彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

November 2009

信州の鎌倉 その3=安楽寺

信州の鎌倉 その1=塩田平
信州の鎌倉 その2=北向観音堂
信州の鎌倉 その4=常楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺
信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)

上田市別所温泉2361

 

崇福山安楽寺は別所温泉の北端のあたり、北向観音堂から北西に300mほどの至近に位置する。そして、古来、常楽寺、長楽寺(現存せず)とともに別所三楽寺と称されてきた。

その沿革を探ると、奈良時代の
天平年間(729749行基建立したとも、いや天長年間(824834)に開かれたといった伝承が残る古刹であるが、その詳細は不明である。歴史上の記録としては、臨済宗をこの寺にもたらした樵谷惟仙[しょうこくいせん]の絡みで寺名が出てくるのが初めてである。惟仙1246年、宋より帰国し、安楽寺を臨済宗の禅寺として開山した。宋から同じ船で入国した鎌倉の建長寺の開基(1253年)である蘭渓道隆との交流により、その名が歴史に記されるところとなった。

安楽寺参道
参道から山門を見る
山門扁額
山門に掲げられた山号の扁額
安楽寺本堂
安楽寺本堂
本堂玄関
本堂玄関
御本尊釈迦牟尼仏
御本尊釈迦牟尼像 

 
安楽寺は信州では最古の禅寺である。日本最古の本格的禅寺といわれる京都の建仁寺が1202年の開創であるので(実際の本邦最古の禅寺は、建仁寺の開基でもある栄西が、南宋より帰国し、1195年に開山した福岡市博多区の「聖福寺」である)、それに遅れることわずか44年で、この信州塩田平という小さな盆地に禅寺が営まれたことになる。

木曾五木の高野槇
木曾の五木の高野槇の大樹
和洋禅様折衷袴腰鐘楼
明和6年建立の和様・禅宗様折衷の腰袴鐘楼

 

そして、禅寺としての安楽寺が開かれた時代の塩田平は、すでに当ブログ「信州の鎌倉 その1=塩田平」で述べたように、「信州の学海」と称される学問と文化の中心地として栄えていたのである。

 

したがって樵谷惟仙は、人も通わぬような草深い土地で荒れた廃寺を再興したのではなく、遠隔地から学問を志す若者たちが集ってくる文化の薫り高い、賑わいの地で、「禅」という新しい学問の息吹を伝える講座を既存の寺・学問所、すなわち安楽寺で開いたとするのが、実際のイメージに近いのではないかと考える。

樵谷惟仙和尚像
右が安楽寺中興の祖、樵谷和尚像・左は二世の幼牛恵仁和尚像 

 

蘭渓道隆遺著大覚禅師語録の一節にある建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、道を学ばんことを要す云々」が、往時の塩田平の繁栄を表わしていることも、そう考える重要な要因である。


のように安楽寺は、その後の塩田北条氏保護とも相俟って、鎌倉時代中期には相当規模禅寺であったことがうかがえ、しかも別所三楽寺と呼ばれたように、信州学海の巨塔のひとつであったと言ってよいのではなかろうか

さらに鎌倉末期から室町初期の間に、当時ではハイカラな禅宗様式の八角三重塔という最新式建築物が建立されたことも、往時における安楽寺の格式の高さを表わす証であると考える。

山腹に聳える八角三重塔
山腹に聳える八角三重塔
詰組の見える三重塔
一番下は裳階(もこし)

八角三重塔
国宝八角三重塔 

 
そういう想いでこの三重塔を仰ぎ見ると、明治時代におけるレンガ造りの大学の講堂建築の威容がある種、権威の象徴として若者たちの目に映っていたように、この塩田平が勉学に励む若者たちのエネルギーに溢れた学生の街であった頃、若い学僧たちは、塩田平の西方のちょっと小高い山腹に聳え立つこのハイカラな塔を望見しては、先進文化への強烈な憧れを覚えていたのかも知れないと思った。


各層扇垂木
八方に伸びる美しい扇垂木
つめぐみ
詰組と呼ばれる木組み
弓形連子
一階部分上部の弓形連子(れんじ)
相輪
相輪の宝珠と水煙と九輪

北条氏滅亡(1333年)後の安楽寺は一番の庇護者を失うことで寺運も傾き、正確な記録も残っていない
というが、
室町時代天正8年(1580年)頃高山順京(こうざんじゅんきょう)によ再興され、それ以降、曹洞宗寺院となり、現在に至っている

極彩色の扁額
極彩色の扁額
庫裡
庫裡の一風変わった屋根の形

 
そして、安楽寺の本堂の扁額を見て、「あれっ」と思われた方も多いのではなかろうか。わたしは、その禅寺に似つかわしくない極彩色の色遣いに、即座に宇治の黄檗山萬福寺を想い起したのである。信州の盆地に何故か中華の色合いの濃さに触れたようで、奇異な感じに捉われたのである。

蓮池のアメンボ
蓮池のアメンボ

そこで境内の奥に足を踏み入れてみて、得心をしたわけである。八角三重塔へ向かう本堂の脇に経蔵があったが、方三間のぬりこめ、宝形造り、銅版葺きの建物のなかに、八角形の朱塗りの輪蔵(回転式の経典書棚)が収められていた。その経典こそが、寛政5年(1783)に、宇治の萬福寺から購入した黄檗版鉄眼の一切経というではないか。

経蔵説明書き
経蔵の説明書き
安楽寺・経堂
回転する朱塗りの輪蔵(中に経典が入っている)

したがって当山は曹洞宗というものの黄檗宗の色合いの濃い禅寺とみなすこともできるのではないかと、思ってみたりしたのである。庫裡の一風変わった屋根型、そして山道を少し登ったところに屹立する八角三重塔の純粋な禅様式を見るにおよび、この寺はやはり遠い鎌倉の時代から中華の先進文化を貪欲に吸収するDNAのようなものを、そもそも身内に内在させた不思議な寺なのだと思ったのである。

 


信州の鎌倉 その1=塩田平

信州の鎌倉 その2=北向観音堂
信州の鎌倉 その3=安楽寺
信州の鎌倉 その4=常楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺
信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)

「信州の鎌倉」は長野県上田市の南西に位置する、東西5キロ、南北2キロ四方の「塩田平」と呼ばれる盆地のことを指す。江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。

 

そしてこの地域は鎌倉・室町時代の文化財の密集地域としてよく知られている。

 

具体的には、日本で唯一の八角の三重塔(安楽寺・国宝)をはじめ、中部日本で最古といわれる中禅寺の薬師堂(重文)、さらに重要文化財としては全国に二つしか指定されていない石造多宝塔(常楽寺)、「未完成の完成塔」と名高い三重塔(前山寺・重文)など、この小さな盆地には鎌倉時代から室町初期の国宝・重文級文化財が集積しているのである。

 

京都・鎌倉以外で中世の文化財がこれほど密集しているところは全国でも珍しい。そのためこの塩田平は「信州の鎌倉」と呼ばれるようになったという。

 

しかし、それではなぜ、信濃国で松本や諏訪という大きな盆地ではなく、この塩田平という小さな盆地に鎌倉文化が密集しているのかという疑問が湧いてくるのだが、解説は以下の通りである。

 

まず、鎌倉幕府と塩田との関係について見ることとする。鎌倉に幕府を開府した源頼朝は、その統治方式として諸国の要衝地に地頭をおき、地頭にその仕置きをさせることで鎌倉からの威令を徹底させ、中央集権政治を確立することとした。したがってその重要な鎌倉の手足となる地頭には、頼朝の信頼の篤い腹心の家臣を任命した。そしてこの塩田地方にも要衝の地として地頭がおかれることになった。

 

塩田地方は平安時代には「塩田庄」と言われ、京都の東寺を別当とする最勝光院【後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺】の庄園であった。その荘園主の格式を考えれば、この地が以前より豊かな土地であることが中央において認識されていたことが分かる。頼朝もその重要性を十分理解し、己れのもっとも信頼する惟宗忠久(後に島津忠久と改姓、薩摩島津氏の祖)を塩田庄の地頭に任命した。ここに塩田平と鎌倉の最初の関係が生まれることとなった。

 

そして、幕府の実権が北条執権家に移るとともに、塩田平を含める信濃国の守護職には、二代執権である義時自らが就任し、信濃国は頼朝以上に重んじられることになった。その証に、義時の後の守護職にも、「連署」(執権に次ぐNO2)の任にある義時の三男、重時が就いている。この塩田がいかに軍略・交通上の要衝であり、穀倉地帯といった地勢状の理由からも、ここを領有するその戦略的・経済的意味は大きかったものと思われる。

 

そして、重時の五男であり、時の「連署」の任にあった義政が1278年、突然、職を辞しこの塩田へ隠遁することになった。義時・重時の守護職の時代から因縁は始まっていたとは言え、とくに義政がこの地に移住し、塩田城を構え、子の国時、孫の俊時と三代、56年間に亙り塩田の地を繁栄させたところから、この塩田平は鎌倉との絆をより深め、信州の鎌倉と称されるような鎌倉文化の色濃い地域に育ったのではなかろうか。

 

北条義政の隠棲の理由はいろいろ言われているが、いまだ本当のところは定かではない。執権時宗との確執も取り沙汰されるが、病気のため要職を辞し、隠遁したというのが妥当ではないかと考える。なぜなら得宗家との確執を抱えた実力者に、幕府が要衝の地とする場所の領有を許すはずがないからである。また国時、俊時もその後も、ちゃんと幕府の要職に就いていることも、塩田北条家が得宗家から疎んじられていないことを証するものである。さらに北条氏一族の滅亡の際(1333年)には、国時、俊時は「いざ鎌倉」と、軍勢を引き連れ奮戦し、鎌倉東勝寺にて北条高時と一緒に壮烈な自害を遂げていることも、北条家の中枢にいつづけた家系であったことが強く推測される。

