彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

November 2006

夕張市破綻、国は憲法25条にどう対処する3

夕張市破綻、国は憲法25条にどう対処する

夕張市(後藤健二市長)は929日に地方財政促進特別措置法第22条に規定される準用再建制度に基づき、財政再建団体指定申請を市議会で了承、この1114日にA4版の「夕張市財政再建の基本的枠組み案について」がまとめられ、公表された。現在、この資料に基づき市内6地域で順次、住民説明会が開催されている。ここ数日、TVや新聞で住民が市に対して大きく反発し、不満を述べる映像が流され、またその状況が記事として報道されている。

 

住民に示された「財政再建の基本的枠組み案」に目を通してまず気づくのが、財政再建団体への転落という事実に対する夕張市の認識の甘さである。市議会での申請議決から1カ月半、いや申請を検討し始めた段階から計算すれば、再建案の具体化には相当な時間的余裕があったはずである。1頁目にある「今後、再建計画を具体化する中で、さらに歳出の削減等の見直しをすすめてまいります」と他人事のように述べる言葉に、破綻・倒産といった切迫感は伝わってこない。

 

しかも、その資料は冒頭に述べたようにA4でたった5枚の紙切れのみである。その内容は、歳出削減については、職員数を「同程度の団体(自治体)の2倍程度いる職員数を平成21年度当初までに平均以下とし、平成22年度当初までに同程度の市町村の最小の規模にします。人口の減少に沿って、さらに削減を進めます」。また給与水準等の引き下げは「職員の年収はh17からh19の間に最大で約4割減額となります」と、倒産した私企業であれば何を能天気なことを言っているのかといった微温的な言葉が並んでいる。その他項目でも、「物件費4割程度の削減」、各種団体等への「補助金削減は8割程度削減」といった細目の示されていない大雑把な数字がただ羅列されているだけである。

 その一方で、住民負担の増加については市民税(個人・均等割)3000円→3500円、市民税(所得割)6.0%→6.5%、固定資産税1.4%→1.45%、入湯税新設150円というふうにやけに詳細に記述されている。こうした内容の記述自体が、この資料が住民に負担増を強いるためだけに作成された説得資料であることを如実に語っているように思えてならない。この事態に至った原因と行政の責任の所在については、「不適正な財政運営により膨大な赤字を抱えたことを深く反省し」と冒頭に述べるに止まり、その責任の取り方を示す文言は具体的にどこにも記述されていない。その認識の甘さと責任の取り方については、行政サービスをどう継続していくのかという対応策とは別に、今後とも糾弾されていかねばならぬ重要な問題である。

 

ただ現実的には、このたった5頁の「財政再建の基本的枠組み案」で行政の責任は問われぬまま13千人の夕張市民が自治体の財政再建という茨の道に放り出されようとしている。一部報道ではこの再建案はまだ甘過ぎる、もっと削る経費部分や工夫の余地があるとの総務省の意向を伝えている。そして資料に述べられているように来年3月までに総務大臣の同意が得られれば、夕張市民は否も応もなく私企業でいう倒産にあたる自治体の再建団体の住民へと転落させられることになる。

もちろん自治体の倒産は、私企業のように債務と資産を相殺して残った債務を債権者が被る形で企業そのものを消滅させる清算という行為はあり得ない。自治体は憲法で定められた制度であり、現にそこに住民が住み、生活を営んでいるため自治体消滅という事態にならぬことは言うまでもない。

 

ここに破綻自治体の再建の難しさがある。こうした厳しい条件が多いなかで倒産実務そして再建を図っていかねばならぬ夕張市民の財政再建準用団体への道は当然のことだが、容易ではない。再建への第一歩として住民に対する行政サービスは大幅に低下する。小(現在7校)・中学校(同4校)を各々一校に統合したり、下水道使用料の増額など決まっているものだけでも市民生活は大きなダメージを受けることになる。さらに唯一の医療機関である夕張市立総合病院も道内の病院よりも約3百万円低い給与水準ということもあり、現在の医師数5名(最盛期11名)から実質2名体制となることが決まっている。医療体制の崩壊と言ってよく、命の保障さえままならぬ状況の中に市民はいやおうなく放り込まれることになる。

 

 日本国憲法はその25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めている。過大な観光事業への投資等夕張市の財政運営の失敗といった理由はともあれ、国家は「健康で文化的な最低限の生活」を夕張市民に保障するそもそもの義務がある。

 

 歳出削減を図り、住民にも重い負担を強い、標準財政規模わずか44億円の自治体が総額360億円にものぼる膨大な赤字をどう解消していくのか。5頁の資料からはその大勢感も具体的道筋もまったく見えてこない。そのなかで、憲法でいう「健康で文化的な最低限の生活」水準がどう保障されるのかは、当然のことながら詳らかにされていない。現在、夕張市の人口の3割強は70歳以上の高齢者である。つまり課税負担に弱いさらには納税力の弱い税年齢構成となっている。石炭産業の衰退、閉山、観光産業投資失敗という過程における再建団体への転落であり、夕張市の人口は産炭地として隆盛をきわめた最盛時の11万人から減少の一途にある。市民の経済的負担を増やせば、それを嫌気し転職可能な人々、特に若い人々の夕張市脱出が増える。その一方で、市内には脱出すらできぬ経済的弱者の人々が残されていき、その人々への課税額はさらに大きくなる。そのおぞましい負の連鎖は実際にもう始まっている。

 

 現行の準用再建制度では、認定自治体に起債が認められるほかは国から一時借入金に対する特別交付税措置などがあるだけで、抜本的な財政支援措置は講じられていない。夕張市の言うように20年間という長期にわたり市民に重い負担と劣悪な行政サービスのもとで約定弁済を続けていくと述べるしか策がないのが現実である。

「地方分権21世紀ビジョン懇談会」の報告を踏まえ、この2006年7月7日の閣議で「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006」が承認され、「再建法制等も適切に見直す」とされた。今後、民間でいう破綻組織の存続を前提とした「会社更生法」や「民事再生法」のような法整備が地方自治体の破綻法制の議論のなかで深められていくことになろう。しかし、夕張市にその議論の決着を待つ時間的猶予は与えられていない。国も総務省も今回の夕張市のケースは、ただ、歳出削減を厳しくと「口先」指導を行うだけではなく、国として「健康で文化的な最低限の生活」水準とはいったい具体的に何を言うのか、どの行政サービスは残し、どのサービスは停止するのかなど具体的指針を示す必要があろう。そして、夕張市単独でその指針にある水準まで達することが不可能な場合は、まずは国の財源で最低限の生活を保障する義務があるはずである。

