彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

April 2010

松代散策=9−松代グルメ・ランチとディナー(日暮し庵・沙羅樹庵(蕎麦)、中国料理天竜)

松代散策=1−松代町の概要

 松代散策の最後に、グルメ?の話をしよう。私は一日目に「沙羅樹庵」、二日目は「日暮し庵」でランチに蕎麦を食した。

 

 グルメについてはいつも言うことだが、個々人の好みにより美味さを判定する基準が異なり、まさに人好き好きである。それを踏まえたうえで、松代の沙羅樹庵と日暮し庵について、コメントを述べたい。

 

 まず、一日目の「沙羅樹庵」について述べる。

住所:長野市松代町松代1443(象山記念館から北に50mほど)

電話:026-278-1340

営業:不定休・11:0015:00


沙羅樹庵入口
沙羅樹庵入口

店内座敷
店内座敷

もりそば
もりそば(630円)
 

松代の水はおいしいに違いない。蕎麦がひやっとしてしまっておいしい。麺が細めである。これは各人の好みで違うのだが、私はもう少し太めで、麺のコシがしっかり喉越しに伝わる方が好みである。

 汁はどなたかも書いておられたが、濃い味付けである。そのため、麺をちょっと汁につけて食べるのが、蕎麦の香を味わうのにはよいと思った。

 

 店内は2階席もあるが、私は1階の畳席(6テーブル)に坐った。店内の雰囲気はいわゆる蕎麦屋の佇まいで、変に気取らず、堅実な雰囲気で好感を持った。

 

 次に二日目の「日暮し庵」について。

住所:長野市松代町松代190-2(松代駅から徒歩3分・公民館前)

電話:026-278-3356

営業:定休日火曜日・11:0015:00


日暮し庵正面
日暮し庵正面

日暮し庵店内
洋風の店内

モダンな店内
アンティークな雰囲気も

もりそば
せいろ

かけそば
かけそば
 

 私はこの「日暮し庵」の蕎麦が好きである。冷水でしめられた艶やかな麺が喉越しに心地よい。温かい掛蕎麦よりやはり「せいろ」がおいしいとの知人の評もあった。

 

 店内は蕎麦屋というには珍しく洋風のアンティーク調で統一されている。「静謐の町」に佇む小さな洋風蕎麦屋。その雰囲気のなかで「せいろ」をスルッと喉の奥に滑り込ませる。アンヴィヴァレントな小世界に迷い込んだようで、どこか粋でお洒落な気分になった。

 

 さて、困ったのが夜の食事であった。地元の味をと思い、事前にネットでずいぶんと調べたが、どうもぴったり来るものが見つけられなかった。そこで、止む無く宿泊する松代ロイヤルホテルの中華レストラン「天竜」の予約をとった。


 松代ロイヤルホテル
 住所:松代町西寺尾1372-1
 電話番号:026-278-1811

松代ロイヤルホテル
松代ロイヤルホテルロビー
 

 「天竜」の関係者には申し訳ないが、期待せずに行ったのが良かったのか、その夜のディナーは望外の喜びであった。料理の味は淡白ななかに上品な旨みがあり、そのうえ自然な形でおもてなしの心が伝わるスタッフの接客態度に、正直、驚いた。娘が海老に対する軽いアレルギー持ちなのだが、事前に伝えるのを失念し、前菜に海老が入った小品が供された。娘がちょっと箸をつけられず、その旨を一応、伝えたところ、対応はすばやく、丁寧であった。その後のメニューも娘の分は変更されて、それも非常においしいとの感想であった。


天竜前菜
前菜
スープ
スープ
アイナメ料理
アイナメ料理

小籠包
小籠包

エリンギだったかな
エリンギだったかなぁ?おいしかったよ!

鶏肉料理
鶏肉料理・ほかにチャーハンも変わっておいしかった!

本式の中国茶
本格的な中国茶にビックリ!!
 

 そう言えば、最初にテーブルに着いた際、料理長がわざわざ挨拶に来られたのに一見の客として驚いたものだ。気分が悪いわけはない。料理の量とメニューの多彩さもうまくバランスがとれており、十分、満足のいくものであった。

 

 気づけば、いつの間にかテーブル席は満席となり、地元の方もちょっとしたディナーに使っている様子がうかがわれた。言い方は失礼だが、儲けもんの「天竜」であった。

I LOVE YOU 尾崎豊=4月25日は命日

今日は尾崎豊の18年目の命日である。

 

昨夜、NHKのBS2で尾崎豊の特集番組を観た、いや、聴いた。

 

 わたしは尾崎の「15の夜」や「17歳の地図」が好きである。仏教で写経というのがある。色々な思いと祈りを込め、お経をただひたすら書き写す。精神を統一し、一心にお経を書き写す作業の中で、自分の心を無にし、浄化してゆく、そんな精神の禊ぎだと理解している。

 


 今日は、26歳で亡くなった尾崎豊の傷つきやすく無垢な魂に少しでも触れられたらと思い、大好きな「17歳の地図」と「15の夜」の歌詞をただ、ひたすら書き写すことにする。


 

17歳の地図

(作詞・作曲:尾崎豊)


十七のしゃがれたブルースを聞きながら/
夢見がちな俺はセンチなため息をついている/たいしていい事あるわけじゃないだろう/一時の笑顔を疲れも知らず探し回ってる/バカ騒ぎしてる 街角の俺達の/かたくなな心と黒い瞳には寂しい影が/喧嘩にナンパ 愚痴でもこぼせば皆同じさ/うずうずした気持ちで踊り続け 汗まみれになれ/くわえ煙草のSeventeen`s map

 

街角では少女が自分を売りながら/あぶく銭のために何でもやってるけど/夢を失い 愛をもて遊ぶ あの子忘れちまった/心をいつでも輝かしてなくちゃならないってことを/少しずつ色んな意味が解りかけてるけど/決して授業で教わったことなんかじゃない/口うるさい大人達のルーズな生活に縛られても/素敵な夢を忘れやしないよ

 

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば/すみからすみはいつくばり 強く生きなきゃと思うんだ/ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる/歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が/今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ/Seventeen`s map

 

電車の中 押しあう人の背中にいくつものドラマを感じて/親の背中にひたむきさを感じて このごろふと涙流した/半分大人のSeventeen`s map/何のために生きてるのか解らなくなるよ/手を差しのべて おまえを求めないさ この街/どんな生き方になるにしても/自分を捨てやしないよ

 

人波の中をかきわけ 壁づたいに歩けば/しがらみのこの街だから 強く生きなきゃと思うんだ/ちっぽけな俺の心に 空っ風が吹いてくる/歩道橋の上 振り返り 焼けつく様な夕陽が/今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ/Seventeen`s map 


15の夜

(作詞・作曲:尾崎豊)


落書きの教科書と外ばかり見てる俺/
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる/やりばのない気持ちの扉破りたい/校舎の裏 煙草をふかして見つかれば逃げ場もない/しゃがんでかたまり 背を向けながら/心のひとつも解りあえない大人達をにらむ/そして仲間達は今夜家出の計画をたてる/とにかく もう 学校や家には帰りたくない/自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている/15の夜/盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま/暗い夜の帳りの中へ/誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に/自由になれた気がした 15の夜

 

