彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

大神(おおみわ)神社参拝の際には、そうめん處・“森正”でひと休み=奈良グルメ

桜井市三輪535 ☎ 0744-43-7411


そうめん處・“森正(もりしょう)”の三輪素麺は評判が良くお馴染さんがたくさんいることは聴き知ってはいた。

麻暖簾の架かる風情ある店構え”森正”
麻暖簾の架かる風情ある店構え・森正(もりしょう)

ただ、今回は折悪しく中途半端な時間であったため、素麺ではなく、早朝から歩き通しの一日の疲れをとるために甘味処として利用させていただいた。


時刻は14時40分。当日はこれから参拝というタイミングであったが、明日香村を精力的に廻ってきた疲れが足腰にどっときて、甘いものがほしいと体躯が要求していた。


そこで、まずは一服ということで二の鳥居の真ん前左手に店を構える“森正”さんに入った。

大神神社・二の鳥居
大神神社・二の鳥居 ここを左折、すぐ森正

麻の暖簾をかき分けて、石敷きの店内へ足を踏み入れると、時間が中途半端ということでお客はわれわれ二人のみ。

奥庭より店内を見る
店内にはわれわれ二人だけ・・・静かでした

古い大きな日本家屋の庭先でお店を開いており、庇の先に葭簀(よしず)葺きの屋根を設けたなかなかに風情を感じさせるインテリアである。

店内には井戸や囲炉裏もあります
井戸や囲炉裏もある店内です

加えて橙黄色の燭光が店内にほんわかとした温もりを伝えてくれる。

そんな“森正”、わたしは“でっち羊羹”なるものを注文。家内はもちろん“わらび餅”。

お品書き
お品書き

そして雨催いの一日、冷え切った体躯にはホットコーヒーも当然、オーダー。見てください、コーヒーも葭簀に似合う流儀で出てまいりました。

コーヒーとでっち羊羹
コーヒーに干し柿

くっとひと口、咽喉に流し込んだマイルダな味・・・。あぁ、温かい・・・


次にお目当ての“でっち羊羹”・・・何だろうと頼んでみたが、どうも見た目は水羊羹である。それにしてもしっかりと量がある。何だかうれしくなって、心もあったまる・・・単純です。

でっち羊羹
でっち羊羹・・・量が・・・量が・・・あぁ〜

まず、ひと口。おいしい・・・

そしてまたひと口・・・おいしいです。

上品な甘さで、これは言っては何だが、あの祇園の甘泉堂さんの水羊羹にも十分引けは取らぬとお見受けした。


次に家内が本物のわらび餅との感想を述べる“わらび餅”・・・にも触手を伸ばす。

わらび餅
純正わらび餅

三輪山の湧水かそれとも狭井神社の薬井戸のあの薬水でも使用しているのだろうか、透明感のあるヒヤッとした口触りが何ともいえぬ清涼感を口腔に広げてくれる。これまた、上品でしっとりとした一品である。


ゆったりとした時間の流れるお店でもう少しゆっくりしたかったのだが、これから三ツ鳥居を拝観し、拝殿で参拝をしにゆく身。


ごちそうさまとお礼を言って、“森正”をあとにした。


大神神社参拝の際には地にも味にも優れた“森正”。一足止める価値のある一店である。次回は温かい“にうめん”をスルスルといきたいものだと思っている。


 



霊験あらたかなる安倍文殊院の“五芒星の落雁”=奈良グルメ

奈良県桜井市安倍山



京都宮津・智恩寺の切戸の文殊、山形・大聖寺の亀岡文殊とならんで日本の三大文殊のひとつ、「大和安倍の文殊さん」として名高い安倍文殊院の本堂を拝観すると、お抹茶券が一緒についてくる。

智恩寺山門
宮津・智恩寺の山門

まず、そのご本尊であるが、日本最大(7m)の大きさを誇る獅子にまたがる渡海文殊菩薩である。1203年に仏師・快慶によって造られ、国宝に指定されている。

安倍文殊院
安倍文殊院・本堂

堂内でお坊さんによる丁寧な説明を聞いた後、傍近くからご本尊を見上げ、深い智恵を授かれますようにと手を合わせる。



その後に本堂脇のお部屋でお抹茶をいただく。その際に智恵のお抹茶に添えられお茶請けに出てくるのが“吉野くず入りの手作りらくがん”である。

安倍文殊院の落雁

目の前に供されたお茶請けに、あぁ落雁かとあまり期待せずに口にしたところ、これが中の餡子が上品で何これ?ということで、お坊さんにお聞きしたところ寺務所で販売しているとのこと。そして、早速に購入したものである。



 

当院は遣唐使として科挙の試験に合格、唐の高官となった阿倍仲麻呂や陰陽師・安倍晴明などを輩出した安倍一族の氏寺であるが、当地で晴明が陰陽道の修業をしたとの伝承もあるなど文殊菩薩の智恵のみでなくなかなかに霊験あらたかなる場所なのである。



そうした当院の手作りの落雁。口にし、胃の腑に入ると、何ともいえぬ妙なる声が身内に満ちてくるではないか。五芒星が刻印された落雁・・・霊験は確かにあると確信したところである。



 

ネット通販でもとチェックしたが、やはり、当院へ伺い、本堂でお詣りして初めて手に入れることのできるものでありました。おいしいです。何かうまくいきそうな予感のする御菓子でありました。


 


 


 

あと3日、東京国立博物館にて開催中の日本国宝展へ急ぎ足を運ぼう

東京国立博物館の平成館特別展示室において開催されている「日本国宝展」 はこの12月7日(日)までで終了。好評のため最終日の7日まで毎日午後8時まで時間を延長し開館中とのこと。

東京国立博物館
東京国立博物館

この2日まで奈良へ行ってきた。日本書紀の記述の跡を巡る旅であったが、そのなかで、せっかく訪れたのにお目当てのお宝がなくて気落ちしたのだが、この東京で開催中の国宝展に出品中とのこと。

日本国宝展・平成館
平成館にて開催中

帰京直後であったが日にちがない。雨模様の寒い一日であったが、上野まで足を運んだ。


まず、法隆寺の玉虫厨子。

玉虫厨子
玉虫厨子(館内売店絵葉書より)

大宝蔵院に置かれているはずの“玉虫厨子”がなかった。百済観音はお目にかかれたが、そこでわれわれは厨子の複製を目にしたのみであった。今回、東博平成館で入場と同時に本物の“玉虫厨子”に対面できた。江戸の敵を長崎で討つことが出来た? ちょっと違うか・・・


次に安倍文殊院で日本三大文殊のひとつ、国宝・渡海文殊菩薩像を拝観したが、その脇侍仏である国宝・善財童子立像と国宝・須菩提像がやはり東京へ出張中。

安倍文殊院善財童子立像
可愛らしい善財童子立像(同上)

それも本日、ようやく本物とご対面。文殊院では写真パネルが文殊菩薩の両脇に置かれておりました。何だかなぁ・・・味気なかったなぁ・・・


そして、奈良市の元興寺(がんごうじ)では宝物殿に置かれているはずの五重小塔が見当たらず、その場所にはほかの仏さまが・・・

元興寺五重小塔
五重小塔(同上)

そんな五重小塔、いやりっぱな五重塔であった、何せ高さが5・5mもあるのだから・・・やはり目にしてみて初めてその小塔という名はふさわしくないと思うほどに大きかった。


例の漢の委の奴な国宝の金印も・・・と思ったが、これは11月末で終了でした。残念!!

IMG_0003
悔しいので金印の絵葉書、買っちゃいました

国宝展のポスターに採用されていた三千院の阿弥陀如来の脇侍、勢至菩薩坐像と観音菩薩坐像の二体は久しぶりのご対面であった。

IMG_0005
左:勢至菩薩坐像    右:観音菩薩坐像

厳しい大原の寒さの中、阿弥陀如来さんはさぞかしお寂しいことであろうとご同情申し上げたところである。


一度は目にした、耳にしたことのある有名な日本の国宝が一堂に会した国宝展、行って損はしません。

日本国宝展
平成館館内

今日は天候不順ということか20分待ちの行列ですんだが、多い時は2時間待ちというが、国宝、それも名品ぞろい、ぜひぜひ、ご覧あれ。あと3日です!!


2014年、紅葉の高尾山、11月20日頃が見ごろ

11月13日の快晴の一日、強欲にも紅葉と富士山とスカイツリーを見に行こうと、高尾山への登頂を試みる。京王線・高尾山口駅を降り、ケーブル駅へ向かう道にあふれる登山客にびっくり。

1・京王線・高尾山口駅前からケーブル駅へ
高尾山口駅からケーブル駅へ向かう人、人、人

平日というのに高齢者の御一行様でなかなかの人出。小学校の遠足以来の山頂踏破を目指すわたしも、それには、正直、呆れてしまう。

ケーブルカーに行列を作ることはなかったが(土日は行列がすごいのだとか)、この乗車率は半端じゃない。

2・行列がなくとも乗車率は?%・・・
麓のケーブル・清滝駅

山頂に着くと、その乗客たちはあっというまに山のなかへ溶け込み、私たちの視界からどんどんと姿を消してゆく。皆さんの健脚にまずは素直に脱帽 ”(-“”-)”


まずは薬王院を目指して一号路(表参道)を歩くが、野草園の付近でまず紅葉、見っけ!!

3・野草園近くの紅葉

やはり紅葉は陽の光が当たって“何ぼだね”などとまずは余裕のコメント。

浄心門もあっという間にくぐりぬける。

4・浄心門のあたり
浄心門

そして二股に分かれる場所にやって来た。家内の説明で左にゆくと男坂、右にゆけば女坂だという。

5・左が男坂、右が女坂
左:男坂 右:女坂

帰り道にゆるやかな坂の方が良くはないかとのサゼッションで左の男坂に進入。急な階段が見えた。

6・108段の男坂

煩悩の数の108段あると言われたが見た目で実感できず、平気だよと豪語。手すりに支えながらではあるが、スピードを落とさずに一気に登り切る。

7・この急坂を一気に
急勾配でした

脈拍は鰻登り、息はゼイゼイ!! この齢で見栄を張るものではないと素直に反省。爾後、スローペースへと一気にギアチェンジ。ゆっくり歩いてゆく。

8・薬王院への道
杉の苗木の寄進者名札が続く道。30万本の京王電鉄が最高でした

小さな子供さんにも抜かれながらも10分ほどで山門に到着。

9・山門

山門脇の紅葉も始まっている。緑の葉叢のなか秋の陽光に黄色や紅色が浮かび上がり、美しい。人々もしばし足を止め、頭上にかかる紅葉に目を輝かす。

10・山門脇の紅葉

薬王院の本堂にはちょっとした階段を昇る。そこに仁王門が待ち構える。

11・本堂から仁王門を
本堂から仁王門を見る

その仁王門をくぐると本堂はすぐ正面である。われわれも線香を焚き、痛い膝に煙をまぶし、平癒を願う。本堂へ昇り、賽銭箱にお賽銭をあげる。


みなさん、真剣にお祈りをしている。むずかしい世の中である、わかるわかる。みんな頑張っているんだよね。

12・高尾山・薬王院本堂
薬王院本堂

本堂の両脇の壁には高尾山の修験の象徴である大きな天狗の面が掛かっている。

13・本堂左手の天狗面  14・本堂右手の天狗面

天狗様のご加護を身に纏い、次に薬王院本社へと向かう。ここも急勾配の階段を昇った先に朱塗りの鳥居がある。その鳥居の横に朱色を打ち消すほどの鮮やかな紅葉が真っ青な秋空に映えて、これぞ、紅葉といった景色である。

