彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

November 2013

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=王墓山古墳

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

王墓山古墳説明版 王墓山古墳案内板
王墓山古墳の説明版と案内板

王墓山古墳は王家の谷・有岡古墳群のほぼ中央に位置する全長46mの前方後円墳である。

王墓山古墳全景
王墓山古墳全景

この有岡古墳群を含む善通寺から北東部に広がる“弥生末期讃岐国の中心集落・旧練兵場遺跡”は45万岼幣紊肪し、佐賀県の吉野ケ里遺跡にも匹敵する規模であることが分かっている。

吉野ケ里遺跡
吉野ケ里遺跡(2004年撮影)

大和王朝の全国統一前に、この四国の地にも大きな古代の“クニ”が存在していたのである。

前方墳と我拝師山
前方墳と我拝師山
後円墳と香色山と五重塔
後円墳と香色山と五重塔

その古代国家の王家の谷の中心に位置するのが、この王墓山古墳なのである。

王墓山古墳と青空
後円墳を見上げる・横穴式石室の入口が見える

6世紀中頃に築造された横穴式石室内に石屋形を設置する特異な埋葬方式をとっており、その方式の古墳を多く残す九州・肥後地方との関係が強く類推されている。

羨道と玄室
狭い羨道と奥に石屋形を有する玄室が見える

この古墳の被葬者であるが、副葬品のなかに朝鮮半島製の金銅製冠帽や装身具、鉄地金銅張りの馬具がたくさん見られたこと、また、鉄製品や須恵器類など桁違いの数を誇ることなどから、この地で巨大な権力を振るい、瀬戸内海を通じ朝鮮半島や九州など他の先進地域とも活発に交流をはかる大きな文化圏の中心に坐っていた人物であったことが十分に想像される。(石屋形を有する横穴式石室は、6世紀前期頃から肥後地方の菊池川流域と白川流域に集中して設けられ両地域内に40例以上が分布している)

後円墳から前方墳を  前方墳下から後円墳を見上げる
前方墳から後円墳を見る
後円墳
後円墳
円墳から前方墳を見る
円墳頂上から前方墳を見る

その候補としては、やはり善通寺を氏寺として栄えてきた古代豪族、佐伯氏の首長を挙げるのが最も妥当であろう。

善通寺・五重塔
善通寺五重塔

そして、この王墓山古墳の主の何代かのち、およそ200年後に、佐伯氏の御曹司として生まれたのが、佐伯真魚、のちの空海である。

善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺済世橋より南に大麻山を見る。右の山裾は香色山
済世橋より香色山・筆の山を見る
済世橋より西に香色山と筆の山を見る

この国の創世記の宗教、思想の成熟に決定的な影響を及ぼした巨人が、卑弥呼の時代にすでに讃岐で栄えていた古代豪族、王家の出身であったことは、さまざまなことを考え、類推させ、まことにもって興味が尽きないのである。

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

善通寺市内に五岳山と呼ばれる屏風のように聳え立つ山塊がある。西から東へ、火上山・中山・我拝師山(がはいしさん)・筆の山・香色山(こうしきざん)と麓を連ねている。

火上山・中山・我拝師山  左:筆の山 右:香色山
左から火上山・中山・我拝師山 次の右手の尖っているのが筆の山・右端が香色山

その東端の香色山東麓に、「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号する四国霊場第75番札所・善通寺が大きな伽藍を配する。


善通寺
善通寺

弘法大師・空海はこの地の豪族、佐伯善通の子として生まれ、幼名を真魚と称したという。

善通寺の西院は佐伯氏の邸宅があった跡であり、弘法大師生誕の場所として、産湯井堂を再建するなど今でも大切にされている。

産湯井堂 空海が産湯を使った井戸
産湯井堂と中にある産湯の井戸

空海が生まれ育ったこの場所のすぐ西方、香色山・筆の山・我拝師山の連山と、南方の大麻山(おおさやま)に挟まれた弘田川流域、“有岡”と呼ばれる低丘陵部がある。


王家の谷・有岡地区
王家の谷・有岡地区
善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺・済世橋より大麻山を見る。右手の山すそは香色山