冷たい風 冷えた躰 人恋しくて/夢見てるあの娘の家の横を サヨナラつぶやき走り抜ける/闇の中 ぽつんと光る 自動販売機/100円玉で買えるぬくもり 熱い缶コーヒー握りしめ/恋の結末も解らないけど/あの娘と俺は将来さえ ずっと夢に見てる/大人達は心を捨てろ捨てろと言うが 俺はいやなのさ/退屈な授業が俺達の全てならば/なんてちっぽけで なんて意味のない なんて無力な/15の夜/盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま/暗い夜の帳りの中へ/覚えたての煙草をふかし 星空を見つめながら/自由を求め続けた 15の夜

 

盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま/暗い夜の帳りの中へ/誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に/自由になれた気がした 15の夜

 

 私は年齢を重ねるにつれ、人生の意味が自ずと「わかって」来るつもりでいた。しかし、今日、尾崎の歌詞をひと言ひと言、書き写しているうちに、尾崎は「わかる」を「解る」と表現していることに気づいた。

 

 自分は「わかる」ことを、いつしか「分かる」、つまり分別してしまうようになっているのではないかと気づかされた。

 

 そして、研ぎ澄まされた魂は、「なぜだ」「なぜだ」と、まわり中の人や障害物にぶつかり血を流し、真の価値は何だと理解しようと、もがき苦しむものだと、知らされたような気がした。

 

ずっと昔、十代の夜、自分の将来に為すべきことを悶々と、でも一途に考えていた、あの遠い昔、自分は人生を「解ろうと」していたはずだと・・・。

 

合掌

松代散策=8−川中島の戦い(典厩寺・妻女山)

 松代大橋手前を右に入ってすぐに武田信繁の墓所である典厩寺がある。八幡原で兄を守るために率先、討ち死にした信玄の弟、典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)。信義を守り、智勇に秀でた戦国武将に、現代の男性にはない魅力を感じるのだろうか。小さなお寺であるが、最近は「歴女」の拝観客が増えているそうである。



典厩寺山門
典厩寺山門

山門扁額
山門の扁額
 座禅石と奥が本堂
座禅石の向こうに本堂

 真田昌幸(松代初代藩主信之の父)が次男幸村(通称)を信繁と名づけたのは、この信繁の智勇と忠節を愛したためと伝わる。そうしたこともあり、典厩寺は真田家の手厚い庇護を受けている。



武田典厩信繁公の墓
武田典厩信繁公の墓
 

 初代藩主信之が「鶴巣寺」といっていたこの寺を「典厩寺」と改称、山門は三代藩主幸道の霊廟の門を移築したと伝わる。また、八代藩主幸貫が川中島の戦い三百年を記念して閻魔堂を建て(1860年)、甲越戦没者の霊を弔うなど真田家との縁は深い。


閻魔堂
閻魔堂・屋根の上に武田菱

日本一大きな閻魔様
日本一大きい閻魔様

閻魔堂の天井絵
閻魔堂の天井絵
 

 なお、閻魔堂の閻魔大王像は本邦一の大きさを誇るので有名である。その他境内には信繁の首をここの水で洗ったという「首清め井戸」や伊東祐亨(すけゆき)元帥海軍大将の揮毫による「懐古」の石碑が合戦三百五十年を記念して、建立されている。石碑の両脇に甲・越の自然石がそっと置かれていたのには、歴史という大河の前で人間の営みがいかに小さいものかを考えずにいられなかった。


首清め井戸
首清め井戸

懐古の石碑
伊東祐亨元帥揮毫の「懐古の石碑」
躑躅ケ崎館の愛石
懐古の石碑の向かって左裾に躑躅ケ崎館の愛石
春日山城石
右裾に春日山城の城石

山門脇の六地蔵
山門脇の六地蔵

 

 典厩寺を後にして、旅の残り時間は少なくなっていたが、そこから10分ほどで妻女山の展望台に行けるというので、運転手さんにお願いをし、合戦模様を山上から俯瞰することにした。


妻女山展望台の合戦之図
妻女山展望台にある川中島合戦図
 

 妻女山の展望台付近は赤坂山と呼ばれるが、あまりに狭過ぎて、このあたりに上杉勢一万一千の軍勢がいたのか、はなはだ疑問に感じた。後の調べで実際にはこの展望台の上の方が妻女山の頂上にあたり、赤坂山には一部の軍勢が陣を布いていたもようで、謙信の本軍は妻女山中央付近の「陣場平」と呼ばれる平地に陣取っていたとのこと。それで、ようやく疑問が氷解した次第である。


妻女山展望台
赤坂山と呼ばれる場所に展望台

狭い平坦地
赤坂山の狭い平坦地
 

 妻女山の登り口には謙信が槍の尻で泉を穿ったという「槍尻之泉」があった。展望台の北西6kmほどに武田信玄が海津城と挟み撃ちにする形で陣を構えた茶臼山が見える。そして東に目を転じると、3kmほどの距離なのだが海津城(松代城)が見える。少し霞んでいたためだろうか城から逆に妻女山を眺めたのとは異なり、思いのほか遠くに見えて、武田軍の奇襲を見破ったという炊煙が立ち昇るのが本当に見えたのかしらなどと、まるで自分が名将謙信になったかのようにじっと目を凝らした。


自動車道のカーブする辺りに海津城を
自動車道カーブした辺りが海津城跡



手前低い山が茶臼山
正面手前の低い山が当初、信玄が陣を布いた茶臼山

八幡原の激戦地を展望
写真正面の千曲川の向こうが八幡原の激戦地

左手前山の向こう側が雨宮の渡し
手前左の山裾の裏側に雨宮の渡し

謙信の槍尻之泉
謙信の槍尻之泉
 

激戦地となった八幡原は北東に千曲川を越えたあたりに展開している。あの一帯に三万の軍勢がひしめき、そのなかを単騎、駆け抜けていった謙信の颯爽とした武者姿を想い、しばし歴史物語の世界に酔い痴れた。

松代散策=7−川中島の戦い(古戦場・胴合橋)

「川中島の戦い」は幼少の頃、児童向けの歴史物語で信玄と謙信の一騎打ちに心を躍らせたものである。とくに男性であれば、そうした思い出をお持ちの方も多いのではなかろうか。

 

 今回、その古戦場跡が松代にあると知って、己の不明を恥じるとともに、正直、びっくりした。


一騎討ち銅像
謙信、信玄の一騎打ち
 

 

 川中島の戦いは、都合5回におよんだが、歴史上最も有名なものが永禄4年(1561)の第4回目の軍さである。八幡原(はちまんばら)に本陣を布く武田信玄に、上杉謙信が一騎駆けをしてその愛刀「小豆長光」で切りつけた。そして床几に坐ったままの信玄が軍扇でその一太刀をしのいだという、あのあまりにも有名な舞台の跡が、今では八幡原史跡公園として整備され、保存されている。


八幡原史跡公園
八幡原史跡公園

八幡社
八幡社
 

 

 園内には地元の信仰も厚い八幡社が祀られている。当社は山本勘助が海津城を築城するときに、水除け八幡として勧請したものと伝えられている。第4次「川中島の戦い」の激戦の最中に社殿は破壊された。その後、信玄は海津城主高坂昌信に社殿の再建を命じ、併せて社領として約一haの土地を寄進している。現社殿は生島足島神社(上田市)の旧社殿を昭和15年に移築したものという。