 

 その一方で、この塩田平は、北条氏との関係が深まる以前から「信州の学海」と呼ばれ、信濃の学問・文化の中心地であった事実も見逃すことはできない。

 

「信州の学海」と呼ばれていた証左が、京都・南禅寺の開祖である無関普門(むかんふもん・生没1212-1292年)の塔銘(高僧の経歴)の一文に残っている。それによると信濃生まれの普門は十代の数年間をこの塩田の地で勉学に励んでいた。その塔銘には「信州に却回して塩田に館す。乃ち信州の学海なり。凡そ経論に渉るの学者とうを担ひ、笈を負ひ、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし」と、当時の学問を志す若者はこの「信州の学海」たる塩田へ遠方地からも集まっていたことが記されているのである。
 

 無関普門が講席に列した1230年前後において、すでに塩田は「信州の学海」と呼称されていた。塩田北条氏の初代北条義政が連署を辞し、この地に隠遁したのは1278年である。その半世紀前にこの地になぜそうした評価がなされていたのかという謎解きは、別途、「生島足島(いくしまたるしま)神社」や「塩野神社」などの考察とあわせ考えねばならぬことである。


 また、安楽寺に臨済宗をもたらした樵谷惟仙も、この地の別所三楽寺のひとつ常楽寺にて16歳まで学んだという記録が残されている。その後、南宋へ留学した樵谷惟仙が1246年に帰朝したのとほぼ同時に安楽寺に入っていることを考慮すると、やはり鎌倉時代の当初にはすでにこの地が信州の学海と呼ばれる高い評価が確立していたと考えるのが妥当である。
 

 いずれにせよ、以上の理由においてこの信州塩田には鎌倉時代の匂いが色濃く残り、その史跡が密集しているのである。以降、数回にわたって「信州の鎌倉巡り」を行なうことにしたい。

秋の京割烹「やました」、行って参りました=京都グルメ

割烹「やました」天下の珍味を堪能!(上)(09.1.16)
割烹「やました」天下の珍味を堪能!(下)――京都グルメ
割烹「やました」・・・京都グルメ編(08.3.14)
葵祭りの日、割烹やましたへ(08.5.21)
割烹やました・2010年の味=京都グルメ(2010.12.12)
2012年春の“割烹やました”=京都グルメ(2012.5.13)

千変万化、山下茂氏の手練の技、“2012年秋の割烹やました” に感服!!(2012.10.23)

食欲の秋!! 京都の「やました」で満喫しました。確実に体重計の針は右に振り切れました。そして翌日のお昼のそば会席「澤正」で食が進まなかった原因は、何と「やました」にありました。写真を見ていたら、こんなに食べているんだから、そりゃ、お昼は会席はないでしょう。そば一枚程度でよかったのだと深く反省しています。


突き当りが「やました」
この押小路の突当り明るい処が「やました」です

やました
やましたの表です 

 

それはそうと、今回の御奨めは二品です。

 

一品目が、何と、十月にも拘わらず鱧(はも)であります。花島氏によれば、秋鱧は脂がのっておいしいんだと言うのです。京都→夏→鱧という単純脳の持ち主には、うん?という感じでしたが、松岡さんの「今日あたりで最後です」のひと言で、「もちろん、お願いします」でした。



脂ののった秋鱧です
脂ののった肉厚の秋鱧

秋鱧の炙り
さっと炙ります
 

 

 そしてお味はというと、これは、またなんという美味!!


肉厚の炙り鱧
炙った秋鱧、美味でした!!
 

 

本当に脂がのった肉厚の鱧を思いがけずにいただいた気持ちは、もう、正月と盆が一緒に来た気分。ちょっと古すぎる表現ですが、古都京都の秋の夜です。許してください。

 

 もう一品が、京都には鯖街道なんて名前があるように、鯖鮨(これホテルにお持ち帰りしちゃったんだよね。食べ過ぎダ!!)・・・ではなく、鯖の刺身でした。これまたビックリ!! 関サバではない、若狭?の鯖でした。いやぁ、張り切って食べちゃいました。おいしかった。


鯖の刺身
鯖のお刺身
 

 

 今年最後の「やました」の夜は、いつもどおり賑やかに看板まで長居をしてしまいました。こうやって写真を見ると、またまた食い意地の張った一夜でありました。


付き出し

岩牡蠣
岩牡蠣でした・・・
松岡氏頑張るの図
松岡さんの包丁さばき
松岡氏の包丁さばき
丁寧にオコゼをさばきます

オコゼの骨抜き
花島さんがオコゼの骨抜きを念入りにやります
オコゼの薄造り
そして、オコゼの薄造りが目の前に
オコゼの骨の唐揚
残った骨もコンガリ唐揚げ、これ絶品!!
花島さんの笑顔
やったぜ、花島さんの破顔一笑!!
焼き物
これも食べてたんだ!!
新人川飛君です!
笑顔の松岡さん、新入りの川飛君をよろしくね!! 

 

そして残念だったのは、大将の山下茂氏がわれわれの訪れた日から骨折した足のボルトを抜くため入院したとのことで、一年間のお礼が言えなかったことでありました。また来年、元気になった大将の包丁でおいしい料理をいただくのを楽しみに「やましたレポート」を終わります。


番菜亭(ばんさいてい)=西麻布グルメ・地酒「元文」

ブログネタ
日本酒の旅人 に参加中!

西麻布 京料理「かねき」においでやす

黒龍しずく=日本酒の旅人

港区西麻布1-4-40

電話:03-5411-1070

 

 番菜亭は、店内改装を終えて、現在は流山市の本店、京料理「かねき」と同じ名前に統一し、変わらぬ味とサービスで篠宮板長のもとで、従来通りの営業を続けています。

 番菜亭あらため「かねき」は、星条旗通りをずっと下り、外苑西通りに出る少し前、左手にある。正面が米軍施設の星条旗新聞社である。


看板

番菜亭暖簾

板長篠宮信之氏
板長の篠宮信之氏

 

 当店は流山で「京料理かねき」(流山市流山5-19-4)を経営する渡辺昭一郎氏(月曜日のみ当店に)がオーナーであるが、大宗は篠宮信之氏が板長として包丁を振るう。料理は「かねき」の流れで、京料理を主体とする美しい盛り付けと品のよい味付けが特徴である。


鳥籠
名物の鳥籠

鳥籠の料理
鳥籠の料理

お造り

あぶり・お造り
お造りに炙りが入る心憎い演出

焼き物

揚げシンジョウ

ご飯お汁

 

 それに左党にうれしいのが、京料理にマッチした「元文」という独特の風味のある地酒が呑めることだ。「元文」は岐阜県郡上市白鳥町の「布屋 原酒造場」が蔵元であるが、その創業が元文五年(1740年)となるところからの命名である。


元文2
純米吟醸「元文」

元文裏ラベル
「元文」裏ラベル

 

 料理はお品書から一品ごとアラカルトで頼むもよし、ズボラなわたしのようなにお任せでその日の旬のものを適宜、出してもらうのもよい。それでも会計時はリーズナブルな請求額となるので、心配はいらない。西麻布という好立地で上品で粋な料理と旨い地酒で、一万円を少し出るくらいである。

 

カウンターで旨い料理をつまみながら郡上八幡の地酒「元文」を呑む、ちょっとおしゃれで小粋な感じのお店である。そして、たまにはいい女がすっと横にいる・・・などと妄想を逞しくさせる店でもある。

 

黒龍しずく=日本酒の旅人

ブログネタ
日本酒の旅人 に参加中!

「黒龍」は、霊峰白山山系から流れ出る雪解け水が濾過され、名水として湧き出る土地で造られる越前の銘酒である。その黒龍のなかでもこだわりの一本に数えられるのが、限定品の「黒龍しずく」である。


黒龍しずく

 

黒龍酒造?のHPで、その「しずく」は「酒袋より自然に滴り落ちる一滴から『しずく』と名付けられた大寒造りの大吟醸酒。透き通るように綺麗な味わいをお楽しみ下さい」とある。一献というより、まさに、その「ひと滴」に籠められた杜氏・畑山浩氏らの日本酒への想いが伝わる、雪消水(ゆきげみず)のひんやりとした透明感あふれる口触りである。



番菜亭(ばんさいてい)=西麻布グルメ・地酒「元文」
 

西麻布にある「番菜亭(ばんさいてい)」(港区西麻布1-4-40篠ビル1F)で、オーナーの渡辺昭一郎氏(「京料理かねき」の店主:流山市流山5-19-4)から薦められたレアものの銘酒であった。

 

酒造?福井県吉田郡永平寺町松岡春日1-38】は、創業が文化元年(1804年)と二百年もの歴史を有する造り酒屋である。

株式市場(TOPIX)の年初来変化率が日本のみマイナスへ

 菅直人副総理(経済財政担当)が20日の記者会見で、日本経済は「デフレ状況という認識だ」と発言した。しかし、「日銀と協力して・・・」といった発言に、現下の経済の深刻な事態に対する今後の対応を語る様子はまるで評論家のようで他人ごとであった。

 

 いま、事業仕分けで予算の絞り込みが行われている。ムダを省くのは当然のことであるが、その一方で経済がここまで落ち込んでいるなかで、早急な景気刺激策が求められていることも事実である。

 

そうしたなか、政権中枢の副総理が、しかも国家戦略を任された経済財政担当大臣が、デフレ脱却を日銀の金融政策に任せるだけで、財政面で何ら具体的な施策、方針も打ち出さないとは驚きを越えて、この人は経済の実態が肌身で分かっているのだろうかと、政治家としての資質を疑わざるを得ない。こうした宣言をするときには、具体的対応策を同時に提示し、市場の動揺を抑えるということなど、危機管理のイロハ中のイロハであろうと考えるが。