 

 本件については行政間のやりとりで時間を空費する余裕も夕張市に住む住民の不安をいたずらに引き伸ばす精神的余裕も残されていない。速やかに破綻法制の整備を行う努力を進めることは言うまでもないが、いま目前にある夕張市の財政再建には、行政には「大ナタ」を振るい、市民には「安心」という国民の国民たる権利を与え振る舞うべきである。



 

相次ぐ知事逮捕、地方分権の前にやるべき浄化3

相次ぐ知事逮捕、地方分権の前にやるべき浄化

 

10月23日、佐藤栄佐久(67)前福島県知事が東京地検特捜部に収賄容疑で逮捕された。続いて11月15日には木村良樹(54)和歌山県知事が大阪地検特捜部に競売入札妨害容疑の共犯で逮捕された。かつては革新知事と持て囃された県知事の相次ぐ逮捕劇である。

 

バブル時代の放漫財政のツケとその後の長い不況のなかで、この国の地方社会は、シャッター街という言葉に象徴される経済的疲弊と、親が子を殺し子が親を殺すといった凄惨な事件に見える人心の荒廃という両面において、かつてない崩壊寸前の状況にあると言ってよい。中央と地方の格差は広がる一方である。まさに地方再生は待ったなしの喫緊の国民的課題となっている。

 

そうしたなか、国と地方の役割分担を見直すための推進体制等を規定する「地方分権改革推進法案」が、2日、第165回国会の衆院本会議で趣旨説明と質疑が行なわれ、審議が始まった。法案は3年間の時限立法で、第一章第一条で「この法律は、国民がゆとりと豊かさを実感し、安心して暮らすことのできる社会を実現することの緊要性にかんがみ、旧地方分権推進法等に基づいて行われた地方分権の推進の成果を踏まえ、地方分権改革の推進について、基本理念並びに国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、地方分権改革の推進に関する施策の基本となる事項を定め、並びに必要な体制を整備することにより、地方分権改革を総合的かつ計画的に推進することを目的とする」とされている。

そして第二条ではその理念として「地方分権改革の推進は、国及び地方公共団体が共通の目的である国民福祉の増進に向かって相互に協力する関係にあることを踏まえ、それぞれが分担すべき役割を明確にし、地方公共団体の自主性及び自立性を高めることによって、地方公共団体が自らの判断と責任において行政を運営することを促進し、もって個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現を図ることを基本として行われるものとする」と高らかに謳われている。同法が今国会で成立すれば、盛り込まれている手順に従い、政府は有識者7人による地方分権改革推進委員会を内閣府に設け、来年4月、同推進委メンバーを決定することになる。

 

そして最大の課題である国から地方への税源移譲についても、7日の衆院総務委員会で菅義偉総務大臣が「地方分権を支えるためには地方税を充実させることが必要」として、「法案第6条の『財政上の措置の在り方の検討』に(その議論が)当然含まれる」と答弁した。  旧地方分権推進委員会が2001年に提出した最終報告で今後の重要課題として指摘した「地方税財源の充実強化」について一定の答弁が行われ、地方分権推進の動きは明らかに、第二ステージに入ったと言える。

 

その矢先の度重なる県政トップの汚職による逮捕劇である。「地方公共団体の自主性及び

自立性を高めることによって、地方公共団体が自らの判断と責任において行政を運営することを促進し、もって個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現を図る」と謳われた理念とあまりにかけ離れたこの醜態と国民に対する裏切り行為をこの両知事はどう弁明するのだろうか。

 

とくに木村良樹和歌山県知事は、平成15年5月に税源移譲問題に関連して、革新的知事の一人として、浅野史郎宮城県知事(当時)、麻生渡福岡県知事、北川正恭前三重県知事らで作る「地方分権研究会」のメンバー連署で、「三位一体改革の実現に向けての緊急声明」を発表している。そのなかで、「地方分権改革の目的は、住民と自治体が、国の関与と庇護から脱却し、地方のことは自ら決定し自らその責任を負う、自ら調達した財源で自ら立案した政策を実施するという、自立した地方自治を確立することである」と、強くアピールした。

 

今日の県政トップの相次ぐ逮捕劇を目の当たりにすると、税源移譲をして地方に好き放題させて、本当に大丈夫なのか、こうした地方行政を私(わたくし)する光景を見せられた暁には、まだ地方分権などこの国民にとっては時期尚早なのではないか、中央の監視の目が行き届かなくなるともっと地方での自侭な運営がなされてしまうのではないのかと、真剣に心配になってくる。同時に、両知事の厚顔無恥振りには正直、吐き気をもよおす。

 

改革推進法の目的に言われる「国民がゆとりと豊かさを実感し、安心して暮らすことのできる社会を実現することの緊要性」とは、地方分権以前に地方行政の大掃除に取り組むべきことなのではないだろうか。われわれはこれから明治維新以来続いてきた中央集権国家という国の仕組みを見直し、地方に権限を委譲し、地方が自らの手で再生を図っていくあらたな仕組み造りに取り掛ろうとしている。まさに新しい国家像を具体的に議論していこうとしているのである。地方の再生、新しい国家像を議論しようとする動きに水を差した今回の両知事の責任は極めて重い。どんな理由があろうともあってはならぬことであった。さらに岐阜県や長崎県で発覚した裏金事件、奈良県職員の長年にわたり黙認されてきた病欠問題など地方行政の紊乱(びんらん)の根は深い。

 

 われわれは地方分権という高邁な国家の仕組み造りを行なう前に、これまで以上に行政の姿勢に鋭く眼を光らせ、その浄化と透明性を高めていかねばならぬ。その正常化がなされてはじめて国民にとって意味のある地方分権が可能になるのだと考える。

 

人気ブログランキングへ

 

レッドソックスの落札額60億円が「草野球文化」を変える3

レッドソックスの落札額60億円が「草野球文化」を変える

 

 15日、西武ライオンズの松坂大輔投手(26)はポスティングシステム(入札制度)で、ボストン・レッドソックスにより約60億円という目の玉が飛び出るような金額で落札された。松坂投手の年俸交渉などはこれからとなるが、30日間の独占交渉により条件がまとまればこの60億円は現在の所属球団である西武ライオンズの懐に入ることになる。

英国BBCも「Boston think big over Matsuzaka 」とのヘッドラインでこのニュースを伝えた。「ボストンは松坂に途方もない望みをかけた」、松坂との交渉権取得だけに60億円という記録的金額を西武ライオンズに支払うことに戸惑いを隠していない。北米チームのなかでレッドソックスがアジアの優秀な選手獲得において遅れをとっていたことを理由としてあげ、この異様な金額を何とか自分自身に納得させるかのように見える。まさに金額の大きさに対する戸惑いの気持ちが正直に記事の行間ににじみ出ている。

