彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

September 2010

尖閣諸島、船長釈放=民主党の政治主導はマヤカシ!

尖閣流出ビデオ事件の本質は、「クーデター」と知るべき(2010.11.6)

河野雅治駐露大使の強制召還に、ロシア側は即座に高圧的反応=メドベージェフ大統領の北方領土・国後島訪問事件 (2010.11.3)

「竹島」に李明博(イ・ミョンバク)大統領がやって来る!=露大統領、北方領土訪問 (2010.11.2)

菅首相の国辱外交=「尖閣諸島」の致命傷となった日中首脳会談 (2010.10.6)



 この件については多くの言葉を弄する必要はない。

 

 那覇地検がこの24日、「我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮すると、これ以上身柄の拘束を継続して捜査を続けることは相当ではないと判断した」と、政治的配慮により、中国人船長を処分保留で釈放した。

 

そして、那覇地検の判断について仙谷由人官房長官は、「捜査上の判断」であるとして、政府の意向による「政治的な配慮」を否定した。

 

また、柳田稔法相も口を合わせるかのように、「指揮権を行使した事実はない」と言明した。

 

いま、検察庁は大阪地検特捜部の証拠改竄問題で、政治に対しては極めて弱い立場にある。

 

そんな検察が、日中のトゲとなっている尖閣諸島問題で、独断で判断し、処理するはずがない。とくに、今回の釈放理由とされた「我が国国民への影響や今後の日中関係を考慮」などという極めて高度な政治判断を一官庁が行うはずがない。

 

民主党政府は政権発足当初、霞が関の言動や旧来のやり方に過敏なまでに反応し、記憶に新しいが、役所の記者会見すら禁止した。

 

そんな政府が、今回の事件での検察の釈放理由を聞いて激怒しないのはおかしい、いやそれを超して、明らかに異様であり、不自然である。

 

この高度に外交的な問題を一地検が最終の処理を発表するなど、あり得ない話である。国内法に照らし、粛々と処理をしたと菅首相も言うではないか。

 

であれば、現在、民主的法律がこの国には整備されているのだから、政治家や政府などいらぬということではないのか。法律に則して諄々と事を判断し、進めてゆく官僚がいればよいのだから。

 

国民を馬鹿にするのもいい加減にしろ!と、叫びたい!!!

 

そもそも今回の問題は誰が中国船舶の拿捕を最終的に判断したのかが、事の始まりである。中国が尖閣諸島の領有権を強弁する主張に対し、船舶、船長の拿捕・逮捕となれば、その先の手筋が当然、政治家たるもの考えていたはずである。拿捕も逮捕も官僚がやった。そして、釈放も勝手に役人がやったのだと、民主党政府はしゃあしゃあと言う。それも、国民に対してだけでなく、国際社会に対して恥ずかしげもなく言う。これほど高度な政治問題を政治が主導しなくて、何が政治主導だ。

 

逆に、これが本当に海上保安庁が拿捕を判断し、検察庁が釈放を勝手に決めたと云うのなら、民主党のいう政治主導とは、どういう局面をいうのだろうか。はっきりして欲しい。もはや、この国に現在、政治という知恵と高度な権謀術策を必要とする機能は存在しないと云うしかない。

 

尖閣諸島の問題については、かつて中国のトウ小平が、「双方に言い分はある。後世の世代の知恵に任せることにしよう」と述べた経緯がある。それは優柔不断でもなく、腰の引けた言葉でもない。大局を見据えた政治家の言葉である。

 

菅内閣の政治主導のあり方および官僚の暴走による国益の毀損についてどう考えるか。自民党以下野党も、メディアも早急に追及すべきである。

 

 民主党の言う政治主導は、マヤカシと断罪するしかない。

 

龍馬伝、長崎を歩く

龍馬伝、京都を歩く



長崎奉行所(長崎市立山1-1-1

亀山社中(同伊良林2-7-24

グラバー邸(同南山手町8-1

 

 福山雅治主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」も、最終回の1128日(第48回)まで残すところあと2ヶ月となった。914日の長崎往訪中に、龍馬ゆかりの地を歩いた。まだまだ猛暑が続く日々であったが、さすがに龍馬伝効果であろう、ゆく先々の人出は多かった。

 

 まず、龍馬が薩長連合に動くなか、龍馬に厳しい探索の目を光らせた幕府の長崎奉行所立山役所を訪れた。

 


長崎歴史文化博物館・長崎奉行所跡地に立つ。奉行所も復元


館内に入ると龍馬像(左)と岩崎弥太郎像が立っている


龍馬と長崎奉行所に関わる展示がされている 

 

 

現在は発掘作業も終わり、江戸時代の奉行所の姿が、残された図面に沿って復元がなされていた。この奉行所には、イギリスのイカルス号乗組員が殺害された「イカルス号事件」で、海援隊士の関与を疑われた際に、実際に龍馬が訪れたという。もし、龍馬らが捕縛されていたら取り調べを受けたであろうお白州なども館内に復元されている。

 

長崎奉行所のお白州復元
お白州も奉行所内に復元されている 

 

 立山役所の正門も当時の石段や石組みを出来るだけ使用し、精確に再現されていた。

 

 

旧長崎奉行所立山役所の正門へ・古い石組は発掘された遺構を利用


正門下の防火用水用溜池遺構
正門前の防火用の貯水池

井戸の復元
階段わきの井戸

奉行所の石垣遺構を組み込み復元
階段脇の石垣・遺構を利用


長崎奉行所正門階段
幕府の権威を感じさせる正門階段


 

正門より表玄関を・龍馬もこの門をくぐり入って行ったのだろう 

 

 

写真で見て、変色した部分が発掘された遺構が残された部分である。建物全体や正門の威容を見るに、幕末とは云え、想像していた以上に徳川幕府の威厳は無視しがたく、強大なものがあったと実感した。

 

海援隊時の龍馬の署名文書
大洲藩の帆船購入の保証人に才谷楳太郎の署名が
才谷は龍馬の変名 

 

 

そして、土佐の一介の脱藩浪士がその幕府を倒し、新たな時代を築こうと、その大望に向かいひた走った若者たちがいたことが、途轍もないことだったのだなと感じたものである。

 

 次に、亀山社中を訪れた。眼鏡橋から中島側沿いに上流に500m、大出(オオイデ)橋を山手方向に渡ってゆく(その日は一本手前の編笠橋を渡った)。

 

編笠橋の石柱
編笠橋石柱

編笠橋
元禄12年(1699)に架けられた編笠橋(S57二回目の架け直し) 
  

 

禅林寺と深崇寺の間の「龍馬道り」と名づけられた幅の狭い階段道を登ってゆく。

 

龍馬通りの石柱
通りの入り口に立つ石柱

亀山社中案内板
龍馬通りの入り口案内板


  

この細い坂を210m登る 

 

 

亀山社中跡まで210mと案内図にあった。結構、勾配がきついが、その途中に海援隊の隊士の紹介が順次なされるなど、休憩をとりながら登る工夫もされている。

 

龍馬通りの途中に隊士の紹介が
陸奥宗光の紹介・途中にいくつもこの看板がある 

 

「龍馬茶屋」というここ23年前に出来た店でラムネを呑んだ。

 

龍馬茶屋案内
龍馬茶屋の立て看板 

 

 亀山社中は外見は普通の一軒家で、表から海援隊の紅白の旗「二曳(ニビキ)」が見える。

 


 

小さな一軒家が亀山社中

亀山社中門
社中跡の石碑


階段を昇り、建屋内へ

門前の守衛さん
門前階段で社中を守っているのか・・・ 

 

 

屋内は狭く、ここに社中の20数名が住んでいたとはにわかに信じがたい。10畳の座敷?には、今は、月琴やブーツなど龍馬ゆかりの品が飾られていた。 

 

旅行者には、ボランティア・ガイドの男性が説明をし、月琴を抱えた記念写真を撮ってくれていた。室内が狭いうえ、見学者が多く、その撮影の間、その10畳の部屋でゆっくりすることが難しく、やはり、龍馬伝が終了し、静かになってからできればもう一度、行くのがよいと感じた。

 

 社中の門を出て、右手に数メートル行った場所に、「龍馬のぶーつ像」なる変わったモニュメントがある。亀山社中創立130年を記念して建立されたものである。

 


 

龍馬のブーツ像 

 

どの見学者も皆、そのブーツに足を入れて記念写真を撮る。なにしろ、変なモニュメントだから、つい、写真を撮ってしまう、哀しい人間の性(サガ)ではあった・・・

 

 龍馬伝の最後は、グラバー邸である。

 


 
グラバー邸



グラバー像
 
邸内にあるグラバー像

 

かなり昔に行った時には、こんなではなかった。邸内にエスカレーターあり、ビヤガーデンあり、さらには明治村よろしく旧三菱第2ドックハウスや西洋料理屋旧「自由亭」など、明治時代の建物が移築され、テーマパーク化していた。

 


  

旧三菱第二ドックハウス

三菱第二ドックハウスの二階バルコニーから
ドックハウス二階バルコニーから

三菱第二ドックハウス一階回廊
ドックハウス回廊 

 

まぁ、色々あった方が旅行者にしてみれば、一挙に見学できるので便利と云えば、便利だが、かつての豪商ならではのグラバー邸の佇まいを記憶している者にとっては、ちょっと、豪商らしからぬ小賢しい商人(アキンド)の邸内のようで、少々、気落ちしたものである。

 

整備された広い邸内
整備された広い邸内

  

グラバー邸

ダイニングルーム
邸内の食堂


前庭よりグラバー邸を

グラバー邸前庭
邸内より前庭を 

 

