彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

March 2014

“総本家駿河屋”の“古代伏見羊羹”=旅人の見た京都のお菓子

伏見は京都の南、宇治川の北岸に展開し、江戸時代には水運で栄えた宿場町であった。

伏見の水運 旅籠・寺田屋
伏見の水運              旅籠・寺田屋

近くは坂本龍馬の寺田屋や鳥羽伏見の戦いなど沸騰する幕末の時代を、遠くは安土・桃山の豪華絢爛、自由奔放な時代を、伏見桃山城の眼下に、まさに直に眺めてきた土地である。

伏見稲荷
伏見稲荷

その伏見の地、京阪本線の伏見桃山駅、近鉄京都線・桃山御陵駅から徒歩1分のところに“総本家駿河屋伏見本舗”はある。


京町通りを隔てて対面には、明和元(1764)年、讃岐出身の初代・三郎兵衛が創業した老舗京懐石・“魚三楼(うおさぶろう)”がある。

京懐石老舗・魚三郎

その店先の格子には鳥羽伏見の戦いの際に受けた弾痕がいまも生々しく残されていた。まさに、幕末乱世の劇中に舞い降りたような気分になれる通りでもある。

魚三楼店頭にある説明版 鳥羽伏見の戦いで受けた弾痕
弾痕がそのままの魚三楼の格子

今回は、前にご紹介した亀屋良長の“烏羽玉(うばたま)”や亀末廣の“竹裡(ちくり)”と同じく、戦時下の昭和17年、京菓子作りの伝統を後世に残さんと、時の京都府が砂糖など特別の配給を行ない保護した“和菓子特殊銘柄18品”のひとつ、“古代伏見羊羹”に迫ってみた。

伏見本舗
総本家駿河屋・伏見本舗

総本家駿河屋は寛政二年(1461)、初代岡本善右衛門が船戸庄村(現在の伏見の郊外)に「鶴屋」の屋号で饅頭処の商いを始めたのを嚆矢とする。

店内
店内

天正年間に蒸羊羹を改良し「伏見羊羹」、別名「紅羊羹」を発売。それが、豊臣秀吉の大茶会で諸侯に引き出物として用いられ絶賛された(同社HPによる)。

店内・古代伏見羊羹説明書き
古代伏見羊羹の説明

ただ、どうもこの古代伏見羊羹は従来の蒸羊羹を改良して、澱粉、砂糖に赤色を加えた紅羊羹で、実際のところは今の煉羊羹とは異なるものであったようである。


さらに、駿河屋HPにある“天正17年(1589)の北野の大茶会で供された”ことについては、大茶会開催が天正15年であることから、総本家駿河屋の紅羊羹が引き出物として供され絶賛を博したのは、天正17年5月20日に催された聚楽第で公卿や徳川家康など諸大名に金6千枚、銀2万2千枚の金銀を配った、世に云われるところの“太閤の金配り”の際のことであったと推測される。


能書きはこれぐらいにして、早速に古代伏見羊羹を食べてみよう。購入したのは“夜の梅”と“練羊羹(紅羊羹)”の二棹の課題羊羹である。

古代伏見羊羹 夜の梅・紅羊羹

それと、比較の意味で、現代版の“夜の梅”を一棹購入した。家内に言わせると、何が比較衡量だと申しておりましたが、やはりグルメの達人の道へと少し足を踏み入れた男として、それは、突然、偶然でもなく、必然の行為であると、強く主張したい。

夜の梅・包装

それで、まず、現代版の“夜の梅”をいただく。見た目も肌裡細やかで、切り口に小豆が浮き出て、まるで夜の闇に浮かぶ梅の花のよう。

現代の夜の梅

味も上品な甘さでとてもおいしい。


次に、古代伏見羊羹の練羊羹、いわゆる紅羊羹をいただく。見た目に砂糖が少し吹き出しているのが、何とも郷愁といおうか、懐かしさを感じさせる。

古代伏見羊羹・練り羊羹

味はすっきり素朴で、甘みがしつこくなく、本当においしい。これぞ、“羊羹”である。昨今の甘みのきつい羊羹は、量があまりいけないが、これだと思う存分に羊羹の世界を堪能できる・・・


次に古代伏見羊羹の“夜の梅”にいく。

これはまた、見かけも漆黒の闇から咲き乱れた梅の花が浮かび上がってきたようで、なかなかの趣きである。

古代羊羹・梅花が浮き出ています

おいしい・・・おいしい・・・おいひ〜い!!

