彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

March 2012

「船屋秋月」の“わらしべ長者”=旅人の見た京都のお菓子

老松の「花びら餅」―――旅人の見た京都の御菓子(京都グルメ)
右京区宇多野福王子町13-3(本店)

上京区北野天満宮鳥居前(北野店)


北野天満宮一の鳥居脇の船屋秋月北野店
一の鳥居脇にある船屋秋月・北野店

北野天満宮で梅を観賞した帰り一の鳥居を出てすぐ左、今出川通り沿いに“船屋秋月・北野店”はある。

今出川通り正面から船屋秋月北野店
今出川通りをはさんで正面より船屋秋月・北野店を

同じく梅苑を散策しての帰りであろう、わたしのちょっと先を歩いていた老夫婦が立ち寄ったお店があった。硝子戸を開けて入る姿がお馴染さんとわかるほどにどこか自宅にでも入ってゆくかのように自然に見えたのである。


わたしもその様子に吊られてふっと立ち止り、看板を見あげた。

船屋秋月・北野店店頭

そこには“京菓子處船屋秋月”とあった。支店ということもあるのだろうか、店の造作に老松などの老舗の佇まいはなかったが、ちょっとショーウインドーを覗いて見ると餡子大好き人間の虫がうずいてしまったのである。


気づくとその老夫婦の後ろから、わたしもお連れのようにして店内へと足を踏み入れていた。


簡素な店内のショーウインドーに目を凝らし、わたしは“わらしべ長者”(第22回全国菓子大博覧会・名誉総裁賞)と当日の北野天満宮の美しい紅梅をあしらったような“北野梅林”(第21回全国菓子大博覧会・内閣総理大臣賞)を戴くことにした。仲睦まじい老夫婦が迷うことなく“わらしべ長者”を求めていたのを見ていたこともあったが、黄な粉のかかった“わらしべ長者”の何とも素朴なたたずまいが懐かしく、わたしも購入したのである。  

わらしべ長者

“わらしべ長者”は、「大納言は殿中で抜刀しても切腹しないで済む」ところから、煮ても腹の割れない小豆ということで名づけられた“丹波大納言小豆”で造られた餡を薄く伸ばした餅粟生地ではさみ込み、そのうえを黄な粉でまぶした菓子である。

わらしべ長者
黄な粉でまぶされた餅粟生地で包まれた”わらしべ長者”
丹波大納言餡がみっちりのわらしべ長者
丹波大納言小豆餡がみっちり詰まっているのが、とても嬉しい・・・

とても素朴な味で、でも餡子好きには丹波大納言の餡がみっちりとはさまったこの和菓子は、正直に実直に生きてゆくけば福は向うからやって来るという昔話の“わらしべ長者”のように、贅沢でもなく、奇をてらうでもなく、欲をかくでもなく手造りでひとつひとつ丁寧に造られた心温まる京のお菓子として皆さんにぜひお薦めしたい“旅人”がふと手に取った京都の味である。

可愛らしい北野梅林
北野の梅を思わせる可愛らしい”北野梅林”
甘酸っぱい北野梅林
ちょっと甘酸っぱいのが癖になりそう・・・

また、北野天満宮の梅苑での観梅のお帰りにはぜひ、この可愛らしいお菓子、“北野梅林”も、おひとついかがでしょうか。北野の梅を想い出しながら、おいしく頂きました。

 

 

 

大河ドラマ“平清盛” 京都を行く=平等寺(因幡堂・因幡薬師)

大河ドラマ“平清盛” 京都を行く=六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
大河ドラマ“平清盛”京都をゆく=長講堂
下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728



因幡薬師
因幡薬師の名で親しまれる平等寺本堂入口


平等寺はタイトルにカッコ書きしているように、京都では“因幡堂”あるいは“因幡薬師”の名前で親しまれており、逆に“平等寺”はどちらと尋ねても、「はて?」と首をひねられることの方が多いという。

