻るように言え」と言った。


それがグループマネージャーレベルの人間たちが元の配置へ戻った経緯だ。



以上が、朝日新聞が9割の人間が吉田所長の命令に違反し、第二原発へ逃げていったという部分の証言である。


原発事故の収拾に必要な最低限の人間を残してほかの人間はできるだけ放射能レベルの低い場所に退避し、次の指示を待てと吉田所長は言っている。


伝言ゲームは普通の平常時でも最後に情報を受け取る人間は発信された情報とは似ても似つかぬとんでもないことを伝えられる。


ましてや緊急事態、混乱の極地のなかでの遣り取りである。放射能レベルが低いところへ一旦、退避しろといわれたものが、第二原発なら大丈夫と考えてもおかしくないし、車で行けといわれたので10km先の第二原発を思い描いたのかも知れぬのである。


現に、中堅どころは戻れと言われて現場へ戻ってきたと吉田氏も語っている。


なのに、朝日新聞は、ここの証言のどこを捉えて、命令違反という“不実”を敢えてこの人々になすりつけるのか。


そして、なぜ、彼らはこの必死で頑張った現場の人間の尊厳を踏みにじり、その人格、人間性までをも貶めようと目論むのか。


わたしは朝日新聞自身が記載している報道内容を読んでみて、どうしてもこの会社の連中の思考回路、思索のあり方、報道というもののあり方について理解することが出来ぬ。


9月上旬であろうか、吉田調書の公開を待って、今度こそこの新聞社といえぬ、どこぞの国の機関紙というべき会社の素っ首を、この国挙げて叩き斬るべきであると、腕をこまねいて待っているのである。


あなたも癖になる、“松屋常盤”の“味噌松風”=旅人の見た京都のお菓子

中京区堺町通丸太町下ル橘町83 ☎ 075-231-2884



0・名刺

今回は、またまた“和生菓子特殊銘柄品・18品(昭和17年・京都府指定)“の一つである“味噌松風”にチャレンジした。


予約しないと売切れ御免のお菓子だと後に知ったが、そこは旅人の無知なる厚顔さで“味噌松風”を二箱購入した。本当にラッキーであったし、何ともおいしかった。


その“味噌松風”を製造販売する“松屋常盤”は、七卿落ちの舞台、京都御所堺町御門の前、堺町通りを70メートルほど下った右手にある。

1・堺町御門  2・松屋常盤から御所・堺町御門を
京都御所堺町御門            松屋常盤前から堺町御門

当日はタクシーで向かったのだが、運転手さんも地図片手にようやく控えめな看板を見つけて到着した。注意しないと見つけることが難しい何気ない看板である。

3・お店の看板がわかりづらい
控えめで目立たぬ看板

お店は通りより少し引っ込んで建つ三階建てビルの一階にある。

4・松屋常盤のビル店舗

その“松屋常盤”であるが、その創業は承応年間(1652−55)の後期、後光明天皇(在位1643-1654)から“御菓子大将山城大掾(だいじょう)”という官位を賜るほどに由緒正しき御菓子調進所である。


入口に白い麻暖簾がかかっているが、お店の説明書きによると後光明天皇から “禁裏御菓子司” の白暖簾を賜ったとある。

5・松屋常盤暖簾

その白い暖簾の中央に“大掾(だいじょう)”であったことを今に伝える“松屋山城”と黒抜きされているのがなぜかとても印象に残った。


さて、暖簾を分けて店へ入ったのだが、少々、戸惑った。六畳ほどの畳敷きの小上りがあるのみで、いわゆるショーケースなど商品の陳列物が一切ない。


ちょっと驚きを隠せぬわれわれの目の前には小荷物の荷造りか発送作業のようなことをされている奥さまがおひとり。


こざっぱりとしたあまりにも簡素な店内である。由緒のありそうな書が額に入っているが、それも何気なく掲げられている。

6・由緒があるに違いない書もさり気なく

それから松風と書かれた木額も・・・

7・松風の木額があまりにもさり気ない

すべてが自然体・・・な店内。

8・古い看板でしょうか

入って左手に古い木箱や菓子の木型が置かれているのが、ようやくここが菓子屋の老舗であることをうかがわせる。

9・菓子の木型や古式ゆかしいお重がならぶ

「すみません、ここで味噌松風を・・・」と小声で訊ねると、「松風ですね」と応えてくれた。ここで間違いないと胸中でつぶやく。まずはひと安心である。


そして、さらに驚いたのだが、何個入りですかとかカステラのような大きさ何号といった問いかけがない。


そして訊かれたのが、「おいくつですか」


日持ちが三日間と聞いていたので、そう多くも買えないので二箱と注文する。

「少々、お待ちください」と、奥さまが奥へ入る。その間に、快諾いただけた店内撮影を心置きなく行なう。


ひと箱はその夜、夕食をご一緒するご夫婦へのお土産、もうひとつが翌日東京へ戻るわれわれの分である。


小上りで清算しているときに、切手盆のような小さなお盆に目がいった。“松屋常盤”の長い歴史を感じさせられた一品である。お願いして、それも写真に撮らせていただいた。

10・歴史を感じるお盆

帰京後、早速に“味噌松風”をいただく。まず包装紙の闊達な書に興を覚える。中身が楽しみである。

11・包装

包装紙を除けると紙箱が出て来る。今度の書は見事な風格を見せる。

12・紙箱に達筆

松風が我が口に至るまでにも思わず不覚の嘆声をもらしてしまう。


そして、おもむろに箱の蓋を開ける・・・

13・紙箱の蓋をあけるといっぱいに松風
いやぁ〜嬉しくなるこのみっちり感・・・

紙箱の中に香ばしい焦げ色のついた“松風”が目一杯詰まっているではないか。


それもカステラを覆う油紙のような遮蔽物も一切なく、“松風”そのものがド〜ンと目に飛び込んで来る。何故だか嬉しくなるような、得した気分になるような、駄菓子屋でおまけをちょっと貰えた幼児の頃の気持ちに戻った気がしたのである。


とても懐かしくて甘酸っぱくなるような感覚を呼び起こす不思議な箱詰めである。


さて、そこからギッシリ詰まったこれをどうやって取り出すのか、家内と協議となった。そして、まず、包丁で一本分を縦に切って、箱の外へ取り出した。

14・大胆に切り取りました

その作業、見ているだけだが、形を崩さずに取り出すのは、結構、難しそう。それから、ひとり分ずつ切り分けて仲良く食べた。

15・味噌松風

カステラのように切り口がきれいにならぬのは、口にしてみてよくわかった。

モッちりとした歯ごたえがあった。これではスパッと切れぬはず。家内のせいでも包丁の切れ味のせいでもないので、一応、ここに付言しておく。


そして松風の説明書に書いてあったが、西京味噌に小麦粉を練り混ぜ、焼き上げた味は、はっきり言って“癖”になる。

16・紫野味噌松風説明書

味噌味というより、なんだろう・・・ちょっと辛くて甘い・・・そしてこんがり感・・・あぁ〜

この文章を書きながらイヤシン坊の口の中に唾が湧き出すのを止められない。


この“松風”・・・、これは“癖”になる菓子である。美味しい・・・うまい・・・また早く食べたい・・・


でも、京都まで行かぬと手には入らぬ。どうしたものかと、いま、思案中である。


そんな“松風”後でいろいろ調べてみたところ、どなたかのブログで拝見したのだが、手づかみで毟(むし)って豪快に食べるのが大好きという方がおられたが、今度、手に入れた際にはぜひ豪快にと考えている。その方が絶対においしいに決まっている。

