2013年の最初の旅は、かつて天橋立を参道としていた籠(この)神社を訪ねることでスタートした。
大寒直後の1月22日の早朝、東京駅から新幹線に乗り、一路、京都府・宮津を目指した。途中京都駅で家内の親しい友人と京都で大学教授として心豊かな第二の人生を送っておられるご主人のお二人と合流、賑やかな天橋立への道行きとなった。
さて、丹後國風土記は『奈具社』『天椅立』『浦嶋子』というわずか三つの逸文が残されているのみである。
丹後國は和同6年(713)4月、丹波國から加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の5つの郡を割って成立した。
そのひと月後の5月、元明天皇によって、『1・畿内七道諸国の郡郷の名は好き字をつけよ』、『2・其の郡内に生ずる銀・銅・彩色草木禽獣魚虫等の色目を記録せよ』、『3・土地の沃塉(よくせん=肥沃か瘠せているか)、山川原野の名が名づけられた由来』、『4・古老が伝える古い伝承、珍しい話』を言上せよとの『風土記』撰進の詔が発せられた。
そして、出来たてホヤホヤの丹後國から報告されたもののうち、『地名の由来(3)』にも言及した『古老の相伝する旧聞異事(4)』に関わる前述の三つの逸文が現在に至るまで残っていることになる。
その一つが『天椅立』であり、今を去る1300年前に以下の如く記述されている。
「丹後の国の風土記に曰く、与謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。此の里の海に長く大きなる前(さき)あり。長さは1,229杖(3.64km)、広さは或る所は9丈(26.6m)以下、或る所は10丈(29.6m)以上、20丈(59.3m)以下なり。先を天の椅立(はしだて)と名づけ、後(しり)を久志(くし)の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊奘諾尊、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝(みね)ませる間に仆(たふ)れ伏しき。仍ち久志備(くしび)ます(霊異のはたらきをする意)ことをあやしみたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間(なかつよ)に久志と云へり。此より東の海を与謝の海(現在の宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海(現在も同名・内海)と云ふ。是の二面(ふたおもて)の海に、雑(くさぐさ)の魚貝等住めり。但、蛤(うむぎ)は乏少(すくな)し。」
風土記編纂の時代の度量衡は“和同の制”によるが、その単位でメートル法に換算すると、1丈は10大尺(1大尺=曲尺0.978尺)、つまり2.96mとなる。つまり風土記内に記述されている天橋立の長さは3.64km、幅は26.6m以下或いは29.6mから59.3mとなる。
そこで1300年後の天橋立の姿はどうかということだが、現在、その長さは3.6km、幅は20〜170mと表示されており(天橋立観光協会HP)、長さは風土記の時代と同じ、幅が3倍ほどに広がった個所があるということになる。 また風土記にいう橋立の基部を指した“久志の浜”は、現代では天橋立の先端部、つまり風土記とは反対側の、廻旋橋の方の文殊水道側の浜の呼び名となっている。 伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(天女)が舞い降りた地上界の地とされる“真名井原”こそが、“久志備(くしび)ます”処であるはずであり、天橋立の基部、即ち現在の籠神社・真名井神社があるあたりを久志の浜と名づけた風土記が理に適ったものといえ、なぜ、後世にその呼び名が反対側に転遷したのかは定かでない。 そして天橋立は伊奘諾尊が天に通った梯子が倒れたわけだが、どう倒れたかという、まことに瑣末なことだが・・・(『細かいことが気になるのが、私のイケナイ癖・・・』、杉下右京じゃぁ、あるまいし・・・)。 天女(豊宇賀能賣命=豊受大神)が降臨されたのが、真名井神社・籠神社のある真名井原ということになるので、籠神社側すなわち府中側に梯子の基部があったことになる。 だから梯子は宮津湾を分割するように府中側から文殊側に南方向に仆(たお)れたということになる。 のちに真名井原に籠神社が創建されて、海中に伸びる天橋立がその参道となったが、参拝客は梯子の上部から下へ向かって歩いていっていることになる。どうでもよい話ではある。 さて、われわれ4人は其の日、宮津湾沖に停泊する貨物船から沖採りする日本冶金所有の艀(はしけ)が阿蘇海とのピストン輸送を繰り返すという天運に恵まれ、廻旋橋の開閉を飽くことなく何度も見ることができた。日頃のわが身の行ないの良さ?いや、伊奘諾尊、火明命のご加護であろうと、感謝した次第である。 橋立に赴く前に、智恩寺に参拝したあと、文殊水道(天橋立運河)に架かる廻旋橋(小天橋)を渡り、まずは小橋立エリアへ上陸。 そしてすぐの大天橋を渡るとそこが大橋立、いわゆる天橋立である。小雨が時折ぱらつく大寒の頃とて、天橋立に人影は見えず、森閑としている。 およそ8000本もの松の茂る大天橋の松並木の一本道をたった4人で贅沢にもゆったりと散策した。松並木の道がひっそりととおく続くのみである。 1/3ほどいったあたりに、天橋立神社がある。 その西側に両岸が海に囲まれているにも拘わらず、塩気のない真水が湧くという不思議な“磯清水”がある。 さらに、岩見重太郎の仇討ちの場所や試し切りしたといわれる石が神社の東側にある。 その当りでちょっと松林を東に抜けて見る。白砂の浜辺へ出る。誰もいない浜辺に4人の声だけが響く。その声が渡る先に宮津湾(与謝の海)が拡がっていた。宮津の地名は籠神社をむかし吉佐の宮(天照大神が伊勢へ遷る前、4年間当地に遷座)と呼んでいたので、宮の湊というので、その名がついたと云われる。 また、今度は取って返して西側へ松林を抜ける。すると、そこには冬の薄日がこぼれキラキラときらめく穏やかな阿蘇の海があった。その様はあたかも水面に薄絹の羽衣がひらひらと舞い落ちてきたようにも見えた。 そこには古代人の息遣いが聴こえるようで、そのゆったりとした平安な時の流れに全身が抱きすくめられたような奇妙な気分にとらわれた。 そして真名井原に舞い降りた天女、豊受大神を想い、往古、神が通った道の土の感触を味わうかのようにしずかに歩をすすめた。