 ただ、グラバー邸室内の天井裏の隠し部屋を目にした時には、幕末の緊張感や徳川幕府というとてつもない権力に立ち向かった龍馬や高杉晋作の勇気と度胸が、ストレートに胸に迫って来た。やはり、時代は「若者」が変えてゆくのだと感じた次第である。

 

天井の隠し部屋
天井裏の隠し部屋・夫人の部屋に入り口があるという
 

 

 坂本龍馬という若者が幕末という時代に顕れ、何の肩書もない一介の脱藩浪士が窮地に陥った日本を救った。なぜ、そんなことが出来たのか。わたしはグラバー邸のベンチからぼんやりと港を見下ろした。

 


 

夕暮れ時の港を見下ろす・・・ 

 

 すると、

 

「私心を捨てさえすれば、何事も可能になるぜよ!」

 

と、夕暮れの空の向こうから龍馬の声が届いたような気がした。激動の幕末を一瞬にして駆け抜けた龍馬。生き方も一陣の風のようであったが、その言葉も簡潔で爽やかであった・・・。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)


 その豊玉姫が上陸し、山幸彦が産屋を造って待っていた浜こそが、この鴨居瀬であったという。さらに村名の由来が「
鴨著(ツ)く島」つまり「鴨の居る瀬戸」という、「紀」・「記」にある山幸彦の御歌にあることを、江戸の天明年間178189編纂の「対馬州神社大帳」が伝えている。

 

 

つまり、大和王朝ならびに天皇家の始まりに深くかかわる地がこの鴨居瀬ということになる。なんとも、ロマンを掻き立てる伝承である。それも此の浜や他の対馬にあった習俗を考えると、単なる作り話として退けてしまうのも、いささか乱暴の気味であると云わざるを得ないのである。

 


 
大正8年頃の住吉神社(拝殿内の絵馬)

 

即ち、かつてこの「神社の周囲の浦が『産ノ浦』と呼ばれ、ここに臨時の産屋を建てて女性は出産する」という驚くべき習俗が残っていたというのである。

 

しかも同種の出産習俗(原上り)が、豊玉姫を主祭神とする「海神神社」のある木坂にも残っていたという事実こそが、この国の創世期において、海神を祀る海人族と天皇家の祖たる天孫降臨族とは強くて深い関係があったことを物語っていると云える。

 

原上り(ハルアガリ)」については、『対馬紀事』(文化6年(1809))に、「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とあり、さらに驚くべきことは、その特異な習俗が明治中頃まで残っていたことである

 

対馬の住吉神社と海神神社が海人族の祖神を祀り、出産と云う人間の営みのなかでも崇高でしかも危険な営みに係る難儀な習俗が永年にわたり続いてきたことこそが、海幸・山幸彦神話が単なる説話ではないことを確信させるのである。

 

 

日本海海戦(明治38年)戦捷記念行事の「船ぐろう」優勝時の艫櫓(トモロ)

対馬竹敷の海軍要港主催(明治42527日)

 


 
説明書きには「船ごろう」とあり、鴨居瀬ではそう呼ぶのだろうか

鴨居瀬の和船(乗員87名・櫓33丁)が対馬全島内で優勝

 

代々の女性が浜辺に建てた臨時の産屋で出産する、それも鴨居瀬だけにとどまらず、対馬の東(鴨居瀬)と西(木坂)に同様の特異な風習が残っていることも、その言い伝えが単なる昔話ではなく、対馬の人々にとっては、古来、誇りと為す歴史的事実があったからこそとの思いを強くするのである。

 


 
万延元年の石灯篭

 

加えて、「紀」の「海幸・山幸説話」には、山幸彦の死を「彦火火出見尊崩(カムアガ)りましぬ。日向(ヒムカ)の高屋山上陵(タカヤノヤマノヘノミササギ)に葬りまつる。」とある。

さらに「神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四男神の誕生」に、「久しくして彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)、西洲(ニシノクニ)の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平(アノヒラノ)山上陵に葬りまつる。」とある。

 

即ち、海人族に深く関わった天孫降臨族の二人共が「西洲の宮」で亡くなったと推測され、対馬がその強力な候補地とするのは、仁位の龍宮伝説や鴨居瀬の鵜茅不合葺尊の出生伝承を併せ考えると、逆に自然なことなのである。

 

歴史書が語っていることと、「事実」の意味合いを再度、考え直してみる必要性があるのではないか、それだけの重みを記述の中に読み取り、感じ取る鋭敏で豊かな感性が殊に必要であるのではないかと感じたのである。

 

この住吉神社が面する浦は、別名、「紫瀬戸」とも呼ばれる。豊玉姫が出産した後産の胎盤などをこの地で洗ったために、藻が紫になったとの伝承が残る。当日は盛夏ということで藻の繁茂する季節ではなく、紫の藻を見ることはなかったが、透き通った海は、太陽の日差しに映えて、オモテを群青色に染めていた。

 


 
鳥居真下の階段は海の中へ

 

 

水が透明な鴨居瀬の海

 

 

 続いて、鴨居瀬のちょっと先に在る赤島を訪ねた。ここも豊玉姫がこの浜で出産したと云い伝えの残る浜である。

 

 

赤島大橋

 

 

赤島大橋より外海を

 


 
赤島大橋より入江奥側を

 

赤島大橋から見る海は夏の太陽の日差しを反射し、群青色の世界を眼下に展開して見せた。

 


 
エメラルドグリーンの海

 

 

対馬で最も海がきれいだと云われる赤島




 
海の深浅と日差しで海面も色を変える
 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

 

 鳥居が水際に立つ鴨居瀬の住吉神社

 



 
赤島の鮮やかな群青色の海

 

 海幸・山幸物語の龍宮城(和多都美神社)を訪ねた後は、山幸彦(神武天皇の祖父)が帰って行った上国(ウハツクニ)ゆかりの海浜にある神社を訪ねることにする。鴨居瀬(カモイセ)の住吉神社である。鳥居が海に直接、面し、参道が海路となる形態は、先に見た仁位の和多都美神社をはじめ、浜久須の霹靂(ヘキレキ)神社、五根緒の曽祢崎(ソネザキ)神社など対馬に多く存在する。古くからの海の民の信仰を色濃く残している対馬ならではの特異な神社様式である。

 


境内の由緒説明


 

住吉神社拝殿

 


 
拝殿内部

 

 

拝殿より鳥居越しに鴨居瀬の入江を

 

鴨居瀬の住吉神社(美津島町鴨居瀬174)

    祭神:彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケウガヤケフキアエズノミコト)(大帳・明細帳)三筒男命(住吉三神)(大小)

    社号:瀬戸紫住吉大明神/鴨瀬(カモゼノ)住吉神社(大小)/和多女御子神社(明細帳)

    「対馬州神社大帳178189年編纂)」は、その由緒に「鴨居瀬」の由来を説いている。即ち、「鴨居瀬村、一に鬘(カズラ)浦村という。一説に波●武尊(ナギサタケノミコト)を養ひ奉(タテマツリ)し處ゆえに、彦火火出見尊(山幸彦)の御歌に、「沖つ鳥 鴨著(ツ)く島に 我が率寝(イネ)し 妹(イモ)は忘らじ 世の尽(コトゴト)も」、是を以て今村の號として末世に傳ふと云う。」とあり、鴨居瀬の名が山幸彦の御歌に由来するとの説が、江戸の天明年間にあったことを伝えている。

また、「明細帳」は、「豊玉姫命の皇子を抱育し玉ひし古跡なり。」と記している。

    境内の案内には、

「本社ノ創建ハ橿原ノ朝ニシテ彦波●武鵜茅不合葺尊斎キ祀リテ津口和多女御子神社ト云ヒ彦火火出見命津島海宮ニ降ラセ給ヒ豊玉彦命ノ姫豊玉姫ヲ娶リ、海宮ニ住ヒ給ヒシコト、三年豊玉姫胎妊ノ身トナリ産室ヲ此ノ地柴瀬戸神浦ニ造ラシメ給ヒテ皇子彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズノミコト)ノ御誕生御抱育シ玉ヒシ古跡ナリ神功皇后三韓御征伐ノ時、海神ヲ斎キ祀リ玉ヒシヨリ住吉神社ト云ヒシナリ。」とある。

 


 
拝殿内に飾られた神功皇后三韓征伐の絵馬(大正13年奉納)

 

さて、此の浜にかかわる神話の世界に戻ろう。

豊玉姫が山幸彦との間にできた子を出産するため海亀に乗ってやって来るシーンを「紀」は次のように記している。

 

【紀:神代下[第十段]一書第三 海幸・山幸説話と●●草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の誕生

「『妾已(アレスデ)に有娠(ハラ)めり。天孫(アメミマ)の胤(ミコ)、豈(アニ)海中(ワタナカ)にして産みまつるべけむや。故(カレ)、産まむ時に、必ず君の処(ミモト)に就(マイ)でむ。如(モ)し我が為に屋を海辺(ウミヘタ)に造りて、相待ちたまはば、是所望(コレネガフトコロ)なり』とまをす。故、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)已(スデ)に郷(クニ)に遷り、即ち鵜(ウ)の羽を以(モ)ちて、葺きて産屋を為(ツク)りたまう。屋の甍未だ合(フ)き及(ア)へぬに、豊玉姫自ら大亀に馭(ノ)り、女弟(イモ)玉依姫を将(ヒキ)ゐ、海を光(テラ)し来到(キタ)る。」

 

水際に立つ鳥居、参道は潮路




この海を光らして大亀に乗り豊玉姫がやって来た(鴨居瀬) 

 

そして、出産時に八尋の和邇に戻っていたことを見られた豊玉姫がそれを恨みながら去ってゆく時に、山幸彦が「沖つ鳥 鴨著(ツ)く島に 我が率寝(ゐね)し 妹(イモ)は忘らじ、世の尽(コトゴト)も」という歌を詠んだと「紀」は記す。