この地が1600年ほど前には住居跡などの痕跡が少なく、逆におびただしい数の古墳や祭祀の場所であったことが確認されている。


つまり、古は奥津城(おくつき)の地として聖域視された、いわば日本版“王家の谷”とも呼ばれる聖地であったと考えられるのである(『善通寺史』・総本山善通寺編を参考とした)。


善通寺市内には現在確認されるだけで四百を超える古墳が存在し、就中、この有岡地区には大小の前方後円墳が集中していることで、全国的に有名であるという。

左に樽池を見て、奥に見える大麻山へと向かいます
ここから奥に見える大麻山の頂上近くの野田院古墳を目指す

そのなかで、大麻山山麓の比較的高所に分布する大麻山椀貸塚古墳・大麻山経塚・御忌林(ぎょうきばえ)古墳・大窪経塚古墳・丸山一号、二号墳、そして大麻山北西麓(標高405m)に位置する“野田院古墳”は、古墳時代前期に築かれた古いもので、しかも石だけを積み上げてゆく積石塚古墳というこの時期の築造法としてはわが国ではきわめて珍しいものである。

野田院古墳と大麻山頂上
野田院古墳から大麻山頂上を見る

この三世紀後期から四世紀前半という古墳時代のごく前期に築造された積石塚古墳は、同じ香川県の高松市の岩清尾山古墳群で確認される二百余基の古墳のなかに20基ほど存在している。

二段の積石塚古墳
二段に石が積み上げられている

なお、この希少な積石塚古墳は、古墳時代後期に築造されたものが遠く離れた長野県や山梨県、群馬県に存在するが、その頃には讃岐地方で積石塚古墳はすでに消滅しており、それらとの関係はまだ研究が進んでおらず、不明とのことである。

円墳上部
後円墳の上部・二つの竪穴式石室の仕組みが見える

野田院古墳はその調査で傾斜地に築いた基礎部を特殊な構造で組み上げることで、変形や崩落を防ぐというきわめて高度な土木技術によって作られていたことが判った。

展望台より野田院古墳
展望台より見る

この特殊な古墳築造形式やその技術の起源だが、現在、まだはっきりとした定説はない。

前方墳より後円墳を見る
前方の方墳から積石塚円墳を見る

しかし、この形式の墳墓は高句麗や中央アジアの遊牧民の埋葬様式として数多く見られるという。また、慶尚南道にも積石塚古墳が見られるという。

方墳
前方墳です、手前に一部、積石塚円墳です

その積石塚古墳の形も、高句麗など北方は方墳、慶尚南道の朝鮮半島の南部は円墳が多いということであるが、当地の円墳という墳形を朝鮮半島南部と直接的に関連付けるのは、まだ早計との判断のようである。

野田院古墳
山腹を削った平坦地に野田院古墳がある

さて、野田院古墳であるが、大麻山中腹のテラス状平坦地で、王家の谷である有岡地区はもちろん善通寺から丸亀平野を一望に見渡し、瀬戸内の海、さらには備前地方まで見通せる特別な場所に位置している。

王家の谷を見下ろす野田院古墳
晴れ渡った日には瀬戸内海を越え、遠く備前の地が見える

しかも築造年代が三世紀後半、卑弥呼の時代(248年前後に死亡)の50年ほど後の古墳時代のごくごく初期となれば、その埋葬主も王家の始祖にも等しき重要な人物と考えてもよいのではなかろうか。


その王家というのが、前述した弘法大師、空海の出自である佐伯氏という豪族である。

五岳山・左より火上山、中山、我拝師山
野田院古墳から王家の谷を見下ろす

王家の谷を見下ろし、すぐ先に瀬戸内海を一望する特別の地に眠る王が、のちの国家鎮護の密教・真言宗の始祖、空海の祖先であるということは、大和王朝の成り立ちや天皇家との血筋の関係においても、色々と興味深いものがあると考えたところである。


