彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

May 2007

最近の裁判報道って、どこかおかしくないか?5

山口県光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が24日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開始された。昨年6月の最高裁の「特に酌むべき事情がない限り、死刑を選択するほかない」と二審の無期懲役判決を破棄しての自判回避から約一年が経過した。

 

被告側の膨れ上がった弁護団はこれまでの事実の認定や量刑に誤りがあるとして、今度の公判ではそれらの誤りを正すとしている。そのひとつの理由として、「被告は自分の過ちを現実感をもってとらえることができなかったが、被告人は26歳になり、反省と贖罪(しょくざい)の意を深めている」ことを挙げた。

 

実はこの「反省と贖罪(しょくざい)の意を深めている」という物事の捉え方にわたしは違和感というか、それは違うのじゃないかと強い反発を覚えるのである。容疑者逮捕後の事件報道や裁判報道において「容疑者は未だ反省の弁を述べていない」とか「被告は涙を流してすまなかったと語った」というアナウンサーの声をよく耳にする。

 

今回の弁護団に覚えた違和感もまさにメディアによるこうした被告の「反省の有無」報道と同様のものであった。もちろん、殺人や反社会的な事件を引き起こした容疑者なり被告が、その犯した罪に反省の弁を述べること自体は人間として当然の行為であるし、そうあって欲しいと願っている。

 

しかしそのこととメディア報道は別物であることを、われわれははっきりと認識しておかねばならない。とくに最近のメディアは、起訴された被告について決り文句のように「『反省の言葉をまだ発していない』『申し訳ないことをした』と語った」云々とやたらに被告の現在の心情について言及する。メディアのこの一面的で表層的な物事の捉え方にわたしはどうも違和感を覚えてしまうのである。

 

それはこれから裁判が進められていくうえで、被告の反省の言葉や姿勢は量刑を下すうえで何ら本質的な事柄でもなく、関係のないことだからである。つまり犯行の事実を解明し真実を究明したうえで、被告の「犯した罪」という「事実」に対して相当する量刑が科されるのであって、罪を犯した被告の反省の弁などはその量刑判断の要素とはなりえぬからである。

 

量刑が確定し、刑に服す過程で反省が深まり受刑態度が良好等の理由により、裁判所の判断で仮釈放することはあっても、そもそもの「犯した罪」の重さを量る量刑判断の段階で、犯行後における被告の反省の気持ちが斟酌されるようなことがあってはならないし、それはまったくのお門違いと言うものである。

 

犯行にいたる際に同情すべき事情があったとして裁判官の裁量で量刑が減じられるいわゆる「情状酌量」は、まさに罪を犯さざるを得なかった事情を斟酌するものであって、罪を犯したあとの反省の有無によってなどではないことは明らかである。「反省の気持ち」が量刑判断の構成要素となることなどあってはならないし、そんなことがあるはずもない。

 

そうであるのに、なぜかメディアは判で押したように「反省の弁は一切ない」「被告が涙ながらに反省の弁を語っている」といった類の報道を垂れ流す。「こんな罪を犯しておいて、反省もしていない、とんでもない奴だ」と、もっと罪を重くしろとでも言うのであろうか。また逆に「手紙まで出してこんなに深く反省している」とこれからの公判で意味を取り違えた「情状酌量」でも期待しているのだろうか。そうした類の報道に何の意味があるのかわたしは心底理解に苦しむ。

 

量刑判決とは犯した罪の重さであるという刑事罰の原則がないがしろにされ、何か情緒的なものでゆるがせにされようとしているように思えてならないのである。何度も繰り返すが、あくまでも犯した罪の事実により量刑は下されるべきであり、その後の反省の有無といったことが量刑判断に影響を与えるべきではない。「犯した罪」に対する正当な「量刑」を下すのが公正な裁判であることは、今更言うまでもないことである。

 

今回の光市の事件においても当時少年であった被告のその後の反省度合いに注目した報道がなされる場面があるが、どうも公判報道においてそうした視点は見当違いのように思えてならないのである。

 

光市母子殺害事件の次回公判は626日から3日連続で開かれる。


タクシー料金値上げをめぐる「美しくない」三人4

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そして最後に登場する大物がオリックスの宮内義彦会長である。

 

今をさかのぼること11年前の1996年に政府内に行政改革委員会規制緩和小委員会という委員会があった。

 

その行政改革委員会規制緩和小委員会は平成8年7月25日に規制緩和に関する論点公開(第4次)をしている。そのなかで今後規制緩和すべき対象として38項目にのぼる一覧リストが掲げられた。その「4.運輸」のなかでタクシー事業の「参入規制の見直し」と「価格規制の見直し」について言及がなされており、現行のタクシー行政の骨格がこの提言で示されたと言ってよい。

 

その提言を受けて同年12月の第二次行政改革委員会の意見はまとめられたのである。そのなかでタクシー事業の規制緩和については「需給調整規制は、タクシー事業者間の有効な競争を促進し得ないことから、利用者利便の向上を阻害しているばかりでなく、労働条件の改善に十分寄与しているか疑問がある」とされ、「量的規制である需給調整規制を廃止」することが謳われた。

 

また価格規制についても、「利用者にとって選択しやすい内容とするとともに、できる限り事業者の自主性が尊重される多様な運賃水準の設定が可能となるようにすべきであり、当面はゾーン制により緩和を図ることとし、将来的には上限価格制に移行すべきである」と、現行の運賃認可方式への見直しが提言されたのである。

 

 このときの規制緩和小委員会の座長こそ宮内義彦現オリックス会長(当時社長)であった。同氏はその後、規制改革委員会委員長、総合規制改革会議議長、規制改革・民間開放推進会議議長を歴任し、わが国の規制緩和をドラスチックに推進したことで「ミスター規制緩和」と呼ばれることになった。

 

 さて、数あるオリックスの子会社のなかに100%子会社で「オリックス自動車(旧オリックス・オート・リース)」という会社がある。その採用情報「リクナビ2008」のなかで、同社は次のように自社のことを紹介している。

 

「オリックス自動車の管理台数は57万5千台! その台数は日本全国のタクシーの台数26万台のなんと2倍以上! オートリース業界ではダントツのNo.1です。そのスケールメリットを活かし、当社は常に新しい挑戦を続けています」と。

 

「全国のタクシー台数の2倍以上」と、ずいぶんと意味深の表現で全国一位の業容を誇らし気に説明しているのである。そして正直、「う〜ん?」とその説明文には首を傾げざるをえないのである。「ミスター規制緩和」が11年前に提言をまとめ車両台数の自由化を進め、新規事業者の参入規制も緩和した結果として、当然のことだがタクシーの車両台数は増加していった。

