彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

June 2013

“露庵・菊乃井”、一見さんでしたが、フレンドリーでお洒落なお店でした

“菊乃井”と言えば、古都京都を代表する老舗料亭。

これまではもちろん敷居が高いのもあったが、旅先で料亭料理というのもいかがなものかという思いもあって、足が向いていない(ただ菊乃井店主は“料亭とは、基本は飯屋”と豪快に割り切っておられる)。


だが、昨年、家内の知人から「露庵・菊乃井は気楽でいいわよ」との情報を入手。

コースが3つあり、7千円からは季節の懐石になるとのことだったので、これにした。後で教えて頂いたが、その季節で食べたいものがあれば、事前に云っておけば用意してくれるとのことでしたので、融通は効くようです。

露庵・菊乃井

虎視眈々とその機会をうかがっていたが、此の度、友人のあるお祝いをお昼に、しかも京都でやろうとの話になり、当店を予約したもの。

店内に敷かれた石畳
なかなかな趣き・・・

当日、広島からやって来た友人と二人で、カウンター席中央に陣取った。一見客で大胆な振舞いとは思ったが、そこは年の功。

カウンター席です
もちろんお客でいっぱいでした・長尻組みが残っているのです

最初に、紫蘇でつけた食前酒が供される。この梅雨時に切れの良い爽快感がよく似合う。

紫蘇風味の食前酒

先付には、雲丹がまぶされた、ワサビをトッピングした雲丹豆腐。これ、ピリッと美味でした。お酒の飲めぬ友人を後目に、あぁ、冷酒を頼んでしまいました。

雲丹豆腐

次に八寸。この季節です。蘇民将来の茅の輪で厄払いもかねた飾りつけが粋で癪(しゃく)である。味も材料も多彩で、これで舌も口の方もパワーアップ。

八寸

早速、板場中央にでんと構える店長の村田喜治氏へ。菊乃井本店店主・村田吉弘氏の弟さんです。その村田さんにお写真をと申し出たら快く応諾していただけたので、パチリ! 

店主の村田喜治氏

そしてポーズまで注文してしまう勝手放題。すみませんでした・・・

自然な形で・村田喜治店主
自然な姿で・・・なんてオーダーしちゃいました

次に向付。大好きな鯛とシマ鯵、しっかり食べました。もちろん黒龍と一緒にです。

鯛とシマ鯵

さて鱧の落としです。ここのは身がしっかりしていて、湯引きは嫌いというわたしも満足。梅肉のすり身を二倍酢で溶いた浸けで、いただきました。

鱧の落とし

あっさり系が多い献立で口がちょっとさびしいころに、芋茎(ずいき)と豚の角煮。お肉のとろける柔らかさと量が少なめなのが、料理のアクセントとして効いている。

豚の角煮と芋茎

箸休めにトマトのソルベ。まさに肉の膏が残る舌に、この酸味が効いたソルベは絶妙の間合いと選択。

トマトのソルベ

そして目の前の火鉢で鮎の網焼き。

琵琶湖の北で採れた鮎です

琵琶湖の北方で採れた小ぶりの鮎なので、頭からいけるそうです。蓼酢に浸けて、ガブリ!

鮎の塩焼き

茄子の田楽。しゃべりに夢中で、たぶん、パクっとやっちゃったかな・・・

茄子の田楽

そして、鱧の炊込みご飯です。お釜で炊いたご飯でおいしかった。

鱧の炊込みご飯

日頃、飯粒を食べないわたしが、お代りをしてしまいました。味噌汁が牛蒡の掏り流し仕立てで、ぷ〜んと土の香りがしてくるようでお腹がすとんと落ち着くのが不思議であった。

味噌汁・牛蒡のすり流し仕立て

デザートはもちろんわらび餅。アイスクリームもついています。

わらび餅とアイスクリーム

残ったご飯は折に入れて友人の奥様のお土産とした。鯖寿司もおいしそうだったので、一緒に奥様へ持っていただくことにした。


本来、1時半からの予約受付であったものを、こちらの都合で1時に前倒し頂いたうえ、さらに10分前に席に着き、3時半過ぎまで長居をした。

小上りはこんな感じです
小上りです。ここのお客様もお帰りになりました・・・

店主の村田さん自らが、レジの横でわたしのジャケットを抱えて待っていてくれる。腕を通し、店を出ると、外まで店主自らがお見送りする。皆さんにそうされているようで、お客様はもう満足、満足。

阪急河原町駅1番B出口からすぐです
阪急・河原町駅1番B出口から露庵を見る・赤いコーンの前

菊乃井の名前に気圧されずに、仲間や板前さんたちとも気楽にお喋りし、おいしい料理に舌鼓が打てる。懐石料理といった名前に怖気づく必要もない、至ってフレンドリーな露庵・菊乃井であった。


次回は家内同伴を約して、まだ友人と話足りなかったので、“鍵善”でお薄と生菓子をいただこうと四条通りを八坂神社の方へ歩いて行った。

鍵善

四条大橋から今年の川床風景をパチリとおさめた。もう少しで梅雨明け、そして、暑い夏がやってくる。月日が経つのが本当に早い今日この頃です。

2013年・鴨川の川床です

エッ! “カギゼ〜ン”と言われる京都通のお方もおられようが、まぁ、手近で手頃で、わたしは結構、利用させてもらってます。


だって、箱に幾種類か入った生菓子を「どれにされますか?」って言われて、迷う、あの10数秒の幸せな時間って、そう日常にはないんじゃないのかなぁ・・・

京都の旨い蕎麦処・“おがわ”は、味だけでなく、サプライズ!!

京都のそば処 おがわ(石臼挽き手打ちそば)(2010.12.11)
京都の蕎麦処「おがわ」=雅な京の爽やかさ!(2009.2.10)

泊ってみたい宿=摘み草料理の美山荘(2013.10.23)

京都市北区紫竹下芝本町25 

0754958281

 

今回ばかりはJR四国にお礼を言わねばならぬ。

高松駅・マリンライナー22号
このマリンライナーが遅延

家内の実家のある高松からのマリンライナーが雨による遅れとかで、岡山駅での乗換が慌ただしかった。ホームで階段を昇ったところでまさに入線してきた新幹線に飛び乗るといった離れ技をやってのけ、疲れてフーフーいっているうちに車内販売のお弁当が売切れてしまった。