如何せん、野田院古墳から見下ろす景色が壮大かつ雄渾であることは、ここの展望台に立ってみないと実感できぬ醍醐味であることは確かである。


2013年11月、比叡山・延暦寺の紅葉は今が見頃

1114日、京都市内の紅葉はまだ早いということで、比叡山・延暦寺をひさしぶりに訪れた。少しでも標高が高い方が京都の紅葉をちょっとでも目にすることができるだろうとの思いである。

見上げると

わたしにとって延暦寺はほぼ40年ぶりであったし、比叡山ドライブウェイを通って入山するのは初めてであった。

そのドライブウェイの途中に“夢見が丘展望台”という大津、琵琶湖を一望できる観光スポットがあった。

そこに“もみじ見頃”の看板が立ち、タクシーの運転手さんも、ここからの紅葉はきれいですよと、車を降りた。

秋の陽光に染まる紅葉・展望台

天候もよく、琵琶湖を見下ろすことができ、それだけでも感激であったが、そのうえに紅葉も素晴らしく、こちらに来てよかったと家内ともども“大正解”と満悦(当初は高雄の神護寺でも行こうかと考えていたが、運転手さんが延暦寺を奨めてくれた)。

展望台より琵琶湖を望む
紅葉の向こうに琵琶湖が見える夢見が丘展望台

琵琶湖から山側に目を転じると、そこにも紅葉はあざやかにわれわれの目を射る。青空とのコントラストが素晴らしい。

延暦寺有料道路展望台の紅葉はきれい

それに比べて、延暦寺の紅葉はもう少しであった。

紅葉がはじまる

たぶん、本日(11/21)あたりがちょうど見頃になっているのではなかろうか。

延暦寺大講堂
大講堂

大講堂前の紅葉もようやく始まった感じだろうか。うわぁ〜ってなとこまではいきませんでした。

大講堂前に紅葉
大講堂前

大黒堂の一部、色づいていたので、パチリ。

大国堂にも紅葉がちらほら
大黒堂

根本中堂の紅葉もどうでしょうか、今夏の猛暑の影響もあるのでしょうか、ちょっと赤の色合いが今一つの感です。

根本中堂に紅葉
根本中堂の紅葉

ただ、根本中堂の威容、堂内で感じた敬虔な信仰心の凄味、不滅の灯明に見た伝統を継承する人間の強さを肌身で感得したことは、得難い経験であった。

文殊楼から根本中堂を
文殊楼から根本中堂を見る

そして、実際の根本中堂が学生時代に訪れたときの記憶にあったものとは大きく異なり、あの記憶はいったいどこの建造物だったのか、再度、ゆっくりと東塔、西塔、横川地区を散策する必要があると、感じた次第である。


そんなことを思いながら、歩いていたところ傾いた太陽が樹間を抜けて光の紐をわたしに届けてくれた、その情景はやはり信仰の山にふさわしい神々しいものであった。

聖地の紅葉

そういうことで、今回は展望台、東塔の紅葉をまずはお愉しみいただけたらとアップしました。お時間出来たら、ぜひ、比叡山へ足を向けられたらいかがでしょうか。

泊ってみたい宿=江戸の風情を残す宇和町・卯之町の“松屋旅館”

愛媛県西予市宇和町卯之町3丁目215番地

TEL0894-62-0013


松屋旅館は江戸時代の街並みが残る卯之町(うのまち)の“中町通り”に面してある。

松屋旅館
松屋旅館

その主な建物は今を去ること二百余年前の文化元年(1804)に建築されている。


旅館正門に掲げられる“松屋旅館”と書かれた扁額も右横書きで、前を通る往還の情景をこの旅館が眺めてきた歴史の長さを感じさせる。

松屋旅館正門


ここ卯之町は、江戸時代、宇和島藩唯一の宿場町として、また、四国霊場四十三番札所・明石(めいせき)寺の参道入口の地として賑わいを誇ったという。


宇和島城 四十三番札所・明石寺
左:宇和島城              右:明石寺

格子戸、梲(うだつ)、半蔀(はじとみ)、出格子など古い景観を残すその街並みは200912月に重要伝統的建造物群保存(重伝建)地区に指定されている。


古い街並みの残る中町通り
江戸の面影を残す中町通り


こうした伝統的情緒を残す一方で、この卯之町が幕末・維新の頃、文化的にも高い水準にあったことが、この地に足跡を残した文化人たちの顔ぶれを見ても明らかである。


明治15年に建てられた四国最古の小学校・開明学校    大正年間に建てられた教会
四国最古の小学校・開明学校(明治15年創立)  開明学校より大正時代造の教会を見る  

