彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

May 2006

豪憲君事件に見るメディアの人権意識の本性2

「豪憲君事件に見るメディアの人権意識の本性」

 

 秋田県藤里町の町立藤里小学校1年米山豪憲(ごうけん)君(7) が殺害された事件に、わたしは日本のメディアが、日頃、麗々しく唱える「人権擁護」というお題目に対するかれらの本性を見てしまう。

 

 TV報道ではさすがにそうした映像は放映されていないが、現地では犯人は誰某で、その人物の家の前にはカメラの放列が敷かれているという。

 

 これは一体どういうことか。

 

 地域の噂や素人の捜査まがいの調査で、その人物が犯人らしいとして、その人物の人権をまったく無視した形で、その家を取り巻く。このような暴挙、人権の蹂躙が放置されて良いものだろうか。決して許される行為ではない。とくに、日頃、人権擁護に対しては殊更に声高に論陣を張っているメディア各社が、現にこの瞬間もカメラをその人物へ向け、その瞬間を狙っているという。この日本は言うまでもなく、法治国家である。報道の自由の前に、当然のことであるが、基本的人権がひとりひとりの国民には保障されている。

 

憲法の第11条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とある。また、第31条の「法定の手続の保障」において、「何人も,法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」そして、第32条の「裁判を受ける権利」において、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」とある。

 

 現在、司法当局も他の公権力のどこもこの事件の容疑者を発表していないし、当然、起訴もしていない。しかし、秋田県で展開されている報道陣は、あたかも容疑者が公表されたかのような対応をとっているという。逮捕の「決定的瞬間をものする」ためにである。

 

 報道機関の使命とは一体何か?

 

 毎年、季変わりの頃に放映する愚にもつかない「カメラが捕らえた決定的瞬間」といった類の番組のために、報道機関はその権力を乱用するのだろうか。まさか、そうではあるまい。国民もそんな馬鹿げたことを報道機関に期待などしていない。

 

国民は権力のチェック機能として、報道機関にある種の特権を与えているのである。決して、か弱い個人の基本的人権を踏みにじって良いなどと思って、報道の自由を保障しているわけではない。報道の自由の裏には、厳格な「運用に関する自己規制」がなければならぬ。自らが自主的にそこにタガをはめてこそ、権力と正面から対峙し、権力の暴走、自侭をチェックするメディアの役割・使命が果たされるのだと思う。

 

 その意味で、いま、豪憲君事件での報道機関の姿勢は、まったく見当違いのことを行なっていると言わざるを得ないし、誠に心外であるが「人権意識」の欠片もない行動をとっていると断じざるを得ない。日頃、マスメディアが様々な局面を捉えて、口を極め強弁する「人権擁護」とは、そもそもかれらにとって何なのか、その本意を知りたい。

 

報道機関は決して、司法権力でも、警察権力でもない。国民がその「知る権利」を付託している民間の組織なのである。一国民の基本的人権を踏みにじるような行動は、この意味からも本末転倒であり、どんな理由があろうが、断じて許されるべきものではないのである。

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン5

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン

 

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 わたしの酒量と喫煙量は日増しに増えていった。それと反比例で睡眠時間が短縮されていった。そして、今から考えれば一番、大切であった食生活つまり、塩分の規制については、逆にどんどん塩辛いものへの嗜好が強まっていた。

 

 高血圧の改善に最も即効性があるのは、血液中のナトリウムの量を少なくすることである。逆にいえば、腎臓のナトリウム排泄機能を超えて、血液中の塩分量が増えると血圧が上がる。血中に塩分が増えれば、塩分濃度を一定に保持しようと血液中の(本来排泄されるべき)水分も保全され、その結果、体液量が増加する。その大量の体液を体内中に運ぶためには、ポンプ役の心臓は必死にその血液を押し出す圧力を上げなければならない。つまり、血圧を上げざるをえないのである。

 

 このメカニズムを、倒れる前に詳しく知っていたら、もう少し対応は変わっていたかもしれない・・・、と思って見たりするが、まぁ、生活習慣は恐らく変わらなかったのであろう。「健康のありがたみは失くしてみて、初めてその価値がわかる」という名言があるくらいだから、凡人のわたしがいくら塩分濃度のカラクリを知ったからといって、生活態度や食生活のスタイルを根本から変えるなどということはなかったであろう。

 

 本当に病気というものを回避するのは難しい。わかっていても、病気の真実の姿、つまりどれだけ己の生活が制約を受けるかが、実感でき難いところに、健康の維持に対する努力の方が本当は格段に己の人生に対する負担は軽いことが、この愚かな人間にはわからないのであろう。

 

 年齢が50歳にあと2ヶ月という日に、わたしは脳出血に見舞われた。

 

その悲劇の日に向かって、わたしの体は徐々に悲鳴を上げていったのである。そして、その体の発する悲痛な叫び声にわたしは真摯に耳を傾けることをしなかった。悲劇の日まで2、3年の頃、想起すればすでに脳卒中の前兆は確かにあったのである。悪魔の囁きではなく、天使の囁き、いや嘆きの声がわたしの耳には届けられていたのである。

 

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン5

患者がしゃべる脳出血へのカウントダウン

 

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 わたしは、30歳代後半あたりの健康診断で、初めて血圧が高めであると医者から注意を喚起された。それまでの血圧は、確か110(収縮期)−70(拡張期)くらいで、血圧自体を意識したことはなかった。だから、医者から言われた時、ちょっと驚いたのを覚えている。まだ高いといっても当時は、135−90といった程度であったと思うが、下の方の数値、つまり拡張期の血圧が高いといわれたのを覚えている。

