彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

September 2006

安倍総理の堂々たる所信表明演説5

わたしは、以前、「安倍晋三官房長官の総理の資格」というタイトルで、その資格に不安と疑問を呈した。そのなかで、地域ブロック大会で総裁候補間のディベートのなかで、安倍氏の議論を「抽象論でもよいのだが、国家ビジョンというにしても、ある種のコアになる具体的柱、芯がなければ、国民の心には目指すべき国家のイメージすら浮かんでこない」と評した。

その後、わたしは、日頃から批判しているメディアのように、ファクトに基づかず自分も感覚的に評価を下す愚に陥っているのではないかと思い至った。安倍氏の考えを深く勉強もせずに、TVの映像や新聞のコメントという間接的情報で、評価を下す愚かさをわたしは犯してしまったことを、まず安倍総理に謝らねばならぬ。

まず、具体性を欠くと一部で酷評されている「美しい国へ」(文春信書)を買い求め、読み終えた。読み出すに当って、メディアや評論家がこの本について色々、コメントしていることを頭から消去して、まっさらな気持ちで読んでみようと考え、一気に読破した。そして、929日の第165回国会での新総理の所信表明演説を聴いた。

わたしが知っている総理大臣で、国家ビジョンについてこれほど熱っぽく語った本を知らぬ。そして自らが筆を取り書き上げ、自分の言葉で語られた堂々とした「所信表明演説」を聴いた記憶がない。

週刊誌や政治評論家の森田実氏など多くの政治評論家が安倍内閣なかんずく安倍総理をこき下ろす論評を加え続けている。それはそれで、それぞれ意見の相違、商売、拠って立つ場が異なるのであるから、自由である。

しかし、昨日の所信表明演説は、稀代の名演説であったと感じた。21世紀の百年を見据えた国政の方向性を明確にかつ凛として訴えたものと高く評価したい。今日の朝刊やTVでは早速に、総花的・具体性を欠くといったそれこそ事大主義的なコメントが並んだ。

たぶん具体的に、官僚が作った文章を読めば、「国家ビジョンを欠いた」所信表明とこき下ろされたのだろうが、今度の所信に官僚の手は入っていないという。でなければ、あの安倍氏の謳い上げるような演説の熱気は伝わってこないはずだ。わたしは冷静に演説を聴いたつもりだし、今日、新聞で全文を読み直した。ある面、現在の社会の抱える問題に、極めて具体的に数字を明示し、解決すべき決意を表明し、またある面、国家百年の計に立って国民に自立の精神を訴え、そのために国家として基盤整備を行なわねばならぬことも、堂々と言っている。

限られた時間で内政・外交等すべての課題につき洩れなく語るのは難しい。どうしてもメリハリを欠くきらいもあろう。しかし、わたしは演説を実際に自分の耳で聴いた。最後の結びの「戦前、戦中生まれの鍛えられた世代、国民や国家のために貢献したいとの熱意あふれる若い人たちとともに、日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子供たちの世代が自身と誇りを持てる「美しい国、日本」とするため、私は、先頭に立って、全身全霊を傾けて挑戦していく覚悟であります」言葉にいたり、国民もまさに安倍氏とともに立ち上がり、変わらねばならぬのだと強く思った次第である。

「美しい国へ」のなかで、『「公」の言葉と「私」の感情』という小題のなかで、知覧飛行場から飛び立っていった鷲尾克己少尉23歳の日記に言及する部分があった。

〔「はかなくも死せりと人の言わば言へ、我が真心の一筋の道」

自分の死は、後世の人に必ずしもほめたたえられないかもしれない、しかし自分の気持ちはまっすぐである。〕

わたしは、安倍新総理のその自書と所信表明演説に触れることで、骨太の政権構想と国民という公に対して不退転の覚悟を示した政治家としての姿勢に素直に、感動を覚えた。今後の具体的な政策に期待を抱き、冷静にこの政権の行く末を見守って行きたいと思う。


グルメ京都編――― おがわ5

グルメ京都編−−− おがわ(蕎麦)☆☆☆☆

 

京都市北区紫竹下芝本町25  0754958281

 

 

 


 京都で蕎麦というのも何だが、実はおいしい蕎麦屋がある。「おがわ」という若いご夫婦でやっておられるお店である。有名な「虚無蕎望なかじん」と異なって、あまり知られていないお店であるが、一度、訪ねる価値はある。

 

自家製の蕎麦粉を使った石臼挽きの手打ち蕎麦は、色も上品な肌白で太さも細身(田舎そばは太い)で、いかにも古都の雅(ミヤビ)の蕎麦だと納得してしまう。

 


そこでお洒落なガラス製の銚子と猪口で、温かい蕎麦がきと焼きみそを肴に冷酒をいただく。これが、実は絶品で京都のお昼のほろ酔いお奨めコースである。ついつい、お酒がすすんでしまうのが難点といえば難点であるが、これはわたしの性格上の難点であり、「おがわ」の問題ではない。(確かどなたかのブログで冷酒が美味しくないとか書かれていたが、呑ん兵衛のわたしには絶品としか思えぬ)

 


そしてほろ酔い気分のところに辛味大根のおろしそばは引き締まって腰がある以上に、あたしの気持ちをぎゅっと引き締めてくれる。大根おろしの辛味と一緒に蕎麦が喉をこすときシャキッと背筋が伸びるのである。そう・・・、午後の寺社巡りにあらたな力を与えてくれる。ちょっと、言い訳じみているかな・・・。

 


冗談はさておき、十分食通人の評価に耐え得ること、請け合います。

 


「虚無蕎望(コムソボウ)なかじん」は、わたしは蕎麦としては値段が高過ぎで、いま三つくらい・・・だ。そして蕎麦を食べるのにお店の講釈が多すぎて、まぁ一度行けば、もういっか!ってな感じである。味は蕎麦に色々混ぜ物をして面白いといえばいえるが、わたしはやはり蕎麦は単純なのがよい。


 

「障害者自立支援法による障害者いじめという矛盾」2

「障害者自立支援法による障害者いじめという矛盾」

 

 平成18年7月15日(土)の東京新聞朝刊で不定期に掲載される「からむニスト」にベリー荻野氏が「この四月から施行になった障害者自立支援法が抱える大きな矛盾と障害者という弱者が追い込まれていく」様子に、素朴で素直な感想を述べているので、以下にその全文を転記させていただく。

 

NHK教育「福祉ネットワーク」を見ていて、驚いてしまった。その日のテーマは「障害者自立支援法3ヵ月」。

私がびっくりしたのは、福祉施設などで仕事をしていた人が、職場を去るケースが増えているという現状だ。この法律では、福祉施設などで働くと「施設利用料」を障害者本人が負担しなければならない。番組のケースでは、一ヶ月四万円程度の収入があった人に対して、七千五百円の負担がかかっていた。

一方的に解釈すべきではないかもしれないが、「ここで働くなら利用料を払いなさい」ってこと?一般企業ならありえない話で、働いて自立したい人を「支援」することになるのか?

