彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

May 2011

平戸・蔦屋総本家の「カスドース」=戦国時代のスイーツ


本店:平戸市木引田町431(按針の館)
桟橋店:平戸市崎方町825

「蔦屋総本家」は、150年前に制作されたスイーツの元祖レシピ本と云ってもよい「百菓乃図元本」(松浦家・第35代当主松浦熙(ヒロム)の命で作成)の後書きにもその名が認められるように、平戸藩松浦家の御用菓子の勤めを担ってきた老舗であるが、その歴史をたどると、創業は文亀二年(1502)と五百余年もの歴史を有する由緒ある菓子舗である。

2011_04252011年4月平戸神田0450
当日、立ち寄った「蔦屋総本家桟橋店」

そして現在も、肥前平戸藩の4代藩主となる松浦鎮信(松浦家29代)が興した武家茶道の一派である「鎮信(チンシン)流」の御茶請をこの蔦屋が提供しているという(初代平戸藩主も松浦鎮信というが、”鎮信流”を興したのは4代目の殿様の方である)。


献上菓子の石碑
店内に掲げられた「蔦屋」の由来書き

 当店の一押し人気商品の「カスドース」(日持ち14日間)は、ポルトガル船の来航の際に、カステラと一緒に伝わった南蛮菓子のひとつである。戦前までは松浦家の「お留め菓子」として藩侯の催す茶会の御茶請や献上品としてのみ限定的に製造されていた、いわば門外不出のスイーツであり、この「蔦屋」を代表する銘菓である。

2011_04292011年4月平戸・蔦屋0020
カスドース

 「カスドース」は「一口大に切り分けたカステラを溶いた卵黄にくぐらせ、熱した糖蜜に浮かべ、最後に砂糖をまぶす」と当店HPに製法が記されている通り、そのしっとりとした濃厚な甘さがスイ−ツ・オタクには堪らない。初めて口にした時、正直、その贅沢な甘さに驚いたものである。砂糖や卵がとんでもないほどの貴重品であった五百年前に、この平戸にこうしたスイーツがあったこと自体が奇跡と云ってよい。

カスドースの内側は白い

 人間の「食」に対する欲望は今も昔も変わらぬものなのだと思った。そして、五百年前には殿様しか食べられなかったスイーツが、こうして庶民のわたしの口にも入る、今の時代の幸せに改めて感謝した次第である。 

「百菓乃図」に掲載された菓子で、「牛蒡餅」と「烏羽玉(うばだま)」がある。当日は「カスドース」のほかにその二つを求めようとしたが、松浦史料館監修の下で再現された「烏羽玉」は、足が早い(日持ち3日間)ため午前中早くに売り切れとなったとかで、購入できなくて残念であった。「黒ゴマ入り練り餡を柔らかい求肥で包み讃岐三盆糖をまぶした(HP)」烏羽玉、食べてみたかった。

「牛蒡餅」(日持ち7日間)は「中国からの伝来と伝えられ、慶弔時の菓子として用いられその姿が牛蒡に似ていたことからその名がついた」と当店のHPで説明されている。モチッとした食感は・・・、うん、まさに餅だ。カスドースとは異なり、至極、あっさりとした淡白な味の菓子である。

白の牛蒡餅
茶色の牛蒡餅

 やはり、絶品は「カスドース」である。こうした菓子はこれまで口にした記憶がない。オンラインショップで購入できることになっているが、TVで紹介されたとかでここ数カ月は注文殺到のため常に「SOLD OUT」と表示されており、しばらく模様を観てから注文にこぎつけたいと考えている。

どうしてももう一度食べたい「カスドース」

 

しかし、五百年の歴史を有す老舗で「sold out」とは、やはり由緒ある南蛮菓子、スイーツの店舗の為せる洒落た技であると、妙に感心している。


平戸・旅亭「彩月庵(さいげつあん)」=泊ってみたい宿

平戸市戸石川町長者原178−1

電話:0950−21−8811


 彩月庵は平戸大橋をわたり国道383号線から県道19号線を経由し約3km、川内峠へあと数分の中腹に位置する部屋数10室の小さな宿である。

平目の活け造り

彩月庵玄関へのアプローチ(前日は雨でした)

彩月庵入口案内

 

 当日は昼過ぎからの雨の中、夕刻の5時過ぎに彩月庵に到着した。宿の前にはゆったりとした駐車スペースがあるのだが、激しい雨である。宿の屋根のあるアプローチまでのわずかなアプローチをどうしようかと思案する間もなく、すぐに仲居さんと若い衆が大きな傘を手に車まで駆けつけてくれた。ドアを開け、大きな傘を差し掛けてくれ濡れることなく入館。めでたし!メデタシ!



大きな傘でお出迎え

  エントランスで梅昆布茶のサービスを受けた後、屋根つきの通路を案内され、部屋へ向かった。各部屋に玄関が設けられ、独立性の高い造りになっているのには驚いた。



この通路の右手側に各お部屋がある

引き戸を引きそこで靴を脱ぐ。どこか料亭でも訪れているような錯覚を覚えた。  


私たちの「もみじ」の間の玄関です
右手奥が玄関になります

 
 二間続きの部屋で、南蛮風いや中華風だろうか奥の8畳の和室の窓際に鮮やかな朱色の腰掛けが置かれているのが印象的であった。




この八畳間でお食事をいただきます

そして、仲居さんがお部屋の案内の最後に満を持するようにして開いたドアの向こうに・・・


 

何と岩風呂風の温泉があって、われわれは仲居さんの期待に応えて「すご〜い!!」。



岩風呂温泉

そう言えば予約する際に、「ここは部屋ごとの温泉で大浴場がないんだ。変わってておもしろいね」と家内と話したことをすっかり忘れていたのだ。

 食事はお部屋で摂るというので、女性陣が先に温泉へ入ることになった。窓から平戸大橋も見えるのだろうか、「わぁ〜!」とか何たらまぁ、楽しそうであった。



正面に朱色の平戸大橋

 

