彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

February 2011

泊まってみたい宿=伊豆・峰温泉の「玉峰館(ぎょくほうかん)」

河津桜はこの週末頃(2月26、27日)から満開!!
 
住所:静岡県賀茂郡河津町440
電話:0558-32-1031

自家源泉を有する峰温泉の「玉峰館」は、おそらく人によってかなり評価が異なる宿のひとつであろう。


 

 「玉峰館」のすぐ隣にある大噴湯公園の源泉大噴湯(1時間毎の噴上げ)。この日9時半の噴上げの時は虹も見えた。


 玉峰館は大正15年創業の老舗である。というより奈良時代の宝亀10年(779)に起源を持つ峰温泉がその後廃れ、平安時代後半より言い伝えだけが残っていたものを、地元の素封家の援助も得ながら大正15年に源泉を掘り当て、千年の眠りから甦らせた人物こそ、誰あろう「玉峰館」初代の稲葉時太郎氏である。


 

 だから「玉峰館」は老舗というより峰温泉そのものと云ってよい宿である。実際に玄関脇には源泉櫓が聳え立ち、大量の湯煙が宿の入口に靡いてくるのは圧巻であり、ある種の感動を覚える。


玄関脇に源泉櫓(やぐら)と湯煙が・・・
 

 バリ島の家具をあつらえたAsian Tasteの部屋に泊まりたかったが、JTBは純和風の部屋しか契約していないとのことで、次回はネットか電話で「和洋風の部屋」で直接予約を取ることにした(「和洋風に泊まりたいがどうしたらよいか」との質問に対する玉峰館のお話)。


玉峰館HPより、和洋の間(写真・玉峰館に掲載確認済)
 

 ただ、当宿は夕食も朝食もすべてお部屋で摂ることになっており、昔ながらの純粋な和風旅館のお持て成しを継承している。


玄関に入って格子越しにおしゃれなロビーが

玄関ロビー
 

 客室は14室ということで、和洋風4室、純和風10室とこじんまりとした旅館である。それに対し終日利用可能な源泉かけ流しの温泉が5つあり、温泉好きの旅人には堪らない宿と云える。実際に家内は3つの温泉をめぐって源泉を満喫していた。


 

 しかも平日の宿泊であったため、われわれ家族三人は大露天岩風呂を併設する温泉を家族風呂として使用させてもらえた。内鍵を掛け、ドアの外に「入浴中」の木札を掛け、まことに贅沢な時間を過ごすことができた。


大きな露天岩風呂
 

 浴室内は屋内風呂も大露天岩風呂も20余名は同時に入浴できるほどの広さである。「ご家族でどうぞ」と言われた時には、それなりの広さと思っていたので、本当にびっくりした。露天の塀越しに源泉櫓が見えて、いかにも湯治に来たという実感しきりであった。


露天風呂から源泉櫓が見える
 

 夕餉は伊豆の海の幸が豊富で黒田泰蔵氏作の白磁の清楚な器で戴く懐石料理は魚好きのわたしには文句なしであった。



温・里芋と大根
むつ・めじ・あこう鯛のお造り

和紙で包んだ「ぶりの奉書焼」

ブリの奉書焼の中身です。蓮根・豆鼓(とうち)・葱でからめてます
 

食事の最後の方に板長の大賀氏が挨拶旁々、料理の説明や感想を聞きに来られたのも新鮮であった。「ぶりの奉書焼」のレシピをお聞きし、一度、家内に造ってもらうことにした。分からないときは電話を戴ければFAXでお送りするとのことで、一見の客にも実にアットホームな気分を味合わせてくれる宿である。


甘鯛の蕪蒸し
地鶏と丸大根の炊合せ





 また、われわれはベースに懐石コースをお願いし、別途、伊勢海老のお造りをつけてもらったが、その日に揚がったお魚を焼くなり、煮るなり、事前にオーダーしておけば、お客好みのメニューにも自在に応えていますとのことであった。これも客室がたったの14室という少なさであるからこその手作り感の伝わるお持て成しであると感じた。

 

