彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

April 2011

小佐古敏荘内閣参与(東大大学院教授)辞任理由は菅内閣の欺瞞体質を衝く

「私のヒューマニズムからも受け入れ難い」と小佐古東大大学院教授のその表情は苦痛にゆがんでいた。

4月29日、小佐古敏荘東大大学院教授が菅内閣の原発事故対応に抗議し、内閣参与の辞任を表明した。

小佐古内閣参与は、菅首相が福島第一原発事故収拾に向けて、大震災発生の5日後の3月16日に放射線の専門家として内閣参与就任を要請した人物である。

 29日の辞任会見で同氏は、「原子力災害対策も他の災害と同様、法律や指針、マニュアルに則って進めるのが基本だ。しかし、官邸および行政機関はそれを軽視し、その場限りで臨機応変(出会いがしら)の対応を行ない事態収拾を遅らせているように見える」、「何を(菅首相に)提言しても無意味だ」といった発言は極めて重く、菅内閣の統治能力・危機対応能力の欠如・崩壊を示すものと云える。

 さらに、「(20ミリシーベルト以下の被爆は大丈夫と)容認したと言われたら学者生命が終わりだ。自分の子どもにそうすることはできない」と述べ、「この数値(20ミリシーベルト以下)を乳児、幼児、小学校に求めることは、学問上の見地からも、私のヒューマニズムからも受け入れ難い。この数値の使用に強く抗議し、見直しを求める」とし、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)を法令で定められている手順通りに運用し、隠すことをせずに予測結果を迅速に広く公表することを求めた。

 この小佐古氏の発言は、菅内閣が国民の「生命と安全」を守るどころか、自己の政治生命を守るために放射能拡散情報を意図的に隠ぺいし、国民とくに子供の生命を危険にさらして憚らないという、為政者としてあってはならぬ、許しがたい行為、言ってみれば人殺しに等しい凶悪犯罪をおこなっていることを、震災対応や政権運営を内部から見た人物が糾弾したものと云える。


 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする憲法13条をないがしろにするものである。

 小佐古氏が「私のヒューマニズムからも受け入れ難い」とまで発言した意味は重大であり、犯罪行為に自分の良心として加担できぬと云っているのである。

 菅直人は何故に政治を志したのか。菅直人は何故に総理大臣になったのか。菅直人は国民の命を危機にさらして何を守ろうとしているのか。

 菅直人は「大震災時に自分が総理であることは(天が与えた)宿命である」と、自分をあたかも国難に立ち向かう悲壮な英雄になぞらえた。

 笑止である!!

 小佐古氏の辞任理由こそ、菅直人という人物の狡猾さ、欺瞞体質を摘発するものであり、隠ぺいされた情報の公開を早急に行なったうえで、国民を裏切る人物が国民のリーダーたる資格などないのは自明であり、即刻の退陣を求めるものである。

避難所から夜な夜な老人が消えてゆく=東日本大震災の闇

 近親者や親せきの方が避難所で生活し続けている複数の人物から、あまりにせつなく痛ましいそして戦慄する話を耳にした。この21世紀の日本で言葉を失う悲劇が日々起こっているという。にわかには信じられない。

 青森と福島という離れた避難所で最近、夜な夜な老人が一人また一人と姿を消す事態が多発しているというのだ。とくに4月7日の宮城県沖でのM7.1(最大震度6強)、11日の福島、茨城両県でのM7(同震度6弱)の余震が起きてからはその戦慄する悲劇が増えているという。そしてその両方の避難所には何ら特別な関係があるわけではなく、青森、福島以外の他の避難所でも似たような悲劇が起きている可能性が高いという。

 その痛ましい悲劇とは?

