彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

January 2011

ザック・ジャパン、AFCアジアカップでオーストラリアを下し優勝! オメデトウ!!

AFCアジアカップ2011カタール大会の決勝戦を午前3時過ぎまでテレビ観戦した。興奮覚めやらず表彰式も観てしまった。

 

延長戦後半4分、長友佑都からのクロスを李忠成が相手ゴールネットを揺らすボレーシュート。延長戦を含めた120分の死闘に決着がついた瞬間であった。

 

こう書くとたった2行で済む。しかしこの120分は観る者にとっても長かったし、しんどかった。平均身長4cmの高さの違いは想像以上であった。さらに豪州選手の厚い胸板という「ガタイ」の違いも日本選手の体力を極限まで消耗させ、観戦者も延長戦に入ると「のど飴」渇望症状で、また年金予備軍にとっては血圧計装備が必要な怒涛の「胸キュン」襲来のリフレイン。

 

そうした厳しい、いや、怖ろしい状況を打ち破っての決勝戦の勝利である。

 

昨年の8月30日に就任したザッケローニ監督のアジアカップを通じた采配も見事。素人がよく言うが、たった5ヶ月で日本代表チームをアジアのトップに導いた。

 

決勝戦での香川真司の骨折欠場で攻撃力は明らかに落ちた。素人目にもそれまでの流れるようなパスワークやペナルティエリア内でのドリブル突破といった攻撃の形が影をひそめた(いやぁ、偉そうに書いてるな・・・。でも、勝ったからいいさ!)。

 

でも、この決勝戦の泥臭い守備と攻撃は、なんだか「日本らしい」なぁと感じた。みんなでゴール前で必死に体を張る。何度、跳ね返されようが繰り返し、サイドからクロスを上げる。ホント、泥くさ!!

 

こうした選手の姿を見るうちに、わたしの胸になんだか熱いものがこみ上げて来た。何度も大男に立ち向かっては跳ね返されてゆく若者たち。でも、立ち上がって、もう一度ゴールを目指して向かってゆく・・・

 

いま閉そく感に満ちたこの日本に必要なものは、この「勝利へ向けた執念」とそれを成し遂げるために泥臭いが「物狂おしい」気迫に満ちた行動力なのだと、この若者たちに教えられた思いである。

 

ザック・ジャパン、本当におめでとう。そして、勇気をもらったオジサンも今日から頑張るぞ!

有村治子参議院議員の国のプライドを問う代表質問、見事!

  有村治子という議員の存在を今回、初めて知った。「答弁を逃げるな」と詰め寄る、こうした骨のある国家感を持った政治家は久しぶりのような気がする。


 
 メリハリをつけた演説、いや代表質問は、昨年の参院予算委員会でキャンキャンと下品な言葉を弄し、菅首相を責め立てた丸川珠代議員とは、品格、内容の質において同じ政党の議員とは思えぬ見事さであった。


 
 それに対する菅首相の腑抜けのような口調に加え芯のない答弁内容。どこかの係長レベルのように細かくて大局観を欠く内容・項目を羅列してゆくだけである。正直、当選2回の議員の方が言葉力も堂々とし、国家ビジョンの軸が見えていた。


 
 先日、テレビでわたしの嫌いな石原慎太郎東京都知事が最近の若いのもしっかり大人を見ていると評した。その時に紹介したのが、「ナオッテル」という言葉である。高校生の間などで流行っているのだそうだ。菅直人の「直人」をもじって、「オドオドとして目が泳ぎ自信なさげな様」を表した言葉なのだそうだ。「ナオッテル」、なかなか良くできた造語である。たまにはこの御仁もタメになることを言う。


 
 そう言えば、期待して迎えた民主党政権になって以来、胡錦濤国家主席との首脳会談など外交の場で菅首相の「ナオッテル」姿を見せつけられるなど、情けない思いをすることが度重なっている。


 
 今日もまた「ナオッテル」首相の姿を見せつけられると、早く、この政権は倒さねばならぬと、つい一年半前に熱く民主党への夢を語った自分の不明を恥じるのである。


 こっちまでなんだか、菅首相はじめ民主党に意見しようとすると「ナオッテル」なと感じてくるから不思議だ。本当に情けない・・・。


 


 


 


 


 


 

「そういうことに疎い」菅首相、即刻、免許停止!=S&P社、日本国債格下げ

あまりに軽すぎる無責任男の言葉=鳩山前首相引退撤回(2010.12.18)

菅首相の国辱外交=「尖閣諸島」の致命傷となった日中首脳会談(2010.10.6)

「『政治とカネ、普天間』クリアした」、菅首相の暴言を見逃すな!!
(2010.7.14)
これが国民本位の政治と言うのか、民主党!(2010.6.17)
菅直人氏が後継代表濃厚=「逃げ隠れ」する新代表で民主党は国民の信を問え(2010.6.3)
旧自民党政治へ先祖帰りした民主党に絶望!(2010.4.8) 

 米国格付け会社S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)が27日、日本の財政赤字は今後も拡大を続けるとの見通しから、日本の長期国債の格付けを従来の「AA」から「AAマイナス」にワンノッチ下げたと発表した。

その夕刻、首相官邸での記者団との会見において格下げについてのコメントを問われたところ、初めて聞いた。本会議から出てきたばかり。そういうことには疎いので、改めてにしてください」と応じた。


 この発言を聴いて正直、腰が抜けた。国の信用をベースとして発行されている国債について、民間とは云え、大手格付け会社のS&Pが日本の信任が下がったことを公表したのである。それに対し抗弁するどころか、当該国の首相が「そういうことには疎い」と発言する。そのこと自体がまた格下げの大きな要因となるはずである。恥ずかしさ、いや怖ろしさで身の縮まる思いである。

企業のトップが自社の格付けを下げられ、「そういうことには疎いので」などと言おうものなら、その企業の信用は一挙に失墜し、市場はおろか株主、従業員の経営陣に対する不信感は頂点に達し、株価は暴落するに違いない。

菅首相は財務大臣時代のみならず、政治家になってから何を勉強してきたのだろうか。今回の国債格下げに対する第一声が「(後ほど)改めて」などということ自体、国の宰相たる資質を本質的に欠くと言わざるを得ない。

 広辞苑で「疎い」とは、「よく知らない」・「不案内だ」の意である。


28日の参院本会議で、山口那津男公明党代表への答弁で「そういうこと(国債の格付け引き下げ)には疎い」と発言したことについて、「『疎い』ということは(本会議場から出た直後で)情報が入っていなかったということ。私の発言をしっかり見ていただければそのことは明らかだ」と強弁した。


 
 情報が入っていなかったのであれば、正直に「その情報はまだ聞いていない」あるいは「事実確認をする」と言えば良いのであって、「疎い」という日本語はそのことは知っているがよく分からない、詳しくないという意味で使われる言葉である。菅首相は格下げの影響がどうなのか経済問題に「疎い」ため即座の応答ができなかったと考える方がこの際、きわめて自然である。



