彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

February 2013

丹後國風土記の世界に游ぶ=天橋立

2013年の最初の旅は、かつて天橋立を参道としていた籠(この)神社を訪ねることでスタートした。



籠神社
籠(この)神社

大寒直後の1月22日の早朝、東京駅から新幹線に乗り、一路、京都府・宮津を目指した。途中京都駅で家内の親しい友人と京都で大学教授として心豊かな第二の人生を送っておられるご主人のお二人と合流、賑やかな天橋立への道行きとなった。

  
京都駅31番線ホームで待合せ、特急”はしだて”に乗りました

さて、丹後國風土記は『奈具社』『天椅立』『浦嶋子』というわずか三つの逸文が残されているのみである。


丹後國は和同6年(713)4月、丹波國から加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の5つの郡を割って成立した。


そのひと月後の5月、元明天皇によって、『1・畿内七道諸国の郡郷の名は好き字をつけよ』、『2・其の郡内に生ずる銀・銅・彩色草木禽獣魚虫等の色目を記録せよ』、『3・土地の沃塉(よくせん=肥沃か瘠せているか)、山川原野の名が名づけられた由来』、『4・古老が伝える古い伝承、珍しい話』を言上せよとの『風土記』撰進の詔が発せられた。


そして、出来たてホヤホヤの丹後國から報告されたもののうち、『地名の由来(3)』にも言及した『古老の相伝する旧聞異事(4)』に関わる前述の三つの逸文が現在に至るまで残っていることになる。


その一つが『天椅立』であり、今を去る1300年前に以下の如く記述されている。



傘松公園より”斜め一文字”
傘松公園より天橋立・手前の森が籠神社で府中側、海の向こう側が文殊側

「丹後の国の風土記に曰く、与謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。此の里の海に長く大きなる前(さき)あり。長さは1,229杖(3.64km)、広さは或る所は9丈(26.6m)以下、或る所は10丈(29.6m)以上、20丈(59.3m)以下なり。先を天の椅立(はしだて)と名づけ、後(しり)を久志(くし)の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊奘諾尊、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝(みね)ませる間に仆(たふ)れ伏しき。仍ち久志備(くしび)ます(霊異のはたらきをする意)ことをあやしみたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間(なかつよ)に久志と云へり。此より東の海を与謝の海(現在の宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海(現在も同名・内海)と云ふ。是の二面(ふたおもて)の海に、雑(くさぐさ)の魚貝等住めり。但、蛤(うむぎ)は乏少(すくな)し。」


風土記編纂の時代の度量衡は“和同の制”によるが、その単位でメートル法に換算すると、1丈は10大尺(1大尺=曲尺0.978尺)、つまり2.96mとなる。つまり風土記内に記述されている天橋立の長さは3.64km、幅は26.6m以下或いは29.6mから59.3mとなる。


そこで1300年後の天橋立の姿はどうかということだが、現在、その長さは3.6km、幅は20170mと表示されており(天橋立観光協会HP)、長さは風土記の時代と同じ、幅が3倍ほどに広がった個所があるということになる。

雪舟観より与謝の海と天橋立
雪舟観:雪舟が天橋立を描いた場所(宮津湾東)から見た天橋立・手前が宮津湾

また風土記にいう橋立の基部を指した“久志の浜”は、現代では天橋立の先端部、つまり風土記とは反対側の、廻旋橋の方の文殊水道側の浜の呼び名となっている。


伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(天女)が舞い降りた地上界の地とされる“真名井原”こそが、“久志備(くしび)ます”処であるはずであり、天橋立の基部、即ち現在の籠神社・真名井神社があるあたりを久志の浜と名づけた風土記が理に適ったものといえ、なぜ、後世にその呼び名が反対側に転遷したのかは定かでない。


そして天橋立は伊奘諾尊が天に通った梯子が倒れたわけだが、どう倒れたかという、まことに瑣末なことだが・・・(『細かいことが気になるのが、私のイケナイ癖・・・』、杉下右京じゃぁ、あるまいし・・・)。


天女(豊宇賀能賣命=豊受大神)が降臨されたのが、真名井神社・籠神社のある真名井原ということになるので、籠神社側すなわち府中側に梯子の基部があったことになる。


だから梯子は宮津湾を分割するように府中側から文殊側に南方向に仆(たお)れたということになる。


のちに真名井原に籠神社が創建されて、海中に伸びる天橋立がその参道となったが、参拝客は梯子の上部から下へ向かって歩いていっていることになる。どうでもよい話ではある。


さて、われわれ4人は其の日、宮津湾沖に停泊する貨物船から沖採りする日本冶金所有の艀(はしけ)が阿蘇海とのピストン輸送を繰り返すという天運に恵まれ、廻旋橋の開閉を飽くことなく何度も見ることができた。日頃のわが身の行ないの良さ?いや、伊奘諾尊、火明命のご加護であろうと、感謝した次第である。



廻旋橋が開き、バージが通る
廻旋橋が開き、艀が通ります。橋上の赤い傘の人は開閉を指示する人で観光客ではありません
  
廻旋橋上より東側に文殊水道を見る・廻旋橋を渡る知人ご夫妻

橋立に赴く前に、智恩寺に参拝したあと、文殊水道(天橋立運河)に架かる廻旋橋(小天橋)を渡り、まずは小橋立エリアへ上陸。 

  
智恩寺山門と智恵の輪燈籠
  
小橋立に建つ昭和天皇御幸の歌碑(左)、日本三景の石碑(右)