 

 ポスティングシステムというと横文字効果なのか聞こえはよいが、「松坂投手が落札された」と聞くと、どうも人身売買をイメージさせ、それを公認しているようで何とも落ち着かない。オリンピックの商業化が言われ出して久しいが、いまやスポーツは莫大な金を成らせる巨木に成長し、りっぱなショービジネスとなった。今回はそのスター選手の移籍である。巨額な資金が動くのもビジネスであると割り切れば納得はいくのだろうが、日本のスポーツがアメリカ拝金主義にどんどん毒されていっているようで、正直なところ心穏やかではない。少年の頃に原っぱで誰もが馴れ親しんだ「野球」、いわば「草野球文化」が、われわれの日常生活とはかけはなれた別物の遠い存在になっていく、そんな寂寥感を感じてしまうのである。日本の選手が堂々と世界に通用するのだという晴れがましい気持ちもないわけではない。しかし何か違うのではないか、このままでは日本のスポーツ、スポーツの持つ野趣や素朴さといったものがアメリカという国の拝金主義的価値観に支配され、将来の道筋も規定されてしまうのではないか。松坂のMLB移籍問題で、かつての野球少年はついそんな取り越し苦労をしてしまった。

 

人気ブログランキングへ

赤ちゃんポストは捨て子を慫慂2

赤ちゃんポストは捨て子を慫慂(しょうよう)

 

 熊本市の慈恵病院(蓮田昌一院長)が子育ての不可能な親が赤ちゃんを捨てるポストを病院に創設することを公表した。病院の外壁に穴を開け、そこから内側に設置した保育器に入れるのだという。捨てられるのが犬や猫であれば話はわかる。しかし、対象となるのは人間である。蓮田太二医療法人聖粒会理事長は「捨て子を見て見ぬふりをして『死なせてもいい』という論理が通るか。子供に罪はない」と言う。

正論であり、その高邁な精神には素直に頭が下がる。ネットで当病院のホームページを閲覧すると、生まれ来る小さな命に対するまさにホスピタリティーの精神に溢れた暖かい愛情が画面越しに伝わってくる。今を去ること108年前にジョン・マリー・コール神父と5人のマリアの宣教者フランシスコ修道女により開設された沿革を持つこの由緒ある病院は本当に暖かい医療を心がけている医療法人なのだと思う。

 しかし、赤ちゃんポストは善意と愛情だけでは、かえって「捨て子」を慫慂(しょうよう)する可能性が極めて高い。捨てられた赤ちゃんを将来育て、養育していく機関、親代わりの人たちの継続的受け皿がしっかり用意されていない限り、この仕組みというより仕掛けは早晩、失敗に帰することになろう。

 ドイツでこの赤ちゃんポストが70例設置されているという。キリスト教という宗教的バックボーンがある国と無宗教で社会規範の荒廃が指摘されている国とでは、「子育てが不可能」の認識がおそらく根本から異なるのではなかろうか。最近の親が子を殺し、子が親を平気で殺害するこの国で、心血を注ぎ身を削るほどに子に愛情を注ぎ、そのうえでも愛する子を捨てざるを得ない人々が、一体どれほど存在するのだろうか。それほどの人間はわが子を捨てる選択の前に、別の方策を探し出す能力を有しているように思われる。

 

 現実は、この善意のポストを知ってこれ幸いと、産み落とした赤ちゃんをポイ捨てする人間が増えるのが、残念であるが今日のこの国の実態ではなかろうか。社会規範が壊れた社会にこうした善意は、かえって不幸の種を撒き散らし、悲しいことだが混乱を増すだけのように思えてならない。

 

人気ブログランキングへ

APECハノイに向けた中国外交のしたたかさ4

APECハノイに向けた中国外交のしたたかさ 

 

 今月18〜19日にベトナム・ハノイで第14回アジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が開かれる。それに合わせて中国は7日、胡錦濤国家主席の外交日程を発表した。そのなかで崔外交部部長助理(外務次官補)は、「APECの改革プロセスを推進し、APECの地域協力における地位影響力を保っていく」など四点をこの会議へ期待することとして表明した。あわせてAPEC会議をはさんだ15〜26日の間、ベトナムのほかラオス、インド、パキスタンの3カ国を公式訪問することを発表、アジアでの影響力拡大を狙う外交を展開する。

 

 崔部長助理が言及した四点のなかに、「『ボゴール目標』を早急に実行し、『ハノイ行動計画』を通じて貿易の投資自由化と利便化を強める」ことがさり気なく入れられている。そこに中国の老獪でしたたかな外交術が垣間見える。

 

ボゴール目標1994年にインドネシア・ボゴールで開催されたAPECの非公式首脳会議で

採択された「先進国は2010年まで、開発途上国は2020年までに貿易・投資を開放自由

化する」という目標

ハノイ行動計画:今月1日にハノイAPECの主要議題として明らかにされた「2010年ま

での貿易・投資の自由化の具体策や時期を明確化した」計画

 

 中国の意図するところは明快である。中国は現在、貿易の7割をAPEC域内に依存し、また国内への直接投資の7割強をAPECメンバーが占めている。いまや世界の人口の約4割、GDPの約6割(2001年)を占めるAPEC(21カ国)の巨大市場が自由に中国製品に開放されることは、中国にとってさらなる国益を生み出すことになる。

「ハノイ行動計画」とは、膨大な購買力を有する先進国の市場開放を規定するものである。「ボゴール目標」の2010年までに達成すべき部分、すなわち先進国に関わる具体的開放時期を「ハノイ行動計画」で縛ろうと目論んでいることは明白である。

 

 一方で中国は2001年12月のWTO(世界貿易機関)加入以後も、自国の市場開放については「国毎の差別待遇と貿易障壁の排除」というWTO協定にもかかわらず、さまざまな理屈や規制を設け市場管理のグリップを緩めていない。

 

 自国の巨大市場を餌にしたたかな外交戦略を展開する中国にくらべると、日本のハノイへ向けた準備といえば、表面的には開催国ベトナムのグエン・タン・ズン首相の10月18日から22日の新内閣最初の賓客としての訪日のみと言える。日越経済連携協定(JVEPA)の正式交渉を立ち上げ、来年1月に第1回会合開催を決定、二国間貿易総額を2010年までに150億ドル(2005年85億ドル)へ拡大といった二国間の関係強化に重点を置いた戦略で善しとしている。そこに総合的、大局的な外交戦略の道筋は見えてこない。