 夜な夜な消えてゆく老人は、なんと近くの高所から飛び降りるなどして自ら命を断っていると云うではないか。そして飛び込む場所も決まっているのだとも聞いた。

 何ということだ・・・・

 3.11大震災からひと月が経ってまだ先の見えぬ不自由な避難所生活。そして7日深夜にこれでもかと襲ったM7.1の巨大余震。それまで張りつめていた心が一挙に折れてしまったとしても責めることはできない。

 さらに知人が云うには、実は翌日の8日から小学校の新学期が始まる予定であったそうだ。避難所内にも子供たちの浮き立つ心は伝染し、お年寄りたちは我が事のように楽しみにしていたという。それが深夜の大地震で新学期の開始は延期となった。登校の喜びに輝きを放つ子供たちの顔に復興への希望をつないでいたお年寄りにとって、ひと夜明けて輝きを失くした子供らの顔は今回の大震災の非情をあらためて思い知らせ、弱った心を打ちのめすのに十分だったに違いない。

 わたしにその情報を伝えた人物は避難所生活をする近親者や親せきから直接、話を聴いているので、「老人が姿を消し続けるのが日々増えている」のは事実であるという。被災地報道の陰に隠れた闇である。

 その多発する悲劇、闇について政府はもちろん大手メディアも全く報じていないし言及していない。これが風評であればと願う。早急にその実態を伝えてもらいたいと思う。

計画停電の終息宣言と枠組み温存で、憲法で保障された「生存権」はどうなる

海江田万里経済産業相は8日の閣議後記者会見で、計画停電について「実施するのが原則から、実施しないことが原則になる」と、同日で原則打ち切りを表明した。

 

そのなかで、今後の不測の大停電を生じさせないための「緊急措置」として、計画停電の枠組みは残すとした。

 

 計画停電についてはそのグループ別けで都内区部(除く荒川・足立区)が計画停電の除外地域となり、その不公平な扱いに大きな不満の声が挙がっていた。


停電中に蝋燭の灯が液晶パネルに映る

 

 被災地の多くの方々が避難所での不自由な生活を強いられているなかで、たかが3時間の停電が我慢できないなんてと言われるかもしれない。しかし、事はそう簡単ではない。

 


 計画停電の地域内にある基幹病院では自家発電を有していても、心臓病など時間のかかる大きな手術は原則、延期の已む無きに至ったという。

 

 これは23区内の病院に駆け込める人たちとそれ以外の計画停電地域にある病院に搬送される病人とで、緊急時の命の扱いに不公平が生じるということである。実際にこのひと月の間に計画停電による影響で亡くなった方がいたかどうかは知らない。だが、医療関係者が計画停電のあり方に非常な危機感を持っているのは明らかである。


丸ビルエレベーターも停止

 

憲法はその25条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と、「生存権」について規定している。

 

節電努力と火力発電の再稼働等供給力の積み増しにより、計画停電が原則終息するのはまずは一安心ではある。ただ、今後の「緊急措置」として計画停電の枠組みを残すというのは、あまりに便宜主義であり、「生存権」の軽重がその住む地域によって異なるというのは、憲法13条に謳っているすべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」の「生命追求に対する国民の権利を国政の上で最大の尊重を必要とする」に明らかに反する行為である。


電車内も蛍光灯は消灯・もちろん暖房もオフ

 

現在の不公平なグループ別けを温存した計画停電のあり方は、そういう意味において大きな問題を抱えており、その枠組みを安易に残そうとする政府、就中、海江田経済産業相の姿勢は厳しく問い質されねばならぬ。

 


丸ビル地下道も節電で薄暗い

計画停電の街を歩き、国造りのあり方に革命的な見直しを

  東日本大震災により電力の需給ギャップが発生、計画停電というかつてない事態に首都圏は見舞われた。


午後7時からの計画停電・居間の液晶画面に映る蝋燭の灯

 今回の福島第一原発事故により首都圏の快適な生活の多くの部分を、首都圏から200km以上離れた東北の地で造り出されていた電力に依存していたことをあらためて認識し直した人も多いと思う。


オフィス廊下も消灯し、朝にもかかわらず真っ暗

 

 いま福島や茨城の人々は放射能という目に見えぬ恐怖に日々脅かされ、日常生活、いや個々人の人生そのものの存立基盤が根っこから崩壊しようとしている。その犠牲のもとに成り立っている首都圏民の人生。いろいろと考えることが多い。