15・薬王院本社の鳥居脇の紅葉

鳥居の正面すぐに色鮮やかな彫物で装飾された見事な建物がある。東京都の重要美術建造物に指定されている薬王院本社で、正式名称は飯縄権現堂である。

16・薬王院・本社

その絢爛豪華な本社を後にして、奥の院不動堂へ向かう。ほんのわずかな距離である。建物は宝形造のいたって簡素な造りとなっている。

17・不動堂
奥の院

奥の院にお参りして、いよいよ、山頂踏破は近い。アップダウンが続くが、道には板が敷かれていたり、舗装がされており歩行に困難はない。そして、緩やかにのぼる坂の先に山頂の広場の気配が見えて来る。

18・山頂が見えてきた

そして、山頂の広場に出た。小学校の遠足以来の登頂である。もっと広い平坦地を予想していたが、工事中の幔幕で覆われた個所もあり、えっというような狭い場所である。

19・山頂です

ここら一帯に坐ってお弁当をひろげ、ワイワイガヤガヤと・・・4年生はあの当時、4クラスであったから二百名余の人数がここに坐ったはずなのだが・・・

半世紀以上も前の懐かしい光景は・・・にじんで・・・そして輪郭はおぼろげで・・・そして喉を通る唾はなぜか甘酸っぱくて切ない・・・


広場を少し下った先に富士山の見通せる展望台のような張り出しがある。天気がいいので、人もすごい。

20・富士山の見える展望台辺りはすごい人
富士山に少し雲がかかる

小さな浮雲を頂きに添わせた冠雪の富士山が見えた。何度も来ている家内もくっきりと富士山が見える日は少ないのだと、当日はいたくご満悦である。

21・富士山遠景
なかなかクリアーな富士山

アップの富士山もしっかりと撮った。

22・富士山のアップ
どうです、冠雪の霊峰は・・・

富士山をバックに一人ずつ交代で写真に収まる。何枚、富士山の写真撮ったかって、数えたら45枚に及んでいました。さすがに、バッカじゃないのと我ながら呆れているところであります。


そこで当日のメインでもある高尾山山頂の紅葉の写真をどうぞ。

23・紅葉です

秋の空に映える紅葉。街中の紅葉と違い、青空と紅葉以外に何も映っていないのが何とも清々しく、痛快である。

24・秋の絶景

それからこの一枚、富士山と紅葉はいかがでしょうか。ちょっと、うらやましくないですか〜

25・富士山と紅葉
ちょっと雲が邪魔なのですが・・・

そして、そこでお弁当を食べて、いよいよ下山開始。帰りは3号路といって、舗装されていない山道を経由してケーブル山頂駅まで向かうことにした。その3号路は麓まで下る登山道であるが、われわれは途中で本堂の仁王門の下で1号路と合流する道へと入って行った。

26・3号路をゆく

すべて、高尾山ガイドも十分勤まるのではないかと思う家内さまのご指導の賜物であります。

途中で頭上を見上げると紅葉になっている部分が・・・

27・下山途中の紅葉

そしてケーブル駅に到着するちょっと前に最後の絶景スポットがあると家内が指さした先に・・・

ありました、スカイツリーが・・・

28・新宿のビル群の向こうにスカイツリーが見えた

遠くて小さいので写真はズームにしていますが、肉眼で確認することが出来ました。これもそう頻繁には見えないのだとか。本当にラッキーな秋の一日でありました。


最後に、この高尾山登山で感心したのがトイレ設備でありました。

29・高尾山の頂上下の綺麗なトイレ
りっぱなトイレでした

山頂真下のトイレは二階建てで、混雑時には二階も開放するそうで、一方通行で人を流す方式で、洋式トイレ装備のそれは立派なものでありました。


高尾山の紅葉はこれから1週間ほどが最盛期の見頃。ぜひ、健康と目の保養のためにも一念発起、高尾山へ足を運ぼう。


チューリヒ美術館展で芸術の秋を愉しむ=国立新美術館 12月15日(月)まで

ーーー印象派からシュルレアリスムまでーーー

 

1・チューリヒ美術館展ポスター

友人の誘いで六本木にある国立新美術館で開催中の“チューリヒ美術館展”を見に行った。

2・国立新美術館
六本木の国立新美術館

スイスを代表する美術館のひとつであるチューリヒ美術館は、中世美術から現代アートまで10万点以上の作品を所蔵し、特に19世紀の印象派以降の近現代美術コレクションは圧巻であるという。

3・チューリヒ美術館展

モネ、セザンヌ、ピカソといった近代美術の巨人たちが描いた傑作やその代表作がなんと74点も一挙に、一堂に会している。

4・パブロ・ピカソ 大きな裸婦
ピカソの”大きな裸婦”(館内売店・ポストカードより)

美術の素人でもどこかで目にしたことのある一点や名前を聞いたことのある作品がならんでいる贅沢な美術展である。

5・ワシリー・カンディンスキー 黒い色斑
カンディンスキーの”黒い色斑”(同ポストカードより)

シャガールの“戦争”は国土を戦火で嘗め尽くされた日本人には特に胸に迫る迫力をもつ辛い大作である。

6・マルク・シャガール 戦争
シャガールの”戦争”(同ポストカードより)

ゴッホも南仏の陽光を燦々と浴びて、こんなに健康的な作品を描いていた時期もあったのだとあらためて思った作品である。

7・フィンセント・ファン・ゴッホ サント=マリーの白い小屋
ゴッホの”サントマリーの白い小屋”(同ポストカードより)

このなかで、この絵、感じがいいなと思ったのが、モーリス・ド・ブラマンクの“シャトゥーの船遊び”という一作である。

8・モーリス・ド・ヴラマンク シャトゥーの船遊び

左手の街路樹の幹ひとつ描くことでで絵に奥ゆきを見せる見事な一品と見た。

 

美術ファンはもちろん、芸術の秋を満喫されたい方にはこの秋必見の美術展のひとつである。

9・国立新美術館館内
国立新美術館・館内

金曜日は夜8時までの開館となっており、仕事帰りにちょっと寄って見ることができるのも魅力。

 

このチューリヒ美術館展は12月15日(月)まで開催中である。



讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

5 北大塚東古墳・北大塚古墳・北大塚西古墳


石清尾山古墳群マップ(高松市文化財課)
(高松市教育委員会作成)

【北大塚古墳】

鏡塚古墳から尾根道を100mほど緩やかに北方向へ下がってゆくと勾配のない場所に出る。そこから少し進むと40〜60cm台の石塊が転がっているところにぶつかる。

54・北大塚東古墳・方墳
北大塚東古墳(西側から)

積石塚古墳が東から西へ接するようにして3基並ぶ北大塚古墳群の一番東に位置する北大塚東古墳である。平面形がほぼ正方形の古墳であり、石清尾山古墳群のなかで唯一確認された方墳とされている。

55・北大塚東古墳方墳の垢標石柱
東古墳・方墳の中心部か

築造は古墳時代前期の積石塚であり、一辺の長さ約10m、高さ約2mの大きさで二段築成であるが、その形態を現状の姿から想像するのはきわめて難しい。

56・形状が見分けにくい北大塚東古墳
どう見たら正方形なのか?

その方墳から連続して続いているのが、3基の中央に位置する北大塚古墳である。

57・北大塚古墳航空写真
北大塚古墳・航空写真(高松市文化財課)

築造が4世紀前半の積石塚の前方後円墳で、規模は全長約40m、高さ約4・5mで三基のなかで中核をなす古墳である。

58・北大塚古墳・後円部
北大塚古墳の前方墳から後円墳の円みを見る

前方部は三味線を弾くバチに似た形をしており、その先端部の石積みがよく残っているとの説明であるが、草が茂り、その形状を把握するのはこれまた難しい。

59・北大塚古墳・前方墳 後円墳側から見る
北大塚古墳・後円部より前方部を見る。両脇が落込んでいる。

草が枯れる冬場の気象条件の良い日に訪れてみないと、なかなか説明(高松市文化財課)のような外観に触れるのは難しいようだ。

60・北大塚古墳後円部へのアプローチ
北大塚古墳の後円部

後円部の頂上に立ち北側を見ると、眼下に高松市街を見える。その先に瀬戸内海が広がり、女木島・男木島やその陰には小豆島の山容を見晴らすことが出来る。

61・北大塚古墳より女木島など瀬戸内海を望む
素晴らしい眺望

素晴らしい眺望の地点に墓を築造しているのがよく分かる。


次に視線を西に点じこの尾根の突端部分を見ると、繁茂した雑草の先に小さく石礫の集積が見える。これが北大塚古墳のすぐ西側に接して築かれた北大塚西古墳である。

62・後円墳頂上の積石、遠くに西古墳の積石群
突端の石の塊が西古墳の後円部

古墳時代前期に築かれた積石塚の前方後円墳で、全長約19m、高さ約1・5mと中央部の北大塚古墳に比べ半分ほどの小さな古墳である。

63・北大塚古墳より北大塚西古墳を見る

写真で判るように西古墳は摺鉢谷をめぐる東側の尾根の最も北端にあたり、北側はすとんと落ち込んだ谷となっている。

石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群配置図(高松市文化財課)

北大塚古墳群から真西を見ると、摺鉢谷を挟んでその延長線上に石清尾山第9号古墳が存在している。

64・北大塚古墳から石清尾山9号墳と谷越しに見合う
石清尾山の方向を見る

その西古墳の脇を通る尾根道沿いに西古墳を真横から見ると、ここの積石の状況がよく分かる。

65・北大塚西古墳の前方部の赤標柱か
西古墳の前方部

崩壊がひどい状態でその形状を見分けるのはこれまた難儀である。

66・西古墳を脇から見る
西古墳の後円墳を横から

真横を通る尾根道から西古墳の後円部へあがってみると、すぐ目と鼻の先に女木島と男木島が見えた。

67・北大塚西古墳後円墳頂上
石組みの先に女木島が見える

そして頂上部に密集して広がる積石の状態がひどいことがよく分かった。野田院古墳のように修復せよとはいわぬが、貴重な文化財である、もう少し、こうした崩壊するのに任せたままの状態だけは何とか食い止める方策や最低限の整備を施すべきだと強く感じたところである。


午後1時に峰山公園をスタートした石清尾山古墳群巡りもこの北大塚古墳で終了である。時刻はすでに午後4時55分。日も傾き、われわれの影もかなり長くなってきた。


これからゆく道は遊歩道と呼ぶにはちょっと無理のある草むらのなかの獣道のような山道である。

68・この道を降りて行く
草茫々の道を・・・

こんな心細い道で大丈夫かと不安になったが、一般道から逸れていった先刻の石船積石塚まで戻っていると夕陽が落ちるまでに下に降りるのは難しいと判断、この獣道を強行下山することにした。


下山を始めてすぐに視界が開けた個所があった。少し進むと、足のすくむような切り立った崖である。その縁から下を見下ろした。

69・下の自動車道まで一挙に降りる
エッ!! あんな下まで・・・

あの路へ降り立つにはかなりの急勾配の山道となるに違いない。そんな急坂それも獣道のような悪路を果たして短時間で下りきれるのかと心配になった。


結果的には無事、下山できたわけだが、そこからはまさに想像通りの直滑降の下り道であった。足の不自由なわたしは杖と家内の文字通りの手引きを支えに必死の下山行となった。