17・紙箱にドカンと入っています

ということで、今回の“和生菓子特殊銘柄品18品”は、“松屋常盤”の“味噌松風”でした。


これで、18品目のうち半分の9品目となった。あと9品、全品踏破まで道は遠い。今後、さらなる研鑽に努めねばと決意を新たにしたところである。

2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物・昆虫図鑑 --- その5

2・アサギマダラが数匹、飛んでいました
ヨツバヒヨドリの蜜を吸うアサギマダラ

春から夏にかけて本州などの涼しい高原地帯で繁殖を重ね、気温が下がる初秋になると温かな南方へと移動する。その移動は想像を絶する距離であり、遠く沖縄さらに八重山諸島や台湾にまで海を越えて飛んでいくのだという。

3・ヨツバヒヨドリの蜜を吸うアサギマダラ

2006年8月、山形・蔵王スキー場でマーキングして放ったアサギマダラ1700匹のうちの一匹が、11月20日に与那国島・久部良岳の山頂で見つかっている。その移動距離は2246kmという気の遠くなるような距離である


そんな珍しい蝶が夏の八ヶ岳周辺には多く、飛翔しているのだそうだ。そして、この8月2日、八島湿原の緑陰のなかで出逢うことになった。

0・この緑陰にアサギマダラが輪舞
この緑陰に群生するヨツバヒヨドリにアサギマダラが群れ飛ぶ

アサギマダラはヒヨドリ科の花が好物で、実際に我々が目にした数匹のアサギマダラはヨツバヒヨドリの花に群がり、輪舞していた。

1・2000kmを移動するアサギマダラ

貴重な経験であった。ハイカーの人たちも嬉々として写真撮影に余念がなかった。


自然の宝庫、八島湿原にはそうした珍らしい蝶だけでなく、馴染の昆虫がそこここで目に留まる。


コオニユリの蜜を吸う揚羽蝶

4・コオニユリと揚羽蝶

都会で目にすることがなくなったシジミチョウにも久しぶりにお目にかかった。

5・シジミチョウ

そして、このショットは夏の定番のようなものだが、アザミと蜜蜂。

6・アザミに蜜蜂

そのほかアザミにはいろいろな虫が蜜を求めてひと時の憩いを愉しんでいる。

7・アザミの埋まる小さな昆虫

草むらの萱の葉にトノサマバッタだろうか、静かに羽を休めていた。

8・トノサマバッタかな?

最後に高原に早々と秋の訪れを告げる赤とんぼである。ワレモコウに停まる赤とんぼ。

9・ワレモコウと赤とんぼ

そして、花を落としたアザミに羽を止める赤とんぼ。

10・赤とんぼ

それから自然との触れあいということで、最後に家内に寄って来て、じっと手にとまった高原の蝶、なんだかホッとする時間でした。

11・手に停まる蝶

ヒンヤリとした風が吹き渡る八島湿原で繰り広げられる様々な生き物の営みは、高原に足早にやって来る秋そのものの景色であった・・・


12・八島ヶ池と八島湿原

 

2014年の八島湿原の植物・昆虫図鑑、これで終了となる。長い時間、お付き合いいただきありがとうございました。

2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その4

2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その1
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その2
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その3
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物・昆虫図鑑 --- その5

霧ヶ峰高原を歩いているとこんな素敵な光景に何度も出くわします。爽快な気分になりますね。

1・ナデシコ、オミナエシ、ノアザミ、ヨツバヒヨドリ お花畑
旧御射山遺跡から八島湿原へいたる道端の光景

これから掲載する花々は皆さんよくご存じの馴染のある花が多くでてきます。すべて8月2日に八島湿原で写した写真です。


エゾカワラナデシコ(ナデシコ科)

2・エゾカワラナデシコ(ナデシコ科)
エゾカワラナデシコ
3・ナデシコを真上から
真上から撮りました

ホソバノキリンソウ(ベンケイソウ科)

4・ホソバノキリンソウ(ベンケイソウ科)
ホソバノキリンソウ、木橋の足元にひっそりと咲いていた

まだ残っていました、おなじみのニッコウキスゲ(ユリ科)です

5・ニッコウキスゲ(ユリ科)
遅咲きのニッコウキスゲが一輪

ノハナショウブ(アヤメ科)

6・ノハナショウブ(アヤメ科)
ノハラショウブがところどころに・・・

ノリウツギ(ユキノシタ科)

7・ノリウツギ(ユキノシタ科)
よく見かけるノリウツギ

ツリガネニンジン(キキョウ科)

8・ツリガネニンジン(キキョウ科)
小さな釣鐘ですね・・・ツリガネニンジン

オミナエシ(オミナエシ科)

9・オミナエシ(オミナエシ科)
おなじみのオミナエシ

キバナツリフネソウ(ツリフネソウ科)

10・キバナツリフネソウ(ツリフネソウ科)
見つけました、キバナツリフネソウ

コウゾリナ(キク科)

11・コウゾリナ(キク科)
シルクのような艶を見せるコウゾリナ

マルバダケブキ(キク科)

12・マルバダケブキ(キク科)
結構、目立っていました、マルバダケブキ

コウリンカ(キク科)

13・コウリンカ(キク科)
コウリンカ、これはちょっと珍しい

コオニユリ(ユリ科)

14・コオニユリ(ユリ科)
野原に一輪、凛と咲きます

秋の訪れを告げるワレモコウ(バラ科)。ワレモコウには蜻蛉がよく似合う。



15・ワレモコウと赤とんぼ

昆虫と植物の共生・・・癒される光景でした。
次に喋々など八島湿原に遊ぶ昆虫を少しご紹介します。

植物図鑑その5につづく





2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その3

2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その1
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その2
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その4
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物・昆虫図鑑 --- その5

8
月上旬の八島湿原、ウスゲヤナギランが見頃である。湿原を右回りに歩き始めて2、30分ほどすると一茎に紫色の花が群れ咲くヤナギランの群生が見えて来る。

ウスゲヤナギラン(アカバナ科)

1・群生するウスゲヤナギラン
湿原で咲き誇るウスゲヤナギラン
2・ウスゲヤナギラン(アカバナ科)
ウスゲヤナギラン

次に虎の尾に形が似ているというトラノオ。ただ、葉の形が異なっており種類(科)も異なる。


オカノトラノオ(サクラソウ科)

4・オカノトラノオ(サクラソウ科)
オカノトラノオ

イブキトラノオ(タデ科)

5・イブキトラノオ(タデ科)
イブキトラノオ

そして見つけたのが黄色の花をつけた次なる花である。

6・名無しのゴンベイ
名無しの権平

名前はわからぬ。一見するとトラノオの一種かと思うが、花はヤナギランに似ている。なんという花であろうか・・・


キバナノヤマオダマキ(キンポウゲ科)

7・キバナノヤマオダマキ(キンポウゲ科)
可愛らしいキバナノヤマオダマキ

クガイソウ(コマノハグサ科)

8・クガイソウ(コマノハグサ科)
クガイソウ

 

それからギボウシである。オオバとコバがあり葉の違いというが、いまひとつはっきりしない。


オオバギボウシ(ユリ科)

9・オオバギボウシ(ユリ科)
オオバギボウシ

コバギボウシ(ユリ科)

10・コバギボウシ(ユリ科)
コバギボウシ

 

アザミは歩く先々に咲いている。アザミには必ずと言ってよいほどにミツバチが停まっている、余程、蜜の味と相性がよいのだろうか。


ノハラアザミ(キク科)

11・ノハラアザミ(キク科)
ノハラアザミ

ノアザミ(キク科)

12・ノアザミ(キク科)
ノアザミ

 

それからシシウドに似たイブキボウフウ。

イブキボウフウ(セリ科)

13・イブキボウフウ(セリ科)
イブキボウフウ


目も鮮やかな黄色の花を咲かせるキンバイソウ。


キンバイソウ(キンポウゲ科)

14・キンバイソウ(キンポウゲ科)
鮮やかなキンバイソウ
15・キンバイソウ
高山植物には珍しく派手な花です

 