 

菅副総理はなるほど国会論戦における舌鋒には鋭いものがあるが、経済政策は口先だけでどうにかなるものではない。政権発足後2カ月を超えた今、TOPIXが年初来の変化率でマイナスになったという。G7各国の株式市場がほぼ20%から30%の伸び率を示すなかで、日本のみ▲1.07%である。それもここひと月ほどで一段と落ち込みがひどくなっている。成長地域と言われるアジア市場を見ても、中国の81.42%、韓国の42.64%、インドの76.20%、台湾の69.16%と、軒並みの大幅な伸び率に較べ、わが国の体たらくぶりが際立っているのである。

 

民主党政権発足後のTOPIXの動きを見ると、9/16931.4310/19905.8011/19837.71と直近までに9/24950.20の発足後の最高値を記録したものの、大勢は右肩下がりで下落している。発足後わずか2カ月の間でも11.2%のマイナス、特にこのひと月で8.1%もの大幅マイナスとなっているのである。

 

 市場は民主党政権の経済政策を好感していないことは明らかである。ここひと月の市場の冷たさはとくに気味が悪い。そのうえでの20日の菅副総理の他人ごとの「デフレ宣言」である。また、一段と市場心理が冷え込んでゆくことは確かである。口先の説明はもういい加減にして欲しい。無駄な公共工事を止めるのはよいが、その削った資金で経済をそれこそ自律回復させる「玄人の景気刺激策」を早急に打ち出すべきである。もう、国民と新政権とのハネムーン期間も終わりである。金の切れ目が縁の切れ目と昔の人は、よくぞ言ったものである。

宝塚花組公演「外伝ベルサイユのばら―アンドレ編」見ちゃいました!!

 東京宝塚劇場に初めて足を踏み入れた。いやぁ、この歳になってなんですが、世の中、やはり百聞は一見に如かずで、食わず嫌いは駄目ということをトコトン知らされた一晩でした。宝塚の組の名前もよく知らぬ人間が、「ベルばら」を見に行くとは、時代も変われば変わるもんだと、自分ながら感心している。


東京宝塚劇場
東京宝塚劇場

演目
外伝ベルサイユのばら

劇場大階段
劇場内大階段
 

 

 今回は「外伝ベルサイユのばら―アンドレ編」ということで、昨年初演のものであった。これからの宝塚情報はすべて、後に自宅でWikipediaで調べたものである。何せ、役者、いや「生徒」の名前すらまったく知らぬ人間だったのだから。アンドレ役の真飛聖(まとぶ・せい)やアラン役の壮一帆(そう・かずほ)の絡むくさいセリフや気障な演技も、最初から宝塚はそういうものだと覚悟して観ると、実は結構ズッポリはまってしまうのに正直、自分で驚いている。マリーズ役の桜乃彩音(さくらの・あやね)も美しくてよい、なんて、なってしまう・・・。何しろこうあって欲しいと観客が思う筋立てが、その通りに用意されているのが、何といっても心地よい。その見る者を裏切らぬ安心感が、特に昨今の不安定な社会情勢のなかでは、とてつもなく貴重なものに思えてくるから不思議だ。


exciter開演前
EXCITER!!レヴュー開演前

 

 

 またレヴューも華やかだと聞かされてはいたが、当日の「EXCITER!!★」の舞台美術の派手さや衣装のド派手さもここまで究めれば、これまた演じる者と観客の約束事であるので、それはそれで十分な納得感があった。横の家内も娘も、大勢の観客と一緒になって手拍子を打っていたのだから(さすがに私は手拍子はグッと堪えたが・・・)。

 

いやぁ、暗い世の中にもこんなに華やかで明るい世界が存在したとは、本当にビックリである。永田町の先生方もぜひ一度、宝塚へ足を運んでいただき、観劇後に劇場を後にする庶民の「安心と納得」の表情とは、こういうものなのだということを見てもらいたい。そして、そうした顔に国民がなる「安心と納得」の政治を行なって欲しいと心から願う。


終演
終演後の場内
 

 

 それはそうと、こうなると「外伝」ではなく「ベルサイユのばら」の本編を観たいと思うのは人情というものである。しかしスケジュールを調べてみて、2006年を最後にその後の公演がないことを知った。歌舞伎のように当り狂言はいつでもやるといったものではないと分かって、ガックリ!! 仕様がないから「BOOKOFFで漫画本から始めるか」と、家内と話し合ったところである。


  それにしても真飛聖って、なかなか、いいんじゃない?

ちょっと待て、強行採決、話が違うぞ民主党!!=「返済猶予法案」たった一日の審議

最近の民主党の遣り口には、率直に疑問を呈せざるを得ない。それもこれまで同党が自民党政治揶揄してきた政治の透明性という問題だけでなく、悪質性の高い隠蔽の気配なり、嘘で誤魔化そうといった国民に対する不誠実な態度が目につくのである。

 

 「中小企業等金融円滑化法案」(返済猶予法案)が衆議院財務金融委員会で審議入りしたのは18日である。その翌日の19日には、同委員会で自民・公明両党欠席のまま採決が強行された。それにつづく20日未明の衆議院本会議でも、自民・公明党などが退席するなか強行採決が行なわれた。

 

 審議日数がたった一日の強行採決にはさすがに呆れたが、その採決を強行したことについて民主党の国対委員長が「何といわれても、国民生活を守ることが大事」と語り、鳩山由紀夫総理が「強行採決というより、審議拒否だ。審議拒否みたいなこと、お互いにやるべきではない」と答えるにいたっては、もう何をか況やである。こんなやり方で国民の生活を守ってくれと、われわれは民主党に頼んだ覚えはないし、一見、誠実に見える鳩山総理の口からこんな詭弁が飛び出すなど思ってもみなかった。

 

 野党時代の言動と較べて、今回の強行採決という国会運営は呆れ返るものの、官房機密費についての平野博文官房長官の説明は、国民に嘘にも等しい不誠実で稚拙対応を行なったという意味で、悪質性高いと言わざるを得ない

 

 平野官房長官は政権発足直後の917日の記者会見では機密費について「そんなものあるんですか。全く承知していないからコメントできない」と語ったが、1ヵ月半後の115日の会見では、政権発足前後に河村建夫前官房長官から引き継ぎを受けていたことを認めた。

 

このことを好意的に見れば、野党時代の2001年に機密費支払記録作成や公表の義務化を謳った「機密費改革法案」を提出したことやその後も使途の公表を迫っていたことなどとの整合性に苦慮したことは想像に難くない。

 

しかし政権の座につくや否や「そんなものあるんですか」では、これまで同党が言ってきた透明性の高い政治とは真逆の言動であると断じざるを得ないのである。機密費に関する一連の官房長の発言は「おとぼけ」という表現ですます話とは自ずから性質が異なるというものだ。

 

国益に反するものを公開する必要のないことは、われわれでも分かる。だから正直に最初から「野党時代の機密費公開という主張は言い過ぎであった。政権を取ってみて分かった部分は大きい。国益に関する機密性が高いものについては、公開等透明性の確保については「機密費改革法案」の精神を生かしつつ、国益の担保を前提に然るべく対応する」と言えばよかったのだ。「そんなものあるんですか」は、腐った政権党の辞書にしか掲載されていない言葉であることを、平野官房長官は知るべきである。

 

 さて、政権を民主党へ、二大政党政治を選択したいとするのは、小沢一郎民主党幹事長でも、鳩山由紀夫総理の思いでもない。ほかならぬ国民がそうあって欲しいと願ったから、その一歩として政権交代が実現できたのである。しか、それはあくまでも民意を反映する透明性の高い政治を国民が期待してのことであることを民主党は忘れてはならない

 

 然るに、今、われわれが目にしている国会の状態は、自民党政権時代と何ら変わることのない光景である。野党時代から強行採決は国会軽視だと憤慨し、数による暴挙は許せぬと拳を振り上げていた政党が与党になった途端、全く同じ行動をとったさらに、来週には各委員会で短時日の審議を行い、すべての法案を一斉に通すと息巻いているという。これは、判然言って、国民に対する裏切り行為である。いやそれ以上に、声高に自民党の政治手法を非難してきた分だけ、一層、罪は重いと言わざるを得ない。攻守処を替えた山岡国対委員長が強行採決という国会運営について「国民生活を守ることが大事」と嘯(うそぶ)いたなどは、笑止千万と言うものである。

 

 さらに、小沢幹事長、鳩山総理にかけられ政治献金疑惑に絡、この強引な国会審議日程のごり押しがあるのだと言われるのも、実際に疑惑隠しと言われても致し方ないところである。

 

 政府・与党の実質的なNO1の人物に対する献金疑惑である。あらぬ嫌疑であるというのなら、堂々と国会の場、国民の目の前で説明すればよい。現在の審議時間もないような国会運営では、疑惑の目が向けられていることを何とか糊塗しようとしているとしか見えぬのは、「普通の国民」の「普通の感想」である。

 

 また、鳩山総理の、日々その傾向は強まっているようだが、暖簾に腕押し的な態度が気になる。総理のそうした言動が、国民が期待した透明で分かりやすい政治とは対極にあるものだからである。支持率が低迷を続けたかつての自民党政治のと変わらぬのである。そして、それ以上に革新を期待した分だけ、その失望感と怒りは限りなく大きなものとなってゆく。

 

 このままでは、国民の期待する自民党政治の大掃除は出来ず仕舞いで、尻切れトンボのままこの政権交代劇は水泡に帰してしまう。もう一度、民主党は目覚めて欲しい。国民目線の政治への回帰を・・・。