70・かなりの急坂です
ものすごい急坂

道幅は狭くむき出しの自然石を探りあてながら足をのせ、次にまた支えの石を探すといった難度の高い下山であった。

71・この急坂道を頑張りました

なれど人間必死になると何とかなるもの、ようやく車道まで到達したとき、時刻は午後5時15分。わずか20分であの目のくらむような高さから転がり落ちるようにしてこの人里へと舞い降りたのである。

72・最後の難所
城壁のようなところを下りた・・・

「自分で自分を褒めてあげたいと思います」というあの“臭すぎる”と思った名言を心中、まじめに己に向けて語り懸けたものであった。

73・峰山公園への自動車道
ようやく人心地・・・

そこからは近隣のタクシー会社へ電話し、迎えに来てもらい、当日の古墳巡りも無事、終了。こうしてレポートをさせていただくことが叶ったというわけであります。


さてさて、読者の皆様、長々と石清尾山(いわせおやま)古墳群巡りにお付き合いいただきありがとうございました。


讃岐の貴重な古墳群。目で実際に確かめると、その立地の眺望の良さがわかり、尾根筋のかなり危険な場所に築かれたものもあり、その理由は何ゆえか?といった素朴な疑問などを抱えながらの探査行。


ただ、学説の一つにある「積石の素材の安山岩がそこにあるから積石塚をその高地に造った」というだけのそんな単純な理由だけでは考えられぬほどの絶景の地さらに危険な個所に古墳は造営されていた。


と云うのもこうして実際に峰山の尾根筋を歩いて自分の目と足で確かめてみると、何だか1700年前にはもっと瀬戸内の海はこの山裾の方まで入り込んでいたのではないか・・・、この尾根の上まで打ち寄せる波音が時には聴こえてきたりしていたのではないか・・・と、何の理由もなく、そう思えてきた・・・。


平地から見上げると云うよりも海上から見上げて最も効果的に見える場所に石を積み上げた大きな墓を築いたのではないか・・・と。


古墳の頂上に立ち、丈が伸びた草陰に真下の市街地が隠れ、すぐ目の先に青い海原と島々が見えるといった景観に触れる体験をすると、そんな想像も決して奇想天外でもないなと思えてきたのである。


そう書いたところで、古墳時代の高松市の海岸線を検索したところ次のようなことであった。


「当時(古墳時代)海岸線は現在の高松市中心部の西端を流れる摺鉢谷川の流域全て、即ち峰山の裾野にあり、人間はそれら海、山に挟まれた平野、後の宮脇町周辺に居住していたと類推される。」


なるほど・・・海上から海抜200mほどの高さの山上に全長40mから100mほどの二層、三層の石積みの大きな構造物が見える。


1700年前の人々にとって、山の稜線から迫り出す、まるで空中に浮かぶかのような石組みの構造物は度肝を抜く権力の示威であったことだろうと得心したところである。




讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)

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4 鏡塚古墳


【鏡塚古墳】

次に石船塚古墳から北へゆるやかな登りを30mほどゆくと草むらを迂回した先に鏡塚古墳が見えてくる。

41鏡塚古墳が見える
突当りの石組みが鏡塚古墳

4世紀前半に築かれた積石塚古墳であり、猫塚と同じ双方中円墳という特異な形状をしている珍しい古墳である。

42・鏡塚古墳測量図
鏡塚古墳測量図(高松市文化財課)

その規模は全長約70m、高さ約3.6mと大規模な猫塚と比較すると一回り小さくはあるが、猫塚より全容が見えやすいので迫力はこちらの方があると感じた。手前の石ころの集積している辺りが双方中円墳の片方の方墳である。その向こうに大きく盛り上がった大きな積石の塚、中円墳が見える。

43・手前(南)の方墳から中央の円墳を見上げる
南の方墳から中円墳を見る

われわれは南側の石船積石塚からのアプローチであったため、ほぼ南北の方向に配置された双方中円墳の南方墳を最初に目にし、その先に大きな中円墳を見る恰好となった。

44・手前(南)から中央円墳を見る
方墳の端から高さ3・6mの中円墳を見る

方墳は50、60cm大の石ころが集積しわずかな盛り上がりを見せているが、その形状が四角形であると認識することはいまや難しい状態となっている。

45・中円墳側から見た南側方墳
中円墳から南側方墳を見る

そして、いよいよ、双方中円墳の中核をなす中円墳に登ってみた。

頭頂部一面には30cm台から60cm台の大きな石ころが乱雑に放置されているといった印象である。

46・真ん中の円墳頭頂部の積石
中円部の頂上

修復された野田院古墳のような整然と組み合わされた石組みを脳裡に描くのははなはだ難しい。

47・円墳上部
野田院古墳の円墳頂上(二段構成)

しかし、この鏡塚古墳は摺鉢谷をとりかこむ東側の尾根筋の最も高いところにあり、野田院古墳同様にその頭頂部からの景色はまことに壮大である。

48・頂上からの壮大な景色
頭頂部からの景観

人影を認めることもない静かな尾根のうえ、その頂に築かれた古墳の上には真っ青な秋空が広がっている。その静寂のなかに時折、聴こえてくる鳥の啼き声の他には谷越に聞こえてくる峰山公園で遊ぶ子供たちの歓声のみである。


1700年まえにこの峰越しに声を掛け合っていた人たちがいたのだと確信した瞬間であった。


それから目を右側へ転じると北側に小さな方墳が見える。

49・鏡塚古墳・中円墳から奥(北)の方墳を
南の方墳の対称線上に北側の方墳が見える

やはり3・6mの中円墳の上から見下ろすと方墳の高さはかなり低くそして一辺の長さも短い。


逆に南側を向くと、北の方墳の対称線上に南方墳が見える。

50・中円墳から南方墳を見る
頭を巡らし反対側を向くと、南側の方墳下見える

これが全国でも珍しい双方中円墳の全貌である。

円墳を下りて、その裾を廻る遊歩道を北大塚古墳へと向かってゆくのだが、真下から見る円墳はなかなかの質量感である。

51・盛り上る中円墳
中円墳の脇から見上げると結構な迫力

これもかつては野田院古墳のような二段構成であったというから、下の写真を目に浮かべながら脇を通り抜けて行った。

52・二段の積石塚古墳
野田院古墳の横から後円墳を見上げる(後円墳高さ2m)

北側の方墳をやり過ごして振り返ると、尾根の一段高い個所に中円墳を築いていることがよくわかる。

53・奥(北)の方墳から中央円墳を見上げる
北の方墳から中円墳を見る

一説によると鏡塚古墳には6基の石室があったと伝えられるが、これだけの規模である、やはり首長の家族などきわめて近しい人々を埋葬したものであろう。


ただ、両側に方墳を従える特異な形状の意味合いは謎めいていてはっきりしないままである。方墳が祭祀、拝礼の場所というのであれば、なぜ二か所必要なのか、それも対称線上にする意味とは何であろうか。草生した積石塚の頂きに佇み想像をめぐらしてみても解答は見つからぬままであった。


そして、いよいよ石清尾山古墳群の最後の古墳、北大塚古墳へと向かった。



讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

3 姫塚・小塚・石船積石塚


石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群の配置図(高松市文化財課)


【姫塚古墳】

猫塚古墳から舗装された一般道を尾根筋に東へ歩いてゆく。その尾根道の右手には南東から南方向にかけて仏生山そして香南の平野が広がっている。

19・姫塚から仏生山、香南地帯を
讃岐名物の三角山がならぶ

6、7分歩くと峰山公園の第4駐車場入口の真向かいに姫塚古墳がある。姫塚古墳の北側にのびる尾根には次に見る小塚古墳が続く。

20・正面右手のこんもりした丘が姫塚
正面の樹木の茂る辺りが姫塚古墳

3世紀末から4世紀前半に造営された全長43m、高さ3・6mの中規模の積石塚前方後円墳である。

21・姫塚・後円部裾から前方部を見る
後円部の裾から右手に前方墳を見る(積石塚)

石船積石塚とともに前方後円墳の形状が最もよく保存されている古墳である。

22・姫塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)だときれいに前方後円墳の形状がわかる

どこかロマンを呼び起こす姫塚という名であるが、古よりここが首長の娘の墓であるという伝承に基づき「姫塚」と呼ばれてきたのだという。そんな1700年も昔のことがいまに語り継がれてきた姫塚。

23・姫塚
姫塚 前方墳(青い柵の向こうの積石)から紅葉した木の下の後方墳の積石塚を見る


民衆にこよなく愛された王女だったのだろう、数多い王家の墓にあってこの姫はその名前は残さなくとも死して王女の墓であることを今に至るまで伝えてきたのだから。


果たしてどんなプリンセスがこの可愛らしい古墳に葬られていたのだろうか、想像は秋の空高く、その羽を広げてゆくのである。


【小塚古墳】

24・小塚古墳測量図
小塚古墳測量図(高松市文化財課)

小塚古墳は姫塚古墳から北へ200mの距離、姫塚古墳と石舟塚古墳のほぼ中間に位置する。

25・小塚古墳
小塚古墳

小塚古墳は古墳時代前期(4世紀)の造営であるが、墳丘中央部を尾根道が走っているため元の形状は破壊され判然しないが全長約17m、高さ約1mの最も小形に属する前方後円墳と考えられている。

26・手前の尾根道に縦断された小塚古墳
小塚古墳を振り返る

ここで舗装道路は終わり、これ以降は自然の一般道を歩いてゆくことになる。

27・小塚古墳からは自然道をゆく

この時点でちょうど午後4時を回った頃。ススキの穂の向こうに傾くのが早い秋の太陽が見えた。


28・午後4時、秋の陽が傾くのは早い


【石船積石塚】

29・石船積石塚古墳へ120mの標示

小塚古墳から自然道をさらに100mほど進むと、右側に石船積石塚へ120mという石板の標示が見える。

BlogPaint

そこから広い本道を外れ、右の狭い小道へと入ってゆく。

31・この先すぐに石船積石塚がある

灌木のなかに一応、人の通る道が続いているものの見通しはきわめて悪い。


しかし、突然に目の先に小高い積石塚が現れる。

33・目の先に石船積石塚が見える
石船積石塚が坂の上に見える

石船積石塚は、4世紀後半に造営された全長約57m,高さは約5・5mの積石塚の前方後円墳である。

34・石船積石塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)

後円部は三段、前方部は二段に積石が築かれているのだそうだが、ご覧のように雑草が生い茂り、まったく定かではない。

35・後円部頂には雑草が繁茂・刳抜式石棺が隠れる
石船積石塚・後円部の頂上の石棺も隠れるような状態

前方部も確認出来ぬ状態であり、資料の記述をそのまま転載するのみである。

36・後円部の積石
後円墳の積石

ただ、石船積石塚の後円部中心に露出された刳抜式割竹形石棺は形態上、舟形石棺に分類される。

37・刳抜式石棺 左が棺、右が蓋
刳抜式割竹形石棺 左が棺、右が蓋

石船積石塚に代表される讃岐の刳抜式石棺の成立が全国的に見て最も早いとされている。ことほど左様にきわめて希少価値の貴重な遺跡なのである。


石材としては高松市国分寺町の鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)が使用されている。
この鷲ノ山石の刳抜式石棺は高松平野から丸亀平野を中心に8棺が知られている。

また、香川県外でも大阪府安福寺(柏原市玉手山3号墳から出土(伝))に所蔵されているほか、大阪府松岳山古墳からは刳抜式石棺ではないが、組合せ式石棺の側壁材として使用されているという。
さらに松岳山古墳の周辺には積石塚古墳が分布しているという興味深い事実も存在する。