 わたしもひと風呂浴びて、ゆっくりした。風呂は清潔で天気が良い時は素晴らしい見晴らしなのだろう(実際に翌朝、朝風呂に入った女性陣は朱色の平戸大橋を見降ろしてキレイ!と叫んでいた)。ベランダからは最教寺霊宝館の朱色の塔も見え、まさに眺望は抜群である。もう少し天気がよければなぁ〜、もっと最高だったのに・・・



中央左に朱色の最教寺霊宝館の塔が見える

そして頃合いでも計っていたのだろうか、ちょうど浴衣に着替え終わったときに、「お食事の用意をさせていただきます!」と、声がかかった。

 



さぁ、お目当ての晩餐だ〜!!

 

 あとは冷えたビールに始まり、地酒の説明を聴き、その名も目出度い「福鶴」を注文。



福鶴、おいしかったな!

 

料理は新鮮な魚介類を中心に当地自慢の「平戸和牛」も洋皿として付けられた献立であった。表に「卯月」と書かれた当日の「おしながき」は下の写真の通り。



卯月のお品書き
平戸和牛の網焼き

 当夜は今が旬の平戸名物「ヒラメの活造り」を予約時に別途、お願いしていた。



天然ひらめの活造り

志々岐灘の強い海流にもまれたヒラメの身は艶やかに引き締まり、美味であったことはもちろん、縁側のコリコリ感は今も忘れることができない。

 



このエンガワは絶品でした!!

そして旬菜、先付から始まった食事の量は十分過ぎるほどであった。

 



旬菜と珍味で旨味のある蛸の塩辛
先付・平戸産グリーンアスパラと水烏賊白海月胡麻和え

潮の香の漂う青佐海苔の澄ましは、港町にやって来たのだと教えてくれるこれも優れものであった。

 



材料は地元尽くしで、新鮮、味付けも上品で盛り付けも美しい。



蓋物/赤ムツ大和蒸・蟹身高野豆腐
焼物/車海老・鱈バターソテ
酢の物 筍と桜鯛昆布〆め・カラスミ海月


梅粥真昆布

桜香豆腐黒蜜掛け

 

料理に目のない旅人には堪らない旅亭である。



宿から数分で川内峠です

川内峠に数分の場所で景色最高、料理も申し分なく、温泉の一人占めと、まぁ、平戸へゆく機会があったら、このこぢんまりとした「彩月庵」も一興だと思う。

 


 一度、南蛮の風の吹く平戸の街を散策されてみたらいかがであろう。

古の南蛮貿易港、「平戸」を歩く

平戸生月の山田教会
生月の山田教会礼拝堂

平戸は鎖国前の江戸初期まで、南蛮貿易で栄えた国際貿易港であった。そのため当地には南蛮文化の香り高い文物が多く残されている。



ただ、絶滅危惧種に指定されている「シマシャジン」(キキョウ科の多年草)が、ここ平戸島の南部と五島市福江島の最西端(大瀬崎)および済州島にのみ自生している事実が語るように、海流の関係や朝鮮半島に近いという地勢上の理由から、この地はそれ以前からも海外の文明や人間の交雑する場所であったことは想像に難くない。唐人あるいは倭寇に所縁があるといわれる奇妙な「六角井戸」が平戸と福江にあるのもそうした歴史の延長線上にあるのではないかとロマンが膨らむ。



六角井戸(松浦史料博物館傍)

事実、南蛮渡来の350年ほど前の1191年、栄西が南宋留学から当地へ帰着し、禅宗と茶をわが国に初めて伝えている。 



そして世界が大航海時代の最中にあった1550年、ポルトガルの貿易船が初めて平戸へ入港する。同年には薩摩半島の坊津に上陸した(1549年)フランシスコ・ザビエルが早くも当地へ入り宣教活動を行なった。



平戸城から平戸港・ザビエル教会を望む

ザビエル像から平戸港を望む

 さらに1584年にはスペイン船が来航。1609年にはオランダ、1613年にはイギリスと商館の設置(イギリスは23年に閉鎖)が続いた。また、徳川家康の外交顧問として仕えた三浦按針(ウィリアム・アダムス)も1620年に当地で病没している。



オランダ塀のある坂

このように16世紀中盤より17世紀前半にかけて平戸を訪れた国々の変遷を見て見ると、この九州西端のちっぽけな島が「大航海時代」という世界史の中でも進取の気性あふれた時代の潮流を真正面から受けていたことに気づき、少々、驚きの念を禁じ得なかった。 



天守閣から見下ろすオランダ商館(復元)・対岸岸壁の白い横長の二階建て

 そうした進取の気性で賑わい、華やかな南蛮貿易で栄えた平戸の時代も1641年のオランダ館の出島移転により終焉を迎えることになる。


その南蛮貿易の名残として、平戸には日本で「初」という「初尽くし」がある。前述の「茶」、「禅宗」は中国からだが、「ビール」、「煙草」、「パン」、「ペンキ」そして「カステラ」、「ビスケット」など硬派から軟派?まで幅広く取りそろえた感じで、想像すると当時の賑わいと人々の興奮、目の輝きまでが見えてくるようである。



平戸城天守閣
川内峠頂上

 

今回、訪れた場所は平戸の全貌を見渡す川内峠や平戸城。



川内峠より九十九島を
川内峠

さらに中国商人との交易や南蛮貿易の香りを残す六角井戸、幸橋(オランダ)橋やイギリス商館跡地。 



オランダ橋


オランダ橋上より英国商館跡地を(門を潜って右手に石碑)