泊ってみたい宿、宮島・「岩惣(いわそう)」


友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜(2009.10.14)

初春の厳島神社(2008.3)

広島県廿日市市宮島町もみじ谷

電話:0829-44-2233

 

 宮島は日本三景のひとつとして昔より名勝の地として名高い。加えて、平成812月、ユネスコの世界文化遺産に登録された。その区域は、社殿を中心とする厳島神社と、前面の海および背後の弥山(みせん)の原始林(天然記念物)を含む森林区域431.2haと宮島全域の14%を占める広い範囲となっている。

 

 そうした厳島神社へ10月の「友枝昭世の観月能」のため再訪した。お能の終演が午後8時頃であるため、宮島内で宿をと廿日市市の知人に照会したところ、この「岩惣」を勧められた。厳島神社から徒歩数分の距離であり、しかも本館に泊るのがよいとのアドバイスであった(「新館」と「離れ」があるが、「離れ」は料金が高く私には無理)。

 

 「岩惣」は安政元年(1854年)に岩国屋惣兵衛茶屋として創業された150年余の歴史を誇る老舗旅館である。初代岩国屋惣兵衛が弥山麓の紅葉谷の景観を多くの人々に愉しんでもらいたいと開拓を進め旅館業も発展させたと、店の案内にある。



本館玄関前庭
岩惣本館前庭

 

 現在の玄関に当たる母屋は現地の松材である弥山木を使用し、明治25年に建てられた趣のある建築物である。そこに岩惣の受付はあるが、いわゆる旅館の番頭さんが出て来られるのがその玄関内の和風の控室と相まってまことに心持ちよい。客は受付の手続きの段階から自然に昭和初期の世界へといざなわれることになる。


岩惣本館
岩惣本館正面

岩惣本館玄関
岩惣本館の玄関
旅館受付
趣ある受付
受付脇のつくばい
玄関を入ってすぐ左手にある蹲(つくばい)

 


 そして母屋に続く本館は昭和初期の造作で五室のみの和室を備えるが、われわれはその一室「養老の間」に泊った。夕食はお隣の「牡丹の間」でいただいた。

 

 ひんやりとした和室に足を踏み入れると、正面縁側の硝子窓が目に飛び込んで来る。木枠の、あの昭和30年代の家屋にあった硝子戸である。それを開けると木目のくっきりと美しい勾覧がある。

養老の間
養老の間
縁の間
縁に置かれた椅子と木枠の硝子戸
2009_10160910月14日厳島・京都0283
木目の美しい勾覧
懐かしい鍵
懐かしい硝子戸の鍵

そこに肘をつき目を戸外に向けると、視界を遮るほどにモミジ葉が美しく、高みには赤松の大木が見える。その下には小川が流れ、対岸の石灯篭が興趣をそそる。まだ紅葉には早かったが、これが全面に色づいた時には、この室内も紅色一色に染め上げられるかと思わせるほど間近に紅葉がひしめいているのである。


窓から紅葉が
紅葉の雲海
部屋から赤松の大樹と紅葉
高みに赤松の大木
部屋から石灯篭が見える
小川の向こうに石灯篭を望む

 

 多分、この景観を目にした客はきっと再度の予約を入れるに違いないと確信した。モミジの葉叢と等しい目線で縁側の椅子から紅葉狩りをする、そのポジションは京都や紅葉の山を歩くのとはまた異なった風情を愉しめると思った。まるで「茜色の海」に身を沈めるような不思議な感覚に陥るのではないかと想像したのである。人手の多いのが苦手な方には、ここの縁側からの独り占めの絶景スポットはとりわけお奨めである。

 

 また、裏山?の弥山(みせん)に登り、瀬戸内の海と中国山脈や四国山脈を一望にした後に、ラドンを含んだ温泉につかるのもよい。われわれは実際には翌日の午前中に登ったのだが・・・。

 

 さらにこの旅館は外人客の姿が多いのに驚く。仲居さんに訊くと、多いときは宿泊客の半分が海外からの客という時があるとのこと。現に、翌朝、ひとりで温泉に浸かっていると、イタリアとベルギーからの客がひとりずつ入ってきた(各々、2〜3週間の休暇を取っての初来日とのことであった)。そして弥山や厳島神社を歩いていて気づいたのだが、ここは英語圏の外人が少なくヨーロッパの人が2、3人ずつで観光しているのが印象に残った。海に浮かぶ朱色の「テンプル」と彼らの呼ぶ神社(シュライン)がヨーロッパ人好みなのだろうか、それとも向こうの旅行代理店が世界遺産の宮島をうまく宣伝しているのかしらと考えてみたりした。それほどにEU圏の観光客が目につくのである。弥山でどれほどのスペイン語?やフランス語、イタリア語を喋る健脚の外人たちに追い抜かれたことか。温泉で顔見知りとなったベルギー人が汗だくの私に気づくと、「ハ〜イ!」とにこやかに手を振って軽やかな足取りで追い抜いて行った。

 

 さて、最後になってしまったが、料理の方は牡蠣の季節に早いのだとかで、いわゆる旅館料理であった。ただ、お部屋に一品ずつ運んでいただけるので、温かいまま口に出来、おいしかった。とくにその日は、野外観劇であったため体が冷え切っており(家内はさっと温泉に入ったが、私は熱燗で内から温めることにしたのだ)、とくにうれしかった。


先付け前八寸
   先付け           前八寸

お造り鰆杉板焼き
   お造り           鰆杉板焼き

煮物進肴
   煮物         進肴


強肴松茸ご飯
 強肴          松茸ご飯

水菓子
 水菓子

 

 そして、次回は観月能の開演日ができたら紅葉の見頃のときに重なるといいのにねと、手前勝手で欲張りな話を家内としたものである。


 さらに夕食の時間を能の終演に合わせて午後9時という遅いスタートに快く応じていただけたこと(夕食は午後6時から8時まで)や当店の土産に置いていないモミジ饅頭の取り寄せ(「岩村もみじ屋」)など融通を利かせた接客サービスには、仲居さんの細やかな気遣いや丁寧な対応と合わせて、とても気分のよい宿であった。

「事業仕分け」に見る、民主党の幼児脳と視野狭窄=スパコンにNO?

民主党の行政刷新会議による来年度予算の「事業仕分け」が、連日、公開の場で、熱っぽくというよりずいぶんと乱暴なやり方で進められている。

 

そのなかで、13日には、独立行政法人の理化学研究所が行っている次世代スーパーコンピューター(概算要求額約270億円)の開発について、蓮舫民主党参院議員らが「財政難のなかで大金をかけて世界一の性能にこだわる必要性があるのか」、「一番だから良いわけではない」などと指摘、事実上のNOが突きつけられた。

 

理化学研究所理事長でノーベル化学賞受賞者の野依(のより)良治氏は「(スパコンなしで)科学技術創造立国はありえない」と憤慨しておられるというが、まことにもっともな怒りである。

 

民主党は技術の何たるか、技術立国の意味の重さがわかった上での判断であるのか、正直、同党の目指す国家ビジョンに対して大きな不安を覚えざるを得ない。

 

刷新会議のメンバーは、一部の国内コンピューターメーカーがこの共同プロジェクトから脱けたことなどから、プロジェクトの採算性がない、費用がかかり過ぎるといった理由からNOを突きつけた。

 

今、その礎を築かねばならぬプロジェクトについては、国家百年の大計のため、民間ではリスクが大き過ぎるからこそ国家が主導的立場で行うのではないのか。民間で採算がとれないからこそ、国が行うのである。

 

行政刷新会議は税金の無駄遣いをトコトンなくすのだと、意気込んでいるのは分かるし、それをやってもらわねば政権交代の意義の大きな部分はなくなる。しかし、ただ、予算をぶった切ればいいというものでないことも、当然のことだとわかっているはずである。

 

不必要な支出、無駄をなくして、必要な分野へは投資を行なう。そのメリハリがついてこその「事業仕分け」のはずである。スパコンの開発をストップするのなら、なぜ、多すぎる国会議員の数を真っ先に削減しないのか。どう考えてもやるべきことは他にまだまだあるはずだ。

 

こんな「削減ありき」の魔女狩りのような光景を見せつけられると、現政府は、本気で、この国の未来の発展・繁栄を保証し、若者たちが世界で活躍する舞台を用意してあげるつもりなのだろうかと不安に駆られてしまう。

 

スパコン開発に「駄目だし」するなどという暴挙は、自ら日本の未来への夢を切って捨てるようなものであり、未来を背負う若者の夢を奪い去るものであると言わざるを得ない。

 

民主党はマニフェストの詳細版である「政策集INDEX2009」のなかで「科学技術人材の育成強化」の項目において「研究者奨励金制度を創設するとともに、国内の優れた研究プロジェクトへの支援を強化します。また、研究者ビザの拡充など優れた外国人研究者がわが国に集まる環境をつくります」と言っている。

 

しかし、次世代スパコンの開発は、「国内の優れた研究プロジェクト」ではないと事業仕分けは断定した。そして、こんな貧相で劣悪な研究環境を作ることが、「優れた外国人研究者がわが国に集まる環境をつくります」ということだとすれば、それは狂気の沙汰と言うしかないし、そう思っていないのであれば、民主党は視野狭窄の幼児性の脳みそを持った集団であると、残念だが断じるしかない。

 

野依(のより)良治博士ではないが、怒りで震えが止まらぬような気分を久々に味わった夜である。

女性客に人気の新橋「美の(よしの)」!!――新橋グルメ3

ブログネタ
日本酒の旅人 に参加中!