1600余年前に、ここ讃岐の鷲ノ山で製造された石棺が瀬戸内海を渡り、大阪で古墳に埋蔵する石棺として使用された。


その事実が語り懸けているのは、同じ埋蔵方法を採る部族の存在あるいは石材加工技術の優れた讃岐の石棺をわざわざ運ばせた交易や情報伝達の広範さを考えざるを得ないところである。

備前一の宮駅にある石舟古墳の石棺の蓋
岡山吉備線の備前一の宮駅に置かれた吉備・中山の石舟古墳の石棺の蓋

西暦400年に満たぬ頃に、この重い石棺を載せて運ぶ船とはどの程度の大きさであったのだろうか。また、讃岐の石材や加工技術が優れているという情報はどのようにして広がっていったのか。積石塚を造営する技術集団は讃岐から移動したのか。

ひょっとしたら請負で讃岐からやって来て、完成後には讃岐へ戻ったのではないかと想像を膨らませると現代の常識をちゃぶ台返しをするようで何だか面白くなってきて仕方がない。


古代社会において、人・物の移動、情報の伝播のスピードは現在のわれわれが想像するよりもはるかにずっと早かったのではないか。


何かまだわれわれが知り得ぬ手段や運送技術、理解を越えた社会構造や人的交流といったものがあったように思えて仕様がないのである。

38・刳抜式割竹形石棺
石清尾山・石船積石塚の刳抜式割竹形石棺

そんなお宝をあるがままで目にする幸せには浴したものの、棺内に雨水を溜め雨ざらしにされている姿は痛々しく、稀少文化財の保存の観点からはレプリカに替えるといった手当が早急に講じられるべきだと強く感じた。


そんな石船積石塚であるが、石棺は何とか目にできたもののその全貌は草で覆い尽されており、前方後円墳の形状は分りかねる状態であったのは如何にも残念であった。

39・石船積石塚頭頂部

しかし、その石棺の置かれた後円墳の頭頂部からの眺望は1600年余を越えた今日においても、まことに壮観であった。

40・石棺からの眺望

見晴らしの良い尾根伝いに積石塚を築き、そこに埋葬された人々とはいったいどのような部族であったのか、妄想は風船のように膨らみつづけ、興味は幼児の好奇心のように尽きることはない。




 

 

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)

讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
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讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

2 石清尾山13号墳・石清尾山9号墳・石清尾山2号墳・猫塚


9月下旬の秋の好日、悠久のロマン、古代史の謎に触れようと石清尾山古墳群のなかでも代表的な次の図にある9つの古墳を廻った。

石清尾山古墳群マップ(高松市文化財課)
高松市教育委員会作成

不自由な足を庇い、杖をつきながらの山道歩行である。下から登ってゆき、そして、また下って降りるといった踏破行は当初から諦め家内のサジェストにより最も標高の高い石清尾山頂上真下にある峰山公園までまずタクシーで登った。


要は、上の図にあるように峰山の高処にある13号古墳(上記図)から逆順に─↓А↓ΑΑΑΝ,伐爾辰討罎という省エネ踏破を目論んだのである。

石清尾山古墳群分布図(高松市文化財課)
石清尾山古墳群配置図(高松市文化財課作製)

当日は好天の土曜日ということもあり、多様なアスレチック遊具のそろった峰山公園には多くの子供連れの家族が訪れていた。

5・峰山公園
ユニークな遊具の多い峰山公園

われわれはまず瀬戸内海を一望できる展望台へと向かい、これからの難儀な踏破行へむけた英気を養うことにした。晴れ渡った空の下に空と一体となったかのような瀬戸内海が広がり、手前には女木島や小豆島、遠くに目をやると本土が見渡せた。

6・展望台から遠くに岡山県を望む
峰山公園展望台からの眺望・女木島、男木島の向こうに小豆島


【石清尾山13号墳】
最初の石清尾山13号墳は、展望台を少し下った先にある。

7・石清尾山13号墳
石室がなければただの盛土と勘違いする石清尾山13号墳

古墳時代後期の6世紀末から7世紀中頃に築造された径9m、高さ1・5mの盛土墳で、横穴式石室の天井石が取り除かれた状態である。


そこから公園を突っ切り一旦車道へ出て、石仏のならぶ先の細い下り坂へとUターンして入り込む。これでよいのかと不安になるほどに熊笹で覆われた細道である。

8・石清尾山9号墳への細い道

そして、いつしか上り坂となり灌木の隙間から向こう側の峰が見えることで自分たちが峰山の尾根筋に歩いていることに気づく。

9・9号不への稜線の道から摺鉢谷を挟んで向こうの峰を見る


【石清尾山9号墳】

そして、ようやく石清尾山9号墳(図の─砲肪り着く。

10・石清尾山9号墳
石清尾山9号墳・前方墳の先に後円墳の積石塚

石の瓦礫が無造作に放られているような保存状態だが、全長27mの積石塚の前方後円墳である。

石清尾山9号墳・後円墳から前方部を見る
石清尾山9号墳・後円部から前方墳を見る

摺鉢谷を取り巻く稜線上の北東部の突端に位置しており、谷を挟んで真東に向き合っているのが、最後に訪れる北大塚古墳(図の 砲任△襦

64・北大塚古墳から石清尾山9号墳と谷越しに見合う
北大塚古墳から見た9号墳が位置する石清尾山

そうした墓の配置に古代人のどういった意図が隠されているのか、興味は尽きぬところである。


【石清尾山2号墳】

9号墳から2号墳(図のА砲泙任錬隠以ほどの距離である。

11・9号墳から2号墳へ
9号墳から2号墳へ向かう道

峰山公園の芝生広場から行く場合は、自動車道をちょっと上って左に大きく曲がるカーブの右手側に20mほど入った民家の庭先にある。

12・2号墳を真横から
石清尾山2号墳・真横から

横穴式石室が開口している直径約10m、高さは約2mの円墳・盛土墳である。

13・石清尾山2号墳
石清尾山2号墳・羨道から石室を見る

4世紀代の積石塚古墳が集積するこの地区で、6世紀末から7世紀に造営された横穴式古墳群はその総数では積石塚古墳の数を越えているというが、その300百年前にこの地に住みついていた積石塚古墳群を築いた人々との関連はわかっていない。


【猫塚古墳】

この2号墳から徒歩約10数分、幅広の道から右に細道を300mほどゆくと、ここ石清尾山古墳群のなかで最大規模を誇る猫塚古墳(図のΑ砲愿着する。

14・猫塚への細道
この道の先に猫塚古墳はある

その猫塚古墳は全国でも非常に珍しい双方中円墳という独特の形態をしている。

15・猫塚・雑草に覆われた中円墳
猫塚古墳の中央の円墳、高さは5mとかなり見上げる感じ

築造時期は4世紀前半に築かれた全長約96m、高さは約5mの石清尾山古墳群のなかで最も大きな古墳である。

16・猫塚墳丘測量図
猫塚・墳丘測量図 (高松市文化財課・高松の埋蔵文化財より)


中央の小高い大きな円墳の両脇に小さな方墳を従えたどこか蝶ネクタイのような形をした積石塚古墳である。

17・猫塚古墳航空写真
航空写真(高松市文化財課)

しかし、この日は草が生い茂り下から見上げただけではその形を実感することは難しかった。

18・猫塚の双方のひとつ
円墳の手前を左に回り込むと先に小さな方墳らしきものが・・・

石清尾古墳群のなかでこの特異な双方中円墳はもうひとつ鏡塚古墳(図の◆砲あるが、そちらは古墳上部へ登っての写真撮影が可能であったので、この変わった形を実感してもらえると思える。

49・鏡塚古墳・中円墳から奥(北)の方墳を
積石塚の鏡塚の中円墳から北の方墳を見下ろす

上の写真で大体の感じをとらえてもらえればありがたい。猫塚はこの写真よりも規模は1・4倍ほどであるので、上から俯瞰できればかなりの迫力があると思われる。


讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)

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1 石清尾山古墳群を代表する積石塚古墳とは


高松市の中心市街地の南西部に位置する石清尾山(標高232m)や紫雲山(同200m)などを擁する石清尾山塊の尾根上に4世紀から7世紀にかけて造成された200余基におよぶ古墳群が存在する。

1・石清尾八幡神社の後背に石清尾山を見る
石清尾八幡宮の鳥居から石清尾山山頂を見る

そのなかでも有力な古墳のほとんどが弥生時代後期(3世紀後半)から古墳時代前期(4世紀)にかけて築かれた積石塚という墳丘を石で積み上げた特殊な形態の古墳である。


その形態がよくわかる積石塚の代表例が善通寺市の有岡古墳群にある野田院古墳(3世紀後半)である。積石は後円部にみで、前方墳は盛土となっている。

2・善通寺・野田院古墳
積石塚の野田院古墳(全長44・5m 前方後円墳・3世紀後半)

全長44・5mという大規模な前方後円墳はこの善通寺一帯を支配していた豪族の首長の王墓とみられるが、標高616mの大麻山(おおさやま)北西麓の瀬戸内海を一望する高所(405m)に築かれている。

0・野田院古墳から瀬戸内海を一望
野田院古墳から瀬戸内海を一望

1700年前もの昔にどうしてこんな山の稜線上の高みに墓所を構えなければならなかったのか。


これから見る石清尾山(いわせおやま)古墳群の積石塚も野田院古墳同様に見晴らしの良い山の稜線上に造営されていることと考えわせ、その理由を探ってゆくことにする。


その善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。

善通寺市の王墓山古墳
有岡古墳群の中央部に位置する王墓山古墳(全長46mの前方後円墳・6世紀半ば)

そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。


この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6−7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。


ただ、国外に目を転じれば高句麗の首都・扶余(現在の中国東北地方集安県)に多くの積石塚が存在するほか中央アジアにも存在することから、遊牧民あるいはそこから派生した騎馬民族の墳墓形式とする見方もできる。


因みに朝鮮の古代国家・新羅の古墳群が慶州に存在するが、その形式は円墳である。第13代王である未鄒(ミチュ)王(在位 262−284年)の墓をはじめ23基もの円墳が集まる大陵苑の写真が下である。

4・慶州の大陵苑古墳群
慶州の大陵苑古墳群

高さは20数メートルにもおよぶ小高い丘のように見えるものが固まって造営されている。形状は円墳が基本的なものだが、皇南大塚のように円墳が二つつながった双円墳も変化形として存在する。


さらに、最近では、前方後円墳が日本独自の古墳形式だとするこれまでの学説を翻すかのように、前方後円形の積石塚古墳が扶余の周辺で数多く発見されている。


大和王朝を中核に据え続ける唯我独尊の日本考古学をひっくり返す発掘・発見が大陸においては既になされているのである。


つまり類似した墳墓形式を有す部族が朝鮮半島や中国北東部から渡来したという見方を裏打ちする、前方後円墳という墳墓形式が日本独自のものではなく、大陸にも存在していたという事実である。


そうした大陸の墳墓形式の系列に属するとみられる日本で珍しい形態の積石塚古墳を有する石清尾山古墳群をこれから紹介していこうと思う。


国会の役割は政策論議・立法化にあり、大臣の首のすげ替えは本義にあらず

10月20日、関連政治団体の不明朗会計の責任を取り辞任した小渕優子前経済産業相の後任として翌日付で就任した宮沢洋一経産相の資金管理団体のSMバーへの支出が問題化されようとしている。

 

2010年9月6日に広島市のSMバーへゆき交際費として支払った金額1万8230円の問題である。宮澤大臣本人はその店へ行ったこともなく名前も知らぬと説明。

 

