彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

2015年度の花見三昧 都立滝山公園(滝山城跡)の山桜は圧巻

滝山城跡は国史跡に指定されているとのことだが、都立の滝山公園(八王子市高月町)としてその景観、丘陵の地形がほぼ往時のまま保護されている。初めて訪れてみて、その規模と地形の保存状態にビックリした。

6 中の丸からの眺望
中の丸から拝島?の方向を一望

ここからの眺望もさることながら、吉野の山桜もこれをそのまま同心円に拡大したのだろうと想像してしまうほどに素晴らしく豊かな景色である。

6 山桜、見事です
山桜の壮観さを堪能

それに加えて、ここはちょっとお城オタクにはたまらぬほどのスポット。

滝山城へいたる堀底道
二の丸へ向かう堀底道 この旧坂を登っていきます

複雑な丘陵を活かした戦国時代の城郭の地形がほぼそのままの状態で残されており、尾根筋から見下ろす大曲輪や千畳敷跡空堀、土塁などは圧巻である。

6 滝山城中の丸
滝山城の中の丸

歴女が訪ねれば、一日、城攻めの攻防に夢を馳せることのできる大規模な城跡で、関東随一の規模を誇るといわれた城郭が天然の要害であったことを肌で実感できる貴重な遺跡であるともいえる。

6 引橋から本丸の枡形虎口を見る
中の丸から本丸へ引橋 突当りに枡形虎口

よくぞ、これまで乱開発されずに自然な形で保存されてきたなと正直、驚いた。

6 本丸に立つ滝山城址石碑
本丸跡に滝山城跡石碑

さて、戦国の世に身を置き妄想の世界に遊んでいたところ、中の丸へゆく途中で突如、家内がスイカズラ科のニワトコの花が咲いているという。あまりに喜ぶものだから写真を撮った。わたしには変哲も何もないただの木に見えてしまうのだが・・・

6 スイカズラ科 ニワトコの花が咲いていた
ニワトリ・・いやニワトコの花です(4月6日)

家内は一週間前にも、かの前世が植物学者の泰斗であったに違いないとわたしがひそかに思っている女史と一緒にここを訪ねている。その時にはこのニワトコは蕾だったのだと家内はいう。その時、命は一秒一秒を確実に刻んでいっているのだという当たり前のことに感動する家内を少しうらやましく思ったことは事実である。

30 ニワトコの蕾 一週間前
3月30日のニワトコの花のつぼみ

そして、ニワトリかニワトコかさえもよくわからぬわたしには、少々、それほどに喜ぶことなのだろうかと女心の不可解さにも久方ぶりに感じ入ったところでもある。


それから三の丸から尾根伝いに古峯ヶ原園地へ向かっていると、また、「見て!見て!」とはじまった。


今度はリンドウ科のフデリンドウという花が咲いているという。これも一週間前に訊ねた際に見つけていた花だという。

6 フデリンドウそろい踏み
小さな花です フデリンドウ

たくさん咲いていると路傍ばかり見ているのも、花見に来ているのに、ずいぶんと不思議な光景だな・・・なぞと思いながら、どれどれとそのはしゃぐほどの花を見てやった。すると、おっ・・・かわいい・・・この年の大の男がとも思ったりもするが、美しいものは美しい、かわいいものはかわいい。それでよい。

6 滝山城址のフデリンドウ
家内が必死でローアングルから撮りました

そう素直に言える人間になりたいものと、ちょっと小さく心のなかで思わせた可憐な花がフデリンドウであった。

蕾がかわいいので、この写真も撮ってほしいというので撮った。だから、ここに掲載する。

6 フデリンドウと蕾
後ろに立っているのがもう少しで花になる蕾です

戦国の山城というよりちょっとした丘陵の風情のなかでそのなりのままの山肌に植わる山桜。

6 大曲輪の山桜
この日はなんとか天気がもっていました

幹が根元で10本ほどに分かれひょろひょろと空へ向かって高く伸びる山桜。

滝山城跡桜の園

なかなかに見事である。人工的でないのがさらによい。来年も必ずここに来ようと思った夢想空間の爽快な場所である。



 

 

2015年度の花見三昧 新宿御苑・多磨霊園・高幡不動・浅草寺

今年の桜は開花が予想より早く、開いたと思ったらもう満開ですと慌ただしいことこのうえなかった。花見日和に生憎、予定が入っていたりとタイミングも悪く、そんなこんなで、実はこれぞお花見〜というショットが今回はあまりない。


さらにお天気の具合が今一つといったことで、やや充実感に欠ける“お花見”レポート

になることをまず申し上げておく。


そして、二回に分けてアップすることになるが、一回目が4月3日の新宿御苑。4月5日の多磨霊園、4月6日のおまけの高幡不動尊、4月7日の浅草寺の桜。2回目がそんな不作の今年の花見のなかで、ちょっと新鮮な驚きを感じた4月6日の都立滝山公園(八王子市)は少しくわしく案内することにする。


それでは、日付順にどうぞ。

4月3日の新宿御苑、これは家内が友人とランチ込みの花見(花より団子)のショットです。

1・2015年の新宿御苑の花見
曇り空の新宿御苑

風が強く、曇り日であったため、爽快な花見というわけではなかったそうだ。

2 桜と旧御涼亭
桜と御涼亭

ただ、風のおかげで、この桜吹雪は見事にその雰囲気が出ているので採用した(偉そうにという家内の声が聴こえそうではある)。

3 新宿御苑の桜吹雪
桜吹雪・・・おみごと!!

4月5日の多磨霊園の桜並木。

4・4月5日多磨霊園の桜並木
もう葉っぱが出てきています

その二、三日前のニュースで満開の映像が流れていたので、急遽、花見ついでの墓参となった。

5 至る所、桜、桜
多磨霊園内のそこここに桜の樹

そんな心がけであるから、途中からパラパラと雨が落ちてくるといった天候で、まぁ、霊園の花見だからこれはこれで風情があると負け惜しみのひと言。

5 霊園内の桜も満開
やはりきれいです・・・

そして、我が家の菩提寺は、梅が中心で桜はこの枝垂桜のみであるので、ここに掲載する。根元近くのハナモモがきれいだったので、これもまぁいいかと・・・。

5 菩提寺の枝垂桜とハナモモ

4月6日は滝山城址公園へ行く途中に、高幡不動尊の桜もまだ何とか大丈夫だったので、一枚アップしておく。

6 高幡不動尊の桜
車中から一枚、高幡不動尊の桜です

4月7日は平成中村座の公演を見に浅草へいったので、浅草寺境内の桜もまだ何とか残っていたので、どうぞ。これまた、雨模様の天気で色合いが今一つで残念であった。

7 浅草寺五重塔に桜
浅草寺の五重塔と桜

ただ、たまたま伝法院が公開中とのことだったので、初めて小堀遠州の庭を拝観した。

7 伝法院庭園よりスカイツリーと五重塔
大書院の屋根越しにスカイツリーと五重塔

その大書院の横に大きな枝垂桜があった。

7 浅草寺伝法院の枝垂桜

これも空が青かったらなぁと、嘆息。真青なる空より枝垂れ桜かな・・・とはいきませんでしたな。



しかし、こんなりっぱな庭がこの都内にあったとは、東京はなかなか奥深いと感慨にふけったところであった。




 



湧水の都・安曇野の早春を賦す

(当ブログ内の写真・記事等一切のコンテンツの転用を禁じます)

湧水の郷、安曇野を歩く その1=NHK「おひさま」ロケ地・陽子の通学したあぜ道(2011.8.9)
穂高温泉・安曇野、泊まってみたい宿=にし屋別荘(2011.8.23)
穂高温泉郷・安曇野、泊まってみたい宿=なごみ野(2011.8.28)
穂高神社で幻のザラメ味噌煎餅に遭遇、癖になる旨さ!!(2015.4.12)