シーボルトの門弟・二宮敬作(蘭学者・医学者)がシーボルト事件(1828年)に連座し、投獄後、故郷の八幡浜に近い卯之町に戻り、開業、シーボルトから請われその娘・楠本イネを日本初の女医(産婦人科)として養育・教育したのも当地である。

二宮敬作住居の地
二宮敬作の住居跡・現在、個人のお宅が建っています

また、脱獄逃亡中のシーボルトの高弟・高野長英が鳴滝塾時代の学友である二宮敬作を頼り、同人住居の裏手に潜居していた住居が細い路地裏にひっそりと残されている。

細い路地にあった高野長英の隠れ家  高野長英の隠れ家
長英の隠れ家は細い路地、二宮敬作邸の裏手にあります

斯様に、この小さな古い街並みは、幕末激動の時代の息遣いが今でもかすかに聴こえてくる、そんな錯覚を感じさせる落ち着きをもった静かな町なのである。

そのような地で、長年、旅籠を営んできた松屋旅館の宿泊者のなかにも、後藤新平、犬飼毅、浜口雄幸、若槻礼次郎、尾崎行雄などの政治家や前島密、新渡戸稲造など歴史に名をとどめた人物の名前を多数認めることが出来る。

文化元年(1804)建築の松屋旅館
幕末・維新を飾る人物が宿泊した松屋旅館

その由緒ある文化財特別室に泊まってみたいと思ったのが、今回、卯之町を訪ねた動機であった。

洋椅子がなぜか似合います
8畳の和室・なぜか洋椅子の似合う空間

当日、若女将の大氣真紀さんに案内された部屋は三つある特別室のうち“けやき”という客室であった。

8畳の居間です
8畳の和室

一階に洋間と8畳の和室、二階が寝所となっていた。一人旅のわたしにはとても贅沢な空間である。

お部屋入口から
手前がエントランス、次に洋間、その奥に8畳の和室


洋間手前に4畳ほどのエントランスにあたる板の間があるが、そこに足を踏み入れた瞬間、壁面に掲げられた額縁に目が留まった。その字体といい、時をじっくり浸潤させたかのような飴色の色調といい、飾らぬ装丁といい、自然流の時の流れを感じさせる味のある書である。

お部屋の到る所に書があります


そして次の洋間、奥の8畳和室、二階の寝所と、各部屋に謂れのありそうな書が飾られている。

書の額がいっぱいです  面白い書も


2007年には傷みがひどくなった特別室の改装、修復を行なったということで、部屋の佇まいも往時とは幾分、趣きを異にしているのだろう。洋間風の間などを設けたのも時代の流れのひとつと理解するしかない。


ただ、和風の洗面所両脇にある男女トイレも最新式のウォシュレットなどを設置し、清潔感にあふれ、現代の旅人にとってはやはりありがたいと言わざるを得ない。

ウォシュレットのトイレ

さて、特別室の外の大浴場、といっても当日は私一人の貸し切りであったが、ひと風呂浴びて部屋へ戻ると、洋間のテーブルに一人きりの晩餐のお皿が待っていた。


名物料理の用意された洋間

今朝、魚市場に揚がったという新鮮な伊勢海老、天然鯛、太刀魚の刺身の盛合せが真っ先に目に飛び込んできた。

まぁ、何とも豪快ともいえる膳である。

伊勢海老など新鮮なお刺身盛合せ

こんなにたくさんの料理・・・、食べられるだろうか・・・と、やや尻込みをしていたわたしに、若女将が気持ちをほぐしてくれるかのように、“まず、お酒の方はいかがいたしましょうか”と言うではないか。