これまでの宮沢洋一議員の国会質疑の内容水準の高さ、質疑姿勢の端正さを日頃より高く評価している者として、同議員がこれに関与しているなどとは端(はな)から思ってはおらぬし、そうしたことを関係者がやっていたことも知らなかったと言うのも真実だと思う。

 

政治と金の問題は永田町をめぐる根深い問題として国民が常に監視を続けねばならぬことであることを否定はしない。

 

しかし、小渕前経産相の多額に及ぶ政治資金収支の不突合は別として、松島みどり法相のうちわ配布の件や今回のSMバーの問題に至っては、難癖といってもよいきわめてレベルの低い話であると考えている。

 

逆に、こうした話で国会審議をいたずらに遅延させたり、本来、急ぐべき政策論議を後送りにすることの方が国民にとってのマイナスは較べようもなく大きいと言わざるを得ない。

 

わたしがそう考えるSMバーの問題について朝日新聞デジタルニュースは10月23日の配信記事で民主党の対応を次のように伝えた。

 

「首相官邸は違法性はないとして問題視しない考えだが、民主党は閣僚のドミノ辞任を狙って追及する構えだ。

 

「『「あぜんとした。こうした問題を国会で取り上げざるを得ないのは、大変情けない」。民主党の枝野幸男幹事長は23日の記者会見で、宮沢氏をこう批判した。民主党執行部の一人は『チャンスだ。さらに変なことを言えば、完全にクビを取れる』と語り、辞任に追い込むことも視野に入れる。」

 

そもそも、わたしは10月7日の参議院予算委員会でうちわ問題を問い質す民主党の蓮舫議員の姿を見ていて、あまりに下らぬ、もっと議論すべきテーマがあるだろう、なぜ正面から政策論を挑まぬのか、テレビ越しに蓮舫という小賢しげな政治家に毒づいたものだ。予算委員会は大臣の首のすげ替えを本旨とするものではなく、立法府たる国会の重要な政策論を討議し、法律案を審議する場である。

 

最近のネットでは蓮舫議員が過去に配ったコースターのような丸い形をしたものを選挙区で配っていたとして、色々とうちわ問題追及のブーメラン効果が取りざたされている。

 

蓮舫議員のコースターのようなものには選管の証紙が貼ってあるからOKなのだとか、松島前大臣の時には選挙期間中ではなかったので、選管のお墨付きの証紙を貼ってもらおうにも無理であっただのといった井戸端会議が喧(かまびす)しい。

 

ネット上でも蓮舫議員のうちわ追及に対し、下らぬ議論、低レベルとの評価も多く、もっとやるべきことがあるだろうと手厳しく健全な意見も見られる。

 

国民の方が今どきの国会議員よりも数倍、賢明で大局観がある。

 

10月17日に民主党の階猛(しな・たけし)衆院議員が公職選挙法違反の容疑で松島氏を東京地検に刑事告発したが、もっと国政の方でやるべきことはたくさんあるだろうにと、事の軽重、ものの優先順位も分らぬ国会議員にはほとほと嫌気がさし、野党第一党だか何だか知らぬが、民主党には一分の見識というものもないのだろうと改めて再確認するだけであった。

 

民主党がそこまで言うのならば、菅直人元総理大臣が在日韓国人から計104万円の献金を受け取っていたことや同議員の資金管理団体から北朝鮮との関係も疑われかねない日本人拉致問題関連団体への6250万円の献金問題など、政治資金規正法22条違反(外国人からの寄付禁止)などもっとどす黒い政治と金の問題の方を先に追及すべきではないのか。

 

そして、今回の1万8230円のSM問題を報じるテレビ局、新聞社など大手メディアも、SMなどといった言葉を昼日中、白昼堂々と報じる必要があろうか。もっと青少年にも配慮した表現を考えるべきではないだろうか。

 

さらに、現在の我が国を取り巻く国際環境は厳しさというより危険度を増してきていると言わざるを得ない。尖閣諸島への領海侵犯に加え、最近は小笠原諸島周辺の排他的経済水域に侵犯し、紅サンゴの乱獲を繰り返す中国船などの問題である。日本国民の生活が法令順守など糞くらえの他国によって脅かされているのである。

 

度重なる波状攻撃的な違法侵犯の取り締まりに海上保安庁の巡視艇が足りない状況だという。早急な予算措置、国防体制の整備・見直しといった国防の根幹に触れる議論、対策立案も焦眉の急である。

 

一方でデフレ脱却政策で三本の矢を謳ったアベノミクスの先行きに黄色ランプが灯り、消費税の10%への増税の見極めの討議も、財政再建の国際公約とも併せ、慎重かつ神経質な議論が必要とされている。

 

他に、朝日新聞社の誤報というよりねつ造による慰安婦問題で毀損された国家の品格の回復の問題、国内に目を転じれば原発再稼働と将来のわが国のエネルギー政策の立案といった我が国産業の基盤を規定する重要な政治決断といった難題が内外の問題にかかわらず山積している。

 

立法府たる国会がいまなすべき役割は1万8230円のSM問題などではなく、直面する内外課題に対する迅速な対応、その法的根拠を与えるための立法、改定作業こそ本義であると考える。

 

一国民のわたしが言うのはまことに心苦しいが、国会議員はより大局的な視野を以て国政に従事してもらいたいと衷心より願っている。


人情味熱い不思議な京料理のお店 八坂神社前・“かじ正(かじしょう)”

流山の京料理“かねき”はホンモノの職人の味!!(2012.4.17)
餡子好きには堪らぬ、甘泉堂の“とりどりもなか”=旅人の見た京都のお菓子(2014.5.19)

東山区東大路通四条上ル祇園町北側300 ムーンビューティー祇園ビル3F

 ☎ 075−525−8211

午後5時から営業 定休日水曜日


9月の下旬、八坂神社西楼門のすぐ脇にある京料理・”かじ正”を訪れた。

1・八坂神社西楼門
この横断歩道を渡って左手徒歩1分のビルに”かじ正”

東大路通りを挟んで祇園花月会館の斜め前に位置するムーンビューティー祇園ビルという小さなビルの三階に”かじ正”はある。

2・ムーンビューティー祇園ビル  3・3階です
この小さなビルの三階に京料理”かじ正”がある

“かじ正”は、カウンター7席、小上り座敷6人のこじんまりしたお店である。

4・かじ正

ご主人である梶原孝徳氏は、京の老舗仕出し料理店(天保元年(1830)創業)・“菱岩(ひしいわ)”で10年間、修業をされていたという。


そして、梶原氏と奥様のお二人で切り盛りする家族的雰囲気のする温かなお店である。


このお店を知った契機は、ここで時折、修業をする篠宮氏の誘いであった。

同氏は京料理かねき(流山市流山5丁目194)の支店、西麻布の“かねき”(2013年8月閉店)の料理長をしていたが、かねてよりここに来てはいろいろと修業を重ねているという。


今回はちょうどひと月ほど“かじ正”にいるので、ついでがあったら訪ねてもらいたいと電話があった。


そこで、家内の実家・四国の高松へ向かう途中、京都に一泊だけの途中下車にて、かじ正に伺った。


ひと晩は篠宮さんが木屋町の“割烹やました”へ一度は行ってみたいというので案内をした都合で、“かじ正”はその翌日の17:00の開店と同時に入店、午後9時半の岡山行き新幹線に間に合うようにと少々、駆け足の訪問であった。


その為、私流のカウンター越しの会話の合間にトロトロと料理や日本酒を口へ運ぶというわけにもいかず、かなり失礼を”かじ正”にはしてしまった。次回は家内同伴のうえゆっくりと腰を落ち着けて“かじ正”を食べ尽すつもりである。


さて、そんな事情のなかでの当日の料理はおまかせであった。

後日、メニューを篠宮さんからメールで送っていただいたので、これを写真とともに次に記す。


八寸  このわた大根・合鴨ロース・蛸軟煮・落花生・銀杏コロッケ

5・八寸

造り  かつお・鯛・鱧焼霜

6・お造り(鰹・鯛・鱧焼霜)

焼物  子持ち鮎塩焼き

7・子持ち鮎の塩焼き

造り   鱧落とし(暖)

8・お造り・鱧落とし(暖)

焼物   焼き胡麻豆腐

9・焼胡麻豆腐

炊き合わせ  鰊(にしん)茄子

10・鰊(にしん)と茄子の炊合せ

さすが“菱岩”に長年、おられただけあり、食材の吟味、味つけ、気の利いた目先をちょっと変えた料理、ともに及第点である。


お造りが二点になっているのは、梶原さんと鱧談義になり、梶原さんのいう美味しい鱧調理の一品をいただいたものである。


わたしが鱧の湯引きの梅肉付けがどうも苦手で鱧は炙りが大好きだと言ったところ、「鱧落としの温かいのも自分は好きだ」と言われたので、急遽、料理していただいたわけである。


なるほど、身はプリンとしたまま上品な味つけの汁仕上げの一品であった。


時間の都合で、御料理も中途でお仕舞としてしまったが、こうして写真を選んでいるともう一泊してゆっくりと”かじ正”の夜を愉しむべきであったといま後悔しきりである。


こうした”かじ正”、どちらかといえばくっきりとした味付けは京料理の苦手な東京人にも受け入れやすいのではないかと感じたところである。また、自分の好み、我が儘も訊いていただけるようなそんな親しみ易さを感じさせたお店である。


また一店、訪ねたいお店ができてこれからの京都への旅の楽しみがふえたひと夜であった。


加えて、新幹線の乗車時刻が迫るなか、話題があの”とりどり最中”の”甘泉堂”(かじ正から至近)に及び、食いしん坊のこのワタシ、「まだ水羊羹はあるのだろうか、食べてみたいな」と、口走った。

11・甘泉堂店内

すると奥様は即座に甘泉堂さんへ「今から大丈夫ですか」と電話で確認を取ってくださり、梶原さんが走って買ってきてくださるというご夫婦の連携プレイ。

とんでもない自儘、不躾をお許しいただいた。


何せ、甘泉堂の水羊羹は季節限定のレアものである。当日、遅くに高松へ到着、夜食に早速、この甘泉堂の水羊羹をいただいた。梶原さん、ありがとうございました!!

12・甘泉堂・水羊羹
この水羊羹は癖になる!

こうした出来の悪いお客の勝手にまでご配慮というか心遣いをいただき、本当に、この”かじ正”、これから大切にしていきたいハートフルで人情味熱い不思議な京料理のお店である。


次回、じっくり伺った際に再度、詳しい”かじ正”のご案内をブログにアップすることにしたい。

2014年の八千穂高原・白駒池(しらこまいけ)の紅葉は終了

蓼科の秋、見つけた!=白駒池・横谷渓谷の紅葉の見ごろ(2010.10.18)

10月11日、まだ大丈夫だと思い、八千穂高原の白駒池の紅葉を見に行った。

1・白駒池

ちょうど紅葉のシーズンということで、白駒池周辺の駐車場は満杯で、路上駐車の車も数十台という混雑ぶり。

駐車場も一杯

苔と原生林をぬけて白駒池へと向かう。

3・苔と原生林
ここはいつも幻想的・・・

紅葉への期待は高まるばかりである。


麦草峠の傍にある標高2115mという高地に位置する白駒池。白駒池の紅葉は4年前の2010年10月17日に訪れていた。


その際のブログには一週間前が見ごろであったとある。その時も、紅葉の白駒池を十分には堪能しきれなかったとあった。


今回訪れた11日はちょうど、その盛りの頃であったはずである。

4・終わっています、紅葉
あ〜あ・・・

だが、残念!! 無念!!