これも夏の定番、ホタルブクロ。

ヤマホタルブクロ(キキョウ科)

16・ヤマホタルブクロ(キキョウ科)
ヤマホタルブクロ

 

植物図鑑 その4につづく



2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その2

2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その1
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その3
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その4
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物・昆虫図鑑 --- その5

八島湿原には250種類余とも400種類以上ともいわれる植物が存在するといわれているが、この8月上旬は色とりどりの可憐な花が湿原の中や縁辺に咲き誇り、われわれハイカーの目を楽しませてくれる。


これから、2014年8月2日に八島ヶ原湿原に咲いていた花々を出来うる限り掲載したい。写真は花の形、葉っぱの形や付き方さらに生えている状況ができるだけわかりやすいものを選んだつもりである。


花の名前を調べる際に花びらの色や形だけでなく葉の形やつき方が見分ける重要なポイントだということは理科を普通に学んだ人には常識なのだそうである。


また、なかには名前が分らぬものもあったが、あまりに美しいので写真のみを掲載した。もし、その花の名前をご存知の方がおられれば、コメントからで結構ですのでご教示いただけると幸甚です。もちろん、花の名前を勘違いまたは間違っている場合も遠慮なくご指摘くださると今後の勉強ともなりますので大歓迎です。


加えて湿原の中には花の蜜などをもとめて飛び交う昆虫も多く、都会では目にすることのない喋々や虫などを目にし久しぶりに童心に帰ったこともあり、適宜、掲載させていただいた。


まず夏の高山植物の代表選手であるフウロソウ科の可憐な花をご紹介する。


ハクサンフウロ(フウロソウ科)

1・ハクサンフウロ(フウロソウ科)
高原の夏の風物詩、ハクサンフウロ
2・ハクサンフウロ(フウロソウ科) (2)
ハクサンフウロ

タチフウロ(フウロソウ科)

3・タチフウロ(フウロソウ科)
タチフウロ

アサマフウロ(フウロソウ科)


4・そこここにアサマフウロ
そこここにアサマフウロが咲いている
5・アサマフウロ(フウロソウ科)
アサマフウロ

 

次に高原の花のこれも定番のアカバナシモツケソウ

アカバナシモツケソウ(バラ科)

6・アカバナシモツケソウの群生
群生するアカバナシモツケソウ
7・アカバナシモツケソウ(バラ科)
アカバナシモツケソウ

ニガナ(キク科)

8・ニガナ(キク科)
ニガナ

ヤマニガナ(キク科)


9・ヤマニガナ(キク科)
ヤマニガナ

 

それから高原でやたら目にするのが次の花。 うん、うんという方も多いかと・・・

ヨツバヒヨドリ(キク科)

10・ヨツバヒヨドリ(キク科)
この白い花、よく見かけませんか

シシウド(セリ科)

11・遊歩道の脇にシシウド
遊歩道の脇に肩とならぶほどの高さにシシウドが咲く
12・シシウド(セリ科)
じっくり見ると小さな可愛らしい花がたくさん

チダケサシ(ユキノシタ科)

13・チダケサシ(ユキノシタ科)
チダケサシ

ハナチダケサシ(ユキノシタ科)


14・ハナチダケサシ(ユキノシタ科)
ハナチダケサシ

 

“植物図鑑 その3”につづく


2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その1

ブログ・「彦左の正眼」内の写真・記事等一切の転用を禁じます。

2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑--- その2
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その3
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物図鑑 --- その4
2014年8月上旬、霧ヶ峰高原・八島ヶ原湿原の植物・昆虫図鑑 --- その5


8月2日、霧ヶ峰の天気は晴れのち曇り、雲の流れは速いが雲量の多い一日であった。

午前中も早めに少しでも空気の澄んだうちにとビーナスラインを疾駆する。

0・ビーナスライン

窓外には早起きの甲斐あって大パノラマが展開する。

夏霞がうっすらとかかる信州の空に八ヶ岳の稜線が見える。

0001・ビーナスラインから八ヶ岳を眺望

その長い山裾の右手に目を転じると、その奥に北岳を頂とした南アルプスの悠揚たる山並みが見える。

001・ビーナスラインから八ヶ岳裾野と南アルプス

そして霧ヶ峰の山腹を縫って走るビーナスラインの急カーブを曲がると視界が一挙に開けた。雲は多いが、円みを帯びた丘陵の先に今度は薄絹越しに見えるシルエットのように中央アルプスの山脈が浮かんで見えた。

01・ビーナスラインから中央アルプスを

霧ヶ峰付近を遠望する高原の景色はわれわれ夫婦が安らぎを覚える大好きな景色である。

1・八島湿原へビーナスラインを

霧ヶ峰自然保護センターを右手に曲がると八島ヶ原湿原はもうすぐ。

2・霧ヶ峰自然保護センターから八島湿原へ

そして八島湿原の駐車場へと到着。まずは八島ビジターセンターへ向かう。

3・八島ビジターセンター

そこでこの日、8月上旬に咲いている花々の“週間情報(100円)”を求める。

4・八島湿原8月の花
クリックして拡大してください

これは隔週で編集改定がなされているようだが、湿原に咲く花の名前をこの“花情報”を手にああでもないこうでもないと言い合いながら歩くのも一興である。

5・八島湿原入口はトンネルです
この小さなトンネルが八島湿原への入口。拡大するとネットが見える。

八島湿原へは小さなトンネルを通って入ってゆく。その入口には鹿害を防ぐためのネットが下ろされている。

霧ヶ峰一帯で鹿に花の芽を食い荒らされる被害が拡大し、この八島湿原にも遊歩道の途中に鹿の侵入を防ぐ柵が設置されている。

6・鹿の遮断扉
遊歩道に無粋な柵が・・・

植物図鑑にゆく前に、ここで八島湿原の概要を簡単に述べておく。

7・八島湿原入口
ここから八島湿原へと入ってゆきます

八島ヶ原湿原植物群落は標高1632mに位置する面積は34・7haの高層湿原である。日本の高層湿原の南限にあたり、昭和14年に国の天然記念物に指定され、昭和35年には国定公園内の特別保護地区になっている。

8・八島湿原説明板
入口脇に説明板

高層湿原は養分が少なく貧石灰、貧酸素で、水質は酸性、低温など制約の多い環境のためカヤソリグサ科などの矮小な植物が侵入繁茂して生成される。

9・八島湿原一望・八島ヶ池
八島ヶ原湿原一望、手前が八島ヶ池

即ち、これらの水生植物が枯れても、高緯度で標高が高く寒冷な気候のため腐敗・分解が進みにくくそのまま堆積し泥炭化してゆく。

10・八島ヶ池
八島ヶ池

そして新しい苗がその上に生長していく結果、湿原は付近の水面より高く盛り上がってゆく。

11・鎌ヶ池
鎌ヶ池

八島湿原では最高所は水面より7mも高く、泥炭層の厚さは8・5mにおよんでいる。

12・鬼ヶ泉水
鬼ヶ泉水

この現在の姿をわれわれがいま目にするのに1万2千年という気の遠くなるような時間を必要としたのだという事実に、わたしは人類の知識というものの限界、人智のおよぶ世界がいかに矮小かということを心底思い知らされた。


悠久の自然が事も無げに成し遂げた驚異の仕業なのである。


そんな八島湿原の夏の一日、高原に咲く可憐な花を求めてぐるりと一周したのである。

13・八島湿原遊歩道

板敷の遊歩道を杖をつきつつ写真撮影も貪欲にこなす道行き。時折の緑陰に癒されながらの90分の所要時間というコース。それをわたしはなんと5時間を超える時間を費やして踏破?したのである。