 

 現在の高血圧症の定義は20035月に米国の高血圧治療ガイドラインとも言える、『高血圧の予防,発見,診断,治療に関する米国合同委員会の第7次報告』いわゆるJNC7」が発表され、見直しがなされた。従来よりもその数値基準は厳しくなり、具体的数値(JNC7」基準)をあげると、正常血圧は最高血圧が120mmHg未満、かつ最低血圧が80mmHg未満(日本高血圧学会基準 130−85)。120〜139/80〜89mmHgは高血圧前状態と定義された。ステージ1(軽症)の高血圧は140以上(収縮期)または90以上(拡張期)となった。(軽症の高血圧基準は日米同数値の基準となった)

 

因みにわたしが、医者から注意を喚起された10数年前には、正常値であったものが、この基準で言うと、わたしは高血圧前状態というジャンルにあったというより、拡張期血圧がステージ1にあり、まさにわたしは当時、すでに高血圧症であったわけである。

 

ただ、30歳代後半のわたしは、そうした医者の声に対し、まったく聞く耳を持たなかった。若い頃から病気もせず健康一筋で来た並々ならぬ自信が、「高血圧」という病の恐ろしさなど意にも介せず、鼻先でせせら笑わせたのである。

そういえば、その時医者は「運動をして体重を減らせ」「酒を控えろ」、そして「塩を控えろ」とも注意していたが、こちらは上の空の生返事であった。いやぁ、度し難い健康に対する「驕慢さ」であった。穴があったら入りたいとはこのことを言うのだろう。

 

傲慢なわたしも、一度くらいは「塩分控えめ運動」を展開した。しかし、それも一週間ともたなかった。塩を振らない焼き魚にレモン汁をかけて食うなど、日本男児たるものそこまでして、「命にこだわるのか」と、すぐにその虚弱な努力は頓挫してしまった。要すれば、濃い塩分に馴れた舌には、レモン如きでは無臭といおうか、味が感じられなかったのである。いま思い起こすと、当然のことながらあの減塩療法をずっと続けていればと、後悔仕切りである。

 

そして、その後、徐々に責任ある仕事を任され、夜昼なく猛烈に仕事と遊びに熱中していく。当然、酒もすすむ。帰宅も遅くなる。その間、体は加齢とともに徐々に抵抗力を弱めていっていた。一方で、健康面では体に悪いことが重なっていく。当時は喫煙もしており(一日3箱位)、絵に書いたような不養生な生活を送っていたのである。徐々に病魔の暗黒の眼がわたしを睨みつけ出していたのである。まだ、血圧とちょっとした肥満以外にどこといって異常のないわたしに、病魔の視線を感じることなどできなかったし、「摂生」などという言葉はまったく無縁のものであった。

社会保険庁による国民年金保険料の不正免除3

「社会保険庁による国民年金保険料の不正免除」

 

 この22日に、国民年金の保険料未納率の改善を目的とした社会保険庁の各県事務局で、組織的と思われる不正工作が行なわれているとの報道がなされた。  その不正の手口はまことに姑息としかいいようのないもので、国民を馬鹿にするのにも程がある、いい加減にしろといいたい。手口は本人の申請をもとに行なうべき保険料の免除・猶予を、事務局が本人に無断でその申請書を作成・認可し、保険料未納率の算式で分母にあたる「保険料支払対象者」の数を少なくし、その比率を人為的に引き下げるものである。

 

その工作は、大阪社会保険事務局で3万7406人分の免除などを不正に決定して本人へ通知したとのこと。同様の不正が、長崎県で5219人分、東京都でも77人分あり、計19事務所で4万2702人にのぼるという。

 

 国民年金の未納問題で、まず社会保険庁が真っ先にやるべきことは、現在、未納し続けている者から保険料を徴収することであった。それが本来の目的であったはず。その地道な努力の結果として未納率が下がるのである。

しかし、社会保険庁という組織は未納率を下げる手っ取り早い方策は何かに頭を巡らした。そして、上述のような姑息な手段を思いついたのであろう。その行為は、公文書偽造というりっぱな犯罪である。もし、これを組織的に相談してやっているとすれば、真に現在、国会で審議中の共謀罪にぴったり当てはまるりっぱな重罪である。

 

国民が老後の生活設計を立てようと、受け取れる年金がいくらになるか聞きに行っても、はっきり教えてもらえぬ社保庁という役所。しかも、やたらに待ち時間があるという。こんな役人を国民は公僕として雇った覚えはないし、そうした役所など存在する必要などない。いkらでも、その管理は民間に任せればよい。よっぽどスピーディーにしかも効率的、かつ笑顔で対応してくれるに違いない。社保庁の人間は社会というものが見えていないのではなかろうか。

 

かれらのこの間からの一連の国民年金未納問題に対する対処を見ていると、「反省」とか「公僕」とか「コンプライアンス」といった公務員として、いや一社会人としての当然の常識、行動が全く欠けているとしか云いようがない。自分の担当外の国民の個人情報をPC端末で盗み見たり、窓口で沢山の国民が待っているのに、休憩室で職務時間中にタバコを吸い、雑談に耽るなど、その怠慢ぶりが報道されたことは、まだ記憶に新しい。

 

通常、これほど組織が叩かれれば、民間であれば危機バネが働き、求心力が高まり、組織内に緊張感が張り詰めるはずである。

 