今回も紅葉はすでに終わっていた。湖畔の縁にわずかに残るモミジを無理やり撮影。

5・わずかに残る紅葉をアップで
アップで無理やり・・・

白駒池の紅葉を一応、堪能・・・した形とした。


そして・・・ポップカラーで撮ると、あらあら、こんなに紅葉が綺麗に・・・

6・ポップカラーで撮影

来年はホントのリベンジで9月の末あたりに来ようと心に誓った。そして、まともな写真を一枚、きっと撮ってみせると思った。


標高の違いでこんなに紅葉の度合いが違うとは・・・


そんなことで、悔しかったので白駒荘の温かいコーヒーを、これまたかなり肌寒い湖畔のデッキでグッと飲んで帰ってきました。

7・白駒荘のコーヒーをいただきました

ソーサーに載っているのは食用ほおずきで、これ初めて食べたが美味しかったので、一袋購入しました。


いつものようにしずかに時を刻む蓼科の秋

この三連休、秋の蓼科へと足を伸ばした。台風が襲来する前に急きょ、帰京という短い滞在になったが、蓼科の足早の秋を文字通り足早に愉しんだ。

1・色づく山肌

蓼科の秋は朱色より黄色のイメージである。

2・急速に色づく山

高い山に囲まれた蓼科には、紅葉する楓が少ない。

3・秋です

ただ、山肌ははっきりとその装いを秋色に変えはじめている。

4・色づく八子ヶ峰

秋のぬけるような空にその彩りは美しい。

5・秋の空に黄葉が映える

天気の良い連休の前半、蓼科東急の上から紅葉をはじめたリゾートの森の向こうに八ヶ岳の稜線が幻想的な蒼色のグラデュエーションを見せる。

6・八ヶ岳と紅葉

静かな時間である。聞こえてくるのは秋風に蕭々と鳴る木々の葉音と時折、奏でられる小鳥の啼き声のみである。

7・秋色に染まる

わが山荘にもいつのころからかハウチワカエデが生育し、庭のあちこちに秋色の迷彩をほどこす。

8・ハウチワカエデが緑に映える

京都の高雄の燃えるような紅葉とはまたことなった趣きを見せてくれる。

9・ハウチワカエデ

いつものことだが蓼科の秋は束の間である。梢から舞い落ちる葉っぱが地面に散り敷くや冬将軍が凍てつくような真っ白な息を吐き出しながら足早にやってくる。

10・黄色・緑・赤とりどりのハウチワカエデ

赤や黄色を装った落葉はその氷のような息であっというまに土色の朽葉へと変じてゆく。


いつものしずかに時を刻む、蓼科の四季のひとこまである。



 

縄文時代のパワースポット“尖石(とがりいし)遺跡”で国宝・“仮面の女神”を見よう

茅野市豊平4734-132


長野県茅野市にある”尖石(とがりいし)縄文考古館”を久しぶりに訪れた。

1・尖石縄文考古館
尖石縄文考古館

思い立った契機は蓼科の道を走っていて道路の両側に縄文のビーナスと仮面土偶をあしらった幟をそこここで目にしたからである。


縄文のビーナスは昔、尖石縄文考古館で見たことがあったのだが、仮面土偶を観た記憶はなかった。


仮面土偶を初めて見たのは、二年前に辰野へ蛍狩りに行った際に立ち寄った辰野美術館でのことであった。

2・辰野美術館
仮面土偶を展示する辰野美術館(上伊那郡辰野町)

その時、写真で見たことのある宇宙人のような遮光器土偶を想起し、不思議な土偶が長野にもあるのだなと感じたことを思い出した。辰野美術館の仮面土偶はここをクリックしてください。HP所蔵品サイトへ飛びます。


そして、これは新しく発掘されたものであるに違いないと尖石縄文考古館を訪れたというわけである。


”仮面の女神”と名づけられたこの仮面土偶は、実は今から14年前の平成12年8月に茅野市湖東にある中ッ原(なかっぱら)遺跡から出土したのだという。

4・発掘時の状態
出土時の”仮面の女神”

作製年代は縄文時代後期の前半(約4000年前)で、全長34センチ、重量2・7キロの仮面土偶と呼ばれるタイプの大型土偶である。

5・仮面の女神
国宝 ”仮面の女神”

発掘時の様子が館内写真に掲示されていたが、ほぼ完全な形で出土しており、当寺から国宝級との呼び声が高かったという。


そして、道路上に幟が立っていたのはこの3月の「“仮面の女神”は国宝指定が妥当」との文化審議会の答申を受けて、縄文のビーナスにつづく二つ目の国宝指定が待たれる茅野市が縄文遺跡の町をアピールする“町おこし”の一環としての企画であったと知った。


その記念すべき国宝指定がわれわれが訪ねたわずか2日後になされたことをこのブログアップの時に知って、喜びも一入(ひとしお)であった。


さて、“仮面の女神”に先立つ”縄文のビーナス”は、1986年9月に八ヶ岳山麓の茅野市米沢に位置する棚畑遺跡から完全な状態で発掘されている。

6・縄文のビーナス・発掘時の状態
国宝 ”縄文のビーナス”の発掘時写真

その後、1995年に国宝指定を受けた全長27センチ、重量2・14キロの大型土偶である

7・縄文のビーナス
国宝 ”縄文のビーナス”

その姿はお腹とお尻が大きく張り出した妊娠した女性である。それは生命に対する礼賛の心をストレートに表わしており、おおらかな縄文人の生きざまを見るようでもある。


この縄文のビーナスや仮面の女神などが展示されている尖石縄文考古館の付近一帯は縄文時代中期(今から4〜5千年前)の住居跡がこれまでに219ヶ所も発見されるなど縄文遺跡の宝庫となっている。

8・尖石遺跡説明図
尖石遺跡説明図

縄文考古館に隣接した北側に”与助尾根遺跡”が位置する。

9・与助尾根遺跡・竪穴式住居
与助尾根遺跡

ここには縄文時代の竪穴住居跡が39か所発見されており、現在、6棟の竪穴住居が復元されている。

10・与助尾根遺跡
復元された竪穴住居

また道路を挟んで考古館の南側には、”尖石(とがりいし)遺跡”が位置する。

11・広々とした尖石遺跡
開放感一杯の尖石遺跡

広々とした草地に昭和29年に三笠宮殿下が調査された33号住居址が遠い縄文の時代の悠揚とした営みを語りかけているようで、何とも心持ちが豊かになってくる。

12・尖石遺跡・33号住居址
尖石遺跡・33号住居址

そして、尖石遺跡の名前の由来となった“尖石(とがりいし)”がその遺跡群の原っぱの南端を少し下ったところに5千年を経た今もそのままの姿で鎮座する。

13・縄文人の人影・尖石遺跡
尖石遺跡に縄文人が顕れる

その先端の尖った自然石は地中の深さは不明であり、地上に顕れた個所で高さ1m、根元の幅が1・1mという大きさであるが、古くから村人の信仰の対象となっており、いつの頃か傍らに石の祠が祀られている。

14・信仰の対象”尖石”
尖石・右手階段を下りて来る

尖石の右肩の窪みは縄文時代の磨製石斧を製作した際に共同砥石として利用されたとも、また、地上に突出した尖石が祭祀の対象となっていたとの見方もあるという。


そんな一大縄文遺跡の中心地に展示された“仮面の女神”であるが、国宝指定を機に、当館での実物展示は、仮面の女神が11月12日(水曜日)までだというのだ。“縄文のビーナス”は残念ながら10月2日で終了している。

15・縄文のビーナスと仮面の女神
国宝の実物二つのそろい踏み写真

ここでは幸いにも心置きなく撮影できた“仮面の女神”の乱れ撮りを記録のためにいくつか掲載しておくこととしたい。

仮面の土偶の拡大写真。

16・仮面の女神・拡大

仮面の接近撮影。

17・仮面の女神・仮面

斜め正面から。

18・仮面の女神斜め正面から

側面から。

19・仮面の女神・側面より

後方から。

20・仮面の女神・後方より

頭部斜め後から。

21・頭部斜め後ろから

こうしてディテールにまでこだわった作者のことを考えると、そして“仮面の女神”が気の遠くなるような4000年前にこの茅野の地で製作されたのだと思うと、人間の持つ無限の可能性を無条件に信じたくなるとともに、現代人は果たして技術的に進歩していると云えるのだろうか、心をふくめ豊かさとはいったい何なのだろうかという思いにどうしても駆られてきてしまうのである。


何はともあれ11月12日以降はレプリカ展示となる。“実物”をじっくりと写真に収めたい考古オタクは今からでも遅くない、茅野市の尖石縄文考古館へと急ぎ、足を運ぼう。

22・館内
尖石縄文考古館館内

そして、やはり、何といっても実物の持つパワーは違う。生命力あふれる縄文人の放つパワーは半端ではない。


尖石縄文考古館ではこの10月11(土)、12日(日)の連休に茅野市5000年 尖石縄文まつりが開催される。


それを目当てにご家族で、縄文時代のパワースポット巡りをされてみてはいかがであろうか。

世界遺産富岡製糸場、近代日本の曙を見る

富岡市富岡1番地1  ☎ 0274−64−0005


長野の善光寺参りの帰途、日ごろ利用することの少ない上信越自動車道を通行した。

好天にも恵まれ、帰宅までの時間も余裕があったことから富岡ICで下車、約10分(駐車場まで)のところにある富岡製糸場を見学した。

1・富岡製糸場正門
富岡製糸場正門

日本の世界遺産は、現在、14件の文化遺産(法隆寺、京都の文化財など)と4件の自然遺産(白神山地、知床など・富士山は文化遺産)の合計18件が登録されている。

2・法隆寺・世界遺産石碑
日本初の世界文化遺産の法隆寺

富国強兵を強力に推し進めた近代日本の象徴でもある富岡製糸場は、長期間の蚕種貯蔵を可能にした“荒船風穴(下仁田町)”や清涼育という養蚕技術を確立した“田島弥平旧宅(伊勢崎市)”などの養蚕関連の文化財と合わせ「富岡製糸場と絹産業遺産群」として平成26年6月25日に、昨年6月の富士山につづき世界遺産の文化遺産に登録された。

3・木骨レンガ造りの東繭倉庫
木骨レンガ造りの東繭倉庫

富岡製糸場について我々世代は、機械がズラッと並ぶ工場内で生糸生産に励む着物姿の女工さんたちの写真を教科書で一度は目にしていると思う。


富岡ICから富岡市の公設駐車場が富岡製糸場の徒歩10分圏内に4か所設けられている。われわれはちょっと遠いが、唯一の無料駐車場のP4に停めてのんびり徒歩で20分ほどゆき富岡製糸場へ到着。P1〜3の有料駐車場(100円/30分)からは徒歩10分ほどで便利。

4・上信電鉄”上州富岡駅”前歩道
上信電鉄・上信富岡駅前舗道

また、駐車場から製糸場への途中には駐車料1000円ほどの数台程度停められる私営の臨時駐車場があり、足元が悪い人は休日の混雑時でない限り工場近くまでアクセスが可能である。


当日は横川ICから富岡製糸場問い合わせの番号に電話し、混雑を確認した。12時過ぎであったこともあり、待ち時間は5分ほどとのことであったが、実際に工場に着き、受付の時間待ちはなく、とてもスムーズに入場できた。