美の(よしの)---新橋グルメ 2


港区新橋5-9-5 NTビル 1F

03-5733-1853


昨年、8月にこの「美の(よしの)」を紹介してから13ヶ月が経つ。その記事において「日本酒の旅人」なる共通テーマを立てた。


美の
「美の」表札

美の外観
「美の」外観

揮ごう


 

 その後、「美の」で戴いたレアものの日本酒は枚挙に暇がない。にも拘わらず、ブログにUPすることを怠るうち写真だけがHDDに貯まり、そのプレッシャーに押しつぶされそうに?なった。いや、いや、まことに面目ない次第である。そこで、そうした過去の食材、いやもとい、贖罪の気持ちを込めて、最近の「美の」についてご報告しよう。

 

 この一年余で特に最近、顕著に感じることは、お客の層に変化が出てきたということだ。それは女性客だけで訪れる光景が増えたことである。最初に「美の」を知った時分は、まだ女性連れの男性客やグループのなかに女性が入っているといったケースが大半であったが、最近は明らかに女性客だけで利用するケースが増えている。これって、やはり女性社会の本格的到来の証なのだろうか。新橋の小暗がりから、静かに、しかも確実に地殻変動は起き始めている・・・。

 

秘密基地をこよなく愛する男にとり、この微かな変化を見逃すわけにいかない。これこそ、狡猾な宇宙人による地球侵略の兆しに違いないのだ。だから、今後、「何気ない」を装った変化の裏に隠された宇宙人の大謀略について秘密裡に内偵を続けねばならない。わたしのミッションも本当に大変である。ただ、愛する日本酒を呑んでいればよいといったものではない。地球防衛の為、心血を注がねばならないのであるから・・・。


地球侵略の準備中
地球侵略の準備中
大人のムード
大人のムードたっぷり・・・

 

 今回、その宇宙人の謀略が静かに進んでいる要因についてまとめてみた。何故、女性客が増えたのか・・・

 

1.  値段が手頃で安心感がある

  コース料理が基本で、3,500円ポッキリ(コースは下に写真つきで紹介)

  お酒を結構呑んだなと思ったときでも、料理込みでまず6千円以内で収まる

  料理の食材に比して3,500円という値段が信じられないという「お得感」が、特に財布に敏感な女性の心を鷲掴みにしている

2.  マスターの造る創作料理がお洒落で味が上品である

3.  メニューが細やかに旬を追って変わり、厭きが来ない

4.   お客主体の皿出しでさらに客の要望に肌理細かく応え手間を惜しまないサービス(薄味・焼き魚の素焼き・料理を出す間隔が緩急)

5.  女性客に好まれる日本酒やワインなど和洋を問わぬアルコールに加えノンアルコール類とヴィヴァレッジの品揃えが豊富

6. ライトダウンされた店内は落ち着いた雰囲気を醸し出し、「大人の女性」を意識させる・か・な?

 

 【1110日(火)のメニュー】

 

 
1.           
前菜:ウニと変わり豆腐・ワカサギの天麩羅


ウニと変わり豆腐

ワカサギの天麩羅


2.           
造里:かんぱち・真鯛


かんぱち・真鯛


3.           
汁:鳥つくねと高野豆腐


鶏つくねと高野豆腐



4.           
焼物:鰆の塩焼き


特製鰆の素焼き
   私は、素焼きにしてもらい、檸檬をかけて食べました

5.           


秋刀魚の梅巻き


6. 揚物:里芋の揚げ饅頭温皿:秋刀魚の梅捲き          


里芋の揚げ饅頭


7.           
御飯:ワラサの土鍋御飯・味噌汁

 

ワラサの土鍋ご飯

味噌汁


 

 このコースの質と味(これは実際に「美の」で試してね)で、¥3,500というのは、どう考えても安いというのが、相も変らぬ感想である。ひょっとして「Boss」の佐川美雄氏が秘密のミッションを負った宇宙人なのかも知れぬ。いや、この値段、地球侵略の謀略に違いない、きっと・・・。

 

 閑話休題。ところで話は突然に当夜の日本酒に移る。供された日本酒は、次の三種類であった。種類をいくつか呑みたかったので、マスターが半合ほどずつ小分けに供してくれた。余は満足であった!!が、その安心が危ない。相手は宇宙人であった・・・。

 


日高見:吟醸うすにごり生原酒(平孝酒造:宮城県石巻市清水町1-5-3


ラベルがシルバーという写真の撮りづらい特徴的なお酒です。季節限定の酒で、わたしに「美の」をいっぺんで惚れ込ませた一品です。南部杜氏の酒で、次の「志太泉」も南部杜氏のお酒です。品のよい爽やかな喉越しが特徴です。
保存の良い「吟醸うすにごり」を真夏に呑むのは至上の気分です。

 

日高見


志太泉:大吟醸原酒(志太泉酒造:静岡県藤枝市宮原)


平成
14年度醸造酒(H13BY=平成137月から平成146月までに醸造された酒という意味)というヴィンテージの一品で、馨りは華やかで爽やかという超レアものでした。


志太泉


 

   くどき上手:純米大吟醸「美郷錦」(亀の井酒造:山形県鶴岡市羽黒町戸野字福ノ内1


これは銘々の「くどき上手」に違わぬフルーティーな味わいで、しかもキュッとキレのあるお酒です。女性と一緒だと何かを予感させる・・・な〜んて、オジサンにはあまり縁のないお話でした。


くどき上手



 

 

 以上、「日本酒の旅人」のUPとも併せ、久々の新橋グルメ「美の」の再登場でありました。そして、地球防衛軍としてのミッションである、報告をさせていただいた。

 

そして、この報告を書き終えて、次に「美の」を訪ねる際は、決して宇宙人たるマスターに心を見透かされぬように細心の注意を払わねばならぬと覚悟を新たにしたところである。

民主党は「天下り全面禁止」原理主義を見直すよい機会=官僚OBの人事官任命

  谷公士(まさひと)前人事院総裁の任期途中での辞職(911日)により空席となった人事官ポストに、民主党政府は114日、江利川毅前厚生労働事務次官を充てる同意人事を国会に提示した。

 

 民主党はかねてより脱官僚を強く訴え、政権奪取後もそれを強く意識した政権運営を行なおうとしている。

 

 また政権交代を許した国民の意識の内に、省益あって国家なしの縦割り官僚主義の弊害や「渡り」を含めた天下りに対する批判など、国政を自在に扱う官僚主導政治への不信や反感があったことも確かである。

 

 そして、自民党政府時代の20083月、日本銀行総裁の同意人事において、武藤敏郎副総裁の昇格を同氏が元財務事務次官であったことを理由に民主党参議院が反対し、成立しなかったことはまだ記憶に新しい。そのときは大手新聞各社も民主党の対応に異を唱えたが、結局、中央銀行総裁が20日間にわたり空席になるという国際的にわが国政治のガバナンスが問われる事態を招来した。

 

 そうした国内外の顰蹙をかってまで、脱官僚、反官僚を主張してきた民主党であるが、この臨時国会の閣僚答弁や新年度予算作成において、霞ヶ関の全面協力を得られぬ民主党は悪戦苦闘している。

 

実際問題として、行政府の手足となるべき官僚組織のサポートなしに日々の行政サービスはありえぬし、必要に応じての緻密な国会議論も為しづらい。理念で政治を語ることは出来ても、国民生活を理念のみで守ることが出来ないのも道理である。

 

 国会同意人事事項ではないものの、斉藤次郎元大蔵省事務次官の日本郵政社長就任については、天下り全面禁止の基本方針と矛盾するとの批判が噴出した。それに対する平野博文官房長官の説明はしどろもどろであり、日銀総裁同意人事の反対理由と一体、どこが違うのか判然としない。

 

 しかも今回の人事官任命は国会同意人事である。「一番、公務員の実態を分かっている方が好ましい」という平野官房長官の説明だけでは、これまでの自民党政権時代に何が何でも官僚OBは反対と強弁してきた姿勢との乖離は大き過ぎる。

 

 わたしは、だからと言って、官僚OBを就任させるこの人事がおかしいと言いたいのではない。天下りがおよぼす弊害や官僚が実質的に主導する政治のあり方が問題であって、その解決策は早急に講じるべきであるが、そのことと、「官僚であった過去」がその人物のその後の職業選択まで奪ってしまうあり方は、おかしいと考えているのである。

 

 優秀な人材であり、その適性が活かされるのであれば、わたしはこうした公益性の高いポストに官僚OBが就くのも、何ら差支えはないと思っている。

 

 要は、役所からの仕事の受注とのバーターとしての天下りや、ただ「禄を食む」ためのトンネル機構的、OB受け皿組織的な独立行政法人や渡りなどが問題なのであって、本当に必要な仕事をテキパキこなしてくれるのであれば、前職や経歴がどうであろうと、適材適所でやればよいのである。

 

 逆に、有能な人材をただ官僚OBであるからといって排除する社会こそ、教条主義が支配する怖い社会であり、非効率な社会であると考える。

 

 今回の江利川毅(えりかわたけし)前厚生労働事務次官が、人事官としての適性があるかどうかは分からぬ。しかし、「天下り全面禁止」の主旨は、その弊害や国民の不利益になることは是正し、解消しようということであって、何が何でも官僚OBは全てダメという、魔女狩りを推奨するものではないはずである。

 

 民主党も政権の重責を担ったことで、官僚の優秀さや使い道も見えてきた部分もあろう。ここらあたりで、国民にとって利益をもたらす官僚の活用については、一歩、踏み出してもよいのではないかと思う。今回の同意人事がそのよい機会なのではないだろうか。「君子豹変す」でも良い、「朝令暮改」でも良い。つまらぬ詭弁を弄することなく、民主党は国民に利すると判断したときは、前職に拘わらず適材適所で同意人事を国会に提示すると、この機会に「臨機応変」で堂々と宣言すればよいのである。