しかし、結果は冒頭の不正操作である。何をか況やである。今度こそ、本気で社保庁解体いや、民間へ完全業務委託を行ない、現在の職員は公文書偽造による背任行為で解雇すべきと考えるがいかがであろうか。

靖国合祀中止訴訟にかかる韓国人遺族の請求棄却の理不尽3

「靖国合祀中止訴訟にかかる韓国人遺族の請求棄却の理不尽」

 

東京地裁は25日、第二次世界大戦中に旧日本軍に徴用された韓国人の元軍人・軍属や遺族414人が「日本の英霊として靖国神社にまつられ、被害者としての人格権を侵害された」などとして、合祀(ごうし)中止や計約44億円の賠償を国などに求めた訴訟で、原告の請求を棄却した。(毎日新聞)

 

さらに、占領国たる日本政府により強制徴兵され、派遣先の中国広西省で戦病死、昭和34年に日本人名で靖国神社に合祀された父上を持つ原告のお一人、李煕子(イヒジャ)さん(63)は、訴訟と並行して靖国神社へ七回も足を運ばれ、合祀中止を求め続けてこられた。そして、その度に靖国神社側から断られているという。

 

本人・遺族が望みも、頼みもせぬのに勝手に神社側が神として祀ったものを、遺族がその事実を知り、「止めてくれ」と要求した。それを拒絶する権利が靖国神社にある理屈は何か?そんなもの、屁理屈すらないのは、当り前のことではないか。当事者の意向がないものを勝手に祀っておいて、それを外してくれと言ってきたら、「それは出来ぬ」と・・・。

 

これはまるで、何か時代劇の悪代官か悪徳御用商人が吐くセリフのようで、この平成の御世に現実に行なわれている光景とはとても思えぬし、こんな理不尽が許されて良いわけがない。また、その解決を原告たる韓国人が、日本の司法の場に求めたことは、きわめて冷静でかつ良心的な行為であると言える。

それに対しての本日の請求棄却(原告の全面敗訴)は、日本の法曹界の良心・客観的公平性の面で重大な危機が訪れていると考えるしかない。また、そうした非常識で不見識な司法官を日中、大手を振って闊歩させているこの国の一員として、恥ずかしく、申しわけなく思わざるを得ない。そして、こんなことで、本気で先の大戦を起こしたことを反省しているのか。答えは、全く反省はしていないのだとやっぱり思わざるを得ない。

 

おそらくA級戦犯の分祀問題に波及したら大問題として、靖国神社は組織防衛のために個人の尊厳である死後の祀りを「私(ワタクシ)している」としか思えぬ。その行為は断じて許されるべきものではない。このようなことは論ずるまでもない。当然、民間の宗教法人である靖国神社は、個人の信教の自由を束縛または誘導する権利など有しもしないし、そのようなことなどあってはならないからである。

 

加えて、本日の地裁判決で国に責任はないとするのであれば、合祀を無断で行なった靖国神社に、「肉親を自らの信教の自由で祀ることを排斥・拒絶した」責任があるということになる。日本は政教分離の国家である。国はA級戦犯の分祀を靖国神社に命じることが出来ぬという建て付けになっている。だとしたら本件は靖国神社が、自らの意志で(でなければ司法の裁きにより)、即刻、この原告の要求を実施すべきであろう。個人の信教の自由を無視し、妨害してきた責任は国ではなく靖国神社という一民間宗教法人にあるというのだから。

しつこく特殊指定廃止問題4

「しつこく特殊指定廃止問題」

 

 25日の毎日ニュースで、また自民党の中川秀直政調会長が、竹島公取委委員長に「特殊指定維持」について要請したと報じられていた。24日に党本部で竹島委員長と会談し、「国会が終わったら(公取委が指定解除を)抜き打ち的にやると、新聞業界は心配している。国会議員もこれだけ反対していることを受け止めて欲しい」と、指定維持を要請し、これに対し竹島委員長は「」国会が終わってすぐにやることは考えていない」としたが、「筋が通らない」と述べ、見直しの方針に変わりがないと応えたという。

 

 会談と報じるが、要は中川政調会長に呼び出しを食らい、「特殊指定を継続せよ」と政治的圧力をかけられたわけである。この圧力に屈せずに、「公取委の方針が変わらない」と委員長が応じたことは、至極当然のことであると評価したいし、その勇気と見識に対しは深い敬意の念を表したい。

 

しかし、この報道自体、一体、何を目的とし、そして問題はないのか、大きな疑問を感じざるをえない。これは世に言う「圧力団体からの陳情」をその業界から利益を享受する政治家が、その団体の利益を毀損しようとしているものに「政治的圧力」をかけていますというあまりにも明け透けで、破廉恥な報道なのではないか。「社会の公器」と自らを呼んで憚らぬメディアが、自身の利益擁護のためにその「公器」たる紙面を通じて行なう行為。これを破廉恥行為と呼ばずして、何を破廉恥と表現すればよいのだろうか、わたしは残念ながらその言葉を探し出すことができない。

 

一方、「特殊指定」については、中川秀直政調会長に限らず、与野党の政治家がこぞって新聞業界側に立った意見を述べているように見える。志位和夫日本共産党委員長、福島みずほ社民党委員長然りである。おそらく、特殊指定排除に賛成する議員もいると信ずるが、新聞業界を敵に回すのは得策でないとの判断から、沈黙を守っているのか、そうした発言をしても新聞業界が意図的に報道を控えているのか、何しろ国民の目には、全政治家が「特殊指定排除」はおかしいのだと声を揃えている、独断専行の公取委委員長はけしからぬとしか見えてこない。そう映るようにしか報道がなされていないのではないか。与野党こぞって同じように声をあげるのが、わたしには不思議に思えてならないのである。「野党の中の野党」と胸を反らす日本共産党までも、自民党と同じことを口にする。不思議だ!