ただ、場内にはボランティアガイドさんに引率された団体、グループの見学者が多く、そうした人々の波を上手に掻い潜り自分のペースで見て回りたい方々は受付でイヤフォーンガイド(200円)を借りるとよい。

5・場内には団体客が多い
平日でも団体客で賑わう(東繭倉庫前)

興味があるところはじっくり、そうでもないところはさっと見るだけといった臨機応変の見学が効率性もよく、おすすめである。

6・繰糸場内と製紙機械
繰糸場内、ここで着物姿の女工さんが製紙器械を操作していた

また、ちょっとしたエピソードや詳しい説明が欲しい人はちょっと面倒でもボランティアガイドさんに引率された見学が質問も可能であるのでお薦めである。


われわれはイヤフォーンを借り、通りすがりにボラティアさんの面白そうな話は立ち止まって耳を傾けるといった都合の良い廻り方をした。

7・繰糸場外観
繰糸場外観

そんなこんなで約1時間半で富岡製糸工場見学を終えたが、多分、混んでいるときにはもう少し時間の余裕を見る方がよいと思う。


残念であったのは、今年2月の豪雪で乾燥場がほぼ全壊し、それがまだ再建されずに見学不能であったことである。

8・雪害で崩壊した乾燥場と煙突
雪害で乾燥工場は崩壊、煙突のみ残る

世界遺産登録が確定していたにもかかわらずにこうした被害に合わざるを得なかったのは、この国の文化財行政予算の貧困によるものではなかったかと慙愧に堪えない。


富岡製糸場は明治5年(1872)に日本初の近代的官営工場として設立、運営された。

BlogPaint
東繭倉庫入口上部に”明治五年”の刻字

そして、富国強兵を企図する明治政府が日本の輸出産業の柱となる生糸生産の近代化を急ぎ、その結果、外貨獲得に大きく寄与したと理解していた。


しかし、今回の見学で、その工場の設立目的が直接的な生糸生産にあるのではなく、全国に近代的製糸工場を増やしてゆく際の機械操作の女性指導者を育成する教育機関であったことを初めて知った。

10・女工館(仏人女性指導者宿舎
女工館(仏人女性教官の宿舎)

フランス人のポール・ブリュナ(Paul Brunat)がその日本人幹部女性の教育指導に当たったが、当初は彼が呑む赤ワインは若い女性の生血であるといった話が信じられ、全国から応募を募ったが人が集まらず、大変な苦労をしたのだという。

11・ブリュナ館  12・ブリュナ館・裏手より
壮大なブリュナ館(左:表側 右:裏手よりテラスつきの広大な住居)

そしてそんな苦労を乗り越え、器械製紙産業の普及、技術者育成という当初の目的が遂げられた明治明治26年(1893)に三井家に払い下げされ、ここで民間企業としての歴史を刻み始めている。


その後、明治35年には横浜の三渓園で有名な原合名会社に譲渡され、昭和13年には株式会社富岡製糸所として独立。戦時色の強まる昭和14年には当時、日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併された。

13・旧・片倉組事務所(岡谷市)
岡谷市に現存する旧片倉組事務所

戦後も現役の製糸工場として稼働を続けたものの、生糸産業の衰退も極まり、昭和62年にとうとう操業停止のやむなきに至った。


明治初期から昭和62年までの115年間におよぶ富岡製糸場の歴史の内、官営工場であった期間はわずかに21年間であったことは、ちょっと意外であった。

14・西繭倉庫
西繭倉庫

明治政府の官がやるべき時は官、民がやるべき時期には民という機動性、迅速性、効率性といった政治哲学は、今の政治がなかなか上手く公営事業の民営化を果たすことが出来ぬことと較べ、学ぶべき点が数多あると思い知らされたものである。

15・右が東繭倉庫、左が女工館
右が東繭倉庫、左が女工館

秋の好日、そんな近代日本の曙の息吹が感じられる世界遺産・富岡製糸場を見学できたことは実り多い貴重な一日であった。


“藤屋(THE FUJIYA GOHONJIN)”に魅(ひ)かれて、善光寺参り

長野市大門町80  ☎ 026−232−1241


「牛に牽かれて善光寺参り」という諺があるが、この度は“THE FUJIYA GOHONJIN”というイタリアン・レストランに“魅かれて”の善光寺詣でとなった。

1・善光寺・山門
善光寺・山門

THE FUJIYA GOHONJIN”というお店がJRの会員誌・ジパング倶楽部だったかで紹介されていた。そのアンティークな雰囲気を醸す写真がとても気に入ってイタリアンつきの善光寺参りということになった次第。

2・メインダイニング
THE MAIN DINING WISTERIA(ウィステリア)

「御本陳藤屋」は1648年(慶安元年)に“御本陳藤屋旅館”として創業、旧北国街道善光寺宿の本陣として加賀百万石・前田家藩主の常宿となるなど格式を誇る老舗中の老舗である(藤屋は本陣を“本陳”という字に替えて店号としている)。

3・歴史を感じさせる玄関

その輝かしい歴史を有す旅館業を8年前に休業、“THE FUJIYA GOHONJIN”と名称を変え、ウェディングやパーティー会場、レストランなどを兼営する複合的施設へと変貌を遂げている。

4・アール・デコ調の洋館

THE FUJIYA GOHONJIN”のアール・デコ調の風格ある洋館は善光寺の門前町のなかでもひと際目立つ建物であり、ランドマーク的存在となっている。

5・善光寺門前町・右手の洋館がFUJIYA
右手の三階建て洋館が藤屋旅館、車道突当りに仁王門が見える

そんな老舗で戴くイタリアンにわれわれ夫婦は興味津々で伺った。

参道の人影も少なくなった午後7時過ぎ、お店へ着くと玄関内のソファでダイニングルームへの案内を待つ。

6・エントランス
エントランス かつての藤屋旅館の玄関

そして、いよいよTHE MAIN DINING WISTERIA(ウィステリア)へ向かう。

藤屋旅館時代に、伊藤博文や福沢諭吉、高村光雲などが歩いたはずの板敷きの廊下をいまは靴のままで通ってゆく。

7・この奥の方へ入っていきます
ここを曲がって、さらに左にまっすぐゆくとレストラン

外観は鉄筋コンクリートにタイルを貼ったアール・デコ調であるが、内部は木造数寄屋造の和風建築である。奥まった場所へ長い板の間の廊下を進むのだが、嫌が応にもレストランへの期待は膨らんでゆく。なかなか凝ったアプローチである。

HE MAIN DINING WISTERIA
、その空間へ足を踏み入れた瞬間、藤色が浮き出すランタンのほの灯りの世界が目の前に広がる。

8・藤色の間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出す
藤色の世界・・・

当夜は日本庭園の見える窓際にわれわれの席は用意されていた。

9・窓際の席
窓際のテーブルでした

窓外には庭の緑が燈された灯りにほんのりと浮かびあがり、どこか幽玄の世界に身を置くような感覚にとらわれる。心奥に静かに緑葉が舞い落ちてきたような、心落ち着く空間である。

まだ開店間近とて、後方を振り向くと店内にお客は少ない。奥に藤をモチーフとする何枚もの大きな壁画が飾られている。

10・THE MAIN DINING WISTERIA
壁に藤の花の壁画が・・・

室内を彩る藤色の灯りが“THE FUJIYA GOHONJIN”のディナーの世界を一層、盛り上げてくれる。

当夜の料理であるが、食いしん坊のわれわれ夫婦、いろいろと食べてみたいとアラカルトでオーダーすることにした。

そして、ここは一部屋をワインセラーに改造するなど、ワインも魅力があるとのことで、ワインリストからお薦めの赤ワインを注文した。

まず、アピタイザーに温かい二品を頼んだ。もちろん、それぞれを仲良く半分こです・・・

一品目が“フォアグラのソテー 無花果とパイを添えて”

11・フォアグラのソテー

さぁ、これをどうやって上手に、しかも均等に、いやいや、パイを崩すことなく・・・きれいに分けるのか・・・


その老夫婦のひそやかな神経戦の気配を察知したのか、ダイニングマネージャーの福島香里さんが「お分けしましょうか」と、間髪入れずの好アシスト!!

12・ダイニングマネージャーの福島さん
チャーミングな福島さん(掲載の許可はとっています)

見てください、このお手並み。

13・ダイニングマネージャーに取り分けてもらいます

上手でしょ、こんなにきれいに、しかも・・・キ・ン・ト・ウに・・・(*´▽`*)

14・さすがプロ!
お見事!

さすがプロのお手並み、そのあとの料理の仕分けもすべて彼女が依怙贔屓なく?やってくれました。

次のアピタイザーが“ズッキーニのスカモルツァ・アフィミカータ 生ハム添え”

15・ズッキーニとスカモルツァアフィミカータ

メニューには載っていなかったが、当夜の特別メニューということで奨められてオーダー。

これも見た目ではスカモルツァ・チーズがよく判らなかったが、そこは福島さんがテキパキと仕分けながら懇切丁寧に説明してくれる。

16・黄色いのがスカモルツァチーズです
生ハムの下の焦げ目のついたのがスカモルツァチーズです

大好きなズッキーニに温かくてちょっとスモーキーなスカモルツァというチーズがおいしい温前菜でした。

17・ビューティフル
もっちりしておいしかったぁ〜

次にわたしの好物のパスタ。もちろん、スパゲッティです。


黒豚のラグー スパゲッティ アラビアータというものでした。これも仲良く“半分こ”でした。レトロ調に撮ってみました。

18・”半分こ”の量です

黒豚が予想以上にしっかり入っていたので、ここらあたりでお腹も結構、一杯になりかかったが、唐辛子が上手いように効いているので食が逆にすすんでしまう。パスタはしっかりとした腰で、麺類好きのわたしの喉越しも“GO〜かく”

そしていよいよ本日のメイン。

まず、スズキとじゃがいものロースト。

19・スズキとじゃがいものロースト

これまた、しっかりとした大きさでもちろんハーフ、ハーフに切り分けていただきました。ハーフでもこの量です。

20・鱸のポワレ これでも結構な量でした

それでも、レモン汁をかけてあっさりしていたのでペロッといってしまいました。

それから本日最後のメイン、“ホロホロ鳥のカチャトーラ”

21・ホロホロ鳥のカチャトーラ

ご覧のように骨付きの大振りの肉です。これは絶対にテーブルスタッフか福島さんのような方にお願いしないと、素人がフォークとナイフで勝負するのは難しい。福島さんの手に掛かれば、次のように見事な因数分解の解が認められる。

22・ホロホロ鳥も見事に因数分解

もちろん素手で骨を掴みかぶりついてもいいように新しいお絞りも用意されたが、とくにわれわれのようにシュアーにシェアする場合は、迷うことなくスタッフの方にお願いするのがよい。

この最後のホロホロ鳥によりわれわれの胃袋は無条件降伏、壊滅的ダメージ・・・いや・・・幸福感一杯でもう一片のデザートも受け付けぬ状態に・・・ でも、しぶとくわたしはシャーベットをオーダー。

ってなことで、これでこの夜の晩餐も終了・・・と思いきや・・・

テーブルスタッフの可愛らしい岡田さんが、BARの方で残りのワインとデザートをいただいてみてはいかがでしょうかと囁く。ちょっと気にはなっていた場所だったので、それではと移動する。

中庭に面した窓際の二人席が用意されていた。

23・素敵です・・・

老年夫婦にはここまで暗くなくてもいいですよと言った感じの、アヴェックには最適なムーディーなBARでした。

テーブルの上に置かれたランプの灯りに仄見える君の笑顔・・・

24・大人の雰囲気のBAR

そう・・・そんな時間が、時代が僕らにもあったねぇなどとお互いに目と目で頷き合いながら、わたしはワインとエスプレッソ・シングルを彼女はシンプル・ブラックをオーダー。