京都そば茶寮「澤正」の創作そば会席を試した

八ッ橋発祥の老舗・本家西尾八ッ橋の懐かしい味=旅人の見た京都のお菓子(2016.9.24)
“Creme de la Creme(クレーム・デ・ラ・クレーム)”の“京野菜シュー”が旨い=旅人の見た京都のお菓子(2016.9.14)

京都市東山区今熊野剣宮町33-22

電話:075-561-4786

澤正暖簾
澤正玄関の紫暖簾

 

山科方面の勧修寺(かじゅうじ)や随心院を訪ねるに際し、お昼を「澤正」でいただいた。「澤正」は明治42年創業のそば菓子処で「そばぼうろ」は当店の商標登録だそうだ。今回、訪れたそば茶寮は数年前に菓子処から5、6分のところに昭和初期に建てられた和風家屋を舞台装置として始めたという。

 

店の前まで車で乗り付けることはできない。足元が少々不如意のわたしにはアクセスにやや難があったことと、その後、入店した建物の造りと車から店までのアプローチの無粋さに正直、落差を禁じ得なかった。


しかし、店の前に立つと鮮やかな紫色の暖簾が美しい。暖簾をくぐり屋内へ一歩、足を踏み入れれば、昭和初期のハイカラとはまさにこうした造りとインテリアだったのだろうと思わせる演出であり、これはこれでよいのだと思った。

窓際の席でした
窓際の席で景色も楽しめました
澤正ご用達の陶芸の皿はいかが
澤正用達の陶芸皿も売っています
作務衣姿で料理の説明
作務衣姿で料理の説明をしてくれます

 

今回は家内とわたしの二人旅であったので、事前に3800円の創作そば会席を予約していた(そば会席は二人から。前日までの予約が必要)。われわれの席は窓際の縁側風のところにあり、外の竹藪が見えてなかなかの風情であった。また、懐かしい硝子戸でクルクル回す折れ曲がる真鍮製の鍵に気づいた時には、料理への期待よりもこの硝子戸に強烈な郷愁を感じたものである。

窓から竹藪の風情
硝子戸越しに竹藪を見る

豊穣月のお献立
テーブルには豊穣月のお献立が

さて、そば会席はその名の通り、「創作」尽くしの目新しいものであった。蕎麦を素材にしたにも関わらず、和風ではなく、この館がかつて迎賓館として使用されたことを想起させるような、洋風会席を創り上げた料理人に敬意を表したい。
とくに、八寸に代表される一品ごとの色づかいと、細かい手作業、蕎麦という素材を存分に駆使した料理には、本当に頭が下がった。蕎麦の出来は腰もしっかりとし、わたしの好みに入るものであった。

八寸の図
八寸の図が美しい
八寸人参の和スープ
八寸:人参の和スープ
林檎と鳴門金時の甘酢漬・カナッペ・春巻き
蕎麦パンのカナッペ・野菜の春巻き・林檎と鳴門金時の甘酢漬
銀杏と松の実と葡萄の白和え
銀杏と松の実と葡萄の白和え
茸と山東白菜菜のお浸し
木の子と山東白菜菜のお浸し
匠の技
南瓜のニョッキ:柿のヘタや紅葉もそば粉で作る匠の技
温鉢
温鉢:小芋と紫ずきんの揚げ饅頭(そば餡仕立て)
小鉢・更級変わりそば
小鉢:更級変わりそば(そばの実の芯の白い部分)・白葱のマリネ
揚物
揚げ物:椎茸のクリームコロッケ
手打二八そば
手打ち二八そば
腰がしっかり、喉越しがよい
腰があっておいしい
温かいそば(選択可)
温かい汁そばもあります(選択可)
蕎麦ごはん
ちょっと重い蕎麦ごはん
そばの栗餅
そばの栗餅:おいしかった!!

 まぁ、若い人であればお昼でもこれぐらいの量は何ともないのだろうが、そば会席というには、やはり少々、胃に重すぎる献立であった。また、わたしには揚げ物の椎茸のクリームコロッケは不要であった。いつも思うことだが、天麩羅とは異なりこの手の洋風油ものはどうも、蕎麦料理にしっくりこない気がするのである。

 

さらにあえて難を申せば、お昼のメニューとしては3800円のコースでも量が多過ぎて(他に5700円のコースがあった。夜は5500円と7600円の2コース)、かなり後半は半分くらいしか口に入らず、また蕎麦の後の御飯は余計である。それと、旅行客には二時間という昼食の時間は、少々、長すぎたというのが正直なところである。逆にそのことは、それくらいゆっくりと時間をかけて堪能すべき料理であったということである。

お昼は、単品物が注文できるというので、今度は純粋に蕎麦を楽しみに行ってみるのもよいと思った。


何はともあれ、前日の夜を軽めにするなり、朝食を超軽めにするといった工夫が必要であったと、このたびは反省したところである。


またのお越しを!
また、お越しやす!!(表札:澤田正三氏) 

 
でも、昭和レトロの空間で作務衣の従業員に料理の内容の説明を受けながら、木枠の硝子戸越しに竹藪を眺めての昼食は、それなりに京都の風情が楽しめて良ろしおしたえ!!最寄りのお寺の泉涌寺や東福寺へ参拝する際、時間に余裕のある方は、ぜひ、一度、お試しになってはいかがでしょうか。


小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 弐

小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 壱

随心院・小町和歌石碑

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

さて、いよいよ随心院所縁の小野小町の話題に入ることにする。

 

小野小町は、言わずと知れた六歌仙や三十六歌仙に名を連ねる才色兼備の天才歌人である。また、古今集仮名序において「(小町は)いにしへの衣通姫(そとおりのいらつめ)の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と、美女を輩出する家系の末裔といった紹介がなされている。【衣通姫:日本書紀に「(応神天皇の孫にあたり)容姿絶妙で、その美しさは衣を透して輝いた」とある美女】

 

だが、それほどの人物でありながら、生没年や素性において確かな記録が残っておらず、その一生は謎に包まれている。逆にその薄絹に覆われたような小町の一生だからこそ、深草少将(四位少将)の「百夜通(ももよがよい)」や「髑髏小町」など諸々の伝説を生み、古来、浪漫の心を掻き立て、魅惑的な女性、人の世のはかなさを具現する人間として日本人の心のなかに生き続けているとも言える。


 この随心院には小町縁の化粧井戸や文塚などがあり、物語性豊かな山科の小野の郷を堪能できる。邸内を出て、外塀をぐるりと一周することになるが、小町の謎めいた一生に少しでも触れられたような気になるので、ぜひ、時間に余裕をもって廻ってみられることをお勧めする。

化粧の井戸案内板
小町の化粧井戸への案内板(この辺りが小町の屋敷跡と伝わる)

化粧井戸石柱
化粧井戸の石碑

小野小町化粧井戸
思ったより大きく深い井戸でした。ここの水が小町の美貌を作った

随心院外周・先に小町文塚
随心院の南外塀の小道(この先、左に曲がると文塚)

随心院外壁・斜め前に文塚
外塀を東に廻り込むと、趣のある土壁となる。斜め対面に文塚

正面に文塚
正面に文塚がある

文塚説明書き
文塚の説明書き

文塚
文塚:この下に千束の恋文が埋められ、供養されているという

金堂跡地宝搭
文塚手前にある、かつての金堂跡に建つ宝筺印塔(ほうきょういんとう)

 

 そして、こうした小野小町を身近に感じたのち、「能」の世界に目を向けて見ると、物語では華麗な前半生と対極にある老残の小町が描かれているのみである。「卒都婆小町」、「通小町」、「関寺小町」など老婆となった小町が題材としてなっている。絶世の美女の時代を中心に扱ってはいないのである。 

 それは、そうした小町を描くことで「明」から「幽」へ、「幽」から「明」へとその「裁面」・「境」はないのだということを、愚かなるわたしに教えてくれるようである。また小町という絶世の美女の老残と落魄を舞台で見せることで、形あるものは必ず「無」となることを、目で実感させてくれるとも言える。

 

 こう理詰めで考えて見れば、「能」の世界に生きる小野小町とは、「幽明」両界は薄絹一枚ほどの堺もないのだということを伝えるのに最適な人物の一人なのであろう。

 

しかし、凡夫のわたしは随心院を紹介するにあたって、あえて冒頭で、次の歌を紹介した。

 

あかつきの 榻(しじ)の端書き 百夜書き 

君の来ぬ夜は われぞ数書く

 

この歌は上の句を深草少将が、下の句を小町が詠んだという伝承が残るものである。深草の少将が誰かもハッキリしていないのに、こんな歌があるものかと頭では分かるのだが、やはり心ではこんなことがあってもいいんじゃないのかと、思ってみたくなるのである。


百夜通の榧の実
院内に飾られる99個の榧の実(数を数えるため数珠にした穴があいている)

小町榧(かや・古木)切株
小町榧の古木の切り株


 

何とも、ロマンに満ちた心の通った言い伝えではないか。

 

ちなみに、この歌の本歌というより、元歌は古今集の巻15に収録されている。詠み人知らずで、「暁の鴫(しぎ)の羽がき百羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく」という歌である。冒頭の和歌は、その異伝であり、「奥義抄」「袖中抄」などに引用されているという。

 

 また、この歌を信じてみたい方は、深草の少将の住まいだったと伝わる墨染欣浄寺(ごんじょうじ)(京都市伏見区西桝屋町1038)から随心院までは距離にして5、6キロ、徒歩で1時間半ほど。ぜひ、一度は「少将の通い路」を歩いて、「百夜通」の恋の路をお試しになってはいかがであろうか。

 

小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 壱


小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 弐

随心院・小町和歌石碑

随心院庫裡前の小町歌碑

薬医門
随心院門跡薬医門・築地塀の五本の定規筋が美しい

京都市山科区小野御霊町
35

 