14・緑陰を歩くハイカー

壮挙と云ってよい。左半身に強い痺れと麻痺を残す身体。


日頃の運動不足、リハビリ不足を一挙に挽回すべく板敷の遊歩道を、足を踏み外さぬよう慎重にゆっくりと歩いた汗と日焼けという勲章をともなう涙ぐましい快挙であった。盛夏の八島湿原・・・

15・盛夏の八島湿原

その湿原を歩き通したリハビリ・ハイキングの成果が次稿から掲載する八島湿原の花々、湿原の生き物である。


八島湿原、こうやって見ると8月の上旬が高原植物の華やかな舞踏会の季節なのだとあらためて思ったものである。


愛猫、麟太郎の一周忌を迎えて、その在りし日を偲ぶ

8月13日、我が愛すべき麟太郎が逝ってちょうど一年を迎える。

1・りんたろう
在りし日の麟太郎

麟太郎は昨年の8月13日、まさにお盆の入りの日に、17歳、人間に譬えると優に90歳を越える長寿を全うし、見事な最後を遂げた。


麟太郎の葬儀は翌日の8月14日、禅宗浅間山・慈恵院の付属多磨犬猫霊園(府中市浅間町2-15-1)にてリンを愛した家族でしずかに見送った。

2・慈恵院受付所
慈恵院の受付所

本日、その一周忌を迎えるにあたり、故麟太郎の在りし日のことなど偲びたいと思う。

そして、ペットの老いをどう捉え、それから避けられぬ死を迎え、その見送りをどうしたかなどをここに記す。


そうすることをたぶん、わが愛する麟太郎もきっと喜んでくれると信じている。


麟太郎は1997年9月にわが家へ迎えた。ご近所の方を通じ、その知り合いの方から生後3か月ほど経った子猫をいただいた。物静かな猫だった。


名前は息子が決めた。実は男の子が生まれたら命名したかった名前である。当時“麟”という漢字が人名漢字になかったため已む無く断念した経緯を息子が知っていた。だから雄猫にこの名前を付けてあげたらと、少々、猫にしては不釣合いな名前であったが、命名の運びとなった次第である。


それがかえって知り合いの皆様にもインパクトがあったのかすぐに名前を覚えて頂き、17年の長きにわたり可愛がっていただいた。


その麟太郎、親ばかを承知で申し上げるが、その一生はなかなか凛とした孤高の人生いや生き方を貫いたと考えている。


自ら人間の膝に乗るなどと云う隷属的な行為は一度もしたことはない。

お風呂も大好きで、家内が抱いて湯船に入ると気持ちよさそうに細く目を閉じ、何だか人間の大人と同じ雰囲気を抱かせたものだ。


また、屋根裏で生まれたミミという子猫を世話せざるを得なかった1年半ほど、君はまだ4、5歳だっただろうか、君の食事の皿にミミが横入りしてくると、争うことなくすっと身を引き譲ってしまう。お母さんがいつも“リンちゃん、あなたが主役なのよ、頑張りなさい”などと、その奥ゆかしさに半ばあきれ歯がゆさを覚えていたこともあった。その姿を目にする度にそれは臆病なのではなく、弱き者に対する温かな心持ちを有するジェントルマンシップなのだとわたしは感じ入っていたものだ。

亡くなるまで独立不羈の姿勢を崩すことはなかった。その姿は家内と麟太郎を話題とするとき、いつも二人して、何だか今の日本人に欠けている潔さ、美意識、精神力をこの子は有しているねと語り合ったものだ。

3・2008年のリン
この縁台から庭を見るのが好きだった

小さい頃から大きくて獰猛な野良猫などに立ち向かってゆく姿は常に“敢然と”と表すべき、わたしからすると無謀とも思える闘いを挑んでいた。やろうと思ってもなかなかできぬ行為だと自らを省みて忸怩たる思いがあったものである。


そうした精神性は麟太郎の立居振舞にもよく表れ、凛とした佇まいにいつも「生き方と一緒で、君はスマートだね」と声をかけたものだ。


そうした姿勢は老いても崩れることはなかった。

人間でいうともう80歳だと言われるくらいの頃から、君の食事もそろそろ僕らの食事と一緒でもよいねと、最後の1年半くらいは鯵などの焼魚を麟太郎の分として半匹くらい、時には一尾をお母さんが焼いてくれていたね。


そして君はそれを当たり前のように口にしていた。本当に甘えてどうこうするといったこともなく、わたしなんかよりも上品に上手に食べていたね。決して食べ散らかすようなことをしなかった。


お水を飲むときいつしか君は手で掬ってそれを口に持ってゆくようになったね。その姿もどこか所作に適って端然としていて美しさがあって好きだった。

亡くなる2週間ほど前あたりから足がひどくふらつき始めて2階へ上って来るのもしんどそうになってきた。それでわたしたちも君が本当に年老いたのだなぁと今後の介護をどうするかにつき真剣に話し合いを始めたくらいであった。


まさかそんなにすぐ君が逝ってしまうなどと誰も考えてはいなかった。

4・庭の麟太郎
庭のこの辺りが大好き。このすぐ右脇にいまリンのお墓がある

それくらい君は老いてもその老いを人様に見せることをしなかったのだ。今思うと、その我慢強さと真正のダンディーさには深く頭が下がる。


亡くなる日は猛暑であった。

家の中でも比較的涼しい玄関の板の間に横たわっていた君は、夕刻になりいつしかわれわれと食事を共にするダイニングキッチンで横になっていた。


わたしは2階でパソコンに向かっていたが、階下から家内が“リンの様子がちょっと変だ。病院に連絡したらこれから連れてきてくださいというので、行ってくる”という。


下へ降りて君の様子を見ると、呼吸が荒くなり、お腹と胸が大きく膨らみ縮むのを見た。明らかに変である。家内が準備を整えさぁ行こうとした時に君は大きく息を吸い口を閉じかけた・・・そして本当にしずかに息を引き取った。


いつもわたしたちと語り合い、食事をとっていた部屋で君はちょうど家に戻っていた娘とわたしたち夫婦、いや両親の見守るなかで何ら僕らの手を煩わすことなく、見事に自分の一生の幕を閉じて見せた。


見事である。


皆の頬にしずかに泪の滴が流れ落ちるのが見えた。1年前のちょうど今日である。


君はほとんど病院にもかかることがなかった。最後の今際の際にも結局、病院には行くことはなかった。


気持ちが落ち着いてから病院へ先ほど息を引き取ったことを伝え、今後、葬儀などはどうしたらよいのかなどを訊ねた。


紹介されたのが前述の府中の多磨霊園に隣接する4000坪という広大な境内を擁する“禅宗・慈恵院の付属 多磨犬猫霊園”であった。大正10年開園のペット霊園の嚆矢となる由緒のあるお寺である。

5・0この中のお堂で葬儀を執り行いました
慈恵院の犬猫の葬儀を行うお堂へこの門から入る

8月14日、同所へ麟太郎を抱いて伺った。この日も慈恵院の空から真夏の陽光が降り注いでいた。

5・1暑い日でした

手続きを終えると、お坊さんの先導で火葬場へ向かった。

6・この奥で荼毘にふしました
この奥で荼毘に付しました

そこで僧侶の読経とともに火葬を行ない、その後、骨上げを家族で行なった。

それからお堂へ移動。

7・このお堂で葬儀を行ないました
このなかで葬儀を執り行いました

骨壺と戒名を前にお坊さんが経を読み、丁寧な葬儀を行ってくれた。

8・家族で見送りました
家族で見送りました

ついこの間のことのような気がする。


2014年8月13日、今日も去年と同じ空は晴れ上がり、ひどく暑い日であった。


盆の入りの日。多磨霊園に隣接するわが家の菩提寺へ墓参した。


帰宅後、麟太郎が大好きだった庭の隅に骨壺を埋めた小さな小さなお墓があるが、そこで今度は麟太郎の一周忌の線香を供えた。

9・麟太郎のお墓
麟太郎は庭の隅にしずかに眠っています。花と線香を手向けました。

こうして想い起すと、今でもうっすらと目尻に泪が滲んで来る。本当にスマートな一生であった。夫婦二人してわれわれもかくありたいと語り合うが、この凛とした生き方はなかなか真似のできぬことだと、また一方で納得し合う二人でもあった。