古代紅羊羹・肌裡は細やかです 古代羊羹・しっとりしています

これが羊羹!! これぞ羊羹!!と、はしたなくも雄叫びを上げたものでした。


以上が“古代伏見羊羹を食す”のレポートであるが、この紅羊羹を製造販売する法人・(株)駿河屋の現況についても、残念ながら少し触れておかねばならぬ。

総本家駿河屋看板

駿河屋(本社・和歌山市)は本年1月17日に和歌山地裁に民事再生法の適用を申請、保全命令を受けている。


ただ、同法の適用が受諾されたことから、これまで通り営業を続けながら同社の再生が図られてゆくわけで、古代伏見羊羹は今までと同じようにわれわれは口にすることが出来る。


古代伏見羊羹札

“古代伏見羊羹”の熱烈なファンが少なくとも、一人、ここに厳然といることを同社経営陣は肝に銘じて速やかなる再建を果たさんことを強く願うものである。


そしてこの懐かしい味をわたしの舌の上に運んでくれる“紅羊羹”を、これからも大切に心を籠めて作り続けて頂きたいと望む。


そのためにも全国羊羹愛好会の一員であると自負して止まない方々は、総本家駿河屋に伺うもよし、ネットで購入するもよし(電話で頼めば、古代伏見羊羹も送ってもらえます)、彦左衛門のためにも、古代伏見羊羹を食べてくださ〜い!!



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「防空法」と朝ドラ「ごちそうさん」とNスペ「東京が戦場になった日」

防空法カバー

朝ドラ・「ごちそうさん」も、残り一週間。


め以子の夫・悠太郎が軍属として満州送りになってから、終戦後もその消息は明らかでない。


「あまちゃん」以来、熱狂的朝ドラファンとなったわたしも、あと、一週間でどういう結末になるのか気が気でない。今週はあの初々しくてかわいらしい活男君の戦死がはっきりして、肩を落としたばかりである。


そのヤキモキさせている悠太郎であるが、「ごちそうさん」の2月・第4週の放送回で当局により逮捕された。そして、知人を通じての陸軍将帥の口利きで何とか罪一等を減じられ、軍属の建築士として満州へと送還されている。


逮捕理由は、軍部・行政当局の人間も参列する防火訓練において、「焼夷弾による火災は消火するのではなく」、「火を消さずに逃げなさい」と、指示したというもの。


その時、そんなことくらいで“なぜ、満州送り?”と、疑問を持ったのである。それも罪一等を減じられてということは、減じられなければ、いったいどういった罰になったのか。


そこで調べ始めて、「防空法」という戦時下の法律の存在を知った。早速、法律文化社出版の『検証 防空法 ---空襲下で禁じられた避難』(水島朝穂・大前治共著)を求め、熟読した。


その最中に69年前に東京大空襲があった3月10日を迎え、それに因んだNHKスペシャル特集ドラマ・「東京が戦場になった日」(3月15日放映)も見た。


昭和18年8月に導入された『年少消防官』と昭和20年年2月に都内の大学・旧制高校で編成された『学徒消防隊』に就役した二人の主人公やその仲間たちが、3月10日の東京大空襲の下で生死を分けるなどその苛烈な人生を描いた物語である。


ほぼ時期を同じくして「東京が戦場になった日」、「ごちそうさん」という戦時下の空襲、その防空についてのドラマを目にし、そして、手に取った『防空法』という一冊の書籍。


昭和17年4月18日、いわゆるドーリットル空襲が初めての本土空襲である。考えてみれば、真珠湾開戦の歓喜からわずかに4か月後に東京・名古屋・四日市・神戸などの主要都市が空襲を受け、死者約90人という甚大な被害を被っている。


その翌日の朝日新聞・一面トップには、『我が猛撃に敵機逃亡』、『軍防空部隊の士気旺盛』といった見出しが躍っていたという。


それから2年2ヶ月後の昭和19年6月16日の北九州空襲に始まり、10月10日沖縄空襲、11月24日の東京の中島飛行機工場(武蔵野市)の空襲と、本土空襲が本格化してゆく。