この点は番組でも問題視されていた。私たちは、だれでも障害を負う可能性がある。こういうテーマは、もっと一般のニュースなどでも取り上げるべき。関心を持たないと、知らないうちにいろんな法律が成立しちゃう可能性だって、あるわけだからね。』

 

わたしの娘はダウン症という生まれながらにしての知的障害者である。今年で25歳になった娘に、また新たな将来への不安が生まれたのが、このベリー荻野氏が言っておられる「障害者自立支援法」という看板を掲げた羊頭狗肉の法律の施行である。

 

わたしはこの約三年にわたり社会福祉法人の設立に関わってきた。娘の将来の生活不安と自立に備えるためである。幸いにもその努力が実り、昨年、新しい社会福祉法人の設立が認められ、会館(作業所)建設にかかる国庫補助金の交付も決定を見た。これで、私たち親が死んだ後も、娘は国と障害者指導に携わる職員やボランティアの人たちに助けられながら、法律の庇護の下、何とか人生を全(まっと)うできると一安心というか、一息ついたところであった。

 

しかし、郵政解散(2005.8.8)を機に、一旦は問題が多いとして廃案になった「障害者自立支援法」が、総選挙後の与党の圧倒的多数の政治情勢の中で、成立を見た。一般にはほとんどその法案審議に関心は払われていなかったが、理解力のある障害者、障害者を抱える家族、福祉業界に携わる人々たちなどはその帰趨に重大な関心を払ってきた。そして、世間の関心をほとんど買うこともなく、この法案は2005.10.31に衆議院本会議で起立多数で粛々と可決・成立した。

 

健常者(福祉用語で障害のない人のことを指す)と異なり、企業への就職が非常に難しい障害者は、ただでさえ社会や家族の支援なくして自らの生活を自らの力で営んでいくことは至難の業である。特に健常者ですら、ニートやフリーターという実質失業者の増加を見ている社会情勢では、障害者が自立生活を営んでいく自体、これまでも無理な話であった。

 

そうした中で、この四月から「障害者自立支援法」は施行された。

その第一章、第一条の総則で、次のように「目的」が謳われている。

「この法律は、障害者基本法の基本的理念にのっとり、他の障害者及び障害児の福祉に関する法律と相まって、障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い、もって障害者及び障害児の福祉の増進を図るとともに、障害の有無にかかわらず国民が相互に人格と個性を尊重し安心して暮らすことのできる地域社会の実現に寄与することを目的とすること。」

 

その理念は机上のものとして理解され、その志は高いと言ってよい。しかし、具体的な条文に入り、複雑な仕組みが明らかになっていくにつれ、自立すべき収入の道が閉ざされた障害者に、その自立への支援サービスを受けることに対する応益負担という考え方が盛り込まれていることなど、この法律が実態としては、赤字財政を手っ取り早く改善するひとつの算段であったことがわかる。世間の関心も薄く、声の小さい障害者という弱者にしわ寄せをして、その一助と成そうとする余りにも冷徹な為政者の魂胆が透けて見えるのが、悔しく、そしてせつない。因みに私の娘のひと月の(授産施設での)賃金は一万円である。それでも、娘はお給料日が近づくとそれを指折り数えて待っている。その嬉しそうな姿を目にするたびに、親として胸が強く締めつけられる。この自立支援法がこのままでは、憲法に云う「25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と、麗々しく謳われている国民の「権利および義務」とは、一体何なのか、この国の根幹にある人権尊重の精神とは何なのか悩まずにはおれないのである。


 

古都散策――葛城古道5

古都散策−−葛城古道

 

 

 標高960メートルの葛城山のロープーウェイで6分ほど登ると、頂上の少し手前までゆける。以前より雄略天皇がその山中で一言主神(ヒトコトヌシノカミ)に出会ったと云う霊山に登ってみたいと思っていた。そして、そこから大和盆地を見下ろすとどういう光景が眼前に展開するのかを確かめたかったのである。

 

葛城山から大和三山  ロープーウェイから葛城山

 

葛城山から大和三山

葛城山紅葉

 

 

 

 

 

 

 

 

 葛城山から大和盆地は一望に収められる。その意味で意外と小さな盆地ともいえるし、しかしその盆地で古代国家が繁栄したと思うと、その大きさは単純に物理的感覚だけで捉えてはいけないのかとも感じた。現に視界の右手には盆地の突き当たりに立ちはだかるようにして吉野の山並みの緑が深まっていく。

 

 一言主神社石碑   一言主神社拝殿   境内の土蜘蛛塚

 

一言主神社石碑

一言主神社

一言主土蜘蛛塚

 

 

 

 

 

 

 

  

 一言主神社へまず足を伸ばした。大和の王であるはずの雄略天皇が、葛城山中で遭遇し、ひれ伏し恐れ奉ったという一言主神とは一体どんな神であったのか、知りたいと思った。

 

 一言主境内の大銀杏 無患子(ムクロジ)の樹

一言主銀杏

一言主樹木

 

 

 

 

 

  

 

 

                                 

 

  

 

  あまりに素朴で簡素な村の鎮守様のようなたたずまいに、かえってこの神社の格式の高さを感じ取った。大和の王がひれ伏した神が、こういう形の祀り方であっても今の世まで命を永らえてきたことに、先祖の人々の厚い信仰心と、簡単には時の権力には屈しない民衆の雑草のような生命力を見たような気がした。