 

そしてタクシー会社は車両をリースでまかなうところも多いということを知っている人はあまり多くない。

 

 11年前に提言された「量的規制である需給調整規制を廃止」の真の狙いは何であったのか。現在のタクシー業界の惨状を見て、どこにこの規制緩和のメリットがあったのか、素直に首を傾げざるを得ないのである。

 

 同氏は一年前(064月)のインタビューで、「規制緩和の進展が格差拡大を助長しているという議論がある」との質問に対し、「格差とは所得再配分の問題だ。税制や社会保障を通した格差是正のために政治は存在する。生産(経済)の方の問題ではない」と、経済界には「格差是正」の責任はないと「美しくない」言葉で、見事に一刀両断したのである。

 

 タクシー運賃の値上げの動きを通して、それに係わる「美しくない」人々がいることをわれわれはよく知っておかねばならない。そして「規制緩和」という美名の下で「市場原理主義」を突き進めた当然の帰結として、「格差社会」が生まれたことの責任を誰が持ち、そのことで誰が得したのかをわれわれは過去を振り返り、もっと冷静に見極めておかなければいけない。


タクシー料金値上げをめぐる「美しくない」三人4

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もしタクシー事業がもうからないのであれば、廃業や倒産による市場からの退場が起き事業者数は減ってくるはずだが、逆にタクシー事業者の数は増加している。この事実はタクシー事業がまだ新規参入すべき事業として旨みのあるものであり、経営者にとってまだまだ魅力的な事業であると見るのが経済合理性から考えた答えであり、普通の市場原理が働く世界の常識であるとも言える。

 

一方で、運転手の平均年収は302万円と極めて低水準にあり、そのことが今回の運賃値上げの大きな理由となっていることは既に述べた。このことは事業者が増え続けている事実と重ね合わせれば、労働者に業界環境の厳しさを一方的に押し付ける事業者に問題があると判断すべきなのかも知れない。

 

そうした実態をよく分析しない(国民に説明せぬ)まま、闇雲にただタクシー運転手の賃金が低すぎるとして、その改善を利用者たるお客に押し付けるのもおかしなものではある。その意味でも冬柴国交省大臣は誠実さを欠く、「美しくない」説明を国民に対して行なったと言わざるを得ないのである。

 

さて、次に登場するのは大田弘子経済財政担当大臣である。

大田大臣は国交省のタクシー運賃の値上げ容認姿勢に対し、419日の「物価安定政策会議」での議論を踏まえた閣議後記者会見で「乗務員の賃金が下がっているから、では値上げをして消費者負担の下でそれを改善するという運びは、すぐには納得しがたい」、「もう少しいろいろな根拠、データを示してもらい、政府部内で議論する必要がある」と、もっともな疑問を呈した。

 

しかしこの人物は今から14年前に発表された「平岩レポート」のときの主要メンバーであり、それに関する著書も物している。細川首相の私的諮問機関である「経済改革研究会」が9311月に規制緩和の第一歩と言うべき「経済的規制は『原則自由』に、社会的規制は『自己責任を原則』に最小限に」との原則を打ち出したいわゆる「平岩レポート」と呼ばれる現在の社会インフラとも言うべき「自己責任のもとでの規制緩和」を世に問うた有名なレポートである。

 

同氏は当時、まだ大阪大客員助教授であったが、規制緩和議論の過程のなかで、規制緩和の影の部分である「弱者に痛みが集中する」ことに対する社会のセーフティーネットについて安全や健康、環境を守るための規制も削減し、「必要最小限とする」という冷酷な表現を盛り込むなど中谷巌一橋大教授(当時)らとともに規制緩和推進つまり市場原理主義派の中心人物として鳴らした。

 

そして市場原理主義論争のなかで規制緩和が行き過ぎれば「格差拡大」などの弊害が起こる影の部分、現在、社会問題化している懸念についての議論はでなかったと当時の関係者は明らかにしているのである。

 

この「市場原理主義者」の「乗務員の賃金が下がっているから(中略)消費者負担の下でそれを改善するのは納得しがたい、(中略)政府部内で議論する必要がある」との発言は、おそらくタクシー事業者の経営努力が十分でなく、まだコスト削減や労働分配率の改善といった工夫が不十分である。その結果、市場の淘汰が進まず経済合理性の透徹した美しい姿になっていないと言いたいのだろう。しかし、現在、置かれているタクシー業界は十分に市場原理主義の徹底したマーケットであるとも言えることを、この教条主義的な学者、いや政治家はわかっているのだろうか。

 

地方の会社が倒産し職を求めて上京してきたものの、東京で仕事といえば当時、営業台数を伸ばしていたタクシーの運転手くらいしかない。そこで過酷で安い給料だが仕方なく運転手になった。歩合制であるので、需給環境の悪化するなかで給料はどんどん下がってゆく。まさに規制緩和を突き進めたタクシー業界は、市場原理に沿って理屈どおりに歩みを進めて行ったのである。失業率の高い時代に労使関係で経営者側が強いことも、一種の市場原理が働いた結果であり、労働条件をますます厳しくしてゆくことで何とか企業収益をあげる企業努力を続けてきたのである。

 

14年前にみんなが幸せになれると浮かれた「規制緩和」の推進により、「自己責任」を問われたのは、やはり弱い立場の人間であったという市場原理主義の行き着くところの当然の社会の姿が、いまわれわれの前に展開しているだけなのである。

 

セーフティーネットも「必要最小限」とすべきと冷酷に提唱した人物が、302万円の年間所得しかないタクシー運転手の給与改善のツケの先(消費者)がおかしいなどと「美しくない」言葉を平気で吐くことに、正直言って胸くそが悪くなる。同氏が主義に殉ずるのであれば、「弱いものは自己責任で弱くなったのだから仕方ない」と、切って捨てればよいのである。ごちゃごちゃと反対意見を述べ、いかにも庶民のためといった言動は、まことに「美しいものではない」。【につづく


タクシー料金値上げをめぐる「美しくない」三人4

タクシー料金値上げをめぐる「美しくない」三人
タクシー料金値上げをめぐる「美しくない」三人

大分県、長野県に対し国交省はタクシー料金の値上げを認可した。長野県では初乗りの上限料金が640円から710円(10.9%)、大分県で560円から620円(10.%)への上昇となった。

 