そして、昭和20年3月10日の東京、12日の名古屋、13日の大阪と無差別大空襲につながってゆくのである。


そうした本土空襲に建前として備えるために整備されたのが『防空法』なのだが、その実態、目的とするところは、予想される本土空襲により国民が狼狽し、厭戦気分、反戦思想に陥り、戦争継続意思の破たんを招来することを避けるものであったというのだ。


だから、防空法の条項をよく読めばすぐわかるが、国民の生命財産を守る条項などひとつもなく、逆に隣組という周人監視の仕組みを設け、空襲による劫火のなかに国民を縛り、命を国家に奉げさせるマインドコントロールを徹底してゆく道具だったのである。


防空法は昭和12年4月5日に公布、10月1日から施行されたが、時局の緊迫度が高まってゆく昭和16年、次いで18年にその立法目的を完遂するための改正がなされた。


16年の改正においては、それまでの防火訓練、灯火管制といった協力義務から、都市からの‖犁邏愡漾複絃鬟裡魁法↓空襲時の応急消火義務(8条ノ5)が追加規定された。


『防空法』には「主務大臣は・・・退去を禁止または制限することを得」とあるが、以下の通り、法理論によれば下位法による勅令、通牒によって実質的には都市からの退去を禁止したという、きわめて巧妙・狡猾というより、法治国家ではあり得ぬ立法手順を踏んでいる。


その結果、国民は都市からの自由な退避、避難、疎開の道が閉ざされた。無断で避難した場合は、「町会台帳から名前が削除され、配給物資が停止される」とされたため、空襲を避けて逃げたとしても、糧道を絶たれ餓死の道を辿るしかなかったということである。


今ではにわかに信じ難いそんな非人道的、無謀な「防空法」が、ほんの70年前にこの日本に存在し、先の大戦で60万人ともいわれる非戦闘員、無辜の庶民の命を奪い去ったのである。


『検証 防空法 ---空襲下で禁じられた避難』を読めば読むほど、繰り返しの情宣活動や隣組という民間監視体制によって、人間はあまりにも無邪気にマインドコントロールされてしまうのである。


恐いと思った。本当に恐いと思った。


そして、「ごちそうさん」の悠太郎の満州送還理由だが、昭和16年の防空法改正に伴い、昭和17年3月に施行された『戦時刑事特例法』の10条1項「戦時に際し公共の防空のための建造物、工作物其の他の設備を損壊し又は其の他の方法を以て公共の防空の妨害を生ぜしめたる者死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処す」に拠ることを学んだのである。


つまり、防火訓練で『防空法』の狙いを根底から覆す「焼夷弾による火災は消火するのではなく」、「火を消さずに逃げなさい」と町の人々へ向かって叫んだ悠太郎の行動は、まさに、『其の他の方法の方法で防空の妨害を生ぜしめた者』に該当し、本来、死刑を言い渡されても仕方のないことであったのである。


たった、それだけの、というよりバケツの水で焼夷弾の消火をすれば、逆にマグネシウム反応により爆発が起きるという科学的論証を語っただけで、死刑が課される。


それが、罪一等を減じられて過酷な満州送還となった顛末であったことが、この書物によって分った。


そして、もっと、さまざまな愚かしいことが、あの狂気の時代に横行したことも、具体的事例によってよく理解できた。


だから、ドラマであっても、そんな時代に負けずに悠太郎には、何としてでも生きて帰って来て欲しいのである。


この機会に、是非、法律文化社出版の『検証 防空法 ---空襲下で禁じられた避難』(水島朝穂・大前治共著)の一読をお薦めする。

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プラムポックスウイルス(PPV)感染、「青梅市梅の公園」の梅林再生を願う

“青梅”という地名は、この地にある古刹・金剛寺に「平将門誓いの梅」と呼ばれる梅樹があるが、その実が秋になっても青々として落ちないということから名づけられたのだといわれている。

梅香山大聖院
金剛寺から分株された梅の植わる”梅香山・大聖院”

その青梅の“吉野梅郷梅まつり”に行ったのが、2年まえの2012年4月2日。その日、あまりに天気が良かったので、急きょドライブもかねて観梅の小旅となったものである。

吉野梅郷提灯
梅まつりの提灯が道路沿いに吊られている
梅の蕾
白梅の蕾
紅梅
紅梅

われわれは生憎、金剛寺に寄ることはなかったが、吉野梅郷に“梅香山・大聖院”という寺院があり、そこに金剛寺から分株された梅の樹の二代目が植わっている。その一代目がここ吉野梅郷の親木だという。