 首相就任から半年が過ぎた昨年12月12日、「今までは仮免許だった」と、常在戦場と覚悟すべき国のリーダーとして、菅首相はあまりに不見識、不適格な発言を行なった。そして、「いよいよ(これからが)本免許。みなさんの支援を受けてはばたきたい」、「これからは菅直人らしさを出していきたい」とも述べた。


 
 国債格下げについてのコメントを「疎い」として、機敏で適切な応答もできぬ首相の姿が「本免許を取得したのちの菅直人らしさ」なのだと改めて見せつけられた。



 この首相に政治の根本が「経世済民」であるなどという政治哲学を云々するのは徒労である。まずは日本語を正しく勉強し直すべきであるし、それ以前に人の上に立つ者として、「嘘はつかぬ」という人間としての最低の社会規範を学び直すべきである。


 
 そして「疎い」には次の意味もあることも菅直人という男に最後に言っておきたい。



 「頭の働きが鈍い」・「愚かである」



 「疎い」は「情報を知らなかった意味だ」と強弁する菅首相には、こちらの意味で「疎い首相」と評すべきであろう。そして、即刻、免停と叫びたい。



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

「桃屋」・高瀬川船入り店=京都のおでんと串揚げ

京都市中京区木屋町二条下ル一之船入町537-52

075-252-3852


 いつもご紹介する木屋町通りの割烹「やました」から一分のところにあるお店である。「やました」前の高瀬川を渡り京都ホテルオークラの北側の押小路を西に十数メートル行った右手の店で、桃屋と書かれた暖簾が掛かっているのですぐ分かる。




押小路・突き当りが「やました」


 

 前日、「やました」でちょっと食べ過ぎ、飲み過ぎのわたしとしては、「おでん」的な胃に優しく、財布にも優しいお店は打ってつけであった。


 

 以前から家内とこの押小路に数軒並ぶ町屋風のお店は気になる存在であったので、まずは、今回、「桃屋」へ飛び込みで入った。第一印象は小奇麗でしかも古風な造りといった感じであった。このお店のひとつの売りが半地下の川床になったテーブル席だが、もちろん当日は一見客とてそんな席は無理。既に若い人たちで満席であった。そこでお二階の座敷へと家族三人は案内された。




 

 まだ時間が6時と早かったこともあり、二階は私どもだけであった。座卓が三つ置かれていたが、われわれの席は御簾衝立でほかの座卓と仕切られ、御簾越しに隣の席が見えるのもなかなか風情があってよいものである。



 








 

 また高瀬川の入船(船入り場)が縁側から見下ろせるが、その縁側にかわいい二人席が二つ用意されていた。恋人同士で来ると、われわれの部屋とは雪見障子で隔離され、ちょっとした密室感があって、ムードも急速に盛り上がること請け合いである。





縁側二人席から船入りの堀を見下ろす



豊富なメニュー


名物のおでんと串揚げのメニュー


 そうした京都の町屋の風情万点の座敷で、庶民的で豊富なメニューの中から京都のおでんや串揚げなど戴いたが、味も淡白でおいしく、しかも素材も工夫され、ちょっとお洒落で「京都」な気分になれるお店であった。





 




 胃袋と財布に優しいお店「桃屋」、一度は試す価値はありますよ。家内は次回は横の創作中華の「一之船入」というお店にチャレンジしたいと申しておりました。ここも、ちょっとした評判のお店のようです。今度、ご紹介することにいたしましょう。


 

 なお、以前から気になっていた「桃屋」という店名ですが、もちろん三木のり平の「江戸むらさき」の桃屋とはまったく別物である。お店のお嬢さんに伺ったところ、「桃屋」の経営会社も「グラマラスフード」という社名で、女性社長が「桃」の可愛らしいふくよかなイメージが大好きでネーミングしたのだとか。社長さんもきっとふくよかで優しい女性なのだろうと感じ入ったものでした。特に一見の客に拘わらず、お店に入ってからお見送りまでのスタッフの方々の応対が丁寧で心のこもったものであったことが、旅人には堪らなく嬉しい御馳走であった。


次の写真は当夜注文した品々です。いずれも京の香りのするものまたは珍しいものを注文してみました。



突き出しの生湯葉

名物のアスパラ豚バラ巻き

スジと九条葱が入った「おでん」

カマの焼き物

なんだったっけ・・・

焼き鯖寿司

おじゃこサラダ

女性陣のデザートで〜す!!
 



「笑い」がもたらす健康と幸せ

BlogPaint
宇治万福寺の布袋さま
 
この一月中旬に、「単孔式腹腔鏡下・胆のう摘出手術」という長〜い名前の手術を慶応義塾大学病院で受けた。


お臍に穴をあけて、というより、生まれた時に結び合わせた結び目を久方ぶりに解き放つという方が、この場合は適切な表現のような気がする。


何はともあれ、お腹にひとつ穴を開け、そこに一本の管にまとめられた3本のファイバーを差し込み、3D角度を出して、肝臓の下にくっつくようにしてある胆のうを切除し、体外に摘出するのである。想像するだけでちょっと気分は滅入ってしまうが、全身麻酔によって全く分からぬうちに手術は終わっていた。


そんな小さな穴から「どうやって胆のうを取り出すのかい?」という疑念が当初からあったが、お臍の穴は意外と大きく広がるのだそうだ。術後の執刀医の説明で家内が見せられたのだが、ファイバーを収納した管(これを臍穴から入れる)の直径は2cm弱はあったというのだから、結構大きな穴が必要となるはずである。

家内も、人間の皮膚っていうのはずいぶんと柔軟で丈夫なのだと他人事ながら妙に感心したという。その孔を縫合しなおした傷口はまったく分からない。何せお臍の結び目をほどき、また結び直しただけなのだから、外見からも昔のままのわたしのお臍である。先生の技能が優れていたので、出べそにもならず綺麗なものである。

そして尾籠(ビロウ)な話で恐縮だが、手術前にお臍の掃除をしろと云われ、オリーブ油を垂らし、綿棒でお臍の穴の掃除をした。その結果、数十年分の垢を落としたのだから、逆に術前より美しくなったというべきか。お臍丸出しルックを厭わぬ女性には特にお奨めの方式である。


まぁ、そういうことで4時間弱の手術(内、1時間は麻酔を醒ますため手術室にいた)は予定通りで無事に終了。本人は気づいたらベッドの上。家内とおしゃべりをしたが、やや頭は朦朧気味で、その日はおしまい。


そして術後の翌日、早速、歩行が始まる。お腹の中心部が痛いが、シクシクとかジクジクといったものではなく、身体を動かすと痛いというだけである。それも開腹手術と違いお臍に穴を穿つだけなので、ひきつるような痛さとも違う。ただ、痛い。う〜ん、例えて言えば、体育会系的な痛さ?である。


昼過ぎにやって来た家内と話しながら、内容は忘れたが笑おうとしたら、お腹の中心が痛くて笑えない。「冗談を云うのは止めてくれ」とつい頼んでしまった。まだ点滴の管が身体に装着され、わたしが気が滅入っているのだろうと気を回し、折角、面白い話でもと持ち出したネタなのだろうが、これが堪らない。