タクシー運賃についてはこれまでに全国の営業地域から続々と値上げ申請があり、現在、東京(特別区・武蔵野・三鷹地区)地域についても審査中である。6月中にも値上げ認可が下りる見通しであったが、参院選への影響でも配慮したのか急きょ8月以降に先送りされる見通しになったという。

 

当初、冬柴国交省大臣は今回の運賃値上げの主な理由として、「タクシードライバーの労働条件の改善」と「原油等燃料費の高騰」の二つを挙げた。また、内閣府の「物価安定政策会議」における大田弘子経財相などの反対意見表明を受けて「私はタクシー業界に同情的なわけではない」と業界寄りとの見方を否定したうえで、「運転手の今の労働賃金を考えたら大変なことだ。年間三百三万円という収入で十六時間くらい走っているのではないか。それは改めないと生活ができなくなる。そうした実態をふまえて(この時期の運賃値上げを)判断したい」と述べていた。

 

そう言っていた矢先の模様眺めの対応である。行政当局の長としてこれまでの理屈の一貫性、発言の重みをこの御仁がどう考えているのか問わざるを得ない。「大変なこと」が「大変じゃなくなった」のならご同慶の至りだが、タクシー業界を巡る厳しい状況に何の変化もないのだから、これまでの値上げ容認発言に対しどう責任をとるつもりなのか、まことに「美しくない」のである。

 

さて、タクシー運賃の値上げの動きについてはそれに先立ってまとめられた一編の報告書が存在する。

 

国交大臣の諮問する「交通政策審議会陸上交通分科会自動車交通部会」が、平成187月に発表した「タクシーサービスの将来ビジョン小委員会報告書」である。その報告のなかで「タクシーの(厳しい)現状」が数字に基づき具体的に語られている。

 

まず年間の輸送人員は平成16年度で224千万人である。昭和45年に429千万人と過去最高を記録して以来、その数字はほぼ一貫して下落。平成の御世に入ってもその減少傾向に歯止めはかからず、とくにここ34年はピーク時の半分の水準という厳しい状態が続いている。

 

その一方で、タクシー・ハイヤーの営業車両数は平成12年度から急激な増加を示している。平成16年度は27万台とこの4年間で5.6%の高い伸び率となっている。同期間の年間輸送人員はマイナス7.8%と減少しているのにである。

 

また、タクシー運転手の年間所得は平成3年をピークに減少し続け、平成17年には302万円と、全産業平均所得との比較において平成3年に81%あったものが、55%の水準にまで落ち込み、業界の厳しさは想像以上のものがある。

 

言うまでもないが商品の「価格」やサービスの「料金」というものは需給関係で決まることは市場論理のイロハ中のイロハである。需要が供給を上回ってくれば、価格は上昇するし、その逆であれば下落する。いたって簡単な理屈である。

 

先の報告書では明らかに需要が供給を下回っているうえに、近時さらにその需給格差は広がる傾向にあった。そうした状況で、なぜこのような市場論理に反した「運賃値上げ」といった理屈に合わぬことが起きようとしているのであろうか。

 

その遠因を探ってゆくと平成14年の「改正道路運送法」の施行に突き当たる。

 

今から五年前の経済状況は、戦後の混乱期を除いて完全失業率が5.4%と史上最悪の水準まで上昇、東証株価も最安値が8303円とさらに底値を模索、名目GDP成長率もマイナス1.4%とデフレ経済の真っ只中にあった。平成10年に32千人を記録した自殺者数も5年連続で3万人台を越える状況が続き、社会不安は高まり、一種、恐慌前夜といった雰囲気があった。

 

そうしたなかで「改正道路運送法」が施行されたわけだが、それは従来の「需給調整規制を廃止」と「運賃改定の自由化」をセットで行なう、規制緩和を大義名分とする法律改正であった。それは市場原理原則に基づいた経済運営へとこの国が大きく舵を切っていった大きな流れのなかでの一コマであった。

 

規制緩和という大義名分は、従来、競争を恣意的に抑制してきた規制をはずし、市場を自由な競争原理に任せれば、自ずから効率性の高いもの、競争力のある事業者のみが淘汰され残ってゆくことで強い筋肉質の経済構造が構築され、結果として景気は回復するというものであった。

 

企業倒産が19千件を超え、失業者が街に溢れる状況のなかで、雇用の受け皿としてタクシー業界の「事業参入規制の撤廃」、「車両台数規制の撤廃」といった規制緩和がタイミングよく取り払われたのである。失業対策にこの業界がうまく使われたと言ってもよい。

 

このことによりタクシー・ハイヤー事業者数は平成13年の53千社から平成16年の55千社へと約2千社の増加を見、3.5%もの上昇を示した。そして車両数も前述のように27万台へと増加の一途を続けている。

 

需給関係が悪化の一途をたどるなかで、なぜこうしたことが起きてしまうのか


メディアが金科玉条とする編集権とは「私」スルことではないはず4

24日の朝のフジテレビ「とくダネ」で、前日に開催されたBPO「放送倫理検証委員会」第一回会合の模様が伝えられた。

放映内容は委員の一人である評論家の立花隆氏が現在、衆議院の総務委員会で審議中の「放送法の改正」の「再発防止計画に関する事項」に関連し、「表現の自由を守るのに大切な時期。(政治介入という)大変な方向にゆく可能性がある」と発言した部分の映像と音声が流された。そこで「放送倫理検証委員会」がなぜ新設され、第一回のテーマがTBSの不二家報道問題について主に議論され、そして審理入りの結論が出なかったことはひと言も伝えられることはなかった。

そもそもフジテレビ系列の関西テレビの「あるある」捏造事件を受けて現行の「放送番組委員会」を解消、「放送倫理検証委員会」が設立されたわけであるが、フジテレビがこの朝、同委員会で不二家報道問題について議論されたことは一切語らなかったことはきわめて不自然であり、その意味は何かと問わざるを得ない。

同委員会の記事を報じた大手新聞が放送法改正について触れた立花委員の発言よりも、TBS「朝ズバッ!」の審理入り持ち越しの方が大きく取り扱われていたのは当然である。会合の前に委員たちは、郷原信郎氏(不二家第三者信頼回復対策会議元議長)からの審理申請を受けて、TBSからの報告書や問題とされた番組のVTRを見てから委員会に出席しているのである。同委員会が何を目的に開かれたかは、はっきりしているのである。

その本来の内容について報道せずに、現在、問題となっている放送界の捏造問題についてあえて触れることなく、危機感を持つ放送法改正の部分のみに偏した放送内容は、ある意味、「編集権」を「私」していると言ってもよい。