 


 
鳥居より住吉橋を見る

 

豊玉姫と山幸彦の間に産まれた皇子は、『彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)』(注1)と名付けられた(注2)。豊玉姫が龍宮城へ戻って後、御子の顔かたちがたいそう端麗であることを伝え聞き、自らが地上に戻り養育したいと思ったが、道理にかなわぬことであったので、代わりに妹の玉依姫(注3)を地上に遣わし、育てさせた。鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト)は成長の後、養母であり、叔母にあたる玉依姫を娶り、その間に神武天皇を儲けるのである。

 

(注1)産屋の屋根を鵜の羽で葺き終えぬうちに産まれた子という意味で、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト)と命名。神武天皇の父である

(注2)当時は母方が子供の名づけをするのが風習であった。

(注3)海神豊玉彦命の娘で、豊玉姫の妹。

郵便不正事件=大阪地検のトップ、やはり改竄の事実知っていた

あってはならぬ国家の犯罪=郵政不正事件・地検特捜部検事が押収資料を改竄 

 今回の郵便不正事件に関し、検察関係者の話で、今年2月の初め頃、大坪弘道部長(現・京都地検次席検事)をはじめその上の玉井英章次席検事(現・大阪高検次席検事)、さらに地検トップの小林敬検事正にも、前田恒彦容疑者(当時・捜査主任検事)のデータ改竄の事実が伝えられていたことが分かった。

 

そして、今回の発覚まで上層部は何ら必要な措置をとらなかったということである。そのことは結果として、大阪地検トップを含めた組織全体が、前田容疑者による改竄行為(本人は現段階で、「誤って書き換えた」とするが)の隠ぺい工作に加担したとも云える。

 

地検内には前田容疑者がフロッピー・ディスク(FD)に細工したとの噂が広がっていたという。それにも拘わらず、事の真相究明の動きすらなかったのだろうか。押収資料を改竄する行為がどういう意味を持つか、優秀な検事の方々に分からぬ訳がない。

 

 国家権力の中枢中の中枢に居続けると、権力は他者に対してのみ行使され、自らには行使されないとでも、勘違いしてしまうものなのか。そうした環境、立場に身を置いたことのない私には、そこら辺りの心理状態を分析する術も力もない。

 

 ただ、改竄されたFDは、そもそもは村木厚子元局長(9月21日無罪確定)の無罪を証明するひとつの証拠となるものであった。その証拠があるのに、それを無罪の証明に使用させない。怖ろしいことだ。起訴したら、無罪の証拠が出てきても何としてでも罪人に仕立て上げるとしか見えぬ行為である。

 

言うまでもなく、この国は国民主権を高らかに標榜する憲法を持っている。そう大上段にこぶしを振り上げるまでもないが、検察という組織は、当たり前だが、国民のためにあるはずである。

 

 だからこそ、国民の利益を守るためにだけ、その絶大な権力を行使できるはずである。無実の国民を罪人に仕立て上げることなどあってはならぬし、ましてや捜査の過程のなかで被告の無罪を証明する証拠に違法な改竄を加え、犯罪をねつ造するなど、言語道断である。

 

 そして、その改竄を地検トップ以下、知っていながら、それを放置していたとしたら・・・。国民の権利と利益と正義を守るべき検察組織は、一体、どこを向いてその権力を行使しようとしていたのか。

 

 事の次第によっては、そんな怖ろしい組織はご破算にして、再度、国民主権を中核に据えた正義の守護者を新たに創設することも検討すべき、そんな戦慄すべき事態が今、われわれの目の前で展開され、その真相が詳らかにされようとしている。

 

 検察上層部の身内の犯罪に対する放置行為が、放置すべき何らかの正当な理由があり、最低でもその事情が斟酌できる事実があったのだと、国民が納得できるような結果になることを、心から願うような気持ちでいる。

 

 まずは、国民の目の間ですべてを詳らかにして欲しい。それから、一からやり直すために、みんなで考えよう。今はあまりの事態に、そう言うしかない。

 

 今回の事件は、本来なかった犯罪を、全能の権力を有す検察庁がねつ造し、無辜の国民を罪人に仕立て上げようとしたのだから。

あってはならぬ国家の犯罪=郵政不正事件・地検特捜部検事が押収資料を改竄

郵便不正事件=大阪地検のトップ、やはり改竄の事実知っていた

 郵便料金の割引特例を利用する為、実体のない障害者団体「凛の会」が偽の証明書を発行させた事件で、それを指示したとして起訴された村木厚子厚労省元局長の裁判は、つい2週間ほど前の
910日、無罪判決が言い渡されたばかりである。

 

その無罪判決の内容を知るにおよび、大阪地検特捜部の杜撰な捜査のあり方に驚くとともに、検察の描くシナリオに無実の人間を強引に押し込める供述誘導乃至供述ねつ造自体、これは一種の犯罪ではないかと、憤っていたところである。

 

大阪高検はさすがに「新たな証拠はなく、無罪を覆すのは難しい」と、控訴断念の方針を固め、24日(控訴期限)までに最高検の了承を得、正式にその旨を表明する予定であった。

 

 その控訴期限が迫る21日、驚くべきニュースが飛び込んできた。事件の捜査主任であった前田恒彦検事(43)が、押収したフロッピー・ディスク(FD)の証明書作成の最終更新日時を「200461日午前12006秒」から「同年同月の8日午後91056秒」へと改竄したというのである。

 

 改竄理由はまだはっきりせぬが、FDの実際の更新日時では、検察の描いた事件のシナリオに不都合が生じるため、「凛の会」から発行依頼があったとする日付以降に改竄する必要があったのではないかというのである。

 

捜査側、それも泣く子も黙る地検特捜部において、そんなことがあってよいのか!

 

国家権力を恣(ホシイママ)にする検察庁が、自らの手で、無辜(ムコ)の国民を犯罪者に仕立てる。そのために、事実を捻じ曲げる工作をする。信じられないし、信じたくない。しかし、事実であれば、背筋の凍る、ぞっとする話である。

 

現段階では、前田検事は、「誤って書き換えてしまった」と弁明しているそうだが、6年前の更新日付をキィー操作を「誤って」書き換えてしまうことなどあり得ぬことは、ちょっとパソコンやワードを弄(イジ)っている人であれば、分かるはずである。

 

これは、国家権力による犯罪である。全能の神が罪を犯すというに等しい。

 

そして、それが前田検事一人でなく、もし、組織的に行なわれていたとしたら・・・。

 

 考えれば考えるほど怖ろしい。

 

村木厚子氏が本日の記者会見で述べられたように、それが事実とすれば「怖ろしい」ことだし、「(トカゲの尻尾切りをするように)個人の問題にするのではなく、(検察)組織として二度と起こらない仕組みを作ってほしい」と強調したのは、当然である。

 

 国民の目の前に事の真相を詳らかにし、何も隠していないと国民が十分に納得できるまで、最高検察庁は調査、いや、捜査の一部始終を、都度、丁寧に説明し、国民の理解を得るべきである。

 

 その上で、責任の取り方をどうするか、さらに最も重要なことだが、今後、同じことを起こさぬセキュリティー・システムをどう設けるかが、検察庁全体に課せられた重い十字架となっていることを知るべきである。

 

 また、本件については、村木氏の逮捕、起訴、公判、一審無罪、検察の控訴断念という一連の流れを、全体として、検証すべきである。それも、国民の前で目に見える形で行うべきである。

 

なぜ、無辜の国民を犯罪者に仕立て上げる捜査がなされたのか。その真相解明には、検察と云う国家権力の闇に迫ることが是非とも必要だが、それをやるのは、もはや、体たらくの政治家でもマスコミでもなく、「正義の確立」に対する国民の毅然たる態度であり、それを為さしめるため真相解明の声を国民が挙げ続けることである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

 神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


 北緯34度、東経129度、朝鮮半島より50km、博多より138km離れた海上に、ひとり対馬は険峻の峯を見せている。面積は696平方km(本島)と、日本の島嶼部としては佐渡島(854平方km)、奄美大島(712平方km)に次ぎ、592平方kmの淡路島を超え、3番目に大きい島である。島数は本島のほかに107(内、有人島5)の小島が存在する典型的な溺れ谷の地形を成している。

 


典型的な溺れ谷の島、対馬(上見坂公園より) 

 

H228月末現在の人口は35,635人(対馬市HP)と、ピーク時の69,556人(1960年)から半減しており、急速な過疎化が進んでいる。また、高齢化比率も直近の国勢調査(H17年)においても26.2%と、全国平均の20.1%を大きく超えている。さらに、住民票を移さぬまま島外に仕事を求め転出している人も多く、実際に島内で生活する住民は3万人を切っているとのことであり、その実態は一層その深刻度を増しているとみられる。

 

さて、そうした日本の現代社会を濃縮したような国境の島、対馬であるが、角度を変えて歴史的観点から眺め直して見よう。現在の行政地域において対馬は長崎県に属する「市」という行政単位で把握されるが、古来の律令制下においては、いわゆる「五畿七道」の「西海道11カ国」を構成する「対馬国」という国の位置付けにあった。それは、日本国土より朝鮮半島に近いという地勢的条件から、大陸・半島からの文物流入の道筋として、また、半島国家との軍事抗争における軍事拠点として、「津(湊)の島」が要衝の地として重要な位置づけを占めていたことを示すものでもあった。

 


異国の見える丘展望台より韓国を・・・ 

 