そのため京都へお昼抜きで着き、まずはランチをとらねばならぬということになった。そこで思案し、久しぶりの“おがわ”に向かうことになった。


店内はいつものように清潔感あふれ、硝子戸から入る明かりが一段と“おがわ”の透明感を惹き立てる。

”おがわ”のマークが刻まれた硝子戸
おがわのロゴが入る硝子戸

ご主人の小川幸伸さんと奥様の夕子さんに無沙汰を詫びる。


そして、当日はうるさい女房殿もいないので、ちょっと昼酒をいただくことにした。

期間限定”美濃国大垣城・しぼりたて”です

銘柄は奥様お薦めの“美濃国大垣城”の“しぼりたて”にした。麹の馨がしっかりするという。


お洒落なガラス酒器です お猪口です

“鴨の塩焼き”と生わさびをつまみに、この腰の強い酒がよく合う。 


絶品な鴨塩焼き

一合をチビチビやっているうちに、う〜ん、焼みそであと一合いきたいなと思っていると、お待たせしましたと、大好きな“辛味蕎麦”がやってきた。



万事休す!! そう、これから蘆山寺で桔梗を愛でるのだったと当初の教養溢れる目的を思い出し、おいしい蕎麦をいただいた。

”おがわ”の蕎麦です

そう2年前には“夏そば”という期間限定・特別メニューをいただいていた。爽やかな味だったのを覚えている。

爽やかな味でした
2011年6月にいただいた”夏そば”

そしてお客様も一段落したところで、小川ご夫妻に近況挨拶をし、お勘定をと思った矢先。硝子戸の向こうにどこか見覚えのある作務衣を身にまとう女人の姿が見えた。

店内から外を

硝子戸を開けて入ってこられたのは、なんと美山荘の若女将ではないか。


え〜!!と、これまた長の無沙汰を詫びる顛末となった。


若女将は市内に所要があって花脊から出てこられたという。だいたい、そうした際には、よく“おがわ”さんでお蕎麦をいただくのだそうだ。

相変わらずおきれいな若女将

そこで、話は一挙に盛り上がり、わたしもそのドサクサのなかで、“焼みそ”を注文し、もちろん、あと一合追加となった。

出ました!焼みそ

若女将のお酌で恐縮ではあったが、ぜいたくなお昼を過ごすこととなった。


その後、小川夫妻も合流し、四人で“こんなことがあるんだ”と感心し、結論は、好みの合う者たちは、そうした処で出くわす確率が高いのだということで、この楽しい出逢いの時間を〆ることにした。


時計を見たら3時を回っていた。若女将とは近いうちに美山荘へ遊びにいくと約束し、別れることになった。


そして前回ブログに掲載したご主人の幸伸さんの写真が、もうちょっといい写真だったらなぁとの話になり、最後に、それじゃ、場所はご主人の希望するところでということになり、以下の写真が出来上がった次第。

ショット1 ショット2

ご主人おひとりのものは4枚。ご夫婦お揃いは2枚撮ったが、ご主人のものはこの2枚だけを掲載する。

ツーショット1 ツーショット2

ツーショットの写真とも見比べていただくと、なんとなくわかる気がするが、奥様は自然な笑顔。ご主人はどういう表情にしたらよいか迷っているうちに、シャッターが切られている・・・


手元に残る2枚の写真は今度、直接、幸伸さんに手渡すことで、わたしの写真技術のせいではないことをご理解いただこうと思っている。


ご主人が長身でハンサムな方であることは、お客様はよくご存じなのだが、どうも写真の前では江戸時代の武士のように身構えてしまうのか、何でしょうか、夕子さん!!


 

源氏物語執筆の地、蘆山寺(ろざんじ)の桔梗は三分咲き、満開は7月中旬!

山門

蘆山寺薬医門・上京区寺町広小路上る


この前、蘆山寺を訪れたのは、二年前の6月12日であった。源氏庭いっぱいの桔梗を期待していたところ、一輪の花も咲いていず、落胆したものである。

一輪も咲いてませんでした
2011年6月12日。一輪の桔梗も見えなかった

此の度は6月26日。二週間遅いので、捲土重来を期しての再訪である。

が、当日は雨。梅雨だもんね、仕方はない。

蘆山寺の広縁に出て、源氏庭を見た。

うん?