 

 そして沖縄普天間基地問題も同様だとあらためて思った。国の安全保障を一地域に過酷な負担を背負わせることで担保する。

 

 計画停電の街を歩いて、各々が節電に心がける自発的行為を目にすると、当然とは言いながら、まだまだ日本人の公共道徳がすべて喪失されたわけではなかったと少しほっとした部分はある。

 

しかし、これまでの補助金・助成金をばら撒き一地域に過酷な負担を強いる形で全体の安全・安心を確保する国造りのあり方はこれから大きく見直される必要があると強く感じた。

 

 政府の復興へ向けた動きはなきに等しく、当座の復旧の目途すら立っていないというのが実態である。

 

政府は復興へ向けた整合性のとれたグランドデザインを早急に示し、その行程表を明らかにしてほしい。計画停電のあり方ひとつとってもそうだが、現在の場当たり的な政府の対応に被災地の方の苛立ちも限界にきているのではないだろうか。

それでも春はやって来る=奈良・氷室神社の枝垂れ桜は満開

 311日の東日本大震災からもう三週間余が過ぎた。まだまだ、被災された方々へ必要な物資も届いていない。お風呂もこの3週間余入っていない。被災地の衛生状況は日に日に悪化しているという。復旧の具体的目途すら立っていないというのが、残念ながら無政府状態のわが国の現状である。

 

 そうしたなか、某知事が「花見自粛」を訴えた。未曾有の大災害、国難の時に、浮かれて花見などとんでもないということだろう。


氷室神社拝殿

 

 叔母の一周忌で奈良を訪ねた家内が近くの氷室神社へ参拝した(43日)。枝垂れ桜が満開だった。


 あまりに見事だったので写真を撮り、こうしてわたしに見せてくれた。


4月3日の朝、満開の枝垂れ桜

 

 氷室神社は遠く奈良時代、元明天皇の御世、和銅3722日(710年)、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、七十余年の間、41日〜930日に平城京に氷を献上し続けたという。都が移ってからはその献氷の勅祭も途絶え、貞観221日(860年)の清和天皇の御世に現在の地に奉遷せられたとのこと。

 

 今から1300年前に創建された氷室神社。平城京において朝廷の恩寵もさぞかしであったろうが、平安京へと都が遷るやその栄華もさびれ、創建150年後には遷祀され、春日大社の別宮となった。

 

 その後、氷室神社は「南都流舞楽」の本拠として平城京の舞楽を営々と伝承していった。三方楽人(奈良・大阪・京都)の一角として明治国家に召され、その心技は現在の宮内庁楽部へと一本の糸として紡がれてきている。


拝殿前の「南都舞楽」説明書き

 

 氷室神社の四脚門の右手前に枝垂れ桜は植わっている。


四脚門前に植わる枝垂れ桜

 

 千年は一日の如くまた一日は千年の如しと教え諭すかのように、それでも枝垂れ桜は満開の姿を人々に見せている。

 

それでも春はやって来るのである。

 

いい写真を見せてもらったと妻に感謝している。

ビックリ!!伊豆・網代温泉の「平鶴(ひらつる)」=伊豆グルメ・ランチ


熱海市下多賀493

電話:0557-67-2221



 河津桜を見に行く途中、お昼をどこかで取ろうと物色していたところ、網代温泉の入口、国道135号線沿い左手、網代港に面して、磯料理・湯の宿「平鶴(ひらつる)」はあった。



温泉宿が本業の平鶴

 

 「海の幸 お食事」と縦長の青色の看板が国道脇の左頭上にあるが、カーブの多い135号線なので、網代温泉の入口を入ってすぐのところと覚えておいた方がよい。わたしたちもちょうど12時を過ぎたあたりにそこを通りかかったので、突然、目に飛び込んできた青色の看板にハンドルを急に左に切り、広い駐車場へ止めたのである。



この看板を見て飛び込んだ
平鶴の前を走るのが国道135号線

 