本殿の前に旧本殿(鞘堂構造)
本殿前の小さな社が旧社殿
 

 

そうした「川中島の戦い」に深いかかわりを持つ社のすぐ横に、一騎打ちの名場面が銅像となってその激闘の一瞬を伝えている。

 

境内にはその時の武田本陣跡を示す「枡形陣形」の土塁が周りを囲むように残っている。その内側に矢来を組み、盾をめぐらせて本陣の防御体制を造ったという。長年の風雪により土が削り取られ、丸みを帯びたのだろうか。土塁と呼ぶにはあまりに低い丈に驚くとともに、馬が跳躍して本陣に躍りこんで来るくらいだから、やはりこの程度の高さだったのだろうかなどと、色々と思考はめぐるのである。

土塁から八幡社鳥居と奥に本殿を
参道に沿うように土塁の跡が・・・
 

この社の周辺にはさらに往時の激戦を語る「三太刀、七太刀之跡」や「執念の石」、「逆槐(さかさえんじゅ)」、高坂昌信が軍さによる戦死者(6千余人)の遺体を敵味方なく集め、弔ったという「首塚」などがある。


三太刀、七太刀之跡
三太刀七太刀の跡

執念の石
執念の石(槍で穿った穴が残る)

逆槐
逆槐
小さく盛り上がる首塚
土盛りした首塚
 

 

「胴合橋」は八幡原史跡公園から約200mの至近にある。松代大橋の手前左、峠の釜飯「おぎのや」と「そば蔵」があるが、その駐車場にタクシーを止めて見学する形になる。「そば蔵」の北側の溝のような小さな川に石の橋が架かっているが、それが「胴合橋」と運転手に紹介されて、ちょっとびっくりする。



小さな胴合橋
小ささにビックリの胴合橋

これが赤川
川と呼ぶには? 現在の赤川
 

この軍さで啄木鳥戦法を講じ、敗れた軍師の山本勘助が上杉勢の手にかかり首級を挙げられたものを、家来が奪い返してこの箇所にて討ち捨てられた胴と一体としたことから、その後、この地を「胴合」と呼ぶようになったという。

 

また、橋の下を流れる小川の名前は「赤川」といい、夥しい死傷者の血でこの川の水が真っ赤に染まったというので、その名前がついたとのことである。

 

こうした様々な伝承は、往々にして後世に創り出されたものが多いものだが、この周辺一帯のそうした史跡や話は、激戦川中島を実感させるに十分の迫力をもったもので、心に質量感をもって迫ってきたことは事実である。

松代散策=6−松代の歴史の町並み(山寺常山亭・旧横田家住宅・文武学校・旧白井家表門・真田勘解由亭)

松代散策=1−松代町の概要

松代散策=7−川中島の戦い(古戦場・胴合橋)

 松代散策の1において「静謐(せいひつ)」と表わした松代の町並みを、ここではご紹介する。


思索のみち
象山裾をめぐる「思索の小道」

歴史的道すじ・右が常山亭
歴史的道すじ(歴みち)

歴史的道すじ・左が常山亭
歴史的道すじ(歴みち)
 

 山寺常山亭は象山壕、恵明禅寺を見学して「歴史的道すじ」(当地では「歴みち」と呼ぶ)を北へ向かうと、左手に長屋門形式といわれる全長約22mの松代一の大きさを誇る表門が見えるので、すぐそれとわかる。表門をふくむ一連の塀沿いには「カワ」と呼ばれる水路が清澄な水をゆったりと流している。常山亭前のその「カワ」には黒い大きな鯉が泳いでいた。


長屋門形式の黄色い門と塀沿いのカワ
山寺常山亭の漆喰塀と長屋門形式の表門(黄色の部分)
塀に沿って「カワ」と呼ばれる用水路がある

カワに黒い鯉が・・、よく見てください!
表門前のカワには黒い鯉が・・・

長屋門形式の表門
常山亭表門

表門を入った泉水池のある光景
門を入ってすぐ正面に泉水庭
 

 邸内は神田川の水(泉水)を引き入れた池のある庭園となっている。この泉水は塀の外を通るのではなく、邸内の泉水路を通り、隣の屋敷の池へと連綿と流れてゆく。今では泉水でつながる池も数少なくなっているが、武家の時代に各屋敷の池の水が邸内同士の水路でつながっていたとは、どこか松代藩の一体感や温かみを覚えさせる話である。そして町造りという意味では、松代は「カワ」や「泉水路」といった水路を縦横に駆使したエコな町であったともいえる。


中級武家屋敷の泉水池
泉水庭(黒い鯉も・・・)・奥に流れ込むのは神田川の水
 

 また、建築物としては大正から昭和初期にかけて建てられた書院が存在するものの、主要な建物は大正時代になくなっている。そのため、拝観者は屋敷の敷地の大きさを一望し、西側に借景となる象山を目にすることになる。


表門と泉水脇の書院を望む
突き当りが書院

常山亭から北に竹山稲荷を
常山亭から竹山随護稲荷神社が見える

山寺常山の石碑
常山先生の石碑
 

 この屋敷の主である山寺常山は佐久間象山、鎌原桐山(かんばらとうざん)とともに松代三山と呼ばれ、寺社奉行や郡奉行を歴任した八代藩主幸貫の信望厚い人物であった。


表門脇の休憩所
休憩所のなかにはお雛様が・・・。お茶も飲めます。
 

 現在、ここは観光客の無料休憩所にもなっており、トイレも清潔で温かいお茶もいただけるので、散策に疲れた時には絶好のお休み処である。


武家屋敷のようなお家も、町並みに
途中に武家屋敷のような一般のお家も

横田家案内
旧横田家標識

茅葺主屋
寄棟茅葺の主家
 

 常山亭からまた少し北へゆき、象山神社角を東に折れて記念館前を北に折れた所に国の重要文化財に指定されている旧横田家住宅がある。横田家は禄高百五十石を食む、常山同様に郡奉行を務めるなど松代藩の中級武士の屋敷である。茅葺屋根の武家屋敷が当時のまま残されており、意外と廊下など狭いうえに、間取りもこぢんまりとしていた。時代劇に出てくる武家屋敷などとはかなり規模において異なっており、謹厳実直な武士の生活振りが身近に感じられる、そんな優れものであった。


式台付玄関
式台付玄関

茶の間
茶の間

勝手
勝手

男便所
便所

客間にお雛様
客間にお雛様

縁側から屋内
各部屋一望

泉水池のある庭
縁より泉水池と奥に菜園

隠居所から庭を
隠居所より庭を

隠居所
隠居所

裏庭と小さな縁と茅葺
裏庭と小さな縁
 

 文武学校や旧白井家表門、真田勘解由亭は時間の関係などから表からのみの見学となったが、松代の落ち着いた町並みによく溶け込み、手入れも丁寧に行き届いたものであった。

 なお、当日は真田邸が改修工事(
331日まで)のため入館ができなかったが、全面解体改修工事が終了したあかつきには、ぜひ屋敷や庭園をご覧になるとよい。真田家所縁の宝物は隣の真田宝物館で見学できる。250年の歴史の重みと継続することの価値を実感する貴重な陳列品が多いので、ぜひ、拝観されることをお奨めしたい。