黴雨に濡れる源氏庭

目を凝らす・・・、咲いている。桔梗が咲いている。

雨滴と桔梗
雨滴をおく桔梗

でも、白い敷き砂利に緑色がすっくと立つが、紫色は少ない。

二分咲きかな

源氏雲文様に造られた杉苔の地が黴雨に濡れ、緑が浮き立つようで、ことのほか美しい。

黴雨に映える杉苔

観覧終了時を過ぎて、見学者もなくなった静謐のひと時・・・



翌日、新島襄旧宅の見学を終えて、昼食までに時間が残ったので、歩いて15分ほどにある蘆山寺を再訪することにした。

山門より
薬医門より

一日違えば桔梗の数も・・・、そして晴れた日差しのなかの桔梗も美しかろうと思ったのである。

本堂玄関
本堂玄関

ひと夜にして満開になろうはずはない。自然のごく自然な摂理である。

まだ三分咲きの源氏庭
う〜ん・・・

桔梗は贔屓目に見て三分咲き。

桔梗、咲いています
咲くところには咲いていますよ

でも、梅雨の合間の日差しに源氏庭はやはり映える。

源氏庭
源氏庭

源氏物語絵巻の雲の意匠から名づいた“源氏雲”の文様にあしらわれた杉苔と白石のコントラストがこの庭の清楚さを際立たせる。

源氏雲に桔梗

桔梗も日差しの関係だろうか、幾輪も咲かせる株もところどころに見える。

御黒戸隅から

また、そこに数輪だけ小さい花をつける桔梗も、凛としたたたずまいで好もしい。

凛と咲く桔梗

庭の南西に位置する“紫式部邸宅跡(考証した歴史学者・角田文衛)”と揮毫(言語学者・新村出)された石碑も桔梗のなかに馴染んで落ち着いている。

紫式部邸宅跡揮毫の石碑
紫式部邸宅跡と比定する石碑

見学者もまばらなこの日。ひとり、黙然と、庭を眺める。

本堂・内廊下
本堂・内廊下

ここで、紫式部は源氏物語を千年前に執筆したのだ・・・

蕾と花

この地で、紫式部は娘の時代、結婚してからも過ごし、息をしていたのだ・・・

桔梗と楓

光源氏って、藤原道長・・・、源融・・・、なんて想いをめぐらす・・・

桔梗がチラホラ咲いている

現代を紫式部が見て、なんと思い、そしてどのような男と女の物語を紡ぎだすのだろうか・・・

色模様

蘆山寺はひとり時間があるときに、夢想、妄想、空想にふけるときに訪ねるのが良いと感じたひと時であった。

蘆山寺の桔梗の満開は7月中旬あたりとのことである。

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

左手に見えたのは、鹿島神宮の社殿であった。参道右手に北向きに建っているのだ。

拝殿と楼門配置が90度
手前参道左に拝殿、奥の白いシートに覆われる本殿・向こうが通って来た楼門

社殿は手前の拝殿から幣殿・石の間・本殿と北から順に奥(南)へと続いて建つ。

拝殿の後ろ、幣殿が見える
社殿横から。左より拝殿・幣殿・白いシートの中、石の間・本殿とある

しかし、ここも香取神宮同様、来年の“式年大祭御船祭”へ向けた屋根の葺き替え工事が進行中で、石の間と本殿は白いシートの中に身を隠す。

拝殿の奥、葺き替え中の本殿は覆われていた
しっかりシートの中です

本殿はだいたい参道の突当りに鎮座するものだが、ここは参道の脇、直角に曲がって拝殿で参拝する。

拝殿正面より
参道を右に90度曲がると、鳥居と拝殿が正面に見える

何か奇妙である。この謎はこれから訪れる奥宮、御手洗池、要石の項でわたしの考えを述べることにする(鹿島神宮のパワースポット“荘厳な霊気に満ちた奥宮”・“清浄の地御手洗池”・“武甕槌神の憑代 要石”を参照)。

拝殿で祈祷中です
拝殿内で祈祷が行われていた

さらに不思議なのが本殿が北向きであること。しかも御神座は本殿内南西隅に置かれ、東を向いているのだという。われわれはご祭神“武甕槌神”の横顔に向かい参拝する形となる。

拝殿
拝殿を西側より見る

当社に伝わる“当社列伝記”に次のごとく記されている(鹿島神宮元宮司東実著・学生社刊「鹿島神宮」より)。

「開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是則ち正御殿なり、北向に御座す、本朝の神社多しといえども、北方に向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其のご御身躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の列法なり」

実は本殿内の御神座のこの奇妙な配置は出雲大社に似ている。出雲大社は拝殿、八足門、楼門、御本殿と直線状に配置され、すべて南面する。その御本殿の御神座は本殿北東隅にあって西を向かれているという。
方角は異なるが、拝殿で参拝する者たちに、御祭神は横顔を向けしかも本殿内の一番奥隅に鎮座されるという形式は同一である。

出雲大社本殿
出雲大社本殿

國譲りをされた大国主命が祀られる出雲大社とその國譲りをさせた武甕槌神が祀られる鹿島神宮。方向は違えど同じ形式で祀られていることはいったい何を意味し、何を語らんとしているのか。謎は深まるばかりであり、興味は尽きることはない。

その鹿島神宮社殿の斜め対面に仮殿がある。

仮殿

その間に何故か、高天原の悪神である“天香香背男(アマノカカセオ)”を誅した“建葉槌命(タケハツチノミコト)”を祭神とする摂社・高房社が鎮座する。言ってみれば本殿の真正面であり、参道の中央に坐すとも見える(“続・経津主神と武甕槌神の謎=常陸風土記と日本書紀から読み解く”を参照)。

摂社・高房社と三つ穴燈籠
摂社・高房社と三つ穴石燈籠

次に宝物館を見る。

宝物館

国宝の“直刀”を見ようと立ち寄ったが、見事、大神社展へ貸出中!!

平成館館内
東京国立博物館平成館での”大神社展”

長さが271cmにおよぶという“ふつのみたまのつるぎ”である。宝物館には長さ、重さも同一の模造品があり、それを手で抱えて見たが、もちろん、持ち上げるだけで精一杯で、振り回すなんてとんでもないといった大刀であった。

国宝・海獣葡萄鏡
海獣葡萄鏡・復刻品

これも香取神宮の海獣葡萄鏡と一緒で、後日、東京国立博物館で拝見することとなったが、やはり実物は人出の多い博物館の中でもシンと鎮まり、その刃身から撥される神気に心を浄められた。

さて、奥参道に入ると途端に参道脇に広がる樹叢の奥ゆきが深みをます。

原生林の中を縫う参道

古木特有の捻じ曲がった枝幹は上空を縦横無人に覆い、参道に影を落とす。その樹間を縫うように数条の光が射し込んで来る。

古木

その光と陰が織りなす意匠は武甕槌神の黙示のようでもあり、歩みとともに移ろうそのフォルムが、わたしに終始、何かを語りかけているように感じられた。

光

そうした神秘的空間を歩む途中、左手に開けた場所があった。鹿島の鹿苑である。

参道より鹿苑を

春日大社の社伝によれば、称徳天皇の767年、平城京鎮護のため鹿島神宮の武甕槌神を春日大社の祭神として勧請したが、この時、武甕槌神は白鹿に乗ってひと月かけて御蓋山(三笠山)に来られたのだという。

鹿苑
この鹿たちのご先祖が奈良の鹿のご先祖にあたる・・・

つまり春日大社の鹿は鹿島の鹿の末裔ということになり、この云い伝えが両神社において、鹿が神鹿として敬われ、神の使いとされる由縁でもある。

春日大社の鹿の手水舎
春日大社・鹿の手水処

その鹿苑の一角に中臣鎌足伝承に由来する“鎌足桜”が咲いていた。

鎌足桜 鎌足桜花弁
鎌足桜が咲いていました

中臣鎌足は常陸の生まれといわれ、いまの鎌足神社(鹿嶋市宮中3354番)がある辺りがその出生地とされる。出生地常陸説の根拠のひとつとなっている藤原氏の栄華を描いた“大鏡”に、「鎌足のおとど、む(生)まれ給へるは、常陸国なれば、かしこのかしま(鹿島)といふところに、氏の御神をすましめたてまつり給ひて」とある。

さらにこの一隅に、りっぱな“さざれ石”が置かれているので、これもお見逃しなく。

見事なさざれ石

ということで、いよいよ、ここから奥宮、要石、御手洗池と鹿島神宮のパワースポットゾーンへと足を踏み入れてゆくことになる。以下、それぞれ別稿を置くので、それを参照されたい。

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)

武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

東京から鹿島神宮へゆくには八重洲南口からの高速バス(JR・京成・関東鉄道)が便利である。10分間隔で運行されており、鹿島神宮駅まではわずか1時間56分の乗車である。


ただ、今回は香取神宮経由での鹿島参拝のため、一時間に一本のJR鹿島線を利用することになった。 香取駅から鹿島神宮までの乗車時間はわずかに16分というのにはちょっと驚く。  

香取駅ホーム

ところが、地図を見るとその間に利根川、常陸利根川、北浦と3つの大きな川や湖を渡っている。鉄橋や陸橋がなければ相当難儀な行程である。

 
往古、この間が海で隔てられていた頃は対岸が見渡せたとしても、当時の舟で行き来するのは湾口の潮流もきつかっただろう、そんなに容易なことではなかったはず。そんなことをぼんやりと頭に浮かべながら窓外を見やると、春の夕日が一条の帯地を広げたように北浦の水面を茜色に染めあげていた。

