かねて家内が見たい見たいと言っていた銀色にきらめきながら落ちて来るカラマツの落葉を見に蓼科へ向かった。そもそも今回は、もうカラマツの落葉も終わっているとの話もあったので、どこかでちょっとでも見られたらいいねと、当初から無計画な道行きとなった。
それでも銀色の落葉に執念を燃やす家内は克明な?事前調査を敢行。北杜市にカラマツ並木があって、そこだと標高もそう高くないので、まだカラマツの銀色の雨を浴びながらドライブが楽しめるのではないかとの提案がなされた。 地図を見ながらレインボーライン(八ヶ岳広域農道)をたどっていたところ、甲斐小泉の“三分一(さんぶいち)湧水”が目にとまった。かねて行ってみたいと思っていた私も、それではと、長坂ICで中央高速を降り、“三分一湧水”(山梨県北杜市長坂町小荒間292-1)に立ち寄った。 レインボーラインの道すがらカラマツ並木にお目にかかることはなかったが、思いがけずその“三分一(さんぶいち)湧水”公園で素晴らしいカラマツの落葉と紅葉を見ることができた。 “三分一(さんぶいち)湧水”は昭和60年に環境庁により“日本名水百選”に選定されたほどの八ヶ岳南麓からの清らかな伏流水を噴出、日量8500トンの湧水量を誇る。 “三分一(さんぶいち)”という変わった名前の由来は、昔、武田信玄が永年にわたる農民の水争いをおさめるため湧出口に石枠の枡を造り、その中に水分石として三角柱石を置き、自然と水量が1/3ずつに分水してゆく仕組みを作ったという伝説が元となっている。 正確には1/3の水量とはならないとのことだが、農民は湧水が三角柱石により三方向へ分かれていくことで平等だと納得し、その後、水争いが絶えたという逸話であり、その智謀を讃え“武田の三分水”とも呼ばれているとのことである。 現在は水元であった坂本家より水源を含む一帯の土地が長坂町に寄贈され、“三分一湧水公園”として整備され、四季を通じて人々の憩いの場となっている。 公園内には三分一湧水の近くに、“大荒れの碑”という巨石が置かれているが、これは昭和18年9月5日に起こった山津波でこの辺りが広く被害に遭い、それを後世に伝えるためのものである。この大石もその時山津波により押し上げられたものである。 公園内に散在する大きな石はその時に八ヶ岳山麓から押し流されてみた土石流の跡だということであった。 当然、この“三分一湧水”も埋没したが、その後、この湧水を利用する旧6ヶ村と坂本家が協力し、“三分一“を掘り出した。その際に分水枡を現在のようなものへと整備、変貌を続けてきたらしい。最初、水争いをおさめた400年以上前の分水枡というにはずいぶんきっちりしていてちょっと違和感を覚えたが、”山津波“という過去の甚大な災害から立ち上がった村人たちの復活の証しなのだと知って、違和感は希う力の強さへの粛然たる確信へと変わった。 “三分一湧水”という仕掛けで諍(イサカ)いをおさめた人間の智恵と山津波で埋没したものを掘り出し復元し、ふたたび伏流水という自然の恵みを活用し続けた人間の営みの真摯な姿勢を愛でるかのように、この日の三分一湧水公園のカラマツの黄葉とモミジの紅葉は晩秋の陽光を存分に身にまとい、それはそれは見事であった。 当日は風が吹くとカラマツから黄金色の針葉が舞い落ちて来て、顔に当ると痛いと感じるほどであったが、家内が期待していた光にキラキラと輝き銀色に見える“雨”というわけにはいかなかった。 しかし、思いがけなく素晴らしい自然の恵みと人間という生き物が本来有する“強さ”を目にすることができ、心を洗われるような清新な道行きとなった。