 

これこそ、自らに利益を誘導することを目的とした報道姿勢なのではないか。ネット上で展開されている「特殊指定排除」に賛同する声や「再販制度廃止」を妥当な判断という国民の声が溢れていることを新聞は決して報じない。新聞業界の姑息な歩道姿勢に対し厳しい声が充ちていることを紙面で語ろうとしない。これが「社会の公器」である、「事実を知らしめる使命を帯びた」と自らを称するメディアの客観報道なのであろうか。「噴飯ものである」と、わたしは大声で一喝するしかない。

 

他人を評する者は、まず当然であるが、自らを常に客観的に分析・評価するという厳しい姿勢であらねばならぬはずである。そうでなければ、どんな立派なことを言おうが、どんな正しいことを言おうが、誰もその者の言葉に耳を貸さないし、向けようともしない。自分が出来ぬことを他人に求めるほど、この国の民は破廉恥、厚顔無恥ではないからである。

「特殊指定廃止問題に見る読者の関心度の高さとメディア不信」5

「特殊指定廃止問題に見る読者の関心度の高さとメディア不信」

 

 公正取引委員会による「特殊指定の見直し」について、一般の関心が高いのに驚いている。各種新聞が特殊指定の維持を全国一律料金、全国均一の文化の維持などと御託を並べては、必死にその廃止反対を訴えている。しかし、国民は彼らの本質を疾うに見抜いている。

 

 特殊指定と再販制度の廃止に関する新聞紙上でのもっともらしい議論ほど、しらじらしく、内容空疎で、もういい加減にして欲しいと心底、思っている。実際にネット上に氾濫する「特殊指定維持」を図ろうとする新聞業界への批判の多さは、その検索をやるまでもなく、尋常ではない。また、わたし自身のブログへの「特殊指定」によるキーワード検索の頻度の高さを見ても、その関心の高さが実証されている。

 

 メディアの自己に都合の悪い問題は、報道をしない。そのあまりにも身勝手な姿勢に国民もそろそろ愛想が尽きてきている。品性下劣な例で恐縮だが、つい先日の日テレの「どっちの料理ショー」のアナウンサーが起こした女子高生スカート盗撮事件に関する報道姿勢にかれらの本質を見ることができる。事件そのものが起訴猶予であり、プライバシーの問題であるため、報道をしなかったと、後に弁明する。かれらは週刊誌でそのアナウンサーの件が掲載されると分かって、慌てて実名を明かさずにしぶしぶ事実の釈明(報道ではなく)を行なった。これが大手の民間会社なり、役人、学者であれば、敵の首を取ったかのように騒ぎ立てるのが常であるのにである。その場合に、個人のプラーバシーを云々することはない。しかし、身内は守ると云うより、身内の恥は姑息に隠蔽しようとする。それは日テレに限らずである。

 

 実例があまりに下劣であったが、「特殊指定」の問題についての扱いも事の本質は同様である。ある新聞社の見識ある人間は、「さすがに再販問題での新聞業界の論陣は鼻白むもので、身内として恥ずかしい」とわたしにいう。そうした良識のある人物も勿論、たくさん存在するのだろうが、紙面に踊る記事は、先に述べたとおりである。

 

 こうした身内に甘い報道姿勢は、メディアに対する国民の信頼を大きく損ねるものである。そのことの方が、「特殊指定・再販制度」が維持されることより、数倍、いやそれ以上に怖いことなのだと思う。国民の信頼を失ったメディアはつい60年前にこの国に存在していたのだから。そして、そのことが国民を地獄へと導いた歴史、事実をわれわれは有していることを決して忘れてはならぬと思うのである。新聞業界に公平で公正な報道を自らの問題にも心掛けることを期待して止まない。



小沢一郎・小泉首相党首討論の軍配は?3

「小沢一郎・小泉首相党首討論」

 

 小沢民主党党首になって初の党首討論が17日行なわれた。派手さはなかったが、小沢一郎氏に軍配が上がった。国家観の是非は別として、それを持った政治家と言葉のみで論点をすり替えるハグラカシ政治家の違いを際立たせる結果となった。

 

論点というかテーマは「教育」であった。これを採り上げた小沢氏は党首選の際の演説で人心の荒廃に触れ、教育のあり方が大切であると訴えた。その信条に基づいたテーマ選択であったのだろう。そして、党首初の党首討論の最初に「教育」を持ってきた小沢氏に政治家としての見識を久しぶりに見せてもらった。

 

敗戦に始まる戦後教育の仕組みに今日の人心荒廃にいたらせた原因があるとする、まさに骨太の政治討論を持ちかけた小沢氏であった。それに応じるはずの小泉首相の答弁というか、すれ違いの独り言は、この政治家に骨太の国家観、ビジョンがないことを、如実に露わにした。小沢氏の「現在の人心の荒廃を認めるならば、具体的に教育のどこに問題があると思うか」との度々の質問に対し、小泉純一氏は「親に責任がある。大人に責任がある」と、まるで小学生のような視線での貧相な回答、いや呟きであった。

 

そのあまりにもお粗末な答えに業を煮やした小沢氏は、どうも仕様がないねといった表情で苦笑いしながら、「知らざぁ言って聞かせやしょう!」と白波五人男の弁天小僧菊之助よろしく、問題の本質は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」で定められる教育委員会と文部科学省の間の「役割と責任の曖昧さ」という大きな構造的欠陥があるのだと睨み?を入れた・・・。