そしてこの文章を書き始めて直ぐにわたしたちの寝室に突然、カナブンがどこからともなく飛びこんできた。窓は全部締め切っているので、いつわが家へ入って来たのか不明である。


最初、家内の顔にぶつかってその指に掴まれた。それからわたしの掌へと移され、ベランダの窓から暗夜のなかへ投じられた。


障子を閉めて直ぐである。コトン、コトンと窓を打つ音がする。障子を開けると、そのカナブンが見えた。


先ほどの狂ったように飛廻り挙句の果てに家内にぶつかって行った様が、“お母さん、お母さん、ボクだよ、リンだよ”と訴えているように感じられてしようがなかった。何せ、亡くなってちょうど一年経ったまさにお盆の入りの夜なのだから。

わたしはあるお盆の夜の出来事を思い出し、ふたたび窓を開け、カナブンを室内へいた。するとカナブンは閉めた障子の桟に停まると静かな眠りにつきはじめたではないか。

そしてこの文章を終える今になっても動くことはない。まるでこの家の一員のような様子でわたしのすぐ目の先で眠っているのだ。

10・桟に停まるカナブン

何だか安心しきって夢でも見ているようだ。

11・一周忌に飛び込んできたカナブン

いまから60年近く前になる。まだ幼稚園前のわたしが父母と共に祖父母の家にお盆に行った夜。


灯篭が飾られた仏壇の間にカナブンが飛びこんできて、小さなわたしが大声をあげてこれを捕まえ、外へ放り出そうとした時のこと。


その時、祖母がこう言ったのだ。


“お盆にはあなたの知っている亡くなった人たちが戻って来る”

“このカナブンも次の命をカナブンとして与えられ、たぶん、ここに戻ってきたのだ”

“だから殺生はもちろんダメだが、ちゃんとやさしく扱ってやれ”


と、カナブンが部屋を飛廻るままにさせたことを鮮明に思い出した。


だから今夜はこのまま電気を消して、カナブンに命を託し我が家へ戻ってきた麟太郎と久しぶりに一緒に眠ろうと思う。


リン、元気にしているかい?

おやすみなさい・・・




2014年、祇園祭の“割烹やました”で、涼をもとめる=京都グルメ

2016年9月、倦怠期に木屋町通りの「割烹やました」のランチは格別!(2016.9.30)
2014年祇園祭・山鉾巡行前祭(さきまつり)に興じる(2014.7.21)
2013年・水無月の割烹“やました”、“あこう”の洗いで初夏の爽やかな音色を聴く=京都グルメ
(2013.7.1)

中京区木屋町通二条下ル上樵木町491−3 ☎075−256−4506


7月17日、山鉾巡行が終了した夜、京都の知人ご夫妻と“割烹やました”で会食をした。

0・いつもながらいい笑顔です
いつもこの笑顔がたまらぬ山下茂氏

祇園祭の本義である神幸祭の神輿渡御が木屋町通りすなわち“やました”の前を通ることを知ったので、この日に“やました”を予約した。

1・舞殿に並ぶ三基の神輿
宵宮に八坂神社舞殿にならぶ三基の神輿

要は、“やました”の料理に舌鼓を打ちながら神輿渡御も観覧するといった一挙両得、ぜいたくな目論見を立てたというわけだ。


加えて一年半ぶりの再会となる旧知のご夫妻と積もる話も同時に楽しもうとイベント、テンコ盛りな“やました”の夜を計画したわけである。


6時の予約にあわせ押小路橋を歩いていると“やました”の前で祭りの出店を準備する大将の姿を認めた。

2・割烹やましたへ

え〜っ! やました”が出店屋台?と訝(いぶか)るわたし、つい、「大将! 商売熱心だねぇ」と声をかけた。

3・神輿渡御振舞い酒の準備をする大将

気づいた大将が何か言うがよく聞こえない。近づくと缶ビールやらペットボトル飲料を氷で冷やす仕度中である。


神輿を挙げる連の人たちへの差入だという。当方、冗談にせよ商売熱心だねなどと声をかけたことに、少々、赤面の態。


それと、“やました”へ通うのに一斗樽を積んだ高瀬舟が見えないのはちょっと情緒に欠けていた。

4・高瀬川に浮かぶ旧高瀬舟  5・高瀬舟のない高瀬川
左:旧高瀬舟(2008年撮影)  右:2013年、撤去されて何もない高瀬川

当日はまだ明るい高瀬川にひとまわり大きくなった高瀬舟が新調なって浮かんでいた。そこで一枚、写真を撮った。

6・0新調なった高瀬舟

高瀬舟が浮かぶ景色、京都情緒たっぷりのまことにいい雰囲気である。


さて、店内、いつものカウンター奥の席へ陣取った。

6・1先付
先付

早速、乾いた喉を潤すべく恵比寿ビールを注文、それから“桃の滴”の冷酒をいただく。

6・2冷えた桃の滴

料理の方は今回のサプライズは“鱧の洗い”と“冷やし肉”。


これまで“やました”の鱧と云えば“炙り”であった。もちろん、当夜も炙ってもらった。

7・真剣に鱧を炙る芹生君
鱧を炙る芹生君

ところが、芹生君が“鱧の洗い”はいかがですかとさらに問う。

8・活きの良い鱧を捌く芹生君
跳ねる鱧を捌く芹生君、頑張る!!

「エッ? 鱧の洗い」と問い返すと同時に「それもちょうだい」と即答する。まだまだ私も若い、すばらしいクイックリスポンス、条件反射能力であると妙なところで悦に入る。

9・鱧の洗い
これが鱧の洗いです

ともあれ、この洗いには正直、唸り声を上げた。この発想、仕上げにはアッパレというしかなかったのである。

あまりにも新鮮な食感! 炙り鱧にも、もちろん湯引きの鱧など遠く足元にもおよばぬ斬新なまさに炎暑に涼を呼び込む食感である。

10・鱧の洗い、これは新たな発見
お見事、この食感!!

常に食材の新たな調理法を追い求める“やました”の姿勢に恐れ入り、またまた惚れ直したところである。


次に“冷やし肉”なる、これまたこんなお肉の食べ方、初めてという代物。

実のところ男性陣は網焼きを頼んでいたのだが、お隣のご婦人方の前にならぶお肉に目がいった。

11・牛の網焼き
男性陣が頼んだ網焼き

それに気づいた女性陣がおひとついかがと憐憫をかけてくれたので、この新たなる珍味にありつけたもの。

12・0冷やし肉
これが冷やし肉です

二杯酢でさっぱりと“涼”をいただく、美味である。


12・1万願寺唐辛子の掏り流し  12・2冷たい野菜の炊合せ
左:万願寺唐辛子の掏り流し 右:詰めた野菜の炊き合せ

炎暑の夜に斯様な涼を次々と演出する大将の凄腕にあらためて驚嘆するとともに、衷心からの敬意を表するところである。


そして、いよいよもうひとつのビッグイベント、神輿渡御の始まりである。


まだまだ明るい午後7時少し前。神輿を先導する行列が“やました”の前の木屋町通りに入ってきた。

13・色々、雅な行列が続きます

お客さんも一時、食事を中断、外にて観覧。駒形稚児や騎馬で進む神官の行列がつづく。

14・稚児さんも騎馬でゆく
可愛らしい駒形稚児が通る

神輿の前にこれほど本格的な行列を見たのは初めてであった。

15・騎馬行列がゆく

7時17分。三若神輿会の担ぐ中御座神輿が“ほいっと、ほいっと〜!”の掛け声とともに近づいてきた。

道路を埋め尽くす人、人、人にはビックリ。

16・道を埋め尽くす人
大勢の人と共に中御座が見えて来る

中御座は六角形の屋根に鳳凰を冠し、ご祭神は八坂神社の主祭神・素戔嗚尊(スサノオノミコト)である。

17・中御座
中御座神輿

何しろすごい人数が次々と店の前を通り過ぎてゆく。

18・大勢の担ぎ手が過ぎてゆく

中御座を見送ると、一同、一旦、店内へ戻る。


午後9時前、錦神輿会が担ぐ西御座がやってきたので外へどうぞとの声。大将以下、お客とともに道路へ出る。さすがにもう外は真っ暗。


だが、神輿が近づくにつれ人の大群が押し寄せるようなどよめきが聴こえる。

19・西御座がやって来る
西御座が近づく

“ほいっと!ほいっと!” 西御座神輿が現われる。

屋根が八角形の鳳凰を冠するこれまたりっぱな神輿である。ご祭神は素戔嗚尊の御子たちである八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。