一人前のご膳です


“ぬる燗のお勧めは?”と、訊ねると、
“うちの前の造り酒屋の開明はおいしいですよ”というので、それを頼む。
熟成純米酒・開明である。

地酒・開明


若女将のお酌と話し相手で、お酒も食事も退屈することなくスイスイと順調過ぎるほどにすすむ。


八寸


当夜のご酒・“開明”を造る造り酒屋・ “元見屋酒店”の創業は幕末の安政5年(1859)である。

ここも寛政年間(1789-1801)に建てられた前蔵も残る古い建物であるが、老朽化がすすみ、2009年に白壁は応急修理を施したものの、予算の都合上、瓦葺はスレート葺きへと変えられてしまったという。

寛政年間に建った前蔵が残る元見屋酒店
中町通りに面する元見屋酒店

伝統的建造物は日本人全員で後世に伝えてゆくべきもの。その維持・補修など保存については、その住人の大きな負担とならぬ程度の公的扶助が必要だと感じたところである。


さて、さて、食事もぬる燗で天然の鯛の刺身を・・・

最高でした。そして、わたしは初めてだったのだが、“煎り酒”という江戸時代には食卓に欠かせぬ調味料であったという醤油もどきにつけて食べました。

右が煎り酒
右が煎り酒です


松屋の煎り酒は吟醸酒に梅干しを入れ、そこに鰹節などちょっと加えてコトコト煮詰めて作るのだそうです。

これが白身魚の刺身によく合うのである。当夜はほとんどお醤油をつけずに煎り酒を使用したほどに、素材の味にやさしく、その味を引き立てる控えめというか献身的な調味料であると実感した。

そして若女将が奨めてくれた鯛の皮。

鯛の皮で一品


こうして食するとコリコリ感もあり、一種の珍味のような贅沢品に変身。

人気のNHK朝ドラ・“ごちそうさん”の始末の料理の一端を経験させていただいた。

まぁ、変わった食べ方があるものだと感じたのが、太刀魚のねじり焼き。
それと紅葵のゼリー。これもさっぱりとしたヘルシーなもの。

太刀魚の捻じり
左がねじり焼き・右の紅葉が紅葵


これも太刀魚が大振りでないとできない料理法であると、豊かな南予の海に感謝した次第である。


あと、宇和島牛・・・


宇和島牛の鍋

鱧の湯引き・・・・


鱧の湯引き

・・・と、松屋旅館の大女将が漬ける松屋名物の漬物。

松屋名物の漬物
200年の糠床でつけた松屋名物の漬物


若女将が終始、そばに居ていただけて、卯之町の歴史やわたしの他愛ない話し相手になっていただき、食事もお酒も本当においしくいただけました。

鱧の汁椀
鱧のお椀もあたたかくおいしかったです

真紀さん、本当にごちそうさまでした。


二階寝所から一階の居間への階段
修復された階段には手すりもあります

それから二階の寝所へ向かい、二百余年の月日の流れを眺め続けてきた大きな梁の下に敷かれたあったかいお布団に入り、心地よい眠りへと落ちていった“松屋旅館”の一夜でありました。

大きな梁のある二階の寝所


落ち着いた古い町並みにとけ込むようにしてたたずむ“松屋旅館”。


玄関への石畳
玄関への石畳

そしてその伝統を控えめに素朴に守っておられる若女将をはじめ松屋旅館の方々。


しっとりと来し方に思いを馳せてみたい方など、ぜひ、訪れられたらいかがでしょうか。

なんだか自分がすこしやさしい人間に変わったように思える、そんな素敵な旅館でした。

上高地・穂高神社奥宮の古式ゆかしい御船神事を参観する

(当ブログ・「彦左の正眼」内の一切の写真・記事等の転用を禁じます)

パワースポット・霊峰明神岳の下、明神池湖畔に鎮まる“穂高神社・奥宮”(2013.11.2)