北浦に沈む夕日

鹿島神宮駅は周囲を台地に囲ませた窪地にある。当夜の宿は駅前のビジネスホテル鈴章をとっていたが、なるほど鹿島神宮へ向かうには駅からひたすら坂道を登ってゆくのがわかる。ホテルまでのわずかな距離ですら坂道である。

ビジネスホテル鈴章
ホテル鈴章前の坂、結構、急です。これを上って鹿島神宮へゆく

香取神宮で歩き疲れたわたしの次なる愉しみといえば食事。当地名物の鯰(ナマズ)料理はどうかと奨められた。う〜ん、鯰ネェ〜と躊躇したが、何せ香取の要石を拝した身。やはり地震退治に協力せねばと老舗・鈴章での夕食となった。おいしかった話は別稿で(“鹿島のグルメ:鯰料理の老舗・鈴章”参照)。


さて、早起き苦手のわたしが9時にはすでに鹿島神宮の門前に立った。ホテル鈴章の方がこの登り坂は足の不自由なわたしには大変だと車で送ってくれたのである。前日の鯰料理・鈴章への送迎といい、今朝といい、感謝、感激である。

大鳥居前の参道
大鳥居前の門前町

そして、いよいよ鹿島神宮参拝の始まりである。

鹿島神宮石標

嫌な予感はしていたのだが、まさか、初っ端からとは。二之鳥居の大鳥居がない。

鹿島神宮大鳥居跡

前日の香取神宮といい、 鹿島でも肩透かしを喰らわされた形で、どうも心持ちが宜しくない。 ただ、鹿島神宮と大書された石標は隆々と青空の中に聳え立っていた。

青空に石標が立つ

御影石造りの大鳥居は2年前の9.11東日本大震災で倒壊したとのこと。大鳥居は境内側へ倒れたので、門前町への被害はなかったという。しかし、考えてみれば不思議である。鹿島神宮は坂を上り切ったところにある。通常であれば、傾斜に沿って下の方に倒れるものだが、人々に害を及ぼさぬようにわざわざ逆側へ倒れ込んだとしか思えぬのである。

ここに大鳥居の柱が立つ
御幣で囲われた大鳥居柱の跡

その大鳥居は来年の御船祭りに向けて再建が進められ、此度は古来の木造に戻すそうで、6月の竣工予定である。鹿島の森に育つ杉の古木を使用するとのことで、それを語る氏子の方の誇らしげな笑顔が印象的であった。


なお、大鳥居が二之鳥居というのであれば、一之鳥居はどこに・・・となるが、大船津、北浦・鰐川の水中に立っている。今年の6月1日に約30年ぶりに川中の鳥居として復活したのだという。

鰐川に立つ”一之鳥居”:東京新聞より
東京新聞より

まぁ、そうしたわけで鳥居をくぐることなく鹿島神宮という聖地に足を踏み入れることになった。

早朝の境内・楼門

御幣で囲われた大鳥居の柱跡を見ながら石畳を踏みゆくと、正面に大きな総朱漆塗りの重文・楼門が立つ。屋根は入母屋造りの緑青のふいた銅板葺きである。

堂々とした楼門

その楼門左手前に手水舎がある。

手水舎

手前を左に入ると小さな鳥居が見えるが、境内末社を祀る一画である。

手水舎脇に摂社・末社参拝鳥居が

左手前より熊野社・祝詞社・津東西社と並ぶ。右手は須賀社である。

境内末社 末社・須賀社

そして正面には、境外摂社である坂戸社(祭神 天児屋根命・北に2km)と沼尾社(祭神 経津主大神・北に4km)を拝む遥拝所が設けられている。

摂社・坂戸社、沼尾社遥拝所

次に参道へ戻り左手を見ると、目の前というより人を圧するように楼門が迫り、その造りに圧倒される。

楼門を見上げる

その中央・高処には、香取神宮と同じ東郷平八郎元帥揮毫の扁額が掛かる。

東郷平八郎元帥揮毫

楼門を抜けると左手に社務所や神札授与所がならび、朝の準備をしている愛らしい巫女さんが見えた。

早朝の境内

そして、参道がまっすぐ奥へ奥へと続いているのが見える。19万坪におよぶ広大な境内を本堂までどこまで歩くのだろうと不安になる。

拝殿前から奥宮への参道を見る

参ったなと楼門を振り返ったところ、ちょうど当神宮の鹿島則良宮司が歩いておられた。これは何かの瑞兆か・・・

鹿島神宮宮司 鹿島則良氏
鹿島則良宮司

と思った瞬間、右手に鳥居と何やら構築物が・・・

参道右手に鳥居と構築物が

青梅市・“吹上しょうぶ公園”の花菖蒲は今が盛り、30日まで!!

青梅市・“吹上花しょうぶまつりHP

いま、花菖蒲が満開とのニュースを観て、梅雨の合間にと早速、青梅市吹上にある“吹上しょうぶ公園”を訪れた。

長井系・出羽万里
長井系・出羽万里

“吹上しょうぶ公園”は圏央道青梅ICより5km、中央道八王子ICより20km、JR青梅駅より徒歩約15分のところにあり、山間に深く切れ込んだ、いわゆる谷戸(ヤト)地一帯2.1haが公園となっている。

いわゆる”谷戸”です
浅い谷が切れ込んだ谷間の地・多摩丘陵に多い”谷戸(ヤト)”という地勢である

パンフレットには、「貴重な谷戸地を保全するため、霞丘陵の一角、勝沼城跡歴史保全地域に囲まれた谷戸および、その周辺の歴史的資源を積極的に活かし、花しょうぶを主体とした公園として整備」と、説明されている。

駐車場から・奥にしょうぶ公園があります
駐車場の奥に”吹上しょうぶ公園”が広がる

園内は畑地が30区画ほどに分けられ、江戸系・肥後系・伊勢系・野生種・長井系・米国種・雑種、約10万本の花しょうぶが植えられている。

花しょうぶ、盛りです

鑑賞形式は回遊式となっているが、土の道、板敷の道ともに幅が広く、休憩ベンチもほど良く点在し、よく整備されていたので、足が不自由なわたしでも安心して歩くことが出来た。

花しょうぶを楽しむ人々
ゆっくりと鑑賞ができる回遊公園

それと望外の喜びだったのが、なんと半夏生の花と白く粉をかぶったような葉が見られたことである。京都建仁寺の両足院以来の半夏生との再会であった。

水辺に咲く半夏生 突端にわずかに緑を残す葉も
これぞ半夏生
見事な半夏生である

さらに“ミズカンナ”という初めての水生植物にお目にかかったのも、

初めてです、ミズカンナ 自信作・ミズカンナ
珍しい植物である・・・ミズカンナ

それでは、花しょうぶの万華鏡の世界をじっくりと写真でお楽しみください。

これから雌蕊へもぐり、蜜を吸います
まずは花しょうぶの雌蕊にまさに潜り込もうとする蜂を撮りました
長井古種・日月 長井古種・野川の鷺
長井古種・日月            長井古種・野川の鷺
肥後系・秋の錦 米国種・ピンクフロスト
肥後系・秋の錦             米国種・ピンクフロスト                 
肥後系・日の丸一号 肥後系・白玉兎
肥後系・日の丸一号            肥後系・白玉兎
肥後系・蒼茫の渉
肥後系・蒼茫の渉


こうやって撮った写真の数を見ていると、わたしは長井系の素朴な花しょうぶが好みのようである。 

菖蒲だらけです

みなさんはいかがであろうか。それを確かめに“吹上しょうぶ公園”へ急がれては。

伊勢系・衆華の誉 菖蒲だらけ!