20・錦神輿会・西御座
西御座神輿

錦神輿会のメンバーは“やました”が仕入れでお世話になる錦市場の人たちが大勢いるのだという。

“やました”の前で神輿もしばし休憩。担ぎ手の人たちも乾いた喉を潤す。大将が準備した飲料の前は昂揚した連の人たちの熱気があふれる。芹生君や女子衆もお世話に大活躍。

21・錦神輿会の人たちに振る舞う

そんななかを粛然と騎乗の神官が行く姿もこれまたすばらしい。

22・担ぎ手のなかを行く騎馬

そして、神輿はふたたび大勢の担ぎ手に担がれ、暗闇に“ほいっと! ほいっと!”の響(とよ)みを残し四条の御旅所へと去っていった。

23・西御座

嵐のようにやってきた神輿を見送り、暖簾の方を見返ると大将が満足の笑みである。

大将、満面の笑み
大将、最高の祭だね〜

神輿渡御の迫力と行列の厳かさを目にし、1100年の歴史を有する祇園祭の本義・神幸祭は京都の町衆に支えられてきたまさに神儀であると実感させられた。


路傍から観覧するだけで祭の当事者のような高揚感を味わったわれわれはふたたび店内へ戻り、じっくりと“やました”の料理を堪能。

25・料理が並んでいます
まだまだ祇園祭の夜は長いのです・・・

神輿渡御を“やました”の前で観覧するという最高の祇園祭を過ごすことが出来た。満足この上ない一日であった。


そして、“やました”の“もてなし”の真義が大将の日頃の心映えにこそあったのだと心底、納得した。


2014年の“割烹やました”!!


祇園祭の神輿渡御を観ながら料理に舌鼓をうつという新たな“やました”の魅力を発見した一日でもあった。


そして最後に新料理長を紹介しておかねばならない。安達料理長である。

26・大将と新料理長の安達さん
新料理長・安達さん

以前、長年“やました”におられたということで、これから勝手知ったる板場で大将の右腕として思う存分その腕を振るっていただけると大いに期待している。


何せ、当夜は神輿見物に出たり入ったり、久しぶりの旧知の友との語らいとやたら忙しく慌ただしい時間を“やました”で過ごした。


次回にじっくり安達さんとお話できることをきたいして2014年の“やました・訪問記”の筆を置くことにする。



うなぎのまち岡谷で鰻を食べた、簗(やな)のうなぎ・“観光荘”=蓼科グルメ36

岡谷市川岸東5−18−14 ☎ 0263−22−2041


諏訪地方の謎のひとつ、洩矢神社(岡谷市川岸東1-12-20)を訪ねたついでに、ちょっと足を伸ばし、お昼に鰻を食べに行った。


岡谷市中心部から天竜川沿いに県道14号線(下諏訪辰野線)を15分ほど走ると、県道と天竜川を挟んで“やなのうなぎ・観光荘”がある。

1・県道14号線沿いに観光荘

観光荘の座敷席から外を見ると真下に天竜川が流れている。

2・裏の天竜川で簗漁を行なっていた

当店の案内によれば、江戸時代中期、当地を治める高島藩によって天竜川を下る鰻を捕獲する仕掛け・“本瀬締切りの簗場”がこの場所に築かれたとある。


この簗場で捕った鰻を提供しようと昭和29年に最後の簗師・宮澤幸春氏が当店を創業したのだそうだ。その頃はまだ蛍が群舞していたことから、蛍の光を観る荘(やかた)ということで、“観光荘”と名付けたとある。その簗場も昭和49年の一級河川護岸工事によって、その姿を消したという。


岡谷市は別名、“うなぎのまち”といわれている。

と云っても、今回、初めて知ったというか、家内の友人が岡谷を訪ねた際に“岡谷は鰻よ”と、鰻を食したと伝え聞いたところからそんな特産を知ったというのが実のところ。

そんなこんなの由来を持った岡谷の鰻を、ここ“観光荘”で食べたわけである。

3・観光荘

店内一階は広座敷の座卓席が八つ。

4・店内

テーブル席が二つとなっている。

5・このテーブル席でいただきました
この席で食べました

そのほかに階下に囲炉裏席を設けた茅葺の部屋もあるとのこと。

6・囲炉裏席を設けた茅葺の部屋
館内の階段(右手)を降りると、茅葺の部屋に続く

さて、当日のオーダーであるが、わたしは“うな重”を頼んだ。


何ごとも最初はオーソドックスにとの我がモットーに則ってのことである。そしてせっかく食べるのだから思いっきりにと三切れの蒲焼がのる“松”を奮発。

7・うな重
うな重です、三切れのっています・・・

蓋をあけてその肉厚、重なり合うボリューム感にはただただ満足・・・


さらに肝吸いには驚愕。

8・肝吸い

こんな肝が大きい肝吸いってお目にかかったことがないような気がする。これぞ真正肝吸いと悦に入った。


一方、家内はいつもの旺盛な好奇心から“観光荘”オリジナルメニューである“やなまぶし丼”をオーダー。もちろん男女共同参画の時代である。家内も“三切れ”にチャレンジしたことは云うまでもない。なんと三段重ねの丼ぶりで登場である。

9・やなまぶし
三段丼ぶりを分解? やなまぶし丼です

“やなまぶし”は長ネギと山葵(わさび)をまぜて蒲焼に載せ、お好みに合わせタレも垂らして食す。

10・長ネギと山葵をまぜて鰻にのせます
こうして山葵と長ネギをまぜて蒲焼のうえに・・・

わたしも一切れ戴いたが(勿論、うな重の一切れと仲良く交換した)、濃厚なタレで焼いた鰻に山葵のきりっとした辛味と長ネギの臭味が、口中に残る鰻の膏をさわやかに流し落とすようで見事なアイデアであると感心した。

これもこれから病みつきになる予感がした逸品である。怖るべし“やなうなぎ”である。


さらに嬉しいことに、タレは自由にお好みの分だけかけることが出来る。ツユ沢山大好きのわたしにとって、これまたホクホク顔の鰻であった。

11・タレをしっかりかけました
タレをたっぷりと・・・

そして、鰻が出てくるまでの待ち時間に、いま捌いている鰻の骨であろう、タレをつけてカラッと揚げた“骨せんべい”が供された。

12・鰻の骨せんべい

これは酒のツマミに最適なカルシューム満載の品であった。お昼だったのでお酒は呑まずに食べたが、頭も二つついてきたがカリッと抵抗感もなく喉を越す。なかなかのモノと見た。


最後に当店の鰻であるが、すべて活鰻(かつまん)を使用しているとのこと。店頭に置かれた樽に大きな鰻が泳いでいたが、その太さにちょっと驚いた。

13・活鰻(かつまん)