 

文武学校石碑
文武学校正門前に石碑

文武学校
文武学校正門


白井家説明板
旧白井家案内板

旧白井家表門
旧白井家表門(文武学校の斜め前)

真田勘解由家説明板
真田勘解由家案内板

勘解由家表門
勘解由家正門(旧白井家の対面)

勘解由家の漆喰塀
勘解由家のなが〜い漆喰塀

松代散策=5−真田家所縁の寺(長国寺・恵明禅寺)

松代散策=1−松代町の概要

松代散策=6−松代の歴史の町並み(山寺常山亭・旧横田家住宅・文武学校・旧白井家表門・真田勘解由亭)

 松代駅から東に
700mほどに真田家の菩提寺長国寺がある。当寺は曹洞宗の寺院で山号を真田山と称する。もともとは1547年(天文16年)に信之の祖父にあたる真田幸隆が開基、伝為晃運を開山とし、上田市真田町に建立した長谷寺にその源をもとめる。信之の上田から松代への移封にともない、1622年に長谷寺住職を開山として迎え、この地に建立した。


長国寺
長国寺本堂

本堂・山号扁額
山号扁額
 

長国寺には初代藩主、信之から12代目の幸治までの真田家の墓が祀られている(藩主としては10代目の幸民まで)。13代の故幸長氏(19291984)は東京の青山墓地を墓所としている。現在の真田家当主は14代目にあたる幸俊氏(1969−)である。


長国寺本堂
厨から本堂を

本堂大棟の鯱と六連銭
真田家所縁の鯱と六連銭

鐘楼
鐘楼
 

 長国寺の大屋根の鯱は海津城から移されたものと言われ、他の寺院に備わる鯱とはその歴史、格において大きく異なっている。さらに大棟の下に真田六連銭の家紋が鯱を支えるかのごとく、大きく印されており、藩主の菩提寺としての風格を保っている。また、拝観料を支払うとボランティアの方が、歴代藩主が祀られる墓所へと案内し、説明をして下さる。

 

 年季の入った大きな錠前で黒門を開け、墓域に入る。まず目に飛び込んでくるのが、陽明門とまではいかぬが、色鮮やかな彩色が施された初代信之公の霊廟である。その横に二周りほど小さい4代目の信弘の簡素な霊廟が建つ。初代信之は蓄財に勤め、36万両の財産を子孫に残したが、幕府の度重なる賦役に財政は窮乏し、4代目の時にはお城の薪にさえ苦労する状況であったという。そうした時代背景が霊廟の装飾や規模にそのまま表われており、大名家も苦労が多かったのだと実感しきりであった。


信之公霊廟
初代信之公霊廟

信之公霊廟正面
信之公霊廟正面

四代信弘公霊廟
四代信弘公霊廟

 

 信之の霊廟は、国の重要文化財に指定されており、唐破風の上方に見事な二羽の金色の鶴が掘り込まれているが、名工左甚五郎の作といわれる。また霊廟内部には天井絵や壁画が描かれているそうで、狩野探幽の手になると伝えられる。いずれ国宝指定になるのではないかとの説明であったが、なるほど素晴らしい建築物である。


二羽の鶴
唐破風の上部に左甚五郎作の二羽の鶴
 

 最後に歴代藩主の宝塔が祀られる墓域を拝観した。実際に足を踏み入れることができ、写真撮影もOKという、まことに鷹揚な対応で、これまた歴史好きには堪らぬスポットである。


歴代藩主の墓所
歴代藩主の墓所

初代信之公の鳥居と宝筐印塔
初代信之公のお墓

真田幸村・大介の供養塔
信之公の前に幸村と大介公の供養塔

 

 写真に分かるように墓所の一番奥に祀られる初代の信之の宝筺印塔(ほうきょういんとう)にのみ、石造の鳥居が設けられている。またその対面には真田信繁(幸村)、大介(幸村の嫡男)の供養塔がある。両人とも大阪夏の陣で豊臣方の武将として奮戦したものの、大阪城落城を前に討ち死にした。徳川家にたてついた幸村を三百年後の大正時代になり、ようやく真田家の墓所で祀ることとができたという。

 

象山壕の手前北に山号を象山と称する恵明はある。三代藩主真田幸道の開基、黄檗二代木庵禅師(中国僧・16111684の開山となる、1677年建立の黄檗宗禅寺である。文政8年5月(1825)本堂から出火、開山堂、霊屋、庫裡、鐘楼そして木庵禅師伝来の佛像などを焼失。その後、天保4年(1833年)に八代藩主幸貫17911852により本堂、霊屋、鐘楼、庫裡が再建された。現在では、創建当時のものは山門のみとなっている。


恵明禅寺山門から本堂を
恵明禅寺山門から本堂を

恵明禅寺縁起
縁起

恵明禅寺本堂
細雨のなか本堂へ
 

当日は生憎、小雨のパラつく天気であったが、家内と二人で小さな境内に入り、本堂でお参りをすますと本堂右手の母屋から住職の奥様が出てこられた。細雨の中、奥様は傘も差さずに恵明禅寺の由来や本堂の説明を丁寧にして下さった。


本堂より山門を・右手に鐘楼
本堂から山門を
 

 それによると、幸貫の再建から二百年近くが経ち、傷みもひどくなったため、とくにひどい本堂の屋根を数年前に修復したという。その際、鬼瓦をはずしたところ、そこに八代藩主幸貫が再興した旨の記載があったそうで、真田家の厚い庇護に改めて感謝されたという。

 

 以前の古い本瓦は真っ黒な瓦であったが、今回の修復の際は費用との兼ね合いもあり、黒い瓦を焼ける職人がいなかったとのことで、現在は銀色がかったグレーの本瓦とならざるをえなかったそうである(黒瓦を焼くには機械焼きでないため、費用がかかり過ぎる)。


母屋前より本堂を
母屋から本堂を

本堂内部と扁額
本堂

本堂・御本尊
堂内に御本尊の釈迦三尊像
 

 恵明禅寺にも真田家所縁の寺を表わす、鯱と六連銭の家紋が大棟に飾られている。職人が調べたところ、鯱は左右が阿吽(あうん)の対になっていたことが分かったという。下からよく目を凝らしてみると、口を開いた鯱と閉じた鯱になっており、なるほどと頷いた次第である。


見事な鯱
見事な鯱
 

 また、修復で完全に直らなかったのが、向かって右側の庇がちょっと下がっており、左右対称にはならなかったという。これも何気なく観ても分からぬが、言われてみれば、右に少し傾いているのが見てとれる。さらに、話は太平洋戦争時代へと続いた。私たちがこれから「象山地下壕」へ向かうと告げた時である。「象山は、戦争まではうちの寺領だったんですよ。戦争でお国のために軍部に収用されたのです。戦後、僅かのお金で戻すと云われても、蟻の巣のようになった山を戻されても、修復にどれくらい資金がいるか考えたら、お国にタダのようなお金で渡すより仕方がなかったのです」と、奥様が象山の方に目をやりながら語られた。その目はこうした静謐な山の中にも戦争によって奪われた尊い自然や伝統があるのですよと、私に訴えるようで、つらい思いがしたものである。