“吹上花しょうぶまつり”は6月30日までである。

香取神宮・パワースポットの凸型“要石(かなめいし)”

香取神宮の要石は、地上に顕れた部分は径が3、40cmほどの楕円形の円味を帯びた凸型をしている。

一円玉と要石
一円玉と凸型要石

香取神宮の聖地たる奥宮へ向かう途中に、護国神社の少し奥に石柱に守られ隠れるように鎮まっている。

要石から護国神社を
要石から護国神社を望む
石柱の中に要石

折しも、頭上から樹間をぬけた陽光がしずかに舞い降り、静寂の地はさらに息をひそめている。

要石に差込む光芒

静謐とはまさにこれを言うのであろう。地に落ちた日差しに濾過されたかのように身が清められ、この地が霊気を充溢させていることは、黙って佇んでいるだけでわかる。


さて、「香取神宮少史」は“要石”について次のように紹介している。


「古傳に云ふ、往古、香取・鹿島二柱の大神、天照大御神の大命を受けて、葦原の中つ國を平定し、香取ヶ浦の邊に至った時、この地方なほただよへる國にして、地震(なゐ)頻りであったので、人々甚(いた)く恐れた。これは地中に大なる鯰魚(なまづ)が住みついて、荒れさわぐかと。

大神等地中に深く石棒をさし込み、その頭尾をさし通し給へると。當宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部をあらはし、深さ幾十尺。

円みを帯びた凸型
香取神宮の凸型要石
鹿島神宮の凹形の要石
鹿島神宮の凹型要石


貞享元年(1684)三月、水戸光圀、當神宮参拝の砌(みぎり)、これを掘らしたが根元を見ることが出来なかったと云ふ。當神宮楼門の側の“黄門桜”は、その時のお手植である。」

黄門桜
楼門脇に植わる”黄門桜”

水戸黄門の時代に既に、香取神宮と鹿島神宮の“要石”が地中深くで地震を抑え込む“妖石”であるとの民間伝承が存在していたことは、この地が古来、何らかの霊力を持った聖なる場所で思われていたといってよい。


現に香取神宮奥宮の入口付近に残る雨乞塚は、聖武天皇の御代(天平4年・732年)の大旱魃の折、雨乞を祈念するため造られた塚の史蹟だという。

突当り石段、奥宮
雨乞塚から奥宮を望む

この事実こそが、この地が古来、霊験神秘な場所であるとして庶民が畏敬してきたことを如実に物語っている。

雨乞塚駒札

明治初期の香取神宮少宮司で国学者であった伊能穎則(ヒデノリ)は、地震を抑える要石について次の和歌を残している。


“あづま路は 香取鹿島の 二柱 うごきなき世を なほまもるらし”


安政の大地震(1855年)が起きた際に、地震を起こす大鯰の頭を武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が剣で突き刺す鯰絵を描いた鹿島神宮のお札が流行したという。


伊能穎則の和歌に詠われているように、香取・鹿島に鎮まる要石が地中で地震を抑えているのだという伝承は江戸時代後期に巷間に広まったようである。

凸形要石
この下で大鯰の尾を抑えているという

ちなみに、鹿島神宮の要石が大鯰の頭を、香取神宮の要石は尾を押さえているとのことで、また、この二つの要石は地中深くで繋がっているのだという。

鹿島神宮の凹型要石
鹿島神宮は大鯰の頭を抑えているという

それにしてもこうした要石というパワースポットにおいても、香取神宮と鹿島神宮はやはり対の関係にあり、凸形と凹形で一体となるのだと言わんばかりである。


また、香取海(カトリノウミ)の入り口の両岬突端に相和すように鎮座し、下総・常陸など関東平野へ侵入を図る敵への防禦策も、両地点に両神宮の存在があってこそ、その戦略目的は完璧に遂行されることになる。

そうした符牒に、経津主神と武甕槌神という二柱の神が中つ國平定を成し遂げた“人物”と“聖剣”の両者をそれぞれ神としたという私の推量にも、その不即不離、表裏一体の関係という点で、あながち荒唐無稽な説ではないのかも知れないと考えた次第である。

パワースポット 香取神宮・奥宮には一閃の光芒が差す

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎

奥宮へは要石を通過してから香取の樹林を抜けて門前町へ裏から回り込むようして辿り着く。

要石から奥宮への道

二之鳥居の方へ逆戻りしており、どうして、奥宮が本殿の手前にあるのかと不思議に思う。

門前通りの裏筋を逆戻り
門前通りの裏筋を戻っている感じ。突当り辺りを左に奥宮
向こうから来て、朱塗りの柵沿いに曲がると奥宮の道へ

向こうからやって来て、この朱色の柵沿いに曲がると正面が奥宮。

しかし、この謎は香取神宮の往昔の成り立ちを知れば、なるほどと納得する。

奥宮へ
正面が奥宮、左手前階段は飯篠長威斎の墓所

つまり、“謎めいた経津主(フツヌシ)神を祀る香取神宮をゆく(下)”で述べたとおり、経津主神が海路上陸して来られた津の宮がそもそもの香取神宮の表参道口であったという事実である。

津の宮
津の宮の浜鳥居

津の宮の方位は香取神宮の真北に当たり、いにしえは浜鳥居を一之鳥居として参道は南進し、現在の北参道側から本殿に至っていたことになる。


その経路であれば、奥宮が本殿のさらに南、すなわち今の位置に鎮座していることは至極、当然のことだということになる。


この奥宮へ向かう入り口には雨乞塚がある。

雨乞塚
ここは古代のパワースポットの”雨乞塚”

聖武天皇の御代、天平4年(732)、この地が大旱魃の時に、ここに祭壇を設け雨乞いをしたところだということだが、この辺りが古より霊験あらたかな場所であったことの証でもある。