 

テケ、テケ、テン・テン・テン♪・・っと

 

そして、いま審議をしている教育基本法改正案に、「そうした視点が全く盛られていない」、「ゆがんだ教育行政の是正という視点が全くない」と批判したのである。そして、「ご自身が出された法案を読まれてないでしょうが・・・」とまで言われても、小泉総理は反論の術すらなかったのである。

 

 小泉政権の5年間の「骨太改革フィーバー」は、一体、何だったのか。「骨太」とは国家観なり確固たる政治信条のあるものが、口にすべき言葉であろう。骨粗しょう症のように骨量の少ない内容空疎な改革を「骨太」と偽り、国民の目を惑わしてきた為政者のこれまでの罪は大きいと言わざるを得ない。

 

此度の党首討論を完敗といわずして、何を完敗と言うのか。これからの党首討論が楽しみであるとともに、小泉政治の総括をじっくり考えるよい機会であると思った。

 

NHKの使命2

「NHKの使命」

 

 NHKは、職員の度重なる不祥事を契機として、昨年9月の「NHK新生プラン」の公表、今年1月の平成18年からの3事業年度にわたる「経営計画」を発表し、真に再建の道を歩み出そうとしている。

 

しかし受信料不払い行為は相変わらず続いている。NHK経営委員会は執行部に対し「企業体質等も含めた原因の分析(不祥事の)真因を真摯にとらえた実効性のある対策を講じることが最も重要である。そして、対策を全職員にしっかりと浸透させる必要がある。」と申し入れているが、執行部の動きは遅々としており、具体策に目を引かれるものはない。

 

先の「新生プラン」において「NHKは今、「すべては視聴者のみなさんのために」という公共放送の原点に立ち返り、新たに出発をします。」と宣言し、「経営計画」の「経営の基本方針」なかにおいても「NHKだからできる放送に全力を注ぎます」と、宣言した。

 

「公共放送の原点」とは何か?

「NHKだからこそできる放送」とは何か?

 

NHKは言葉面はまさに正眼の構えである。しかし、本気で彼らは自らの使命、原点について呻吟し、熟考を重ねているとはとても言いがたい。その具体例を、NHKニュースの報道内容、あり方に見ることができる。

現在、国会は会期中である。にも拘わらず、民放、大手新聞社とも、その関心は小泉後継問題に大きく移っている。NHKも然りである。そして、この両日はワールドカップの日本代表選考である。

 

視聴者も競馬予想よろしく、9月の自民党総裁選で誰が小泉総裁の後釜に坐るのか、また、何故、ワールドカップでフォワードの久保が落選したのか興味津々である。勿論、わたしもその例外ではない。一方、いま国会では、国民にとって非常に大きな影響をおよぼす法案が、衆議院の各委員会で審議されている真っ最中である。「共謀罪の創設」「教育基本法の改正」「国民投票法の立法」等、将来のわれわれの生活、思想信条のあり方に大きく関わってくる重要な法律が審議されているのである。

そして視聴率には決して結びつくことのない、その審議内容・経過をNHKは時々刻々と報道してはくれない。

 

NHKは視聴率と無縁の世界で、国民に知らしむべき事柄を適時・正確に、そして丁寧に伝えることこそその使命ではないのか。わたしは、NHKは、まず国民に何を優先的に知らせるのか、その優先順位のあり方の議論のなかにこそ、「NHKの原点とは何か?」「NHKだからこそできる放送とは何か?」の答えがあるのだと考える。うわ滑りする字面などではなく、日常の番組編成の姿勢こそNHKの原点を真剣に彼らが模索しているか否かのリトマス試験紙であると考える。ことに最近のNHKニュースの報道の視聴者に媚びるような内容、報道項目の選択、放映の優先順位を見るにつけ、まだNHKはことの重大性を認識していない、己の使命を体躯で理解していないとの感を深くせざるを得ないのである。

 

田原総一郎の媚びと共謀罪5

「田原総一郎の媚びと共謀罪」

 

 かねてより田原総一郎が一切を仕切る日曜朝の、テレビ朝日「サンデープロジェクト」は、その報道姿勢と内容について疑問と不快の念を吹っ切ることの出来ぬ番組であった。

 

 従って、ここ三、四年はほとんど番組を目にすることはなかった。たまたま先日、チャンネルを変える際に、チラッと番組を垣間見た。相も変わらず田原氏が勉強不足のワンパターンの思い込みと陳腐な切り口で「如何にも俺様が一番、偉いんだ」と言わぬばかりの傲岸不遜な態度をとりながら、出演者の政治家(閣僚)に物申す姿は醜悪を通り過ぎて、滑稽ですらあった。

 

 田原氏の真実は権力に摺り寄る魂の醜さに嫌気がさす一方で、合法的な選挙運動と調子に乗り、顔をTV画面にさらすことしか考えぬ政治家の軽薄さと思慮のなさに、国民の一員として情けなさと憤りを感じてしまった。少しでも良識をもった国民、いや平凡な国民であるわたしですら、この番組で展開される政治談義もどきが、「正確に事実を分析報道し、それに基づき建設的議論を展開するという本来の政治報道番組の内容」とは、遠く離れた代物だということをとっくに見抜いている。

 

 だから、「サンプロは不愉快で気分が悪くなるから見ない」という人がわたしの周りにはたくさんいる。そんな番組に嬉々として出演している国会議員、政治評論家、学者たちに私を含めて多くの人間は、胡散臭さとTVを通して人気取りを狙っているとしか思えぬ軽薄な言動に眉をひそめているのが実際である。