右に傾く上屋根
右に傾く上屋根
 

 本堂の手前左手に幸道公の奥方である豊姫の御霊屋とお墓がある。豊姫は宇和島藩主伊達宗利の娘(伊達政宗の孫)であるが、嫁入りの際に宇和島で作られていた「唐桃」と呼ばれていた杏(あんず)を持参し、松代に普及させた。この一帯が杏の里と今日呼ばれる殖産の礎を築いたのが、この豊姫であった。当日は豊姫の霊廟内にお雛様が飾られていた。豊姫の宝塔は廟の右手に建っている。


豊姫霊屋
豊姫の霊屋

霊屋に飾られるお雛様
お雛様が飾られていました

豊姫のお墓
豊姫のお墓
 

 左程に由緒ある寺であるが、そもそもが藩主の寄進で成り立っていた経緯から檀家が少なく(現在でも40軒ほどの檀家数)、こうした文化財維持の財政的厳しさを訥々と語られた奥様の伝統を実直に守ろうとする姿が印象的であった。


松代散策=4−真田10万石の城(松代城・海津城跡)

松代散策=1−松代町の概要

松代散策=5−真田家所縁の寺(長国寺・恵明禅寺)

 松代は、元和
8年(1622年)に同じ信濃の上田から移封された初代藩主真田信之に始まり、幕末の真田幸民までの十代、約250年間にわたり、一貫して真田松代藩の城下町として栄えた。


北不明門横に海津城跡石碑
本丸内に立つ海津城跡の石碑

松代城跡石碑
松代城南門跡に立つ石碑
 

 

 町の中核となる松代城はそもそも、上杉謙信との戦さの拠点として武田信玄が築城したものである。三日月掘や丸馬出などの遺構から甲州流築城法で築かれたものと確認されており、川中島の戦いで信玄が茶臼山より移動し入城した海津城がこの城の前身にあたる。往時の城将は武田二十四将のひとり高坂弾正忠昌信であった。

 松代城南門をまっすぐ南下し、長野電鉄の踏切を渡るとすぐ左手に池田満寿夫美術館がある(松代駅すぐ西)が、その前庭に松代城の三の堀の遺跡が発掘時の状態のままで保存されている。そのままにされた自然石に胸が締め付けられるような郷愁を感じるのはなぜだろうか。

長野電鉄線路
長野電鉄の線路を渡ります

三の堀遺跡
発掘状態のままの三の堀跡

甲州流築城の図
三日月堀や丸馬出の図もここにあります


 ところで、話はぐ〜んと飛んでしまうが、美術館に隣接して小布施を本店とする甘味処「竹風堂松代店」があり、そこの「長芋の白糸」はお薄と戴いても、なかなかの絶品でしたよ! 散策に疲れた方は、竹風堂の栗羊羹もいいが、「長芋の白糸」お奨めしま〜す! 本当に冷たくておいしかったよ!!


竹風堂松代店
甘味処「竹風堂」松代店
長芋の白糸
長芋の白糸

竹風堂の方寸とお薄
方寸とお薄 


さて、長芋で元気が出たところで、改めて本題に。

 

その後、海津城には1600年に森忠政が入封、「待城」と改名。1603年に松平忠輝が領主として入封、「松城」へ改名される。そして江戸時代に入り、真田三代藩主幸道の時に幕命により「松代城」と改められた。

 

現在の復興された姿(20044月)になるまでは、城址としてはわずかに荒れ果てた石垣がその往時の面影を残すのみであったという。現在の城郭の姿は江戸時代のものがほぼ忠実に再現されている。


二の丸南門から本丸太鼓門を
二の丸南門より本丸太鼓門を望む

前橋・枡形門・太鼓門を望む
前橋から枡形門と奥に太鼓門を見る

前橋から本丸跡水堀と太鼓門
前橋から本丸水堀と城郭

太鼓門から本丸内を
太鼓門から本丸内を
 

 展望台として利用される城内の「戌亥の櫓台」、ここが実質的な天守閣にあたるところだが、そこに登って四囲を眺め渡す。

 すると、3
kmほど西に妻女山(赤坂山・標高411m)が見える。写真で見ると前方の緑の濃い山の右端にポコンとコブのように見えるのが、妻女山。城から見ると意外に近いことに驚く。そんな小さな山に上杉謙信の陣地があったかと想像すると、歴史に名高い第4回目の川中島の戦いに謙信が懸けた意気込みの凄まじさが、実感で伝わってくる情景である。また北東方向の辺りが激戦のあった八幡原である。

戊亥の櫓台

戊亥の櫓台

本丸内・太鼓門を望む
本丸内・南門を望む

櫓台より妻女山を
手前山裾の右端の小さく突き出た処が妻女山

櫓台より八幡原方面を
北東方向が激戦地・八幡原のあたり

櫓台より北不明門を
北不明門

櫓台より北不明門の外郭
北不明門の外郭

皆神山
UFOの着陸する皆神山

 

そして南東方向3kmほどには、世界最古のピラミッドともUFOの基地とも一時期騒がれた皆神山(標高659m)が特異な台形状の姿を見せている。なるほど奇妙な形ではあるが、この山の下にも戦争末期に掘られた地下壕が存在する。

松代散策=3−佐久間象山(象山神社・象山生誕の家跡・蓮乗寺)

松代散策=1−松代町の概要

松代散策=4−真田10万石の城(松代城・海津城跡)

 佐久間象山(
18111864)は松代藩の下級藩士の子として生まれるが、後に老中となる八代藩主真田幸貫(老中松平定信の次男)に認められ、洋学者として名を馳せた公武合体派の開国論者であった。その門弟には吉田松陰や勝海舟、橋本左内、河井継之助など当時の時代を先導した錚々たる俊英が名を連ねている。象山は諱(いみな・本名)を国忠と称し、象山という雅号は後に紹介する黄檗宗の禅寺恵明禅寺(えみょうぜんじ)の山号、象山に因んでいるといわれている。


象山恵明寺
象山恵明禅寺
 

 象山神社は、今を去る150年ほど前の人物ながら神となった佐久間象山を祀る。同郷の元大審院長横田秀雄(18621938・旧横田家住宅の主)の発起により、昭和13年に県社として創建された。境内には社殿のほか、高義亭(松陰渡航に連座し蟄居させられた建物)、心の池、生誕跡地などがある。

 

 当日は小雨が終日降り続いていたためか、境内に参拝客は見当たらず、まことに静かであった。その静寂の世界は象山が駆け抜けた波乱に満ちた激動の生涯とは対照的であり、いまや知恵と学問の神として祀られる象山もさぞかし尻の辺りでもむず痒いのではないかと感じた。


象山神社鳥居
象山神社鳥居

歌碑省けん録
歌碑省けん録

境内、正面が社殿
正面に社殿・左が心の池

心の池
心の池
 

 神社の鳥居をくぐってすぐ、「心の池」手前の小径を左手に10mほどゆくと目の前にちょっとした空き地が広がる。象山の生家跡である。現在は建物が立っていたと思われる辺りをこぶし大の石で区画して見せており、敷地のほぼ中央に往時を唯一語るものとして、井戸が残されている。松代藩の下級武士の家の跡地ということで、6−「松代の歴史の町並み」で紹介する中級武士の家屋や跡地である旧横田家住宅や山寺常山亭と比較すると、規模の点でやはり歴然とした階級格差があったことが分かる。また、敷地内入口左手に煙雨亭という小さな建物があるが、象山が京都の三条木屋町に住んでいたときの茶室を移築したものである。どこか、寂しげで忘れ去られたような建屋だったことが、妙に印象的であった。