雨乞塚駒札

奥宮の手前左手に天真正伝神道流始祖・飯篠長威斎(イイザサチョウイサイ)家直の墓がある。

長威斎墓所

室町時代に長威斎が開いたこの香取神道流からは、中条流、影久流が生まれているほか、かの有名な塚原卜伝もこの流派を修めてから鹿島新当流を興しており、我が国最古の剣の流儀の始祖として剣聖とあがめられている。

飯篠長威斎の墓
簡素な飯篠長威斎の墓

そしていよいよ、経津主大神の荒御魂(アラミタマ)を祀っている奥宮へと入ってゆく。

奥宮の鎮まる森

真新しい石標のすぐ後ろに簡素な神明系靖国鳥居が立つ。

奥宮の石標と鳥居
真新しい石標と奥宮の鳥居
奥宮の靖国鳥居

神明系靖国鳥居

数段の階段を上ると、まっすぐに伸びた細い参道の突当りに奥宮の社殿が見える。

奥宮

樹齢を重ねた杉並木はひっそりと鎮まっている。

鳥居から奥宮社殿を

時折、風の悪戯だろうか、それとも気まぐれな神様の戯れだろうか、樹間から一閃の光芒がわが身に放たれる。

奥宮へ差す一閃の光芒
まさに霊気の充る処

細い参道の突当りに奥宮は鎮まる。

奥宮社殿

誰もいない森閑とした大気のなか、経津主神の荒魂(アラタマ)というより和魂(ニギタマ)がわたしを包み込んでくれているのかのようで、いつしか心は穏やかに安らいでいることに気づく。

奥宮から鳥居を
奥宮前から鳥居を見る

奥宮の社殿は昭和48年の伊勢神宮ご遷宮の際の古伐をいただいて建て直したという小さな社である。


お参りをした後、木の柵で囲われた社を廻ったが、本当に小さなものである。

奥宮を横から

そしてここに神代の時代から経津主神の荒魂が鎮まっているのだと想うと、先ほど浴びた一閃の陽光は遠い過去からの問いかけのようにも感じたのである。


自然のなかに生かされ、そこに神を感じ、その慈しみと恵みに感謝して生きていた太古の人間たちは、いったいどこに消えてしまったのか。


今の世の中、人間はどこまで傲慢になっているのか・・・、そしてまだ、なお大欲を腹蔵し、自然をどこまで破壊し続けてゆく気なのかと。


杉の巨木の幹に手を当て、その命の鼓動を聴きながら、そんな問いの答えを探り続けたのである。

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

総門から奥へ進むと、左手に壮麗な八脚楼門が聳え立っているのが見える。丹塗りも鮮やかな、色彩、造りとも見事のひと言に尽きる。

八脚楼門

扁額の揮毫は軍神・東郷平八郎元帥のもの。

東郷元帥揮毫の扁額

楼門前の広場に末社・諏訪神社がある。

末社・諏訪神社

その斜め対面に黄門桜がある。貞享元年(1684)に水戸光圀が参拝の折のお手植え桜の蘖(ヒコバエ)が成長したものである。

黄門桜

そして楼門をくぐり神宮中核部の拝殿へ向かうが、ここも修復中・・・無念である。

屋根の桧皮葺替工事中の社殿

お賽銭をあげ、拝殿内部をパチリ!

拝殿内

拝殿から本殿まで見事に覆われている。来年のお披露目を楽しみに待つしかない。

修理中です

それではと本殿左手へ回り込み、有名な三本杉を見学。根っこが三股に分かれていたとかで、真ん中の一本は既に朽ち果てている模様。

三本杉

その奥の摂社・匝瑳(ソウサ)神社を参拝。経津主神の両親である磐筒男神・磐筒女神を祭神とする。

摂社・匝瑳(ソウサ)神社

復び拝殿前へ戻り、社務所手前の祈祷殿へ向かう。

祈祷殿(旧拝殿)

旧拝殿であったというが、この造作の素晴らしさを見ると現役の拝殿はいかばかりかと思う。

祈祷殿

愚痴をこぼしても始まらぬと、もう一つのお目当の宝物館を見学することに。

宝物館入口

その真ん前にご神木があるが、高過ぎてテッペンまで映せない。

ご神木

それから館内へ・・・ここもまた・・・

海獣葡萄鏡・複製品

国宝・海獣葡萄鏡は東京国立博物館で開催中の“大神社展”に貸出中とのこと。

国宝・海獣葡萄鏡

写真は復刻品である。素人目にはりっぱに見えるのだが・・・。でも、後日、大神社展で見た本物は、より大きく、そして神々しく見えたことは紛れもない事実である。

ただ、それに劣らぬお宝がこの宝物館にはたくさんあった。しかも東京国立博物館の常設展示場と同様、写真撮影可というのがブロガーとしてはうれしい。

重文・“双龍文鏡”である。

重文・双龍文鏡

重文・“古瀬戸黄釉狛犬”である。

重文・古瀬戸黄釉狛犬

“源頼朝寄進状”である。

源頼朝寄進状

そしてこの日最も魅入られたのが、鎌倉末期作の“古面”であった。

大癋見(オオベシミ)面を見た時、肌は粟立ち、何者かに頭を押さえつけられたようで目を離すことができなかった。

大癋見(おおべしみ)面

姥面のどこか奥深い、でも、不気味な笑み・・・

姥面

獅子口面の威嚇・・・

獅子口面

得体の知れぬ桎梏を振り解くようにして足早に外へ出ると、春の陽光が目にまぶしい。

力比べに用いた”さし石”