親木の梅
吉野梅郷の元祖の親木

その親木から育った梅の樹の末裔が現在、青梅市の吉野梅郷として、長年、人々の目を愉しませてくれている。

この景色、早く戻ってほしい
吉野梅郷の梅の公園を一望

ところが、2010年、梅の木を弱らせる「プラムポックスウイルス」(PPV)への感染が初めて観察された。アブラムシによって周辺の梅樹が次々にその菌にやられてゆき、死滅してゆくという恐ろしい病気である。


われわれが「青梅市梅の公園」を訪れたのは、その感染が認められて2年後ということになる。

ミツマタ(黄) ミツマタ
ミツマタが吉野郷の道沿いに植わっていた

園内ではすでにウイルスにやられた梅も多く、花をつけた梅の木もその半分以上の枝が白っぽい枯枝になっていたのが痛々しくて印象的だった。

PPVで枯枝になった紅梅
プラムポックスウイルス(PPV)に侵された紅梅

そのため、ブログへのアップをちょっと控えようと思ったことをこの伐採のニュースで思い出したのである。


そこで、記録も兼ね青梅の梅園をわれわれの記憶にとどめる意味も籠めてここに、写真を掲載する。

梅林山・天澤院、天満宮より吉野梅郷を望む
梅林山・天澤院、天満宮より吉野梅郷を一望

PPVの「感染拡大阻止」と「早期根絶」には梅の木の全伐採が必要であり、「青梅市梅の里再生計画」によれば、新しい青梅の梅を鑑賞できるまでには8年の月日を要するという。

梅の公園の紅白梅に松
梅の公園の紅白梅と松

平成33年度が再生計画の終了年度ということで、われわれの目に触れるのはその翌年の平成34年(2022年)。

青空に梅
この光景が帰ってくることを願う

この齢になると、この8年がものすごく長く感じられるが、その日まで何とか健康を維持し、家内共々、青梅の観梅を愉しみに行きたいものと願っている。



ペテン師・佐村河内守(さむらごうち・まもる)を作り上げたメディア・音楽界・出版界という似非クリエーター

3月7日午前11時から、「全聾(ぜんろう)の作曲家」・「現代のベートーヴェン」として一部の人に知られていた佐村河内守(さむらごうち・まもる)が、東京都内のホテルで記者会見を開いた。大学講師・新垣隆(にいがき・たかし)氏による「ゴーストライターをしていた」とする暴露会見(2月6日)を受けてその反応に関心が寄せられていたが、ようやく公衆の前にその姿を現した。


会見のなかで記者たちの多くの関心が、彼が本来、全聾であったのか否か、いまも手話通訳者を介さないと会話はできないのかといった些末な問題に絞られているようで、今更ながらメディアの質の度し難い低さに呆れた。白黒決着をつけるつもりなら、事前に世間が納得できる程度の耳鼻咽喉科の専門医師にヒアリングしておくのが、こうした場合の取材のイロハであろう。

即ち、全聾(聴覚障害2級)の認定を受けたケースで、障害認定もされぬ水準までに聴覚機能が劇的に回復する症例があるのか、あったとしたらどういったケースかその具体的事例を調査、検証しておくべきである。
そのうえで、会見でその専門的見解をもとに佐村河内のひとつの嘘をまず暴いて見せたらよかったのだ。

今まで佐村河内に関係してきた周囲の人々を丁寧に取材しておくべきであった。大半の記者は週刊誌の記事や人づての話を主材料として質問をしていたのではなかろうか。だから、映像を観て視聴者の誰もが“耳は聴こえてるよ、この人”と思っている、そのペテン師にいいようにノラリクラリと言い逃れをさせてしまったのだ。

具体的に、「あなたが耳が聞こえていたと判断すべき事例がコレコレあるよ」と、詰問していくべきであった。取材で一つ一つ積み上げた小さな事実こそが、こうしたペテン師の悪行を暴く最良の材料、武器となるはずなのに・・・。

そうすれば、“耳は聞こえているのに、まだ、白を切りとおすつもりかとはっきり言ったうえで、人として決して許されぬ悪行を為した佐村河内の”本来の罪“をストレートに糾弾できたはずである。