「編集権」については昭和23316日に公表された「日本新聞協会の編集権声明」にその内容が規定されている。それは「編集権とは新聞の編集方針を決定施行し報道の真実、評論の公正並びに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要な一切の管理を行う権能である」というものである。当時は新聞というメディアが中心であったため、編集権の行使者は新聞となっているが、当然、現在では放送事業者もその範疇に入ることになる。

その「報道の真実、評論の公正並びに公表方法の適正」については、「新聞倫理綱領」(平成12621日)の「正確と公正」の項立てで、「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである」と規定されている。

こうしたメディア自身で規定した「編集権」のベースにある「報道の真実、評論の公正、公表方法の適正」という考え方に照らして見ても、今回のフジテレビの「放送倫理検証委員会」報道は、自分の身に火の粉の降りかかる可能性のある「委員会の主たるテーマであった内容」を伝えなかった点において「正確と公正」を大きく欠いたものと断じざるを得ない。まさにメディアが事あるごとに言い募る金科玉条の「編集権」を「私」したとしか思えぬのである。

そしてこうした報道姿勢を続ける限り、「編集権」の本来有する正当性は失われていかざるを得ず、それこそ政治の介入に口実を与えることになる。自局や自社のご都合主義で「編集権」を振りかざすのでは、国民は当然のことだが納得し難いからである。



BPOの「朝ズバッ!」審理入り結論見送りに唖然!5

BPO(放送倫理・番組向上機構)の「放送倫理検証委員会(川端和治委員長)」は予定通りこの23日に初会合を開いた。BPOは不二家信頼回復対策会議の元議長、郷原氏らから「捏造の疑いがある」などとして調査、審理に入るよう要請があったTBSの「みのもんたの朝ズバッ!」の不二家報道問題について「十分な議論ができなかった」(川端委員長)として次回会合に判断を持ち越すことになった。

 

 「放送倫理検証委員会」新設を発表した際に、民放連の広瀬道貞会長は「グレーゾーンは広い。疑わしきは調査してもらうというのが放送界にとってプラスになる」と正論を述べた。捏造問題など不祥事の続発する放送事業者の代表としては至極当然の発言であった。

 

 しかし、そもそも「あるある」の捏造問題に端を発し新設された「検証委員会」の初会合で、「捏造の疑い」があるとして審理申請が出されている「朝ズバッ!」の扱いについて「次回さらに(審理入りを)議論したうえで決めることにした」との川端委員長の発言は、「疑わしきは調査してもらう」という至極当然の民放連会長の正論とは対極に位置するものと断じざるをえない。この委員長発言を聴いて新生BPOの鼎の軽重がはやスタート当初から問われることになり、「検証委員会」の存在意義すら疑問視せざるをえない事態となった。

 

総務省は先にTBSに対し「朝ズバッ!」を含む3番組における「問題への対応について」文書において厳重注意を行なった。そのなかで「朝ズバッ!」について「事実に基づかない報道が行われた」と認定した。メディアが権力と適切な距離感を保ち、権力に対するチェック機能を健全に果たし、権力の報道・言論への介入を排除するとする姿勢は正しい。またそうあらねばならぬことは、国民の知る権利を担保するうえで重要な要素であることは言を俟(ま)たない。

 

そうであればこそ、総務省から「事実に基づかぬ報道」と名指しされた「朝ズバッ!」について「放送倫理検証委員会」は率先して事実究明を行なうべきである。そのうえで当局の指摘がおかしいのであれば、それこそ「権力のメディアへの介入」であると堂々と胸を張って国民に対して宣言すればよい。そのときは当然のことだが、国民も一緒になって当局の言論・報道への介入に対し毅然たる抗議を行なうはずである。

 

BPOの「放送倫理検証委員会」は注目される初会合において、なぜ即座に「朝ズバッ!」に関し「『特別調査チーム』(調査顧問・高野利雄元名古屋高検検事長)の派遣を決定した」と、宣言しなかったのか。その断固たる不羈(ふき)の姿勢を示すことこそが、現在、国民の信頼を揺るがせているメディアが、自らの足で再生への第一歩を踏み出したのだという「強い意志」を国民にわかりやすく伝える最善のメッセージではなかったのか。そのために既存の「放送番組委員会」を発展的に解消し「放送倫理検証委員会」を新設したのではなかったのか。

 

言論界に身をおく先生や学識経験者等第三者から選ばれた10名の委員により「放送倫理検証委員会」は構成されている。だからこそ「検証委員会」によって、客観的な立場で純粋に、国民の知る権利と表裏にある言論・表現の自由ならびに報道の自由を担保するべく最善の対応がとられるはずであった。

 

初会合で時間が限られていたとして、「朝ズバッ!」審理入りの結論見送りなどと悠長なことを言っているほど、大手メディアに対する国民の不信感の高まり度合いは甘くはない。逆に信頼崩壊のピッチはますます早まっているのだということを、メディア界のみでなく言論界や学界に身を置く先生方にも心底、肝に命じてもらい、やるべきことを迅速に果たして欲しいと願うのである。

 

次回の「放送倫理検証委員会」は68日金曜日に開催が予定されている。

みのもんたの処分が新生BPOの試金石、「知る権利」の判断基準5

みのもんたの処分が新生BPOの試金石、「知る権利」の判断基準

要はこの番組が報道番組なのかバラエティー番組なのかその性格を曖昧化しているところに、わたしはTBSというより不二家問題で言いたい放題を言ってもいっさい謝罪する必要がないと高を括っている「みのもんた」氏の実に狡猾な計算を感じ取ってしまうのである。

その意味で「朝ズバッ!」の報道について今回の総務省が放送法第3条の3第1項に抵触する、つまり番組の種別いわば報道番組かバラエティーか性格を曖昧化したTBSの番組制作姿勢に対して問題があるとして文書で厳重注意した意味の重さを感じ取るのである。

放送事業者が単なるエンターテインメントの提供者としてのみ、その社会的責任を感じているとすれば、今回の総務省の厳重注意はやり過ぎと言ってよいが、今やテレビの影響はそんなものではないことは誰もが知るところである。

TBS
に対して「貴社の放送が言論報道機関である放送事業者に対する国民の信頼を著しく損なったことは、誠に遺憾であり、放送の公共性と言論報道機関としての社会的責任」を真摯に重く受け止めよと当局はあえて文書で伝えたのである。

TBSをバッシング風に取り上げるのはおかしいのではないか」といった程度の認識しかないTBS社長の発言は言うまでもないが言語道断であり、そういう人物が公共機関としての放送事業者の代表者たる資格はないのは言うまでもない。