 言ってみれば出会いがしらに飛び込んだというのが、正しい。何せ、看板がいわゆる「お食事」であるから、まぁ、夜に御馳走を食べるからランチは適当にといったところである。



右手突き当りに食事処・左は温泉

 

 フロントから数段の階段を上がったところに靴を脱いであがる食事処がある。客はわたしたちだけであったが、食事時でもあり、すぐに2、3組の客が続いて入ってきた。広々とした座敷に食卓がゆったりと並んでいたので、静かに窓外の景色を眺めながら、食事がとれた。大きなガラス窓からは網代漁港、その先に相模湾が広がる伊豆の景色が広がる。



ゆったりとした座敷
窓外に網代漁港と伊豆の海岸線

 

 定食メニューも1575円・2100円・3150円コース、さらに特選コースとして5250円〜10500円までと豊富である。わたしは「鯵フライ定食」(1575円)を注文した。そして、運ばれてきたのが下の写真である。量もたっぷり、御飯もおいしい。そして鯵のフライもふっくらとして肉厚でホクホクで、こんなおいしい鯵のフライは初めて食べた。掛け値なしの評価である。



ご飯もおいしい鯵フライ定食
このふっくら感は生まれて初めての食感でした、おいしかった!

 

家内と娘は「刺身定食」(1575円)を頼んでいたが、網代漁港に今朝揚がった新鮮な刺身の味にまさに舌を巻いていた。



見てください、お刺身の種類も豊富で、そのほかの器も汐の香り一杯でした!

 

 平鶴はそもそも源泉かけ流しの温泉宿である。さぞかし夜の豪華な海鮮料理も素晴らしいに違いない。そう思いながら、席を立った。




 すると、他の席のお客から「おいしいお店を紹介してくださってありがとう」と声をかけられた。「えっ!」と怪訝な顔をすると、「いや、どこでお昼をしたら分からなくて・・・」と云う。わたしどもが駐車場に入ったのを見て、ここでランチと決めたらしい。家内も「おいしかったですね」と応じていた。思いがけずおいしい料理に出会った旅人たちの温かな会話であった。





 機会があったら、ぜひ、左にハンドルを切ってひろい駐車場に飛び込んで見てはいかがでしょうか。本当に、本当に、おいしかったんですから!!


 





 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


1.不入の地、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)の祭祀
 

   龍良山(タテラヤマ)

龍良山559m・雄龍良山(オタテラヤマ)・雌龍良山(メタテラヤマ))は古来、天道山」と云われ、天道信仰の聖地とされてきた。故に禁伐林であったため榊・柞(ユス)など老木の繁茂する天然記念物原始林である。雄龍良山麓には八町角(ハッチョウカク)と呼ばれる天道法師の墓所と伝える場所がある。そして雌龍良山の山中には天道法師の母の墓所と称するものがあり、八町角呼ばれている。対州神社誌には、「天道は豆酘之内卒塔山に入定す云々。母今のおそろし所の地にて死と云。又久根の矢立山に葬之と云」とある。


龍良山辺り

海側から龍良山方向を

ある書に「龍良山・・・558m、大字豆酘の東北に屹立し、対馬縦走山脈南端の最高峰である。旧名雄龍良または天道山といい、神山で多久頭魂神社の神籬磐境であり、頂上に烽火台の跡がある。」とある。


かように母神・子神崇拝は、対馬に深い縁故を有す神功皇后・応神天皇母子二柱を祀る「八幡信仰」にその起源を有すとも云える。


   清浄の神地たる不入の地、浅藻(アザモ)

 対馬の南端に位置する豆酘に向かって県道24号線を南下してゆく途中に「美女塚」がある。


  これは昔、采女(ウネメ)制度(大宝律令)があったころ、豆酘に鶴という美しい娘がいた。母一人娘一人の仲の良い母娘であった。その鶴が采女として遠く都へと召されることとなった。鶴はその母一人を残し生まれ育った村を離れて行くのがつらく、役人に連れて行かれる途中で、「これからはわたしのような辛い思いをさせぬように、豆酘には美人が産まれぬように」と祈り、舌を噛み切って死んでしまったという。母や村人は村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、「鶴王御前」と呼び、その命を絶ったという峠辺りに「美女塚」を立て弔ったという。対馬では実際に「豆酘美人」という言葉があり、昔から豆酘が美人の産地であったのは確からしい。