手を突っ込み触ることもできるのだが、これは遠慮することにした。


そして、捌(さば)きは関東風の背開きである。しかし、焼きは備長炭でじっくりと焼く関西風の“地焼き”となっている。

14・秘伝のタレで飴色に焼けた蒲焼
秘伝のタレでこんがり飴色に焼かれた蒲焼

そのため身もしっかりとし皮もパリッとした仕上がりで、舌にとろける関東の蒸し焼きとは異なった食感である。


関東風になれたわれわれにとってこの硬めの食感はある種の戸惑いを覚えるが、当店秘伝の甘味のきいたしっかりしたタレがこの地焼きの鰻にまことによく適っており、あらたな鰻を発見したと家内ともども喜んだ。


そしてこれから蓼科へ来た際にはたまには岡谷まで足を伸ばし、この“観光荘”の地焼きの鰻を食べにいこうと話をしたところである。





料理上手の料理長がもてなす本格手打ちそば処・“旬泉(しゅんせん)”=蓼科グルメ35

茅野市北山字鹿山4026−2  ☎ 0266−60−3817


“旬泉(しゅんせん)”は蓼科東急リゾートのセンター地区にあるCP(コスパ)のよい蕎麦処である。

1・旬泉

店内にはゆったりとテーブルが配置されている。

2・開店直後の店内
お客がいないのではありません。開店と同時に入店してパチリだからです

混んで来てもこれだけスペースがあるので、隣が気にならないのもよい。

3・6時半頃にはこんな感じ
こんな感じでゆったり、ちゃんとお客さんもいっぱいですよ

小さな子供さんがいても大丈夫、大人数でワイワイやっても問題ない、それはそれは庶民的で避暑地のディナーなんて気張る必要のない肩の凝らぬお店である。


そして、ここのウリであるが、ずばり“味”である。そして“人”である。


気さくな料理長の黒田正幸氏の腕一本で、新鮮な蓼科の食材にさらなる磨きがかかる。


毎回訪ねる度に、ちょっと目先を変えたひと皿が供される。そのささやかな驚きが最近、当店を贔屓にしている理由のひとつである。


今回は、甘みの効いた味噌に山椒の辛味を絶妙に合わせた“山椒味噌”。

4・胡瓜と山椒味噌

採りたての胡瓜につけて食べると、これは暑い夏の冷酒のお伴にそりゃぁ合うこと、合うこと。

胡瓜がなくなって皿に残った山椒味噌を箸でこすりあげ舌へのせる。

ぴりっとしたところで、諏訪の地酒、純米吟醸の冷酒“よこぶえ”を口へ放り込む。

5・諏訪の地酒・純米吟醸生酒”よこぶえ”

これだけで、うだるような夏の、といっても蓼科の夜はかなり涼しいのだが、まぁ、そこは筆の勢いで“うだる夏”にはもってこいのアテである。


料理長にこれを瓶詰にして売ったらよいと奨めたが、販売するほどの量が作れないのだという。まことに残念である。今年のこの猛暑、のん兵衛には堪らぬ一品である。

東京で販売すれば、飛ぶように売れるはずなんだがなぁ・・・


こう書くと、ウリは山椒味噌だけみたいで他に旨いものがないように思われるとまずいので紹介するが、旬泉の天婦羅は家内がホクホク顔で口にする、これまた絶品である。

6・春の山菜天婦羅
春に食べた山菜の天婦羅(内容は下の絵を参照)

東京の名のある天婦羅屋でも、こうはいかねぇってな“天婦羅”である。


なにせ、素材が違う。産地直送じゃなくて山地直結であるからして口に抛り込んだときの“香り”と“活き”がまったく違う。

7・エビと野菜の天婦羅
この8月のメニュー・エビと野菜の天婦羅

野菜や山菜が育つ肥沃な土質の栄養分がそのままのり移ったようなふくよかな味わいが口中にひろがるのである。


さらに、当然だが、天婦羅のコロモの揚げ方がほどよく、家内に言わせると本当に上手なのだそうだ。


プロだから当たり前ではあるが、天婦羅の美味しくない蕎麦屋が最近、結構、多くなってきているのも現実だからなぁ・・・


ほかにも、まだまだあるんでございますねぇ・・だし巻きたまごも、イケテますぜ。

8・だし巻きたまご

ワカサギの南蛮漬けも、諏訪湖を控えたこの地ならではで、大振りのワカサギが豪勢に盛られた美味のひと皿。

9・わかさぎの南蛮漬

牛すじの大根煮も必ず、最初にオーダーするアテでありますな。とろけるまで煮込んだスジ肉とそのだし汁がほどよく染み込んだ大根が旨すぎる。彦左の推奨する逸品である。

10・牛すじ大根煮

そして、最後に控えるのが、鴨南蛮、鴨汁、鴨おろし蕎麦である。

11・鴨南蛮のつけ汁
鴨南蛮のつけ汁です、葱の香ばしさと鴨の味が絶妙

ここの鴨はなんでこんなにおいしいのか、いつも、そう思う。

12・鴨おろし蕎麦
今回の新メニュー・鴨おろし蕎麦

鴨肉とつゆの味が香ばしくて、いつも「うまい!」と言葉が口唇から飛び出す。


それから当然のことだが、蓼科の清涼な水でしめた蕎麦は美味しいに決まっている。

13・腰のある蕎麦

次なる絵は山菜の天婦羅を注文しその種類を訊ねた際に”手書きの絵ですが”と、いただいたもの。

14・山菜の説明書き
クリックして拡大して見てください。丁寧で上手な絵ですよ。

女性スタッフの西尾さんの手造りである。彼女のテキパキとお客のオーダーをこなしながらこうした質問にも心のこもった対応がなされる。事前の御もてなしの心映えが何とも見事です。

本格手打ちそば処“旬泉(しゅんせん)”は、サービス精神旺盛な料理長の黒田さんをはじめスタッフの人たちの心温まる応対にほっと心が和む、旨くてコスパも最高な蕎麦屋である。


おいしい、楽しい、“蓼科高原チーズケーキ工房”=蓼科グルメ 34

茅野市米沢127-1・0266-82-8286


「蓼科チーズケーキ工房」は、長野県下伊那郡に本社高森町山吹1646-12をかまえる生菓子・半生菓子メーカーの(株)津具屋(持ち株会社)のショップ(形式上はグループ会社)として平成16年に開店、今年で満10年を迎える。

1・ビーナスライン沿いに看板
ビーナスライン沿いに大きな看板

同様の工房は、小淵沢ICを降りて清里高原方面へ1kmほどいった県道11号線沿いに「八ヶ岳チーズケー工房」(H14開店・北杜市小淵沢町2980)としてショップを出している。