「知る権利」とは当然だが国民ひとりひとりに本源的に帰属する権利であり、「報道の自由」を標榜してやまない放送事業者の軽率な行動によって、時の権力がその権利を制限するために介入する口実を与えてしまうことなどあってはならない。またそうした甘えた認識なりつけいれられる意識はTBSの社長ひとりの気持ちというより、「朝ズバッ!」の謝罪放送のあり方ひとつ見て、TBS社内に蔓延している驕った意識そのものではないのかと思えて仕方がない。そしてそうした組織に、今後、自助努力における意識改革を期待することはきわめて難しいと残念だが言わざるを得ないのである。

5
10日、BPONHK、民放連との三者によって、川端和治氏(弁護士、大宮法科大学院大学教授)を委員長とする「放送倫理検証委員会」を同機構内に設立したと発表した。そのなかで、同委員会の性格をこれまでの「放送番組委員会」を発展的に解消して設立されたものとし、BPOの関連する規約の改正も同時に行われたことを明示している。そこでは「放送倫理検証委員会」は「虚偽の疑いがある番組が放送され視聴者に著しい誤解を与えた疑いがあると判断した場合」、「調査、審理」「勧告・見解の通知、公表」し、放送事業者に「再発防止計画の提出を要請」し、その「実施状況についての意見の通知、公表」ができるとし、これまでの「放送番組委員会」が有する協議・審議等の権限を大きく拡大することになった。

その新生BPOの「放送倫理検証委員会」は523日に第一回会合が開かれる予定である。

15
日に郷原信郎氏が「朝ズバッ!」での不二家の報道内容について「事実と異なる」、「捏造の疑いがある」としてBPOに対し調査・審理を要請した。総務省が文書であえて放送法の第3条の3第1項に抵触すると認定した不二家問題の調査、審理が同委員会の初仕事ということにならぬはずはない。

新生BPOは総務省のTBSに対する「厳重注意」の内容も十分考慮し、しっかりしたチェック機能を果たして欲しいと願わざるを得ない。まさに同委員会の責任は重大である。「国民の知る権利」を時の権力の介入により狭められるか否かの切所に、今現在、この国は置かれているのだとの厳しい認識の下、国民の納得のいく結論を早急に出していただきたいと強く思っている。

そして報道とは何か、放送事業とは何かをすべてのテレビ局にもう一度、根本から考え直させる見解なり見識をぜひ披露してもらいたいと願っている。「みのもんた」というやたらにしゃべりまくるが、その発言の責任を追及しづらい狡猾な役回りを許す番組制作を行なう放送事業者のあり方に対しても同時に良識ある見解を示して欲しいと願う次第である。

それが新生BPOの真価を問う試金石であり、国民の「知る権利」を国民自らの手で守れるかどうかの判断基準でもあると考える。

みのもんたの処分が新生BPOの試金石、「知る権利」の判断基準5

みのもんたの処分が新生BPOの試金石、「知る権利」の判断基準

不二家信頼回復対策会議の元議長である郷原信郎桐蔭横浜大学法科大学院教授らが、この515日、放送局への勧告機能などを強化し新体制となった放送倫理・番組向上機構(BPO)に対し、TBS「みのもんたの朝ズバッ!」で不二家平塚工場の元従業員の証言に基づいた「新証言不二家のチョコ再利用疑惑」と題した報道内容につき「事実と異なる」「捏造の疑いがある」として調査・審理を要請した。

 

当該報道については既に、郷原氏が「第三者による信頼回復対策会議議長」の立場で、330日、46日と2度の記者会見を開催、「同番組の不二家バッシング報道は、単純な誤解、無理解の域を超え、意図的に不二家の信用を毀損しようとする意図すらうかがわれる」と抗議を行なった。そのうえで、みのもんた氏の度重なる不二家への非難について「謝罪をして、そういう発言をしたみの氏自身が、不二家に対して『大変失礼なことをしました』という謝罪をテレビの画面上ですべき。それがない限り(不二家の)名誉回復はないと思う」 と厳しい対応姿勢を示してきた。

 

TBSはそれに応じてかどうかは はっきりと言明しなかったものの、418日の「朝ズバッ!」で、以下の3点において『誤解をまねきかねない』表現があったとし、「この3点についておわびします」と謝罪した。

1)「出荷されたチョコレートが工場に返品される」というのは、証言者の伝聞だった

2)証言者の不二家勤務は10年以前だったが、最近のことと誤解されかねかった

3)「チョコレートと牛乳を混ぜ合わせた」という表現で、牛乳と断定した点は正確性を欠いた。

さらに柴田秀一アナウンサーがみの氏の発言を指したと推測されるものの、誰のどの発言と特定することなく「いきすぎた表現、コメントがあった点についてもおわびします」と謝罪した。

しかし「TBSでは証言者に法律家が面談するなどの調査をしたやらせや捏造に類する疑いはないとの報告を受けている」として、報道内容の「捏造」を否定した。その結果「チョコレートの再使用」の真偽については触れられずに、みのもんた氏自身の口から自身が発した「いきすぎた表現」についての謝罪の言葉は出ない何ともすっきりしないものであった。

 

そして425日午後3時から行われた定例記者会見でTBSの井上社長は、「不二家の問題ではお詫びしなければならない点は放送でお詫びした」としたうえで、「証言の根幹部分は信用性が高い」とし、さらに他局が放送局としてのTBSをたびたび非難したことに対して「TBSをバッシング風に取り上げるのはおかしいのではないか」と言ってのけた。

 

その二日後の27日である。総務省は情報通信政策局長名で文書によりTBSの井上社長宛て「『人間!これでいいのだ』、『サンデージャポン』及び『みのもんたの朝ズバッ!』における問題への対応について(厳重注意)」を伝達した。これは「番組問題への対応」という行政指導であったが、同日付けで発されたテレビ東京には口頭による注意であったものが、TBSに対しては約400字にのぼる文書での厳重注意となった。

 

 その文書のなかでTBSに対して放映した3番組について放送法に抵触するとして具体的条項が明示された。

「朝ズバッ!」については「平成19年1月22日放送の『みのもんたの朝ズバッ!』においても、事実に基づかない報道が行われたことは、放送法第3条の3第1項に抵触するものと認められる。」と表記されている。その条項は「放送事業者は、放送番組の種別及び放送の対象とする者に応じて放送番組の編集の基準(以下「番組基準」という。)を定め、これに従って放送番組の編集をしなければならない」と定められている。