そして、障害認定の水準のない聴覚機能を有しながら、もっとはっきり言えば、耳が聞こえるのにも拘わらず、手話通訳者を配し、相変わらず障害者を装い会見を続ける不快極まる光景は、そのこと自体が障害者等社会的弱者を心底、愚弄し、さらに言いようもない悲しさ、悔しさを与えたものであったことをメディア自身がもっと自戒すべきである。


今回の事件は、他人に曲を作らせ、それを隠したまま、自分の曲と長年、世を欺いてきたものだが、全聾という障害者を装うことでその商品価値を高め、社会的名誉とCD販売増、書籍販売という直接、間接的な果実を手にしてきた、その“あざとい”やり口が許せぬのである。


津波で母を亡くした石巻市の少女のためにつくった、いやゴーストライターに密かに作らせた「ピアノのためのレクイエム」。

その“お涙頂戴”のシナリオ作成、条件を満たす“少女探し”に手を貸したと云われるNHKスペシャルの番組スタッフたち。

これはもう、佐村河内ひとりの罪ではない。メディアと共謀した“騙(だま)し”、“ペテン”、“イカサマ”である。

それも公共放送が片棒、いや両棒を担いだこれほどあくどいやり方はなかろうというものだ。それも全聾という障害者を装い、その欺瞞に満ちた“苦悩の姿”をカメラで追ったNHKのおどろおどろしい映像。

その映像は、事件後にカットで初めて見たが、よくぞここまで臭い演技ができたもの、NHKがこの臭さを恥も衒いもなく編集・放映したクリエーターとしての文化レベルの低さ、いや知的水準の低さには辟易(へきえき)した。

わたしは、この事件が起きるまで、幸か不幸か、2008年のTBS・「筑紫哲也 NEWS23」(TBS)を皮切りに、天下のNHKの「情報LIVE ただイマ!」、「あさイチ」、そして、「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」とまで宣(のたま)わったNHKスペシャルも観たこともなかったし、佐村河内というペテン師の名前を耳にしたことがなかった。

事件後にニュースでたびたび語られる“佐村河内”という珍しい名前が耳にひっかかり、ここまで引っ張られてきたというのが本当のところである。

社会的弱者、障害者を装い、他人の才能を自己の才能として世を欺き、その具現者として臭い演技を続け、己の名誉欲を満たそうとしてきた“最低卑劣”な男、佐村河内。この男の罪は重い。

しかし、この卑劣漢を世に広く?知らしめ、それを阿漕(あこぎ)にも商売に積極的に利用したテレビ界、音楽界、出版界といったクリエーターたちの世界こそ、その責任は重く追及されるべきである。

その結果、直接、間接に多くの障害者たちは決して小さくない傷を負い、非常にみじめな気持ちにさせられた。

“障害”を“商品”の付加価値を高める“道具”として利用されたことに、それも“差別のない社会に”と、常に声高に叫んでいるメディア界が率先して、“作品”そのもよりも“障害者”によって創られた“作品”であることを前面に打ち出し、その情宣に努めたことに憤りを覚えるのである。

“障害”が“商品”の付加価値を高める効果があるとの発想そのものが、実は、“障害”を特別な存在であると心裡的に区別・差別した行為そのものなのである。

その区別、思いやったふりをしながら“差別”する、その偽善、偽君子面が許せぬのである。少々、怒りで筆が滑りそうになり危険であるが、軽度の身体障害を持つわたしはそう感じるのである。日常的に目にする偽君子面のメディアには、もう辟易(へきえき)である。

そして、佐村河内およびそれを責めるメディアも同様に、社会にきわめて不快な気分を蔓延させた罪は大きい。やはり、“ごめんなさい”ではすませるべきでない。

佐村河内に詐欺罪の適用は難しいとの指摘が多いが、同人を素材としてCDを制作・販売した音楽会社や書籍発刊をおこなった出版会社などは、その返品、キャンセルによる損害が発生しているケースがあるはずである。

損害を被った企業、団体、個人は、“障害”を利用した商売ではなかった、もっとはっきり言うと、そもそも耳が聞こえていたことを知らなかったのであれば、まずは、民事で堂々と損害賠償の請求訴訟を起こして然るべきである。

それをしないというのは、彼らも今回の社会的弱者に対する世の同情を当て込んだ阿漕(あこぎ)なイカサマを共謀・実行したものとして逆に、今度は厳しく社会から糾弾されるべきである。