FUJIYAに魅かれて”の素敵な善光寺参りの一日は静かに更けていったのです・・・

帰りにホテルまでのタクシーをエントランスの椅子席で待つ間、福島さんがずっとわれわれのお相手をしてくれる。

彼女が安曇野出身だと云うこと、そこの有明山神社の奥にある伝説の王、八面大王の墓所といわれる“魏石鬼窟(ぎしきのいわや)”へいったことがあるという話。

われわれも3年前にそのパワースポットへ行ったこと、松本のおいしい“フレンチレストラン澤田”を彼女もよくご存知だったこと、安曇野の旅館、“なごみ野”のお料理が美味しいことなどなど・・・

その福島さんにはタクシーのドアまでエントランススタッフの方と一緒にお見送りをしていただいた。

何だか同郷の人にでもお会いしたような心温まるひと時を最後の最後まであたえてくれたおもてなしのレストラン・“THE FUJIYA GOHONJIN

一度は訪ねるべき価値のあるとっておきの場所である。

それと・・・岡田さん・・・代々木体育館・・・大丈夫だったかな・・・デング熱・・・次、伺ったときに名刺をいただきますね。



京都・南山城を廻る=浄瑠璃寺で九品往生の九体阿弥陀仏を拝む

京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む

木津川市加茂町西小札場40


祇園祭宵山の日中を使って、南山城へと足を伸ばした。

1・宵山・函谷鉾
祇園祭宵山・函谷鉾

先にアップした観音寺(京田辺市)、海住山寺(木津川市加茂町)につづき、皆さんも一度は耳にされたことがあろうかと思う浄瑠璃寺といういかにも旅情を誘う名の古刹を参拝した。

2・浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺参道

当日は生憎、中央の宝池が州浜遺跡の発掘調査中であった。

3・遺跡調査

そのため伽藍配置の美しさが半減したきらいはあったが、人影も見えぬ山深い境内でその在りし日の州浜を思い描きつつ浄土世界に想いを馳せることができたのも一興であった。

4・宝池は調査中
浄土式庭園の中央に宝池、右手に阿弥陀堂、左手に三重塔

パンフレットによると浄瑠璃寺は平安時代、1047年に西小田原浄瑠璃寺(本尊・薬師如来)として創建されたことに始まる。

5・浄瑠璃寺山門
浄瑠璃寺山門

そして、白河院や鳥羽院が治天の君として院政を布いた11〜12世紀頃、京都を中心に皇室をはじめ貴族たちの間で九体阿弥陀堂の建立が争われた。


この浄瑠璃寺においても1107年、その背景となった新たな仏教の教えに基づき、現在の本堂となる九体の阿弥陀仏を安置する “九体阿弥陀堂”が造営される。

6・1九体阿弥陀如来像
本堂に安置された九体の阿弥陀如来像(浄瑠璃寺・絵葉書より)

その新たな教えが九品往生(くぼんおうじょう)という考え方であった。


浄土三部経のひとつ“観無量寿経”のなかにある人間の努力や心がけなど衆生の機根によって極楽往生するにも下品下生(げぼんげしょう)から上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという九品往生(くぼんおうじょう)という教えである。


この教えに拠って、己の極楽往生を願う貴族たちが、九つの往生のパターンを具現する阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を競うようにして建てたというわけである。

6・九体阿弥陀堂
九体の阿弥陀仏が祀られる九体阿弥陀堂・本堂

あの藤原道長が寛仁4年(1020年)年に建立した無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)を嚆矢(こうし)として30余例が記録に残っているが、唯一現存するのが1107年に建立されたこの浄瑠璃寺本堂である。

7・本堂・中尊の見える空間
本堂正面、一体々々の如来が堂前に一枚の板扉を持つ

そして1178年には、東面する阿弥陀堂(彼岸)の前に苑池を置き、東(此岸)に西面する薬師如来を祀るいわゆる浄土式庭園が造られ、現在の寺観が整備される。

8・此岸から本堂を
東の此岸から阿弥陀堂を見る

現在の浄瑠璃寺の伽藍配置は次の如くである。

9・浄瑠璃寺伽藍配置図
浄瑠璃寺のパンフレットより

中央の宝池を中心に東に薬師如来を祀る国宝・三重塔が建つ。

10・浄瑠璃寺・三重塔  11・彼岸から三重塔を
国宝三重塔、内に秘仏薬師如来像を安置

池の西、三重塔に対するように阿弥陀如来九体を安置する本堂・九体阿弥陀堂が建つ。

12・三重塔階段上から石燈籠と阿弥陀堂を見る
三重塔から西の阿弥陀堂を見る。手前の石燈籠は重文。

このように当庭園は平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)などの擁する浄土式庭園の平安中期頃からの典型的な様式となっている。


さて、ここで浄瑠璃寺のパンフレットの説明に分りやすく書かれているので、簡単に仏さまについて転載しておく。


薬師如来

「東の如来“薬師”は過去世(かこせ)から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。」

13・秘仏・薬師瑠璃光如来像
三重塔内の秘仏・薬師如来像(絵葉書より)

釈迦如来弥勒如来

「苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこの世に出現して教えてくれたのが、“釈迦”であり、やがて将来出現してくれるのが“弥勒”で、共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。」


阿弥陀如来

「西の如来“阿弥陀”は理想の未来にいて、すすんで衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏、未来仏、また来迎の如来という。」


そして、太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来であり、太陽がすすみ沈んでゆく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来ということなのだそうだ。

14・九体阿弥陀如来像・中尊
九体の阿弥陀如来の中尊像

だから、当寺の寺号はそもそも創建時のご本尊である薬師如来がおられる浄瑠璃浄土に因んでいることがこれによってよく理解できると思う。

さらに本来の礼拝の作法であるが、同じ形態の宇治の平等院でもこの浄瑠璃寺でも、古来、人々は浄土の池の東、当寺では三重塔が建つ側(此岸)から彼岸におられる阿弥陀仏に来迎を願って礼拝したという。

そして、春分・秋分の“彼岸の中日”には九体仏の中尊、来迎印を結ぶ阿弥陀如仏の後方へ沈んでゆくのだという。

浄瑠璃寺は南山城のさらに奥まった静寂の地に位置する。

15・山門から夏の参道を
山門から夏の参道を見る

阿弥陀堂内のうす暗い空間にわが身と九体の阿弥陀さまだけが存在する世界。ひたすらに内向的な心象世界が瞼に映し出される。

そんな聖なる空間をもとめてこの清浄の地へおもむき、現世の懊悩をすすぎ落とし未来の心の安寧を静かに願ってみてはいかがであろう。

古館・報道ステーションの慰安婦問題検証番組、公共の電波を使い朝日新聞の言い逃れを一方的に言い募る、噴飯ものだ!!

いかにも客観的にテレ朝は報道しているのだと、巧妙というには程遠い見え見えの番組、肝心のところは視聴者に伝えない今夜の報道ステーションであった。


例えば、訂正が遅きに失したというが、32年も訂正に時間を費やした、吉田証言が虚偽であることが周知の事実となってから(済州島の地元紙で強制連行の事実はなかったとの記事掲載、1992年の朝日新聞が吉田証言に裏付けの事実が見つけられなかったとの言及にとどめた慰安婦特集記事等)少なくとも17年間にわたって吉田清治氏の虚偽証言を取り扱った記事の取り消しを行ってこなかった。

この92年以降、朝日新聞は慰安婦問題について物理的な行為である“強制連行”という言葉を、実に巧妙に“強制性”という慰安婦が感じた心理的な問題へと表現をすり替えて行っているのである。


その間、慰安婦の強制連行につき、事あるごとに日本政府を追及してきたあくどさ。わたしは事実を突き付けて時の権力を追及することは、ジャーナリスト、ジャーナリズムの本義であると信じる。

しかし、虚偽であろうが人口に膾炙していった事柄、それも自らが撒き散らし、あたかも事実のように思わせてきた虚偽証言をネタに、長年に亘り意に沿わぬ政府を転覆させようとしてきたことは、報道機関としてはあってはならぬ行為である。


そして今夜、朝日新聞木村伊量社長の謝罪会見を待ってとしか言いようがないタイミングで、40分程を費やし慰安婦問題につき特集を組んだテレビ朝日も同じ穴の狢と断罪するしかない。


テレビ報道は記者会見でもないので、もちろん、質疑応答などない。

テレビ朝日側というより朝日新聞社の言い分を全面的に反映した人権問題への問題のすり替えを行なったうえでの一方的な言い逃れを垂れ流したに過ぎない。


古舘伊知郎という似非キャスターの賢(さか)しらな解説と言おうか、大朝日に対するお追従なのだろうか、顔を見るのも嫌になったが、今日は我慢した。


さらに、河野談話は吉田証言に依拠していないという心証作りに利する反朝日の人物のインタビューの片言隻句をつまみ食いしたコメント放映などあざとくも卑劣な番組作りにさすがに怒り心頭であった。


そして、慰安婦問題で国際的に日本国が大きなダメージを被り、貶められたことは朝日の吉田証言報道とは直接、関係はない。


国連人権委員会に報告され、世界的に性奴隷を喧伝し、日本の信用を大きく失墜させた「クマラスワミ報告書」(1996年)についても、吉田証言が引用はされていても、「それが当時の日本官憲が慰安婦強制連行した大きな根拠ではない、慰安婦に直接ヒアリングした結果である」とするラディカ・クマーラスワーミ女史の証言を紹介。


要は、テレビ朝日は、朝日新聞社の吉田証言誤報は慰安婦強制連行という非人道的行為を時の日本官憲が行ったという誤解を世界に広めたことに責任はないと40分にわたって報道、いや、言い逃れをしたのである。


公共の電波を使って一私企業の言い分を一方的に代弁し、言い募るテレビ局。大変な問題である。


放送法第四条を以下に掲載する。


「放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 公安及び善良な風俗を害しないこと。

 政治的に公平であること。

 報道は事実をまげないですること。

 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」


今夜の番組、慰安婦問題に関し朝日新聞社グループと意見を異にする識者の意見がそこここの場面にコメンテーター的に配されていた。放送法第4条第4項を体した狡猾な番組制作である。


なぜなら、全体を通して番組を見たときに、そうした識者の意見はきわめて意図的に編集され、先ほどの朝日は日本の国益毀損に責任はないという一点につき編集されていたのである。


放送法第4条第3項にいう“報道は事実をまげないですること”という報道の原点に照らしてみたとき、今夜の検証番組は、何をもって“事実”を視聴者に伝えようとしたのか。


ジャーナリストとしての一分の魂でも残っているのであれば、国民の利益に資するというより、この場合は棄損された国民の利益を原状回復するためには、朝日グループはこれから何をなさねばならぬかを真摯に視聴者に向かって語るべきであった。

そして、最初に吉田証言を記事にした植村隆という記者がある意図をもって作成したのだという事実についても正直に視聴者に対して伝えるべきであった。


さまざまな点であまりにも往生際の悪い胸糞の悪い三文芝居を見せられたようで、寝つきが悪いことこの上ない。


錦織、全米オープン決勝戦、敗れる

3ー6、3ー6、3ー6のセットカウント0-3のストレートで敗れる。
チリッチがサービス、ストロークとも錦織を圧倒。
最後まで、錦織に流れ来ず。エアーKの技を完全に封じられる。
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