 

 ここで総務省は放送法第3条の2第3項の「報道は事実をまげないですること」ではなく、「事実に基づかない報道が行われた」ことは当然のこととして断じたうえで、番組の種別等に応じた「番組基準」に基づいた放送番組の編集がなされていないと認定したのである。

 

実は「朝ズバッ!」という番組が実に巧妙な番組構成になっていることを今回の総務省の文書は明確に言おうとしているのである。みのもんたの「朝ズバッ!」という番組がコンプライアンスやアカウンタビリティーといった言葉が日常的に氾濫している時代には何とも性格がはっきりしない、言ってみれば責任の所在がはっきりしない、その所在をあえて曖昧にしようとしているところがある番組であると言わざるを得ないのである。

 

TBSHPを見ると、「朝ズバッ!」は「ニュース・情報番組」の範疇で紹介されているが、問題は番組を仕切っているみのもんた氏という人物の役どころである。HPでは同氏は「視聴者の代表」と紹介され、出演者紹介のなかでは「総合司会」というニュース番組としてはよく位置づけのわからぬ肩書きとなっている。そのわけのわからぬ総合司会の下にニュースキャスター、スポーツキャスター、取材・報告キャスターやお天気キャスター等々が配され、それぞれのコーナーを担当する形がとられている。そしてその下というより脇に、それぞれの分野の解説者や浅野史郎氏ら「朝ズバファミリー」と称される奇妙なというより言いたい放題の人物が出演するという巧妙な構成となっている。そうした番組構成のなかで、「みのもんた」氏は視聴者の代表と称して時々の事件・時事問題等について言いたい放題を言ってのけるのである。【続く】


東国原知事、記者クラブ対決もっと頑張って!5

「『会見、記者クラブのあり方を考えてみませんかという投げかけだった』と釈明した」

「『問題を提起しただけ。会見や記者クラブに不満があるわけではない。記者とは適度な緊張感を保ちたい。会見続行という結論なら、受け入れる』と、『(定例記者会見の)不要発言』を修正した。

 

冒頭の文章は511日の県政記者クラブとの定例記者会見で行なわれた「記者クラブ問題」について東国原宮崎県知事の発言内容について大手新聞社が報じた記事の表現である。発言内容が不適切であったため釈明、修正したというどこか謝罪のような書き振りである。

 

 この定例記者会見問題は416日の宮崎県庁内での定例会見において「定例会見って必要ですかね」「特筆すべき発表事項がないときは、なくてもいいのでは」との東国原知事の発言に端を発している。発言に対し宮崎県政記者クラブの記者からその場で即座に「発表するものがないから開かなくていいのではないかという質問は、トップとして稚拙だ」「定例記者会見を軽視しており開くのは当然」など猛然と批判の声があがり、知事も「毎日取材を受けている、稚拙だとは思わない」など正面から反論するなどその激しいやり取りがTV等で報道されたことは記憶に新しい。それから約一ヵ月を経て初めての定例記者会見であった。

 

 記者クラブ問題はこれまでも幾たびも採り上げられてきた題材である。

 

また政治の世界では、過去、1994年に当時新生党の代表幹事であった小沢一郎氏が記者クラブ以外の記者も参加が可能な開かれた記者会見を模索したが、既存記者クラブの反発が強く、結局もとの形式に復されたことがあった。

 

さらに20015月には、当時の田中康夫長野県知事が「『脱・記者クラブ』宣言」を発表し、記者クラブ問題に大きな一石を投じた。その宣言は「(記者クラブは)本来、新聞社と通信社、放送局を構成員とする任意の親睦組織的側面を保ちながら、時として排他的な権益集団と化す可能性を拭(ぬぐ)い切れぬ。現に、世の大方の記者会見は記者クラブが主催し、その場に加盟社以外の表現者が出席するのは難し」く、「また、日本の新聞社と通信社、放送局が構成員の記者クラブへの便宜供与は、少なからず既得権益化している」と大手メディアによる情報の独占と県庁建物のスペースや電気・冷暖房等管理経費等も県任せという既得権益享受の実態を厳しく糾弾した。

その改革は知事会見の主催者を記者クラブ側から長野県側へと変更させ、従来の記者クラブスペースを「プレスセンター(後に『表現センター』へ改称)」として開放、フリーランスで表現活動に携わる全ての市民が利用可能とするなど画期的なものであった。

しかし、当然のことのように記者クラブは「今後も記者クラブ主催の会見を求める」と抗議文を田中県知事あてに出すなど猛然と反発し、その後、大手メディアと田中知事の関係が悪化したことは言うまでもない。

 

ことほど左様に記者クラブの廃止や開放などの動きに対して大手メディアはこれまでも頑強なまでの抵抗を見せてきた。

 

そして今回の東国原知事の「定例記者会見は必要ですか」との発現の真意は、記者クラブを廃止したり県が設置する記者室の撤去等までを意図した記者クラブ存廃に係る「そもそも論」でないことは明らかであった。ただ公務優先の考え方のなかで、ぶら下がり質問と同様の質問などが定例会見で行われたりすることに問題意識を持った知事が、その効率的運営ができないか、形式的会見の見直しができないかとの建設的な問いかけであったと評される。その程度のというより前向きの問題意識に対してすら、記者クラブ側は「定例記者会見を軽視しており開くのは当然」と猛反発し、態度を硬化させるなどそれこそ「稚拙」な対応を見せた。

 

 その知事とのやり取りを聞いていて、驕り高ぶったような記者クラブの面々は一体何様なのかと、逆に感じたのはわたしだけであっただろうか。「県民に情報を知らしめる権利は自分たちのみが有している」という誤った「選民意識」を彼らが持っているのではないかとすら感じてしまうのである。

 

 大手メディアであれフリーのジャーナリストであれ、そしてパブリックジャーナリストであれ、みんな同一の「知る権利」を有しているはずである。またジャーナリストだけでなく国民一人一人が「知る権利」を有していることは、わざわざ言うまでもないことである。

 

 国民は一民間会社であるメディアの一民間人である記者に、何も頼んでまで「知る権利」を行使する代行者になって欲しいなどと言った覚えはない。国民の「知る権利」を十分に担保するうえでも、さまざまな情報発信者や発信組織があったほうがよいに決まっている。「選民意識」の臭いを強烈に感じさせるごく一握りの大手メディアやジャーナリストに国民の「知る権利」を標榜され「報道の自由」の具現者面をされることは、真に国民が望むところではないはずである。

 