 

 先進国のなかで「ボゴール目標」達成に大きく遅れをとっているのが、日本、オーストラリア、カナダと言われている。今回この「ハノイ行動計画」が採択されれば、この三国において国内の対象産業の受ける打撃は決して小さくない。そうした事態を懸念するカナダは対抗策として既に04年5月に「アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)」構想を打ち出している。その構想は、現在、各国間で錯綜、雁行する二国間FTA(自由貿易協定)を一本化し、市場開放を総括的に大きく前進させる目的と説明された。しかし真の狙いが「ボゴール目標」をなし崩しにし白紙に戻すことにあることは、明白である。「ボゴール目標」は2010年時点では国内産業に大打撃を与えるとの判断がカナダにあるからである。カナダの国益に合致しないことから、あらたに発想され、提言されたのがFTAAPと言ってよい。

 

 当時(04年11月)、小泉総理はチリ・サンティアゴのABAC( APECビジネス諮問委員会)において委員からのFTAAPへの質問に対して、包括的なものとしてWTOがある、「現実的には二国間のFTAを前進させることが先決で、FTAAPは将来的な課題と思う」と、人の良い優等生の答弁をした。董建華・中国香港行政長官は、すかさず「小泉総理に同感。WTOに加え、また、APECの『ボゴール目標』は、先進エコノミーは2010年、途上エコノミーは2020年の自由化を目指すものであり、実際にはFTAAPの目指すものと同じだと考える」と応じた。

 

 まさに中国や開発途上国側の思う壺の反応を日本の総理はしてしまったのである。カナダの当事者たちは、国益を基軸に外交戦略を立てない国家がこの世界に存在することに、おそらく驚愕し、この策がこのお人よしの国のためでもあることに気づいていぬことに切歯扼腕したに違いない。

 

 中国の内外記者、各国大使館を対象とした7日のブリーフィングの中身を見て、「ハノイ行動計画」の発表から間髪を入れぬタイミングでかつその戦略的なコメントに、「行動計画」の素案つくりにひそかに中国が参画したのではないかと詮索もしてみたくなる。それほどに中国の外交戦略はしたたかで、あざやかであることをわれわれ日本人はもっと肝に銘じるべきである。安倍総理にはお人よしの小泉前総理の前例を踏まえ、ぜひとも日本の国益を基軸に据えたしたたかな外交戦略をAPECハノイで見せてもらいたい。

 

人気ブログランキングへ

毎日放送の歪曲報道と大手メディアの報道倫理の欠如4

 

女子ゴルフのミズノクラシック(三重県近鉄賢島CC)を中継した毎日放送(MBS)が4日(土)の番組放映のなかで、宮里藍選手が実際には一位になっていないにもかかわらず途中順位で、16番ホールで宮里選手がバーディーをとった瞬間、アナウンサーが意図的に「一位」に並んだと放送をした。

 

同番組は実況と録画を織り交ぜて中継番組を構成しており、そのなかで視聴者の興味をひきつけようと巧妙に編集し、そして実際にはあり得なかった藍ちゃんの一位というフィクションを作り出した。好意的に見れば録画と実況の混在する画面編集が、偶々そうした虚構の世界を作り出したのかも知れぬ。そして、その偶然を視聴率UPにつなげようと条件反射的に「一位」という言葉がアナウンサーの口をついて出たのかも知れぬ。

 

しかし、これは明らかな捏造である。現にMBSはこの放送が発覚した後に、「エンターテインメント性を重視した判断だが、今後の課題も残る」と、捏造の事実を間接的に認める説明をしている。その問題認識、報道姿勢の甘さには唖然とせざるをえない。スポーツ番組は立派な報道番組であり、もちろんフィクションではない。報道とは事実を正確に伝えることが何にも増して先ず優先されるべきである。事実をゆがめた映像解説は報道の根幹を否定するジャーナリズムの自殺行為であることは言うまでもない。「エンターテインメント性を重視」と見当違いの釈明を平然と行なったMBSの能天気さに、ジャーナリズムとしての致命的欠陥を指摘せざるをえない。

 

そしてそこには、最近のジャーナリズム一般に言えることだが、勘違いの驕りと軽薄さが透けて見えてくる。真実を捻じ曲げることの怖さに鈍感であることは、この国のジャーナリズムの精神的堕落のみでなく、メディアの手によって国民の知る権利がなおざりにされていくということである。さらにMBSの報道姿勢について大手メディアは軽く触れる程度で、深く掘り下げることをしなかった。その大手メディアの事実報道に対する意識の希薄化と倫理感の欠如のほうに、わたしはより強い危機感を覚えた。



 

あってはならぬ校長の自殺3

 

履修単位不足が発覚した茨城県立佐竹高校(同県常陸太田市)の校長、高久裕一郎氏(58)が10月30日に自殺。「生徒に瑕疵(かし)はない・・一命を副(そ)えて(生徒に不利益にならないご処置を)お願い致します」と結ばれた遺書の一部も公表された。次いで11月6日、愛媛県立新居浜西高校(同県新居浜市)の政岡博校長(60)が、自宅で首つり自殺をした。同県教委宛てに必修逃れをほのめかす「自分の認識不足や怠慢があった」との内容の遺書が残されていた。

 

わたしは11月3日付けブログ「履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)」で、「現場の校長、・・教育委員会、・・文科省が、(履修漏れを引き起こした)代償として、自らの今後の人生で償わねばならぬ。その責任のとり方こそが・・・まさに教育そのものである」と訴えた。履修漏れに導いた責任を「今後の人生で償う責任のとり方」で示すことこそ教育の原点であると言った。それは、卒業資格がとれない生徒の一年間の代償として、自らの職を辞し、教育というものを今後の人生のなかで見つめ直すべきだと訴えたのである。そうした出処進退、生き様を教育者自らがやって見せることが、感受性豊かな高校生らにとって「これにすぐる教育はない」と主張したのである。

 

 いま、いじめの問題で小、中、高校生が自ら命を絶つ事件が続発している。そうしたなかで、校長や教師など教育に携る人間がいくら精神的に追いつめられ、苦しいからといって「自殺」によってその責任なり、問題から逃避することは許されることではない。自殺されたお二人の校長先生が、いかに責任感の強い人物であったかは察して余りある。その死に対し哀悼の意を表することはもちろんやぶさかではない。

だが、しかし、彼らはやはり死ぬべきではなかった。不様でもよい、精神的に追いつめられたその苦難を「乗り越える」姿、悩みながら「生きる」姿を、生徒たちに見せることこそ、彼ら教育者がやらねばならぬことであると思ったからである。