そして殉教の地、生月の山田教会(生月町山田免442)、ザビエル教会、そして、有名な観光スポット「寺院と教会の見える風景」などである。 



山田教会
礼拝堂の正面
礼拝堂内

2011_04252011年4月平戸神田0514
寺院と教会の見える風景

ザビエル教会
ザビエル教会礼拝堂内

 


松浦史料博物館

 平戸の街並みは古い景観も処々に残し、想像以上にきれいに整備されていた。四百年前の大航海時代の沸き立つような充溢した気分をいまの平戸に探すことはもはや難しいが、生月の小さな「山田教会」で信者の方にお会いでき、礼拝堂のなかを拝見せていただいた時には、この地が抱えてきた「隠れキリシタン」という華やかに見える南蛮貿易の別の側面、いや裏面史を覗いた思いがしたものである。


生月の港から生月大橋を望む

山田教会

 

小さな教会の静かな堂内にステンド・ガラス越しに幾筋もの光が降り注ぐ。


山田教会のステンドガラス

 その情景は、殉教者たちの凄絶なまでの生きざまが「信仰」というステンド・グラスを透かして見た時、その姿は息をのむような美しさに変じて見えるのだということを教えてくれているようでもあった。

西トマス殉教の石碑

 生月島というキリスト教殉教の地に立ち深く感じたことである。

驚きの味と値段、台湾料理・福金楼(ふくきんろう)=蓼科グルメ23

 

台湾料理・紅鶴楼(こうかくろう)【旧福金楼】=蓼科グルメ24
茅野市米沢
3753-7

0266-78-8808

営業時間:平日1100-1400 1700-2300 土日祝日 1100-2300


2011_05032011年5月奈良井宿0489
台湾料理・「福金楼」へようこそ!

 
  リゾート地、蓼科でお洒落なレストランには少々飽きが来たという方々に、朗報をお伝えしましょう。


台湾料理・「福金楼」という名前のお店である。2010年の7月にオープンということだったので、まぁ、出来立てほやほやのお店といってよい(実際の「金」の字は、上の写真のように「金」の字の左右下に一つずつ「金」を加えた、要は「金」の文字を3個重ねたまことに目出度い文字である)。


ビーナスライン沿いに看板、この駐車場も広いので安心


 ビーナスラインに入って下の方、ショッピングセンター「マックス・バリュー」を通り過ぎて、割烹「たむら」から100mほど行った右手にその「福」と「金」に満ち溢れた「福金楼」はある。


店の対面に出光のガソリンスタンド


「北大塩口」信号の手前80mほどの場所で、左手(店の対面)に出光のGSがあるのでわかりやすい。


ゆったりとした店内


 店内はいたって簡素というより、質素。東京の一流中華料理店と比べるのもおかしいのだが、食べてびっくりの「美味しさ」は都下の一流店に引けを取らない。そして、この値段である。


この本式の北京ダックがなんと1080円!!
お肉を包むには少ない皮、いや肉がこんなに多いとは・・・


当日はGWの真っ最中にもかかわらずお店の予約をとっていなかったため、当日予約ではいつものインド料理「ナマステ」ももちろん、予約でいっぱい。そこで、どこか飛び込みで行ってみようと見つけたのが、ここ「福金楼」であった。以前は違うお店だったはずで、新しいお店だという理由だけで、入ったお店である。


本格的なXO醤海鮮炒め(1280円)


それが大正解!!


海鮮おこげ(880円)

お店の人は台湾の方で、まだ日本語もたどたどしい。しかしそれが本格的な台湾料理の味につながっているのだと感じた。変に日本に馴染んで日本人好みなんて下手な誤解で、例えば中華だったら「ジャスミン茶」なんていう決めつけもなく、いたって素直で気持ちの良いお店であった。


本場の味、ピータン豆腐(380円)


  当夜食べたメニューはすべて一流の味であった。


でも質素な店内の造作が逆に「福金楼」というお店の「味」でもあった。つまり肩の凝らない家庭の味ともいってよい心のこもった料理がたどたどしい日本語で供される。何かほっとするひと時であった。リゾートレストランに飽きた方々、一度訪ねて見てください。きっとご満足いただける味とお値段です。そして、そう、そう、大事なことを忘れちゃいけません、「陳年紹興貴酒」もおいしかったですよ!!


 それから最後にちょっと素敵な情報を。「福金楼」にはスタンプ・カードがあって千円ごとにスタンプ一つ、それが4個貯まるごとに「焼き餃子」や「生ビール(中)」、「手羽先」といったサービスがあるんだよ。


甘辛味が微妙においしい手羽先


 家内に子供みたいだと笑われたが、ちょっとこのスタンプ・カードは嬉しいなぁ!と、大事に財布の中に仕舞ってあります。


一度、この福金楼を訪ねてみられたらいかがでしょうか

木曽路の食事処「こころ音」=奈良井宿の蕎麦・五平餅

塩尻市奈良井368

電話:0264-34-3345

営業時間1100-1430 定休日は水曜日

 

 「こころ音」は中山道・奈良井宿の「鍵の手」に入る手前にある。店構えは江戸の宿場町の食事処そのものの佇まいとでも云ったらよいか、「ちょっと、草鞋でも脱いで・・・」といった感じで暖簾をわけて入る。店内に入るとそこは木曾の民家である。

宿場町の風情そのものの店構え


この手前の土間の椅子に坐って待ちます

 

囲炉裏席が入ってすぐの部屋にある。その奥に座卓席の間とテーブル席の間があったり、ちょっとお洒落である。

囲炉裏席の間には民芸家具がいっぱい

テーブル席もあって便利です


座卓はこの部屋に二つ。テーブル席の間のむこうにもありました
 

 「こころ音」の一番人気は、「こころ音御膳」(お値段1,575円)だという。家内と娘はもちろん、それをオーダー。何せ、前菜として天麩羅や鰹のカルパッチョ、茶碗蒸しなど五品もついて、メインを「ざるそば」・「わっぱ飯」・「五平餅」の三種類からひとつ選び、さらにデザートとコーヒーまで付いているのだから、迷うことなくそれに決めていた。

これが前菜です!女性陣は大喜び!