咳をするのもお臍の傷に堪えるが、それは一瞬の痛みである。まぁ、それも薄倖の佳人がコホンコホンと儚(ハカナ)い咳をするようにやるのだが、う〜ん、やはり痛味が走る。


しかし、その「笑い」という動きが、身体の中心を絶えまなく小刻みに揺るがす運動であることに、この時、気づいた。つまり、よく分かるのである。お腹の全筋肉が相互につながって池の波紋がじわ〜っと湖面全体に伝わるように、筋肉の蠢動が小刻みに伝わってゆくのである。その伝播と一緒に、痛みもお腹全体に広がってゆく。痛みが拡散し、弱まるのではない。同量の痛みがロスなく正確に廻りの筋肉に伝えられるのである。


咳は一瞬の筋肉の動きであるが、笑いは波紋のようにしかも同量のエネルギーを廻りに伝える、何だか随分と効率のよい運動なんだと気づいた。


「笑い」は癌などの免疫力アップに良いとする治療が施されているという話を仄聞したことがあったが、今回、その意味するところが分かった気がしたのである。


これほど腹腔の筋肉を意図的に全て蠢動させることは、どんな理学療法士でも難しいだろう。でも、ひとつの楽しい話から生み出される「笑い」が、自律的に体内の筋肉そして多分、内臓の動きも微細に持続的に動かす。


命のエネルギーが細胞から細胞へ、生きる喜びのパワーが波紋のように体の隅々にまで沁み込んでゆく。


手術を終えて、痛みを味わうことで、「笑い」が持つ命のパワーを実感したものである。暗いニュースが氾濫する社会に、せめて健康的な「笑い」が家庭内でも仲間うちにでも溢れたら、もっとみんな健康に幸せに生きられるのだと感じた。


最後に胆のうを取ると油ものが食べれなくなると色んな人に訊かされていたが、事前に主治医が「そんなことはない」と言っておられたように、俗説でありまったく問題はない。ダイエットにまい進する家内と娘を横目に、美味しいものをこれからもどんどん食べられる・・・、それもわたしだけで・・・と思うと、また「笑い」の虫が蠢き出し、ちょっとまだ腹筋が痛む。これって、違う痛みなのかも・・・

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)

  
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅---対馬に関わる神々の相関図

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


  
海神神社の鎮座する木坂・伊豆山に残る風習


鳶崎と御前浜

御前浜

 

   藻小屋(もごや)

     海神神社の前に広がる御前浜の海岸端に石造りの壁を持った数棟の小屋が見えた。海岸に流れ着いた藻やカジメなど海藻を収納し肥料にするため貯蔵しておくための小屋だといい、壁が石造りとなっているのは冬場の強い風に耐えるためだという。地元ではこれを「藻小屋(もごや)」と称し、御前浜には現在、6棟存在する。但し、これは復元されたものであるが、かつては全島一帯に設けられていたものである。


藻小屋と手前に「ヤクマの塔」

 

     この「藻小屋」の存在は、対馬における海人族のあり方を語っている。民俗学者の宮本常一氏はその著「海の民」(未来社)のなかで、海人が海藻を採るのは藻塩焼製塩に用いるほかに、鰯などとともに農耕の肥料として用いるといった用途があったため、「対馬では近世まで、農耕地を持つ者のみが海藻の採取権を持ち、土地を持たぬ漁民は藻を刈ることはできなかった」と記している。このことは古来、対馬では農耕を行う者が海人族であったことを意味し、海人族が跋扈する土地であったことの傍証となるものである。


   ヤクマ祭り・ヤクマの塔

     韓国済州島の石塔(タブ)にそっくりの「ヤクマの塔」(頂上に置く縦長の石はカラス石と呼ぶ)【「古代朝鮮と倭族」(鳥越憲三郎著・1992中公新書P118)より】以下の写真の出所も同様。


     手前の海岸にある石積みの塔は「ヤクマの塔」と呼ばれ、旧暦6月の初午の日に行われるヤクマ祭りの時に、その石塔に御幣を挿し、男子誕生と健やかな成長を願う。石塔の頂に置かれている縦長の石を「カラス石」と称す。上県郡峰村郷土誌によれば、古来、旧暦6月の初午の日に五穀豊穣を祈るため競馬を行なう風習があったという。6月初午の日を、「ヤクマ」と称して祭る風は、現在ではこの木坂と同じ海神神社の氏子村である青海(オウミ)に残るのみだが、昔は対馬全島で広く行なわれていた。


     ヤクマは「厄魔」という説を採るのが、藤仲郷の「対馬州神社大帳(天明年間(17871-1789の著作))である。大己貴神(オオナムチノカミ=大国主命の別名)、少彦名命(スクナビコノミコト=大国主命の協力者)という「医薬」・「穀物」の二神を祀る薬師神社と関連付けて、「ヤクカミ」・「ヤクシ」と呼び、それが「厄魔」に変じたとする。また同氏は、薬師神は土俗信仰でいう郡津(グンツ)または寄神(ヨリガミ)と同質のいわゆる国津神であるという。巷間で「ヤクマ」と称し、六月初午に初穂を神に供え厄払いの祭りをするが、それは薬師(ヤクカミ=厄神)に祈って厄除けをするものだとも解説している。


     もうひとつが、鈴木棠三氏が「対馬の神道」で若干触れている「役馬の神馬」の見方である。


対馬に残る安徳天皇御陵墓伝説地(厳原町久根田舎)から2kmほどの地に安徳帝に所縁の納言殿塚や馬塚、犬塚があるが、その御料の馬が埋葬された場所を「役馬神馬」といい、当地で茂地(シゲチ)という「不入の聖地」となっているとの話が掲載されている。

その久根田舎の聖地にさらに「ゴンシゲ(午(護)王の茂地)」と呼ぶ場所があり、そこがヤクマの競馬場であったと云われていると紹介されている。そして場所は異なるがとして、「峰村郷土誌によれば、旧暦六月の初午の日に豊作を祈念し競馬を行なう風が古来、行なわれていた。そして、その風習は対馬全島で広く行なわれていた」と、木坂の話も取り上げられている。


また木坂の北北東約10kmにある仁田地区では、2002年、「仁田の厄馬(ヤクマ)」別名「馬跳ばせ」の風習が、町おこし・対州馬種の保存の目的とも併せ約40年ぶりに復活を見、現在に至っているという事実がある。


ここで考えるべきは、旧暦六月の初午の日に催される「ヤクマ祭り」で、今も競馬が行なわれていることと、古来、五穀豊穣を祈り競馬が行なわれていたという事実の符合である。


「初午」の日に「競馬」による祈りの儀式を行ないその年の「厄」を除けるという永年の習俗を現在においても見せつけられると、「ヤクマ」は「厄馬」と解するのが、妥当であると考える。


   鹽井(シオイ)川

「対州神社誌」の文中にある海神神社より130間にある「鹽井川」は「鹽斎(シオイ)」→「潮斎(シオイ)」と解すると、神功皇后が伊豆山(斎(イツキ)山)に「神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふ」とある「斎」伝承に関連すると考えられ、新羅凱旋の折、佐賀の浦に設けた斎庭(サニワ)にも通じるものと推測される。