その対馬は半島との濃密な交流の真っ只中で、日本という国が形成されてゆく過程を伝承や習俗という形で今の世に残す語り部のような島である。それはまさに、日本の始まりを物語るDNAが悠久の時の流れのなか「津島」の湊や瀬戸に揺々として繋留されているかのようである。そして、静謐のなかエメラルド色をした鏡のような水面を張る美しい入り江を眺めているうちに、その国家創始というDNAの「鎖の艫綱」が何れの日にか、ロマンあふれる人物の手によりその謎が解明され解き放たれることを、静かに待っているように思えたのである。

 


対馬神道のエルサレム、阿連の海 

 

その謎解きのヒントとなるのだろうか、対馬にはかつてこの国が倭と呼ばれた時代、歴史上、大きな役割を果たし、重要な位置付けを占めていたことを示す伝承や神事が数多く伝えられている。

 

そして、その多くは対馬神道や天道といった信仰を通じ、神社や神籬磐境(ヒモロギイワサカ)、不入の地といった「場」の形式や、亀卜、赤米神事、船ぐろうといった古代習俗の継承保存や土地に伝わる伝承という形で、今の時代まで引き継がれ、語り継がれてきている。

 

それらのことは、これからもおいおい具体的な文献資料や伝承によって述べてゆくことになるが、ここでひとつ端的な例を挙げておく。

 

神社を語る時、「延喜式神名帳」の「式内社」云々という神社の格式を表わす表現をよく目にするが(注1)、その式内社の数が対馬と隣の壱岐において異様に数が多いことである。

 

即ち全国の式内社は2,861社を数えるが、その内西海道11ヶ国(注2)には107社が存在する。そして対馬には29社(名神大社6、小社等23)、壱岐に24社(同6、同18)、筑前国19社(同8、同11)と、この3地域で計72社と、西海道の式内社の2/3を占め、とくに対馬は29社と西海道最多の社数を誇っている。


海神神社一之鳥居

対馬一の宮 海神神社の鳥居


277段の階段を昇って海神神社拝殿に

 

そのことは「神意」を政(マツリゴト)の中枢に置いた「倭」という時代において、対馬の神々を朝廷が神の系統において高い位にあることを認める事情があったことを表わし、当時の対馬の重要性を素直に裏付けるものといってよい。

 

 

   注1:「延喜式」

平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜5年(905)に編纂を開始、22年後の延長5927)年に完成。50巻三千数百条におよぶ条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係となっている。そのうち巻九・十「延喜式神名帳」と呼ばれるもので、当時の官社を網羅した格付け表である。そして祈年祭奉幣にあずかる神社2861社(天神地祇3132座)を「式内社」と称し、国郡別に整理羅列されている。

 

   注2:「西海道」

五畿七道という律令制時代の行政区画で、「西海道」は、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隈(以上9ヶ国が現在の九州本土)、壱岐、対馬の11の令制国から構成される。対馬、壱岐は現在、長崎県に含まれるが、令制国時代(この呼称単位は明治初期まで残る)には、対馬はひとつの行政単位たる国の位置付けにあった。ちなみに廃藩置県後に、対馬国(藩)は厳原県、伊万里県、三潴県を経て、1876年に長崎県に編入されている。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎・金田城は椎根にあった!)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

 「神社明細帳」は、「大吉戸(オオキド)神社」(祭神 応神天皇・神功皇后・豊姫(大帳・明細帳))の由緒について「神功皇后新羅を征伐し御帰陣の時、対馬島黒瀬城を築かしめ
、防人を置かせ玉ひ、天神地祇を城山に祭らしむ。依りて大吉刀神社と称す。」と記している。吉戸(キド)は城戸(キド)を表わし、敵から守りきる縁起の良い城門の意味と解し得る。また「吉刀」という戦を象徴する刀の吉祥を願った社名は、国防の城塞の堅守を祈念するものでもあった。
 


大吉戸神社の鳥居。この上に本殿がある

城山に垣間見える石塁。金田城? 黒瀬城 ? 

 その「明細帳」が、厳原町椎根(旧佐須村字鹿ノ采(コザトヘン))に鎮座する「天神社」の境内社である「吉刀(キド)神社(若宮八幡)」(祭神 応神天皇)について、「天智天皇の御代金田城を築き祭りて鎮守となせり。貞観十二年三月従五位上を授けらる。」と、その由緒を述べている。

 

これは一体、どうしたことか。金田城の麓に鎮座している大吉戸神社ではなく、「吉刀神社」が金田城の城塞を守護しているとは、この両方の記述をどう考えたらよいのか。 

  

現在、諸書では金田城の別名を黒瀬城としている。そして、城山の頂上の石垣や中腹にある石塁、城門などは、「金田城」として国の特別史跡に指定されている。城山にあるのは金田城とされているのだから、大吉戸神社の由緒だけを見る限りは、金田城=黒瀬城と考えるしか仕様がない。 

大吉戸神社と城山
特別史跡に指定される黒瀬湾の城山の金田城 

 

しかし、明細帳における椎根の「吉刀神社」の記述を見る限り、金田城と黒瀬城はまずは別物と考えてみる必要がある。

 

旁、「吉刀神社」がその境内にあったとする「天神社」の場所は、厳原町椎根である。

椎根は石屋根の倉庫で有名
高床式の石屋根倉庫
高床で戸にある穴が鍵穴  

 そして、そこは、黒瀬にある金田城からは西南方向に10kmも離れた遠方の地であり、かつ東シナ海という外洋に直接面した場所である。但し「吉刀神社」自体は、「大帳」の作成時点(17811789)において、すでに「今社領これ無く、古帳に云う、右三社は昔、神事として造営、上よりこれ有り。郡代これ無く、その時に社領は絶える也」とあり、現在にその痕跡を止めぬところとなっている。

 

そこで、現在の椎根の「天満宮」を「天神社」と比定して考察を進めることにする。そもそも、対象物を護るために造営された鎮守の社は、その対象物の近くに存在するか、その対象物に所縁のある地に存在するのが自然である。つまり、椎根の天満宮近くに金田城があったと考えるのが自然なのである。 

 

 椎根周辺の地図を子細に眺めて見た。すると、天満宮から佐須川を1.5kmほど上った南側に金田山(216m)という名の山がある。その至近の山頂にこそ、天智天皇が造営させた金田城があったと考えるべきではなかろうか。 

 

 現に、蒙古と高麗軍が襲来した元寇の文永の役(1274年)の時、宗助国(戦死)が激戦を展開した小茂田浜は佐須川の河口に隣接する北浜であり、この地が軍事上の要衝の地であったことは歴史が証明している。 

小茂田神社境内に建つ元寇七百年の碑 

 しかも、当時において小茂田浜は現在の海岸線より500mほど内陸に入り込んでいたとされるが、蒙古軍との激戦の地は今の金田小学校のあたりであったと説明されている(小茂田神社案内による)。その金田小学校は、金田山の真北、500mの所にある。まさに小茂田浜を真下に見降ろす所に、当時、金田山があったことになる。 

椎根周辺の地図

小茂田神社より内陸部を 

 大吉戸神社のちょうど上方に金田城とされる城の一ノ城戸が位置する。しかし、この辺りは古来、湾名にあるように「黒瀬」と呼称されて来ている。「大小神社帳」(1760年編纂)では、「大吉戸神社」を金田城八幡宮ではなく、「黒瀬城八幡宮」と呼んでいる。

 

そして、この黒瀬近辺に「金田」という地名の痕跡を探し出すことは出来ないのである。逆に黒瀬湾奥に皇后岬という岬があるが、そこに黒瀬城を造営させた神功皇后の遺骨を葬ったとの伝承が残されているほどである。

 

 こう考えて来ると、国の特別史跡たる金田城は、「紀」の天智紀に記述された「金田城」ではなく、対馬の伝承に残る三韓征伐の凱旋時に国防の拠点として築城された「黒瀬城」と考える方が、諸々の傍証からして妥当な結論だと云える。

 

 そう問題を整理して見ると、「大吉戸(オオキド)神社」は、明細帳にある通りに、神功皇后が黒瀬城を築かせ、その「天神地祇(アマツカミクニツカミ)を城山に祭ら」しめるために、造営された社だと見た方がよい。

 

 そして、今はない「吉刀(キド)神社」が、黒瀬城の後に朝廷が椎根の金田山に築城させた金田城を鎮護する社であったと考えるべきである。社名に「大」が欠けているのも、新羅に戦勝した後に造られた大吉戸神社と新羅に敗戦した後に造られた神社の格の違いのようなものを感じるのは、考え過ぎだろうか。

 

 さらに、現在の金田城とされている城山の古い石塁の築造が、放射性炭素式年代測定法によると6世紀後半と推定されるとの検査結果も出ており、白村江の戦い(663年)以前に城山に城塞があったことの可能性が極めて高い。白村江の敗戦に備えて築城されたはずの金田城が6世紀の築城ではおかしい。金田城は城山とは別の場所にあったとするのが、科学的な結果と整合性のとれる唯一の結論であると考える次第である。

【追記(2010.9.29)】
 「金田城椎根説」を裏付ける有力な資料を見つけたので、ここに追記し、当説の補強材料とする。

 資料は、対馬島誌所引の対馬編稔略である。

 そこに、阿比留一族が対馬の支配者となる経緯が書かれている。女真族といわれる「刀伊の賊」の来寇を防ぎ、殲滅した際の記述である。
「刀伊賊と佐須で合戦した後、椎根に引き入れ、金田を以て本城と為す」と、金田城が椎根にあったことを、明確に記述したものである。

 以下にその原文を記す。

「弘仁八年(817)、就刀伊国賊追討之事公卿僉議(センギ)有之処、被定申上総国流人比伊別当可然之間、別当卒去之故、重被召其子畔蒜太郎同二郎同三郎、三将催軍兵到当島、
早速於佐須合戦、賊徒引入椎根、以金田為本城、堅守不降、太郎中矢死、二郎三郎終始於和歌田奥、撃竜羽将軍獲其首」とある。