416日の定例記者会見で東国原知事が「あなたたちが聞きたいことが必ずしも県民の聞きたいこととは思わない」と記者クラブの面々に対し反駁(はんばく)した言葉は、まさに記者クラブの主要構成員である大手メディアの大きな勘違いの「使命感」を強烈に皮肉るまさに的を射た発言であったといえる。

 

加盟社以外の参加を拒む「記者クラブ」は言ってみれば、情報独占というカルテルを結ぶ組織であると言ってもよい。その意味で「知る権利」「報道の自由」の名のもとにそうした既得権益を享受する既存大手ジャーナリズムに真の意味で権力と適切な間合いをとった「真実追究の姿勢」を期待することなど土台無理な相談なのだと思うしかないのだろう。

 

86.7%420付け宮崎日日新聞調べ)という驚異的な高支持率を誇る東国原知事である。選挙民である県民が味方しているのである。大手メディアを恐れることなく、メディアに襟を正させるべきところははっきりと正させ、悪弊があるとすれば改善を求めるなど、正面きってメディアと対峙して欲しい。

もしそうした知事の挑戦により大手メディアとの間で事が大きくなったとしても、小沢一郎氏や田中康夫氏の時代に比べネット普及は格段に進んでおり、事態は当時とは異なる結果をもたらすことになろう。それは良識ある宮崎県民やブロガーたちが大手メディアの報じぬ情報も一瞬にして日本全国に広め、一般人の手による真の意味の世論を形成することで、必ずそうした知事の政治姿勢なり言動をサポートすることになると思うからである。


野球特待生問題があぶり出す学校制度の矛盾と責められるべき対象4

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そして学校教育法第4章で高等学校教育についてその目的と内容が次のように規定されている。

41 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

42 高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。

1.中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。

2.社会において果たさなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。

3.社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。

43 高等学校の学科及び教科に関する事項は、前2条の規定に従い、文部科学大臣が、これを定める。

 

わが国の戦後における6・3・3制の学校制度は単線型体系と呼ばれているが、ドイツなど欧州に多く見られる分岐・複線型体系とはその様相を大きく異にしている。将来、子供がどんな職業、生き方を選択するとしてもこの日本ではほぼ100%の若者が高等学校までは進学する(H17年度進学率:高等学校96.5%、高等専門学校・通信課程1.1%)。しかも、その教育内容は学校教育法の第43条において学科及び教科を文科大臣が定めるとしており、最近は若干、多様化も見られ始めたとはいえ、きわめて画一的な教育がなされるモノトーンの学校教育制度となっている。

 

まさに学校教育法に言う「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努める」教育が言葉とは裏腹にモノトーンで施され、「個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させ」るものとなっている。

つまり高等学校を卒業するときには、社会人としての一般教養と素養を身につけたうえで、「個性に応じて将来の進路を決定」するとされている。まずは学生が世間に出てから生きてゆくための一般的な教養と批判力といった社会人としての素養・常識を備えさせ「国家及び社会の有為な形成者」たることを高等学校教育実現の具体的成果として謳っているのである。

 

 そうした単線的・画一的学校制度のなかで今回の野球特待生問題が発生したわけである。野球憲章云々のまえにこの学校教育法を厳格に遵守(じゅんしゅ)するとすれば、高校球児をはじめすべての高校生は前述の社会人としての素養を備えつつ高校卒業後の進路を決定しなければならぬことになる。プロの野球選手や卓球選手になることを前提として高校に入るのは、学校教育法の定めることからすると実はおかしなことになる。まぁ夢を抱いて入学することくらいは許容するとしても、「スポーツ等の特殊技能を評価」してその後の進路も既定路線であるといった特待生制度の存在自体が、学校教育法を厳格に適用すると実は矛盾したことになる。仮に特待生制度を設けるとしたら、入学を許可した特殊技能を活かして生徒がその道に進むようなことがあってはならぬとその運用については厳格にしなければならぬことになる。

 

そんな馬鹿な話があるかと誰もが思う。

 

日本学生野球憲章は昭和211221日学生野球基準要項として制定され、その後25122日に学生野球憲章と改正されたものであるが、野球特待生問題が語られるなかで、時代に合わなくなっているとしてその見直し意見も多い。

 

しかし、一方の学校教育法も昭和22331日に公布され、その翌日の41日から実施されたものであり、現代の職業の専門性の深化やライフスタイルの多様化、そして学校というものに対する価値感の変化等を考慮すると、こちらの方がよほど時代にそぐわなくなった矛盾を抱えた代物であると言ってよいのである。多様なライフスタイル、高度に専門化した職業に順応した教育制度、学校制度が整備されておれば、こうした馬鹿げたことが社会問題として取り扱われることもなかったに違いない。

 

野球をやる特待生だけが問題とされるのは不公平であるとか、高野連はあまりに時代錯誤的であり、生徒にしわ寄せがいくのは可愛そうであるという。その限りにおいては、ある意味、わたしももっともだと思う。

しかし、その根っこにある学校制度について目を向けると、その根本的見直しを怠ってきたこれまでの政府や文科省にこそ時代の変化や価値観の多様化に背を向け続けてきた大きな瑕疵(かし)・責任があり、今回の野球特待生問題で今もっとも責められなければならぬ対象であると考えるのだが、いかがであろうか。


野球特待生問題があぶり出す学校制度の矛盾と責められるべき対象4

プロ野球球団の西武ライオンズのアマチュア選手への金銭供与問題に端を発した高校野球児の特待生制度問題について、日本高等学校野球連盟(以下高野連・脇村春夫会長)は3日、学生野球憲章に違反する特待生制度の実態について最終調査結果を発表した。違反実態は高知県を除く全国46都道府県の376校で特待生制度が設けられており、7971名にのぼる高校球児に対しその制度が適用されていたというものであった。

 

調査結果を受けて高野連の脇村会長は「非常に数が多いということに驚いています」と語ったが、それこそ「驚く」コメントであった。

 

日本最大級のインターネット学校情報サイトの「日本の学校」(運営はJSコーポレーション)で「特待生制度」をわかりやすく紹介しているので以下に引用させていただく。

 

それによると、『特待生制度』とは「入学試験や日常の成績が優秀な生徒に対し学費の一部や全額を免除する制度。成績優秀者の判断は、入試、日常の成績以外にも、学校によってはスポーツ等の特殊技能を評価するところもある。基本的に成績優秀者の学校生活が、経済的な理由で阻害されないようにすることが目的であるため学費免除という形をとる場合が多く、ほとんど返済義務は課されない」と紹介されている。