 

 そのあと、長柄(ナガエ)神社へ向った。天武天皇がそこで日本で始めての「流鏑馬(ヤブサメ)」を催した場所と言われている。流鏑馬をやったくらいだから大きな境内があると思ったが、本当に猫の額ほどの場所が拝殿前にあるだけの小さな小さな神社であった。往古は当然大きな参道、境内を擁していたに違いない。訪れる人もなく静かな時間の流れが境内を支配していた。

 

 長柄神社      境内の苔むした狛犬  高天原迷い道

 

長柄神社

長柄狛犬

高天彦迷い道 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから金剛山の麓を少し登ったところの高天彦(タカマヒコ)神社を訪ねた。大和王朝の前の王であった葛城族の氏神を祀った神社である。この脇から高千穂とは異なる高天原(タカマガハラ)に登れるが、途中まで行ったが道に迷い、辿りつけなかった。残念であるが、一言主がもう一度ゆっくり来いといってくれたような気がしたから不思議である。

 

 高天彦神社参道    高天彦神社     説明看板

 

高天彦参道

高天彦神社

高天彦神社看板

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後に高鴨(タカカモ)神社を訪れた。京都の上加茂神社、下鴨神社や全国の鴨社のここが発祥の地である。ひなびたところにゆったりといかにも悠然として高鴨神社はあった。参道左手に広がる池には神社の象徴である鴨(カム=神)が泳いでいた。水面にしずかに広がっていく波紋が、往古から連綿とつづく悠久の時の流れを伝えてくれるように思えた・・・。

 

 階段から高鴨神社拝殿 拝殿の大太鼓     拝殿正面

 

高鴨神社

高鴨拝殿

高鴨拝殿内

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 拝殿から池    波紋をわずかに描き・・ 高鴨神社参道を

 

高鴨神社池

高鴨池

高鴨参道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

入江泰吉 大和路巡礼 (2)  葛城山の祭りと伝承

人気ブログランキングへ

 

小泉施政5年の総括――格差社会の拡大1

 小泉内閣5年の総括――格差社会の拡大

「小泉内閣5年の総括 にもどる)

 

前回抜粋した国会議事録等に目を通していただくと、小泉総理が当初「格差は拡大しているとは思わない」と言ったことは、官僚の報告を鵜呑みにした、事実を分析・透徹しようとしないいつもの独り善がりの軽い乗りの答弁であったことが分かる。所得分布の偏りを表わすジニ係数など具体的数値が示され、野党議員が追求を行なっていった結果、22日の答弁において「格差がでることが悪いとは思わない」と開き直り、「負け組みが再挑戦するチャンスのある社会が小泉改革の進む道」と、巧妙に軌道修正を図っていった経過も見て取れる。

 

答弁はいつもながら自在といおうか、傍若無人といおうかその不誠実さには適切な言葉が見つからない。前言をひるがえそうが一切、頓着しないし、政治家の言葉の重みなど無関係と空とぼけている。

 

ましてや、小泉総理という人物は一国の最高権力者の言葉の重みがどういう影響を与えるかなど、考えてみたこともないのではないか。いつものことだが、答えに窮した時には、「色々多面的に検討し、総合的に判断する」とひと言言えばよいのだから。そしてこの「総合的に判断する」という言葉が実は曲者である。小泉総理にとってこの言葉は、「その時の世論動向を見て、政治的勘で決める」と同義語であるからである。そうした空疎と言おうか、国民を愚弄したようなコメントに対し、この国のメディアは切り込もうとしない。権力をチェックすべきメディアが正常に機能しない国で、国民が闇雲に支持率を与えるということは、こうした傲慢な指導者をのさばらせることでもある。

 

さて、「格差の拡大」について検証をしよう。国会の議論のなかでしばしば語られた格差拡大の指標としての「ジニ係数」について、まず、理解しておこう。この係数を十分に国民に理解させぬまま国会審議を進めていった所に、格差議論が国民的議論への深まりを見せなかった一つの原因がある。その意味で野党の責任は重く、国会質疑のイロハ、国会論戦のイロハをもっと学んで欲しいと思う。

 

 ジニ係数の数値の水準についてこれと云う絶対的解釈・定義はないが、目安として次のような説明がなされている。

 

~0.1:平準化が仕組まれる人為的な背景がある(要は理想的な共産主義社会)

0.10.2:相当平等だが向上への努力を阻害する懸念がある(要は努力してもしなくても所得に大差がない社会で、努力へのインセンティブを欠く活力を生まない社会)

0.20.3:社会で一般にある通常の配分型

0.30.4:少し格差があるが、競争のなかでの向上に好ましい面もある

0.40.5:格差がきつい

0.5〜:特段の事情のない限り是正を要する

 

「ジニ係数」は図で説明するのが分かりやすいのだが、以下言葉で説明を試みたい。

 

横軸が世帯数の累積構成比、縦軸が所得の累積構成比で原点が0%として横100%、縦100%の正方形。(x,y)が(0,0)と(100,100)を結ぶ45度線が均等分布線(一世帯当所得が均等とした時に所得累積額を繋いだ線)である。

実際の一世帯当所得を低い方から累計した所得額を繋いだ(45度線より下に曲がった)曲線をローレンツ曲線という。起点・終結点は均等分布線と同じ(x,y)が(0,0)と(100,100)である。

 

 均等分布線(45度線)とローレンツ曲線で囲まれた面積=A

(x,y)(0,0)と(100,100)で囲んだ正三角形の面積=B

 

ジニ係数=A/B

 

ジニ係数が0(A=0、ローレンツ曲線と均等分布線が重なる)の時  は、全世帯が同所得というケース

 

ジニ係数が1(A=B)の時は、全世帯を100として99世帯が所得0、

1世帯のみに所得があるというケース

 

従って、Aの面積が広くなるほど、つまりジニ係数が高くなるほど所得の集中が大きいことを示す。いわゆる「格差」が大きいことを示している。

 

ジニ係数が0.7の時を例にとると、所得上位15%の世帯数だけで全所得の85%占めると云うことを表わしている。また、ジニ係数0.5は所得上位25%の世帯数で全所得の75%をも占めている状況となる。

 