出口の脇には、昔、氏子の男たちが力比べをした際に用いた”さし石”が置かれていた。

それから本殿右手へ回り込み、校倉造りの神庫を見る。

神庫・奥に香取文庫

その奥に当宮の古文書を収蔵する香取文庫がある。

香取文庫

そして、後生だと未練たらしく背後から社殿を眺めたが、流麗な三間社流れ造りの本殿はもちろん白い覆いの中にあり、目にすることは叶わなかった。

本殿修復中

裏手の北参道へ出る手前右に摂社・鹿島神宮がある。

摂社・鹿島神宮

斜め対面に末社・桜大刀自神社がある。

末社・桜大刀自神社

北参道を左にゆけば鹿苑があったのだが、もう足は棒のよう。目の前の”名代だんご”と看板を掲げる”寒香亭”で轟沈。

寒香亭

お昼抜きで歩いたので団子が殊の外おいしかった。

名代だんご

そして好人物の店主・香取さんに出会った。

店主の香取さん

お名前から分かる通り、代々の社家(シャケ)の血筋だそうで、色々と興味深いお話が伺えた。

そしてタクシーを呼んでいただき、真北に位置する津の宮へと向かう。車で6、7分の距離だが、歩くとなると相当ありそうだ。

土手下でタクシーに待っていただき、利根川の川べりに立つ。

津の宮

そこから見下ろす浜鳥居は想像以上に大きい。


浜鳥居

かつて海が湾入していた頃、経津主神は海路、この津の宮から上陸されたのだという。つまり、往昔はこの地が表参道口であった。

利根川から浜鳥居

その故事にならい式年神幸祭にはここから神輿を御座船に乗せ利根川を遡ってゆくという。

式年神幸祭の御座船

黄昏時の利根川に傾いてゆく太陽・・・。

利根川に傾く太陽

この景色を眺めていると、遠〜い昔、御座船に座乗された経津主神が岸辺へと近づいてくる光景が瞼に浮かんできた。

その悠久の浪漫を胸におさめ、JR鹿島線香取駅へとタクシーを走らせた。

JR香取駅

香取駅は無人駅であるが、神宮に似せた色調で統一された趣きある駅舎である。

この電車に乗りました

そして1時間に一本の電車に乗り、鹿島神宮駅へと向かった。

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)

謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)


経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎”で小難しい話をしたが、いよいよここからは神社巡りである。まず、香取神宮をご案内しよう。

東京から香取神宮へゆくもっとも便利な手段は高速バスの利用である。東京駅八重洲南口から出る東関東高速バス・麻生鉾田8番乗場)に乗って、わずか1時間10分で香取神宮の広い駐車場の前に着く。

八重洲南口高速バス8番乗場

停車場から“歓迎”の大看板が掲げられる参道口までは徒歩1分ほど。

バス停留所から参道入り口を見る

大きな看板をくぐり参道へ入ると、両側に土産物屋や蕎麦屋が10軒ほど並んでいる。

参道両脇には土産物屋や食事処が並ぶ

その門前通りを抜けると、正面に香取神宮と書かれた大きな石標が見える。

工事中の香取神宮二之鳥居

その奥に二之鳥居があるはず・・・え〜っ!!  なんと白い布ですっぽり覆われているではないか。そんな〜

来年の4月15・16日に行なわれる12年に一度の“式年神幸祭”にむけて修復作業中とのこと。 トホホ・・・
*’デー`)


それでもめげずに若葉のまぶしい参道に入ると境内にただよう空気は一変、清浄さを増し、身も心も清められてゆくように感じられたから不思議だ。

新緑萌える参道

先に護国神社と要石、それから奥宮を廻ってゆくことにした。

境内内から二之鳥居の姿が透けて見える

日差しの関係で境内からうっすらとシルエットが透けて見える二之鳥居を過ぎると左手に要石へつづく“要石道”がある。

参道左に奥宮・要石へ向かう要石道

飛び石がおかれた登り路は狭くて歩きづらいが、それは香取神宮が鎮座する標高40mほどの“亀甲山(カメガセヤマ)”へ登る径でもある。

護国神社への参道

途中で視界が開けた場所があり、先ほど歩いてきた門前通りの家並が見下ろせる。

亀甲(カメガセ)山より門前にならぶ土産屋を見下ろす

古代、この辺りから東は霞ヶ浦(霞ヶ浦市)、北西部は印旛沼(八千代、佐倉、成田市)、そして北部の手賀沼(我孫子、柏市)一帯へと深く内海が湾入し、その名を“香取海(カトリノウミ)”と称したというが、この高処に立つとそれが実感できる。


亀甲山の真下に海が迫り、やはり小高い台地に位置する鹿島神宮の地とは“安是(アゼ)の湖”を挟み一衣帯水(13km)の互いに視認できる状況にあった。


太平洋から海路、下総・常陸など東国の地に分け入る要衝の地に、国家鎮護の武神が睨みを利かせていたことになる。

護国神社・要石へ向かう石段

さて最後の石段を上り詰めると、突然、平坦な広場が開ける。

護国神社・左奥に要石

護国神社は亀甲山中腹の静謐の地に鎮まる。

護国神社

その小さな祠の左手奥にパワースポットとしても有名な“要石(カナメイシ)”がある(「香取神宮・パワースポットの凸型“要石”」を参照)。

要石駒札

地上に顕れた部分は何の変哲もない小さな凸石だが、根っこがどこかも分からぬ巨石だという。

要石

鹿島神宮の凹型の要石と地中で繋がっているとの伝承が残る。

鹿島神宮の凹形の要石
鹿島神宮の凹形要石

正面には末社・押手神社がある。

末社・押手神社

そこから経津主神の荒魂(アラミタマ)を御祭神とする奥宮へ向かうのだが、どうも門前のお店の裏側へ逆戻りしている気がする。イヤハヤ・・・ (*´Д`)

左手前:長威斎の墓、正面:奥宮

辿り着いた奥宮は霊気一杯!!(「パワースポット 香取神宮・奥宮には一閃の光芒が差す」を参照)

奥宮の石標と鳥居

香取神宮へ参拝する際には、ぜひ、こちらへの参詣も薦めたい。あなたの何かが変わる・・・

神秘的な奥宮

それから、再度、緩やかに曲がる参道へと戻った。新緑からこぼれる春の光が心地よい。

三之鳥居へ向かう参道

参道が開けた先に堂々たる石造りの三之鳥居が聳え立つ。

三之鳥居

その奥の階段上に丹塗りの総門がまるで地上界を睥睨するかのように威容を誇る。

総門

階段両脇に厳めしい阿吽の狛犬が坐る。

吽形の狛犬   阿形の狛犬

そして重文・総門に近づくにつれその壮麗さに圧倒されることになる。

総門アップ

総門をくぐると正面に手水舎。

手水舎

次に手水舎をいったん左に折れ、一段上がった場所にある境内末社の一群を参拝する。左が市神社・天降神社、右が馬場殿神社である。

左:末社天降・市神社 右:末社馬場殿神社

そこで踵を返して右手に総門を見る。

手水舎より総門と三之鳥居を

まるで総門を額縁にして三之鳥居が納まるようで総門の大きさがさらに実感される瞬間である。

経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎

春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

春日大社で不思議に思った経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神を尋ね、瑞々しい新緑が芽吹く頃、香取神宮(千葉県香取市)と鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)を訪れた。


経津主神と武甕槌神は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)から蘆原中津国の平定を命じられ、天安河原から出雲へ降り立ち、大国主命に国譲りをさせた武神である。


そのニ神について、日本書紀と古事記の記述は異なる。


〔日本書紀〕

高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)が誰を平定のために遣わしたらよいかを諸々の神に尋ねている。

そして、一同が「磐裂・根裂神の子、磐筒男(イワツツノオ)・磐筒女(イワツツノメ)が生める子経津主神、是佳(ヨ)けむ」と推挙したところ、武甕槌神が進み出て、「豈唯経津主神のみ独り丈夫(マスラオ)にして、吾は丈夫に非ざらむや」と異議を唱えた。