 

 そして特待生制度の具体例のひとつとして「学費(入学金、設備費、授業料)3年間の免除(返済義務なし)。条件は入試成績が優秀、もしくは、スポーツに秀でていると認めた者」があげられている。今回、問題とされている高校球児に対する特待生制度は各学校により条件の若干の差異はあるにせよこの類の特待生制度が適用されていると見てよい。

 

 少しでも野球に関心のある人であれば、今回のことで野球特待生制度の存在と数の多さに驚きを覚えた人は非常に少ないのではなかろうか。平成16年、17年の連続優勝、平成18年には準優勝を果たした駒大苫小牧や青森山田高校の最近の甲子園での活躍ぶりを見ておれば、そうした私立高校がスポーツに秀でた者を地元外からあご足つきで招聘(しょうへい)してきて、学校の「売り」なり「顔」として特色を打ち出し、それを学園経営戦略の大きな柱としていることは容易に想像がつくからである。

 

 そうした状況下での日本学生野球憲章違反問題である。

憲章第13条は「選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない」と、明快に野球部員の特待生制度を禁止している。さらに野球憲章の内容は総則につづく第二章で大学野球、第三章で高校野球について規定が書かれており、目下、問題となっている第13条は大学野球の章にあり、高校野球については第19条でその規定を準用するとなっている。そして高校球児に対する裏金問題が発覚したことに鑑みれば、大学野球でも同じことが行われているのではないかと考えるのが普通の思考過程ではないかと思うのだが・・・。次の展開がどうなるのかと気になるところではある。

 

高野連が本当に特待生制度の運用実態を知らなかったとすれば、まぁ即座に己が不明を恥じて会長以下は総退陣し、新布陣のもと実態に即した新たな日本学生野球憲章に作り変えればよい。なぜなら特待生の制度自体に問題は何ら認められないからである。数学が得意、ピアノが上手、バスケットやフットボールがうまい等々の理由で学費免除等の恩典を受ける奨学生、特待生と呼ばれる学生は海外でもScholarship Studentとして存在するし、何ら後ろめたい制度ではないし、もちろん国際基準から見ておかしな制度でないことも明らかである。

 

 もし高野連が野球憲章を変えないというのであれば、「学生野球」というまったく別のジャンルのあらたな文武両道の素人野球を別立てに運営することを覚悟すればよい。その場合、日本のプロ野球選手やメジャーリーガーになりたい若者は高校や大学という教育制度の外に身を置き、残念であろうが甲子園と訣別する必要がある。そしてプロ野球界も一丸となってプロの研修生制度を改編さらに一新し、別途プロへの道筋を整備することの方が、世界に通用する一流のプロ野球選手を生み出すうえでもすっきりしていると言える。またプロを目指す若者も早い段階からプロの指導者による専門的指導が可能となり、割り切った形での英才教育が施されるほうが夢を実現する可能性は今よりも数段に高まると考える。

 

 そこで、こうした野球憲章の適否や違反者の処分をどうするかといった目先の観点で今回のことを論じることはマスメディアの方にまかせるとして、ここではこの野球特待生問題がいみじくもあぶり出した日本の学校制度の問題点について述べてみたい。

 

 日本の学校制度では、学校教育法において中等教育の後期課程として「高等学校」(中等学校の後期課程を含む)と「高等専門学校」を同法第一条で定める「学校」と規定している。またその「学校」には該当しないが「職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ることを目的とし」た「専修学校(高等課程)」という教育施設を別途認めている。

△紡海


エメラルドの海、沖縄---ナンクルナイサ5

エメラルドの海、沖縄---ナンクルナイサ

 

 

   エメラルド・オーシャンってやっぱりすばらしい〜!

エメラルドの海2

エメラルドの海面

白い砂浜と海

 

 

 

 

沖縄の空もイーゾ〜!

沖縄の空沖縄の海と空

沖縄!

 

 

 

 

沖縄のちょっとしたレストタイム・・・

海中道路ドライブイン

エメラルドグリーン

海中道路ドライブイン

 

 

 

 

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洲さき(宗和流懐石)−−飛騨高山料亭5

洲さき(宗和流懐石料理)−−飛騨高山 創業寛政六年(1794年)

−−−グルメ飛騨高山 (★★★★★)

〒506-0821岐阜県高山市神明町四丁目十四番地
TEL0577−32−0023

 

 

飛騨高山洲さき

洲さき お部屋床の間

洲さき お部屋から

 

 

 

 

 寛政年間の創業から200年を超える老舗中の老舗料亭「洲さき」は、司馬遼太郎氏の「街道を行くー飛騨紀行」にも描かれているように高山の古い町並み(上三之町)を抜けた朱塗りの中橋の脇にある。

暖簾をくぐり太い梁のある土間に入ると、女将が出迎えていてくれる。そのみやびな物腰と挨拶の言葉に遠い江戸の時代のゆったりとした時の流れのなかに心も体も自然ととけこんでゆくような感じを受けるから不思議だ。

明るい路地から一挙に薄暗い空間へ入り込むという意図せざる演出が、時間を超えた小世界を体感させるのに見事なまでの効果を発揮する。目の端に囲炉裏がきられた小さな畳敷きが入る。火のない囲炉裏が逆にひんやりとした空気をただよわせており、見事である。

 通されたお座敷は一階にあった。簡素な床の間のたたずまいに茶道宗和流の始祖金森宗和公の粋をみるようである。また開放的な座敷の縁側には水ガラスのはめられた引き戸がある。当世、ガラス越しに見えるすこしゆがんだ枯山水の庭は絶品といわざるをえない。

 料理がゆったりとした手順で運ばれてくる。お膳は当地の春慶塗りである。あめ色の膳の上に渋草焼きの器に盛られた彩りもおくゆかしい料理がならぶ。その味付けは小京都といわれるにふさわしいうす味である。

洲さき 料理2

洲さき 料理1

洲さき 料理3

 

 

 

 

川魚の「あまご」の塩焼きは骨も柔らく、頭から尻尾まで見事に食べつくす。したがって写真がない。お酒は「飛騨自慢」、常温でいただき当方、ご満悦。

 ゆったりとした二時間余の午餐はまた一度、訪ねてみる価値の十分あるものであった。今度は「宗和流本膳崩し」の本格的懐石を晩餐にいただきたいと考えている。匠の国、飛騨は工芸品だけではなく料理にも匠の技が伝承されていることをはじめて知った春の一日であった。

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飛騨高山―匠の里 (別冊太陽)

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