穂高神社・奥宮の例祭で、毎年108日に催される“御船神事”を参観してみたいものとかねてより思っていたが、今年、ようやくその願いがかなった。

10月8日朝、神事の準備の進む奥宮
10月8日朝、御船神事の準備が進む奥宮
御饌の準備をする神官 御饌の岩魚
御饌(みけ)の岩魚を用意する神官

安曇野市穂高に鎮座する穂高神社本宮では、例年、92627日、例大祭として御船祭りと呼ばれる御船神事が執り行われる。

穂高神社・拝殿
穂高神社・本宮拝殿

海洋と遠く離れた急峻な山脈に囲まれた信濃という地で何故に船祭りかとまことに不思議ではあるが、その謎はいずれ謎解きに汗をかくとして、ここでは御船祭りについて簡単に説明しておく。


長峰山から安曇野を一望
長峰山から安曇野を一望

御船祭りの起源は定かでない。

北九州を本拠とする海人(あま)族の安曇族は6世紀頃にはこの安曇野へ進出したという。

海神である綿津見命(わたつみのみこと)とその子・穂高見命(ほたかみのみこと)をこの地に祀り、そして、海民としてのもだしがたいDNAかそれとも白村江の海戦を指揮した海人族の矜持なのか、船合戦の模様を後世に伝承すべく祭りという形で様式化したのか、いまにしてはもうその真相を推し量る術はないが、千数百年前へ遠く思いを馳せる壮大なロマンを感じさせる神事である。

穂高神社・御船会館
穂高神社本宮・御船会館

そんな本宮の御船祭りの10日ほど後に、奥宮の例大祭として御船神事が催される。毎年、108日の午前11時からその神事は始まる。11時から奥宮前で神官の祝詞や巫女の舞の奉納が30分にわたって行われる。そのなかに併せて、「日本アルプス山岳遭難者慰霊祭」も斎行されている。

アルプス遭難者慰霊祭も同時に執り行われる

これが当日の神事としてのメインなのだが、観光客の関心は、私を含め、明神池を龍頭鷁首の舟が廻る“絵になる”儀式の方に集まるのは、仕方のないところか。


そのお目当ての御船神事は11時半ころより執り行われる。
すでに湖畔にはたくさんの人たちがカメラ片手に待ちわびる。そのなかを、番いの鴛鴦が余興のようにして池の畔に寄って来て、参観者の目を愉しませる。