朝食も海の幸が一杯。
 


昨夜の伊勢海老のお頭入りのお味噌汁も絶品でした。

 
 話は戻って、夕食後には歩いて数分の川岸にライトアップされた河津桜を観に行った。


 戻ってから「蔵」を改装したシックなBARでカクテルを戴いた。われわれ家族のほかには中年のご夫婦がカウンターで男衆の木村氏を相手に静かに旅の話をされていただけである。静かで落ち着いた大人の空間と時間がその蔵のなかにはあった。


BAR入口

BAR の奥には囲炉裏席も

 
 冒頭に述べた「人によってかなり評価が異なる」と書いたのは、全体が純和風であるために、室内の洗面台も昔風で、今流の可愛らしい「アメニティー」などはなく、いたって簡素で必要最低限のものしか置いていないことである。さすがにトイレはウォシュレットで清潔であるので、そこはまったく問題ない。


泊まった部屋は縁側に洗面台が
 

 要はベッドじゃないと駄目とか部屋にシャワーがないと厭だといったホテル派の旅人にはかなり難があるかなと思ったまでである。


 また大きな温泉でも洗面・蛇口の数が少なく、本当に少人数向きに敢えて造られた贅沢な宿であり、便利さという名のもとに忘れ去った手造りのひと肌のぬくもりを感じ取れる宿であり、わたしは心地よく感じたということである。


asian goodsがさりげなく置かれた談話室
 

 次回は河津桜の満開時に和洋風部屋に泊まることでわたしの心はきまっている。


 さらに、おいしい料理と湯量豊かな温泉を愉しめるだけでも、玉峰館は十分な価値がある。だからお抱えシェフ付きの別荘のような気分で、気ままに泊まりにゆける隠れ家のようなものだとも思った。


天城山隧道越えで「河津七滝」をめぐる

 川端康成の「伊豆の踊子」で有名な「天城山隧道(ずいどう)」を抜けて、天城山麓を南に下ってゆく途中に、「河津七滝」はある。


湯ヶ島側入口・右側にこぎれいなトイレがある

天城山隧道の標記

明治34年貫通を記す石碑
 

 天城峠は、最近は「伊豆の踊子」よりも石川さゆりの絶唱「天城越え」の方で有名なのかも知れない。「走り水 迷い恋 風の群れ 天城隧道」、「あな〜たと〜越え〜たい アマギ〜越〜え♪」の「天城隧道」のなかはひんやりとして、いや2月の風が吹き抜けて寒かった。


車一台でギリギリの隧道内
 

 隧道の入口で車を止め記念写真を撮るカップルが二組いたが、森閑とした山中にその話し声も自然とひそやかになっていた。


下田側出口

「天城山隧道」の苔蒸した標記
 

明治37年完成(貫通34年)の天城隧道は石造隧道のなかで現存する最長のものだという。石造の隧道入口の苔蒸して読み取れぬ「天城隧道」の文字に、遠く過ぎ去った明治、大正そして、早や20数年前となった昭和の時代を想った。446mにおよぶ真っ暗な隧道の先の出口がほんのりと小さく明るく見えるのは、どんなに暗い世の中にも必ず明るい未来があることを教えてくれているようであった。


遠くに小さく出口の明るみが・・・
 

河津七滝は、「ななだる」と読むことを今回知った。滝を水が垂れることから垂水(たるみ)と呼んでいた古語に因むもので、なかなか趣がある。


かに滝
 

初景滝への途中で落ち椿を見下ろす

その「ななだる」は上流から「釜滝(かまだる)」・「えび滝(えびだる)」・「蛇滝(へびだる)」・「初景滝(しょけいだる)」・「かに滝(かにだる)」・「出合滝(であいだる)」・「大滝(おおだる)」の順にある。


初景滝

蛇滝

くねる蛇滝

出合滝

出合滝

大滝

30mの七滝最大の瀑布
 

足が不便なわたしは七滝のうち、最大の高さ(30m)を誇る「大滝」と「初景滝」に立ち寄ったが、健脚で好奇心あふれる家内は、上流の「釜滝」・「えび滝」をのぞく五滝を踏破?した。だから、写真の大半は家内撮影のものである。







京都のロケ地めぐり―――4=南禅寺水路閣


 