生誕地の石碑
生誕地石碑

象山生誕地屋敷跡
屋敷跡

往時を偲ぶ井戸と奥に煙雨亭
往時を偲ぶ井戸、奥に煙雨亭

社殿
社殿
 

 神社のすぐ近くに象山記念館がある。象山が砲術家、儒者、科学者、医者、詩人といった多才で幅広い知識人であったことを示すカメラ、地震予知器、電気治療機や書画など象山作の展示品などが陳列されている。


 

 

 象山の墓は松代市役所の東400mほどのところにある蓮乗寺(れんじょうじ)にある。墓は京都の妙心寺より分葬されたものである。その墓石は新選組の隊士でもあった次男の恪二郎と並んで立っている。蓮乗寺は佐久間家代々の菩提寺であり、松代の寺院に特有の屋根の大棟に鯱(しゃち)が飾られ、六連銭の紋が大棟の下部に大きく印されている。歴代真田家に対する崇拝の証でも見るようである。


蓮乗寺
蓮乗寺

扁額
扁額

鯱と六連銭
鯱と六連銭

佐久間象山菩提寺石碑
菩提寺の石碑

象山・恪二郎の墓
左:象山先生・右:恪二郎の墓

算盤の石碑・学問の神にあやかる
境内に象山先生の知恵にあやかろうと算盤の石碑が・・・

旧自民党政治へ先祖帰りした民主党に絶望!

 鳩山総理のその場しのぎの発言や小沢幹事長のあこぎなやり口など、最近の民主党政治のあまりの体たらくさ、傍若無人振りにあきれ果て、加えて、民主党に多くを期待し過ぎた自分の愚かさを恥じて、しばらく政治に関するコメントを控えてきた。

 

 しかし、「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律案」(高校無償化法案)や「平成二十二年度における子ども手当の支給に関する法律案」(子供手当法案)の参議院選挙前の4月・6月施行を最優先とした国会審議のあり方や、普天間基地移転問題への朝令暮改も甚だしい無責任な対応振りを見せつけられては、もう口をつぐんでいるわけにはいかない。

 

 冒頭のまず参議院選挙ありきの強引な国会運営や安全保障の根幹である日米関係に亀裂を生じさせている普天間移転の問題に、ゆうちょ銀行の預け入れ限度額問題の迷走。そして、過去最大規模の22年度予算(92.3兆円)の成立と過去最大規模の新規国債発行(44.3兆円)、国債依存率(48%)と、悪い意味での過去最高の更新予算、などなど。かなり昔の自民党の利益誘導型の政治が、この時代に亡霊のように蘇えってきたようである。

 

 いずれにせよ、こうした対応は国民の思いとは大きく異なり、国民目線からはほど遠い政治と言わざるを得ない。

 

 昨年916日に国民の大きな期待を担ってスタートした鳩山内閣も、最近の政治的迷走の繰り返しにより、国民の我慢の限界もこれまでというかのように、内閣支持率は33%へと釣瓶落としに急落(読売新聞424日全国世論調査・前回357日調査は41%)。

 

然るに自民党の支持率は横ばいから逆に下落(同20%→16%)という惨状。挙句の果て、国会議員たった6名の政党である「みんなの党」の支持率が4%(同3%→4%)へと上昇、民主、自民に次ぐ支持率を得るなど、本当にこの国、どうなっちゃったのと言いたい。

 

 まぁ、これは、民主に失望した国民の既存政党に対する切り捨ての証であり、その負託を受け得る本格的な政党が存在しないことの証であると、評論家風に言えばそうなのだが、それとて犬の遠吠えにすぎない。

 

 そして、ここに来て、平沼赳夫元経済産業相、与謝野馨元財務相らによる新党の党名が「たちあがれ日本」と決まり、この10日の旗揚げが確実になったと報じられた。新党立上げの中心となった平沼、与謝野両議員は自民党の中でも政策通で通り、筋を大切にする政治姿勢にある種の安心感はある。

 

 しかし、この新党構想も基本大綱など党のビジョンを見ぬことには何とも言えぬが、どうもご両名の70歳、71歳という年齢に引っかかるのか、清新さを欠くのか、国民の盛り上がりには大きく欠けると言わざるを得ない。もう10年早ければという気がして残念である。

 

 さらにこの「たちあがれ日本」の党名は石原慎太郎東京都知事が命名したということだが、政治家たるもの政治信念こそ命である。新党の党名にその信念を語らずして、他人からの借り物で立上げようというのも、どうもわたしにはしっくり来ないのである。

 

 いずれにせよ、この国は本当に夢も活力もない三等、いや五等国に成り下がってしまったようだ。その責任は政治家ではなく、わたしを含めたこれまで選挙権を有してきた国民にあることは言うまでもない。脱力感、無力感、虚無・・・、いや、自己嫌悪、自業自得、因果応報・・・。どんな言葉で今の気持ちを表わせばよいのかまったく分からぬところに、いまの問題の根の深さがある。

松代散策=2−象山地下壕

松代散策=1−松代町の概要
松代散策=3−佐久間象山(象山神社・象山生誕の家跡・蓮乗寺)


 松代の趣きある町並みを紹介する前に、このことだけは先に話をしておくべきであると考え、最初に取り上げる。


象山地下壕入口
象山地下壕入口

地下壕案内図
地下壕案内図
 

 それは太平洋戦争末期の虚しくも時代の狂気をも感じさせる遺跡についてである。戦局悪化のなか、本土決戦最後の拠点として極秘裡に皇居、大本営、政府機関を松代に移転させる計画があった。その話は私もかつて半信半疑の思いで耳にした記憶があったが、実際に昭和197月の東條内閣最後の閣議で移転計画が了承されていた。


象山
地下壕を掘りぬいた象山
 

松代にある象山、舞鶴山、皆神山の三ヶ所に地下壕を掘り、そこに国家の中枢機能を分散、移転させるというものだ。象山地下壕には政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を、舞鶴山には皇居、大本営を、そして地盤が脆弱な皆神山には備蓄庫を建設する予定であった。三つの地下壕の総距離は10kmにおよぶという壮大なものであった。


地下壕入口付近
地下壕入口付近
 

計画は昭和19年(19441111日の象山の発破により開始され、終戦の日まで工事は続けられたが、その時点での進捗度は75%であったという。

 

無謀で狂気の沙汰ともいうべきこの難工事に、朝鮮人7000人、日本人3000人が12時間二交替の動員をかけられたという。工事に関わった延べ人数は61600人にのぼったと記録されている。

 

象山地下壕は総延長5853m、そのうち500mのみが公開されている。常備のヘルメットを被り、岩肌が剥き出しの地下壕を歩く。天井部分の両端には一定間隔で電燈がついているが、坑内は足元はしっかりと見えるものの、先のほうを見透かすとかなり薄暗く、見通しが悪い。 