3月29日、全国のトップをきって東京でサクラが満開になったと発表された。わたしたちはその前日から一泊で安曇野を訪ねていた。

1・早春賦

そもそもは穂高神社への参詣が目的であったが、あたりに車を駆るうちに安曇野の清澄な風景を目にし、その魅力を再認識した。

2・穂高神社拝殿
穂高神社拝殿

参詣後に「ひょっとしてわさびの花が咲いているかも」という家内の言により迷わず大王わさび農場に向かったが、それが大正解。

3・水車のある風景
水車のある風景

いつもは(5月から10月)黒いネットで覆われ、こんなに広々とした開放感のもと、わさび田を一望することはできない。

4・わさび田一望
一望にわさび田

その整然と畝が立てられたわさび田の面が早春の陽光を浴びて白く輝いて見える。点々と白い斑のように光るもの・・・、目を凝らすと・・・あっ・・・やはり、わさびの花だ・・・

5・わさびの花
わさびの花

ここでは一日12トンという湧水量を誇るわさび田の真清水が畝々を潤す。

6・真清水がわさび田の畝に湧き出る
清冽な真清水が畝をうるおす

この水は外部から引き込んでいるものではなく、この一面のわさび田の下から湧き出でる伏流水なのだという。しかもその流水が含んでいる養分のみでわさびは育つのだそうだ。

7・蓼川と万川の透明な水の流れ
湧水を流す蓼川と万水川

まさに安曇野は自然と共生し、自然からの賜りもので生きているといってよい。

8・早春の安曇野を駆る
安曇野を駆る

常念岳の頂には真っ白い雪がまだまだしっかりと残っている。

9・冠雪の常念岳
常念岳

しかし、安曇野の里には小さな春がたしかにやってきている。

10・早春の安曇野

東京がもう満開だと桜を愛でる頃、ここ安曇野にはようやく早春の腑が奏でられる季節がやって来る。




温泉へ行こう・泊まってみたい宿=大正浪漫あふれる銀山温泉の古山閣

BS・TBSの「美しい日本に出会う旅・東北の秘湯」(1月14日)という番組で銀山温泉が紹介された。その宿のひとつに古山閣が採りあげられた。
1・古山閣正面
古山閣

大正浪漫あふれる秘境の温泉という謳い文句につられ、即刻、その場でネット予約をした。

01・銀山温泉撮影スポットから
銀山温泉の街並み

NHK朝ドラ「おしん」のロケ場所として有名な能登屋旅館も魅力的であったが、川側の部屋が予約でいっぱいであったうえ、改装をしたのち部屋が新しくなった分、古きもののよさがやや損なわれた感もあるとの口コミもあった。そこで、ベンガラ色の壁と折り上げ格天井という古式な部屋が空いていた古山閣を選択した。

6・招福の間
ベンガラ色の壁に味わいがある和室・招福

TVで紹介された“招福”という部屋にわたしが一目ぼれしたのだ。

7・折り上げ格天井  8・落ち着いた部屋です
折り上げ格天井            落ち着いた和室

その古山閣は木造四階建ての伝統的な日本建築である。

4・古山閣入口  34・アンティークな世界
 古山閣入口              玄関は大正時代にあふれる

内装のすばらしさとともに外観を飾る鏝絵(こて)には職人の技とそれを育てた往時の旅館の主人たちの剛毅な芸心が偲ばれる。

2・三階の右 電気がついた部屋が招寿の間
四季を彩る鏝絵が圧巻

銀山温泉の入口を入ってすぐに古山閣が位置するため、湯治客がまず目にするのが古山閣の鏝絵である。四季の絵柄を鏝(こて)で描いた見事なものである。

25・豪華な鏝絵の古山閣
すばらしい鏝絵が壁を覆う

近くで見れば見るほどその職人芸には驚かされるのだが、一見だけでは彩がゆたかできれいだといった感想に終わってしまうので、3Dの立体的な鏝絵はよくよく目を凝らすことが肝要。

20・3Dな鏝絵・秋祭り
秋祭りを描く凹凸のある鏝絵

まず、食事の前に昼間の銀山温泉をぶらぶらした。ゆっくり写真を撮りながら“はいからカリーパン”やお土産屋に入ったりしても30〜40分ほどでひと廻りできる。

18・はいからさんのカリーパン  カリーパン
銀山温泉名物のはいからカリーパン

と言っても、冬場は白銀の滝のかなり手前で積雪により侵入不可。橋を渡って、“そば処滝見館”の玄関先をちょっとお借りして何とか白銀の滝を見ることができた。

24・白銀の滝
白銀の滝

古山閣へ戻り、まず温泉へ入る。一回目は一階の大浴場を使用。だれも入っていず、独り占め状態。少々、熱めの湯であるが、湯屋の天井が高く、空気もひんやりとしているため、湯船のなかがとても気持ちがよい。

10・大浴場
いい湯です

翌朝に貸切り風呂へ入った。貸切り風呂は二か所あるが、両方とも招福の間のある三階にある。

11・右の貸切風呂  12・左の貸切風呂
貸切風呂もゆったり

さて、夜の散策する前に夕食をとった。部屋食で高坏膳である。

26・高坏膳の夕食
なんとお膳でお出ましです

夜の街並みをそぞろあるくのがひとつの目的であるので、お神酒はほどほどに食事を愉しむ。

27・尾花沢牛温泉蒸し  28・フカヒレの中華風蒸し
左:尾花沢牛温泉蒸し       右:フカヒレの中華風蒸し

尾花沢牛あり、フカヒレあり、温かな団子汁ありと思った以上の山間の旅館の料理であった。

29・蕪と赤魚の吉野餡かけ  30・鳥団子汁
左:蕪と赤魚の吉野餡かけ          右:鳥団子汁 

丁寧に盛り付けされ、味付けも薄味で、どれもとてもおいしかった。

31・サーモンの塩麹焼き  32・蕎麦まんじゅう
左:サーモンの塩麹焼        右:そばまんじゅう

お腹も満腹、ちょっと風に当たろうと窓を開けると、そこには昼間とは異なった風情の景色がひろがっていた。

9・部屋から
部屋から対岸の伊豆の華を見る

そして、午後八時前、いよいよ大正浪漫の世界へと足を踏み入れる。当夜は雪もなく見通しがよく、これはこれでよい。まだ人通りも少ない温泉街の奥へと歩いてみた。ガス燈に灯がともり、淡い橙色の燭台のように浮かび上がる旅籠が川筋の両側にならんでいる。

15・如月の銀山温泉

遠い昔、どこかで経験したことがあるとても懐かしい光景、添い寝した母が諳(そら)語った昔話の世界のような心やすらぐおだやかな情景である。これを大正浪漫というのもよい。だが、わたしには誰しもが心の奥襞に大切に温め宿らしている童の無垢な魂のような景色、原風景のようにも思えてきた。

17・湯煙りの立ち昇る川筋
湯けむりに浮かぶ銀山温泉

幻想的とひと言でいうのはたやすいが、もっと人間の本源にある剥き出しのやさしさ、思いやりのような、そんなあったかくも産毛のような小世界にいま自分は身を置いている・・・そんな夢を見た。

16・銀山温泉奥からの夜景
銀山温泉の奥から見る

翌朝、障子を開けるとこんんこんと雪が降っていた。今回の雪国の旅で初めての降雪である。

21・翌朝は雪が降っていました
雪が降っていました

二日前はホワイトアウトで外出もままならなかったと仲居さんから訊いていた。それはさすがに勘弁いただきたいが、やはり北国の雪降る情景を目にしたいのは自然な旅人の気持ち。