前回、ジニ係数の推移(19812002)を示したが、1981年に0.35(健全な社会)であったものが、統計数字の直近値、2002年は0.4980.5を超えようという状況である。これまでの傾向値(増大)から見て、2006年現在は、所得の是正を必要とする0.5以上の範疇(ハンチュウ)、すなわち格差社会に確実に突入しているものと推測される。

 

まさに「格差」は無視し得ぬ水準にまで達しているといわざるを得ない。そしてこの数値はわれわれが今、実感している社会の二極分離、いや一極(一部の人)だけがそびえ立つ社会になっているとの肌感覚にぴったりと来る数値なのである。

 

もう無視し得ぬこうした「格差の拡大」を「格差が出ることが悪いとは思わない」とうそぶいた小泉総理。

 

「改革なくして成長なし」の勇ましい掛け声でスタートした小泉施政5年間でもたらされたもの、それは「弱肉強食」、いたわりの欠片もない殺伐として荒廃した社会の現出であった。あなたの周囲に目を凝らして欲しい。電車のなか、何の変哲もない街角、職場や学校そして最も温かくなければならぬ家庭・・・。人心の荒廃がここに窮まったことが、そうした日常的光景のなかに無造作に転がっていることにすぐ気づくはずである。

 

そして、この格差の拡大は一代で終わらず、良質な教育を受ける層と受けれぬ層にすでに分かれていることを通じ、「格差の再生産」というループに入りつつあると言える。階級社会の到来がすぐ目前に迫っているといえる。小泉純一郎という男は「自民党をぶっ壊す」ことをせず、もっと大きな日本という国をぶっ壊しつくして、この9月26日に総理の座を去ろうとしている。(完)

 

 

Г北瓩

 


心身障害者扶養年金制度廃止への意見書提出−−−5

心身障害者扶養年金制度廃止への意見書提出--- ?

 

?にもどる

 

4.    仮に廃止という方向だとした場合の問題点

(a)   扶養年金制度が「保険」であるとの審議会の認識の間違い

    審議会で扶養年金が生命保険と同様であるとして議論が進められている点だが、生命保険は当然だが被保険者が亡くなった場合に保険金が支給される。

 

    扶養年金は、加入者(生命保険でいう被保険者)が亡くなった場合に、年金受給権(保険金受取権)が発生するのは同様。

 

    生命保険と根本的に違うのは、障害者(生命保険でいう受取人)が親(被保険者)より先になくなった場合、年金受給権(保険金受取権)はなくなることである。

生命保険金の場合は、受取人(障害者)が亡くなった場合でも、保険金受取権が相続人に順次移行していく、消滅はしない点で決定的な違いがある。

 

    障害者の平均寿命が短いといわれた時代にこの制度に入った加入者は、そのリスクを取っている点で、生命保険の倍のリスクテイクをしている点において、生命保険とは根本的に異なるものである。

 

    理屈を並べ立てる以上に、本来、扶養年金制度は約款第11条「調査に協力する義務」にあるように、福祉政策の一環であったと理解していた。同じ生命保険であれば、委員のどなたかがいっていたように掛け捨ての民間保険に我々は入っていたはず(特にh10年の掛け金の変更時には移行を考えたはず)であるし、行政の福祉政策と理解していたからこそ、h10年の掛金大幅引上げにも応じたのである

 

(b)  「加入者からの訴訟」を心配する審議委員の本審議会のスタンスは何か

 議事録を読んでいて、審議委員の本件に対する基本的姿勢は何であるのかを問いたい。「加入者からの訴訟」に耐えうるかとの発言は、「(扶養年金制度を)どのように立て直すかという問題意識から審議をはじめた」と中間報告にあるが、どう議事録を読み直してみても障害者の立場に立った発言ではなく、行政の側に立った発言としか残念ながら見えぬのである。

 

(c)    未受給者への対応

 

    「全国制度の2万円に平均的受給期間分に給付したと仮定した場合の総額をもとに、現在価値に換算して算定」の問題点と疑問点

 

.支給額は全国の1.5倍と手厚い制度であったが、一方で掛け金においても東京都は全国制度よりそもそも高い(全国制度の1.37倍から1.17倍)

.支給額の算出根拠のみを全国ベースとし、返還金において都民のみが高い掛け金を払ってきたことを一切、評価しない根拠・理由は何か。片手落ちといわれてもしかたがないのではないか

.現在価値換算の「割引率」の水準により、支払い金額は大きく異なる。

客観性のある割引率をどう規定するのか。財源が破綻するとした「扶養年金財源の将来推移」の試算で使用した運用利回り0.5%を「割引率」とするのか。

 割引率が大きくなれば、支払い金額は減ることになる。一方で、当然だが基金の運用利回りは上昇することになり、基金の破綻は先に延びていく試算となる。

 割引率と運用利回りは、当然のことだが表裏をなすものであり、説明に都合の良い数字だけを使用すべきではないと考える。

 

    特約付加は東京都のみの制度かと思うが、その支給額1万円は全国制度を参考できないが、何を基準に金額を決定するのか。

 

(d)    年金受給者との公平性の確保に納得しかねる

    既に扶養年金を受給している人と受給権が発生している人との不公平感は、どう埋めるのか。民間の年金も財政基盤が悪化した際、既受給者の受給額の削減も併せて実施することは、周知のこと。未受給者は予定の3万円ではなく、全国ベースの2万円という余りにも安易な対応に、この審議会の目的は誰のためのものなのか、何を目的としたものなのかを問わざるを得ない。

 

    さらに扶養年金は任意加入であるから、未加入の障害者との間に不公平感が生じるとの意見も、解しかねる。当時の障害者制度は身体障害者、知的障害者、精神障害者等縦割りになっていたことは周知のはず。そして、それぞれに補助金の仕組みが異なっていた、即ち不公平であったことも自明の事実であった。軽度の知的障害の人が扶養年金制度への加入が多かったのも、軽度の知的障害者はその助成・補助が少ないとの認識が保護者にあったから、将来に不安を抱えたからこそ、当該制度に加入した事実を知ってもらいたい。

 

    今になって、未加入者との間との不公平感があるというのであれば、当時の障害者間での不公平な補助金のあり方については、行政はどう説明するのか。誠実な回答を求めたい。廃止に都合の良い理屈・事実のみを取りあげて、議論するのは厳に慎んでいただきたい。