薄暗い隧道(すいどう)続く地下壕


 大粒の砂利道の隧道(すいどう)を歩くうちに、壕内に自分の足音が木霊していることに気づく。その音色は不気味で、立ち止まって耳をすますと、愚かな人間の決断に翻弄された人々の怨嗟の声だろうか、ウ〜ンといううめき声のような音が反響してくる。地下壕は碁盤状に掘削されている。見学路の左右にムカデの足のように伸びるその壕の暗闇のなかから、戦争の狂気を既に忘却した今日のわれわれに、なじるような視線が投げかけられているのを感じた。


説明板

トロッコ枕木の跡
トロッコの枕木の跡がつい昨日のようについている

縦横に延びる地下壕
狂気の沙汰の地下壕

横方向の壕からなじるような不気味な視線が・・・、
横にも地下壕が

 


 掘削機の削り跡も生々しい壕内にひとり立ちつくしていると、人はここまで理性を失い、狂うことができるのかと戦慄すら覚えた。まさに凄惨であまりにも寒々とした、悲しくもむなしい光景である。若い人々にも松代を訪れた際には、是非、象山神社から徒歩で数分のところにある、この愚かしい狂気の地下壕に足を伸ばしてもらいたい。そして、人間という生き物はちょっとした弾み、ボタンの掛け違いで、このような狂気じみたことを集団催眠にかかったかのように押し進める、そんな危うい生き物なのだと肌で感じて欲しいと願う。

地下壕入口に建つ「不戦の誓い」の石碑
不戦の誓いの石碑


松代散策=1−松代町の概要

松代散策=2−象山地下壕

松代散策=3−佐久間象山(象山神社・象山生誕の家跡・蓮乗寺)

松代散策=4−真田10万石の城(松代城・海津城跡)

松代散策=5−真田家所縁の寺(長国寺・恵明禅寺)

松代散策=6−松代の歴史の町並み(山寺常山亭・旧横田家住宅・文武学校・旧白井家表門・真田勘解由亭)

松代散策=7−川中島の戦い(古戦場・胴合橋)

松代散策=8−川中島の戦い(典厩寺・妻女山)

松代散策=9−松代グルメ・ランチとディナー(日暮し庵・沙羅樹庵(蕎麦)、中国料理天竜)

 松代は明治維新までの
250年間、真田藩の城下町として歴史の時を実直に刻んできた町である。行政的には、かつて長野県埴科(はにしな)郡に属していたが、昭和41年(1966年)に長野市と合併している。地理的には市の南東部に位置し、長野駅から車で約20分、長野IC(上信越自動車道)から5分のところにある人口、約19,200人の町である。

 

 私は「松代」と訊くと、「松代群発地震」(1965819706)を思い起こすが、若い方にはあまり馴染みのない土地ではなかろうか。また、戦時中の記憶のある方は松代大本営地下壕の名に複雑な思いを抱かれる人もおられよう。

 

 いずれにせよ、私は、知人が松代文化ホールで催した「サックスデュオとピアノによるコンサート」(S:中川美和・藤澤聡子/P:山中和子)を愉しむために、初春の松代を訪れた。


サックスデュオとピアノ
サックスデュオとピアノコンサート

 

 ちなみに当日のアクセスだが、往路は、東京から上田(長野新幹線・所要時間1時間32分)、上田から屋代(しなの鉄道・同14分)、屋代から松代(長野電鉄屋代線・同13分)と、上田駅からローカル線を乗り継いで、松代入りした(待合せ時間込みで総所要時間は2時間53分)。ドアを手動で開ける短い車両、昔懐かしい色褪せた木造待合室など、スローライフを満喫する旅となった。復路は、文化ホール近くの松代八十二銀行前から長野駅まで川中島バス(松代線)を利用して31分、そして長野駅からは新幹線で帰京した。


長野新幹線
長野新幹線

しなの鉄道
しなの鉄道(上田駅)

屋代駅
屋代駅

色あせた木造待合室
長野電鉄待合室

長野電鉄屋代線
長野電鉄屋代線

松代駅
松代駅

松代駅駅舎内
松代駅舎内

松代駅前道路
松代駅前道路
 

 わずか一泊二日の小旅行であったが、雰囲気のよい素晴らしい町であったので、その良さを是非知っていただきたいと思い、ここに紹介することにした。

 

 松代をひとことで表わす言葉は?と問われれば、私は躊躇なく「静謐(せいひつ)」という言葉を挙げたい。広辞苑によれば「静謐」は「静かであること。特に、世の中がおだやかに治まること」とある。

 

 ただ、私は松代の町を散策してみて、単に近頃の地方都市の代名詞となった「人通りが少なくて静かな町」というのではなく、町に人影こそ少ないものの、その家々の落ち着いた佇まいから、町全体に御香の薫りでもそこはかとなく漂っているような、おっとりとして、風雅のたしなみ豊かな品格ある町であると感じた。そこで「静かな」というより「静謐」という語感とその字面が、この松代という町にはふさわしいと思ったのである。


カワのある町並み
カワのある町並み
 

 さらに、この松代にはあのあまりにも有名な「川中島の戦い」の古戦場跡地があることも知り、真田六連銭の城下町の奥ゆかしさとも相俟って、歴史好きにはたまらない味わい深い土地であることを知った。

 

 これからいくつか興味深く思った先について記すが、松代を訪れてみたいと思っている方の参考となる情報をお伝えできれば幸いである。

 

次の順序で簡単に紹介してゆくこととする。2−象山地下壕、3−佐久間象山(象山神社・象山生誕の家跡・蓮乗寺)、4−真田10万石の城(松代城)、5−真田家所縁の寺(長国寺・恵明禅寺)、6−松代の歴史の町並み(山寺常山亭・旧横田家住宅、文武学校・旧白井家表門・真田勘解由亭)、7−川中島の戦い(古戦場・胴合橋)、8−川中島の戦い(典厩寺・妻女山)、9−松代のランチとディナー=日暮し庵・沙羅樹庵(蕎麦)、中国料理天竜

諏訪大社御柱祭の上社木落(きおと)しを見る

諏訪大社、7年に一度の奇祭、「御柱祭」の里曳きを見た

 44日(日)、長野県茅野市仲町上川河川敷(宮川木落し公園対岸)で御柱祭の上社木落しを見た。今回から上社でも御柱祭誘客促進協議会による有料観覧席が用意されたので、応募したところ、本宮四之柱の木落し(4日正午)のチケット四枚をゲット。家族と親戚のものとで3日より長野入りした。

 

 前日の2日が上社の山出しの日であったが、これが7年目ごと(寅年と申年)に行なわれる諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)という神事のクライマックスへ向けたスタートである。


御柱出発の地
綱置場にはためく旗

綱置場
前日までここに八本の樅の木があった綱置場

道路に残る山出しの痕
道路に残された山出しの痕(樅の木の木皮)

 

 茅野市と原村の境の綱置場から八本のモミの木の巨木が数千人の氏子により曳き出され、木落し坂の上まで順次、運ばれてゆき、翌日と翌々日に行なわれる木落しを待つ。

 

 われわれは快晴の絶好の御柱日和に恵まれ、観覧席の最前列で初めての天下の大祭を観た。木落しの山というより丘は斜度27度で、坂の長さは50mほどであった。思ったより距離も短く、傾斜もそれほど急には見えなかった。


木落し坂
木落し公園・斜度27度・斜面50mほど

 