あかつきの 榻の端書き 百夜書き 君の来ぬ夜は われぞ数書く

 

 

 随心院は、そもそも平安時代正暦二年(991年)、弘法大師第八代の法孫である仁海僧正が一条天皇からこの小野の郷に寺地を下賜され、建立した牛皮山曼荼羅寺をその前身とする。

 

 その牛皮山曼荼羅という古名は、仁海僧正が亡き母が牛に生まれ変わったことを夢見し、鳥羽の辺りに牛を探し求め、孝行を尽くした。その牛が亡くなり、供養として牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描き、本尊として祀ったことに由来する。

 

その後、当山第五世の増俊阿闍梨が塔頭として随心院を建立した。さらに第七世親厳大僧正が後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り(1229年)、爾来、随心院門跡と称されることとなった。最盛期には七堂伽藍を擁するほど隆盛を誇ったが、承久應仁の兵乱(14671477年)の最中にそのすべてを灰燼に帰した。その後、百二十年程の歳月を経て、慶長四年(1599年)に本堂が再建され、以後、九条、二条の両宮家より門跡が入山することとなり、その支援の下、再興のみを歩み現在に至る。


庫裡入口
唐風庇の庫裡玄関

庫裡内
庫裡の太い柱と素朴な梁

 

 当院の拝観者は庫裡より入るが、この建物は1753年に二条家より、その政所が寄進、移築されたもので、切り妻の大屋根と唐風造りの庇が特徴的で面白い。また中へ入ると重厚な柱や素朴で太い梁にまず目を奪われる。そこに随心院やそこに帰依する宮家の、ながくて浮沈の多い歴史の重みを感じずにはいられない。


大玄関から薬医門を


 

本堂へ向かう途中、薄暗い大玄関式台から秋の陽射の注ぐ薬医門が真直線に見えるが、その穏やかな様子が心地よい。そして表書院の廊下へ出ると、ふくよかな緑色の大杉苔を一面にまとう庭園が目の前に広がる。その視線の先、長い廊下を直角に右へ曲がった処に本堂が見える。



 襖絵に四季花鳥図を描く表書院を覗き、次の間となる「能の間」で腰を下ろす。緋毛氈の敷かれた廻廊越しに観る庭は、漆喰壁の白を背景とした霧島ツツジやモミジの緑、塀瓦の鼠色の先に広がる真っ青な秋空・・・、その色彩のコントラストにおいてわたしが好む景観のひとつである。



表書院より本堂を望む
表書院廊下より本堂を望む

洛巽の苔寺と呼ばれる大杉苔
洛巽の苔寺と称される見事な大杉苔

能の間より庭園を観る
能の間から庭園を眺める

 

 本堂には護摩壇正面に本尊の如意輪観世音菩薩坐像(鎌倉時代の作)が鎮座する。その両脇に重要文化財に指定される阿弥陀如来坐像(定朝作)、金剛薩捶坐像(快慶作)らが並び、真言密教の世界が堂内の空間に密やかに存在する。折しもその日のお勤めが始まろうとしていた。われわれは堂内から三段に分かれる前廊へ出て、突き当たりから池泉を眺めた。池には鯉がなぜか一直線に粛々と泳いでいたのが印象的である。山科の静かなお寺には心鎮まる時の流れがふさわしいとつくづくと感じた光景であった。


本堂より能の間・書院を
本堂前廊から表書院、能の間を見る

本堂廊下より池を望む
一列に泳ぐ鯉、一途な深草少将の恋の想いか・・・



民主党政権が政権交代でやるべきことは何であったか?

八ッ場(やんば)ダム建設中止の大きな意義(2009.9.24)
  
民主党、政権交代=静かなる革命は成就するか?(2009.9.5)

政権交代! Yes or No?(2009.8.14)
  
  民主党への期待が心の中で急速にしぼみ始めている。政権交代でわたしが望んだのは、長年の自民党政治、官僚支配政治による利権構造の洗い出しとその解体にあり、無駄遣いをなくし、国民の幸せの向上のため効率的に税金を使う政治を行うことである。

 

 然るに最近の民主党政府の発言を見ると、どうもその根本のところが違ってきているように見える。もう一度、政権交代を求めた国民の真意を再確認して欲しいのである。

 

 最近の報道各社の世論調査では、マニフェスト実現よりも赤字国債増発を慎重にすべきだとの回答が多数を占めている。マニフェストに書いてあるからと言って、直ぐにすべてを行なわねばならぬ訳ではなく、また、すべての政策を国民が容認したわけでもないことを、民主党は理解すべきである。

 

 それは民主党がこれだけの大勝をしたのは、加藤紘一自民党元幹事長がいみじくも予算委員会で語ったように「民主党が総選挙で勝ったのはマニフェストのためではなく、自民党のオウンゴールだった」のだから。

 

 そしてマニフェストは、高速道路の原則無料化(1.3兆円)や子ども手当ての創設(5.3兆円)、農家等の戸別所得補償制度の導入(1.4兆円)、公立高校の実質無償化と私立高校生の学費支援(0.9兆円)など、さまざまな分野での無料化や手当の支給を謳っていた。

 

ただ総選挙前から自民党や国民もその財源についてはどうするのか、現実的なものを示せと問い質してきた。それに対し「埋蔵金や行政の無駄遣いを洗い出すことで可能だ」と、民主党は反駁してきた。

 

実際にマニフェストでは、子ども手当、公立高校の無償化など民主党の新政策実行に、平成25年度までに16.8兆円の所要財源に対し、「国の総予算207兆円を徹底的に効率化。ムダ遣い、不要不急な事業の根絶」で9.1兆円(以下、平成25年度までに目標値実現)、「埋蔵金の活用や政府資産の売却」で5.0兆円(同)、「すべての租税特別措置法の見直しと配偶者控除・扶養控除の廃止による公平で透明な税制を創る」で2.7兆円の合計16.8兆円を充当できるとした。

平成25年度までで新政策の実施による支出増は、赤字国債なしで行財政の見直しにより帳尻が合う形となっているのである。

 

これからの4年間で政策を実施するのに際し、財源の大宗(84%)は徹底的な行財政改革によって捻出する形となっていた。税制改正による財源捻出は、租税特別措置の見直しや配偶者控除による16%であったのである。消費税はあらたな年金制度の設計議論のなかで行われるというのが、わたしの理解であった。

 

自民党政治の利権構造の下で行われていた税金の不公平な使用を抜本的に見直し、税金の無駄遣いをやめさせるのでどうか政権を取らせてくれ、民主党はそう主張していたのである。だから、国民も、「そうだな、自民党では難しかろう」と、政権交代を認めたのだ。

 

 しかし、来年度予算の95兆円にものぼる概算要求といった政権運営を見ていると、マニフェストの諸策を盛り込む予算作成を急ぐあまり、そもそもの国民との約束がなおざりにされ始めていることに危惧を表明せざるを得ないのである。

 

わたしは膨大な財政赤字をなくしてゆくのに奇策はないと考える。経済の早急な回復と、民主党の言うようにまずは税金の無駄遣いの徹底的な排除を行うべきである。最初に手をつけるべきは、行政の無駄遣いに大ナタを振るい、乾いた雑巾を絞り込むようにそれをトコトンまでやるのが、民主党政権に期待された責務であったはずである。

 

その無駄遣い排除の進捗を見ながら、政策ごとに優先順位をつけ、逐次、マニフェストに謳った諸施策を、再度、国会で本当に必要かどうかを議論しながら実施してゆくのが、筋と言うものではなかろうか。

 

そして、本当に必要な政策を遂行するに際し、最後に財源が足りないとなって初めて「公平で透明な税制を創る」の2.7兆円の財源手当ての議論になるのではないのか。わたしは財源捻出の手順もそのように理解していた。

 

そう思っていたところが、現在の予算議論は、消費税はさすがに俎上に上らぬが、税の見直し議論の方が次から次へと湧き上がり、活発化しており、正直、戸惑いが隠せないでいる。いまの時期は、まさに民主党あげて自民党政治の無駄を次から次に暴いていっている最中ではなかったのか。

 

まだ政権発足というより政権交代後、わずかに50日弱である。何も政権公約を急ぐ必要はない。「民主党政権が政権交代でやるべきことは何か」を、再度、足元を見つめ直して欲しいのである。国民がまず求めたことは何かを。

 

それを真摯に、誠実に、愚直にやってゆけば支持率は後から必ずついてゆくのである。

 

173回臨時国会がいよいよ1026日に召集され、112日から衆議院予算委員会が始まった。その討論のなかでもよい、民主党には、もう一度、政権交代の本来の意味を問い直して欲しいと切に願うのである。

 

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参

次に、六条河原院の実際にあった場所の一画であるとされるのが、地名に塩竈の名を残す一帯である。そこに本覚寺(下京区富小路通五条下る本塩竈町558)があるが、六条河原院の「塩竈の第(だい=邸宅)」があったところだと云われている。所縁の塩竈は宮城県の方に移されたのではとお寺さんは説明されていた。

 

本覚寺石碑
本覚寺石碑

本覚寺立て札
本覚寺立札

本覚寺
本覚寺(もう閉っていました)

そしてその対面に上徳寺(
下京区富小路通五条下ル本塩竈町556)が建つが、現在では境内の世継地蔵の方が有名であるという。


上徳寺立て札
上徳寺立札

上徳寺本殿
上徳寺本殿

2009_10160910月14日厳島・京都0980
上徳寺境内
 

 

両寺とも拝観時間を過ぎてしまい、内部を見せていただけなかったのが残念であるが、門前の立札に由緒書きがあったが、「通り」の景色に融の霊を感じる風情は一片もなかった。兎にも角にも、本塩竈(もとしおがま)という地名と上徳寺の山号「塩竈山(えんそうざん)」にわずかにその縁(よすが)が偲ばれるのみである。