 二時間ミステリードラマで犯人逮捕の定番の場所である。アンティークなアーチ型のレンガ造りの橋脚がならびその柱の陰に犯人が隠れ、何も知らない主人公が待ち人を探す。それも決まって犯人に背を向けて待つのだ。いやぁ、分かっていてもドキドキ・・・なのだから、単純だねぇわたしも。


 

この水路閣のトンネルのように連なる橋脚のアーチ型の空間を小道具に結構スリリングな最終場面を演出する。ミステリードラマの言ってみれば解決編の地である。


 

本当に何百人の犯人がこの場所で捕えられたことか。実際にこうした見事な推理で犯人を追いつめ捕縛できるのであれば、「世に盗人の種は」とっくに尽きているはずなのですがね。




 この水路閣を抜けて南禅院の階段を抜けて、さらにちょっとした石段を昇ると、橋上の疏水路を見ることができる。 



 

 そもそもは皆さんご存じのように、明治時代に造られた琵琶湖の湖水を京都市内へ導く疏水(水路)であり、百余年を経た現在も写真のように奇麗な水を流す現役の設備である。


 

明治人の豪胆な構想力と高い技術力に加え、均整のとれた重厚な美意識に、ただただ頭が下がるのみである。


子供手当2万6千円ビックリの菅首相、即刻、退任を!

鳩山由紀夫前首相に続く、無責任男、責任逃れの菅首相がまたまたその真骨頂をあらわす国会答弁を行った。


24日の衆院本会議で、民主党の2009年衆院選政権公約(マニフェスト)が子ども手当を将来月額2万6000円に引き上げると掲げたことについて、「小沢代表当時に聞いた時、一瞬ちょっとびっくりした」と答弁した。すぐ他人の責任にしようというこの男の本質がいみじくも出た場面である。


首相になった男の言うことではない。だったら、代表になんかならなければよい。国民の前に「卑怯」というのはこういうことだというのを教えようとしているのだろうか、この姑息な男は。


品格といった言葉を使うのも躊躇するほどの、ちょっとひどすぎる男である。こんな男を日本国民のトップに置いとくわけにいかない。子供の手前ももういい加減にして欲しい。


 


 


 

河津桜はこの週末頃(2月26、27日)から満開!!

伊豆・稲取の「雛のつるし飾りまつり」を楽しんだ
天城山隧道越えで「河津七滝」をめぐる



  一足も二足も早い、花見に行って来た。伊豆の河津桜である。


 河津桜は沖縄や台湾など南方地域で目にする寒緋(かんひ)桜と伊豆大島に自生する早咲きの大島桜との自然交配種ではないかと見られている。南方や温暖な地のDNAを抱えているからだろう、こんなに早く花が咲き、桜好きの日本人の目を楽しませてくれる。



沖縄・今帰仁(ナキジン)城の寒緋桜

2007324日撮影・花は既に落ち、葉桜に)


 花の色はソメイヨシノなどの淡いさくら色より濃いのが特色であるが、桃の花までは色がきつくない。そして花弁は当然だが正真正銘の桜の花びらの形をしている。


 

 河津役場のHPに河津桜の由来が次のように書かれている。


 


 


「河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が昭和30年頃の2月のある日に河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いている桜の苗を見つけて、現在地(飯田邸)に植えたものです。昭和41年から開花が見られ1月下旬頃から1ヶ月にわたり咲き続けました。この桜は、河津町に原木があることから、昭和49年に河津桜と命名され、昭和50年に河津町の木に指定されました。」


飯田邸前に植わる河津桜の原木
 

そして、その原木は現在、「樹齢約50年・樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cm」に達しているとのことで、その日も飯田邸の前には観光客がひっきりなしに訪れ、8分咲きの原木の下で記念写真を撮っていた。



 


 例年であれば満開の時期を狙って河津の峰温泉に宿を予約し、一足先の花見と洒落こんだが、今年はやはり直前の降雪や天候不順の影響で、開花が一週間ほど遅れ、われわれ家族が訪れた20日過ぎはまだ4分咲き、5分咲きの状態であった。


 

 しかし、河津川の清流を挟んで川沿いに連なる桜並木は観光客の心と目を暖かな桃色に染めてくれた。



 さらに頭上を仰ぎみると如月の真っ青な空をキャンバスに花びら模様に桃色の絵具を置いていったそのコントラストは見事であった。


 