 

 「反権力」、「権力のチェック」を標榜し、巧妙にその仮面をかぶった田原氏とそれを取り巻き自分達の糊口を漱いでいる人たちも、もうその道化じみた振る舞いは止めた方がよいと感じる。とくに、最近の田原氏は反権力とは正反対の「権力という色男に媚びを売る老いさらばえた女郎」のようで、如何にも見苦しく憐れささえ覚えてしまう。

 

 このような人物が公器といわれるTVの報道で大きな顔をして、永年、一番組を壟断してきた事実が、現在、審議されている「共謀罪」がこの国では非常に危険な法律になることの具体的な目に見える証拠である。

 田原氏の思い込みによるヒステリックな議論の誘導の仕方、番組運営のあり方、出演者の大衆迎合的な発言、所作を見聞きして、やはりこの国は本来の民主主義を骨の髄では理解していないと強く思う。大衆の感情や時代の風潮にあらがうことが苦手な国民性や、そうした歴史的習性を抱えた民族であることを思う時、強引に世論を誘導するかのような田原氏のやり口が永年此の国で通用してきた、いや許されてきたことを考えると、思想、思考の自立・独立がこの国民には未だ欠如していると、残念ではあるが思わざるを得ない。

 

 田原氏には早々にTV舞台からの退場を望むとともに、そうしたメディアの世論誘導により自由な言論の自由が脅かされる懸念の極めて強い共謀罪につきその白紙撤回を強く求めて止まない。

後世の日本人を裏切るべからず!5

「共謀罪の恐怖を知らしめよ!」

 共謀罪の採択日程が衆議院法務委員会で詰められている。新聞、TVの大手メディアの報道は手ぬるすぎる。法案成立までこれだけ切羽詰った状況にもかかわらず、メディアが「共謀罪の怖さ」、「運用面での恣意性」についての国民への啓蒙、周知徹底が足りない。と云うより、あまりにも問題意識が希薄であるといわざるを得ない。

 共謀罪特集を早急に製作し、報道すべきである。戦前の治安維持法の運用がどんどん拡大解釈されていった歴史の検証とあわせて国民に知らしむべきである。いま、報道機関がその本来の権力チェック機能を果たさずして、なんの存在意義があるというのか、是非、戦前の轍を踏まないでもらいたい。いや、決して踏むべきではない。

 戦前はいつしかメディアが権力の走狗となっていたことを、メディア自身がよく考えるべきである。村八分をある種、共同体のなかで歴史的に行なってきた国民性を考えた時に、この共謀罪が成立し、ある年数を経て、時代の不安が高まり、国際情勢が混乱した暁に、どのように陰湿な行動にこの国民はでるのだろうか。魔女狩りという言葉が私の頭に浮かんでくる。

 怖い!

 本当に怖い!

 日本人はつい60年前に魔女狩りを行なった国民であることを忘れてはならない。あなたの隣人が突然、密告者、いやあなたを貶(おとし)める人間に豹変する恐怖を想像してみて欲しい。そして、あなた自身、いやこの自分が密告者あるいは魔女狩りの先頭に立っている姿を想像してみて欲しい。

 われわれ平凡な人間が「ひとつの法律」と「時の権力の運用拡大」により、いとも簡単に加害者になり、そして被害者にもなった忌まわしい歴史を思い起こすべきである。

 共謀罪の議論は十分な国民的議論をした上で、厳格、限定的な適用範囲を定めるべきであると考える。決して、「国際組織犯罪防止」の観点という奇麗ごとに目を反らされるべきではない。

 権力はわれわれ国民ではなく、権力自らを護るために、この法律、共謀罪を使い、『619種類にもおよぶと言われる罪状について、「ただ、われわれが共謀するだけで」「合法的に摘発、逮捕する」、つまり共謀罪の適用範囲を拡大解釈する』時が必ず来るのである。

 

共謀罪の対象は厳格に限定すべき4

ブログネタ
共謀罪採択に反対の狼煙を揚げよう に参加中!

「共謀罪の怖さ」

 

 9日、衆議院法務委員会で共謀罪についての参考人質疑が実施された。

参考人として藤本哲也中央大学教授(刑事政策)、連合高橋副事務局長、ジャーナリストの桜井よしこ氏が発言した。

 

 藤本教授が政府案賛成の意見、高橋、桜井氏が反対の立場で意見陳述をした。藤本氏の民主党修正案について「国際的犯罪に(適用範囲を)限定するなど条約に違反する」との批判は、当を得ているのか否かを知りたいところである。国際組織犯罪防止条約に民主党案が則っていないのであれば、どういう目的・対象に限定すべきであるかを同氏は言うべきであった。この共謀罪という法律の性格上、適用範囲を限定するのが当然であり、良識ある国民はそうあるべきだと思っていると信じている。

 

そしてどう考えても、条約のいう国際組織犯罪の対象が、政府案の「4年以上の刑罰」に該当する犯罪行為を組織的に共謀するものという投網を掛けるような杜撰な対象であるはずがない。日本政府の案は法律の解釈権を有する権力当局の恣意性が余りにも高いものと言わざるを得ない。

 

 本件の基本的な対処の仕方は、桜井氏が言うように「国民を(組織的国際犯罪から)守るという共謀罪の趣旨は大事。だが、(共謀といった)心の問題を法律に規定することは難しい。成立後適用範囲が拡大され、言論の自由が阻害される恐れもある」との視点であくまで立法すべきものと考える。そして同氏の「(対象を)限定する民主党案に共感する」との卓見にわたしも同調する。