  天道法師が帝から病治癒の御礼に何なりと願いを聴くと言われた際に、その一つに「対馬撰女」すなわち対馬から采女を召し出すことを免じて欲しいと申し出ている。

 

 このことはこの「美女塚」にまつわる哀しい話が当時すでに人口に膾炙していたと思われ、また天道法師自身の母親がその素性を「内院女御」と呼ばれたことから、采女として召し出され、そうした母娘別離といった哀しい過去を背負っていたのかも知れぬと想像したりする。


 内院にある美女塚には天道法師伝説と深く関わる話があるように思えてならぬのである。

 さて豆酘(ツツ)村は、大きく分けて豆酘と浅藻(アザモ)に分かれている。


豆酘から浅藻への道
豆酘郵便局


  鈴木棠三(1911-1992)が「対馬の神道」を表わすために対馬入りした昭和12年(1937)時点は、「現在の浅藻の村ができたのは、明治何年かに中国筋の漁民が移住して以来のことである。(中略)豆酘と浅藻の距離は一里半余りであるが、浅藻には豆酘の本村から移住した家は全くなく、「内地」からの移住者のみから成り、通婚も最近の一二の例を除く他は、国元から配偶者を連れて来ているようだ」とあり、明治まではこの豆酘村の浅藻地区は不入の地として人が住むことはなかった。


浅藻湾
コモ崎からの景色

 しかし、明治初期に中国地方より漁民が移り住んで以来、人が住む土地となったが、もちろん、その移住者が死に絶えるなどということはなかった。


 ただ、豆酘の村人は死人のあった忌明けには、卒塔見(ソトミ)と称して、コモ崎の上に登り、眼下に見える浅藻の入江に向けて小石を投げて、後ろを見ずに帰る風習がつい先年まで残っていた。神地としての地元民の尊敬は残されていた。


浅茅近くの卒塔(ソト)山(天道山)山腹が天道法師が亡くなった地であり、「もし汚穢の人がその地に入れば、たちまちにして神罰が降り死に絶える」との言い伝えが古来、村人により守られて来た事実は重い。

この天道信仰と対馬の神社との関係を記すと、藤仲郷の説を採用した「津島紀事」(平山東山著・1809-1810)のなかで、「浅藻(アザモ)の八丁角が延喜式内多久頭魂神社の磐境、裏八丁が高皇産霊尊の本社」と推定されている。 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)

1.

 天道信仰について、鈴木棠三(トウゾウ)は「対馬の神道」のなかで、「天道信仰は、豆酘村の中の八丁角と俗に称せられる磐坂を中心とし、これに対応して佐護にも天道の一大中心があり、島の南北にあって相対している。この信仰の主要なる点は、神地崇拝の風の強烈なる点で、一に天道地と云えば、何によらず不入の聖地を意味する。第二にこれを母神および童神二神相添う形と信じていることで、神道家は神皇産霊尊とその御子多久豆玉神ならんとしているのである。而して、対州神社誌当時の天道信仰は或る意味で対馬神道の根幹をなしているかの観を呈していた」と述べている。


そして、天道法師の生誕話は「母が懐妊の際に強烈な日の光を浴びたことをその因とする」筋立てになっているが、鈴木棠三はその種の話はこの手の怪童伝説にはよくある話であると突き放した見方をし、「天道」は「天童」であるとの解釈を採っている。


しかし、「鶏子(トリコ)のような気が天より降りてきて」、女が懐妊し生まれ出た高句麗王朝の始祖・朱蒙の生誕伝説、すなわち、神秘な気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、日神の地、対馬だからこそ天道法師の神秘性を演出する為に当り前のように拝借されたのだとする方がわたしには自然な気がするのである。