 また、夜はその開放的な鮮やかさとは一転して、黄色燈でライトアップされた桜花のトンネルが美しくも幻想的であった。



 

河津川のせせらぎの音に紛れて、桜の精がわたしの真横をさ〜っと駆け抜けていったように思えた。


 刹那ではあったが確かに首筋から右腕にかけてヒンヤリとした霊気のようなものを感じたのだから・・・






 


 

伊豆・稲取の「雛のつるし飾りまつり」を楽しんだ

河津桜はこの週末頃(2月26、27日)から満開!!
天城山隧道越えで「河津七滝」をめぐる

 熱川と河津のほぼ中間に位置する稲取に江戸時代より伝わる「雛のつるし飾り」、昔は「つるし雛」と呼ばれた風習が、今でも残っている。今年も120日から331日まで「稲取温泉 雛のつるし飾りまつり」が、「文化公園雛の館」や「雛の館 むかい庵」など数か所を会場にして開催されている。


文化会館の雛の館


雛の館前の河津桜は満開
 われわれは海辺の臨時駐車場(無料・会場まで徒歩2、3分)に車を置き、「文化公園雛の館」で、90対(9900個)におよぶ「つるし飾り」を楽しんだ。写真でお分かりのように館内に一歩足を踏み入れただけで、その満艦飾の美に圧倒される。見物客が一様に「ワァ〜!」、「キレ〜イ!」と、第一声をあげるのもむべなるかなである。

 

 

 
 庶民が雛飾りなど買えない時代、母親やおばあさんが娘や孫娘の健やかな成長と幸せを願い古い端切れを使って拵(こしら)えた和裁細工の「雛のつるし飾り」。今日でも母親や祖母の願いは変わることなく、吊るされたひとつひとつの和裁細工には愛情がいっぱい詰まっているのが分かった。


ひとつひとつに娘や孫娘への愛情が


和裁細工
 

現在、つるし飾りは関東地方各地でもよく見られこの時期の風物誌となっているが、稲取の「雛のつるし飾り」は、九州・柳川の「さげもん」、山形・酒田の「傘福」とならびその歴史的背景や由来、残された「つるし飾り」の文献資料から、由緒ある「日本の三大つるし飾り」と称されている。「文化公園雛の館」にはその「さげもん」と「傘福」も陳列されている。


酒田の傘福


柳川のさげもん

鳩山前首相の辺野古移設「方便発言」=即刻、政治家を辞せ!

 鳩山由紀夫前首相は、212日までに地元紙の沖縄タイムス・琉球新報のインタビューを受けた。そこで普天間米軍基地の移設問題の全容を語った。

 

 そのなかで、とんでもない発言が飛び出した。

 

「辺野古に戻らざるを得ない苦しい中で理屈付けしなければならず、考えあぐねて『抑止力』という言葉を使った。方便と言われれば方便だった」(沖縄タイムス

 

さらに「海兵隊自身に抑止力があるわけではない。(陸海空を含めた)四軍がそろって抑止力を持つ。そういう広い意味では(辺野古移設の理由に)使えるなと思った」と語った」(同上)というではないか。

 

「抑止力」という言葉を、移設先は辺野古しかないという理屈付けの材料として「方便」として「使えるなと思った」とほざく。

 

そして、09年の衆院選で『最低でも県外』と掲げたことについては「民主党の沖縄ビジョンに書かれていることを言った」だけなんだというではないか。

 

 この男は人間として許し難い。

 

大手メディアもこの男のあまりのいい加減さに、批判するのもアホ臭いと思っているのだろうか、激しい批難の嵐も続かない。

 

脱力感に捕らわれる気持ちは分かるが、やはり、「方便」、「使えると思った」、「民主党の沖縄ビジョンに書かれていることを言った」との発言には、沖縄県民を愚弄したという罪の意識の欠片もない。しかもしゃあしゃあと現地メディアのインタビューに応じての愚弄発言である。許せるレベルの発言ではない。厳しく追及すべきである。

 

実際にこの男はどこまで沖縄問題を考えていたのか、日米安保問題をどう捉えていたのか。本当に何も考えていなかったのだ。

 