 

 当初、連休前の四月二十八日に採択予定の共謀罪の審議が、こうして参考人等の多様な意見を聞き、法の執行者の暴走に歯止めを掛ける工夫をすることが、現在、われわれに課された重大な責務であると考える。われわれ自身が、後世の人々に対して不幸の種を蒔くような行為を、軽々に、しかも短兵急に、決してすべきではないことは自明である。

蓼科散策3

蓼科散策 遅い春


蓼科の春は遅い。しかし、いっせいに駆け足でやって来て、そしてあっという間に駆け抜けていく。青い空を流れていく雲のように・・・

八ヶ岳

 

まだ冠雪の残る八ヶ岳のはるか頭上を雲が流れる

 

空と白樺

 

白樺と青空と緑、タ・テ・シ・ナ!

 

 

新樹

 

諏訪大社の新緑

 

 

聖光寺の満開の桜

 

蓼科湖そばの聖光寺の満開の桜

手前は長野県の県樹である白樺の樹

 

 蓼科の春の訪れは遅い。

 しかし、その訪れは豪勢で一挙に世界を春色に染めてしまう。

 

たんぽぽ

 

「信玄お茶清水」の轍路に咲くたんぽぽ

 

雪柳

 

雪柳

 

グライダー

 

車山肩よりグライダーを・・・

左隅に見えるかな?

 





特殊指定問題に見る新聞社の手前勝手3

「特殊指定問題に見る新聞社の手前勝手」

 

 以下の毎日新聞の五月一日付けの社説を読んで欲しい。この手前勝手さに呆然となってしまった。わたしはこの新聞を購読していないので、From Cambridge, MA (http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/9844940)さんのブログを読んでこのことを知った。

 

(毎日新聞の五月一日付けの社説)

 

社説:特殊指定廃止 公取委員長の独断で決めるな

 「独立した行政組織のトップとして、広く国民の意見に耳を傾ける姿勢に欠けるのではないか。新聞の「特殊指定」を廃止しようとしている公正取引委員会の竹島一彦委員長のことである。

 特殊指定の廃止は新聞の宅配制度を崩しかねないと、新聞業界だけでなく、政界、財界、言論界などから反対の声が高まっている。しかし、竹島委員長はインタビューに「戸別配達が大変だとか、知る権利のために必要だとか、ピントのずれた、ワンパターンの話ばかり出てくる」と語っている。

 3月27日には、学識経験者や財界人らが意見交換する独占禁止懇話会の席で「皆さん完全にマインドコントロールにかかっている。戸別配達のためには特殊指定が必要だという議論をうのみにしている」とまで言い切った。公的な場で「マインドコントロール」を持ち出して反対論者を非難するのはあまりにも礼節を欠き、不穏当だ。

 特殊指定は独占禁止法に基づき、公取委が「不公正な取引方法」に当たるとして、特定の事業分野の取引方法を告示によって禁じる制度だ。新聞の場合、1955年の告示で、新聞社や新聞販売店は地域や販売相手にかかわらず値引き販売することが禁止された。99年の告示見直しで、新聞社が教材用や大量一括購読者向けなどに値引きすることは認められた。

 独禁法は新聞社が販売店に定価販売を求めることができる「再販制度」も認めている。特殊指定と再販制度の双方によって、新聞は原則として同一紙なら全国どこでも同じ価格で宅配されるシステムが守られてきた。

 竹島委員長の考えはこうだ。独禁法は価格競争を促進するための法律なのに、特殊指定では値引きすれば独禁法違反になり、おかしい。新聞には再販制度があり、特殊指定がなくなっても宅配がなくなることはない−−。この50年間、特殊指定の法的根拠がないとの理由で公取委が撤廃を言い出したのは初めてだ。委員長が就任後自ら考えつき、見直しを指示したことを認めている。

 しかしこの間、特殊指定制度に不都合が生じたことはなく、7年前の見直し以降の環境にも変化がないことは公取委も認めている。政策は市民生活に支障が出た場合などには当然変更すべきだが、そうでない時の見直しには大きなリスクが伴う。再販制度は値引きそのものを禁じてはいないため、特殊指定の廃止で販売店間の値引き競争が始まり、国民に必要な情報をくまなく提供する宅配制度が揺らぐことは予想がつくはずだ。

 結局、竹島委員長は独禁法という狭い枠の中だけで判断し、国民の知る権利に応え、民主主義を支えてきた新聞の公共性への理解が足りないように映る。

 特殊指定廃止は公取委の判断だけでできるため、反対する与党の一部が廃止には国会議決を必要とする議員立法の検討に着手する異例の事態となっている。先人たちの知恵で築かれてきた日本の活字文化が、委員長の独断で壊されるようなことになっては困る。」

 

 以上の社説を目にして、わたしは今回もとうとう新聞社はこの最後の手段に討って出たかと思った。「新聞の公共性」と謳うのであれば、その社論であるべき「社説」には客観性と国民の良識を是非、反映させて欲しいと願うのはわたしだけであろうか。この問題については、三月二十日付けのブログ「新聞の独禁法特殊指定と再販制度の時代錯誤」に詳しく述べています。(http://app.blog.livedoor.jp/hero1945/tb.cgi/50069199



クニというもの4

『「クニ」というもの』

 