 金田城はやはり、椎根にあったのである。

 そして、国の特別史跡とされている城山の金田城は「黒瀬城」ということになる。

 したがって、黒瀬城は、「紀」に記述されなかった一群の神護石系の朝鮮式山城に属する城塞の可能性が極めて高いと推測される。残念ながら今回、私は史跡の金田城の石塁を間近で仔細に見ることができなかった。

高良大社の鳥居扁額
   高良大社(久留米市)鳥居の扁額

高良大社神護石
   高良大社の神護石の石塁

 もし、それが列石で造られた石塁であったとしたら、黒瀬城が大和王朝成立以前に築城されたものであることは確かなのだが・・・。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

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 翌29日は事前に予約を入れておいた市営渡海船「ニューとよたま」(定員2030名)で、午前十時半から午後零時の間、浅茅湾を巡りながら海上から対馬を観光した。ルートは樽ヶ浜〜鋸割(ノコワキ)・城山(ジョウヤマ)〜和多都美〜樽ヶ浜である。

 


  

樽ヶ浜


樽ヶ浜に停泊する遊覧船


乗船する渡海船「ニューとよたま」

 

 当日は幸い好天に恵まれ、いや、相当に暑い日であったが、クルージングには最高の日和であった。その日はわれわれ6人に加え、やはり東京からの観光客一行7名を加えた二組だけのゆったりとした船旅であった。


樽ヶ浜から浅茅湾へ


丘の上に対馬空港


着陸態勢のANA機 

 

 樽ヶ浜は対馬空港から1km余、浅茅湾の東南隅の突き当りにある。小さな桟橋を出て、志々加島を右手に見て、みそくれ鼻を左に回り込んで鼠島を左手にかわすと、まず最初のビュースポットである飯盛山(126m)が見えてくる。丸いおにぎり型の山頂部分が夕刻になると白く輝き、本当においしいおにぎりソックリに見えるそうだ。

 


横からはゴリラの顔にも見える飯盛山


正面からの飯盛山。夕方、頭が白く輝くとお握りに見える。 

 

 その飯盛山を左後方に見ながら進むと、左手に、第二のビュースポット、突端に白い灯台が立つ芋崎が見えてくる。芋崎は西側海上から敵が攻めてきた時の浅茅湾の「のど仏」と云われ、古代から海上交通や軍事上の要衝の地であった。実際に、幕末の1861年、ロシア帝国海軍の軍艦「ポサドニック」が対馬租借を狙い半年にわたり占拠を続けた場所でもある。

 

 

芋崎の灯台



Uターンすると芋崎の岩肌は荒波で屹立している
 

その芋崎をくるりと左へUターンすると、正面に城山(272m)、ちょっと左に鶴ヶ岳(162m)が見える。その二つの山が迫る「細り口」という名前通りの狭い水路へと船は向かう。「細り口」から黒瀬湾へと入ってゆく鶴ヶ岳の南端に「鋸割(ノコワキ)岩」がある。このクルーズの最大の見どころと云ってもよい。石英斑岩の百メートル近い巨岩は海上から見上げると、まさに山を鋸でバサッと切り裂いたように垂直に岩肌が屹立し、豪壮とも評すべき絶景である。

 


正面は細り口。右が城山、左突端部が鋸割岩


鋸割岩に近づいてゆく


鋸割岩が迫る


間近に見る鋸割岩


海中に垂直に落ち込む鋸割岩 

 

そこから黒瀬湾に入ってすぐ右手、城山が海になだれ込む水際にまさに忽然と石の鳥居が姿を現す。湾というより静かな湖に居るようで、海面はこの船が起こす波紋が広がるのみで、船上に居ながら森閑とした深山のなかをゆく旅人の気分になる。その神秘的雰囲気のなかに、古くは黒瀬の「城八幡宮」とも号した「大吉戸神社」が静かに鎮座している。

 


黒瀬湾の入口右手に大吉戸神社の鳥居が・・・


鳥居の奥に石段が見える


城山の山裾に大吉戸神社がある 

 

右手に迫る城山中腹の樹林の合間に所々、石垣が見えてくる。

 


中腹に朝鮮式山城の金田城の石塁が 



はっきり見える山腹を巡る石塁
 

 

663年に白村江(ハクスキノエ)の戦いがあった。百済救援に向かった倭の艦隊が新羅を支援する唐の艦隊に大敗を帰した戦である。敗戦の後、天智天皇は667年に、新羅、唐からの侵寇に備え、金田城(カナタノキ)の造営を命じた。「紀」の「天智天皇611月の条」が、讃岐の屋嶋城、倭国(大和)の高安城と同時にこの金田城を築いたことを伝えている。その朝鮮式山城の城壁こそが樹林の隙間に見える石垣なのである。

 

 

 

現在も高さ2.5m〜6m、総延長5.4kmにわたりその石塁が残っている。一ノ城戸(キド)から三ノ城戸まで三つの城門があるが、近年、発掘も進み、その修復や復元とともに城壁に当たる石組みの修復も行なわれている。対馬が国防の拠点の最前線であったという当時の緊張した国際関係を肌で感じ取れる興味深い遺跡である。

 

 


正面上部に修復中の石塁が見える 

 

 

そして、そこで反転していよいよ、「ニューとよたま」は対馬観光の目玉とも云うべき海上からの和多都美神社観光へと向かう。

 


「ニューとよたま」 は黒瀬湾を出てゆく



聖なる山、白嶽山の頂上が見える

浅茅湾の真珠の養殖
浅茅湾では真珠の養殖が盛んである


湊の村


村の対岸に真珠の加工工場。毎日、工場へ船で行き来する
 

浅茅湾を北上し、仁位浅茅湾へと入り、時計回りに湾内を進んだ奥まった場所に、昨日、真珠の浜に降りて見上げた一之鳥居と二之鳥居が海上に浮かんでいるのが望見できた。

 


右手奥が真珠の浜。一之鳥居、二之鳥居が遠くに・・・


海中に立つ鳥居。前日は一之鳥居の少し 向こうまで歩いて来れた

 

 

船は鳥居の正面近くに停止する。海上から五つの鳥居をまっすぐに見通すのが、このクルーズの真骨頂ということだと、ガイドのオジサンが案内する。このスポットで鳥居をバックに記念撮影というのが定番ということなので、当然、われわれもパチパチとデジカメを撮り合った。

 


シャッター・チャンス!!船長さんお見事!


満ち潮に覆われた満珠瀬と豊玉姫の像


海上、満ち潮で隠れた太田浜から、玉の井の鳥居を
 

 

静かな入り江の海中に鳥居が立ち、それをくぐった奥に宮殿がある。海上から眺めてみて、ここがまさに龍宮城だということを確信した瞬間であった。 そして、和多都美の海は、わたしに夏の強烈な陽光を碧色に跳ね返して見せた。

 

ここが、龍宮城だと確信した瞬間!!!




樽ヶ浜へ

樽ヶ浜へ 

 
 船は一路、樽ヶ浜に向かい波を蹴った!

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1



 


左の舗装道をゆっくり上った先、左手に「玉の井」 ・正面、三柱鳥居

 

古くは和多都美神社の地続きの境内であったのだろうが、今は三之鳥居と四之鳥居の間をりっぱな舗装道路が横切り、その道路を車で1、2分行った左手、浜辺に降りる細い坂の先に「玉の井」はある。10mほどの坂を下ると、右手に石の鳥居があった。扁額に和多都美神社とある。その鳥居正面奥の木陰に「玉の井」が見えた。

 


玉の井周辺の地図


鳥居の奥正面に「玉の井」

玉の井の鳥居の扁額
和多都美神社と書かれた扁額 



玉の井で出逢う山幸彦と豊玉姫
 

 

「紀」の「神代下第10段」に、『(彦火火出見尊は)忽(タチマチ)に海神(ワタツミ)の宮に至りたまふ。其の宮は、雉�犬(チテフ・注1)整頓(トトノホ)り、台宇(ダイウ・注2)玲瓏(テリカガヤ)けり。門前に一つの井有り。井上(イノホトリ)に一の湯津(ユツ・注3)杜樹(カツラノキ・注4)有り。枝葉扶疏(シキモ=繁茂)し。時に彦火火出見尊、其の樹下に就(ユ)き、よろほひ彷徨(タタズ)みたまふ。良久(ヤヤヒサ)しくして一(ヒトリ)の美人(ヨキオトメ)有りて、闥(ワキノミカド・注5)を排(オシヒラ)きて出づ。遂に玉鋺(タママリ)を以ちて来り水を汲まむとす。因りて挙目(アフ)ぎて視(ミ)つ。乃(スナハ)ち驚きて還(カヘ)り入り、其の父母に白(マヲ)して曰(マヲ)さく、「一の希しき客者有り、門前の樹下に在す」まをす。海神、是に・・・』

とある。海神の宮に着いた山幸彦(彦火火出見尊)が門前の井戸のほとりにある桂の木の枝に腰かけ、水を汲みに来た豊玉姫が井戸の水面に映る山幸彦を見つける有名な場面である。

 

 その美しい鋺(ワン)に因んだ「玉の井」がこの満珠瀬と干珠瀬に挟まれた小さな浜のほとりにあった。脇に大きな木があり、緑の葉を繁茂させていたが、桂の木ではなかった。

 

大きな木の下に強い日差しをさけるように玉の井が
 

 