平等寺
平等寺


なぜ“因幡”、はたまた、なぜ“平等寺”という?に答えることが、当寺の由縁、清盛につながる縁を語ることとなる。

駒札
平等寺・駒札

「京都因幡堂平等寺略縁起」で、まずはその縁起を知ることとしよう。


平安時代の天徳3年(959)、行平卿が勅使として因幡国に下向し神事が終え帰京しようとした際、重篤の病に臥せてしまった。一途に平癒祈願をしていたが、ある夜、夢枕に異相の僧が立ち、「この国の賀留津(カラツ)の海中に1本の浮木がある。衆生利益のために遠く仏国土(天竺)から来たものである。速やかに海中より引き上げよ」と告げた。早速、漁師に命じ海底に光る浮木を引上げさせたところ、高さ5尺余りの薬師如来像であった。そこで、この薬師像を大切に祀ると病は癒え、無事に帰京することができた。

行平が因幡を去る際にいずれ薬師像を京に迎えると約束し後にしたものの、その後長い年月が過ぎ去った。長保5年(100348日明け方のこと、行平の屋敷の戸を叩く者があり、戸を開けてみると、そこには因幡からはるばる虚空を飛来してきた薬師像が立っていた。そこで、行平は邸宅内に薬師像を大切に祀ったという。このお話が因幡薬師平等寺の起源ということだそうだ。

薬師如来特別公開
薬師如来の特別公開(写真撮影禁止のためこれで我慢して下さい・頭の頭巾が可愛らしい)


当時、洛中に東寺、西寺以外に寺院建立が認められていなかったため、こうした私的な持仏堂が民衆信仰の対象として都の庶民に崇められ、その霊験譚とも相まって、因幡堂、因幡薬師詣りが盛んになったという。そのため千年を経た現在でも、京都の人々は天皇が定めた寺号よりも“因幡さん”と呼び親しんでいるのだから、やはり、千年の都とは空恐ろしいほどに奥深い土地柄であると、改めて思い到った次第である。

宝物館より本堂を
宝物館より本堂を


またこの因幡堂は浄瑠璃発祥の地ともいわれ、室町時代に猿楽が奉納上演されて以来、江戸時代にはこの境内で因幡堂芝居と呼ばれる歌舞伎も上演されてきた芸能の地でもある。そのため、因幡堂が狂言の舞台となった「因幡堂」・「鬼瓦」・「仏師」・「六地蔵」・「金津(金津地蔵)」といった数多くの曲目が存在している。

観音堂
山門を入って左手に観音堂
観音堂内
観音堂内


さて平等寺という寺号は、薬師如来の功徳は衆生平等に届けられるものとして高倉天皇が承安元年(1171)に勅額とともに下賜されたものだという。


ここに来てようやく大河ドラマ“平清盛(松山ケンイチ)”に関わる人物が登場することになる。第80代天皇である高倉天皇(在位1168-1180)は後白河天皇(松田翔太)の第7皇子で、その母は平滋子(清盛の妻・平時子の異母妹)となる。中宮が清盛の娘である建礼門院徳子(深田恭子)であり、その間に生まれた皇子が後に安徳天皇となる。


美貌の上に箏曲の名手であった小督局(コゴウノツボネ)は高倉天皇の寵愛を一身に受けた。徳子との間に皇子が生まれぬのに、小督に通い詰める若き天皇に岳父清盛が怒り、小督を東山・清閑寺で無理失理に剃髪出家させる。19歳の天皇と21歳の小督局の恋は、二年後の小督の出家により、終わりを遂げる。


その美しくも哀切極まりない物語は、平家物語の巻六や金春禅竹の手による能「小督」として現代に伝えられている。


清盛の怒りを避けるため宮中を逃れ、嵯峨野に隠れ棲む小督が爪弾く“想夫恋(ソウフレン)”の音色を目当てに帝の命を受けた笛の名手たる弾正少弼仲国が小督を探し出し、帝の心を伝える下りは、その若き二人の年齢を想うとまことに切なく哀しい。


その悲恋の主人公・小督局の遺品が高倉天皇が寺号を下賜したというこの平等寺に展示されている。理由は平等寺の歴代住職が長年にわたり清閑寺の住職も兼職したことから、こうした遺品が当寺に残されているとのことであった。


遺品は小督愛用の箏(コト)や蒔絵硯箱が陳列されているが、圧巻は硯の横に展げられている“毛髪織込光明真言”である。小督直筆の写経であるが、その布の横糸として小督が剃髪(テイハツ)した時の黒髪が織り込まれているのである。布の両端に艶の失せた黒い毛髪の先が無数にはみ出し、布の下部を裏返しにして見える裏地には横一線に小督の濡れ羽色をしていたであろう長い黒髪がびっしりとならんでいた。その様を目にした時、まさに息を呑むしかなかったのである。女の情念の凄まじさの風圧に首筋がす〜っとしたのは、わたしだけではなかったと思う。