 先日、はじめて佐賀県にある吉野ヶ里遺跡を訪ねた。想像していたよりも壮大な環濠集落遺跡の規模に驚いた。写真で目にしていた主祭殿に昇って弥生時代の集落の全景を俯瞰しながら、しばし遠つ世に想いを馳せ、古代ロマンの世界に夢を馳せた。そして壮大ではあるが、木柵と濠といういたって簡易な人造物で囲まれたなだらかな丘陵全体が弥生時代の「クニ」という概念であったのだと想うとき、おそらく共同体に毛の生えたような単純な統治機構と、それを許容したであろう弥生人の素朴な思考構造にある種の羨ましさを覚えた。そもそも「クニ」というものは共通の価値観を有する人々が、価値観を異にする外敵から自らの生命と財産を守るため智恵と労力を出し合い築き上げたものであることが、この悠揚とした佇まいを見せる吉野ヶ里遺跡を眺めているうちに自然と体感されてきたのである。

 

翻って日本という「クニ」を思うと、今、日本人と呼称されている人たちが共通にしている価値観、今流にいえばアイデンティティーとは一体何なのか、何に価値を求めて日々を過ごしているのか自問せざるをえなかった。混迷を深める今日の国際社会のなかで、日本の社会構造はますます複雑さを深め、閉塞感を強めてきている。ほぼ毎日起きているといってよい陰惨で卑劣な事件の数々、公共道徳の欠如もここまで来たかと思える電車内の日常的な光景、経済苦を理由とした自殺者の急増といった不幸であまりにも哀しい社会事象を目や耳にするにつけ、この国は一体どうなってしまったのか、そしてこれからどうなって行くのかと真剣に憂えざるをえない。

 

 価値観を共にする先達たちが集い、智恵と労力で築き上げた「クニ」。そして、その後も様々な価値観をもった人々を受け入れ、見事とも云えるほどに絶妙な調和をはかりながらこの日本という「クニ」を築き上げてきた先達たち。その深遠な智恵と匠の技のような卓抜した調和力にあらためて頭が下がるのである。当然のことながらこの国の歴史書を紐解けば、度重なる戦もあり、謀略の蔓延する不幸な時代もあった。しかし、「クニ」が滅亡してしまう寸前で、英雄が出現したり、その時の国際情勢が味方するなどして必ず逆バネが効くことで、その国難を乗り越えてきたこともこの国の歴史が明解に語っている。

 

 今日の日本という「クニ」を眺め、理解するのは、吉野ヶ里遺跡を俯瞰するほど容易でないことは自明である。ただ、「クニ」というものが誰かのために存在するのであり、何かの価値のために存在するのであるという、そのことだけは古代から何ら変わっていないはずである。そうでなければ、こうした「クニ」という共同社会の仕組みはとっくに無用になっていたはずであるからである。しかし、現在の日本という国は「クニ」という基本概念がぼやけ、真に熔融し始めているといってもよい。「クニ」を消滅させないために何を自分たちはいま成さねばならないのか。投げかけられている課題はあまりにも大きいが、この解答なくして残念ながら日本という「クニ」の存続はありえない。

 

 その解答は「憲法の見直し」であるのか「社会規範の確立」であるのか定かではないが、吉野ケ里遺跡をのんびりと歩いているうちに、『そもそもの議論を国民的な規模でやるべき時機が到来しているのではないか』、『このままではこの「クニ」は雲散霧消の憂き目に遭うよ』と弥生人が私に問い掛けてきているような気がしてきたのである。

 

アジア外交の修復3

「アジア外交の修復」

 

現在、小泉総理の靖国神社参拝により中国・韓国のみならず、東南アジアの国々との外交がしっくりきていないことは周知のことである。うまくいっていると盲信しているのは小泉総理一人といってよい。

 

 今を去ること約30年前の77年8月、東南アジアを歴訪した福田首相は最後の訪問地マニラで演説し、東南アジア外交の3原則を語った。(1)軍事大国にならない(2)心と心の触れあう関係(3)対等な協力者の立場、であり、これがいわゆる福田ドクトリンである。30年前に唱えられたアジア諸国との外交の基本的な考え方である。今日、このドクトリンを見ても、まったく違和感はなく、日本外交の磁石の針は、かえってその逆方向に向いているといった方がよい。

 

 歴史に「もし」はないと言うが、このドクトリンに基づきアジア外交を続けていれば、今日、わたしたちが目にする近隣諸国との外交の風景はおよそ異なった景色になっていたのではなかろうか。そして、アジア諸国からの尊敬を集める頼りになる兄貴分の地位を勝ち得ていたのではなかろうか。この30年間、中国が文化大革命(1966~1976)によってこうむった内政外交の遅れを、重厚かつ巧妙な国家戦略のもとに取り戻していき、冷戦終了後の米中二大国時代を築きあげるところまで来たことと考え合わせると、詮無いこととはわかりながら口惜しくて、残念で堪らない。

 

 21世紀における東南アジア外交をどう構築していくのか、福田ドクトリンの3原則を想起し、今一度、アジア諸国との関係修復に抜本的な議論を行ない、具体的対処策を策定すべきである。その中核は当然であるが、靖国参拝問題をふくむ歴史認識について国は真摯に採り上げ、真正面から国民をふくめ論議を尽くすべきである。村山内閣時代に戦後50年を期して、村山談話を閣議決定のもとアジアに対して発信したが、その歴史認識はその後の政府閣僚の不用意かつ不誠実な失言、行動によりほぼ御破産になっているといってよい。誠に見っとも無く情けない話だが、A級戦犯の分祀など靖国問題に結着をつけ、具体的行動を伴なった明快な歴史認識を、ポスト小泉政権はアジア諸国に対し発信すべきと考える。

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