思いつきで口を吐いて出た。この言葉、受けがいいので喋っちゃった。「最低でも県外」、格好よさそうなので使ってみた。

 

こんな人間がこの国の首相であったことに、正直、驚きを通り越し、絶望した。いまの菅という人間も同類の臭いが強烈にし、絶望の淵はますます深く、漆黒の闇もますます濃い。

 

鳩山は「方便」「使えるな」発言だけでも政治家を即刻辞するべきである。そして、「信」を根っこから失った人間として、公の場に顔を曝し、ましてや発言するのはもうお仕舞にすべきである。

 

北海道9区の選挙民も、次回選挙においてこうした人物を政治家として国政の場に送り出すことはよもやないと思うが、本当に今回の発言については、人間としてあってはならぬことを彼がやっていたことを、自ら語り、それによってさらに沖縄県民並びに国民を傷口を抉(えぐ)るようにして愚弄したのだと云うことをよくよく考えていただきたい。

 

鳩山由紀夫! 口にするだけで気分が悪いが、国民、就中、沖縄県民に深く謝罪し、即刻、国民の目の前から姿を消すべきである。

大相撲の八百長、そこまで目くじら立てることかい?

大相撲は、2007年の時津風部屋の力士の暴行による死亡事件、2008年のロシア人力士による大麻問題、2010年、野球賭博の発覚や暴力団組長の維持員席での観戦など、ここのところほぼ毎年にわたり決して軽微でない不祥事が連続している。


 そして今回の八百長問題である。野球賭博捜査の際に竹縄親方(元前頭・春日錦、春日野部屋)や十両千代白鵬(九重部屋)等から押収した携帯電話の消去メールの復元を行なったところ、八百長をうかがわせるメールが出てきたという。いま現在、竹縄親方、十両の千代白鵬、三段目の恵那司(入間川部屋)の3人が八百長への関与を認めており、以前から疑惑が囁かれていた八百長相撲が角界に存在していたことは、これで明白となった。

 

 テレビを始めメディアはここぞとばかり、開催中の国会ニュースの詳細を伝えるよりも、この八百長問題を熱っぽく語り、事細かに情報を流している。


 ただ、金銭で勝ち星をやり取りするのはさすがに問題だと思うが、大相撲が相撲興行と呼ばれているように、完全なスポーツであると信じている人もそうは多くないのではないか。私自身は相撲は純粋なスポーツというよりもあくまで「興行」であると思っている。


 だから、客がその取り組みを楽しみにし、その迫力ある立ち会いや次々と繰り出さられる技に熱狂し、贔屓力士の勝敗に一喜一憂し、観戦後に「あぁ楽しかった」となれば、それでよいのだと考えている。


 今回、野球とばく事件で押収した携帯電話のメール復元により八百長の生々しい実態が白日の下に曝され、こうした相撲の裏の顔が大っぴらになった。


だが、共同通信のアンケート調査にあるように、力士らのメールのやりとりが発覚する以前から「八百長はあると思っていた」が76.1%に達し、「ないと思っていた」の18.6%を大幅に上回っている。


また、八百長は58.7%が「絶対にいけないこと」としているが、「大相撲の性格上、やむを得ない面がある」という回答も27.8%を占めている。その背景となる意識と云ってよいと思うが、「大相撲がスポーツか伝統文化か」の問いに、「スポーツ」であるが15.9% 、「伝統文化」だと思うが57.2%、「どちらとも言えない」が25.3%と、大相撲を純粋なスポーツととらえていない見方が大勢を占めている。


私も純粋なスポーツととらえていないという意味において、観客を熱狂させるための多少の演出はあってもよいと考えている。その演出を八百長と云うのであればいたし方ないが、この手の古くからある興行には、庶民の喝采を博するための玄人の演出があるのだと思っている。


そしてそこには演じる者、観る者双方に暗黙の了解のようなものがあるような気がしている。ただ、今回発覚した金銭での星のやり取りはさすがに度を越えいただけないが、武士の情け的な取り組みがあってもそれはそれでよいのではないかとも思っている。


今回の八百長問題のあまりのメディアのハシャギぶりに、わたしは1984年のロサンゼルスオリンピックの山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の柔道の決勝戦を思い浮かべた。


