彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

October 2011

韓国(ソウル・慶州)へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その1---石窟庵

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その2---仏国寺 紫霞門・大雄殿
韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その3 魚板・雲板
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20日から23日までの三泊四日で初めて韓国を訪ねた。


息子夫婦がわれわれ夫婦の還暦祝いにとプレゼントしてくれた海外旅行である。“韓国”を希望したのは、かねてより愛読している日本書紀に頻繁に登場する“新羅”の王都、“金城”(現在の慶州)をこの目で見、足で踏み、鼻でその空気を吸ってみたかったからである。


嫁と娘は海外って云っても韓国? しかも慶州って何?、えっ、どこ?ってな調子。息子は設営者のためこっちの意向にとやかくいう立場にない。還暦の片割れの家内はと云えば、古代史好きの旦那に去年も草深い対馬の神社巡りに運転手代わりで付き合わされるなど、端(ハナ)から美味しいものさえ食べることができればと謂わば悟りの境地に入っており、すんなりと被祝者(こんな日本語あるわけないか)一致で慶州行きが決定した。


そして韓国を初めて訪問するに当たり、その首都をひと目も見ないことはどうも失礼と思ったこともあり、ソウル→慶州→ソウルという何だか非効率な旅程となった。というのも慶州には空港がなく、慶州に近い釜山便も手頃な便がなかったため、ソウル経由の旅となった。


したがってソウルに入国当日と出国前夜の宿泊となったが、ソウルでは地中を縦横に走る地下鉄を駆使し、景福宮や明洞(ミョンドン)などを探訪。その詳細は後日アップするが、それはそれでソウル市民の日常の一端に触れることができ、有意義であった。

DSCF2450KTXソウル駅
ソウル駅8番線に入線するKTX

さてお目当ての慶州だが、201011月にソウルから超高速鉄道KTXの新ルート(ソウル-新慶州:2時間5分)が開通していたため、慶州一泊の旅程ながら、実質1日半の慶州観光を楽しむことができた。


新慶州駅

そして慶州では家族5名が一緒に移動できるようにと、日本語ガイド付きのジャンボタクシー(一日22万ウォン≒16千円)を利用した(日本から二日分を事前に予約)。


慶州での21日、22日は生憎と雨にたたられたが、趙(ジョウ)さんという素晴らしいガイド兼運転手さんに恵まれ、期待以上に濃密な慶州滞在が出来た。当方が希望した盛りだくさんな場所を効率よく廻り、その個所々々での説明も歴史背景を含め驚くほどに詳しく分かりやすいものであった。

新慶州駅に到着するKTX

21日お昼前に新慶州駅に到着すると駅前のタクシー2台に分乗し、宿泊先のコモドホテルへと直行した。そこで趙さんと落ち合う手筈となっていた。荷物をホテルに預けて早速、出迎えてくれたボックス・カーに乗車し、世界文化遺産の石窟庵(ソックラム)と仏国寺(ブルクッサ)を訪ねることになった。コースは趙さんがそうしようと云うので、お任せしたまでである。

石窟庵・世界遺産石碑
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吐含山石窟庵門をくぐり歩いて行きました
DSCF9977
石窟庵登り口の大鐘閣・この階段きつそうだったので、右手の山門(上の写真)から登りました

大鐘閣の梵鐘
石窟庵(創建751年)は吐含山(トハムサン・海抜745m)の頂上間近の東峰に花崗岩を削り築造された石窟寺刹である。その存在は李氏朝鮮時代に仏教が廃れていくにつれ忘れ去られたが、1909年、峠越えをしようとしていた郵便配達員が驟雨を避けようと転がり込んだ洞窟内で偶然、この石仏を発見したという。

雨の中、頑張りました!