旅の三日目にして空から雪が舞い落ちてきてくれた。朝食をすませると、早速に雪降る銀山温泉の散策に移った。

22・銀山温泉の雪の朝

湯治客は朝食中か温泉にでも浸かっているのか、朝の温泉街はまだまだ静寂の世界である。

23・雪の能登屋
雪降るなかに能登屋旅館

冬空から舞い散る雪はその景色を小さな物語の世界へとかえてくれる。夢のようなおとぎ話の世界にいるようである。本当に銀山温泉に来てよかった・・・そう思わせる雪景色であった。






 

横手の“雪まつり” (2/2) 憧れの“かまくら”に游ぶ

アップ遅すぎ! 横手の“雪まつり” (1/2) 横手城・平安の風わたる公園(2015.3.25)

ドイツの建築家ブルーノ・タウトも絶賛したという“かまくら”は、水神様をまつる横手の小正月行事で、毎年2月15、16日の夜に行われる伝統行事である。

1・かまくらから漏れる橙色
羽黒町武家屋敷通り

わたしは今を去ること50数年前に小学館発行の小学一年生か二年生の記事で“かまくら”を知り、そして、雪国の生活に憧れた。その憧れた夢が叶ったのが、この日である。

2・プチかまくらが行燈のよう
武家屋敷の塀沿いにミニかまくらが並ぶ

古い伝統をもったものだとは思っていたが、今度訪ねて、びっくり。なんと420年の伝統を誇るというではないか。


武家社会では災難を除き子供の無事成長を祈り左義長のかまくらが行われたという。また、町人社会では町内の井戸のそばに雪穴を作り、水神様を祀り、良い水に恵まれるようにと祈ったのだという。

3・水神さまです
水神さまを祀ります

こうした子供を慈しむ心や自然信仰の合わさった素晴らしい習俗が、関ヶ原の戦いという天下分け目の大いくさの頃からはじまっているというのも、この日本、どうしてどうしてそう捨てたものでもないなと感じ入ったところである。


当日は、まず、タクシーで羽黒町武家屋敷跡へ向かった。そこから歩き出して、ぐるっと市内のかまくらを順番にのぞいてゆくことにした。

4・武家屋敷
武家屋敷

武家屋敷通りにはいると辺りは暗闇であったが、雪道をしばらく歩くと遠くに橙色の燈りが見える。かがり火が焚かれていた。

5・除雪したところにかがり火が
かがり火も焚かれています

しばらくゆくと小さな藁くつがおかれた“かまくら”から、「はいってたんせ」、「おがんでたんせ」という幼い声が聴こえる。小学生だろうか布で作った蓑帽子にちゃんちゃんこを着た少女二人とその母親らしき方が中へどうぞと招いてくれる。

6・お餅や甘酒のおもてなしを受けます
はいってたんせ!

「かまくらに入ってください」、「水神様をおがんでください」という意味だそうで、われわれも靴を脱ぎ、火鉢を囲ませていただいた。


そこで、甘酒やおもちに太巻き寿司がふるまわれたが、見ず知らずの人間と会話をし、こうしたご接待をする様子は何とも気持ちがすがすがしくなったものである。

7・焼いたお餅がふるまわれます

四国遍路のご接待文化やこの北国のおもてなし文化をみると、昨今の殺伐としたこの国、本当は優しい国民性をもった日本人がそもそもはたくさん生きているのだと思い直したところである。


羽黒町の突当りに横手南小学校があった。その校庭一面にはミニかまくらが作られ、それぞれに燈明が灯されている。まさに幻想的な光景である。二日ほど前に、ここがTVで紹介されたと家内が教えてくれた。なるほど絵になる景色である。

8・小学校の校庭に造られたかまくら

次にかまくら館近くにゆくと、元気の良い「はいってたんせ」が聴こえる。そこで、また、お邪魔をする。横手北中学校のバスケット部の二人である。新田由直君と藤坂月(るな)君である。

9・ガンバレ! 横手北中バスケット部

快活で素直な二人に、われわれ夫婦もなんだかほっこりして、お餅もすすみ会話も進む。愛らしい藤坂君が新田君はバスケの秋田県代表なのだとかで、そういわれてみるとずいぶんと背が高そうだ。


訊いてみると、183cmあるのだとか。まだまだ身長は伸びそうでこれは将来の全日本も何とかなりそうと考えた次第。そんな若人の夢を奪うような日本バスケットボール協会のゴタゴタ騒動、早く何とかせい!!と一喝せねばなるまい。横手北中バスケ部、頑張れ!! おじさんも応援してるぜ。


最後にホテルプラザアネックス横手前に作られた“かまくら”に寄って、そこでホテルの従業員の方々からトン汁をご馳走になり、二人のお腹はもういっぱい。

10・ホテル前のかまくら
炬燵で豚汁、おいしかったですよ

そして、早く温泉につかろうとホテルに戻り、横手の“かまくら”を愉しむ夜は天候にも恵まれ、人の温かい気持ちにも触れられた素晴らしい旅のひと夜となった。


そうそう、忘れてならないことがひとつ。ここ横手は恋人の聖地に認定されおり、ハート形の“かまくら”があったことを報告せねばならない。われわれもその中に入り、記念写真をパチリしました。

11・ハートのかまくらもありました
恋人の聖地です、みなさんもどうぞ

二日前はひどい吹雪でかまくらめぐりもそこそこにホテルに舞い戻るお客さんがたくさんいたというから、この雨男、今年の旅はひょっとして汚名返上となるかも知れぬと思ったものであります。


横手の皆様、ほんとうに素敵なおもてなし、ありがとうございました。



アップ遅すぎ! 横手の“雪まつり” (1/2) 横手城・平安の風わたる公園

横手の“雪まつり” (2/2) 憧れの“かまくら”に游ぶ(2015.3.25)

東京は明日の朝の寒さまでで今年の冬の寒さはおわるのと、NHKラジオの気象予報士・伊藤みゆきさんが云っていた。


そこで、今年の冬の積み残しはさすがに、本日までにアップしておかねばと思った次第。横手でお世話になった中学生諸君にも顔向けできないしね。


秋田県横手市の“かまくら”は小学生時代からなぜだか心惹かれる存在だった。一度は訪ねてみたいと思っていたが、ようやく今年の2月にその夢が果たせた。なのに、なぜ、すぐにアップしないのか。ごもっとも!! いろいろホントに野暮用があって・・・


さぁ、ぐずぐず言わずに“かまくら”実体験レポートにいこう。訪ねたのは、かまくら祭りの最終日の2月16日。天気晴朗の申し分ない旅日和。


10:20の東京発新幹線・こまち3号で一路、夢の横手へ。初めて乗車する秋田新幹線。

1・秋田新幹線こまち

盛岡駅で東北新幹線から別れて、大きく東北内陸部へと西進。窓外は雪景色へ一転。

2・雪原に岩手山
雪原の先に岩手山と青空

くっきりと雪原のなかに岩手山が見える。これは絶景である。

0・岩手山
岩手山、ビューティフル!!