平等寺本堂前
本堂内に小督局の遺品が展示されている


最後に、平等寺の薬師如来は善光寺(長野県)の阿弥陀如来像、清涼寺(京都・嵯峨)の釈迦如来像とともに、日本三如来に数えられている。


現在、その薬師如来(門前に立っておられたので、立像である)は宝物館に安置されているが、縦長の厨子に納められ、頭巾をかぶっていたのが印象的であった。本堂が幾たびも戦火に見舞われたため、いつの頃からか緊急時に仰向けに如来様を倒して運び出せるように背部に縄と滑車がつく厨子に入れられているのだという。そして頭巾は急いで運び出す際に、仏様の頭部が損傷しないための緩衝材だというではないか。都人によって大切に大切に守りぬかれて来た仏様であることがよく分かるお姿であった。


また、個人的には薬師如来の左脇にそっと鎮座されていた“呉織神(クレハトリ)”と“漢織神(アヤハトリ)”に猛烈な興味を覚えた。この二仏がそろっているのは太秦の広隆寺と蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)とこの平等寺だけだという。広隆寺と蚕の社は秦氏の氏寺・氏神として繋がりの深いお寺・神社であるため良く分かるのだが、なぜ、平等寺にこの二仏がそろっているのか、不思議に思ったものである。


そして、平等寺の創建者たる橘氏が秦氏と強い繋がりを持つのではないかというひとつのヒントになるのかも知れぬと想像を逞しくさせたところである。

大河ドラマ“平清盛” 京都を行く=六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

大河ドラマ“平清盛” 京都を行く=平等寺(因幡堂・因幡薬師)
大河ドラマ“平清盛”京都をゆく=長講堂
京都市東山区五条通大和大路上ル東

本堂・扁額

六波羅蜜寺・本堂扁額
六波羅蜜寺南門
六波羅蜜寺南門より

六波羅蜜寺は、天暦5年(951)に、市聖(イチノヒジリ)と称され、踊念仏開祖である空也上人が開創した真言宗智山派の寺院で、西国三十三所(サイゴク・サンジュウサンショ)の第17番札所となっている。

西国三十三所17番札所

当寺HPの寺史によれば、上人存命時から既にそうした噂があったことから、その出自は醍醐天皇の第二皇子・光勝とされているが、空也自身がそれを語った記録はなく、真偽は定かではないということらしい。

駒札

こうして偉そうに解説をしているわたしだが、実は今回、六波羅蜜寺を訪ねるまで、その寺号は六波羅という地名の場所にある真言密教のお寺だから“六波羅寺”と呼ばれるのだと思っていたということを、ここで白状せねばならない。

本堂
貞観二年(1363)修営の外陣が板敷・内陣が一段低い天台式建築の本堂(重文)

まことにお恥ずかしい話だが、本稿をアップするに際し、本来の寺号が仏教の教えから来ている事実を知った次第である。そもそもわが家の宗派は真言宗智山派であり、般若心経の“観自在菩薩(カンジ-ザイボサツ)。行深般若波羅蜜多時(ギョウジンハンニャハラミタジ) ・・・”と、これまでどれだけ耳にしてきたことか。その“波羅蜜”がキーワードだったとは、とほほ・・・。


下の解説(養老山立国寺・仏教のお話)で“六・波羅蜜”の意味を理解したので、ご参考になればと思い、一応、記載しておく。


「仏道修行を通じ我執を取り除き、慈悲の心で自分と他人の対立・区別を無くし、他人の幸福は自分の幸福、逆に他人の不幸は自分の不幸という自他一致の心持ちで行動する者がいわゆる“菩薩”である。


その菩薩が生きて成仏するために行なう修行を波羅蜜(はらみつ)と呼び、その修行に布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六種類があるため、これらを総称し“六波羅蜜(ろくはらみつ)”という」のだそうだ。


また、“波羅蜜(多)”は「サンスクリット語でパーラミーター(“到彼岸”と訳す)のことで、欲望や迷いの多い此の岸を去って苦しみのない理想世界の悟りの彼岸に渡り達するという意味』だということだそうだ(曹洞宗 寺HP)。な〜るほど、彼岸に渡るには六つの実践が必要で、それを“六波羅蜜”というんだ!!