麓の仏国寺から登ると普通の足で1時間ほどかかるとのことだが、もちろんわれわれは石窟庵の駐車場まで車で直行。そこからでも坂道や自然石の階段を15分ほど徒歩で登ってゆくのだが、雨の降る中であったため、海が見えるという頂上からの景色は残念ながら堪能することはできなかった。

石窟庵釈迦如来像
ガラス越しに見る釈迦如来像
石窟庵発見時写真・wikipedia
発見時の石窟庵(wikipediaより)

石窟庵はその名の通り切り出した石をドーム型に組んで作られ、洞内中央に花崗岩から彫り出した3.26m丈の大きな釈迦如来像が坐し、その周囲に仁王像や四天王像、菩薩像などが配置されている。

洞窟の前面を覆う御堂
岩山の前面をお堂で覆った石窟庵

もともとは円墳状の土盛りの内に石窟があったそうだが、現在は露出した石窟部分を木造の御堂で覆い、石像群は御堂内でさらにガラスで仕切られている。これは日本統治時代の解体修復の際に創建時の石組に戻すことができずコンクリートを使用するなど耐久性や除湿に優れた石組構造が損なわれ、密閉したガラス室による換気を余儀なくされているとのことであった。

石窟庵の釈迦如来像御顔
釈迦如来の柔和なお顔

釈迦如来の眉間少し上にある白毫(ビャクゴウ)は、もともとは水晶などの宝石であったとかで、東から射しこむ陽光で白毫が輝きを放ち、海上からその光を認めることができたのだという。仏が瞑想に入った時に東方一万八千世界を照らし出すという、まさにそのとおりの役割を果たしていた“白毫”も、いつの頃か盗まれガラス玉に変わっているのだそうだ。


それにしても暗い洞内にライトアップされた釈迦如来の美しさは見事の一言につきる。その柔和でふくよかなお顔と円やかな曲線で縁取られた堂々たる体躯は観る者の心に慈悲と寛恕の気持ちを浸透させてくれるようで、薄暗い御堂のなかにいつまでもずっと佇んでいたいと思った。


わたしは京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像が大好きであるが、この石窟庵の釈迦如来像のお顔はそれと同等かそれ以上に柔和で慈愛に満ち溢れ、ふくよかな体形から、苦界で右往左往するわれわれ餓鬼でも誰彼問わずに救ってくれる寛やかな無限の心を感じとった。

DSCF2507
この雨煙りの遠くに出雲がある・・・、そして文武王の海中王陵も・・・

そしてお堂の外に出て雨に煙る東の彼方を見やっていると、趙さんが「釈迦如来の向かうまっすぐ先には日本の島根県がある。そしてその線上に文武王の『死して海龍となり倭から新羅を護らん』」として葬らせた海中王陵がある」と説明した。文武王は新羅30代の王(在位661-681)で、白村江の戦いで倭国・百済連合軍を討ち破り、高句麗を滅ぼし、初めて朝鮮半島を統一した統一新羅初代の王である。


東方にある出雲、文武王の海中王陵や白村江の戦いといい、この石窟庵の釈迦如来像は1400年前の韓郷と倭の交流、確執を息を吹きかけるような身近さで、わたしに語りかけて来るようであった。

石窟庵のすぐ下に”寿光殿”がある。


石窟庵・寿光殿扁額
寿光殿扁額
寿光殿本尊
御本尊

そこお堂の脇に復元時にうまく使用できなかった新羅時代の花崗岩のパーツが置かれた一画があった。

寿光殿内から
堂内より東方を
新羅時代の石組み残余
新羅時代の余った石組みが残されている

雨に穿たれるにまかせており、貴重な文化財をこんな扱いをして大丈夫かなと心配する一方で、どこか大陸的な鷹揚さと奥深い歴史を感じとったことも事実であった。

寿光殿と吐含山を見上げる
吐含山を望む・寿光殿はかすかに見えるが、その上の石窟庵は雨中に隠れて見えず

雨に煙る石窟庵への旅であったが、ぜひもう一度、ゆっくりとそしてじっくりとこのほの暗い御堂で、一人っきりで釈迦如来様に対面させていただきたいと思っている。そして、利見台から海中王陵を何としてでも望見したいと思った。

2011年”長崎くんち” もってこおい!=(上)---コッコデショ・御座船奉納踊

秋の好日、“長崎くんち”の粋と鯔背を満喫した。

本古川町・御座船
本古川町・御座船 ”寸止め”に挑む
“長崎くんち”は毎年10月の7日〜9日の三日間、長崎の産土神である諏訪神社(長崎市上西山町)でおこなわれる秋の例大祭である。昭和54年に国の重要無形文化財に指定されている約400年の歴史を有す祭りである。