13:35に花火競技会で有名な大曲に到着。ここで、新幹線を降車し、これまた初めて体験する奥羽本線・新庄行の乗り換え、横手に向かう。

3・大曲駅で奥羽本線へ乗り換え
新幹線が遅れても待ってくれる奥羽本線

13:42に大曲駅を発車、14:02にもう目的地、横手駅へ到着。わずか20分の乗車時間。

4・JR横手駅
JR横手駅 市内の道路はきれいに除雪されている

当日の宿泊先である駅前のホテルプラザアネックス横手というホテルにチェックイン。

5・ホテルプラザアネックス横手
温泉もあるホテルで、ほっこりします

このホテルは温泉併設のうえ、翌日の朝食の場所から、あの鳥海山が見えたのです。もうびっくり、北の人たちが自慢するのがよく分かった。美しいのひと言でした。

12・ホテルから鳥海山が見えた
出羽富士とはよくぞ言った、見事な鳥海山

さて、フロントに荷物をあずけたところでホテルマネイジャーに暗くなるまでの冬の横手の観光を相談。そして、タクシーをチャーターし、まず横手城へ。ここも“かまくら”がつくられていた。

6・かまくらと横手城
天守閣とかまくら

天守閣から横手市をまずは一望。空には徐々に雲が出始め、午前中のような青空を背景にとはいかぬが、見晴らしは最高。

7・横手城天守閣から横手川と横手市内を一望
横手川と横手市内を一望

そこから後三年の役・金沢(かねざわ)資料館へおもむく。後三年の役(1083−1087年)は奥州藤原氏が奥州に覇権を確立する契機となった戦である。源義家が清原清衡を扶け、この横手の金沢柵に籠る原家衡・武衡軍を破った。その後、清衡は実父の藤原経清の姓に改め、以後、藤原四代の繁栄の礎を築いた。


その金沢(かねざわ)柵のすぐ麓に建てられた後三年の役金沢資料館、この日はなんと休館日。“雪まつり”パンフレットにはこの日は開館すると記載されていたのに、あぁ、残念。記念に無念の閉館の写真のみを撮ることに。

8・後三年の役金沢資料館・休館日でした

あまりに悔しいので、ハズレついでに“平安の風わたる公園 (横手市金沢中野三貫堰)に立ち寄ってもらうことにした。


運転手さんもホテルのマネイジャーも冬は閉鎖されているので無理だと知らされていたが、八幡太郎義家が雁行の乱れで伏兵のあることを知り、難を逃れた場所であるという公園の傍に立ち、一一〇〇年前の世界に羽ばたいてみたいと思ったのである。


そして、平安の風わたる公園へ・・・

9・平安の風わたる公園
公園の散策なんて・・・

わずかに期待していた公園への足の踏み入れも、この一面の雪を見せられるとさすがに諦めがついた。こんな雪深いところで天下に名高い後三年の役という戦があったのかと思うと、感慨ひとしおである。そして、中央の雁がね橋が見通せたのはせめてもの慰めではあった。

10・雁行を象った雁がね橋
冬ざれた小枝の先に雁がね橋が見えた

そんな分厚い雪のなか注意深く目を凝らすと、此の戦の主役たちの銅像が雪囲いされて佇んでいた。

11・雪囲いされた源義家像
雪原のなかに八幡太郎義家の銅像が・・・

一一〇〇年前の恩讐をこえて、いま、こうしてならんでいる銅像を眺めていると、いまだに止むことのない世界中の紛争といった人間の営みや存念なんてなものは、千年経とうが何にも変わっていないのだとつくづく思うしかない。人間の宿業というしかないのだろうかと、やや、やるせない気持ちにもなった。


そんなブルーな気分はやはりこの目の前に展開する一面の雪景色がそうさせるのだろうか・・・



淡雪を散らしたごとく、秩父の節分草(セツブンソウ)は満開でした

さぼりにさぼった彦左の正眼、誰かさんから早くUPしなさいと尻を叩かれ、リ・スタートはまず、大好きな花めぐりのご報告から。

00・一面に節分草
節分草(セツブンソウ)が一面に・・・

3月11、12日で春の訪れを告げる花々を求めて秩父を訪ねた。特にセツブンソウを観てみたいという家内の希望で、秩父郡小鹿野町にある節分草園(両神小森)の見ごろの時期に合わせることになった。

0・キレイ

そこで、泊りは、目的の節分草園に近い国民宿舎両神荘を予約した。

1・国民宿舎両神荘
国民宿舎 両神荘

花園ICで関越自動車道を降り、途中、長瀞で宝登山山頂にある蝋梅園と梅百花園にも立ち寄った。時季は蝋梅が少しでも残っていれば・・・梅が少し咲き始めているはず・・・と、帯に短し襷に長しと中途半端であったが、かなり意欲的な?(世上、それを欲張ったと云う)計画を立てた。


その両日は、関西方面や北海道、日本海側が荒天という気象条件のなか、関東だけは申し訳ないほどのお出かけ日和であった。午前10時45分、宝登山へ到着。早速、ロープーウェイで頂上へ。

2・宝登山ロープウェイ
宝登山ロープウェイ

山頂駅の広場では福寿草がお出迎え。

3・福寿草

そして、急階段を軽やかに?昇り、奥宮を参拝する。

4・宝登山神社の眷属・山犬が鎮座する奥宮
眷属・山犬が狛犬の宝登山神社・奥宮

そのすぐ上が標高497mの宝登山山頂である。

5・宝登山山頂

そこから秩父山地にある二つの百名山である両神山(標高1723)と甲武信ヶ岳(こぶしがだけ・同2475)が見晴らせた。

6・宝登山山頂から両神山を見る

山頂の真下に広がっているのが、東蝋梅園であった。見ごろは既に過ぎていたが、青空を背景に何とか遅咲きの蝋梅を楽しんだ。

7・東蝋梅園の蝋梅
抜けるような青空にのんびり屋の蝋梅

冠雪の秩父山地をバックに撮られた玄人の写真をまねようと試みたが、何せ蝋梅の花が少なすぎ、やはり満開の時でないとそんなショットはとても無理とつぶやいた。

8・両神山と蝋梅
両神山を背景に蝋梅を・・・

それを耳にした家内が云うには、それでもアングルの取り方がかなり難しいのではとの辛辣なコメント。まぁ、今回は腕が試されずに幸いであったということか・・・


山頂から下りかけに梅園が山腹に張りつくように広がる。梅の方はこれから満開となるところである。今日あたりは一斉に開花したのではなかろうか。

9・山腹に広がる梅百花園
この週末は見ごろでしょうね

ここからは武甲山が見渡せるので、梅と武甲山の揃い踏みが撮れるので、おそらくこの週末当りはアマチュアカメラマンが押し寄せ、この山肌にカメラレンズの砲列が並ぶことになるのだろうと想像した。

10・紅梅と武甲山
何とか武甲山をバックに紅梅を撮ってみました

梅園を跡にして、椋神社を経由していよいよ節分草園へと向かうことにした。

到着したのは14時40分。閉園が16時半であるので、ゆっくりと堪能が可能である。

11・受付入り口
節分草園の入口

山間の傾斜地に自生しているため、底冷えする山気が直接、襲うので、閉園間際や天気の悪い日は、相当着込んでいかないと鑑賞どころではないと感じた。

12・傾斜地に節分草が自生する
寒々とした山の斜面一面にセツブンソウ

当日はほんとうに幸いかな気温も暖かく、絶好の鑑賞日和であったが、前日は寒さでじっくりと鑑賞するどころではなかったと売店のおばさんが教えてくれた。


セツブンソウはキンポウゲ科セツブンソウ属の多年草である・・・とWIKIPEDIAに書いてあった。和名はやはり節分の時分に花を咲かせるので、この名があるというが、それくらい想像はつく。

00・まあまあ

園内に足を踏み入れると、陽射しの関係で一面、真っ白に見える箇所がある。

13・節分草の群生

これって、満開・・・と目を凝らすと実に山肌一面に淡雪のごとく節分草の花が咲いている・・・とわたしが嘆声を発した。

14・淡雪
淡雪が降りたみたいですね・・・

すると、家内が白い花に見えるのは萼片(がくへん)で、花びらではないのよとご教授くださる。

15・きれいです

ありがとうとお礼を言いつつも、内心、興ざめさせるな!!と小声でつぶやく真正理科音痴。あぁ、小学校でもっとしっかり理科の授業を聴いておけばよかったと反省。


花弁自体は退化して黄色の蜜槽となり、多数のおしべと共にめしべの周りに並んでいるのだそうな。

16・花弁が黄色
接写しました・・・小さな黄色の点々が花びらですからね

家内が必死に携帯で接写していたので、わたしが鮮明な映像を撮ってやった。

どうだ、これが節分草の萼片(白)と花弁(黄)と雄蕊と中心にあるのが雌蕊であります。

17・花弁と萼片
クリックして更に拡大してください、黄色の花弁の先は二又です

それとかわいいと叫ぶので、蕾が開花しかけの花も撮りました。うん、なるほど結構、かわいらしいと思った。

18・つぼみ
つぼみも可愛らしいですね

そんな節分草園。そんなに人は多くはなかったが、われわれは園内を端から端まで探検しつくし、写真も丁寧に撮ったため、通常の人は20分ほどで一周するものを50分もかかってしまった。