その「鹽井(シオイ)」は、海水や砂で家、田畑、人を清める御潮斎または御潮井(オシオイ)という風習にその名を認める。有名なところでは、博多祇園山笠に「お塩取り(お潮斎取)」という縁起物の儀式があるが、男たちが箱崎浜の砂を体に振りかけ身を清めるというものである。


また福岡県みやま市瀬高町文廣に「潮斎(シオイ)神社(別称:朝妻神社/祭神:水の神 瀬織津姫)」という名の神社があるが、そこには当社近くの朝妻川で景行天皇が禊ぎをしたとの伝承が残されており、その例祭に西側に流れる矢部川の清流を汲む「御汐井汲」という「鹽井」の名を冠する禊ぎの儀式が伝えられているという。こうした「シオイ」という地名にも、この伊豆山の地が神霊なる土地であることが強くうかがわれる。


   「原上(ハルア)がり」と山幸・海幸物語

     『対馬紀事』(文化6年(1809))に「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とある習俗が明治中頃まで残っていた。この習俗は鴨居瀬の住吉神社がある「産の浦」と呼ぶ一帯に残る海浜に建てた仮設の産屋での出産と云う風習と同様である。


     対馬の郷土史家、永留久恵氏は木坂の里の産土の習俗に着目し、この海神神社を式内大社の和多都美御子神社に比定している。『対馬紀事』に「当邑 産に臨んで 俄に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云う。之を原上り(ハルアガリ)と曰う。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風なり。」とある。鴨居瀬の住吉神社の項で、山幸・海幸に係る「紀」の記述に習う「産の浦」地区の出産習俗を紹介した。

 

     津嶋部神社という名の神社が大阪府守口市にある。その旧鎮座地が対馬江(北東約500m・寝屋川市対馬江町付近)であったとされ、延喜式神祇にも「津島朝臣・津島直の族此の地に来たりて住み、其の祖天児屋根命を祀れるならむ」とあることなどから、対馬の卜部たちが都に上る時に上陸地としてこの湊を利用するうちに対馬の民が棲みついたため「対馬江」という地名が冠されたものと推測される。


  そしてその地に、対馬の民が本貫の地の「津嶋女大神」という名の祭神を祀った。その大神が何を意味するかは謎であるが(その謎は別の項で語るとして)、かつてこの神社の近辺には、産婦は近くの海辺・川辺にわざわざ建てた産屋で子供を出産する習俗があったという。


海人族が力を有した対馬の習俗が遠く畿内の地にも伝播していた事実から、上古、「対馬の卜部」の影響力は想像以上に大きなものであったと考えられる。と同時に、「対馬」という地が、「日神」さらには「天孫族」の本貫地であったとするわたしの推測もあながち見当外れと云えぬのではないかと思うところである。

   「厳原」の名の起源が「伊豆原」

海神神社の本殿は、伊豆山の山腹を277段もの急峻な階段を上った中腹の辺り、伊豆原と呼ばれる平坦地にある。「イヅ(稜・威・厳)」とは神霊を斎(イツ)き祀ることの意味で、神功皇后が神霊強き山と呼んだところから「イヅヤマ」すなわち「伊豆山」と称された。後に八幡宮を国府の地に遷した(厳原八幡宮)ときに、その地を「イヅハラ」すなわち「厳原」と改名したのも、八幡本宮(海神神社)がそもそもあった伊豆原に由来したものである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

伊豆山

 
 海神神社について「対州神社誌」は、「一.八幡宮本社より鳥居迄道法百六拾間 鳥居よりしをひ川迄百三拾間 鹽(しお)井川より宮司家迄百四拾五間 一.神山東西八町程 南北四町程 樫松有 山之八分目程之所へ本社あり ・・・ 一.神器品類 不暇枚挙」と記載しているように、当社は古来、神山すなわち伊豆山全体を
神域とし、その本殿は山腹を大きく鈎型に縫うように277段の階段を上った山の八分目あたり、かつて「伊豆原」と呼称された平坦地に建っている。

山腹八分目にある平坦地、伊豆原

御前浜に面するように建つ一之鳥居をくぐり境内に足を踏み入れたとき、この神社がまさかこれほど壮大なものだと考えてはいなかった。

手水舎(ちょうずや)

一之鳥居を入ってすぐの境内


境内由緒書き


海神神社の鎮座する伊豆山は、その本殿を中心に約86haが国設鳥獣保護区として指定され、「野鳥の森」としてその生態系が保護されている。そのため今日に至るまで千古斧を入れぬ原生林として古来の姿を保っているという。

二之鳥居と右手に野鳥の森の観察路標識

二之鳥居


 神社由緒に神功皇后は神霊強き山とした「斎(イツキ)の山」の頂上に神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め国土守護を斎き祀ったとあるが、その本殿までの長くて急な階段を昇り、山腹途中から朝鮮海峡を眺め渡した時、まさにこの伊豆山自体が御神体であり、国を守護する神山であることを確信する。

二之鳥居を過ぎてすぐに目に付く磐座

急勾配だが幅の広い堅牢な石段

この上に三之鳥居が

山肌を覆う常緑広葉樹林の木の下闇に続く堅牢な石段を一段一段踏みしめながら、時折、葉叢の間を縫ってくる潮風が頬を撫でてゆく。

樹間から見える海峡

その風は遠い昔からこうして朝鮮半島から海峡を渡り異国あるいは母国の匂いをこの対島の人々に運び続けてきたのだろうと感じた。

三之鳥居

扁額

 長い階段を昇り切り顔を挙げたその真正面に、1.5メートルほどの高さに組まれた一重基壇の上に床下に亀腹(カメバラ)を有する2メートル弱の高床式の拝殿を見上げることになる。

海神神社の堂々たる拝殿

一重基壇に高床式の堂々たる拝殿

「対州神社誌」に「拝殿貮間に三間 此外に二間に三間之廊下これあり」とあるが、石段四段その上に木の階段四段を上ったところに均整のとれた堂々たる拝殿はある。

BlogPaint

拝殿南側から・床下に「亀腹」が見える

そして、本殿は「但し、本社と拝殿之取付なり」とあるように、拝殿の広間の奥、弊殿へ進み十段の階段を昇ったところに建つ。「神社誌」に「本社桁間七間入五間 此の内に四尺間にして小御所五間これあり」と、これまた威風辺りを払う威厳を感じさせるものである。

拝殿広間から弊殿を伝い、本殿階段へゆく

弊殿前に「16菊」の神紋が

ここで本殿の屋根は銅葺きの切妻造りだが、大棟に載る鰹木(カツオギ)は奇数の五本で、奇数の場合は男神を祀るという定説がある。そこで建造物の特色からは「木坂八幡本宮」たる祭神は男子たる応神天皇ということになる。



本殿

さて、ここで非常に不思議なのが、海神神社の本殿には神社特有の「千木(チギ)」がないことである。因みに木坂から遷されたとされる厳原八幡宮本殿には女神を祀るとされる内削ぎの「千木」が置かれている。(但し、どなたかの写真では千木が置かれていた。修復中でもあったのだろうか・・・)

千木のない本殿

神仏混合などの影響の濃い神社に「鰹木・千木」のない本殿を有すものがあることは仄聞したことがあるが、「鰹木」はあるのに「千木」がない神社というのは浅学非才にして訊いたことがない。