くんちの冊子

今年は三連休と重なったうえ、好天にも恵まれ、さらに人気の出し物もあったことから昨年を4万5千人上回る約25万人の人出を記録した(長崎署調べ)。


7日(マエビ)当日、午前5時の“遷御斎行”の煙火打ち上げ花火を夢うつつのなかで聴いたわたしも、日頃になく5時半過ぎには起床し、家族にせっつかれながら朝の準備をすませ“お諏訪さま”へと急いだ。

踊馬場・満員の桟敷席
最初から最後まで満員の桟敷席でした

開始30分ほど前に諏訪神社前に到着したが、観覧客がぞくぞくと階段を登っている。遠くに見える長坂の階段席はすでに人でいっぱいである。

踊馬場の長坂はすでに人でビッシリ

くんち運営の世話をする“年番町(ネンバンチョウ)”の人たちが踊馬場の桟敷席(4名一桝)への誘導をテキパキと行なう。われわれの桟敷は中段ほどのところにあった。馬場の一番手前奥が見づらくはあったが、超・入手困難な今年の桟敷席、感謝!感謝である〔長崎の叔母の強力(キョウリョクじゃないよ、ゴウリキと読む)でGet!〕。 後日(アトビ)の9日にはアノ小泉純一郎元首相も観覧に訪れていたが、彼は最前列の席で、まぁ、見やすかっただろうなぁと、どこまでこの男はわたしの神経を逆撫でするのだろうと、つまらぬことを思ったものである。

ともあれ、その桟敷から“平成23年の長崎くんち”の初の“奉納踊り”を観覧する栄に浴したのだから、結構と云わねば罰が当たるというもの。そして、午前7時、“奉納踊りの開始”を知らせる花火が「ド〜ン!」と秋空に轟き、いよいよ本場所がスタートした。


今年の踊町(オドッチョウ)は紺屋町・出島町・東古川町・小川町・本古川町・大黒町・樺島町の7ヶ町である。


踊町について、「長崎くんち ミニ事典」(長崎伝統芸能振興会)は、「その年に奉納踊を披露する当番の町を踊町という。現在、長崎市内に全部で59カ町存在し、7つの組に分けられている。当番は7年に一度回ってくる。」と説明している。「寛文12年(1672年) 町の数が77ヶ町に増えたので、11ヶ町づつ7年廻りとなり、近年までこの組み合わせが続く」(くんち塾フォーラムより)とあり、この7年巡りの方式を崩すことなく340年もの間、その踊町の役回りを継承してきた長崎の人々に深い敬意を表するところである。


さて、2011年の演し物(ダシモノ)だが、踊り、曳き物、担ぎ物があり、それが諏訪神社の神前で各町趣向を凝らし、順次、奉納されてゆく。以下に踊番組順に紹介するとしよう。


踊馬場にまず傘鉾が登場する。重さが百数十キロもする“傘鉾”は、必ずひとりの“傘鉾持ち”が担がなければならず、踊町の行列の常に先頭に立ち、何人(ナンビト)もその前へ出ることは許されないという。“傘鉾”は各町毎一基所有するが、町標、いわば江戸の町火消しの纏(マトイ)のような意味合いを持つものであるが、それぞれ飾り付けに趣向が施され、その町の歴史や特色が見てとれて興味深い。


この傘鉾は次に出て来る華やかな“演し物”の前に登場するわけだが、演し物の先触れということではなく、馬場をぐるりと回ったり一か所でクルクル回転したりすることが神様への“傘鉾の奉納”として位置づけられている。したがって、紋付き袴姿の踊町の会長以下役員も傘鉾のうしろに続き入場し、くんち独特の山高帽も神前であるため脱いで登場することとなる。


傘鉾奉納の後に、今度は“先曳き”と呼ばれる子供たちが親に付き添われて時計回りに入場するが、婦人方は神前であるためやはり日よけ傘を閉じて登場する。“ハレの日”に子供の衣装、母親たちの着物姿がこの上なく美しい。