19・白のコントラスト
自生する節分草、自然は大切にとほんとうに思った景観です

家内は満開の節分草に出会えて、それはそれは満足のご様子でありました。

わたしは出口の売店で大好きな干し柿を土産に買って、それはそれで満足の体で、当日の宿泊先、両神荘へと車を走らせたのでありました。




 

日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=仏教公伝をめぐる権力闘争の場面で登場する海柘榴市(つばいち)6/6

海柘榴市はシルクロードの起点であると先に語った。日本書紀に仏教公伝の百済使節が海柘榴市に上陸したとの記述は見えない。


海柘榴市歴史公園と三輪山
三輪山麓、この辺りが海柘榴市・河原に海柘榴市歴史公園

しかし、隋の裴世清が遣隋使の小野妹子らと共に大和川を水行上陸したのが海柘榴市であったことは、後の推古紀16年8月条に記されている。海外の賓客が難波津から大和川を遡上し、この海柘榴市の河港に上陸し、明日香の京に陸行するというのが、その当時のメインルートであったことは確かである。


故に、それを遡ること五十有余年前にも、百済からの使節が海柘榴市に来着したことは間違いなかろうと考える。現在、大和川に架かる馬井出橋の脇、堤の上に “仏教傳来之碑”と彫り抜かれた大きな石碑が建っているのも頷けるところである。


仏教伝来地石碑
大和川岸に立つ仏教伝来の碑

仏教公伝については、欽明(キンメイ)13年(西暦552)10月の条に、「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎至契(セイホウキシダチソチルヌシチケイ)等を遣して、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る・・・」と伝えている。


そして、「仏法が諸法のうち最も優れたもので、三韓も皆、教えに従い、尊敬しないものはない」との百済王の上表文を読んだ欽明天皇は、「西蕃(セイバン)の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾(カツ)て看(ミ)ず。礼(ウヤマ)ふべきや以不(イナ)や」と、仏教受容の是非を群臣に問うた。


蘇我大臣稲目は「西蕃の諸国、一に皆礼(ウヤマ)ふ。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)、豈(アニ)独り背かむや」と、仏教の受容を促した。


一方、物部大連尾輿(オコシ)と中臣連鎌子は、「我が国家の天下に王とましますは、恒(ツネ)に天地社稷(アメツチクニイエ)の百八十神(モモアマリヤソカミ)を以ちて、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事(ワザ)とす。今方(イマ)し、改めて蕃神を拝(ヲロガ)みたまはば、恐るらくは国神(クニツカミ)の怒を致したまはむ」と、神道祭祀の長たる天皇が他宗教の神を祭拝すると国ツ神の怒りを買うと猛反対。


そこで、天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預け、試みに礼拝させることとした。稲目は自邸のある小墾田(オハリダ)にまず仏像を仮置きし、至近の向原(ムクハラ)の家を浄捨して寺とすると、そこへ移転安置し、仏道の修行に勤めた。


向原寺・本堂
向原寺(こうげんじ)・本堂

ところが、その後、折悪しく全土に疫病が蔓延、病死者が増嵩。この災禍につけ込んだ排仏派の物部尾輿・中臣鎌子は、これは国神の祟りであり、早々に仏像を棄てよと上奏、欽明天皇は「奏(マヲ)す依(マニマ)に」と、それを許す。


そこで、尾輿らは仏像を難波の堀江に棄てさせ、伽藍に火をつけ灰燼させた。この難波の堀江は仁徳天皇11年10月条に、「(難波高津)宮の北の郊原(ノハラ)を掘り、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号(ナヅ)けて堀江と曰ふ」とあるように、仁徳紀に治水工事として築造開鑿(カイサク)させた堤や運河のひとつである。


ただ、これには異説があり、現在の向原寺(コウゲンジ)に“難波池”という小さな池がある。この池が紀にある“難波の堀江”であるとの伝承が残されており、江戸時代にここから金銅観音菩薩立像の頭部が発見されている。明日香を遠く離れた難波の津までわざわざ仏像を棄てに行くのは不自然との見解である。


向原寺・難波の堀江
向原寺にある難波池

どちらにせよ、仏法の受入についてその象徴である仏像の棄却という行為は宗教戦争というよりも、これまで国家祭祀を掌って来た物部氏や中臣氏といった古豪族と擡頭著しい新興豪族である蘇我氏との姿を変えた権力抗争であったというのが事の本質である。


そして、神道派の攻勢のなかにあって、敏達天皇13年2月条にあるように、「蘇我馬子は百済から二体の仏像を請け邸宅内に造った仏殿に安置。そして、高麗の恵弁を師とし、三名の女を得度させ尼とし、これらに大規模な法会を催させる」など、蘇我氏は仏教の庇護者としての地位を徐々に固めてゆく。


そんな折、容仏派の頭目であった馬子が病に伏し、国内に再び疫病が起こり多くの民が死ぬことになる。


ここに排仏派の物部守屋(尾輿の子)大連・中臣勝海(鎌子の後継者か?)が、

「考天皇(チチノミカド=欽明)より陛下に及(イタ)るまで、疫病流行(ハヤ)りて、国民絶ゆべし。豈専ら蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」と、上奏(敏達紀14年3月条=西暦585年)。


天皇の許しを得た守屋は早速に、仏像や寺の伽藍を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江へ棄て去った。このことは仏教公伝の欽明天皇の時代に物部尾輿・中臣鎌子が同一の行為を行った記述があるが、ひとつの事件を重複して記載した誤謬ではなく、このような廃仏毀釈の迫害、弾圧が度々あったと理解すべきであろうと考える。


そして、病床に伏す馬子や仏法を修める法侶を責め尼を引っ立て、弾圧するのである。その見せしめの舞台として登場するのが、海柘榴市(ツバイチ)である。


即ち、「有司(ツカサ=役人)、便(スナハ)ち尼等の三衣(サムエ)を奪ひ禁錮(カラメトラ)へて、海柘榴市の亭(ウマヤタチ=駅舎)に楚撻(ムチウ)ちき」と、排仏の公開処刑の場として海柘榴市の馬屋館が使用されている。


それは、中世における政治犯の処刑の場としての六条河原そのものであり、川原は小屋掛け興行なども盛んに行なわれ人の往来が多いゆえに、そうした舞台にも使われたという意味において、海柘榴市が当時、殷賑を極めていたという証でもある。


それから時代は下って、1300年後の明治維新、国家運営の道具立てに宗教を利用しようとする一派により、まったく同じ蛮行、すなわち、廃仏毀釈という愚かな行為はなされることとなる。


まさに歴史は繰り返すの銘言通りの事象が起こっているのである。その一場面にこの海柘榴市も登場するという話であった。




日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替のさらに真相に迫る海柘榴市(つばいち)5/6

雄略に次ぐ清寧天皇の二代の間、政権中枢に据わっていたのは大伴室屋大連や平群真鳥大臣である。


紀に清寧天皇即位に両者が各々、大連・大臣に叙された際に、「並びに故(もと)の如し」とある。その前からこの体制であったと記されており、先代の雄略天皇の即位と同時に平群真鳥は大臣、大伴室屋、物部目(め)は大連に叙任せられたと紀にある。