銀メダルに終わったが、肉離れを起こした山下選手の右足を敢えて狙わずに戦ったラシュワン選手(試合後に語った)に、「武士道」と清々しいフェアープレーを教えられたことを想起したのである。


柔道は「道」ではあるが、「スポーツ」である。勝つことを至上とするのであれば、ラシュワン選手は、明らかに痛めた右足を攻め立て、一本を取りに行くべきであった。山下選手は棄権せずに決勝戦に臨んできたのだから、そこに温情は必要ないはずである。


しかし、ラシュワン選手は確実に勝てる技を敢えて使わず、その結果、瞬時のすきを狙った山下選手に寝技に持ち込まれ、四方固めで一本を取られた。


試合後、足を引きずり表彰台に上がろうとする山下選手に手を差しのべたラシュワン選手の爽やかな仕種が今でも鮮やかに脳裡に浮かんでくる。ただこれも理屈を言えば、意図的に相手の弱点を狙わないのは、真剣勝負であれば相手に便宜を供与する一種の利得行為である。広い意味での「八百長」と云ってよい。


しかし、あのオリンピックの決勝戦を観て、これは「八百長だ!」と叫んだ人間は少ないのではないか。「これぞ、柔道!」「これぞ、漢(おとこ)」と叫んだ日本男児が多かったはずである。他ならぬ私もいたくこのエジプトの柔道家に惚れ込んだものであった。


今回の金銭でやり取りする八百長は、薄汚く、とてもいただけないが、観客を喜ばせるためにプロの演出があるのであれば、それはそれで興行ということで、わたしは十分認めてよいのではないかと考える。


何が何でも真剣勝負だと叫ぶのであれば、あの巨体同士で15日間ぶつかり合い、年6場所を戦うのはとても無理である。怪我人を出さないためにも場所数や1場所の番数を半減するなどして、純粋なスポーツ競技団体として再出発させるしかないのではないか。それでもけが人続出で、恒常的な開催は難しいのではないかと思う。


常に11敗で終わる地方の伝統的な相撲神事も、相撲のひとつの態様を表していることも最後に申し添えておく。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔下〕

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔中〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良(あずみのいそら)




③ 対馬に残る磯良伝説

阿曇磯良の墓であると伝わる磐座が和多都美神社の潮溜まりに残されているように、上古の対馬の歴史を海人族抜きで考えることは難しい。そして、磯良の伝承は神功皇后に寄り添うかのように、皇后の所縁の地に残されている。


【胡禄神社/琴崎大明神】

    住所:上対馬町琴字琴崎3

    社号:琴崎大明神/胡禄神社(明細帳)

    神籬・磐境型式の古代神道

    祭神:海神(大小神社帳)、表津少童命 中津少童命 底津少童命 磯良(大帳)、表田少童命 中津命 底津命 太田命(明細帳)

    由緒

神功皇后新羅征伐し給ふとて、此の琴崎東澳(オキ)を過ぎ玉ふとき、此の海辺に御船を繋ぎ玉ふとき、御船の碇海底に沈む。是に於いて安曇磯武良海中に入り、碇を取り上げると云ふ。今の祭場は皇后の行宮の故跡也。古くは藩が営繕費を総て公衙(コウガ)より支給す。(明細帳)


胡禄御子神社



【五根緒浦(ゴニョウウラ)神社/曽祢崎神社】

    住所:上対馬町五根緒字平山188番地

    社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。

    祭神:五十猛命(イシタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯良

    五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イシタケラ)とも考えられる。同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」

と、あることからも、ここの場合、五十猛=磯武良と比定するのが妥当。


曽根崎神社の対馬海峡に向いた鳥居


    塔ノ崎の四基の石塔の二基は古く、この石積みが何を意味するのかは謎である。何か海岸に位置する鳥居が北面して海上に向かっていることから、この石積みは灯台のようでもあり、航海の安全を祈願する石塔のようにも見える。