この井戸は今でも水が湧き出ているとのことであり、柄杓が井戸の蓋の上に置かれていた。周囲に夏草が生い茂り、草いきれも激しかったが、目を閉じて小さい頃に読んだおとぎ話を瞼の内に浮かべて見ると、雑草と思われた夏草は龍宮城を飾る色とりどりの藻に変じ、むっとした草いきれは、桂の木が放つ爽やかな薫りのように思えてきた。

 


今でも湧水が出ているという玉の井


周辺には夏草が生い茂る 

 

 

鳥居を背にして眼前には太田浜が広がっている。すぐ左手には満珠瀬があり、その左隣の浜が真珠の浜となる。満珠瀬には豊玉姫の銅像が建てられている。また、目を右手に転じると、汀に沿ってちょっと斜め右手に干珠瀬が見えた。穏やかで、豊な海がどこまでも広がっている、そんな気持ちがわたしを包み込んだ。わたしは、この和多都美の宮殿のほとりに、いま、まさに立っているのだと実感した。

 


穏やかな太田浜の水面


山の落ち込んだ突端部が干珠瀬(満珠瀬より撮影)


満珠瀬に建つ豊玉姫の像
 

 

 鳥居の脇に小屋があった。中に二艘の和船が置かれていた。二人の若者が一生懸命、船の手入れをしていた。近く、競漕があるとのことで、その準備に余念がないといった様子であった。後で調べたところ、その競漕は「船ぐろう」と呼ばれるものであった。

 


「船ぐろう」に 出る二艘の和船

 

境内の拝殿前の建屋に和船が一艘、収められていたが、この「船ぐろう」でかつて優勝でもした船であったろうか。

 


拝殿前の脇に置かれた和船 

 

和多都美神社では、古式大祭として毎年旧暦81日(今年は98日)に、「船ぐろう」と呼ばれる櫓漕ぎ和船二艘による競漕が行なわれる。櫓を11丁使い、神社へ向かって沖合から片道200mで争われる。

 


壱岐にも「船グロウ」と呼ばれる同様の習俗が残っている。当社の「船ぐろう」は昭和56年に復活したそうだが、対馬内でも海神神社をはじめとし多くの神社や海村で、この「船ぐろう」は催されている。船には神官が乗ったり、神功皇后の新羅征伐を彷彿とさせる女装をした老練の漁師が舳先に乗る例もあり、古来の神事と思われる習俗である。

 

出雲の美保関で白装束の氏子による二艘の古代船による競漕は、「諸手船(モロタブネ)神事」と呼ばれ、今に、「大国主命が国譲りの際に美保神社の祭神・事代主命に諸手船で使者を送った」との故事を伝えている。

 

対馬や壱岐の「船ぐろう」が沖(海)から浜(陸)へ向かって競争し、浜に飛び降り、旗や日の丸、御幣などを取り合うという行為は、今の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。

 

対馬の随所でこの「船ぐろう」が絶えては復活、絶えては復活を繰り返しながら、現代に継承されて来ていることに、対馬の人々の血のなかに、神功皇后の新羅征伐を援けた海人族としての誇りというDNAを見つけたような気がした。

 

時間は移ろい、さっき歩いた真珠の浜に潮が満ちはじめ、二之鳥居までが潮に浸かっていた・・・

 


いつしか潮が満ちて来た・・・(満珠瀬より) 

 

(紀の注1)雉�犬(チテフ):城の長く高い女垣。「雉(チ)」は城の垣の尺度の単位で、横が三丈、高さが一丈。

(紀の注2)台宇(ダイウ):「台」は、「説文」に「台は四方を観るに高き者也」とある。「宇」は軒、屋根の意。二語でウテナの意。

(紀の注3)湯津:「神聖な」の意。

(紀の注4)「杜」は境界木としての木の意(新撰字鏡)で、ここでは、カツラの木(楓はヲカツラ、桂はメカツラ)。天神の降臨の木として登場。

(紀の注5)「脇の御門」の意で、宮廷人が日常通用する小門。

 

 

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
 


磯良の墓を護る三柱鳥居。潮が満ちてくると鳥居は海水に浸される


磯良の墓


三柱鳥居は海水の入り込む潮溜まりに 

 

 

阿曇磯良の墳墓伝承のある磐座を中央に収める三柱鳥居は非常に珍しい鳥居様式である。全国でも数例(京都・木嶋神社、東京・三囲(ミメグリ)神社、)を数えるのみで、就中、京都の蚕の社と親しまれている木嶋(コノシマ)神社(京都市右京区太秦森ヶ東町)の三柱鳥居がつとに有名である。

 


海神の豊玉彦命の墓を護る三柱鳥居(横から)


三柱鳥居が美しい・中央に海神の墓が。 

 

  その木嶋の鳥居も拝殿正面にあるのは笠木に反り増すのない普通の神明鳥居で、三柱鳥居は拝殿左奥の階段を数段下った、薄暗い元糺(モトタダス)の池の中に立っている(現在は近隣の宅地開発の影響で水は枯渇し、枯れ池となっている)。 また三囲神社の三柱鳥居は中心にある井戸を護るように立っている。

神社の前

京都太秦の元糺にある木嶋坐天照御魂神社

元糺の池に立つ三柱鳥居

水が溜まる石組に囲まれている

湧水の水位を測るのだろうか、三柱鳥居の前に大きな石組みの池が

三柱の中心に磯良の墓を思わせる石の造作が・・・

こうした例と和多都美の潮溜りの海中に立つもの(磯良恵比寿)とを併せ考えると、謎と云われる三柱鳥居の由来に、海なり水、或いは潮の満ち引きに深く関係していることは確かなところであろう。

 

さらに木嶋神社の別名である木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミタマ)神社という名が、後日、訪ねる対馬の阿麻テ留(アマテル)神社の御祭神が、「対馬下県主『日神命』または『天照魂命』」(「大帳」)とあるのが、「日の神」と「海・水の神」との融合に何か関係があるようにも思われる。

 

同様に、延喜式名神大社の摂津の新屋坐天照御魂(ニイヤニマスアマテルミタマ)神社の論社である西福井、宿久庄、西河原の新屋坐天照御魂神社(共に大阪府茨木市在)の祭神のなかに、大綿津見大神(西福井)、住吉三神・磯良神(宿久庄)、住吉神・磯良神(西河原)の顔が見えることも、「日の神」と「海の神」の融合を暗示させる。

 

とくに興味深いのが、西河原天照御魂神社の元境内社であった磯良神が独立して、茨木市三島丘に疣(イボ)水・磯良神社として祀られている。その地に「玉の井」という霊泉があり、山幸彦伝説の「玉の井」と同名の井戸があるのも興味深い。

 

そして、新屋天照御魂の3論社に共通して神功皇后の三韓征伐時の禊ぎや凱旋時にここの玉の井で洗顔し、美しい顔に戻った(出征時には男装し、顔に疣(イボ)をつけた)とされる皇后伝承が残っているのも注目すべき点である。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)


  和多都美神社を見てきたが、これから対馬の神社を取り上げてゆく際に、頻繁に引用させていただく文献について、以下に説明しておく。

 

 鈴木棠三(トウゾウ)の「対馬の神道」(三一書房)および「日本書紀」(小学館・以下「紀」と云う)、「古事記」(小学館・以下「記」と云う)を主たる文献として参考とした。就く、「対馬の神道・第二部」掲載の「対州神社誌原文」(貞享三年(1686年))並びに鈴木氏により補充された「明細帳」等の「三書」は、幾多の伝承を紹介するうえでの基礎的資料として有効に活用した。

 

「三書について」

「対馬国大小神社帳」(以下「大小神社帳」):代々の対馬國総宮司職の家系である藤斎長(トウ・マサナガ)及び神社奉行一宮藤馬の手で宝暦十年(1760年)に編纂された。「大小神社帳」に「藤内蔵助(斎長)」について、「右者(ハ)対馬国大小之神社社領地之事?(ナラビニ)年中恒例之祭祀等之儀、宮司社家社僧命婦神楽師社役人之支配を相勤め、役号を対馬国総宮司職と申候」とあり、総宮司職という職位の職掌範囲が説明されている。

 

「対馬州神社大帳」(同「大帳」):藤仲郷(トウ・ナカサト=斎長の子)の手になる天明年間(178189)の著作。大小神社帳・大帳の二書は、中世・近世の神道信仰の実態が記された貴重な資料として神道研究のうえで価値を有す。

 

「神社明細帳」(同「明細帳」):古くは内務省神社局、戦時は神祇院による神社行政の対象となる全国神社の台帳。戦後は神社本庁で新たに各神社から提出したものをまとめた明細帳が作成されたが、内容的には新旧大差はない。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

 

神々のふるさと、対馬探訪の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井


海上より和多都美神社と境内を覆う原生林を 

 

 

 いよいよ、和多都美(ワタヅミ)神社(豊玉町仁位和宮55の境内へと足を踏み入れることにしよう。

 


三之鳥居から陸地へ


最後の五之鳥居から境内と三之鳥居を 

 

 

 

 「紀」の神代上(第五段)・一書第六に「底津少童命(ソコツワタツミノミコト)・中津少童命(ナカツワタツミノミコト)・表津少童命(ウハツワタツミノミコト)は、是阿曇連等が祭れる神なり」とある。伊弉諾尊(イザナギノミコト)が橘小戸(タチバナノオド)の海中で祓除(ミソキハラ)いをした時に産まれ出たのが上にある「綿津見三神」であり、さらに同時に産まれ出た「住吉三神」とともに「海神」とされる。

 

ワタヅミという名から当社が海と深く関わる神社であることは言を俟たない。また、当所に残された幾多の伝承や遺跡から、この地こそお伽話に出てくる「龍宮城」であるとするのは、この地に立ち、海上からこの宮を見た者が等しく抱く素直な感情ではなかろうか。当社の御祭神、由緒をまず詳細する。