そして、この三重臣のうち武烈天皇の時代まで残ったのが平群真鳥大臣である。


物部目は清寧天皇の即位の立役者としては登場せず、その後の皇位継承の過程のなかにも名を出すことなく歴史の世界から姿を消し去っている。


また、清寧擁立の立役者である大伴室屋も雄略23年10月4日の条(清寧紀即位前記)、「大伴室屋大連、使主・連等を率ゐて、璽(みしるし)を皇太子(清寧)に奉る」とあり、清寧紀2年2月の条に、「天皇、子無きことを恨み、乃ち大伴室屋大連を諸国に遣して、白髪部(しらかべの)舎人・白髪部膳夫(かしはで)・白髪部靫負(ゆけひ)を置きたまふ」とある後は、一切、紀の世界から姿を掻き消している。


その結果、武烈紀には大伴氏が室屋の孫である金村が連として一族の長として登場し、平群氏滅亡の大功により大連に昇進することとなる。


また、物部氏はまさに平群氏と武烈との間で娘を取り合いされる麁鹿火(あらかい)が大連として登場しているが、物部目の直系の血筋ではなく、雄略紀に重用された目の本流の方は凋落したものと推測される。


即ち、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の五朝に亙って常に政権中枢に据わっていたのが平群真鳥ということになる。


そして、清寧天皇擁立に際し、平群真鳥は大臣でありながら、一切名を出していないことも奇妙である。その後も、朝廷内で大臣として権力を維持しているのにである。


さらに不思議なのが、清寧天皇と武烈天皇の間の二代の天皇、即ち、顕宗・仁賢紀において、大伴、物部はおろか平群の一文字すら出てこぬことである。


清寧天皇が皇統の血筋を引く二人(億計・弘計)が発見され、都へ迎えるときに、「『朕、子無し。以ちて嗣(ひつぎ)となすべし』とのたまひ、大臣・大連と策(はかりこと)を禁中に定めたまふ。」など、一般名詞の大連・大臣や百官(ももつかさ)公卿・百寮(ももつかさ)といった表現で臣下との遣り取りの様子が描かれる。


具体的な重臣の姓は一切、登場しないのである。その為、この二代の記述は雄略天皇の追捕からの二王子の逃亡、発見の様子は極めて具体的であるものの、即位からその治世、朝廷内の描写は平板でおそろしく抽象的な記述にとどまっている。


そして、武烈紀に入り、「(仁賢紀)11年8月に、億計天皇崩(かむあが)りましぬ。大臣平群真鳥臣、専ら国政を擅(ほしきまま)にして、日本(やまと)に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子(武烈)の為に宮を営(つく)り、了(つくりをは)りて即ち自ら居(す)む」と、具体的な重臣名でその専横ぶりが描写される。


この記述の極端な落差、顕宗・仁賢二代の沈黙は一体、何を意味するのか。


その治世・朝廷人事の具体性の欠如は、やはり、この二代の天皇の即位はなかった、履中天皇の孫であるこの両王子の逃亡、それから皇統を引き継ぐ者としての入京の事実はあったとしても、仁徳天皇の皇統が清寧で一旦、途絶え、武烈天皇で復活するまでは、皇統を引き継いだ天皇という存在はなかったと考えるのが、紀を精読しての私なりの結論である。


つまり、顕宗・仁賢の二代の14年間は天皇の椅子は空位であり、平群真鳥が政敵である大伴、物部氏を排斥し、実質的な王として君臨していたとするのが妥当な推論であると思う。


その冷や飯を喰らっていた大伴・物部氏が平群王朝を転覆させるには、皇位の正統性である仁徳天皇からの血筋が必要であったと見るべきであろう。


然るに、雄略天皇が一族を根こそぎ暗殺するといったなか、子が無い清寧帝の後に続く王家の血筋は本当に絶えたかのように見えたのであろう。


だから、かつて雄略が謀殺した政敵(市辺押磐皇子)の子孫であろうが、必死で仁徳の血筋の者を探し出し、億計王子(仁賢)の子(武烈)を傀儡として擁立し、平群真鳥と一発勝負に出たというのが、この武烈=暴君の存在意義であったのだろう考える。


空位の14年間に皇統の連続性を接ぎ穂し、その裏に実在した平群王朝の滅亡、皇統復活劇、そのオペラのような舞台に海柘榴市(つばいち)という当時、誰もが知る歌垣の場がセットされたのである。


そして、王朝転覆ストーリーの舞台廻し役、実は主役なのだが、その後の大和王朝を支える重臣、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい)、その美しき媛を登場させたというのが、正史たる日本書紀の編者・舎人親王が脚色を巧みにし、老練な脚本家としての冴えわたった腕の見せ所だったのだろうと考える。



 


 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=脚色された皇統の正統性と連続性・海柘榴市(つばいち)を逸れて4/6

海柘榴市という本来、甘い恋を語らう歌垣の舞台を使って、陰謀渦巻く王朝交替という大政変を、さらりと恋敵同士の争い事にすり替えた日本書紀の編者・舎人親王(天武天皇の皇子)の狙いは何であったのか。


父たる天武の血筋・皇統が絶えなんとすることを見越しての預言をこの話に含ませたかったのか、この話に隠された舎人親王の符牒とは何か、海柘榴市の寓話に埋め込まれた謎とは一体何なのか、興味は尽きぬところである。


そこで、ちょっと海柘榴市より話は逸れてしまうが、この王権交替の不可思議な謎にさらに迫ってみたいと思う。


前稿で語った平群真鳥による王権簒奪がなぜ起こったかと日本書紀を精読すると、皇位争いの過程で兄弟・従兄らを次々と謀殺していった雄略天皇、その時代から清寧天皇の即位に至る間の吉備一族の一連の反乱劇として記述された真相は何か。


そして、武烈天皇の先代、仁賢天皇さらにその先代の顕宗天皇が子のない清寧天皇(雄略天皇の皇子)から皇位を継承した奇妙な経緯などを具に読み込むと、凄まじい王権争奪抗争の裏に暗躍する有力豪族の、その果てには他の王朝の興亡すらも見えて来る。


つまり、吉備一族は大和にそもそも服属などしておらず、それぞれの地方の王朝として存在していたのではないか、また各々の天皇擁立に奔走した豪族は誰か、武烈天皇の前二代の天皇は実際に即位を果たしていたのか否かといった皇統の正統性や連続性といった王権の根幹部分に疑義が生じてくるのである。


武烈の前の天皇とは、武烈の父にあたる先代の第24代・仁賢天皇と仁賢天皇の弟、即ち、叔父にあたる先々代の第23代・顕宗(けんぞう)天皇である。


顕宗(弟・億計(オケ)王子)天皇と仁賢(兄・弘計(ヲケ)王子)天皇は共に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である。市辺押磐皇子は父、第17代・履中天皇(仁徳天皇の長子)の長子であり、第20代・安康、第21代雄略天皇(共に第19代・允恭天皇の皇子)の従兄に当たるが、仁徳天皇の皇統でいえば、嫡流いわば直系の血筋にあたる。


億計・弘計王子の父・市辺押磐皇子は雄略と皇位継承上、対立関係にあった。その市辺押磐皇子に安康天皇が生前、皇位を譲る意向を示していたため、天皇崩御の僅か二ヶ月後の安康3年10月、雄略(允恭天皇の皇子)は策を弄し、同皇子を狩猟に誘い出し、猪と間違えたとして射殺し、その5か月後に即位を果たした。


市辺皇子の子、億計・弘計王子兄弟は、雄略天皇から次に命を狙われることは必至であり、忠臣の帳内日下部連使主(とねりのくさかべのむらじのおみ)とその子、吾田彦に守られ、まず丹波国の余佐郡に身を隠すことになった。