 

「死ぬ」ことは、何の問題の解決にもつながらないこと、両親を始めとした廻りの人々に深い悲しみと心の傷を刻み込むだけなのだと、自らが「生き続ける」ことにより生徒たちに教え込まなければならなかった。どんなに苦しくとも、それが教育者たるものの最も大切な使命であるから。

 

 

二階俊博国会対策委員長に問う4

 

自民党二階俊博国対委員長が5日のNHK「日曜討論」で、中川昭一政調会長や麻生太郎外相の核保有の議論容認に関し「誤解を招きかねない発言を何度もすると任命権者の責任が問われかねない。発言を慎むべきだ」と自制を求めた。度々の自粛要請に拘らずこの3日に佐賀市の講演で中川政調会長が「(北朝鮮の軍事)能力も日々充実しているとするならば、平和と安全をどう守っていけばいいのか、核も含めて、なぜ議論しないのか」と重ねて発言し続けていることなどに対するものであろう。

 

二階委員長は「非核三原則は国是であり」、誤解を招く発言は慎むべきであると言った。民主党をはじめとして「閣内不一致」と一斉に非難の声をあげており、スムースな国会運営に責任を持つ国対委員長としての気持ちは、たしかに分からぬではない。わが国が掲げる「非核三原則」は唯一の被爆国としてもちろん世界に誇れるテーゼであり、その精神を世界に向けて発信し続けていく使命があることもよくわかる。

 

しかし、二階氏の言葉もまがうことのない自民党の要職にある議員の発言である。野党が批判するのとは、おのずからその意味合いと重みは異なってくる。政治家の最も重要な責務が「国民の生命と財産を守る」ことにあることは論を待たない。政権党の要職にある政治家が、国家の安全保障に重要な係わりをもつ核兵器保有の「議論」すら控えろという不見識と言論弾圧に、わたしはこの国の平和ボケと「安全保障」に対する無警戒さが度し難い水準にまできていることを感じてしまう。

 

 そもそも「非核三原則」とは、1967年12月の衆議院予算委員会において、当時の社会党成田知巳委員長が返還の決まった小笠原諸島への核兵器再持込みにつき問い質し、時の佐藤栄作首相がわが国は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という三原則を示したのが始まりである。当時の国民の核アレルギーを強烈に意識した答弁であったと言えよう。

しかしその時代に、日本に核攻撃を受けるかも知れぬという懸念があったかといえば、それはなかった。非核三原則は、逆に核保有国たる加害者(米国)の核攻撃に、結果として加担することの懸念に対し国民が大きく反発した結果の産物である。

 

さて現在わが国が置かれている状況はと言うと、核攻撃に曝される危険性、蓋然性が高まっている点で、当時とはまったく異なる環境にある。当り前だが、国際情勢は時々刻々と変容する。北東アジアの政治的緊張感や米国の国際社会での位置付け、軍事力の余裕も40年前の状況とは大きく異なっている。そうした情勢のなかで、この国の安全保障につき「核の保有」をタブーとしない「議論」を行ない、持つメリット・デメリット、持たぬメリット・デメリットを含め、どう国民の生命と安全を守るのか具体的な議論・シミュレーションを深めることに、何の不都合があるのか。

与党の要職にある政治家が国会運営という日常事に目を奪われ、国を守るという議論、危機管理の対応策を検討することすら控えろと言うのであれば、北朝鮮が仮に核で威嚇をして来た場合、わが国は同国が侮蔑したように米国の53番目の州であることを現実的に容認するのか、それとも事前に具体的対応策を議論したうえで独立国として生きぬく道を模索し選択するのか、究極の選択を迫られた場合、二階氏はどういう答えを現在、用意しているのかはっきりと問い質したい。

 

「非核三原則」が国是であるから議論すらまかりならぬというのであれば、「非核三原則」を念仏のように唱えておれば北朝鮮が核保有を断念してくれるという確実な担保があることを、二階氏は国民に納得のいくように説明すべきである。

 

政治家は国の安全保障に重い責任を有する。核実験等暴走を重ねる北朝鮮の不穏な動きを勘案すれば、正論は無責任な言説を強弁する二階氏や大手メディアになく、中川昭一氏や麻生太郎氏にあると考えるのが大人の判断であると考えるが、いかがか。



ならぬことはならぬものです3

ならぬことはならぬものです

 

 いま、この国の教育が大きく揺らいでいる。

そして第165回国会の衆議院教育基本法特別委員会において、教育基本法改正法案が審議されている。教育改革は安倍晋三総理が自民党総裁選で掲げた大きな政策課題であり、所信表明演説でも力をこめて語られた部分である。

 

いじめや履修漏れ問題で、目下、学校教育は大きく揺れているが、学級崩壊といわれ、教育現場の荒廃がいわれてからは久しい。また一方で、しつけができぬ家庭や子育てノイローゼにかかる若い母親たちの増加も目立っている。その孤立する家庭や母親を支援すべき地域共同体の結びつきも弱体化し、個人が、家庭が、孤立化を深めている。見わたす限り、この国の「教育」に関連する光景は荒廃し、その風景のひとつの要素である人々の心もささくれだっている。

 

かつてこの国の家庭では「礼儀作法」や「躾け」がやかましく言われ、隣近所との濃厚な「近所つき合い」や親戚との面倒ともいわれた「親戚つき合い」が当然のように行なわれてきた。

またルース・ベネディクトの「菊と刀」のなかで「恥の文化」と評された他人の目を意識する、気配りや謙虚さ、協調性といった人間関係を重んじたこの国の「美徳」の風景は、21世紀に入り、ものの見事に破壊され、荒れ果てた殺伐とした社会へと変わり果ててしまった。

 

敗戦後、軍国主義批判の名のもとに連綿と続いてきたわが国教育は、民族の貴重な歴史文化への誇りとともに、根こそぎ否定され捨て去られた。また一方で戦後の貧しさから政治も経済偏重の政策が強力に推し進められたことで、この国の文化の連続性は為政者によっても、また国民によってもいつしか見事なまでに断ち切られてしまった。現在の荒廃した教育の風景は、まさにその極端な偏りの行き着く先であった。

 

この荒廃した風景をかつての美しい国へと築き直すのは、一朝一夕にいかぬことは誰しも分かりきったことである。ただ、一朝一夕が不可能であっても、それをやらねば国が滅びるのであれば、誰しもが小石を積み上げるようにして、その再興に努めねばならぬ。

 