 

以上


心身障害者扶養年金制度廃止への意見書--- 5

障害者扶養年金廃止への意見書提出---

 

,砲發匹

 

2.    「諮問内容」の「東京都心身障害者扶養年金制度の社会的役割の変化をふまえた今後のあり方について」は、「役割の変化」の認識が異なれば、政策的対応は全く逆に

 

    制度の立て直し審議からはじめたと、「心身障害者扶養年金加入者だより(h18.8)」にあるが、審議内容は「廃止」を前提に終始。

 

「どのように立て直すかという問題意識から審議をはじめた」との説明だが、平成18年5月12日からのたった3ヶ月間の短い審議(審議会は4回)、総審議時間は僅かに4時間58分(1回目1時間55分、2回目1時間7分、3回目1時間30分、4回目56分)で、どのような具体的、真摯な建設的議論がなされたというのか。本気で、「制度をどう立て直すのか」議論がなされたとは、議事録を読んでみても、またこの審議時間を考えても先に結論ありきとしか見えない。行政も委員の方々も障害者の将来を本気で考えようとしているとは、悲しいことだが思えない。

 

    項番1で云う「政策目的」が達成されていないという立場にある私は、「財政的に立ち行かぬので」廃止するという理屈は理解できない。その理由は、国民年金も同じなのではないか。強制加入か任意加入かで異なるという議論は、生計の道を自ら見つけられない障害者の保護者には、あまりにも冷淡な理屈に聞こえる。そうであれば、何度も言うが、民間の単純な生命保険に私は入っていた。

 

3.    審議会の自立支援法施行後の同政策の評価・現状認識と、障害者の親や福祉現場の認識との間に大きな乖離

    政策評価の相違に起因する当該制度の位置づけに大きな差異

福祉保健局長の「我が国の障害者施策は格段に充実した」「障害者を取り巻く環境も変化してきている」との障害者を取り巻く環境が改善していることを強調されているが、その認識はこの国・自治体の財政基盤の悪化のなかで、「環境は悪化してきている」と正さねばならぬ。そもそも政策の実績評価を下すのは、納税者であって、行政者ではないことは自明のはずである。

 

    制度見直しの方向性に大きなズレが生じることに

「環境悪化」のなかで、支援法施行で障害者の経済的負担はさらに増して行く。こうした状況下、自活の難しい「障害者の親亡き後の不安をどう払拭するか」という政策課題は、ますますその意義を強めこそすれ、弱まることはない。現状認識の違いが、まったく異なる政策判断となっていると言ってよい。

 

につづく

 

人気ブログランキングへ

 

 

障害者扶養年金廃止への意見書提出5

障害者扶養年金廃止への意見書提出--- 

 

 福祉保健局作成の「心身障害者扶養年金加入者だより(h18.8)」や、東京都のHPにて開示されている過去4回の審議会議事録を読み、中間報告で示された扶養年金制度廃止の方向性について以下の、疑問点ならびに問題意識を列挙、提示させていただく。

 

1.    扶養年金制度創設時の政策課題は既に達成されたのか

    制度創設時の目的は達成されたのか

    扶養年金制度は「障害者の保護者が死亡した後、障害者に年金を支給するため扶養年金制度を設け、・・・残された障害者の将来に対し保護者の抱く不安の軽減を図ること」を目的とすると謳われている

    自立支援法の施行により、逆にますます親亡き後の「障害者の将来」への不安は大きくなっており、当該制度の政策目的は達成されたとは、とても言い難い

 

    障害者の立場に立っての検証・総括が不十分

    障害者関係の制度や法律は昭和44年当時と較べればたくさん立法化され、施行に移され、障害者への理解が進んでいることは事実である

 

    しかし個々の障害者が置かれている立場(地域と共生と言いながら施設整備が遅れている・一般就労も極めて困難・自立支援法で自己負担が従来以上に発生・法外施設通所の障害者の存在は未解消)に思いを至し、自立とは逆に障害者が経済的にも制度的保護の観点からも、ますます厳しい状況に追い込まれて行っていることをもっと検証すべきと考える。

 

    第一回審議会の福祉保健局長の冒頭発言に「我が国の障害者施策は格段に充実した。近年では、グループホームや障害者地域自立生活支援センターの整備など、障害者が地域で自立できるような環境の整備も進み、さらに一般就労に向けた取り組みも始まるなど障害者を取り巻く環境も変化してきている」とあるが、この現状認識は、現実とは大きくかけ離れた認識であることを、まず委員の方々は検証すべきなのではないか。

 

福祉保健局長は、「そうした法律や掛け声などはだいぶ整備された」というべきであり、続いて「しかし、その政策効果はほとんど上がっていず、実際に障害者の一般就労は一向に進んでいない」と挨拶すべきであった。

さらに、この4月にスタートした自立支援法は障害者自立を目指す方向とは反対に、自立を阻害する法律になっていることが、4月以降の施設退所者が急増している現状が証明しており、その目の前の現実をどう委員の方々は考え、行政に対し問い質すべきなのではないか。

そもそも、局長が言われたように障害者施策が充実しておれば、こうした事象は起こりえないのではないか。

 

    「当該制度の社会的役割の変化(相対的に小さくなった)」との認識に異論

    昭和44年当時は、民間の保険制度も充実せず、障害基礎年金制度がなかったとあるが、扶養年金制度の役割は今もその当時も役割自体の意義と価値は変わっていない。いやそれ以上に増していると言ってもよい

 

    4回審議会で、一部委員に「扶養年金が作られたときには、時代背景として民間保険がないとか」という発言がありましたが、民間の生命保険は下記のように30年代には既に十分に整備されており、40年代半ばには親が生命保険に入る行為は普通であった。そうしたなかで、この扶養年金に加入したのは、この制度がひとえに障害者を支援する福祉政策(公的支援があるから民間保険とは異なる)であると理解したためである。扶養年金が現在のように廃止リスクがあると考えたら、私は当然、民間の生命保険に加入した。

 