それでも、なお、雄略天皇の追捕を惧れた帳内使主は自らの名前まで変えて、播磨国の縮見山に潜伏するも逃れきれぬと思い、そこで一人縊死する。


使主と別行動をとっていた億計・弘計兄弟は、使主の子の吾田彦とともに今度は播磨国赤石郡へと逃れ、自分たちも丹波小子(たにはのわらは)と変名し、縮見屯倉首(ししみのみやけのおびと)の奉公人に身を落とし潜伏することとなった。


雄略の崩御一年前に清寧は皇太子(ひつぎのみこ)となるが、天皇の死後、吉備上道田狭の元妻であった稚媛と雄略の間にできた星川皇子が母・稚媛と組んで、雄略の後を襲おうと陰謀を巡らす。


吉備王朝を衰亡させた雄略天皇の遺詔(吉備上道臣の血を引く星川皇子は必ず王位を狙う。その時は清寧を守れ)により大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)が稚媛と星川皇子一派を誅殺、さらに反乱に加担しようとした外戚・吉備上道臣の所領を一部収奪した。


真義定かならぬが、雄略天皇の遺詔という大義をもって、吉備王朝の影響力を大和王朝から一掃した大伴室屋大連と東漢掬直という有力豪族によって、ようやく雄略の皇子・清寧天皇に皇位を継承させることになる。


そうして皇統の正統性・連続性を整えたにもかかわらず、不思議なことに清寧帝に皇后が立てられることはなく、したがって皇子もなく、その皇統は絶える事態となっている。


真に以て不可思議な風景の記述なのである。



 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替の舞台に使われた海柘榴市(つばいち)3/6

あまりにも牧歌的な歌垣の情景のなかにあって、海柘榴市(つばいち)の日本書紀の初出は、仁徳天皇からの皇統の最後となった第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、仁賢天皇11年8月の条である。


有力豪族たる物部麁鹿火(あらかい)大連の娘・影媛を間に挟んで、時の権力者同士が恋の鞘当てを展開する場面である。


任賢天皇(在位488−498)が崩御し、時の大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)臣は、「専ら国政をほしいままにして、日本に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子の為に宮を営(つく)り、了(つくりおわ)りて自ら居む。触事(ことごと)に驕慢にして、都(かつ)て臣節無し」といった王権を手中にしたかのような専横を恣(ほしいまま)にしていた。


平群真鳥は木莵(つく)宿禰(武内宿禰の子・仁徳天皇と同日の生まれ=仁徳紀元年正月の条)の子(雄略紀即位前紀11月条)である。重臣・武内宿禰の子であった木莵宿禰は第15代・応神天皇の御世において重用され、平群の祖とされる。


その平群真鳥の嫡子である鮪(しび)と、当時まだ太子であった武烈天皇との間で応酬された歌垣の舞台が海柘榴市であった。


本来、歌垣は男女で遣り取りされるものだが、ここでは恋敵同士が想い人の影媛を間に置いて相手を揶揄し合う歌合戦となっている。その様子が日本書紀には次のように詳細に描かれている。


太子が使者を遣わし媛に逢いたいと告げさせると、既に鮪と情を交わしていた影媛ではあるが無碍に断ることもできず、「妾(やっこ)、望はくは海柘榴市(つばきち=小学館・日本書紀のルビ)の巷(ちまた)に待ち奉らむ」と、海柘榴市で会いたいと応じた。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓・海柘榴市がこの辺り

そこで、太子は馬に乗ってゆこうと平群大臣の管理する官馬(つかさうま)を出すように舎人に命じさせたが、「官馬は誰が為に飼養へや。命の随(まにま)に」と返答するものの、その態度は不埒千万で一向に命に服しない。


「太子、恨を懐(うだ)き、忍びて顔に発(いだ)したまはず」と、太子は平群(へぐり)一族の人を食った仕打ちにも面を伏せ、じっと忍従したとある。


その鬱屈した挙動から、後に、「女を躶形(ひたはだか)にして、平板の上に坐(す)ゑ、馬を牽(ひ)きて前に就(いた)して遊牝(つるび=交尾)せしむ」(武烈紀8年3月条)といった狂気を描かれた暴虐の大君を思わせる片鱗は一切窺うことはできない。


そんな太子がいよいよ海柘榴市で影媛と出逢い、その袖をつかみ、ぶらぶら逍遥しながら誘いをかける。そこに平群鮪(しび)が登場し、二人の仲へ割って入り、恋敵は群集の見守るなかで向かい合う形となった。


そして、まず、太子が鮪に向かって歌いかけるのである。

“潮瀬の 波折(なをり)を見れば 泳(あそ)びくる 鮪(しび)が鰭手(はたで)に 妻立てり見ゆ”

(潮の流れの早い瀬の幾重にも折り重なる波を見ると、泳いでいる鮪の傍にわたしと契った妻が立っているのが見える)


それに対し、臣下であるはずの鮪は挑発するかのように次の歌を返す。

“臣の子の 八重や韓垣(からかき) ゆるせとや御子”

(臣の子の家の幾重にも囲んだ韓垣の内に影媛を厳重に囲っているのだが、それを緩めて影媛をどうぞと差し出せというのですか、太子よ)


そこからさらに問答歌の応酬が続いたのちに、太子が影媛に次の歌を贈った。

“琴頭(ことがみ)に 来居(きゐ)る影媛 玉ならば 我が欲(ほ)る玉の 鰒(あわび)白玉”

(琴を奏でるとその音に引かれて神が影となって寄り来るという。その影媛は玉に喩えるならわたしの欲しい玉である、あの鮑の真珠のような)


それに対し、影媛に代わり鮪が答歌したのが次の歌。

“大君の 御帯の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに”

(大君の御帯の倭文織(しずおり)の布が結び垂れていますが、その誰にも、わたしは思いを寄せておりません。思うのは鮪臣のみです)


ここにおいて鮪と影媛の相思相愛を知らされた武烈は、海柘榴市の満座のなかで赤恥をかかされた格好となる。


辱めを受け、怒りに震えた武烈はその夜、大伴金村連を召し、即座に鮪の暗殺を命じ、鮪は乃楽(なら)山で誅殺された。


鮪の死を知った影媛が泪して詠った歌が次の通りである。

“青丹よし 乃楽(なら)のはさまに ししじもの 水漬く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそく)く 鮪の若子を 漁(あさ)り出(づ)な猪(ゐ)の子”

(乃楽山の谷間で、鹿や猪のように水浸しの片隅にこもっている水灌(みなそそ)く鮪の若様を、漁(あさ)り出さないでおくれよ、猪よ)


この絶句のよって武烈太子は完膚なきまでに打ちのめされた格好である。これほどの恥辱はそうそうないが、治天の君が太子の時代とは云え、ここまで貶められて描かれているところもいかにも奇妙ではある。


その後、鮪の父で時の一番の権力者であった真鳥も親族を含め悉く、大伴金村によって討ち果たされることとなった。


平群真鳥をはじめ一族を抹殺したのちの下りが仁賢11年12月の条である。武烈天皇即位に至る経緯を述べているのだが、それが何とも謎めいた記述となっているのである。


「十二月に、大伴金村連、賊を平定(たひら)ぐること訖(をは)りて、政を太子に反(かへ)したてまつる。・・・『今し億計(おけ=仁賢)天皇の子は、唯陛下(きみ)のみ有(ま)します。・・・日本には必ず主(きみ)有します。日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ・・・』とまをす」


一臣下たる大伴金村が“政を太子に反す”と言うこと自体甚だ奇妙であるが、それでは一体、その時点で誰が王権を有していたという認識であったのか。


また、「日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ」と、“日本に天皇がいないのはまずい、天皇になるのはあなたを措いて他にない”と、大伴金村は言っている。