 

【和多都美神社の概略(「対馬の神道」より)】

    社号:「明細帳」は「渡海(ワタツミ)宮」を和多都美に充てる。「大小神社帳」には「天神宮」を充てるが、同宮は古くは和多都美御子(オンコノ)神社と號したとある。

    祭神:彦火火出見尊(ヒコホホデノミコト・山幸彦)・豊玉姫命(海神豊玉彦命の娘)

    由緒明細帳)

當社は海宮の古跡なり。古くは海神豊玉彦命此の地に宮殿を造り住み玉ひ、御子に一男二女在して、一男を穂高見命と申し、二女を豊玉姫命、玉依姫命と申す。ある時、彦火火出見命、失せし鉤を得んと上國より下り玉ひ、此の海宮に在す事三年にして、終(ツイ)に豊玉姫を娶り配遇し玉ふ。良有て鉤(ハリ)を得、又上國へ還り玉ふが故に、宮跡に配遇の二神を齋(イツ)き奉りて和多都美神社と號す。又社殿を距る凡二十歩にして豊玉姫の山陵及豊玉彦命の墳墓あり。寛文年中(16611673)洪浪の為めに神殿悉く流れて、神体の(原文は「」)、渚に寄り来れるが故に、往古の棟札なく、勧請年月未詳。・・・」

 

 

さて、海上より数えて四つ目の鳥居に向かって白砂利の敷かれた境内に入ると、左手に石組みに囲われたプール状の潮溜りがある。その中央付近に三柱鳥居がある。3本の柱に囲まれて「磯良恵比寿」と呼ばれる「安曇磯良の墓」(伝承)が見えた。

 


四之鳥居に向かい左手の潮溜りに三柱鳥居に囲まれた磯良の墓が 

 

 

各種案内では、「鱗状の亀裂が入った」と形容されるが、その泥色をした岩は大きな拳状の塊がくっ付きあったような奇怪な形をし、思いのほか大きかった。海中に生活していたため鮑や牡蠣がくっついた見苦しい顔であったとされる磯良の気味悪さを表わしているような、そんな形状であった。

 


三柱鳥居


奇怪な形状の磯良恵比寿


説明板 

 

 

当日は狙い通り干潮から一時間ほど経った時刻に詣でることができ、磯良恵比寿の全貌を心ゆくまで堪能できた。そして、ひょっとしたらこの岩の下に、海中に通じる「橘小戸(タチバナノオド)」があるのではないかとあらぬ妄想に駆られたりした。

 


干潮時の社前の真珠の浜と一、二之鳥居


これ、ひょっとして橘の小戸? 

 

そこから少し進み四つ目の鳥居をくぐると、正面に最後の鳥居と拝殿がある。その拝殿の奥に神明造りの本殿がある。拝殿脇の松の古木の大きな根が龍のように体�默をくねらせ本殿を目指し這っている姿が印象的であった。

 

 

五之鳥居と拝殿



拝殿境内入口で睨みをきかす狛犬


拝殿正面


神明造りの本殿


本殿へと這う松の古木の根っこ 

 

拝殿の左脇にまた三柱鳥居を見つけた。その中心には大きな磐座のように見える岩があった。海神豊玉彦命の墳墓とも云われるものである。何の表示も説明板もない。各種のWEB SITEで書かれているので、そう思ったまでである。

 


三柱鳥居に護られた豊玉彦命の墳墓 

 

ただ、番外編の「三柱鳥居」で述べるように、水神なり海神と三柱鳥居が関係するのであれば、この磐座が海神、豊玉彦命の墳墓であるとしても、あながちおかしくはない。龍宮であるこの海神の宮に豊玉彦の墓が祀られていない方が奇妙と云えば奇妙なのだから。さらに、神社誌の注釈にも、「社殿を距る凡二十歩にして豊玉姫の山陵及豊玉彦命の墳墓あり」とあり、過去、神殿は流されてもご神体は渚に戻ってきたと記されていることから、次に見る豊玉姫の御稜と併せ、この磐座が豊玉彦命の墳墓と看做(ミナ)すのは妥当と考える。

 

次に鬱蒼とした薄暗い森の中へと入ってゆく。我々一行6人以外に誰もいない原生林は霊気を孕(ハラ)み、目に見えぬ神が語りかけて来るように感じた。

 


霊気の漂う境内の原生林 

 

細い小道をしばらく行くと、左手に鳥居が見えた。根っこが捻じり上がったような樹の根元に豊玉姫の御稜はあった。7080cmほどの楕円形の自然石に「豊玉姫の墳墓」と刻まれていた。その自然石はたくさんの平板な石が積まれた上に乗り、後方に武骨で大きな岩が見守るように寄り添っているのが印象的であった。

 


 

原生林と磐座に依る豊玉姫の墳墓


中央のだ円形の自然石に豊玉姫の墳墓と刻まれている 

 

 

境内をさらに進むと、おそらく雨が降った時には小さな川になるのだろう、そこに木橋が架かり、原生林を抜けると境内の裏から入る鳥居にぶつかった。 

 

木橋
境内の木橋 

 

扁額に「一宮和多」まで何とか読めたが、あとは緑色の苔が覆っていた。

 


苔むした裏の鳥居の扁額 

 


民主党代表選、国家ビジョンなき菅代表に決定5

民主党代表選挙の最後の演説を聞いた。  

 まず、小沢一郎候補である。政治と金の疑惑が払拭されないなかでの出馬である。マスコミの言う世論なるものでは圧倒的に菅代表に差をつけられたなかでの厳しい代表選挙であった。 

 最後の演説は同氏の政治家としての信念、なぜ今回、総理をめざすのかを明快に述べたものであった。  口下手と言われてきた小沢一郎が、この代表選の過程のなかで、日に日に、その演説力を増していった。

そして、今日、彼の最後の訴えは終わった。

彼を取り巻くこれまでの政治資金疑惑や強引な政治手法、マスコミに作られた悪道政治家の顔、そうした負の側面を考慮しても、政治家としては面目躍如の演説であった。 もう少し、早く、この説得力ある言葉を聞いておきたかったと、いま思っている。

それに引き替え、菅代表の演説は、総理になりたい、引き続き総理を務めたいと、猫撫で声で連呼するだけのものであった。

総理大臣になって何がしたいのか、どういった国造りをしたいのか、何らビジョンを語ることはなかったのである。 一国を率いるリーダーである。みんなで仲良くやっていこう!だけでは、この厳しさを増す国際情勢のもとで国の舵取りを任せるのは余りにも心許無い。

菅首相は第三の道について、今日の演説で語ることはなかった。 それが政治信念であれば、当然、語るべきであった。また、既に概算要求の出ている来年度予算において、第三の道なるものが数字としてどう具体的に組み込まれているのか、国民の前でハッキリと語るへきであった。

その都度、綺麗ごとを並べ、その場凌ぎをする政治は、鳩ポッポでもう、うんざりである。 首相がコロコロ代わるのは、確かによろしくない。

しかし、政治家の資質に欠けるビジョンなき総理大臣をいただくことは、国益に反する最悪の選択であることには間違いがないところである。

それにしても、ここまでの大差で敗れた小沢一郎という政治家も、結局は、あまりにも人望がないという意味で、国家のリーダーたる資格はやはりなかったのだと云うしかない。

政治の劣化が云われてもう何十年が経ったのだろう。日本の国際的地位の低下がそのことを見事に語っている。

嘆くだけでは何も生まれないことは分かっているが、民主党の現実を目にすると、悲観的に将来を考えるしか、やりようがないのも、残念ながら事実である。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

 828日、福岡国際空港から対馬海峡を飛び越え、定刻の午後4時に浅茅湾東南奥、本島のほぼ真ん中に位置する対馬空港へ降り立った。これから34日の神々を巡る対馬の旅が始まる。

 


対馬海峡(デジカメで撮影可能な上空から)

対馬海峡に小さく浮かぶ小島が見える(同上) 

 

 空港へ迎えに来てくれた従妹家族の車で対馬グランドホテルへ直行(5分)、まず、チェックイン。従妹夫婦は小学校の教員であるが、長崎県の教職員には原則、4年間の離島赴任が義務づけられている。今年が彼らの対馬における最後の夏になるというので、押しかけた次第である。

 


宿泊先の対馬グランドホテル


日本海を見晴らすテラス

コテージ
ロッジに泊る。この先右手階段を下りると日本海の磯に繋がる


磯辺から日本海に昇る朝陽を(29日早朝)


水平線に朝陽が(同上)


素晴らしい朝焼けの空(同上) 

 

そして、ホテルでの休憩もそこそこにお目当ての和多都美(ワタヅミ)神社へ向かうことにした。予め、当日の干潮が午後430分であることを調べておいた。

 

干潮時でないと和多都美神社の海中に立つ鳥居の傍に歩いて行けない。また、潮溜まりにあるはずの阿曇磯良(アズミノイソラ)の墓との伝承のある磐座(イワクラ)が水没していては堪らないと思ったのだ。

 


和多都美神社


干潮で全貌を見せる磯良恵比寿 

 

 車で約40分。和多都美神社(豊玉町仁位)は、仁位浅茅湾の奥にあった。潮が引いた「真珠の浜」に降りて、早速、歩いた。残念ながら一之鳥居はわずかに足元を潮に濡らしていたが、二之鳥居と一之鳥居の土台がしっかり見えた。

 

 

真珠の浜に下りて、三之鳥居から拝殿を臨む



二之鳥居から一之鳥居を


二之鳥居正面から拝殿方向を

 