このデザートが決め手!!

家内が「五平餅」、娘が「ざるそば」を頼み、二人でシェアするのだそうだ。女性に人気が出るはずだ。

初めて見た、二ツ玉五平餅

 

 蕎麦好きのわたしはもちろん「野菜天ざる二枚」(1400円)を注文。烏賊の天ぷらも入った本格的な天ぷらでした。



野菜天ざる二枚のセット

この天ぷら、おいしかったよ!

開田高原産の玄(くろ)そば・二枚で〜す!

 
 メインの蕎麦は地元の開田高原産のわたし好みの「玄そば」である。一口喉に滑り込ませた。腰がしっかりしていておいしい。そして、家内の五平餅も黒ゴマをひとついただいた。かつて食べた平べったい五平餅とは形も味も異なり、ほっこりとしたとでも表現したら良いのか、主食としてしっかり食べることのできる優れものであった。

 

 「こころ音」は、店頭で名前を書き、順番待ちで入店した甲斐のある宿場町の趣きいっぱいのお店であった。



「こころ音」で草履を脱いで憩いの時を過ごされては?

1kmにおよぶ奈良井宿を歩き疲れた時には、ここでコーヒータイムというのも一興である。いかがです?草履を脱がれては・・・



それでも、原子力発電は推進すべき

浜岡原発・全面停止要請で菅直人・政治家失格の烙印 (2011.5.7)
原発必要論者も大飯原発再稼働はNO!(2012.4.17)

結論から云うと、当面は発電電力量の電源構成で26%(2007年)を占める原子力発電の既存設備の稼働を続けるべきだということである。  理由は一次エネルギーの自給率がわずかに4%という脆弱なエネルギー安全保障の現実を踏まえると、わが国の自主独立・経済基盤の安定を担保するうえでは、原料の供給安定性に優れる(=自国資源と看做してよい)原子力に、現状、依存するしかないということである。 

それを国民に理解してもらうには、当然、設備の安全性を総点検し、今次福島第一原発事故の原因の徹底解明とその防止策(フォールトトレラント)の多重化・多様化の手当てが十分になされることが必要である。 さらにこれまでの原子力推進政策のなかで意図的に議論されてこなかった問題についても詳らかにし、新規再生可能エネルギー技術の実用化可能性をにらみながら、新設も含めた原発の有効性について早急に国民的議論がなされ、結論を求めるべきである。 

意図的に議論が避けられてきた大きなものは「発電コスト」の問題である。これまで原子力発電推進を図るうえから、原発による発電コストは4.8〜6.2円/kwh(電事連)と試算されており、石油(10.0〜17.3)、LNG(5.8〜7.1)、石炭(5.0〜6.5)の主要電源コストのなかで最も低いことを、温室効果ガスを排出しないクリーンエネルギーというフォローウィンドが吹く前から、原発推進の大きな根拠のひとつとして掲げてきた。

ここで問題として取り上げたいのは、この低コストはあくまで発電コストであり、核燃料サイクルに要するコストや最終的な課題である放射性廃棄物のコスト、さらには地元対策費といった原子力発電特有のコストがまったく含まれていないということである。地元対策費をどこまで見るか、将来の原発事故賠償コスト引当コストをどのように織り込むかといった点を考慮すれば、そのトータルの一気通貫のコストは、少なくとも現状の5倍程度にはなると試算される。

また逆の観点から物を言えば、エネルギーの安全保障にはそういう意味で大きなコスト負担を国民に強いる問題でもあるということである。

だからこそ、これまで避けてきたコストの問題について、今後のエネルギー戦略を考える際には、はっきりと国民の前で議論をすべきものと考える。

一方で、評論家や政治家が太陽光発電や風力、地熱発電といったクリーンな再生可能エネルギーを拡大せよと声高に叫ぶ。こうした新エネルギーは、産業面で活用できる実用化技術が開発されれば問題ない。

しかし現状はそう簡単にはいかない。 経済性から見てみると、発電コストは太陽光発電が49円/kwh、風力9〜14円/kwh(総合資源エネルギー調査会・2009年中間報告)と、とくに太陽光のコストが群を抜いて高い。もちろん、大量生産ということになれば、かなり費用も削減されることにはなる。

また、太陽光発電を原発に代替しようと考えるのであれば、相当量の規模の太陽光発電が必要となる。

因みに、2008年で一次エネルギーの総供給に占める太陽光・地熱・風力などの新エネルギーの比率は僅かに3.1%である。 太陽光発電で100万kwhの発電設備を建設する、すなわち液晶パネルを広げるとすると、10数年前の知識しかないので恐縮だが、山手線で囲まれた広大な地面、土地が必要だということである。

その後の液晶技術の長足の進歩を考慮しても、今後、その構成比を原子力と同程度の26%まで高めるには、山手線内面積の20倍程度の日照時間の長い土地を想像を絶する量のパネルで埋め尽くすということになる。国土を液晶パネルが埋め尽くす景観上、環境上の問題も別途検討されねばならない。

そうしたコストという経済性の問題のほかに電力を語る場合には、さらにもうひとつ重要な要素がある。すなわちわが国のきわめて高度な産業を支えてきた背景には「電力の高い品質」というアドバンテージがあったという点である。

精密機械を動かす電力は電圧などはもちろんのこと、微細な周波数の変動も許されない。モーターの回転がコンマ幾つかの誤差で異なるだけで不良品が山となって出て来るという。逆に云えば、わが国の産業は高度に均質な鉄鋼や非常に細かいオーダーメードのスペックに応える樹脂などを材料として、この高い品質の電力に裏打ちされた製造設備が精確に作動し、世界に誇れる高品質の工業製品が造られているのだということである。