本殿と拝殿、境内社を南側から

次に拝殿の上から右手にそう広くない平坦地に境内社が五つ整然と列んでいるのが見下ろせる。本殿に連なるその一群の社の後背には斎き山なる伊豆山の頂上が迫っている。

拝殿の屋根越しに伊豆山の頂きが

拝殿より南側に境内社を見下ろす(この5社はかつて官社であった)



境内社については「大小神社帳」の記載に拠った。拝殿から近い順に記す。なお( )内は御祭神である。



    一ノ宮(神功皇后)

以下、脇宮として

    若宮(仁徳天皇)

    新霊(菟道皇子)

    軍殿(日本武尊)

    瓊宮(ニノミヤ・豊姫霊)



当社の祭神として応神天皇のほかに、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫(海神豊玉彦命の娘)、さらに「大帳」によれば先の二柱の御子、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト=神武天皇の父≒阿曇磯良)も同様に祀られていることも、当神社が「八幡宮」の創始とされる一方で、海人族と天孫族との融合に強い縁を有する聖地であったことを強く窺わせる。神功皇后が「息長帯足比売命(オキナガタラシヒメノミコト)」とも呼ばれ、その出自を「息の長い」海人族と推定すれば、この神山に鎮座する海神神社は、その名にも顕されているように海の民、海人族と極めて深い関係を持つと考えるのは至当であり、きわめて自然である。

境内

 斎(イツキ)の山の頂近くの斎原(イツキ)に鎮座する海神神社。その神山の山裾には「御潮斎(オシオイ)」という禊ぎの儀式を想わせる鹽井川が流れている。そして、後述するように社前の御前浜で今日もなお行なわれている「ヤクマ祭り」といった儀式を考え合わせると、この地はまさに「海神」という海人族の神を祀るに相応しい聖地であると云うべきである。




 


 


 

境内端より樹間に海峡が望める

 夏の一日、斎きの山頂でひとり朝鮮半島を想うと、遠き昔、一衣帯水の地より巧みに潮路を伝い、この対馬へ渡って来た人々の息遣いが、この「斎きの原」のそこここに聴こえてくるような気がした。


 


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)



海神神社一之鳥居


海神神社一之鳥居



   我が国の八幡宮の起源「木坂八幡本宮」



 神々のふるさと、対馬巡礼の旅---番外編(神功皇后は実在した1・2)」で見たごとく神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠が、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承であり、凱遷時に国防祈願をしたという八幡宮の存在である。そうした話を神社の由来として伝えるのが、かつて木坂八幡本宮と呼ばれた海神神社であり、木坂から遷された厳原八幡宮である。この二つの神社には神功皇后の凱旋時にまつわる酷似する伝承が残されており、全体の物語の構成としても不自然さがないことに、リアリティーという点で注目したいところである。



神功皇后の新羅征伐に係る対馬に関する「紀」の記述は以下の通りである。



【神功皇后(摂政前紀 仲哀天皇99月―10月) 「神助により新羅親征」】

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ=3日)に和珥津(ワニツ)より発ちたまふ。時に飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中の大魚悉に浮びて船を扶く。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫨楫(カヂカイ)を労(イタツ)かずして、便ち新羅に到る。・・・」との記述。

和珥津(ワニツ):対馬北端、上県郡対馬町の鰐浦。



「神功皇后(摂政元年3月―53月)「誉田別皇子の立太子」の記述のなかで、人質とした新羅の奈勿(ナモチ)王の子、微叱己知(ミシコチ)が奪還される場面で、対馬に宿泊。その時、人質奪還をされた土地の名が「サヒノウミ」の「水門」であると以下の通り登場する。

「〔人質の微叱己知(ミシコチ)と新羅の使者毛麻利叱智(モマリシチ)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)と〕共に対馬に至り、�窶海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る」



「紀」の注では、『「�窶(サヒ)」は「鋤」に同じく農耕具で、鋭利な武器でもあったか。鰐はその鋭利な歯から、「サヒ持ちの神」(古事記)といわれたことの連想によるか。』とあり、「サヒノウミの水門」は「和珥津」と同地と推定している。



但し、「対州神社誌」の「府内」の「(厳原)八幡宮」の厳原町久田道字宝満山に鎮座する「村社・與良祖神社」の「明細帳」(注)において、「山幸海幸の説話の(注)に、『海宮は津島の事なり。小船の着しは津島下県郡鴨居瀬村の東海瀬戸なり。爰(ココ)に小島あ、此島南北に連流し、此小島と鴨居瀬との間に瀬戸あり。�窶(スキ)の水戸と云。春気を受け紫藻を生ず。紫瀬戸と云。津島の東海絶景の第一とす』とある。



 これによれば、「紀」による人質奪還の場所、「�窶海の水門」は、現在の鴨居瀬の住吉神社の建つ場所ということになる。



 このように新羅征伐の一連の記述の中で、対馬は新羅征伐への出立地及び凱旋後の新羅からの人質を奪還された場所として、北端の港である「和珥津(ワニツ)」や鴨居瀬とも推定される「�窶海の水門」の名が登場するのみであり、凱旋時に国防祈願として造営した八幡宮に関わる話は、「紀」のなかにおいては一切言及されていない。



その一方で、巷間の伝承などを参考としたであろう「対州神社誌」や「海神神社神社明細書」に「木坂八幡本宮」、「明細帳」に「(厳原)八幡宮」の由緒が詳述されている。



(海神神社概略)

    住所:峰町木坂247

    社号:「対州神社誌」に「八幡宮」、「大小神社帳」に「木坂八幡本宮」とある。厳原の新宮に対し、本宮と呼ぶ。明治時代までは八幡宮と称していた。明治3年に、和多都美神社と改称し、さらに明治6年に海神神社となる。

    祭神:応神天皇・彦火火出見尊(山幸彦)・仲哀天皇・豊玉姫(山幸彦の夫)・武内宿禰

    由緒(対州神社誌より)

藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、この八幡宮を「日本八幡宮の旧本社なり」と主張している。当神社の由来書によれば、次記の通り。



「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌旗と鈴とを浜辺に張り巡らし捕虜の釈放(放生会の始め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒を木坂に遷して廟主となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。

「津島紀事」とは、対馬府中藩士の平山東山(ヒラヤマトウサン17621816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣土屋帯刀(タテワキ)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。

    一宮を木坂伊豆山に奉祀した由緒(海神神社神社明細書より)

「神功皇后新羅より還御の時対州西面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふとなり」とある。これは、厳原の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述あり。



    さらに、藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔現・金田城〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と、述べている。



    「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十二年に八幡神が現れたとなっている。



    統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている



    大小神社帳に、境内社として本殿左に建つ五宇が紹介されている。即ち、一ノ宮(祭神:神功皇后)・若宮(同仁徳天皇)・新霊(同菟道皇子)・軍殿(同日本武尊)・瓊宮(ニノミヤ・同豊姫霊)。この5社は「官社」であると記載されている。

また、木坂八幡本宮は古くは「和多都美神社」又は「上津(カウヅ)八幡宮」と号したとある。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---対馬に関わる神々の相関図