 

 最後に訪ねたのが、能「融」のなかで「あれこそ籬ヶ島(まがきがしま)候よ、融の大臣(おとど)常は御舟(みふね)を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし」、「籬ヶ島の森の梢」と謡われた籬ヶ島である。

 

もちろん、現在、京都市内にそんな島など存在しない(実際の籬島は、現在は塩竃湾の埋め立ての影響で陸地から20mほどの至近の距離に浮かび、往時の絶景の名残はない)。

 

源融の死後、院は放置され、荒れ果てた。そして、鴨川の氾濫の際に籬ヶ島が水没し、三千本植わっていたと伝わる榎が森として残り、その後も明治時代初期あたりまで「籬の森」と呼ばれていたという(「昭和京都名所圖會」竹村俊則著)。そして、今にただ一本残っているのが、高瀬川沿い、五条小橋の袂に立つ榎の大樹である(下京区木屋町通五条下ル)。何の変哲もないというより、路傍にその榎は忘れ去られたように立っていた。その大きな枝ぶりを見上げれば、歴史を感じさせてまことに豪壮、見事であるが、そこだけが周囲の景色から浮き上がっているようでおさまりが悪く見え、「雅び」という歴史の退化を感じずにはいられなかった。


跡地の縁を探すのが難しい
「籬の森」で一本残ったといわれる榎の根元に立札と石碑が

河原院跡の榎の立て札
六条河原院跡を示す立札

院跡地石碑
わびしさの募る石碑

周囲に迫る建物
近隣の景色から浮き上がる榎

マガキの森の榎の大樹
頭上の枝ぶりに往時の鬱蒼とした「籬の森」を偲ぶ

 

 
豪気で野心的な融の栄華の時代とその後の世を厭うた寂寥の時代が、その見事な枝ぶりの榎の大樹と路傍に六条河原院の由緒を記す小さな石碑を残すだけというアンマッチな情景に、その対比が象徴されているようで、悠久の時間の流れのなかで、人間の小ささや人の一生の栄枯盛衰をことさらに感じさせられた一日であった。(了)

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐


能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐

枳殻邸の池
   枳殻邸印月池より右に南大島と大樟、左に北大島と縮遠亭を見る


 鴨川から水を引き、陸奥塩竃の風景をそっくり模した広壮な六条河原院には、在原業平をはじめとした平安の文人、雅人たちが多く訪れ、邸内の塩竈で藻塩を焼く際に立ち昇る紫色の煙に雅びを感じ、ともに心を和ませたのであろうか。

 

 しかし、冒頭の融の政界での動きをみると、藤原基経との政争に敗れたのち、それを眺める日々、融の心情が到底、穏やかであったと考えることはできない。湾内で藻塩を焼く大自然の景色をそっくり自分の邸宅の庭に再現させるとは、財力だけでなく、胆力も必要とする。ただ、おだやかな心情でその風雅を愛でていたとはとても思えないのである。

 

難波津、敷津、高津の三つの浦から一日三千人の人足を使い、海水を運ばせ、六条河原院ではまた三千人の人に塩を焼かせ、汐屋から立ち昇る紫煙を愉しんだという。その様は目に浮かべるだけで豪気といえば豪気だが、見方によればその行状は世を恨む狂気と紙一重の所作と言えなくもない。容姿端麗で才能に満ちた男が最高権力者の座を争い、その栄光の座が永遠に遠のいたのち、そのエネルギーを持て余し、世の中を怨み、さらに馬鹿げた世界を演出したのではないのか。

 

そう考えてみると、世阿弥が能の傑作といわれる「融」を物したのも、現世の栄華を最後まで忘れることのできなかった源融の霊が、世阿弥という希代の天才に筆をとらせ、命の限り、その現世への迸る想いを書かせたのかも知れないと想像してみたくもなるのである。


 

君まさで煙たえにし塩竈のうらさびしくも見え渡るかな
(紀貫之:古今和歌集巻16)


 

 

 そうしたことを脳裡に思い浮かべては打ち消したりしながら、六条河原院に縁の場所を訪ねてみた。

 

 まず、東本願寺の飛び地にある渉成園(しょうせいえん)、通称「枳殻邸(きこく)」(下京区烏丸通七条上る)を訪ねた。枳殻邸は1641(寛永18)年、徳川家光によって現在の地が寄進され、1653年に石川丈山によって作庭されたと言われている。


枳殻邸の入り口
渉成園入口脇の尾花

紅葉の映る池
丹楓渓から印月池を

回棹廊と縮遠亭を望む
回棹廊と右上に縮遠亭を望む

回棹廊
回棹廊

北大島と縮遠亭
北大島に建つ縮遠亭

侵雪橋から遠くに漱枕居を望む
侵雪橋から遠くに漱枕居(茶室)を望む

侵雪橋
北大島に渡る侵雪橋

傍花閣
石川丈山が天体観測をしたと伝わる二層の傍花閣(ぼうかかく)

印月池からロウ風亭を望む
印月池からロウ風亭を望む

漱枕居
茶室の漱枕居(そうちんきょ)

キンモクセイ
園内のキンモクセイ 

 この地は、六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)の遺蹟と伝えられていたが、その後の調査(1994年京都市埋蔵文化財研究所)で庭園の池の跡とされる一部が
左京六条四坊十一町(現在の五条通富小路の北側)で発掘されている。そのため、枳殻邸よりわずか北方に位置する上徳寺・本覚寺の辺りが宏大な院の跡地であろうとされている。


しかし、洛中のど真ん中にこんな閑静な庭園があることに驚くとともに、印月池に浮かぶ南大島が六条河原院にあったというマガキガ島を想起させて、しばし、時間の流れが止まったように感じた。そして静謐の時空がわたしを包み、能の「融」の幽玄の世界の息遣いを耳元に感じた。

そして、枳殻邸を後にしようとしたとき、わたしを足止めするかのようにキンモクセイの香りがほのかに匂って来た。


能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱


友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

能・発祥の地、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を訪ねた

国宝の北能舞台(西本願寺)を拝観しました!

中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩



陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

(河原左大臣:小倉百人一首)

 

塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ

(業平朝臣:続後拾遺和歌集)
 

印月池に架かる侵雪橋
六条河原跡地といわれた枳殻(きこく)亭、印月池に架かる侵雪橋 


 源融(
822895)は嵯峨天皇の第8皇子として、後宮・大原全子(おおはらのまたこ)との間に生まれ、838年に臣籍降下し、正四位下、源朝臣姓を賜った(17歳)。藤原道長の舅である源高明(たかあきら)とともに、源氏物語の光源氏のモデルと目される人物としても名高く、また世阿弥の傑作の呼び声高い「融」はまさに彼の栄枯盛衰の人生を描いたものである。

 

融は872年、51歳で左大臣にまで昇りつめたが、子どものいない陽成天皇の皇位継承の資格があるとして、その後嗣を狙った。しかし、時の実力者であった太政大臣藤原基経が、第54代仁明天皇の第三子で、時に55才となる時康親王を推し、結果として同親王が第58代光孝天皇として即位した(在位884887年)。

 

その時の基経とのやり取りが「大鏡」に次のように記されている。

 

 融「近き皇胤をたずねば、融らも侍るは」。基経「皇胤なれど、姓賜ひてただ人にて仕へて、位につきたるためしやある」

 

 つまり、藤原基経は「臣下になって、皇位に戻った例がこれまであったか、ないであろう」と、云って融の野心を打ち砕いたというものである。

 

 ところがその三年後、光孝天皇の病が重篤になった際、基経は臣籍降下した第7皇子の源定省(さだみ)を皇嗣に推挙。定省は基経の異母妹の尚侍藤原淑子の猶子で、その意味で基経との関係は深かったものの、融を廃除した理由と首尾一貫する話ではなかった。基経は天皇の崩御後、形式を整えるために定省を親王へ復し東宮となしたうえで、即座に即位させ宇多天皇として擁立した。その時の融の心境がいかばかりであったかは、想像に難くない。

 

そうした藤原氏との抗争に敗れてからは、世を厭い、隠棲、風流を友として一生を過ごすことになる。

 

六条河原院がいつ頃に造営されたかは定かでないが、貞観6年(864)に中納言、陸奥出羽按察使(あぜちし)に任ぜられて(43歳)陸奥との関わりができたことを考えると、それ以降に造られたとするのが自然であろう。ただ、「続日本後紀」などの記述から、任国へ赴任することを免除された「遥任(ようにん)」であったと言われており、塩竃の絶景を実際に一度も目にしたことがないのかどうかははっきりしない。

 

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

 

河原左大臣(源融)が詠み人のこの小倉百人一首は、陸奥国信夫(しのぶ)郡(福島県北部、福島盆地の西半分)の信夫山辺りにちなむ短歌である。

 

また多賀城市の浮島には、「大臣宮(おとどのみや)」の跡(JR東北本線高平踏切の南東に、かつて「大臣宮(おとどのみや)」と呼ばれる小高い丘があり、「大臣宮」と刻まれた石柱が立っていた。大臣とは源融との伝承があった)が、存在していたことや、別名、源融神社と称する浮嶋神社(ご祭神:奥塩老翁神・奥塩老女神)など、塩竃への道筋に源融にまつわる神社や伝承が残っている。

 

そうした事柄を総じて見たとき、源融が千賀の浦にたたずみ、湾内に浮かぶ籬島を遠景に、藻塩を焼く紫煙がたなびく光景を目にしたに違いないと想うのが、いかにも風雅であり、また興趣が増すというものでロマンがあって心地よい。

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参

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