その面で自然の天候に大きく左右される不安定な電源である風力や太陽光発電は、高品質な電力の安定供給を必要条件とする産業用電力としては、現状の技術レベルでは不向きと言うしかない。部屋を明るくする電気を造ればよいという「量」の問題だけで再生可能エネルギーを議論するのでは、国家の総合的な力、国力を維持、発展させてゆく使命を担う政治家としては、いちじるしくバランスを欠く、あまりに稚拙な考えであると断じるしかないのである。


品質にそうこだわる必要のない家庭用や事業ビル等民生部門(総消費電力の28%を占める)の電力向けに再生可能エネルギーを重点的に使用させるとした場合でも、再生可能エネルギーによる電力を配送する送電線を別途張り巡らさぬ限り(気の遠くなるコストがかかる)、品質の悪い(専門的には「シワ」と呼ぶ)電力を現状の系統(送電網)に混ぜる量が増えれば増えるほど、電力品質の維持は困難となり、高度な産業構造を支えることが不可能となる。つまり我が国産業の競争力が脆弱化し、まさに雇用も減るということになるのである。

そうした諸々の点を含めて、技術面の開発状況、産業の競争力に直結する電力コストや電力の品質といった面、それから発電規模とその発電形態の適応性、そして放射能漏れなどの安全リスクそして温室効果ガス排出規制促進策の視点など多くの問題を多元連立方程式として、電源をどういう形で構成したら良いのか、原発の是非の問題を議論する際には、安全性の担保の側面と、そういった国力をどう維持発展させるかとの問題と併せ、その「最適解」求めることが必須なのである。

その結果として、原発が否となれば、老朽化してゆく原発から順次、廃炉ということになるだろうから、現状の技術水準を前提とすれば、エネルギーの安全保障面からは極めて自給率の低い脆弱な国家となることを覚悟するということになる。

つまり、いったん資源国に紛争が起これば経済活動、市民生活に多大な影響・リスクを抱えることを已む無しとするということである。

経済成長面での制約、オイルショック以降、最も需要量の伸び率の高い民生(家庭・業務)部門、すなわち電気に過度に依存したわれわれの生活スタイルの変質を受容する、不便さを受け入れる「忍耐」が必須ということになる。これまでの快適な生活のある部分、いや、かなりの部分を切り捨てる覚悟が求められるということである。

オイルショックからこれまでの期間(1973〜2007年度)でエネルギー消費の部門別の伸びを見てみると、GDP(国内総生産)は2.3倍に拡大したのに対し、民生(家庭・業務)部門の消費電力量は2.5倍とGDPの伸びを上回り、産業部門など他部門の省エネ努力とは反対に、相対的にはエネルギー多消費型の生活スタイルにわれわれの日常生活が組み込まれていることもよく自覚しておく必要がある。
 
一方で、運輸(自動車・鉄道・船舶・飛行機等)部門はそれを若干下回る2.0倍の伸びとなっている。

それに対し、産業部門は必死の省エネ努力・技術開発により1.0倍と、そのエネルギー効率はいまや世界一の技術レベルに達している。

こうした技術レベル、エネルギー安全保障、電力消費を中心とする生活スタイルの広がり等の現実を冷静・総合的に考慮すれば、エネルギー自給率を向上させる新技術が工業レベルに達するまでの間は、現状の原発の安全度を高め、しかも使用済み核燃料の再処理、プルサーマル、放射性廃棄物の処理・処分までを自国内で完結させる「核燃料サイクル」を慎重に進めてゆくのが、やはり避けて通れぬ最善の策であるとわたしは考える。

ただ、国民がライフスタイルを本当に劇的に変え、国の独立も憲法9条のもとで「友好外交」で凌げるのだ、一次的いや恒常的混乱も我慢するというのであれば、それはそれでわたしも自給生活の山籠りでもする準備が必要だと考えている。

浜岡原発・全面停止要請で菅直人・政治家失格の烙印

それでも、原子力発電は推進すべき

菅首相が6日夜、また得意の緊急記者会見を行なった。

静岡県御前崎市にある中部電力の浜岡原子力発電所の停止中の3号機のみならず、現在稼働中の4・5号機も含め全ての原子炉の運転を停止するよう中部電力に求めたというのである。

わたしは我が耳を疑った。 愚かである! あまりに浅薄である! 臆病である! そして、品性下劣である!

この男の口から発せられた言葉はいつもそうだ。日本の国益、日本の未来についてあらゆる角度から死ぬほど考え抜いて至った究極の選択なのか。それも国の叡知を集結し得られた結論であるのか。とんでもない、口から出まかせなのである。

 「文部科学省の地震調査研究推進本部の評価によれば、30年以内にマグニチュード8程度の想定東海地震が発生する可能性は87%と極めて切迫している。防潮堤の設置など、中長期の対策を確実に実施することが必要だ」というのが、その全面停止要請の判断根拠だという。

「政治」とは理想と現実のはざまを埋めてゆく極めて現実的な営みであると考えている。

政治家は目の前に山積する難問、課題という瓦礫をひとつひとつ取り除き、己の理想、政治理念を達成するためにNarrow Pathを切り拓いてゆく愚鈍なまでの辛抱強さ、現実と云う大きな瓦礫と折り合いをつけ大きな廻り道も厭わぬ現実主義者であらねばならぬ。派手なパフォーマンスだけで現実というさまざまな形状、大きさの瓦礫を撤去し、高邁な理念への道を拓くことは不可能である。