 テレビなどで放映される勇壮な木落しは翌週の土・日に行われる下社のものであることを、その時知った。下社は斜度45度で100mを滑り落ちるというのだから、そちらが迫力の点でまさっているのだろう、テレビなどでよく取り上げられるはずである。

 

 12年前の寅年にやはり上社の里曳きを見ていたが、木落しは初めてである。どんな具合かも分からぬまま、樅の木が坂の上に姿を現すのを待った。上社の特徴は、御柱の前後に「メドデコ」というV字型の細い柱が差し込まれ、そこに各々、10人余の若者が乗っかり、木遣りの声やラッパの音に合わせて赤や黄色の御幣(おんべ)を振りかざす。


前宮三
前宮三之柱

前宮三木落し
前宮三之柱木落しの瞬間

 

 一時間ほど待つと、坂の上に御柱のメドデコが姿を現した。何のなんの、その巨大な姿は勇壮である。そして、メドデコの装飾が美しい。


本宮四のメドデコ
本宮四之柱のメドデコが姿を現す

坂の中腹のラッパ隊や鼓笛隊
ラッパ隊や鼓笛隊が雰囲気を盛り上げる

 

 子供木遣りやラッパ隊、鼓笛隊などがこれからの木落しをいやがうえにも盛り上げる。そして、花火が打ち上げられ、会場に「ウォーッ!」という歓声が挙がるや、全周2m45?の四之柱が右に傾いて、坂の上から落ちてきた。


木落し直前
木落し直前
 

 あっという間の出来事であった。しかし、それは1200年以上も前から行われているこの神事の絶えざる流れの一筋に、自分が参加し、身を置き、溶け込んだ瞬間でもあった。

ゲゲゲの女房=ねずみ男の駅 0番線ホームの妖怪たち

 NHKの朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」の放送が29日始まった。第一話が14.8%と歴代最低(これまで「どんど晴れ」の14.9%)の視聴率だったという(ビデオリサーチ:関東地区)。残念である。理由は後で述べる。

 

 視聴率については、とくにNHKの場合、BS2、Bshi、それから夜もBS2と多数回、多Chで放送が行われるため、NHK総合のみしか集計されぬビデオリサーチの視聴率は、いまの視聴者の生活スタイルに必ずしも適合しておらず、実態を表わすものとは言いがたい。だから、この数字だけで、「ゲゲゲの女房」の出だしが悪いと決めつける必要はない。現にわが家も娘は、朝のBshiで見、わたしは夜のBS2で見ている。

 

 まぁ、そんなことは実は今回の話に殆ど関係はない。ゲゲゲの女房のふるさと安来市と米子駅にたまたま立ち寄る機会があり、鬼太郎饅頭を土産に買ってきたばっかりだったので、少々、弁護してみたくなっただけのこと。

 

 それで、話は何かと言えば、「ねずみ男駅」を見つけたので、ここに紹介したいというだけである。実に、うん、下らぬ話であるが、でもちょっと子供に戻ったような妖しい気分になったので、聴いて下さい。


足立美術館枯山水庭園
足立美術館枯山水庭園
 

 

 安来市にある横山大観の蒐集で高名な足立美術館を家内と拝観に行った帰り、安来駅からJRで鳥取駅まで移動しなければならなかった。山陰が不便と感じたのは、安来から鳥取へ向かうのに、米子駅で特急を乗り換えねばならぬことであった。一本で行く特急が少なすぎるのである。あとでタクシーの運転手に聞いたところ、米子は鳥取県でありながら経済圏は島根県に属しており、鳥取市との一体感があまりない。そのためか、米子・鳥取直行便の数が少ないのだと説明してくれた。


安来駅
安来駅

ゲゲゲの女房駅内看板
ゲゲゲの女房のふるさと:安来市

ゲゲゲの女房のふるさと
安来駅の土産物売り場もゲゲゲの女房一色!!

米子駅
米子駅に到着
 

 

 

  まぁ、そういうわけで安来駅と米子駅でゆっくりと列車待ちの時間を過ごした。それが、わたしに思いがけない楽しみを与えてくれたのである。

妖怪の駅
    米子駅構内はなにか、怪しげな雰囲気・・・


 米子駅の待合室で何気なく、ポスターを見ていたら、「ゲゲゲの女房」にちなんだものがあった。そこに好奇心をくすぐる0番線ホームの写真があった。「ゲゲゲの女房」のふるさとはつい今しがたまでいた安来市のはずである。怪訝に思い、駅員に「0番線ホームなんて、本当にあるの?」と、冷やかし半分で尋ねると、「はい!あります」と、思いがけぬ答えが返って来た。冗談を言われたと思い、突っ込みで「どこにあるの?」と訊くと、「1番線ホームのあの階段の裏にあります」と言う。

 

 なにやら、この駅員が妖怪に思えてきて、ちょっと引いてしまったが、「行ってみれるの?」と言うと「行ってみて下さい」と答える。

 

 それでは、行かずばなるまいと、トコトコとホームの端にある階段へ向かった。もう、かなり暗くなっていたので、階段の方向も周りはよく見通せない。


0番線
0番線ホームの看板があった!
 

 

 その薄暗がりのなかを近づくと、なんと『0番線』の表示板だけが明々と吊り下がっているではないか。まるで気分はハリー・ポッターである。駅員は妖怪ではなかった。いや、こんな妖しげな景色を自分に見せるのだから、やはり妖怪か、妖怪の回し者なのかもしれない。なにせ、「階段の裏」と言った時のあの目つきは尋常ではなかった。黒目にたしかに赤い炎がゆらゆら見えた気がしたのだから・・・。


0番線ホーム
妖怪世界への、さぁ入り口だ!!
 

 

いずれにせよ暗い階段の裏側に廻ると、
 「あっ!」、「妖怪の世界だ!」

鬼太郎の世界
階段裏の妖怪の世界

 わたしの足が一瞬、凍りつくように止まってしまった。

 

そこには、確かに「ねずみ男駅」があった。そして一両の電車が止まっていた。どこへ向かうのだろうと行き先表示を見ると、「鬼太郎駅」とあった。「うそ?」とよく目をこすると、「境港行き」とあったのでひと安心。

鬼太郎駅ゆき
鬼太郎駅ゆきの電車がゆらゆら・・・

ねずみ男駅
ねずみ男駅の標識

ゲゲゲの鬼太郎
われらが鬼太郎と目玉親爺

妖怪
怪しげな妖怪

妖怪世界
妖怪曼荼羅?
 

でも、境港は水木しげるのふるさとであり、このJR境線の終点は境港駅であるが、別名を「鬼太郎駅」というとのこと。途中の駅名も「べとべとさん駅」、「傘化け駅」、「ざしきわらし駅」、「砂かけばばあ駅」、「こなきじじい駅」など妖怪の名前が付されており、遊び心が満載の路線である。

 

 私たち夫婦は妖怪の世界でしばし遊んで、ようやくやって来た鳥取行きの特急に乗り込んだ。そして現実の世界へとゆっくりと戻って行った・・・。


鳥取駅行き特急
いざ、鳥取駅へ!!
 

 

 そんな旅の出逢いがあったばかりだったので、「ゲゲゲの女房」の視聴率に、「残念!」と唸り、ちょっと理屈をこねてみたってわけ。

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