この制度が公的政策のひとつであると私が認識したのは、年金約款第11条「調査に協力する義務」の「加入者、年金受取人、障害者又は年金受給権者は条例第13条第4項の規定により知事が行なう調査に協力することを要します。 2項 加入者又は年金受取人は、毎年1回生活状況を窓口機関に報告することを要します」にある。委員のいうこの制度が「一種の生命保険」であるというのなら、なぜ私たちはこうした「プライバシーを行政に報告する義務」を20年間もの長きに亙り課されなければならなかったのか。委員の方々の見解を伺いたい。

 

【昭和30年、生活保障のニーズに対応して、従来の養老保険の保障部分を増大した定期付養老保険が発売された。その後、日本経済の発展とともに定期付養老保険は年々人気があがり、昭和33年末の保有契約高は4兆4,640億円、国民所得に対する保有契約高の割合は94%となった】

 

    私の子供(愛の手帳3度)のケースで経済面での自立支援の意義を説明する

 

  障害基礎年金---6.6万円/月 (20歳から支給開始)

東京都育成手当て---1.5万円/月

授産施設工賃---1万円/月          

合計月収 9.1万円/月(年収109万円)=A

 

 自立のためのグループホーム入居費用---9万円/月

 社会福祉法人利用料---1.5万円/月(就労移行支援サービス)

 昼食代---1万円/月

 送迎費用---0.5万円/月                 

 合計支出 12万円/月(年間出費144万円)=B

 

 単純に35万円/年の赤字(A−B)である。

現状は、この赤字を扶養年金の48万円(特約付き=4万円×12ヵ月)で、ようやく埋める計算となっている。

 

    この上記出費は施設との往復だけの人生を送るだけという費用である。趣味のCDやV6のコンサートなどに行くお金は勿論なく、健常人の人生の娯楽やちょっとした買い物、洋服代等最低限の生活を送ることも不可能なことは自明である。

    こうしたなかでの、扶養年金4万円/月(私は特約に19年間入っているので)は、私たち両親亡き後の子供が一人ぼっちになった時に、人間らしい最低の人生を保障する貴重な制度的に保障された財源として期待し、疑いなく信頼していた収入であった

 

△砲弔鼎



中田英寿の孤独1

 

5日、日本サッカー協会(JFA)の川淵三郎会長(キャプテン)がロイターのインタビューに対し、「中田英寿はチームのほかの選手と意思を通じさせることができなくなっていた。彼はW杯で持てるすべてを出したが、無視されていた部分もあった。彼自身、どうやって意思疎通させていいか分からなくなっていた」と語った。(ロイター)

 

Wカップドイツ大会の一次リーグ最終のブラジル戦で、試合終了後、ピッチに仰向けに寝転がり、天を仰いで涙をこらえようとしていた中田英の姿が、まざまざとまた私の瞼に浮んできた。

 

つねに「天才は孤独」「先駆者は愚かな民に排斥(ハイセキ)される」と言われるが、川淵キャプテンの言葉を聴いて、わたしは二つの意味で悲しみといおうか、この日本人のどうしようもない狭量さに愛想がつきてしまった。

 

ひとつは、Wカップ日本代表の選手たちについてである。彼らは当然、プロである。勝つことを求められているサッカーのプロフェッショナルである。勝つために何が必要で、そのためには何をしなければならぬか、何を我慢し、やってはならぬかを熟知していたはずである。

 

だが、彼ら(英を除く代表選手)はプロではなかった。プロフェッショナルとして当然やるべき、勝利という目的へ達成するやらねばならぬことに、子供じみた個人の感情を持ち込んでしまった。世界の最高峰の選手が集うWカップで、「組織の勝利のために個を殺す」ことは、当たり前すぎるほど当り前のことであろう。個人的嫌悪感や感情を殺して、強力なリーダーシップの人間の下で結束せねば、トップレベルのチームに勝利など覚束ない。現に、ドイツ大会は日本代表は赤子の手を捻られるようにして惨敗した。

 

川淵キャプテンの話を聴いて、選手間に予想以上の感情の亀裂があったことに、この代表選手たちの子供じみた心の狭量さを感じた。勝つための鉄の意志。こんな言葉・心持ちは日本のプロスポーツ選手にはまったく持ち合わせようのない、哲学的精神なのであろう。技術がどうこうの前に、精神的な闘う者としての成熟度が、あまりに低レベルであると言わざるを得ない。これはサッカーのみでなく、野球やほかのスポーツでも当てはまる。TVでちょっと持て囃されて一流になったと勘違いする。その程度のやわな精神構造で世界で通じようと考えることが甘え以外の何ものでもないのだろう。

 

もうひとつは、この発言をしゃーしゃーとして恥じぬ川淵キャプテン以下日本サッカー協会の面々たちの、どうしようもない無能力さである。気がついていたのであれば、人事権、資金などまさに協会が合法的に有する権限で、結束力欠如の要因排除に縁の下で最大限の努力と工夫をするのが、役員、指導者たるものの最も大切な役割ではなかったのか。まるで評論家、部外者のように語る人に、今後の日本のサッカー界を任す気にはならぬし、この人たちが居座る限り日本サッカー界に将来はないのだと思う。

 

中田英は、日本に戻ってくるのだろうか。帰ってくる必要はない。こんな狭量で、無責任な国など強靭な精神力を身につけた彼なら捨て去ることができる。そのほうが彼の持てる力、サッカーに限らず素晴らしい才能を存分に発揮し、世界に貢献することができると強く思った。

小泉施政5年の総括――格差社会の拡大1

小泉施政5年の総括――格差社会の拡大

 

「小泉内閣5年の総括 にもどる)

 

                               ()内は西 暦     

ジニ係数  0.35(81)  0.43(90)  0.47(99)  0.49(02) 0.526(05)

非正規雇用者数(万人)1043(96) 1225(99) 1406 (02) 1663(06)

同上比率(%) 21.4(96)   24.8(99)   28.7(02)    33.2(06)

パート/一般労働者賃金比率(%)45.9(90)  43.7(95)   39.1(02)

生活保護世帯比率(%)14.0(93) 15.7(99)  18.9(02)  25.0(04)

一世帯当平均所得(万円)661(96)  626(99)  589(02)  564(05)

 