その一歩が、「ならぬことは、ならぬものです」という会津藩士の幼児教育で行なわれた「什の掟」の最後に唱えられる言葉を国民一人一人が実践することであろう。

優先席付近で携帯電話を使う人には電源を切るように注意する。道にポイ捨てする人にはゴミ箱に捨てるよう声をかける。優先席には妊婦やお年寄り、足の不自由な人たちに優先的に坐っていただく。横断歩道で戸惑っているご老人には、すすんで手を差し伸べ、一緒に道路を渡ってゆく。近所ですれ違う人々には、すすんで挨拶し、声を掛け合う。

どれもこれも些細で簡単なことである。しかしこの時代、少し怖い。また親切にしようとするのも、ちょっと照れくさいし、思い切りが要る。でも、こうしたことは小さな勇気をだして行なえば、思いのほか簡単にできるものである。ルール違反を注意された人間は気まずそうに正すし、また手を差し伸べられた人は照れくさそうにではあるがうれしそうに親切を受け取る。そこに少しずつではあるが見知らぬ人間同士に交流が生まれ、人間への信頼が芽生えてくる。

そうした小さな実践の積み重ねが「教育」を再興し、子供を含め人と人に信頼関係が築かれ、結果として社会規範というものが再興されていく道につながることをわれわれは、もっと自覚しなければならぬ。次に「什(じゅう)の掟」を転記するが、いま教育界などで注目を浴びているものである。会津藩士の十歳未満の幼時が、什という地区グループに属し、そこで什長(什に属する一番年長の子)のもと毎日、唱えた社会規範である。それに背くと、「無念」「しっぺい」といった罰が、子供のなかで与えられたという。七番目の婦人と言葉云々は武家社会という時代背景を表すものであるが、現代に欠けた社会規範、ルール、規範がすべて盛られている。子供だけでなくわれわれ日本人すべてが、もう一度、社会の構成員たる人として、この什の掟を大声で唱える必要があろう。そして、最後に「ならぬことは、ならぬものです」と締める。戦後日本の教育が、先の大戦を反省するあまり、大戦以前から行なわれてきた教育のすべてを否定し、捨て去ったところに現代の精神の荒廃があると、この什の掟を読みながら思った。

 

われわれ日本人は、七番目の「戸外で婦人と言葉・・」の教育を改めればよかったものを、一番から六番目までの当然の社会規範までも、軍国主義、封建制度の悪しき道徳とし、七番目の項目とひと括りにして捨て去ってしまったのではないだろうか。

 

「ならぬことは、ならぬものです」という当たり前の規範意識を持っておれば、福島県の佐藤栄佐久前知事や和歌山県の木村良樹知事がその職を辞することはなかったことは、確かである。

 

什の掟

     年長者の言うことをきかねばなりませぬ。

     年長者にはお辞儀をしなければなりませる。

     虚言(うそ)を言ってはなりませぬ。

     卑怯な振舞をしてはなりませぬ。

     弱いものをいじめてはなりませぬ。

     戸外(そと)で物を食べてはなりませぬ。

     戸外(そと)で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ。

 

「ならぬことは、ならぬものです。」

 

人気ブログランキングへ

会津藩校日新館と白虎隊

 

菊と刀―定訳

PJニュース.net PJ募集中!


 

東京都心身障害者扶養年金廃止の答申出る1

10月27日(金)開催された第6回東京都心身障害者扶養年金審議会において、扶養年金制度廃止の最終答申案が採択され、答申書が山崎泰彦審議会会長から山内隆夫福祉保健局長に手渡された。当審議会は都知事から「東京都心身障害者扶養年金制度の社会的役割の変化を踏まえた今後のあり方」について諮問を受け、平成18年5月12日を第1回とし、わずか6回の審議で答申に至った。審議時間わずか7時間弱のスピード審議である。

 27日の最後の審議会は午後6時から開催され、松山祐一障害者施策推進部副参事により31分にわたり答申案の説明があり、山崎会長から質問の有無につき委員全員に確認された。委員からは質問も発言もまったくないまま、答申案は全員一致で承認された。4分間の休憩に入った後、山崎会長から予め用意されていたと思われるメモに沿い総括がなされた。

「(扶養年金制度廃止に至った)答申は、(制度の利用者、当制度を利用しない障害者、一般都民のそれぞれの立場を考慮した)ギリギリの妥当線を探ったもの」であると自画自賛の講評が行なわれた。続けて「委員を引き受けるに当り、都から財政状況の説明を受け、制度の存廃を含む審議を行なって欲しい、秋まで結論を出したいと言われ、引き受けを逡巡したが、(答申が)全員一致の結論で嬉しく思っている」と、各委員、都事務局に対するお礼と労いの言葉で総括は終了した。そこで冒頭の答申書の手交式となった。杉村福祉保健局総務部長から委員へのお礼と挨拶がなされ、閉会が宣されたのは午後6時47分であった。

 

 一般就労が極めて難しく障害基礎年金以外に収入のない障害者たちが、親亡き後に月3万円の年金をもらえるように、20年間にわたり掛け金をかけ続けてきた障害者たちの親の切実で切ない気持ちはまったく忖度されない内容の答申であった。答申の「はじめに」で「(中間答申に)寄せられたパブリックコメントは624件におよび・・・本審議会としては・・・加入者の切実な要望、様々な意見を重く受け止め、さらに審議を行い、最終答申をとりまとめた」とある。パブリックコメントの締切り以降開催された審議会は2回、時間にして2時間に満たない。これを「重く受け止め、さらに審議を行い」答申をとりまとめたと言う行政とは一体、誰のための公僕か。

会長を除く委員の発言のない無言の審議会である。「諮問」とは、都が諮問し、都自らが答申を作成・説明し、とりまとめ、納税者や利害関係者に対する偽りの客観性・公平性を担保する舞台装置なのだと、傍聴していてあらためて感じた。もうこうした形式的審議会のあり方は廃止すべきであり、事務局が準備にかけた時間は障害者の将来の経済不安の解消策の立案に割かれるべきであると強く感じた。


 

 

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)3

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)

 

そして早稲田大学や山形大学の当り前の対応がなぜか凛々しく見えることに、虚しさと寂しさを覚えてしまう。推薦入学申請に当たり提出する内申書の改ざんは、りっぱな私文書偽造罪にあたる。この訂正を求めるのは当然の行為であり、訴えられれば高校側は罪に問われる。法治国家としては至極、当り前のことである。そうした法治国家に帰属する国民に遵法精神のイロハを教えることは、言うまでもなく教育の重要な要素である。その原理原則を教育する側の犯した罪は、本来、「申し訳ない」で済む話ではもちろんない。

 

 では、今回の履修漏れ問題にどのように対応すべきなのか。

 