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井

対馬に関わる神々の系譜について、Wordで作成したものをスキャンしてご案内する。少々ボケて見づらいのですがご勘弁を。

なお、この写真の相関図に書き切れてない神代7代など「対馬巡礼の旅」を理解する上で必要なものを付記しておく。




 


【神代7代について】

神代3代(造化の神と呼ぶ)がこの世界に初めて生まれ出た神様で、すべて男性神


      国常立尊(クニトコタチノミコト)→国狭槌尊(クニノサツチノミコト)(or 天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))→豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)(or 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の順で生まれ出る。(赤字が神代三代)


      神代3代の次に生れたのが、4対偶の男女4カップルの神(8柱の神)で、先の3代と合わせて神代7代と呼ぶ。その最後の7代目に生まれたのが、伊奘諾尊、伊奘冉尊の男女神である。


      伊奘冉尊と伊奘冉尊は、大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)」、「月神(月読尊(ツキヨミノミコト))」、「蛭児(ヒルコ)」、「素戔鳴尊」と順に生んでゆく。



【山幸彦竜宮説話に関わる神々】

      玉姫は豊玉彦命(海神・綿津見神)の娘

      山幸彦は天照大神の孫の瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハタサクヤヒメ)の間にできた子供。

      豊玉姫は出産の時に本来の和邇(ワニ=)の姿になったのを山幸彦に見られ、綿津見神の国に戻る。子供の鵜茅不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)の養育を妹の玉依姫命に頼む。後に、玉依姫はその鵜茅不合葺命との間に「神武天皇」を生む

      阿曇磯良は豊玉姫命の子。父が誰かは分からず。


阿曇磯良(アズミノイソラ)
鵜茅不合葺命が同一人物という説もある。と言うことは、阿曇磯良は神武天皇の父or叔父ということにもなる

七草粥を食べて無病息災を願いました

今年も七草粥の日を迎えました。

 七草粥とは17日の「人日(じんじつ)の節句」の行事で、唐の時代、「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」という
七種類の若菜が入った汁物を食べ無病息災を願ったことがそのルーツなのだそうです。
ネットで勉強しました。便利ですね〜


やさしい七草粥


  そんな講釈は兎も角、これまでの一年間、家族が健康で過ごせたことに感謝し、またこれからの一年間、みんなが健やかな日々を送れますようにと祈りながら、ほどよい柔らかさに仕上がったお粥を口に運びました。

お正月料理とお酒で疲労の極に達した胃袋に、塩分控えめの若菜の香りがほのかに匂うお粥がいたわるように沁み込むようで、生きている安らぎを覚えた。こんな感慨にしみじみ耽るのもやはり年齢かなぁ〜・・・。


七草粥


 でも、本当に昔の人は偉かった。体に良い、よく考えた食習慣を作り上げたものだと、頭ではなく胃袋で心から納得した七草粥でありました。


 

最後に、みなさまのこの一年間の無病息災を心よりお祈り申し上げます。


 

明けましておめでとうございます。

卯年です

おめでとうございます

 

2011年、平成23年と書いてはみますが、まだしっくりとは来ません。この数字に違和感が無くなる頃には、皆さんにきっと何かいいことが起きているのだと思います。


元旦の空

 

そう心より願ってこれからわたしの干支である卯年をわたしも皆さんと一緒に元気に生きて行こうと思っています。

日の丸


 
これから一年間、また当ブログをご愛顧いただきますようお願い申し上げます。



 


 


 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)


一之鳥居扁額


阿麻テ留神社は、かつて対馬がまだひとつの島であった時代、対馬海峡の東水道から西水道へ入るために、船を陸に揚げ移動させた「小船越」という陸の隘路を見下ろす小高い丘の上にある。いわば古の要衝の地に立地している。現在より海が深く陸地に切れ込んでいた古代、この小高い丘からは東西の水道を左右真下に見下ろせたはずであり、半島への使者たちが小船越を常時、往来したことは想像に難くない。


小高い丘の上に阿麻テ留神社が

 

阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)がこの小船越に上陸したときに、そのすぐ脇にある丘の上の阿麻テ留神社に坐す日神(天照大神)がその随行員に憑依し、神意を伝えたのも十分に理解でき、納得するものである。


階段から一之鳥居を見下ろす(国道382号線が前を走る)


現在、東の小船越浦から西の浅茅湾深浦へこの小船越を越えて僅かに陸路で300mの距離である。その真中を国道382号線が南北に通るが、その国道沿い小船越郵便局手前、左側に阿麻テ留神社の石の鳥居がある。標識や案内板もなく、まさに国道脇の歩道に一之鳥居があるため、ゆっくり徐行でもしないかぎり通り過ごす危険性がある。


一之鳥居

一之鳥居から二之鳥居を

この急な階段を昇り、頂上に拝殿がある

頂上の境内から最後の階段を見下ろす

拝殿


この拝殿を目にしてこれが伊勢神宮の源流とはとても考えられない。しかし、「天照」を「阿麻テ留」と表記を変えた大和王朝の隠れされた意図を考えると、この社殿の粗末な佇まいが返って大和王朝が何としてでもこの神社を無視し抹殺しなければならなかった強い意志を感じるようでもあり極めて興味深い。


アマテル神社の御祭神「日神命」、「天照御魂命」とは一体、何ものであるか?

どう考えて見ても、天孫族の御祖(みおや)としか考えられぬのである。


拝殿脇から境内と階段下り口

拝殿脇から本殿を

本殿

拝殿内

拝殿内部

拝殿上空の空


(阿麻テ留神社の概要)

・住所:美津島町小船越字河岸川352

・社号:「対州神社誌」では「三所権現」とあるが、「大小神社帳」では、「照日権現神社」、古くは「天照乃神社(アマテルノジンジャ)」とある。「明細帳」に「阿麻テ留神社」とある。

・祭神:「大小神社帳」では天津向津姫神。「大帳」には「対馬下県主『日神命』または『天照魂命』」とある。また、「明細帳」には、祭神は「天日神命(ヒニミタマ)」とある。天日神命は対馬県主の祖。対馬県主は、姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命〔神事の宗家〕から出るとあり、中臣氏系と見ることができる

・由緒(大帳)

「則〔日神命が〕御住地也。高御魂尊之孫裔也。皇孫降臨之時供奉之神也。古事本紀曰、天日神津島縣主等祖云々」

つまり、阿麻テ留神社の場所が、対馬下県主たる日神命(天照魂命)が住まわれた土地であると云う。日神命(天照魂命)は高御魂尊の末裔で、皇孫降臨の時に、お供奉った神である。古い本紀に曰く、天日神は対馬県主等の祖云々とある。延喜式神名帳に載っている阿麻テ留神社は是である。(大帳による)


境内の石灯籠


貞観十二年(870年)三月正五位下を授かる(明細帳による)。〔律令制においての位階制。五位以上の者には「位田」が支給される規定となっていた。五位以上の者が「貴族」と呼ばれ、昇殿などの特権が与えられた〕