そしてその人たちが退場し、いよいよ“奉納踊”すなわち“演し物”が登場する。演し物は、踊り、曳き物、担ぎ物などに分類されるが、“長崎くんち”が、「遊女高尾・音羽の両人が神前に謡曲小舞を奉納(1634年)」したことを嚆矢(コウシ)とすることから奉納踊が主体の祭りであった事は想像に難くない。


人気の高い担ぎ物の“コッコデショ”(樺島町)も寛政11年(1799)に初登場し、その歴史は212年ということになり、“くんち”の歴史の半分ほどの期間でしかない。


さて、付け焼刃の講釈はほどほどにして、早速、写真で2011年の踊町の“演し物”をお見せしよう。


第一番 紺屋町:傘鉾・本踊

傘鉾
紺屋町・本踊
本踊・稔秋染耀千種彩(ミノルアキソメテカガヤクチグサノイロドリ)

第二番 出島町:傘鉾・阿蘭陀船

傘鉾
長崎くんち・出島町阿蘭陀船
阿蘭陀船を回す
阿蘭陀船

第三番 東古川町:傘鉾・川船

傘鉾
東古川町・川船網打ち
菊池在真君の見事な網打ち
東古川町・川船
川船を曳く

第四番 小川町:傘鉾・唐子獅子踊

傘鉾(トイレに行っていたので、写真は市役所通りの傘鉾行列のもの。小川町の皆さん、スミマセン・・)
小川町・唐子獅子踊
肩車した唐子獅子踊

第五番 本古川町:傘鉾・御座船

傘鉾
本古川町・御座船
御座船
囃子
本古川町・御座船
挑む、鬼の形相
本古川町・御座船
男の美学、ここにあり!!
御座船・寸止めへ挑む
いざ!!寸止めに挑む
御座船を回す

第六番 大黒町:傘鉾・本踊・唐人船


傘鉾
大黒町先曳き・親子で”ハレ”の衣装
大黒町唐人船
唐人船
DSCF0352
本踊・うかれ唐人
DSCF0338
長崎ならではの異国情緒豊かな装束

第七番 樺島町:傘鉾・太鼓山〜コッコデショ


傘鉾
コッコデショの登場
この少年の反り返りにまず度肝を抜かれる
樺島町・太鼓山コッコデショ
颯爽と登場した太鼓山
コッコデショ・天空舞
これが噂の天空舞である
コッコデショ・見事に片手支え
ピタリと片手止め、お見事!!

太鼓山が廻る
もってこ〜い! もってこい!
よ〜し、戻ってきたぞ
もう一回、キバレ!
もう一回、キバレ!!
コッコデショ・見事な天空舞
天空舞、太鼓山は空高く、すばらしい
コッコデショ・見事に止めた
ピタリと止めた
片手止めが決まり、子供たちが一斉に反り返る、綺麗だ!
さぁ、最後だ・・・階段へ向かってゆく
7年後に会いましょう!!

午前7時に始まった2011年の踊馬場での奉納踊は、興奮と歓声の中で午前1047分に無事終了した。


今年は7年ぶりに“コッコデショ”が登場するということで、前評判も例年に増し高かったというが、もちろん樺島町の“コッコデショ”は豪快で恰好よかったが、紺屋町や大黒町の本踊での名取衆や芸妓衆の華麗な舞姿、そして石畳にじかに坐って唄い、爪弾く地方衆の背筋の伸びたたたずまいは殊のほか粋で姿良いものであった。


また、出島町の阿蘭陀船や大黒町の唐人船も豪快かつ華麗であった。東古川町の川船と少年の網打ちの姿はキリリとして美しかった。小川町の唐子獅子踊は肩車というサプライズもあり、その軽妙な動きとあわせて新鮮な驚きを覚えたのか会場は大いに沸いた。


最後に、わたしが最も感激したのは本古川町の御座船である。青々とした坊主頭に波濤をあしらった真青の衣装。そして長采の田代英樹氏をめがけて20人の根曳衆が“寸止め”に挑む。その瞬間の男の気迫ある形相は、わたしの脳漿を完璧なまでにしびれさせた。


これこそ、“男の美学”と、唸ったものである。


また、来年も“おくんち”にコンバ!!と、かたく心に誓ったわたしであった。

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