 小泉改革影の部分の代表的なものとして「格差社会の拡大」が挙げられる。上記の数字をご覧いただきたい。すべての数値が悪化傾向を示している。そして、その数値とは社会の貧困層を数値で表してみたものである。

 

 小泉内閣最後の国会となった第164回国会でも、小泉施政5年間で「富める者はより富み、貧する者はより貧していく」社会構造が定着しつつあるとの批判・質問が野党及び与党公明党よりなされた。小泉総理との間では論争といおうか、いつもの小泉流カメレオン・はぐらかし答弁により格差議論は深まりを見せないまま、店晒(タナザラ)しにされて、最後の国会は閉会となった。その虚しいやり取りの一部を、まず、総括の前段として国会議事録から転記するとともに、記者団とのやりとりも掲載する。

 

内閣府が高齢化社会と核家族化の進展により世帯当りの所得が減少したことが、ジニ係数(所得格差を示す代表的指標=次回詳述)増大の主因であるとして、我が国の格差拡大は確認されないと月例報告で報告したのは1月19日である。ここで、その後の国会議事録・記者団とのやり取りを以下に記すことにする。

 

小泉総理の格差社会固定化についてどのような認識を持っていたか、真に国民の立場に立つ意思があったかが、国会答弁や記者団とのやりとりのなかから、自然と明らかになると思うからである。つまり、国民の間に格差が拡大していることなんて同氏にはほとんど関心はなく、重要な位置など占めていなかったということである。

 

 

06.1.26衆議院予算委員会)

(公明党 上田勇議員質問)

最近非常に関心が集まっております経済格差の拡大の問題について、総理にお考え方をお伺いしたい

 

(小泉内閣総理大臣答弁)

社会の格差の問題について、最近よくジニ係数という言葉が使われます。我々学生時代はエンゲル係数とかいって、家計のいわゆる食費の割合。これはもう学校でよく習ったんですけれども、我々の学生時代にはジニ係数という言葉はほとんど聞かなかった。しかし、最近よくジニ係数という言葉が出てきますね。これは、社会の中において、所得の格差がどの程度とかいろいろ統計データがあるわけですが、そういう統計データを、私、識者からよく伺ってみますと、現在、言われているほど日本社会に格差はないということであります。

 

06.1.27衆議院予算委員会)

(民主党小川淳也議員質問)

私ども民主党も、小泉改革の光と影という角度からお尋ねを代表質問以来させていただいております。公明党の神崎代表も大変いい御質問をされておられます。自民党の青木参議院議員も大変いい角度から質問をしておられます。昨日の公明党、上田委員もそうでした。格差に関して、一言で言えば心配しているわけですね。・・・この点に関して、小泉総理は、格差拡大は確認できない、そうおっしゃいました。これは、総理に何度聞いても同じでしょうから、少し相手方をかえて、谷垣財務大臣にお尋ねをしたいんですが、日本社会の格差の拡大は確認できない、大臣も同じ認識ですか。・・・内閣府が我が国の格差拡大は確認されないと月例報告で準備をしたのは一月十九日。

【この小川議員の質問は総理に何度聞こうが、埒があかないと谷垣財務大臣へ質問の矛先を向けている。この件で総理の答弁はなし】

 

 

(格差問題で平成1826日朝日新聞記事)

「所得の格差が拡大74%」という国民の意識調査結果を掲載。

「格差拡大が問題であると見ている人は、(74%)そのうち7割を超えた、また格差拡大を感じる人の半数が小泉内閣の政策に関係があると答えた。

 

(格差問題に関する朝日新聞記事に対する記者団の質問に対し:220日)

小泉首相は、朝日新聞社の世論調査で格差拡大を感じる人が7割を超え、その半数が小泉首相の政策と関係があると答えた点について「結びつけるのは拙速ではないか。短絡的ではないか」と記者団に語った。首相は「格差はどの国でも、どの時代でもある。必ずしも格差があるから悪いということではない」と述べた。

 

 

06.5.17衆議院厚生労働委員会)

(民主党の園田康博質問)

総理在任中のこの五年間で、格差が生まれたということが言われましたね。総理は、最初は格差は認められない、そんなことまで言っていました。ところが、途中から分が悪くなったんでしょうか、格差が生まれることはいいことだ、そこまで言い切った。

 

(小泉内閣総理大臣答弁)

私が言っているのは、ジニ係数によって、格差が生まれているということじゃないんです。ジニ係数というものによって格差が広がっているという数字があるから専門家から聞いたら、それほど格差があるという状況じゃないという専門家からの意見を受けているということを申し上げているんです。そして、どんな時代においてもどんな国においても、格差は今までもあった、これからもあるでしょう。しかしながら、格差を固定化しないように、一度や二度失敗してもまた挑戦できるような機会を提供していかなきゃならないということを言っているんです。格差ゼロの社会はないと言っているんです。

私は、これからも格差というものを固定しないで、できるだけ多くの人がさまざまな持ち味を生かすことができるような社会をつくっていきたい。そして、日本は各国に比べても格差は低い方の社会である。今後、この格差を固定化しないように、さらに多くの人が頑張って、努力する人と努力しない人がいたとしても努力する人が報われるような社会をつくっていくべきだということを言っているわけであります。

 

 以上の諸々の発言は、小泉氏が格差の拡大を大半の国民が認め、その原因が小泉内閣の政策にあると思っていることに対し、もし、そうでないと反論するのであれば「必ずしも格差があるから悪いということではない」などと、開き直ったような詭弁を弄する必要はない。

 

「どの政策が格差を生じさせたと言っているのか」とまず問うべきであり、この政策と名指しされれば、

「その政策によって格差拡大が生じたことはない」と、断言すればよいのである。

 

┐砲弔鼎


岐阜県裏金17億円は公金横領1

岐阜県裏金17億円は公金横領

 

 岐阜県の裏金問題を調査していた弁護士による検討委員会(幅隆彦委員長)は1日、調査結果と改善へ向けた提言を公表した。県という公の組織において起こされた事件。その裏金の総額は92〜03年度にかけてなんと約17億円にものぼることとなった。開いた口がふさがらぬとはこのことである。

 