④ 阿曇氏の祖である磯良。信州安曇野に残る海人族安曇氏と対馬の影

●穂高神社・穂高見命(長野県安曇野市穂高6079 穂高神社HP

    穂高神社の御祭神が穂高見命。信州の臍にあたる安曇野市穂高に建ち、その奥宮は上高地にある明神池のほとりに鎮座している。毎年、108日、雅楽の調べのなか、二艘の龍頭鷁首(リュウトウゲキシュ)を神秘的な池に浮かべ「御船神事」が催される。さらに峰宮は、北アルプスの主峰、奥穂高岳頂上(標高3190M)に鎮座する。

    穂高見命は、海神(豊玉彦命)の長男でかつ安曇磯良の伯父にあたることから、安曇族の祖神ということになる。安曇族は、抑々は北九州を拠点に栄え、海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもつなど高い文化を誇る海人族だが、なぜ、海に面せぬしかも山深い高地に海神を祀る氏族の拠点が存在するのか。

    そのひとつの理由として考えられるのが、船の建造用木材すなわち森林資源の確保のために良質の木材を擁する山脈を支配したというものである。

    穂高神社は、醍醐天皇の延長五年(927年)に選定された「延喜式の神名帳」には名神大社として列せられている。

    また、穂高見命は、古来、大きな湖であった処の堤を決壊させ、安曇野という沃地を拓いたと伝承される信州の昔話「泉小太郎」と重ね合わせることができる。


●道祖神に残る古代文字たる阿比留文字

 阿比留文字という対馬の阿比留氏(宗家の前の支配者)に伝わったというハングル文字に似た古代文字がある。その文字が刻まれた石碑や道祖神が、北九州や信州安曇野という安曇氏に所縁の深い土地で発見されていることも、海人族と天孫族の抗争を考える上でのひとつの考察の視点であり、今後の課題であると楽しい思いで認識している。



 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔中〕

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔下〕
神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良



  磯良伝説が色濃い「志賀海神社」と「君が代」の謎


【志賀海神社(シカウミジンジャ)】

    住所:福岡市東区志賀島877

    全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)

    祭神:底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)・仲津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)・表津綿津見神(ウハツワタツミノカミ)の三柱(綿津見三神

    4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される

    代々阿曇氏が宮司職に就く。

    『筑前國風土記』(注1)に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、阿曇氏の祖神である阿曇磯良が舵取りを務めたとされる。

上記下線部分は『風土記』に記載なし。


(注1)筑前國風土記

「筑紫の國の風土記に曰はく、糟屋の郡。資珂嶋(シカシマ)。昔者(ムカシ)、氣長足尊(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)、新羅に幸(イデマ)しし時、御船、夜来て此の嶋に泊(ハ)てき陪從(ミトモビト)、名は大濱小濱と云ふ者あり。便(スナハ)ち小濱に敕(ミコトノリ)して、此の嶋に遣りて火を覓(ト)めしたまふに、得て早く來つ。大濱問ひけらく、『近く家ありや』といふに、小濱答へけらく、『此の嶋と打昇(ウチアゲ)の濱と、近く相連接(アヒツヅ)けり。殆(ホトホト)同じき地(トコロ)と謂ふべし』といひき。因りて近(チカ)嶋と曰(イ)ひき。今、訛(ヨコナマ)りて資珂(シカ)嶋と謂ふ。


「君が代」の元歌ではないかとされる志賀海神社の《山誉漁猟祭(やまほめかりすなどりさい)神事》の神楽歌。次に記す通り。


君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで

あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という

花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほやと言い、次に別当が、


志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで

今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ

いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきなと言う。


その後、禰宜がいくせで釣る 別当がよせてぞ釣ると三度繰り返し言う。

*別当《元来は本官のある者が別の役を兼ねて当たる意》


志賀海神社の《山誉漁猟祭(やまほめかりすなどりさい)神事》の神楽歌が「君が代」源流とする説 (「君が代の源流」を参照)


 『君が代』の歌詞には、「現在に残る筑紫の地名や神社そして祭神の名前が多く含まれている。千代は字名、八千代は博多湾のこと。福岡県前原市(伊都国)三雲に細石(サザレイシ)神社が現存。糸島市志摩船越桜谷にある若宮神社(古くは桜谷神社)の祭神が苔牟須売(コケムスメ)神と木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)。」と、これだけ揃えば逆に、「君が代」とはまったく無縁というのもそれなりの説明が必要だと思う。