『神名帳考證』(寛文年間1661-73年)にも、「阿麻テ留神是天日神命也」とあり、天日神命(ヒニミタマ)つまり「天の日の神」が津嶋縣直の祖神であることを云っている。


と云うことは、「阿麻テ留」は「天照(アマテル)」すなわち「天照大神」としてよいのではないか。つまり、対馬が日神つまり伊弉諾尊・伊奘冉尊が生んだ天照大神を、壱岐が月神つまり月読尊を祀る本貫地であると比定することは、一概に荒唐無稽な暴論であると一蹴すべき話ではないと考え及んだところである。

一之鳥居前の狛犬

 

そして対馬下県主たる「日神命(天照魂命)」という神の名が、三柱鳥居のある京都の太秦にある「木嶋坐天照御魂神社」の社名に酷似していること。また天照大神と豊受大神が伊勢神宮に遷る前に遷座した吉佐宮とされる元伊勢と呼ばれる京都丹後一の宮、「籠(この)神社」の祭神、彦火明命の別名「天照御魂神」とも共通していることなど、興味深い謎が次々と浮かんでくる。

海が近いことを私に知らせるように本殿下に出現した蟹


さらに籠神社に伝わる極秘伝である「同命(彦火明命)が山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られている」との伝承が、対馬懸主の祖であり対馬亀卜の祖たる中臣烏賊津使主(イカツオミ)すなわち雷大臣命(イカツオミノミコト)を見事に想起させる。


木嶋坐天照御魂神社と賀茂神社の神紋が「双葉葵・加茂葵」と同一であること。水位・潮位といった水に深く関連すると思われる三柱鳥居を有する対馬の和多都美神社、太秦の木嶋坐天照御魂神社、向島の三囲(ミメグリ)神社。古来、京の水の司として賀茂神社の祝(ハフリ)の家柄である鴨脚(イチョウ)氏の存在から推測される鴨氏と水、双葉葵の神紋と元糺(もとただす)の森(木嶋神社)と糺(ただす)の森(下鴨神社)の関係。木嶋神社(秦氏が建立)と賀茂神社。秦氏と鴨氏の深い関係。そこから秦氏からハタ → 韓国語の海(ハタ)→ 海人族・・・と、連想ゲームは果てしなく続いてゆく・・・・。


こう想いを巡らせて来たとき、阿麻テ留神社は天照神社と称すべきなのかもしれぬとも思った。また逆に天照大神は本来、阿麻テ留大神と称すべき神であったのかも知れないと想いを馳せて見たりしてみるのであった。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳(2013.11.23)

(「アマテル」の「テ」は「氏」に下バーの「_」)


●阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)について
「15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)」の「紀」の注1につづく


【仲哀天皇二年7月―8月条 「熊襲征討」】

「阿閉嶋(アヘシマ)」の記述あり。山口県下関市北西の海上にある六連(ムツレ)島の西北の藍島のことか。(紀第一巻P407の注13)


【神功皇后(摂政前紀仲哀天皇9年4月―9月条) 「神助により新羅親征」】

「是(ココ)に吾瓮海人(アヘノアマ)烏摩呂(オマロ)をして、西海(ニシノミチ)に出でて国有りやと察(ミ)しめたまふ。還りて曰(マヲ)さく、『国見えず』とまをす。又、磯鹿海人(シカノアマ)名草(ナグサ)を遣わして覩(ミ)しめたまふに、数日(ヒカズヘ)て還りて曰さく、『西北に山有り。帯雲(クモイ)にして横に�嚀(ワタ)れり。蓋し国有らむか』とまをす。」

がある。

こうした記述を参考にするとしても、新羅との外交交渉を担当する
阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)は、紀の注釈にある伊賀国阿閉郡を本拠とする氏族や下関の阿閉嶋(アヘシマ)出身の人物とするより、当時の新羅征討に関連する人物群や地勢的特性から推定して、対馬の「阿連」、旧名「阿惠(アヘ)」に棲む海人族の一支族とするのが、妥当な解釈のように思える。仲哀天皇9年4月―9月条の磯鹿海人(シカノアマ)も、新羅征討の伝承に深く関わる志賀島のやはり海人である。

ここで、以上の『顕宗紀』に係る「紀の注記」をまとめると、以下の通りである。

    日神(ひのかみ):延喜式神名帳に対馬島下県郡 阿麻テ留(あまてる)神社

    磐余:神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇の名前の中に「磐余」が入っている。「神」は神々しい。「日本」の文字は「公式令」詔書式の規定による修文、このヤマトは奈良県。「磐余」はイハレ、桜井市中西部から橿原市東部にかけての古地名。

    高皇産霊(タカミムスミノミコト):「延喜式」神名に「大和国十市郡目原坐高御魂神社」、対馬島下県郡高御魂神社

    対馬の下県直(シモツアガタノアタイ):「姓氏録」摂津未定雑姓に「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也」

    祠:高御魂神社の祭祀をさす


(参考)

*高皇産霊

高皇産霊神は忌部氏の祖神であり、阿波や讃岐地方と深い関係があると考えられる。その地域には同様の墳墓形式、すなわち前方後円墳以前の積石塚墳墓が集中している。高句麗系の墳墓様式とされる積石塚墳墓は、対馬や香川の高松市の石清尾山、徳島の吉野川流域、和歌山、長野県といったツングース系渡来人が居住していたといわれる地域に多い。


以上をまとめて整理すると、「顕宗天皇紀」は、天照大神が対馬で顕れ、月読尊が壱岐で顕れたと述べている。そこで云う「日神」並びに「月神」が一般論の日・月信仰のものでないことは、人に憑依した日神・月神双方ともに、「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云っていることである。

それはつまり、伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る(「神代7代」の3代目が「
高皇産霊」であり、7代目が「伊奘諾尊・伊奘冉尊」である。「高皇産霊」は「伊奘諾尊・伊奘冉尊」の直系の祖である)という意味で「
我が祖高皇産霊」と云っているわけで、「日神」は別名「天照大神」であることから、対馬が天上界すなわち高天原ということに論理的にはなるということである。

なぜ、大和から遠いしかも離島の対馬で日神が出現し、壱岐で月神が顕れ出たのか。それは、日本書紀が編纂された当時の人々にとって対馬と壱岐という地に日神、月神が顕れても不思議ではない、或る共有化された事実、歴史認識があったと考えるしかないのである。

であれば、「天照る」は「海人(アマ)照る」の方が対馬には相応しいとするのが自然である。つまり、高天原は天界ではなく絶海の只中に浮かぶ島(対馬・壱岐)の上に存在することになる。

天孫降臨族の祖先が、大陸・半島から九州・本州へ渡る際に必ず中継点として足を止める地が「対馬」であった。そして、そこはそもそも先住人たる海人族が支配する土地であった。つまり、山幸彦と豊玉姫の伝説はそのことを伝える物語であったことになる。その王族二人の婚姻こそが天孫族と海人族の融合を示す説話ということになるのである。

結論的に対馬・壱岐は海人族と混血した「新たなる天孫族」の発祥の地・本貫の地ということになる。そしてそうした認識が「紀」の時代の支配者層にはあったと云うのがロマンを求める筆者の見解でもあるのである。