十一面観音像の立つ境内
もちろん国宝ではない十一面観音像が立つ境内

当寺のご本尊は空也上人自身が刻んだとされる十一面観音立像(国宝)であるが、秘仏として辰年のみに開帳されるということである。大河ドラマ“平清盛”が放映されるまさに2012年がその辰年に当る。御開帳期間は平成24113日から125日の33日間となっている。西国三十三所の“33”という数字は観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来するが、御開帳期間もそれにあやかるものである。ただ2008年、西国巡礼中興者とされる花山院一千年忌にあたり、2008年から2010年にかけ西国33所の全札所で秘仏の御開帳が特別になされ、この六波羅蜜寺も200911月に結縁開帳がなされた)

燈籠と本堂
燈籠と本堂

大河ドラマが佳境に入る11月からの秘仏の御開帳。わたしも再度、六波羅蜜寺へ行ってみなければならぬと思っている。

痛いところがあれば、その個所をなでると治るという御利益のある”なで牛”

また宝物収蔵庫には、今年は嫌と言うほど目にすることになる“平清盛坐像(重文)”や教科書などに載っている“空也上人像(重文)”のほかにも“地蔵菩薩坐像(重文)”・“地蔵菩薩立像(重文)”など一度は写真や映像で目にしたことのあるたくさんのお宝がさり気なく並んでいる。その様は一言で言って圧巻である。(撮影禁止のため、実際に見ていただくしかない。非常に穏やか表情のお像がたくさんありました)

本堂脇に立つ平清盛公の塚

本堂脇には平清盛公の塚や歌舞伎壇ノ浦兜軍記「阿古屋」の白拍子・阿古屋を弔った鎌倉時代に造られた石造宝塔がある。阿古屋の石塔の脇に阿古屋を弔って坂東玉三郎が寄贈した石碑も建っている。

坂東玉三郎建立の阿古屋の説明石碑
鎌倉時代に造られた白拍子・阿古屋を弔う石造宝塔

そして、境内入って左手には都七福神の一となる技芸上達・金運・財運の神様であるありがたい“福寿弁財天”も祀られている。

都七福神の弁財天
都七福神の福寿弁財天

重要文化財の仏様や清盛公の坐像など歴史・文化という教養に触れられるだけでなく、蓄財の神様もおいでになるという六波羅蜜寺。いろいろと見どころ満載で御利益もありそう、一度足を運ばれても決して損はないと、お奨めするところである。

北野天満宮の梅苑、七分咲き(2012年3月13日)

北野天満宮・重要文化財三光門
観梅の参拝客でにぎわう一の鳥居

今年はどこも梅の開花が大幅に遅れている。10日ほど前に知人が天満宮を訪れた際に、写メで送ってくれたものは、京都までわざわざ行って、そりゃ可哀そうにといった一、ニ分咲きの状況であった。

北野天満宮と紅梅
国宝社殿と紅梅
北野天満宮国宝社殿
国宝社殿
七分咲きの梅苑
七分咲きの梅苑

そこで、10日遅れで入京した私はやはり日頃の行いがよいのか、二万坪の境内に植わる約一五〇〇本の梅は七分咲きで私を迎えてくれて、まずはニンマリと・・・。

白梅
白梅

と、思っていたら、一転にわかに空はかき曇り、チラチラと白いものが舞い落ちて来るではないか。なんと、粉雪である。


やはり、行ないは・・・、いいわけないか・・・

五弁の紅梅
見事というべき五弁の紅梅

でも、遠路の客人を天神様はそう邪険にはしない。ちょっとして黒雲が過ぎると、弥生の青空が顔を見せ、咲き誇った紅梅、白梅の花びらに空の青味が透けて見え、それはそれは美しいものでした。

弥生の空と紅梅
弥生の空と紅梅
紅梅

ただ、写真は見事に咲いているものを選んで写したもので、まだ硬い蕾のままの梅の樹も結構、残っていたので、今年は一面満開というのはやはり期待はできないのだろう。


逆に梅を愉しむ時期が長くなるので、それはそれでよいのだと考えた方がいいのかもしれない。   

朱色と紅梅
朱色と紅梅

まだまだ、北野天満宮の梅は見頃が続くので、機会があれば覗いて見られるとよい。

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