2・八ヶ岳チーズケーキ工房

我が家は当初、中央道のICの降り口(小淵沢)の関係から八ヶ岳チーズケーキ工房で、ここのチーズケーキの美味しい味を知った。


その後、蓼科湖の聖光寺・桜まつりの際に出店が出ており、そこで、このチーズケーキを購入するのが常であった。

3・聖光寺桜まつりに出店の蓼科高原チーズケーキ工房
毎年、GWの聖光寺桜まつりに出店が立つ

その幟が「蓼科チーズケーキ工房」となっており、最初は八ヶ岳の工房よりこのテント張の出店の方を数多く愛用していた。


「蓼科チーズケーキ工房」は当初、工場然とした外観だったのだが、2013年5月にリニューアルされ、ずいぶん、お洒落なお店へと変貌を遂げていた。

4・蓼科高原チーズケーキ工房

まず南側の入口からアクセスすると、天井の高い大きな木造の建屋がある。

5・蓼科高原チーズケーキ工房南側入口

店内へ入るとたくさんのカラフルな商品がきれいにならべられている。それだけで何だかうれしくなるお店である。

6・工房のカラフルな店内
チーズケーキ工房の広い店内

ここにはチーズケーキをはじめおいしそうなケーキが数多くならぶ。

7・生チョコとロールケーキの並ぶショーケース

それ以外にワインやチーズ、ジュース、ジャムなどいろいろと目移りする飲食品がきれいに陳列されている。


一方、そこと別棟にお菓子の家のような可愛らしい造りの店舗がひとつある。

8・この突当りにケーキ屋さん

いわゆるケーキ屋さんといってよい。


脇に“たまごとケーキとりんごの樹”というCAFEも隣接しており、そこでケーキと喫茶が楽しめる場所も用意されている。


ケーキ屋さんに入るとショーケースにたくさんの変わったケーキがならんでいる。

9・ズコットチーズケーキが並ぶショーケース

そして、その奥にガラス張りの部屋がある。

10・ケーキ造りも見られます

ケーキ造りの現場である。白い服を着た職人さんがケーキ造りに勤しんでいる姿を常時見ることが出来る。小さな子供さんにも夢のある楽しい店づくりとなっている。


そんなケーキ屋さんで、われわれはカトリック教会の聖職者が被る半球形頭巾のような形をしている“ズコットチーズケーキ”をもとめた。


息子の嫁の誕生日祝い用のケーキである。シンプルなケーキであったが、“たてしな自由農園・原村店”で購入したイチゴと別途もとめた生クリームを家内がデコレーションし立派な誕生日ケーキとなった。

11・ズコットチーズケーキに苺と生クリームでデコレーション

わたしはと云えば、大きな工房の方で大好きな生チョコケーキを目ざとく見つけていたので、それもおいしくいただいた。

12・私の大好きな生チョコケーキ

とっても美味しいケーキ屋さん、と云うより、とてもおいしくて店内を廻るのもウキウキ楽し過ぎるケーキ工房である。

この8月も二人で立ち寄り、美味しいケーキを購入したが、写真を撮る前に胃袋へ入ってしまったと見えて、いまファイルを探したが見当たらずアップできぬ結果となった。

そしてここのシュークリームがまたとてもおいしいのだが、夕方の立ち寄りだったため、既に売り切れ。次回のお愉しみとなった。いずれ、その写真は掲載することにする。

お土産に良し、また、休憩に喫茶と甘いケーキを食べるのもよし、いくつもの楽しみ方のできる“蓼科高原チーズケーキ工房”である、ぜひ、一度、訪ねられることをお薦めする。



2014年、車山肩 “ころぼっくる”に信州の夏がきた〜!!

7月31日、まだニッコウキスゲも少しは残っているだろうと家内が言う。

0・ニッコウキスゲ

天気も良し。早速、車山肩の“ころぼっくる”へと向かう。

1・ころぼっくる
車山肩にある”ころぼっくる・ひゅって”

昨年は久方ぶりのニッコウキスゲの満開だったが、今年はそこまではないとニュースで聴いていたので、時季もずれていることもあって期待せずにいつもの“ころぼっくる”のココアを楽しみに車山肩へとドライブ。


途中、富士見台に寄って、ニッコウキスゲを気持ち楽しむ。

2・ところどころにニッコウキスゲ
遅咲きのニッコウキスゲが鑑賞できた

やはり、時季も遅れたし、昨年までの花がつかなかったとのことで、まぁ、こんな程度と二人、納得。

3・富士見台のニッコウキスゲ
チラホラとニッコウキスゲ

でも、やはり霧ヶ峰のニッコウキスゲは高原の夏の到来を告げるにふさわしい鮮やかな花である。


今年は6月の佐渡へ渡り、大野亀のトビシマカンゾウの群生も鑑賞できた。ニッコウキスゲとトビシマカンゾウ、一日花という儚くも逞しい美しさに心躍らせた年でもあった。

大野亀のトビシマカンゾウ
日本海に落ち込むようにして咲くトビシマカンゾウ

この日、コロボックルのテラスは夏休みをたのしむ家族でいっぱいであった。

4・コロボックル・テラス
突端左手の指定席もいっぱい

そこで、われわれはまずは腹ごしらえと山小屋のなかのテーブルに陣取る。

5・ころぼっくる小屋の内
寒くなると、ここでココアを飲みます

名物の厚切りトーストとココアをいただく。トーストにわたしはハチミツ、家内はシナモンとお好みのオプションである。

6・ココアと厚切りトースト
トーストは三枚切りくらいでしょうか、なにしろ分厚い

お腹がいっぱいになったころ、ちょうどわたしの指定席があいた。

7・ころぼっくる指定席
この突端が堪らない

早速、そちらへ席を移動する。何ものも遮るもののない目の前に広がる車山湿原。

8・車山湿原

生命力をみなぎらせた青々とした夏草が一面に繁茂する湿原、そして、草原がなんとも心地よい。


このテラスの突端のテーブルに坐って、ゆっくりと草原に目を這わせる。


ゆっくりと瞼を閉じる。


すると、草原からわたって来るそよ風が私の胸へ跳びこんで、肺を浄めては背中へとすっと抜けてゆく。

閉じていた目を開け、上方に視線を投げやる。


そこにはなだらかな喋々深山の稜線が心を和ませてくれる。まるくておだやかなわたしの大好きな稜線である。

9・喋々深山

上空に雲が流れる。当日は雲量が多く、すかっと青空と云う訳にはいかなかったが、この開放感はたまらない。


鶯の啼き声が静謐の高原に響き渡る・・・・・


高原に光が満ちる。雲間から真夏の太陽が顔を出したのだ。

夏空の青が深みを増した。その群青に真っ白な夏雲が映えてきた。

10・ころぼっくるの夏

今年も“ころぼっくる”の夏がやって来たのだ。高原の涼しさを運ぶそよ風を胸いっぱいに吸い込み、大きく背伸びをした。


2014年の信州の夏、まさにいまが旬である。




猛暑の2014年、蓼科の夏はやはり爽快!!

蓼科に今年も盛夏がやってきた。


テラスに立つと、高々と伸びた樹々の葉叢の隙間から夏空が虫喰いのように覗いて見える。

1・涼感

天空に降り注ぐ真夏の光線は緑葉という濾過器を脱けて“涼”という光の粒へと拡散、変身する。


高原の天気は移ろいやすい。八ヶ岳の稜線がくっきり見えるのは大気に早朝の冷気が残る午前中に限る。

2・8月の八ヶ岳

八ヶ岳の頭上に広がる青空、そこに浮かぶ夏雲・・・爽やかである。雄大な八ヶ岳の姿を眺めて、高原の夏を満喫しようとビーナスラインをドライブした。

3・真夏のビーナスライン

ビーナスラインを走る窓外の景色はいつものことながら心安らぐ景観である。窓を開けて眼下に白樺湖を置き去り、車を駆るのも痛快である。頬をたたく高原の風が涼やかである。

4・白樺湖

高原の道をひたすら登ってゆくと、カーブの先に車山の山容が見えてきた。間近に見る姿は堂々としているが、その緑色の装いとも併せ、いとも優しげである。

5・盛夏の車山

そして、ここら辺りからがわたしが一番、大好きなビーナスラインの景観である。

6・ビーナスラインの夏雲

山肌には大きな立木が見えない。そのベルベットのような触感を持ったなだらかな高原の景色がつづくのである。


都会の喧騒に疲れた目に優しい緑の絹衣をまとう真夏の高原・・・


霧ヶ峰を遠望する。遮るものが何一つない天空の景色である。

7・2014年ビーナスライン・霧ヶ峰

この素晴らしい景色を見ると、いつも思う。


自然の造形は美しい。


だが、今の時代、この造形美の陰で必死にそれを守り通そうと努力している多くの人たちがいることを決して忘れてはいけないと・・・


 

 

 

 

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