その日神たる天照大神を祀る伊勢神宮の源流が、これから紹介する「阿麻テ留神社」ということになる。「テ」は漢字では「氏」の下辺に「_」の下バーを記した文字。



神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)





阿麻テ留神社の扁額

卑弥呼畿内説や大和王朝至上主義の史観に囚われることなく、「日本書紀」を純粋に歴史書として注意深く読んでいると、対馬が、ある時代、天孫降臨族の本貫地として認識されていたことを示唆する記述があることに気づく。

すなわち、「紀」に対馬が天孫族の発祥地であることを窺わせる「日神」に関わる一連の記述がある。それは壱岐における「月神」の顕現に続いて、対馬では「日神」が人に憑依し、託宣を行なう様子として描かれている。

まず、その「日神」・「月神」の生誕についてであるが、「紀」は伊奘諾尊(イザナギノミコト)と伊奘冉尊(イザナミノミコト)の二神が大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)を生みたまふ」たとある。

そしてこの日神があまりに明るく美しく、「未だ此(カク)の若(ゴトク)く霊異(クスビニアヤ)しき児(コ)有らず」と類稀な神秘性から、伊奘諾尊と伊奘冉尊は、「久しく此の国に留むべからず。自当(マサ)に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし」と、地上から天上界へ昇らしめ、高天原の政事(マツリゴト)を担うこととさせたのだと語っている。

次に「月神(月読尊(ツキヨミノミコト))を生みたま」ひ、さらに「其の光彩(ヒカリ)日に亜(ツ)げり」と、月神の美しい光は「日神」に次ぐもので月神は日神に従属するものと捉えられている。そして月神も日神とともに天上界を治めるため同じく天上界へと昇っている。


その日神と月神の坐す処が「対馬」および「壱岐」であるということが、「紀」の「顕宗(ケンゾウ)天皇3年」に記されているのである。顕宗天皇(23代):在位485487

【紀:顕宗(ケンゾウ)天皇32月条 任那と百済の攻防】(月の神について)


 「三年の春二月の丁巳(テイシ)の朔(ツキタチ・一日)に、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)、命(オホミコト)を銜(ウ)けて、出でて任那に使す。是(ココ)に月神(ツキノカミ)、人に著(カカ)りて謂(カタ)りて曰(ノタマ)はく、『我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)、預(ソ)ひて天地を鎔造(ヨウゾウ)せる功有(コウマ)します。民地(ミンチ)を以(モ)ちて、我が月神に奉(タテマツ)れ。若(モ)し請(コヒ)の依(マニマ)に我に献(タテマツ)らば、福慶(フクケイ)あらむ』とのたまふ。事代、是(コレ)に由(ヨ)りて、京(ミヤコ)に還りて具(ツブサ)に奏(マヲ)し、奉(タテマツ)るに歌荒樔田(ウタアラスダ)を以ちてす。歌荒樔田は、山背国葛野郡(カヅノコホリ)に在り。壱伎県主の先祖(トホツヤ)押見宿禰(オシミノスクネ)、祠(ホコラ)に侍(ツカ)へまつる。」(次の「*」に続く)

とある。阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)(注1)が任那に使いする途中、壱岐を通過した際、人に憑依した月神の「京の民地を我が月神に奉れ」との託宣に触れ、山背国葛野郡の歌荒樔田の地を献上したことが記述されている。



(紀の注1)

「阿閉臣事代:伊賀国阿閉郡(三重県阿山郡西部・上野市)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、朝臣賜姓。アヘは饗応の意味で、それに因む氏族名。阿倍臣(アヘノオミ)と同じ。始祖は孝元天皇と皇后鬱色謎命(ウツシコメノミコト・穂積臣の女)の第一子である大彦命(オオビコノミコト)で、阿倍臣・膳臣(カシハデノオミ)・阿閉臣・狭狭城山臣(ササキヤマノオミ)・筑紫国造(ツクシノクニノミヤツコ)・越国造(コシノクニノミヤツコ)・伊賀臣(イガノオミ)の七族が後裔。」とある。

  なお、「15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)」において、「紀」とは異なる「阿閉臣事代」のわたしの解釈を述べる。

この託宣した月神は「延喜式神名帳」に掲載される「壱岐郡月読神社」の祭神と看做されている。高皇産霊(タカミムスミノミコト)は延喜式神名に「壱岐郡高御祖神社」とある。この月神に続いて、日神についての記述が登場する。すなわち、先の「*」から続き、

【紀:顕宗(ケンゾウ)天皇3年春4月】
(日の神について)にそれが詳しく記載されている。


「夏四月の丙辰(ヘイシン)の朔(ツキタチ)にして庚申(コウシン)に、
日神(ヒノカミ)、人に著(カカ)かりて、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に謂(カタ)りて曰(ノタマ)はく、「磐余(イワレ)の田を以ちて、我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)に献(タテマツ)れ」とのたまふ。事代、便(スナハ)ち奏(マヲ)して、神の乞(コハシ)の依(マニマ)に、田十四町を献る。対馬の下県直(シモツアガタノアタイ)、祠(ホコラ)に侍(ツカ)へまつる。」

と、壱岐の月神に続き、阿閇臣事代が対馬に立ち寄った時に、今度は日神が人に憑依し「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)に大和の磐余に神田を十四町、献上しろ」と、託宣しているのである。



  ここで、日神が造化三神(神代三代)のひとつである高皇産霊を我が祖と云っていることは、極めて重要な事柄である。即ち、天孫族の始祖である高皇産霊のために、対馬に坐ます日神が、大和朝廷に対し「神田」の献上を命じ、朝廷がその意向に従っている。さらに壱岐同様に対馬の下県直をわざわざ都に遣わし、祠を建て、その献上地を祀らせている。その記述の内容は畏怖する神に大和王朝がひれ伏すかのようで、そのことは対馬の日神・壱岐の月神が天孫族の系譜のなかで大和王朝の御祖(ミオヤ)として上位にあることをはっきりと示唆していると云ってよい。

しかも見逃せないことは、日神に「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云わしめていることである。それはまさに、天照大神の親神である伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る神代7代のなかの3代目にあたる高皇産霊尊という意味で「我が祖高皇産霊」と云っているのである。このことからも対馬に坐す「日神」が単なる太陽信仰というのではなく、天孫族の系譜のなかにおける「日神」すなわち「天照大神」であることに間違いはないと云える。



 神代三代・七代について

日本書紀において、神代3代(造化の神と呼ぶ)がこの世界に初めて生まれ出た神様で、すべて男性神である。

国常立尊(クニトコタチノミコト)→国狭槌尊(クニノサツチノミコト)(or 天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))→豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)(or 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の順で生まれ出る。これを神代三代と呼ぶ(赤字が神代三代)。

・神代3代の次に生れたのが、4対偶の男女4カップルの神(8柱の神)で、先の3代と合わせ神代7代と呼ぶ。その最後の7代目に生まれたのが、伊奘諾尊、伊奘冉尊の男女神である。

・伊奘冉尊と伊奘冉尊は、大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)」、「月神月読尊(ツキヨミノミコト))」、「蛭児(ヒルコ)」、素戔鳴尊と順に生んでゆく。 

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