その意味で、菅直人という男は政治家と呼ぶに値せぬ「愚者」、「Populist(大衆迎合主義者)」と、唾棄するしかない。

 いま政治家に真に求められているのは、目の前の厭うべき現実、不安感を受容できずに後先考えずそれを回避したいと狼狽する大衆に迎合することではない。その厭うべき現実、危険という瓦礫をひとつひとつ丁寧に取り除き、国民の真の利益のために大衆の猛反対があろうが、この狭い道筋しかないのだ、この選択しかないのだと折伏(しゃくぶく)、納得させる凛とした姿勢と勇気と胆力が求められているのである。

わが国のエネルギー自給率は2010年度の「エネルギー白書」によれば僅かに4%である。供給安定性に優れた原子力を含めても18%と広義の自給率でも2割に満たない。世界の先進国を眺めると日本同様にエネルギー資源の少ないフランスの自給率は7%である。しかし、国内消費電力の78%を原子力発電で賄うことで広義の自給率は51%を確保している。エネルギー面からの国家の安全保障政策を長期的に図って来た結果の数字といえる。

現在、わが国の一次エネルギー供給に占める石油の構成比は42%(2008年)と第一次オイルショック時(73年)の76%からは低下しているものの、そのほぼ全量を輸入に依存している。なかんずく中東依存度は87%(2010年)と第一次オイルショック時の78%(73年度)の水準を逆に上回っている。

また一次エネルギー供給の23%を占める石炭、19%を占める天然ガスの輸入依存度もそれぞれ99%、96%と石油を合わせた化石燃料のほぼ全量を輸入に依存していると言ってよいのが、わが国のエネルギー問題が抱える実態なのである。

そうした資源希少国家という「現実」を熟知したうえで、持続性ある独立国家体制を整備強化するために、その制約の中で国民の最大幸福という「解」を導き出すことこそ政治家に与えられたもっとも大切な使命のはずだ。

資源政策は老練な外交力に頼る部分が大きい。菅内閣に中東などの紛争地域を含めた国際情勢という不確定要素を凌いでゆく力量などないのは自明である。 そうした自己認識もなく、エネルギーの安全保障についてかくも軽々にしかも唐突に「原子力発電は危険だ」との情報を発信した。しかも多大なるパフォーマンスの腐臭を飛散させながら。

菅直人が云う浜岡原発全面停止の理由は「30年以内にマグニチュード8程度の想定東海地震が発生する可能性は87%」の域内にあるということだ。そして、防波壁の設置など津波対策強化の必要性を指摘した。

であるならば、そもそも福島第一原発は地震の発生と同時に制御棒が入り、原発自体の運転は停止している。問題は冷却用の電源が、外部電源、緊急用電源ともに停止したことである。地震に対する構造は千年に一度の「想定外」(この言葉はわたしはおかしいと考えているが)のM9.0という巨大地震にさえ耐え得た、大丈夫だったということである。炉心はもちろん原発の中心部分は破壊を免れたのである。安全であったと云ってよい。問題は津波による電源設備の破壊であった。そこに大きな油断、慢心があったことは否定できず、今後、その責任が追及されねばならぬことは云うまでもない。 ただ原発事故発生直後、休止中の第4号機が使用済み燃料棒の格納用プールの冷却電源破損により放射能漏えいの危険が高まり、肝を冷やしたのはつい先日のことである。

菅首相のいう緊急性という意味で云えば、優先順位はまず冷却用電源の複数経路の確保であるはずだ。と同時に防潮堤の設営ないし拡張工事であるはずだ。

法的根拠もないなかで、浜岡原発だけが稼働中の原発まで緊急停止させられることの正当性は何か。

敦賀・美浜・高浜などに合計14機もの原発が集中している福井県の若狭湾沿岸は問題ないのか。大阪圏に近く、近畿の飲料水源である琵琶湖にも近いのである。どこが浜岡原発と異なるのか。87%の可能性で「東海地震」が発生すると声高に叫び続けられた予想だけである。

 しかし、1978年に「大規模地震対策特別措置法」で対策強化指定地区として指定され、M8級の「東海地震」が叫ばれ始めてからの30年余の間に、宮城県沖地震(‘78年・M7.4)、日本海中部地震(’83年・M7.7)、‘93年の釧路沖地震(M7.5)、北海道南西沖地震(M7.8)、’94年の北海道東方沖地震(M8.2)、三陸はるか沖地震(M7.6)、阪神淡路大震災(‘95・M7.3)、2000年の鳥取県西部地震(M7.3)、十勝沖地震(’03・M8.0)、紀伊半島南東沖地震(‘04・M7.4)、’05年の福岡県西方沖(M7.0)、宮城県南部地震(M7.2)、岩手・宮城内陸地震(‘08・M7.2)などM7を超える主な大地震ですらこれだけある。 東海地震で想定されているマグニチュード8.0以上の地震も、北海道で94年と2003年の二回も起きている。

権威付けされた東海地震が幸いにも勃発しない一方で、これほどの数の大地震が日本中で起きている事実を踏まえると、今回の浜岡原発全面停止要請は、いかにもみんなが騒ぎ、メディアも注目しているからの菅首相の深慮なき大衆迎合のパフォーマンスと断じざるを得ない。

国民の生命安全を考慮するのであれば、どうして他の原発立地地域は大丈夫なのか。他はなぜ停止しないでよいのか、明快な科学的説明を求めたい。

 そして、稼働中の原発までもが危険だと云うメッセージを国内外に唐突に喧伝した菅直人は、国際的にもその判断根拠を納得のゆく形で説明する責任がある。 原発を国是としてきたフランスで最大野党の仏・社会党が福島原発事故を契機に初めて、今後20〜30年で原発を廃棄する方針へと転じたのに対し、世論調査の原発賛否の結果に事故以前と変化はなく、サルコジ大統領も原発のもたらす大きな利点を改めて国民に説いたという。