そして、最後にひと言。

佐村河内(実は新垣氏)の楽曲に対する世に高名な音楽家、作家として知られる先生方の大仰な絶賛コメントである。

「佐村河内守さんの交響曲第一番『HIROSHIMA』は、戦後の最高の鎮魂曲であり、未来への予感をはらんだ交響曲である。これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ」
「言ってみれば1音符たりとも無駄な音は無い」
「これは相当に命を削って生み出された音楽」
「本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽」
もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か?耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか・・・。もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが・・・、私の答は決まっている。佐村河内守の交響曲第1番である

等々・・・


世の“専門家”と呼ばれる人たちの芸術作品を評価する尺度に、作品そのものの価値とは異なる心理的脚色が加わると、こんな評価がなされるのだろうかと感心しきりである。

これはもちろん罪などではなく、人の意見、評論に頼ることなく、己自身の真偽眼さらには審美眼を養ううえでの貴重な事例、他山の石として肝に銘ずべき、後世に伝えられるべき褒賞ものの功績であるといえる。

初孫の初節句、2014年ひな祭りを祝う

今日は楽しいひな祭りである。

2014年ひな祭り

昨年末に生まれた初孫(女の子)の初節句を一日早い昨日、お祝いをした。弟一家も集まって、総勢9名の大人数でのお祝いであった。


お内裏様とお雛様

昨年までは、お雛様を飾っても、娘はほとんど無関心。夜の食事の時に、“わ〜ご馳走”と声を上げてくれるだけ。何とも甲斐のないひな祭りであった。


ところが、今年は初孫の初節句ということもあり、家内も力が入り、ちょちょっとちらし寿司の素を使ってなんて、手抜きはせずに本当の?手作りのちらし寿司を朝から準備。

定番のちらし寿司です
大好きな桜でんぶのかかった”ちらし寿司”

そして、小さいながらも尾頭付きの鯛の塩焼きに、これは大きな蛤のお吸い物。

初節句のごちそうです ちらし寿司と蛤のお吸い物

 みんなテーブルについて、おめでとうと声をそろえて、料理に舌鼓を打つ。


ふっと気づくと、座卓の横に寝せられた孫は、不思議そうにこの大賑わいの光景を畳表の視線で眺めていた。


“そうだったね。君のためのお祝いだったね”と、みんなに注意喚起しても、“そう言えば、本人、まだ、分からないもんね・・・”と一応の相槌を打つものの、テーブルのお皿に箸を伸ばすことのほうに余念がない。


そして、“お腹いっぱいだけど、ケーキのためにお腹を空けときゃなか”と、もう、デザートに食欲脳は全開である。


形だけの、これはケーキ屋さんで求めた小さなデコレーションケーキを食べる。

ひな祭りのケーキ

 そして、タイミングよく長崎の叔母より初節句のお祝いにと長崎名物の“桃カステラ”が贈られてきた。


長崎は中国と縁が深い街である。

岩永梅寿軒・桃カステラ


中国で桃は“長寿の実”、“難除けの実”として縁起の良いものとされているが、『桃の節句』に因み、長崎らしく南蛮渡来のカステラの上に桃の意匠を凝らした砂糖をコーティングした“桃カステラ”という祝い菓子を初節句のお返しに贈るのが、いつの頃からかの風習となっているのだそうだ。


これはさすがにもうみんなお腹いっぱいで、お持ち帰りで各自、自宅でいただくこととなった。


下の写真は本日、3月3日に家内と二人でいただく際に、撮った写真である。

カステラの上に桃の意匠の砂糖のコーティング 桃の節句の意匠

そして、もうひとつ、下の写真は4年前に贈っていただいた桃カステラと桃饅頭である。饅頭もあるのである。

2010年桃饅頭 2010年桃カステラ
左:桃まんじゅう              右:桃カステラ

こうした風習がいつ頃から長崎に根付いたのか不明であるが、まぁ、何とも風流ではある。そして、これって、お祝いをいただいた当方が、本来、叔母に贈らねばならぬものなのだが、まぁ、そこは、親戚の誼(よしみ)で勘弁願うとしよう。

おいしかったねぇ・・・

でも、あの初孫の“なに、あなたたち浮かれてるの”ってな無垢な眼差しは、いやぁ、なかなか大人の無節操さを、それも純な心で問いかけているようで、思い出すと、少々、赤面の至りではある。


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