答えはひとつしかない。会津藩の幼時教育で行なわれた「什(じゅう)の掟」で、最後に唱える誓いの言葉「ならぬことは、ならぬものです」という教育の原点にもどり、対応するしかないのだと思う。教育基本法の改正を議論する前に、われわれ自身が、教育とは何か、学ぶということは何か、原点に立ち戻り結論を出すべきであると考える。

 

 すなわち「履修単位が不足すれば卒業は出来ぬ」ということであり、法の穴を抜けるような姑息な手段をこの国の将来を担う若者たちに慫慂し、形だけ整えればよいといった処世術を教唆することは避けねばならぬと考えるのである。社会通念を超えた特例措置、いや誤魔化しは決して子供たちの将来の利になるはずはないからである。姑息な単位の辻褄合わせなどは、「学ぶ」という基本を過たせる百害あって一利なしの行為そのものであるからである。これから人生の花を向かえる若人たちに、これからの一年は決して無駄ではないと教えることこそ、大人たち社会が「教育」するべき大切なことなのではないだろうか。

 

 そのことは、こうした履修スケジュールを作った学校現場の校長、それを知っていて見過ごしてきたであろう教育委員会、それらを総括的に管理する文科省が、数万人におよぶ卒業できぬ高校生たちの心と経済的負担および可能性のある貴重な一年間を奪い去る代償として、自らの今後の人生で償うことと同時になされねばならぬ。その責任のとり方こそが教育基本法改正の議論の前になされるべき、まさに教育そのものであると考える。戦後教育の抜本的改革とは、それほどに重くそして大きな犠牲なくして成就することはありえぬ難題であると考えるからである。


履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)3

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)

しかし、今国会の大きな目玉の一つが、安倍総理が公約に掲げている教育基本法の改正である。これまでの戦後教育のあり方、仕組みなどを抜本的に見直す、国民にとってはこれからの日本を規定する最重要政策である。その審議の入口で噴出したこの履修漏れ問題。この対応のあり方自体が、すなわち「教育」と表裏の関係にある「学ぶ」という概念をどう規定、定義するのかという、教育基本法改正を議論する前の重要な試金石として問われることになる。対応いかんによって国会や文科省を含めた教育界が、教育という問題を議論するそもそも資格があるのかないのかが、明らかにされると考えるのである。

 

 その意味において、今回の履修漏れ問題に対し、目前に迫った大学受験をどう乗り切り、どのようにして高校卒業資格を取得させるか、履修単位の辻褄合わせをさせるかという姑息で技術的な対応策でお茶を濁すべきではないとわたしは考える。「教育」はまさに国を構成する最も重要な要素である人つまり国民の資質を高め、育む最も重要な国家としての役割であり、国策としても最上位に来るべきテーマである。その百年の計を議論するに当たり、「教育」「学ぶ」ということの本質は何かを、国民ならびに国政は原点に返って真剣に考え直してみる必要がある。今回の事件はその意味で、われわれに大きな試練を与えたと考えるべきである。

 

 この履修漏れ問題は、教育に大学受験に合格するための効率性または各学校間の競争を促す原理を導入したところに問題の芽が見て取れる。「教育」「学ぶ」とは何かという原点を見失った現在の教育行政・現場の実態が、大事な教育基本法改正議論の前に噴出したことで、結果としては原点に立ち返り問題点を整理し議論を深めるうえで、最良のタイミングであったとも言える。

 

 受験生、高校側、文科省および大手メディアの目下の発言や論調を見ると、受験科目でない科目を勉強することは時間の無駄であることを、公に認めているとしか見えぬ扱いに、わたしは「教育」に関わる当事者たちの痩せ細った「教育観」、「学ぶ意識」を見てしまう。世界史であれ、地理であれ、数学であれ、どんな学科も大学受験などとはまったく無縁に独立して同等の価値を有する学問である。あらゆる学問は人類にとって貴重な共通の知的財産であることをすっぽりと忘れた議論が平気でなされていることに、この国の「知」に対する意識の貧困さと価値観の堕落を覚え、目先の打算的価値観の蔓延に国家としての勢いの衰えを感じるのである。



履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)3

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)

富山県立高岡南高校(篠田伸雅校長)10月24日に発覚した地理歴史科の履修漏れ問題は、瞬く間に全国各地に波及した。こうした事態を受けて安倍首相は27日夜、首相官邸で記者団に「子供たちの将来に問題が発生しないよう対応すべきだと考えているし、そう(伊吹氏に)指示をした」と語った。

 

そして30日の衆議院教育基本法特別委員会において、伊吹文明文部科学相によりこれまでの文科省の実態調査(国公立対象)で、高校数で289校、人数としては47,094人もの3年生が学習指導要領で定められた必修科目の履修漏れが存在するという実態が国民の前に示された。この信じられない数字が、いじめなど教育の現場が抱える問題の病巣の深さが、尋常ではないことをあらためて国民に知らしめる結果となった。

 

全国各地の教育委員会や高等学校は、学習指導要領の枠内で授業時間を減らすなど、最悪の事態を回避すべく検討を始めた。つまり指導要領にある例外措置を活用し、急場を凌ぐしかないというのが実態である。例えば「特に必要のある場合には、その単位数の一部を減じることが出来る」とか、「単位取得に必要な出席日数については各学校が内規で決める」ことを根拠として「全授業の3分の2以上」などと定め、すべての授業に出席する必要はなくすといった法の抜け穴を悪用するに等しい方法で、対処しようと検討を進めているのである。

 

一方で、すでに出願書類の提出期限がほぼ到来している推薦入学についての大学側の対応は分かれている。早稲田大学(東京都新宿区)は、28日までに履修漏れがあったとされる推薦入試の対象高校に対し、正確な記載に訂正した調査書の再提出を求める文書を発送するという。また山形大学医学部では後日、提出された書類の記載事項に虚偽が見つかれば、合格を取り消すと発表した。そうした厳しい対応を決めた大学は今現在、そう多くはない。大半は高校側を信頼しているとして洞ヶ峠を決め込んでいる。

 

この時期の受験生に受験科目以外の学科の履修に多大な時間を割けというのは、いかにも酷であるとする心情は非常によく分かる。自分が受験生であれば、学校の言う通りにやってきた挙句の、降って湧いたような受験直前の大きなタイムロスの強要である。受験生の怒りと戸惑い、不安の計り知れなさは察して余りある。それゆえに総理からも適切な救済が図れるよう支持が出され、救済策の策定が国会の場においても議論されている。

(「中」に続く)


教育委員会は戦後教育の残滓3

                           