その対応と比較し、菅首相の浜岡原発停止の言葉のなかにこの国の未来を見据えた国家像、国民の真の利益は何かといった姿の欠片も見えないのである。

オサマ・ビンラディン容疑者殺害を許す「米国の正義」の欺瞞

 オバマ米大統領は1日夜(日本時間2日午後)、国際テロ組織アルカーイダの最高指導者オサマ・ビンラディン容疑者(54)を殺害したと発表した。

米CNNも「Inside the place bin Laden was killed」のCaption(見出し)で、殺害作戦の実行には米海軍特殊部隊(SEALS)がかかわったと、潜伏していた邸宅の内部の様子や当該作戦に至ったこれまでの経緯など殺害の詳細について淡々と伝えていた。

そしてどこの局だか忘れたが昨夜の米テレビニュースで米軍関係者が「殺害の盾に女性がなっていた」と発言していた。

一応、公式にはビンラディン容疑者の身柄確保を前提としてはいたが、昨夜の米軍関係者の発言を待つまでもなく、当初から同容疑者の殺害は至極当然の予定の作戦だったのだと考えるしかない。「ジェロニモ(オサマ・ビンラディンの暗号名)が殺害された」との一報に対し、オバマ大統領は「We got him」とつぶやいたと云う。

同時多発テロの全容解明を目指すのなら、身柄の拘束を果たし、裁判にかけて、アルカーイダの最高指導者とされるオサマ・ビンラディン容疑者が実際にテロを指示し、実行させたことを法廷で明らかにさせねばならないはずだ。

そうでなければアフガニスタン軍事作戦の大義は正当化されないからだ。

大量破壊兵器を擁するとして国連安全保障理事会決議の不保持義務違反を大義にイラク侵攻作戦を開始し、フセイン大統領を拘束、処刑した米国。そして、その後、イラクの大量破壊兵器の存在は確認されていない。イラク侵攻の大義はなかったことになり、いまだ今日までイラク侵攻軍事作戦の正当性は証明されていない。

そうしたなかで、今度はオサマ・ビンラディン容疑者の殺害である。容疑者というからには、裁判によりその罪が明らかにされ、刑が執行されねばならない。それが民主的国家の最低限のルール、原則である。

今日(5月4日)、当初、米国が説明していた襲撃の状況と異なることが分かった。当初の説明では米政府はビンラディンが銃で反撃したので殺害したとしていた。しかし、今日の報道では同氏は武器は携行していなかった。

つまり初めからジェロニモ(オサマ・ビンラディン)を殺害することを目的に作戦を遂行したと考えるのが自然である。でなければ、大統領の第一声は「We got him」ではなく、「Why did they kill him?」か「Why not,did they restrain ?」となるはずである。

ブッシュ大統領はフセイン大統領の拘束を訊いて、「We got him」と言ったという。

しかし、オバマ大統領はオサマ・ビンラディンの殺害の一報を訊いて、「We got him」とつぶやいた。殺害という事実に接して、「なぜ?」と戸惑わずに「やった!」とつぶやいた。作戦目的が殺害にあったと考えておかしくないという理由である。

そもそもパキスタンという国に潜伏している容疑者を捕縛・殺害するのに米国軍を使うなどその傍若無人ぶりには唖然とする。パキスタンの主権はあまりにも軽いと云わざるを得ないし、他国の主権侵害を歯牙にもかけぬ米国に「国家の正義」など標榜する資格などこれっぽちもない。

米国がこうだと信じたことが「正義」だとして、他国に平気で軍事介入するあり方は、どう考えてもおかしい。さらにいまの国連のあり方は大きな矛盾を抱えている。なかんずくリビア空爆でも分かるように米・英・仏にとって気に食わぬ政権、主義は軍事介入してでも制圧、ねじ伏せるというのでは、あまりに偏狭な独善主義であり、独裁主義と断じるしかない。

東京新聞は4月30日、「(政府は)米側が求めていた滑走路をV字形に配置する方式を容認する方針を固めた。結局、自民党政権時代の「V字案」に戻る形になる。北沢俊美防衛相は五月七日に沖縄県を訪問し、仲井真弘多知事に対し、「V字案」を容認する方針を非公式に伝える見通し」であると伝えた。

東日本大震災で米軍は原子力空母まで派遣した被災地支援の「トモダチ作戦」を展開した。在沖海兵隊も現地に入り救援活動に従事した。その活動自体は心から感謝をする。

しかし、「トモダチ作戦」が終了した5月1日とほぼ歩調を合わせるように、米軍の要求する「普天間V字案」の方針を政府が固めたことを考慮すれば、米国の自国利益に合致した懐柔策にあまりにこの国は簡単に騙され、翻弄され、その外交術の幼児性を再認識させられ、暗澹たる気持ちになる。

米国は災害やテロなどすべての事象を材料に、自国利益の拡大強化につなげる強引な外交いや独善的な軍事力活用を図る国家であると云える。それは厳しい国際政治の中で当然と言えば当然の国家の動きではあるが、米国の属国にも見間違われるこの国にとって、イラク、アフガン侵攻、今回のオサマ・ビンラディン殺害という他国の主権侵害をまったく問題視せず、自己正当化を続ける米国という独善国家に、われわれはそろそろ、その欺瞞性を見抜き、一定の距離を置き、自国の安全保障問題を含め冷静な評価を下すべき時機に来ていると考える。

木曽路・奈良井宿、「古き良き日本」を歩く=NHK朝ドラ「おひさま」のロケ地

NHK朝ドラ「おひさま」ロケ地=旧制松本高等学校の本館・講堂
木曽路の食事処「こころ音」=奈良井宿の蕎麦・五平餅
湧水の郷、安曇野を歩く その1=NHK「おひさま」ロケ地・陽子の通学したあぜ道
「おひさま」ロケ地・安曇野を歩く その2=陽子(若尾文子)の「百白花」・大王わさび園水車のある風景