 右手の堰堤の突端の辺りが、山幸彦の神話に出てくる潮満瓊(シホミツタマ)・潮涸瓊(シホフルタマ)の宝珠にちなみ「満珠瀬」と呼ばれる場所である。その土手の上に潮満瓊をささげる豊玉姫の銅像が建っていた。


この堰堤の突端の辺りが満珠瀬




 晩夏の夕暮れ、干潮の真珠の浜にはわれわれ以外には人っ子一人いない。ただ、両脇に迫る小高い山から蝉しぐれが降り注ぐのみである。

潮満瓊(シオミツタマ)を奉げる豊玉姫の銅像

 


刻々と潮が満ちてくる浜に静謐の時間が・・・ 

 

 海神、豊玉彦命の宮殿の地を静謐の時間が充たした瞬間である。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2」で、和多都美神社の由緒等詳細を語る。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社) 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 7(梅林寺)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

グランドデザインのない菅首相の経済政策=今度は雇用熱心度減税?5

 今日も菅首相の思い付き経済政策がニュースで流れた。

 雇用に熱心な企業に減税などの恩典を与えるといった雇用対策の検討を指示したというものであった。

 この政策検討の指示もご多分に洩れないが、これほど統一性を欠く政策が、時の内閣から次から次へと繰り出されるのも珍しい。 まぁ、お陰で、少々のことでは驚かなくなったし、また、相当なことを言われようが、期待もしないし、失望もしなくなった。自分の短気な性格には、恰好の精神鍛錬である。

 ただ、こっちも洞ヶ峠を決め込んで、冗談を言ってばかりもいられない。今の日本経済を取り巻く世界のなかで一人負けのような状態で、こうした無能な政府が居座るのは、極めて危険である。 まぁ、あまり、こっちも揶揄ばかりしてハスに構えてばかりいては、本当にこの国の経済は根っ子からやられてしまう。どうしたらよいのか・・・。う〜ん・・・。

 「一に雇用、二に雇用、三に雇用」とか、「介護とか成長分野に力を入れて」とか、「法人税減税」とか、この宰相は声高にお題目を唱える。どうも、生きた経済はすべてが関連しているのだという、至極当たり前の理屈以前のことがお分かりになっていないようなのだ。

 一つの経済行為が次の経済活動を誘引するのだというごく基本的な経済の知識もないのではないかと、一連の発言を聞いていて、正直、呆れるしかないのである。それをまずは丁寧に、側近の人々が一国の宰相に教えてもらいたいのだ。

 少しでも経済政策なり政治に関わるものであれば、政策論の一つでも真面目にやれば、産業連関表や生産波及系数(倍率)といった言葉も一度くらいは聞いたことがあるのではないのか。でも、菅首相の発言を聞く限り、そうしたことも知らずに、思いつきで口から出まかせのように喋っているとしか思えない。「政治主導」とことあるたびに口にする菅首相。その人が使いこなすべき官僚の人々も、こうした思いつきの発言にはさすがに参っているのではないのかと、同情してしまう。財政再建をぶち上げる傍らで、税収不足に悩むなかで、法人税の減税を語り、さらに雇用に熱心な企業にはさらに減税の恩典を与える。90数兆円に及ぶ概算要求の来年度予算に、こうした減税案をどのように具現化しようというのか。本当に分からない。それから、そう言えば、第三の道なんて、昔、言ってたけど、来年度予算でその「道」ってもの、見せてくれるんだよね・・・。

 何せ、ああも、こうも単発的な政策?を脈絡なく唐突に言うのだから。

 ここに至ると、この内閣は経済政策に限らず、大元の国のグランドデザインをそもそも自らが描けぬ内閣なのだと言うしかない。何のために政権を奪取したのか。

 小沢一郎は嫌いだ。しかし、この体たらくを何度も見せられた日には、「矢でも鉄砲でも持って来い」じゃないが、ヒットラーでもいいかと本気で、最近、思えて来たのだから・・・。

 正直、そんな自分が怖くなってきた。

 介護ロボットの開発支援に1兆円の予算をつけるとか、ちょっとでも気の利いたことでも言ってくれないもんだろうか・・・。

 あぁ、あぁ、ただでさえ猛暑日が続いているのに・・・・ ゚・(ノД`;)・゚・

長崎原爆資料館を半世紀ぶりに訪ねて

 広島平和記念資料館を訪ねる=原子力平和利用の国民的議論を(2011.3.31)


浦上天主堂側壁の被爆再現模型


1945年8月9日11時2分で止まった掛け時計
 

 

 たぶん、この資料館を訪ねたのは、今を去ること四十数年前の中学生の頃ではなかっただろうか。被爆した展示物の数々が多感な少年の心に原爆の残酷さを深く刻み込んだことは想像に難くない。

 


巨大な長崎型原爆ファットマン模型 

 

 30004000度の熱線により投影された人影が残る一片のコンクリート壁、ガラス瓶と人間の手が一緒に溶融した奇怪なガラス塊の姿は、これまで幾度も鮮明に目蓋に浮かんできた。

 


板塀に熱線で投影された梯子と人影
 

 

 今回、訪れた資料館は半世紀前とは打って変わって、ドーム状の近代的な建築物に変貌を遂げていた。1996年に原爆被爆50周年記念事業として、それまで被爆資料を展示していた長崎国際文化会館を建て替えたものだという。昔の、たしか三階建てくらいの簡素なコンクリート造りの建物とは大きく異なる、芸術的な建造物に様変わりしていた。

 


  

ドーム状の原爆資料館


資料館入口 

 

 それは、その後の日本社会の平和と繁栄を象徴したものなのだろうか。死者73,884人、負傷者74,909人、原爆の被害を受けた人120,820人(半径4km以内の全焼、全壊の世帯人数)〔1950年 長崎市原爆資料保存委員会調査〕という人類史上でも稀な大量殺戮の悲劇を語るには、どこか美しく整い過ぎているようで、私は違和感を禁じ得なかった。半世紀前の建物の方が原爆の残虐さ、非道さが、憤りとともに荒々しくストレートに伝わって来るように感じられたのだ。

 

 ただ、国際社会へ訴える力やプレゼンテーションの力がかつてより増していることは今回、強く感じたところである。

 

ひとつは展示側の工夫である。核兵器の悲惨さを伝える被爆者の方々のビデオコーナーや展示物の英語やハングル、中国語の説明板も丁寧で、核兵器使用による悲惨さを二度と繰り返すなという強いメッセージは十分に内外の見学者の心に届いてくる。

 


英語・中国語・ハングル併記の説明板


頭蓋骨が溶けて付着した鉄カブト 

 

二つ目は海外の見学者の核兵器に対する意識の高まりである。被爆者が語る英語テロップの流れる映像の前で、欧米の若者たちが長い間、熱心に立ちつくす姿は印象的であったし、展示物の英語説明板を食い入るように見つめる若者たちの横顔は真剣そのものであった。

 


 

展示物や説明板に熱心に見入る欧米の若者


被爆者の証言ビデオをじっと見詰める欧米の若者たち 

 

 

被爆した遺物のなかには、あまりの残虐さや悲惨さから展示を控えざるを得ず、倉庫に収納されたままのものも多いという。

 


黒こげとなった少年(掲示写真) 



原爆投下翌日の煙の昇る長崎


原爆の威力を視察するために造られた米軍飛行場(右の斜めの矩形)
(真中右上から左下に真っ直ぐの筋は国鉄の線路跡)
(その左手の稲妻型に白いのが国道跡) 

 

 

 我々はそうしたことも念頭において、この資料館の語り継ぐ声に耳を澄ませ、訴えかける心に自らの心を共鳴させなければならないと、あらためて感じた。

 


人間の手の骨とガラスが高熱のためくっついている 

 

 半世紀前に衝撃を受けたガラス瓶と人間の手が溶融された塊は、今回、目にすることはなかった。しかし、誰の指であろうか、その骨がへばりついたガラス瓶の塊が、半世紀後の私を待っていた。言葉を語らぬそうした遺物の姿は、逆に私に声にならぬ衝撃を与えた。こうした類の遺物は4千度の地獄の世界では当たり前の出来事なのだと、言葉で「平和、平和」、「非核三原則」と叫ぶ我々に、「平和の覚悟」の意味を問い掛けているようにも思えた。

 


熔けてくっついたガラス瓶


熱線を受けた神社の玉石・爆風の方向で焦げ方が異なる


一瞬の熱線で溶けて泡立つ瓦やコンクリート 

 

 

 

 溶けてグニュグニュになったサイダー瓶が展示されていた。「触ってください」と、説明板に書いてある。私はそっとそのガラスに指を触れた。数千度という想像を絶する熱線の世界にあったサイダー瓶は、ひんやりと冷たかった。


熔けたサイダー瓶に触る
熔けたサイダー瓶はヒンヤリしていた・・・

 

「つらかったね・・・」と、私は指で何度も撫でながら、心の中でそっと呟いていた。

 

 そして、サイダー瓶の輪郭が、じんわりとぼやけて見えてきた・・・。

 

 資料館を出た。

 


資料館の頭上には青空が・・・ 

 

 上空には原爆投下の194589日のように青空が広がり、ギラギラした夏の日差しが鋭く私の肌を刺した。

 


平和祈念像

天を指す右手は原爆の怖さを示し、水平に伸ばす左手は平和を願う


被爆者の鎮魂を祈る折鶴の塔 

 

 

黙祷!

 

また最後になったが、当ブログにて館内で撮影した展示物の写真を掲載した。入場受付でその旨申し出て、住所、氏名を記載のうえ撮影許可の腕章を腕に巻いて入れば、自由に撮影が可能である。こうした運営上の姿勢もより多くの人々に原爆の悲惨さを語ってもらいたい、伝えてもらいたいとの長崎市民の気持ちの表れであり、大切なことだと感じ入った次第である。

 

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