神事の前に鴛鴦が二羽

一瞬、どよめきが・・・
明神の神使(しんし)であろうか、明神岳の高みから一羽の白鷺が湖面すれすれに舞い降りてきたのだ。
対岸の木の枝に羽を休める白鷺が美しい。

枝にとまる白鷺

しばらくして、もう一度、湖面を滑空し、明神岳麓の一の池奥の湖面の枯れ木に停まる。

明神池の奥に羽を休める白鷺

その姿は端正で神々しくすらある。その様子はまるで神事の前触れでもあるかのようである。


明神池・一の池の桟橋に係留された龍島鷁首の二艘の舟に神官、巫女、雅楽師が乗り込む。

神官が船に乗り込みます

そして、いよいよその姿を明神池にあらわす。御船神事の一番の見どころのスタートである。

御船神事がスタート


その刹那、明神池奥から先ほどの白鷺がさ〜っと池の上を横切り、いずこかへ飛び去ったのである。

夢のような一瞬であった。明神さまのお使いだったことは、不思議なことに撮ったはずの写真に飛空する白鷺の姿がひとつもなかったことからそう信じるしかないのである。

御船神事は神官と巫女が乗り込む一艘目には氏子が幣帛を高く捧げている。

一艘に幣帛を捧げ、神官と巫女が乗船

二艘目には雅楽師が乗り込み、湖上に雅な雅楽の響きをわたらす。

二艘目に雅楽師が乗船


さぁ、これから、順次、写真で御船神事の一切をご覧いただくことにしよう。

湖面に映じる装束
池の中央左へと一列に舟が進みます
湖面を進む龍頭舟
池の中央よりに龍頭の舟がゆく。湖面に映る神官らの姿が美しい
明神岳麓で御船神事
明神岳麓をゆきます
明神岳麓をめぐる龍頭鷁首の二艘の舟
明神池の奥、明神岳の麓に沿い、龍頭鷁首の舟が進みます
明神池奥をゆく龍頭舟
明神池奥を厳かに進む龍頭の舟
雅楽師がゆく
雅楽師もゆきます
ここから異変
このまま、二艘目が流れに押され、池の奥へと・・・
方向転換
何とか方向転換しました
少々、距離があきすぎちゃいました
少々、距離があいちゃいました
大自然の中で行われる御船神事
大自然の中で行われる神事の迫力です
紅葉のなかをゆく龍島鷁首
追いつきました・・・紅葉のなか素晴らしい光景です
紅葉をゆく御船神事
紅葉をゆきます
御船神事もいよいよ終了です
そして桟橋へ戻ってきました

こうして、2013年の穂高神社・奥宮の御船神事は無事、終了の運びとなった。

御船神事の無事終了に満足気な明神岳
眼下で斎行された御船神事の一切を見届け終えた明神岳


終わってみると、舟が池を廻った時間はほんの10分余と短かったのだが、その厳かななかに雅な華やかさを感じさせる神事は、その物理的時間よりもはるかに永い時の流れを観るものに与えたから不思議である。


夢のようなひとときに酔い痴れた人々が明神池をあとにし始めたとき、この神事を参観した人々がこんなにもたくさんいたのかと、社務所脇の出口を埋め尽くす人の列を目にして驚いた。

神事を終え、社務所出口へ向かうたくさんの参観者
出口の混雑もひどかった
神事終了後の奥宮境内の人、人、人

そして、前日にあれほど静かだった奥宮の前が人で溢れかえるさまを見て、御船神事という古式ゆかしい例大祭への関心が、想像以上に高まっていることに嬉しいような、ちょっと寂しいような複雑な気持ちに襲われたところである。




パワースポット・霊峰明神岳の下、明神池湖畔に鎮まる“穂高神社・奥宮”

上高地・穂高神社奥宮の古式ゆかしい御船神事を参観する(2013.11.4)

松本市安曇上高地明神


霊峰・明神岳(標高2931メートル)の直下、

霊峰・明神岳
霊峰・明神岳

上高地・明神池の湖畔に

明神岳を正面に明日の出番を待つ龍島鷁首の舟

穂高神社の奥宮は、ひそやかに鎮まる。

奥宮拝殿前に狛犬

ご祭神は穂高見神(ほたかみのかみ=神武天皇の御叔父神)である。

奥宮

安曇野にある本宮のご祭神は綿津見命・穂高見命・瓊瓊杵命である。

 

穂高神社
穂高神社・本宮

 

奥宮は小さな祠が建つのみであるが、ご神体である穂高連峰の中心たる明神岳を後背にいただく神域は約16千坪の広さにおよぶ。

大正池とならび上高地を代表する天空の湖、明神池は、実は穂高神社の神領地なのである。

大正池から穂高連峰を
大正池から穂高連峰を望む

したがって、40年前にはそんな拝観料など払っていなかったと語る家内も、その事情を知れば、社領地であり、その自然環境保護に少しでもお役に立てることになるのだからと納得した次第である。

正面に奥宮・左が社務所
正面に奥宮、左手が社務所

神官が一人常駐する社務所と奥宮の間を抜けると、そこに鏡池とも称される明神池が広がる。

一の池
明神池・一の池

一の池である。正面に明神岳の霊峰を仰ぐ。

明神池より明神岳を仰ぐ

透き通った伏流水を張った湖面には霊峰の明神岳が映り込む。

湖面に映る霊峰

また、あまりの透明感から池の魚も鮮やかに目にすることが出来る。

明神池に泳ぐ魚


10月上旬。この明神はすでに紅葉が盛りに近づき、その色づいた木々が山肌と湖面を彩る。

秋の明神池・一の池
一の池、美しい鏡池である

まさに息をのむ景観とはこのことである。

神の造形
神の造形・二の池

明神池・二の池は奇石、奇樹、枯れ樹が水面に浮かぶがごとく点在し、神が造形した枯山水ならぬ“活山水(いけさんすい)”のお伽話のような光景が眼前に広がる。



二の池と明神岳
二の池

江戸時代・寛文年間のあたりから、島々谷から徳本峠を越えるルートが木材の搬出や炭焼きなどの生活を支える道であり、上高地へは徳本(とくごう)峠を越えて入山するのが常の経路であったという。