 以上のように志賀海神社の神楽「君が代」の内容や当社代々の宮司が阿曇氏であることなどを考慮すると、阿曇磯良が海人族の長の一人であり、阿曇族が北九州を中心とした一円を支配する大王として崇められていたことは確かと云える。




 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 番外編 阿曇磯良(アズミノイソラ) 〔上〕

阿曇磯良の墓との伝説のある神体石(和多都美神社)


神功皇后の三韓征伐を先導した海人族の祖、阿曇磯良


  海人族の祖である阿曇磯良

神功皇后の新羅征討説話のなかで、占い神事に長けたものとして随行した中臣烏賊津使主(雷大臣)とともに出てくるのが、阿曇磯良である。その時、海人族たる磯良は航海の先導役としての役割を担っていた。磯良は海神とも目され、或いはまた海神(豊玉彦)の娘である豊玉姫の子であるとも云われており、海人族の有力豪族安曇氏の始祖として祀られる存在である。そのため、安曇氏の本拠地とされる福岡県の志賀島周辺にも多くの伝承を残す。


対馬に関わる神々の相関図


【安曇磯良】Wikipediaより)

    安曇(阿曇)磯良は神道の神である。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(いそたけら)と称されることもある。

    石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。


    民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。


    『太平記』には、磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記している。神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔に牡蠣や鮑がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠(シホミツタマ)・潮乾珠(シホフルタマ)(海幸山幸神話に登場)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。


    阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)」は阿曇または阿度部(あとべ)のことである。


【神功皇后の三韓征伐説話の中に安曇磯良が登場】「紀の中の安曇氏」

1.「八幡愚童訓(ハチマングドウクン)」(鎌倉中後期/著者不明・石清水八幡宮の僧との伝/八幡神の霊験、神徳を説いた寺社縁起)に残る説話


「仲哀天皇の御世のことである。異国が攻めてきた。天皇は長門の豊浦まで来て戦われたが討ち死にされた。その後、神功皇后に天照大神の『三韓が攻めてくる前にこちらから向いなさい』という託宣があってから、住吉大明神が現われた。皇后は48艘の船をお造りになった。住吉大明神が『梶取には、常陸国の海底にすむ安曇礒良が良い』というので、皇后は礒良を召し出そうとされたがなかなか来ない。住吉大明神は、自らが拍子をとり神楽を催した。すると、礒良は慌てて足袋と脚半を着け、亀に乗って常陸から豊浦までやって来た。そして、顔が醜いので袖で隠し、首には鼓をかけて、細男(せいなう)舞(注1)を舞った。皇后は妹の豊姫を使いとし、高良大明神と水先人の礒良を伴わせて竜宮へ行くよう命じられた。一行3人は海の竜王から旱珠・満珠を借りることが出来た。安曇礒良は、筑前国では鹿島(しかのしま)大明神、常陸国では鹿島(かしま)大明神、大和国では春日大明神という。異名であるが同一神である。神功皇后は軍船を率いて敵国に向われた。梶取は志賀島大明神、大将軍は住吉大明神、副将軍は高良大明神である。敵は大軍であった。しかし、皇后は旱珠・満珠をお使いになり、敵を溺れさせて勝つ事ができた。


(注1)細男舞(セイナウマイ)

    「続日本紀」天平3年7月の条に、「筑紫の風俗が宮廷に献上され、雅楽寮で宮廷楽舞として伝習されるようになった」とあるが、これが細男舞ではないかと推測される。

    現に、「細男舞」は奈良の日若宮神社の例祭「おん祭」において現代も舞われている。

    海人族の長、阿曇氏の先祖である阿曇磯良が、神功皇后と応神八幡に従属した様子を模したという。応神が海中に舞台を構え、磯良が好む細男舞を奏すと、磯良は首に鼓をかけ、浄衣の舞姿で亀に乗って浮き上がって来た。しかし長いこと海中にいた為、顔に鮑や牡蠣がくっつき見苦しい為、白覆面をして舞ったという。


 


 


 


 


 


 


 


 


 

最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
livedoor プロフィール
livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
NAVERまとめ
「NAVERまとめ」ブログパーツは、サービスを終了しました。
  • ライブドアブログ