 昨年9月に起こっていた北海道滝川市の小学6年生女子(当時12歳)の教室内での自殺行為(後に死亡)が、ご両親のメディアへの原因究明依頼の動きを契機に、一年経ったこの102日にようやく市教育委員会(安西輝恭教育長)が記者会見を開いた。そして「原因は現時点で特定できない」と述べ、いじめの存在を事実上認めないとの見解を示し、世間の批判を浴び、いじめを認めた。あれだけの悲痛な遺書が残されていたにも関わらず、この一年間、事実を隠蔽し放置していたとしか思えぬ行為。「いじめ」と当初、認めなかった姿勢。

 

また1013日に分かった福岡県筑前町立三輪中学校の中2男子生徒(13歳)のいじめによる自殺(11日)も元担任教師のいじめから生徒のいじめが始まったと言われている。ご遺族に対する合谷校長の説明が、当初の元担任教師のいじめの事実を認めた謝罪から、その後の記者会見で一転、「教師の言動は直接、生徒の自殺の原因にはつながらない」と、事実否認を行なった。その翻言の背景にも教育委員会の存在を感じざるを得ない。

 

このふたつの事件の背景に共通して見え隠れする「教育委員会」とは一体、何なのか。その存在に大きな疑問を感じ、憤りを感じる。

 

今を遡る20年前の中曽根内閣時代、首相の直属諮問機関として設置された臨時教育審議会(臨教審)の第2次答申「教育行財政改革の基本方向」【1986年(昭和61年)】において、教育委員会の当時の現状について、すでに次のような厳しい言及がなされている。

 

「近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ『合議制の執行機関』としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足しているといわざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。」

 

この指摘は20年経った現在、まったくひと言の文言もいじる必要のない「今の教育現場の問題」を摘出したものと言える。逆に言えば、20年間この答申にも関わらず、教育行政・現場ともに何の変革もなさずに無為な月日を浪費してきたということになる。

 

この国は一体この20年間、何をやってきたのか。北朝鮮の核保有問題然り。すべて問題を先送りしてきた政府の責任はあまりにも大きい。そして政府の怠慢による犠牲者となった幼い児童、夢をはぐくむ中学生たちがあまりに傷ましく、悲しい。地方教育行政法により地方自治体により設置を義務付けられた教育委員会。「教育は国家から一定の距離を置いた中立的位置にあらねばならぬ」との終戦直後の残滓である考え方で出発した教育行政のあり方の限界が、「いじめ」という傷ましい事件によってようやく浮き彫りにされようとしている。


北朝鮮の6カ国協議復帰は時間稼ぎ3

  

「米国・中国・北朝鮮は近く6カ国協議を再開することで合意した」と中国外務省が10月31日、発表した。北朝鮮が10月14日の国連安全保障理事会による国連憲章第7章第41条に基づく制裁決議案を受けて、瀬戸際外交を止め会話路線に転じたのであれば、これほど幸いなことはないが、そう断じるのは早計であり、危険である。

 10月9日の地下核実験が十分な成果をあげ得たか否か、その規模の小ささから失敗の可能性が指摘されている。もしそうであれば、これまでの核保有国と非核保有国に対する米国の外交圧力のかけ方に明確な対応の違いがあることを熟知している金正日が、核開発の完成を急ごうとするのは当然の帰結であろう。

 

そう考えると今回の6カ国協議への復帰の動きは、単純に喜ぶべき話ではなく、逆に北東アジアの緊張をさらに高めることになる単なる時間稼ぎなのではないかと邪推したくなる。あと数週間なのか、あと数ヶ月なのか、同国が核開発に必要とする時間がどれほどであるかは、もちろん知る由もない。

しかし、平成14年9月17日に発された日朝平壌宣言の不履行やこれまでの米国との狡猾な外交手口および国連の場における傍若無人な立ち居振舞い、老練な手練手管を見ていると、今回の復帰宣言を素直に「はい、そうですか」と、鵜呑みにするわけにはいかない。

 

わが国の安全保障上、きわめて懸念すべき隣国の核保有に時間的猶予を与えるべきではない。核関連施設に対する不断の監視体制をさらに強化し、慎重でかつ注意深い外交交渉が引き続き求められる。そして北朝鮮に不適切で不穏な動きが認められたときには、米中韓露と十分連携し、国連安保理決議違反として即座に、国連憲章第42条に掲げられる「安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。」による軍事的措置という制裁に踏み込むことを覚悟し、準備を進めておくべきである。


 

最新・北朝鮮データブック―先軍政治、工作から核開発、ポスト金正日まで

 

 

北朝鮮 対日謀略白書―金正日が送り込む特殊工作員によるスパイ活動全記録

 

 

 

 

 

核保有議論封殺の愚3

 

北朝鮮の核保有問題で北東アジアが激震している。10月15日、中川昭一自民党政調会長がわが国の核兵器保有につき「議論は行なっていい」という認識を示し、18日、麻生太郎外相が「(核保有を含め)いろいろな議論もしておくというのは大事」と発言。これに野党、大手メディアは一斉に非難の声をあげた。

こうした中、国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長は16日、「非常に短期間に核兵器を製造する能力を持つ国が30カ国増加」との懸念を表明した。その中にオーストラリア、台湾といった国名が見える。日本は「非常に短期間のうちに」核保有国に包囲される可能性が高いということである。「非核三原則」という自縛により安全保障の議論すらできぬ平和ボケというより思考停止に陥っていると言わざるをえない。

ここで冷静に国際情勢を見渡して見ると、別の風景が見えるはずである。米・中が恐れるのは北朝鮮の核保有ではなく、日本の核を最も危惧しているのである。これまで被爆国として憲法第9条の下でマインドコントロールされてきた日本が、自らの核保有でのみ核抑止力は働くのだという自明の理に気づくことを恐れているのである。  

日本の対北朝鮮強硬路線に米・中が素早く応じ、行動した事実がそのことを如実に語る。独立国家として当然の国防行為につき具体策を議論することのどこに非難されるべき点があるのか。

ライス国務長官は米国の核の傘の実効性につき口を極めて強調した。しかしその口調が強ければ強いほど、自国が報復されることを容認してまで、日本のために他国へ核攻撃を行なうなど、国益から考えてどうしてもあり得ぬ。他国民のために自国の国民の生命と財産を犠牲にする国などありえぬからである。

 そろそろわが国が米国の核の傘というイリュージョンから覚醒するべきときがきたのだと、今度の北東アジア情勢の緊迫は語りかけているのではなかろうか。

 


最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

月別アーカイブ
記事検索
プロフィール

彦左衛門

  • ライブドアブログ