穂高神社奥宮・参道入口
明神館前で徳本峠と明神池方面が分岐

つまり、穂高神社奥宮の祭られる明神は峠を越えた到着点であったことになり、現在の観光客の主たるアプローチである河童橋からとは反対側から明神へ到達していたわけである。

奥宮参道入口から穂高岳を仰ぐ
正面にゆくと明神池・奥宮、右手へゆくと徳本峠、手前左手が河童橋方向

上高地を世界に喧伝した英国人宣教師ウォルター・ウェストンを上条嘉門次(島々谷の猟師)が案内したルートも、まさにこのルートであった。


嘉門次小屋
上條嘉門次が設けた嘉門次小屋

だから、往古の日本人やウォルター・ウェストンが最初に目にした穂高連峰は明神岳を中心となす光景であったことになる。

『明神岳は、かつて「穂高大明神が鎮座する山々」という意味で、穂高連峰全体をさす言葉として使われていた(上高地公式ウェブサイト“明神”)』のは、この徳本峠から見た崇高なる霊峰を信仰の対象としていったのも、十分、うなずけるところである。


その峠を降りて行った先に、霊峰の直下に清澄な山水を湛える明神池がある。山気を頬を打たせ、畔に立った時、その地を神と出合ったまさに“神合地(かみこうち)”であると感じたのは、至極、自然な人の心の動きだったのではなかろうか。



穂高神社・奥宮
穂高神社・奥宮


奥宮由緒によれば、その“上高地”という名称が、古来、神降地、神合地、神垣内、神河内と神との関わりのある地と称されていたことから、この明神の地が清浄の地、神域として崇められてきたことは明らかである。


奥宮由緒(境内案内板)の説明は以下の通りである。

穂高神社奥宮・御朱印

『太古奥穂高岳に天降ったと伝えられる穂高見神(ほたかみのかみ)は、海神・綿津見神(わたつみのかみ)の御子神で、海神の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹てた安曇族の祖神(おやがみ)として奉斎され、日本アルプスの総鎮守として明神池畔に鎮座する。

奥宮・鳥居
奥宮の鳥居

松本藩主水野忠恒、大成の信府統記(1742)には、


「皇御孫尊(すめみまのみこと)穂高嶽ニ鎮座マシマスト云ヘリ。此嶽清浄ニシテ其形幣帛ノ如ク、麓ニ鏡池、宮川、御手洗(みたらし)、河水在ル所ヲ神合地ト云フ。大職冠(たいしょくかん)鎌足公モ此神ヲ敬ミ祭り給ヘリ・・・」


とあり、すでに江戸時代中期には松本藩からも厚く崇敬されて、鎮座の昔を仰ぎみることが出来る。上高地は古くから神降地、神合地、神垣内、神河内とされ、神々を祀るに最も相応しい神聖な浄地である。


善光寺名所図会(1843)に霊湖とされている明神池は鏡池、神池ともいわれ、明神岳の直下にして、一の池・二の池からなり、奇石、奇樹の島影は神秘ただよい、108日神池に浮かぶ龍島鷁首の御船は碧潭(へきたん)に映えて美しく、平安朝の昔を偲ばせる。』

紅葉のなかをゆく龍島鷁首
10月8日の御船神事

その鏡池で催される108日の例祭こそが、今回の旅の目的である“御船神事”、別名を紅葉祭りというものであった。


此の度、その御船神事に参加すべく明神池を訪ねたのであるが、秋晴れの天候の下平安朝を偲ばせる厳かでしかも華麗な御船神事の様子は別稿に譲ることにする。

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