 この岐阜県庁の裏金問題は7月初めに発覚し、8月3日に内部調査の結果が発表された。その内容は94年度に全庁で約4億6600万円の裏金をつくっていたことや、森元元副知事の指示で県職員組合に裏金を隠したことなどで、その金額に驚いたものだ。さらに、国民の誰も信じられなかったことと思うが、職員6人が計500万円の裏金を焼いたり捨てたりしたとの話しも明らかにされた。

 

「お金を焼く」。信じられないことだった。誤って焼いてしまったのなら兎も角、500万円もの大金を自発的に焼く、こんな行為を公務員たる人間が行なうことがあるのか、信じられなかったし、普通はそんなことするはずがない。

 

 案の定、お金など焼いていなかった。飲み食いやタクシー代に流用していたという。ごまかしにごまかしを重ねる。嘘を嘘で塗り固める。どうしようもない輩である。県民ならびに国民を欺こうとするそのあざとさに、官僚の腐敗もここに窮まれりである。

 

 そもそも公務員は納税者への公僕である。サービスをしてもらうために収めた税金を私的に流用するのは、民間人が会社の金を横領するより罪は重いと云わざるを得ない。最近の風潮としてバレたら職員全員で返せばよいといった対応が散見される。しかし、これは泥棒をしてもそれを戻せば罪にならないと云っているに等しい。

 

 岐阜県庁の17億円に上る裏金作りは金額の大きさも並外れているうえ、それを元知事は最初は知らぬと云うなど、極めて行なった行為、露見後の隠蔽行為など事件の本質は悪質である。公の職にある者が行なった横領事件を検察は決して見逃してはならぬ。

 

今日、ホリエモンの公判が開始された。彼が言われるような有価証券偽造を指示しておれば、これは許されざる行為であるのは当然である。しかし、堀江貴文氏は現在のところ全面否認しており、「起訴状は悪意に満ちた内容で心外」と、陳述したという。

 

 堀江被告がヒルズ族で目立ち過ぎということで、検察が頂門の一針という意味で恣意的に動いたとすれば大きな問題である。堀江氏の問題を決して微罪という気はないが、この岐阜県庁の事件は、本来、民間人に奉仕すべき公僕が行なった立派な?犯罪である。社会正義と規範を全うするうえからも、検察は「公金横領」犯罪として、早急に立件すべきなのではないか。

 

人気ブログランキングへ

安倍晋三官房長官の総理の資格1

安倍晋三官房長官の総理の資格

 

読売新聞92日「改憲・教育・美しい国・・・安倍氏が出馬表明し政権構想」

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060901it12.htm

 

 安倍晋三官房長官(51)が1日、広島市の広島プリンスホテルで記者会見した。大本命と目される人物が、ついに自民党総裁選(9月8日告示、20日投開票)への立候補を正式に表明し、そして政権構想を発表した。

 

 まだ、「小泉施政5年の総括」の最終章に予定しているジニ係数が0.498H14実績)までに悪化している「格差の固定化」について語り終える前に、安倍氏の総理就任がほぼ、決定を見てしまったようだ。小泉総理の総括を踏まえて次期総理の資格を問おうと思っていたが、福田康夫氏の「立候補せず」の発言により永田町は一挙に、猟官運動の場へと先生方の関心は移ってしまった。まず、ひと言ここで安倍氏について私見を述べておきたい。

 

 国民は次期総理に何を求めるべきか?

 

 いや、われわれ国民がそれを言う前に、国民は何を自民党に対し、新総理に対して望んでいるのかの議論が、本来、総裁選では具体的に議論されるべきである。しかし、今の永田町からは全く聞こえてこない。耳障りのいい言葉と、何となく「よさ気な映像」だけは新聞、TVなどを通じ流れてくる。それは相も変わらず芸能ニュースと政治家の政策論を同列に扱うメディア得意の「お笑い」の乗りで、国民の耳に届くから尚更始末が悪いと言ってよい。

 

 特に安倍氏が立候補を表明してからは、貴種を好むこの国の国民性に媚びるかのように、安倍晋三氏の動向が、際限なく無批判に垂れ流されている。自民党が総裁選を盛り上げようと各地方で行なっている麻生外務大臣、谷垣財務大臣を加えた3候補者による地域ブロック大会をちらっと見たが、討論の中で最も具体性を欠いているのが安倍晋三氏である。抽象論でもよいのだが、国家ビジョンというにしても、ある種のコアになる具体的柱、芯がなければ、国民の心には目指すべき国家のイメージすら浮かんでこない。小泉内閣の過ちを二度と繰り返してはならぬことは当然であり、この5年間で国家の基盤、社会規範をメチャクチャにされた、その修復について具体的項目を挙げて政策論と具体的手順を明示すべきである。

 

 ムードばかり相変わらず先行しているが、現在、この国は五年前の経済危機の時代よりも、「独立国家としての存亡の危機」というもっと重大な危機に直面している。そうした現状認識から総裁選の議論はスタートさせられるべきであろう。その意味で安倍官房長官の政権構想とこれまでの靖国、改憲論を含めた言動には、大きな不安と危惧に加えて頼りなさを覚えざるをえない。国家の舵取りを託すには、その見識や実績を評価するに当たっての材料が余りに少な過ぎるのである。国民が判断しようにも、これまで示された政治的・政策的実績が極端に少なすぎる。熱に浮かされるようにして国家の指導者を選ぶ愚かさと怖さは、既に小泉純一郎氏でこの国民は嫌と言うほど学んだはずである。同じ過ちを犯したくないものと強く感じる。

 

 ただ、若い、何となくソフト、何となくハンサム、何となく品がよさそう、何となく幸せにしてくれそう・・・なだけで、指導者を選ぶような民主主義を体現しているはずの自民党の先生たちであったとしたら・・・。

 

 自民党に将来はないというより、この日本と言う国家に将来はないと言わざるを得ない。その意味で安倍氏にはそうした懸念をぶち破る若い力を発揮し、堅実な政策議論を誠実に積み重ねていくことを強く願って止まない。

 

人気ブログランキングへ

 

 

最新記事
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

記事検索
livedoor プロフィール
livedoor動画検索
本ブログパーツの提供を終了しました
NAVERまとめ
「NAVERまとめ」ブログパーツは、サービスを終了しました。
  • ライブドアブログ