そしてすぐの大天橋を渡るとそこが大橋立、いわゆる天橋立である。小雨が時折ぱらつく大寒の頃とて、天橋立に人影は見えず、森閑としている。

  
この大天橋を渡ると、上の大橋立エリア、いわゆr天橋立の松並木となる

およそ8000本もの松の茂る大天橋の松並木の一本道をたった4人で贅沢にもゆったりと散策した。松並木の道がひっそりととおく続くのみである。

天橋立松並木
当日は人影も見えぬ天橋立の松並木

/3ほどいったあたりに、天橋立神社がある。



  
天橋立神社・神社東側に松並木が府中へと続く

その西側に両岸が海に囲まれているにも拘わらず、塩気のない真水が湧くという不思議な“磯清水”がある。



  
左が天橋立神社、右奥に見えるのが磯清水・磯清水の真水が流れています

磯清水

さらに、岩見重太郎の仇討ちの場所や試し切りしたといわれる石が神社の東側にある。 

岩見重太郎仇討ちの場 
左:岩見重太郎仇討の場の石碑 右:試し切りの石だそうです・・・

その当りでちょっと松林を東に抜けて見る。白砂の浜辺へ出る。誰もいない浜辺に4人の声だけが響く。その声が渡る先に宮津湾(与謝の海)が拡がっていた。宮津の地名は籠神社をむかし吉佐の宮(天照大神が伊勢へ遷る前、4年間当地に遷座)と呼んでいたので、宮の湊というので、その名がついたと云われる。 

誰もいない浜辺と与謝の海
誰もいない白砂青松と与謝の海(宮津湾)

また、今度は取って返して西側へ松林を抜ける。すると、そこには冬の薄日がこぼれキラキラときらめく穏やかな阿蘇の海があった。その様はあたかも水面に薄絹の羽衣がひらひらと舞い落ちてきたようにも見えた。




阿蘇海

そこには古代人の息遣いが聴こえるようで、そのゆったりとした平安な時の流れに全身が抱きすくめられたような奇妙な気分にとらわれた。



  
神さびた苔蒸す松の古木・だれもいない天橋立

そして真名井原に舞い降りた天女、豊受大神を想い、往古、神が通った道の土の感触を味わうかのようにしずかに歩をすすめた。

新聞購読を止めて、平穏な日々が訪れた

今年の初仕事といってよいだろう。この2月1日より新聞購読を止めた。

これで毎朝のわたしのブツブツが止まり、家内も静かで平穏な日々が訪れると喜んでいる。

振り返ってみると、わたしの新聞購読遍歴も波乱に満ちたものであった。

親父存命の間は、陸軍少尉で戦後を迎え、バリバリのライトウイングだった男が、なぜか新聞は、“朝日新聞”にこだわり続けた。事あるごとに朝日の社説が気にくわぬわたしであったが、朝日の購読を父が中断することはなかった。

だから社会人になって一家を構えたわたしは、ご多分に漏れず“日経新聞”を購読することとなった。

そして少し家計に余裕が出てきたのだろう、当時江川が好きで巨人ファンだったこともあり、読売新聞も併読するようになった。

その後、新聞社は産業界に規制緩和と自由競争を求める論陣を張りながら、再販制度の特殊指定廃止の機運が高まったときなど、こぞって我田引水の社説を掲げ、自分たちだけは違う、業界権益の擁護に汲々とし、永田町をも巻き込み、その権益を守り通した。

それに嫌気がさし、仕事上、毎日大手5紙を購読すると云った酔狂な時期もあったが、ナベツネの傲慢な言動が目立ち始めた頃、巨人ファンと読売購読を止めた。

そして、いまなお横綱審議会などでその顔を曝す日経新聞の元鶴田社長の赤坂の高級バー遊興費などに関わる関連会社を巻き込んだ経費の公私混同問題、それを糾弾した社員株主の造反などで示した、日経が口酸っぱく経済界に求めたアカウンタビリティ、コンプライアンスの徹底において、まったくといってよいほど、その逆の姿勢を貫いた厚顔無恥さに、日経新聞の購読もスパッと止めた。

そこで、産経新聞購読となったが、これも何だか忘れてしまったが、自社に都合のよいことしか言わぬ、他社と変わらぬ姿勢に嫌気がさし、最後に東京新聞へ辿り着いた。

そして原発問題、エネルギー政策に関わる論陣で、頭から原発ゼロ、原発廃止と決めてかかる報道の在り方に大きな不満を抱き、先の総選挙で未来の党の結党をうけた時の記事など、“これで原発廃止”の大勢の世論を汲み上げる第三極ができたなどと、政党の在り方そのものの議論もせず、浮かれて、よいしょを続けた東京新聞。

2012年末にその購読も止めた。そこで自民党政権となったところで、じゃぁ、産経をと新年から購読したが、元旦の一面で・・・、何だったか中国と戦争でもやれとでも言わんばかりの記事を目にして、こりゃもうイカンと、2013年1月をもって、長きにわたったわたしの新聞購読生活に終止符を打ち、静かに余生を送る生活に入ることとなった次第である。

まぁ、報道はNHKを主体にテレビのニュースとネットで新聞社配信の記事を無料で読めば、腹も立たぬというもの。この続きを読みたい人は有料というネット記事が某新聞社などで試行されているが、その価値があるほどのオピニオンなり記事が万が一出現すれば、“そのしい事実、意見をく”ことにもなろうかと思うが、おそらくこのまま、朝の穏やかな日々を愉しむこととなろう。

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