その結果、「故、以ちて即ち経津主神に配(ソ)へ、葦原中国を平けしたまふ」と、武甕槌神を経津主神に添えて、平定に向かわしたとある。


〔古事記〕

天照大御神が「曷(イヅ)れの神を遣さば、吉(ヨ)けむ」と諮ったところ、思金神(オモイカネノカミ=予見の神)と諸(モロモロ)の神が、「建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)、此、遣すべし」と推挙し、「天鳥船(アメノトリフネノ)神を建御雷神(タケミカヅチノカミ)に副へて遣しき」とある。


つまり、“経津主神”は、日本書紀では葦原中国平定の正使として顔を出すが、古事記には、一切、名前を出さない。一方の“武甕槌神”は“紀”では副使、“記”では正使と肩書は異なるものの両書に顔を出す。


そこで、古事記において“経津主神”を想起させる個所が、伊耶那美命(イザナミノミコト)が火の神・迦具土神(カグツチノカミ)を生んだ際、“みほと”を炙(ヤ)かれて亡くなった場面である。


怒った伊耶那岐命(イザナギノミコト)が、長剣の十拳(トツカ)の剣で迦具土神(カグツチノカミ)を斬り殺した時に飛び散った血から産まれた神として、


剣の切っ先から生まれたのが、石折神(イハサクノカミ)・根折神(ネサクノカミ)・石箇之男神(イハツツノオノカミ)の三柱。

剣の鐔(ツバ)から生まれたのが、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)・樋速日神(ヒハヤヒノカミ)・建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)の三柱。

剣の柄(ツカ)から生まれたのが、闇淤加美神(クラオカミノカミ)・闇御津羽神(クラミツハノカミ)の二柱。


合計八柱の神が十拳(トツカ)の剣に因って生まれた。


その一神・建御雷之男神の別名を“建布都神(タケフツノカミ)”あるいは“豊布都神(トヨフツノカミ)”と古事記は云っている。また、紀の第9段正文で経津を“賦都(フツ)”と云うとあることからも、“布都(フツ)”=“経津(フツ)”を想起させる。


次に、もう一方の日本書紀の記述を見る。

やはり、火の神である軻遇突智(カグツチ)の斬殺に起因して“経津主神”が生まれており、古事記にその名はないものの、“経津主神”は一連の“武甕槌神”誕生譚と深く関わっており、両神の祖は同根であると断じてよい。  


日本書紀は、伊奘諾尊が十握剣(トツカノツルギ)で“軻遇突智(カグツチ)”三段に斬ったが、第5段・第6書において、その刃から滴る血が天安河辺(アマノヤスノカワラ)に至り、五百箇磐石(イホツイハムラ)になった。それが“経津主神”の祖であると明記している。


第7書には、五百箇磐石の岩から「磐裂神、次に根裂神、その児・磐筒男神、磐筒女神、その児・経津主神」とある。


そして“紀”は、剣の鐔(ツバ)から激越(タバシ)った血が甕速日神(ミカハヤヒノカミ)になり、次に熯速日神(ヒノハヤヒノカミ)が生まれ、甕速日神が武甕槌神の祖であると記す。


さらに剣の鋒(サキ)から垂れ激越(タバシ)った血から磐裂神(イワサクノカミ)、次に根裂神(ネサクノカミ)、次に磐筒男神(イワツツノオノミコト)(一説に磐筒男命と磐筒女命)が生まれたとなっている。因みに、剣の柄(ツカ)からは、闇龗(クラオカミ=水神)、闇山祇(クラヤマツミ=谷のある山の神)、闇罔象(クラミツハ=谷の水神)


つまり“紀”および“記”ともに、“武甕槌神”は鐔から、“経津主神”は鋒(先)からと、部位こそ違え、同じ長剣の十握剣(トツカノツルギ)が生まれたことになる。


そして、経津主神と武甕槌神が古来、武神として崇敬されてきたのは葦原中国平定の偉業に加え、その出自が十握剣という聖剣に深く関わっていることによる。


こうした紀・記の記述を見てくると、武甕槌神の別名が“建布都神(タケフツノカミ)”あるいは“豊布都神(トヨフツノカミ)”と“フツ”を冠する神名であること、鹿島神宮に伝わる国宝・“韴霊剣(フツノミタマノツルギ)”、さらに物部家および天皇家の武庫であった石上神宮の御神体なる神剣・韴霊(フツノミタマ)と“フツ”の名を冠していることから、葦原中国平定を成した聖剣こそがすなわち経津主神、同神の御魂のようでもあり、謎は深まるばかりである。


さらに、経津主神について詳しく見ると、紀・第9段一書第二に、


「天神(アマツカミ)、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしめたまふ。時に二神曰さく、『天に悪神有り。名けて天津甕星(アマツミカホシ)と曰ふ。亦の名は天香香背男(アマノカカセヲ)。請はくは、先づ此の神を誅(ツミナ)ひ、然して後に下りて葦原中国を撥(ハラ)はむ。』とまをす。是の時に斎主(イワヒ)の神を斎(イワヒ)の大人(ウシ)と号(マヲ)す。此の神、今し東国(アヅマ)の檝取(カトリ)の地に在します。」


とある。


この斎主(イワヒ)の神については、“古語拾遺”に「経津主神云々、今下総国香取神是也」とあり、延喜式祝詞「春日祭」にも「香取坐伊波比主命」とある。つまり、“紀・第9段一書第二”に云う“斎主(イワヒ)の神”は“経津主神”であり、下に続くように、全国平定を果たしたのは、ひとり経津主神ということになる。


“一書第二”には、経津主神と武甕槌神の二神で出雲で国譲りを成就した後、「経津主神、岐神(フナトノカミ)を以ちて郷導(ミチビキ)として、周流(メグ)りて削平(タヒラ)ぐ」とある。


すなわち、ひとり経津主神が、帰順した大己貴神(オホアナムチノカミ=大国主命)が推挙した岐神(フナトノカミ=道祖神=猿田彦大神)を先導役として全国を斬り随えたとあり、出雲平定ののちの全国平定に関しては武甕槌神の名前が出ていないのである。

経津主神と武甕槌神、この二神はいったい別々の神なのだろうか。国家鎮護を成した人物とその佩いた聖剣を武の神として祀ったのではないのか。そうであれば、二神であるが、同一神とみてもよいとも云える。都よりも遠く離れた地にこの二神が相並ぶようにして鎮まっているのも、この神々が不即不離の関係にあることを暗示しているのかも知れない。

最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
livedoor プロフィール
livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
NAVERまとめ
「NAVERまとめ」ブログパーツは、サービスを終了しました。
  • ライブドアブログ