 「木曽路はすべて山の中である」  島崎藤村の「夜明け前」のあまりにも有名な書き出しである。ゴールデン・ウィークの一日、木曽路十一宿のひとつ、「奈良井宿」を訪ねた。まさにその東西を高い山並みが挟み込む狭隘な街道筋、山の中に宿場町はあった。
 

奈良井宿看板

奈良井宿駅前・下町に立つ

奈良井宿のにぎわい
にぎわう奈良井宿


3.11の東日本大震災以来、わたしは、日々、テレビ映像で流される悲惨な地獄絵図に心底打ちのめされていた。そんな気分の中、この4月より始まったNHKの朝ドラ「おひさま」の描く昭和初期の日本の風景は、いつしかわたしの心に安らぎや癒しや人の心の優しさのようなものを贈ってくれているように思えてきた。
 


ほっとする格子の美しい街並み

門前で陽子たちが出征兵士を送った石造りの家・お医者様の家だったそうです



その「おひさま」のタイトルバックに安曇野市に列んで協力・「塩尻市奈良井宿」とあった。舞台は安曇野のはずなのになぜ木曽路の宿場町なのかと思っていたが、井上真央演じる主人公の陽子が女学校へ通う街並みに奈良井宿が使われていることを知った。


鎮神社前より上町通りを・ここから鍵の手にかけてが「おひさま」のロケに使われた通り

そこで、大概の全国の「古い街並み」とガイドブックで紹介される処が、アングルによってはその通りだが、普通に眺めると何の変哲もない現代の街並みであるといった苦い体験を幾度かさせられてきた我が身ではあったが、今回はロケ地大好き人間の娘も同行とあって、話はトントン拍子に進み、奈良井宿往訪となった。
 

 

陽子たちが帰り道に寄る飴屋として使われた櫛問屋中村邸

奈良井宿は木曽十一宿のうち、江戸方面から歩いて木曽路へ入って贄(にえ)宿の次の二番目の宿場町である。因みに木曽路の出口にあたる十一番目の宿場が「夜明け前」の舞台となる馬籠宿である。
 


贄宿の入り口にある贄川関所(復元)


奈良井宿は木曽路に入って二番目の宿場町でありながら、次の宿場「薮原」との間に難所の鳥居峠(標高1197m)を挟むため、ここで宿をとる旅人が多かったことから「奈良井千軒」と呼ばれるほどに、木曽路十一宿中最も賑わい繁栄した宿場町であったという。
 


酒造店「杉の森」



昔からの旅籠だった旅館越後屋

難所である鳥居峠は古くは「県坂(あがたさか)」、中世に至り「ならい坂」・「薮原峠」とも呼ばれていたが、千五百年前後に信濃の戦国大名であった木曽義元がこの峠に戦勝祈願のために鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼称されるようになった。 その鳥居が戦火によって焼失し、この地の領主・奈良井義高によって、峠の下り口、奈良井宿の出口(上町・最南部)に遷されたのが奈良井宿の鎮守の社となっている「鎮(しずめ)神社」である。また、奈良井宿の江戸からの入口側(下町・最北部)には八幡宮がある。 



鎮神社鳥居・ここから鳥居峠へ登ってゆく



奈良井宿は宿場の長さが約1kmにわたる日本最長の宿場町である。江戸側から来ると、下町・中町・上町と順に宿場が区分けされており、その要所々々に6か所の「水場」がある。


「下町」の水場
例えば下町の入口には「下町の水場」がある。上町と中町の境に「鍵の手」と呼ばれる街道が稲妻形に折れた場所があるが、そこに「鍵の手の水場」と「荒沢不動尊」がある。

鍵の手・左手に見える水場、右手鳥居が荒沢不動尊

「横水」の水場

中町と下町は「横水」という沢(水場)で区切られている。また、奈良井宿の出口である鎮神社の手前には、「宮の沢」という水場が置かれている。旅人の喉をうるおしてきたそれらの水場は木曽路の湧水を引いており、奈良井宿の上・中・下の水場組合の人々によって現在も管理されている。


「宮の沢」の水場

奈良井宿を実際に歩いて見て、正直びっくりした。1kmにおよぶ中山道の宿場町はおよそ300軒の住民の方々の努力により、見事に江戸、明治時代の街並みが修復・復元・保存されて現在に残されていた。


日本の原風景

京風の格子が続く街並み。板を重ねて波形にそらせた鎧庇や猿頭(さるがしら)と呼ばれる独特の小屋根は奈良井宿独特のものであるという。格子戸と吊り金具で支えられたその小屋根が連なる風景を目にしながらそぞろ歩く。




中村邸の鎧庇を飾る雲形をした猿頭

鎧庇や猿頭(さるがしら)の続く街道


日本の原風景と言えば安易過ぎる。しかし、この国難とも呼ぶべき時に、たまたま訪れたこの奈良井宿の街並みは、確かにわたしに「日本人は大切なものと引き換えに、今の薄っぺらな文明を手にしたのだ」と、呼びかけているように思えてならなかったのである。 街並みの入口と出口に神社が祀られている生活。要所々々に旅人の喉をうるおすための水場を整備している思いやり。そして崩壊しようとした古い街並みをひとつひとつ修復、復元し、街の人みんなで保存し続ける共同体・・・。この奈良井宿にはいまも息づいている「日本人の心」があると感じた。


「鍵の手」に立つ道祖神



そして、NHK朝ドラ「おひさま」はこれからつらい戦火の時代に入ってゆくのであろう。しかし、脚本家が若尾文子さんに語らせていた「昭和13年頃の時代は決して不幸だとは思っていなかった」という庶民の安らかな歴史、古き良き日本の佇まいが、この奈良井宿には大切に残されているのだとも感じたのである。
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