また、日神の誕生の地という天地開闢(カイビャク)という創世期から間近いところの歴史を有す対馬だからこそ、中世の怪人に対する生誕譚として「日光感精型神話」が持ち出されたのではないかと推測される。


【天童伝説】(対州神社誌「P345」より)

「天道 神体並びに社 無之

対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳〔673年〕二月十七日、此女日輪之光に感して有妊(ハラミ)て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥六壬辰年〔691年〕十一月十五日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶三癸卯年〔703年〕、対馬州に帰来る。


霊亀二丙辰年〔716年〕、天童三十三歳也。此時に嘗(カツ)て、元正天皇不豫(フヨ)有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔(ミコトノリ)して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫(ソレカラ)筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。


 天道 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩(ナヤミ)平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦(ヘラ)黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、幷(ナラビニ)、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉(コトゴトク)可免罪科叓(カジ)、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者(アルハ)、是也。


其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云多久頭魂神社。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也天神多久頭魂神社。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據(コンキョナク)不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍(ヨッテ)略之。不詳也。」


以上が貞享三年(1686年)十一月に編纂された「対州神社誌」記載の「天道法師の由来譚」である。その4年後の元禄三年(1690年)二月に梅山玄常なる人物が「天道法師縁起」なる書をものした。原文は漢文であるが、「対馬の神道」のなかで、以下の通り、その筋書きを平易な現代文に訳しているので、やや長くなるもののここに紹介する。


「昔天武天皇の白鳳二年(壬申の乱の翌々年。674年*)に、豆酘郡内院村(今の下県郡久田村字内院)に一人の童子が誕生した。その母の素性をたずねると、かつて内院女御という方の召仕であって、或朝、旭光に向って尿溺し日光に感じて姙(ハラ)んだのが、この童子であるという。故にその誕辰に当っては瑞雲四面に棚引くなどの天瑞があった。すなわち童子の名を天道童子、また日輪の精なるが故に十一面観音の化身とも伝える。この天道童子の誕生の地を、今に茂林(シゲバヤシ)と呼ぶ。対馬では茂または茂地とは神地のことである。童子長じて三十一歳、大宝三年(703年)のことであったが、時の天子文武天皇御不予にわたらせられ、亀卜を以て占わしむるに、海西対馬国天道法師なる者がある。彼をして祈らしめば皇上の病癒ゆべしとの奉答であったから、急使を遣わして天道法師(童子)を迎えしめられた。法師は使を受けるや、さきに修得した飛行の術によって内院から壱岐の小城山に飛び、さらに筑前宝満嶽に、さらにさらに帝都の金門に飛んだのであった。ここに帝の御ために祈ること十七日、たちまち御悩は癒えた。帝は法師の法力に感じ給い、宝野上人の号並びに菩薩号を賜り、また大いに褒賞を加え、欲するところを与えんとの詔があった。法師は、対馬は西陲(セイスイ)の辺土にして民は貢物に苦しむ故に是を免ぜられたきこと、また島中の罪人にして天道の食邑の地に入り来った者は、罪の軽重を論ぜずことごとく宥(ユル)されたきことなど奏上して、勅許を得たのであった。また、古記によれば、天道菩薩の社田として筑前国佐和良郡出田に八百町歩があったというが、いつの頃よりか廃絶したと。天道菩薩入定の地は豆酘(ツツ)郡卒土(ソト)山の半腹の地に、縦横八町余を劃して中に平石を積んだのがそれである。もし汚穢(オワイ)の人が其処に到れば、踵を廻らさずして身命を失う。故に里民畏避して今に到るまで足跡を容れる者がない。」


   「白鳳」は書紀には現れない私年号であり、中世以降の寺社縁起等によると、白鳳二年は西暦673年に算定される。

   「大宝三年」は「対馬の神道」の703年で正しい。


天道伝説
最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

月別アーカイブ
記事検索
livedoor プロフィール
livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
NAVERまとめ
「NAVERまとめ」ブログパーツは、サービスを終了しました。
  • ライブドアブログ