普通に考えれば、武烈帝は仁賢天皇が崩御した仁賢11年8月にすんなり皇位継承しておかしくなかった。


何となれば、武烈は皇太子(ひつぎのみこ)に仁賢7年、崩御の4年前になっていたのだから、崩御後、即座に即位しても手続き上、誰も異議を唱えることはなかったはずである。


しかるに紀の記述は、武烈即位前紀としてたった4ヶ月の間の事柄として海柘榴市を舞台とする平群一族の専横ぶりを殊更に描いているのである。


つまり、平群真鳥が武烈(当時、太子)の為と称し宮殿を造営し、そこに自らが住まうなどその驕慢さや海柘榴市の平群鮪(しび)との遣り取りに至る一連の描写から、その時の王権は平群真鳥に移っていたと見るしかない。


そして、武烈天皇は大伴金村の強力な支援を受け、平群王朝を倒し、即位した。


武烈王朝の立役者となった大伴金村はその勲功により大連へと昇進することになる。その後、金村は守屋の孫で武烈から欽明五朝にわたり大連を拝命するが、とくに武烈天皇で絶えることとなった仁徳天皇(応神天皇第四皇子)の皇統に替わり、応神天皇五世の孫である継体天皇即位を実現させた大功労者として有名である。その金村に同調し、継体天皇即位を後押ししたのが、大連となっていた影媛の父、物部麁鹿火(あらかい)であった。







日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=歌垣の舞台、いわば公設の合コン会場でもあった海柘榴市(つばいち・つばきち)2/6

飛鳥時代の政治・文化の中心であった三輪山麓一帯、とりわけ南西部の初瀬川両岸に展開した海柘榴市(つばいち)は多彩な物品の交流する市として殷賑を極めた。

大和川の堤に立つ仏教傳来之地の石碑
大和川の堤に立つ仏教伝来の碑・この辺りが海柘榴市

そうした衆人が集う場所であったがゆえに、そこはいつしか若い男女にとっての出逢いの場所ともなり、恋を語り合いまた恋の駆け引きの舞台ともなっていった。

飛鳥時代の衣装・明日香村埋蔵文化財展示室
この様な衣装を着た若人が恋を語らったのか(明日香村埋蔵物展示室)

それは春や秋祭りの頃、若い男女が集い、五、七、五といった調子の長歌で互いの想いを伝え合う歌垣(うたがき)という風習である。


小学館古典文学全集の万葉集第3巻の注釈によれば、“歌垣は本来、呪術的な儀礼の踏歌から発した古代の習俗で、多数の男女が特定の日に集まって飲食・歌舞し、性的解放を行なった遊びをいう”とある。


当世のLineやメールを駆使する若者たちと較べると、何とも悠長であり牧歌的であり、その天真爛漫とした微笑ましい情景のなかには純朴でそれ故に心豊かな飛鳥人の笑顔が零れ落ちて見える。


そこで、ここは日本書紀というより、まず万葉集からその歌をご披露することにしよう。


巻第十二 2951番

“海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも”

(海柘榴市のいくつもの路が交錯する辻に立ち、あなたと足踏みし踊った時に結び合わせた紐と紐、その熱い夜のことを想い出すとその時の紐の結び目を解くことなどとても惜しくてできませんわ)


初々しいが、何ともストレートで情熱的な愛の告白の歌で、乙女の火照った頬の赤く恥じらう様までがはっきりと見えてくる。


もう一つ、当時、異性に名を尋ねることは求婚を意味したのだが、その有名な恋の駆け引きの問答歌を。


巻第十二 3101番(問歌)

“紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢へる子や誰(た)れ”

(紫染めには椿の灰を加えるとさらに美しくなるもの、そんな椿の植わる海石榴市で出逢った娘さん、素敵な貴女の名前はなんとおっしゃるの)


巻第十二 3102番(答歌)

“たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか”

(母がわたしのことを呼ぶ本名を教えてあげたいけど、行きずりの逢ったばかりの貴方ですものお教えすることなどできないわ)


乙女心をとろかす機知に富んだ甘い言葉に対し、乙女が切り返した歌などは、女性の初心(うぶ)さを見せるようでいて男を焦らす手管、お若いのになかなかの恋のお手並みとお見受けした。


こんな牧歌的な歌垣の情景が目に浮かぶ万葉の時代のなかにあって、日本書紀に初めて登場するのは、大和政権の覇権を巡る生々しい抗争を描く舞台装置としてここ海柘榴市が効果的に使われているのである。


それは第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、第24代仁賢(にんけん)天皇(同488−498)11年8月の条である。詳しくは次稿に譲る。




日本書紀をたどり明日香を歩く 2 =国際交流・国内交通の要衝として殷賑を極めた海柘榴市(つばいち)1/6

古墳時代後期にかぶさる飛鳥時代、その政治・文化の中心であった三輪山麓の南西部山裾、大和川を跨いで海柘榴市(つばいち)という交易市場が存在した。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川を跨ぐ馬井出橋と三輪山山麓

海柘榴市から南西方向に池之内(橿原・磐余)から明日香にかけた一帯には、大和政権のその時々の天皇が居住し、政務をこなす宮殿が数多く存在した。


実在した初めての天皇とされる第10代・崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、桜井市金屋にある志貴御県坐(しきのみあかたにます)神社の辺りと比定されているが、海柘榴市から北西に500mほどの至近の位置にある。

2・志貴御懸坐神社  3・崇神天皇・磯城瑞籬宮跡の石柱の立つ境内
志貴御懸坐(シキノミアガタニマス)神社  同神社境内に立つ磯城瑞籬宮跡の石柱

また、百済からの仏教公伝の舞台となった第29代・欽明天皇の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は、海柘榴市から南東へ500mほど県道105号線の高架下、大和川沿いにある磯城嶋公園の辺りに比定されている。

4・欽明天皇の宮殿跡地・土手の向こうは飛鳥川  百済王から釈迦仏が献上された欽明天皇宮殿址
磯城嶋公園と三輪山山麓 公園の東端に立つ磯城嶋金刺宮跡石柱

海柘榴市という市場はことほど左様に古代大和の中心に存在していたのである。


それほどに歴史的価値の高い場所であるにもかかわらず、現在、この辺りが海柘榴市であったという縁(よすが)は、海柘榴市観音堂(桜井市金屋544)にその名をわずかに認めるのみである。

6・海柘榴市観音堂
海柘榴市観音堂・本堂

それも、人家を抜けた路地の奥、三輪山の末裾に接するまことに小さな境内にぽつんと建つ現代風の簡易な造りの本堂からは歴史の重みを感じ取ることは至難で、ましてや千数百年前に殷賑を極めた海柘榴市のワクワクするような情景を思い浮かべることは甚だむずかしい。

7・突当り、階段上に観音堂・三輪山南西裾
この路地突き当り、階段上に観音堂

その観音堂から300mほど南下すると大和川(初瀬川)にぶつかる。

8・大和川に架かる馬井出橋
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓

そこに架かる馬井出橋の両袂に“仏教傳来之碑”と“海柘榴市跡の説明板”が建っている。

仏教伝来地石碑  10・海柘榴市説明板

この馬井出橋の辺りに飛鳥と瀬戸内海を結ぶ水運の拠点となる湊があった。現在の大和川の水量からは想像しにくいが、西行する川筋を橋の中央部から見やると、その先に小さく二上山が見える。

11・馬井出橋から大和川下流を・先に二上山
川筋の先に小さく二上山

次に上流を振り返ると遠くに忍坂(おさか)山が見渡せる。

12・馬井出橋から海柘榴市歴史公園と大和川上流を・忍坂(おさか)山
上流に歴史公園と忍坂山

すぐ足元の河川敷には海柘榴市歴史公園が整備されているが、百済の使節を歓迎した様子を再現するかのように飾馬の可愛らしいレプリカが置かれている。

13・飾り馬
こんな飾馬で百済使節を迎えたのだろうか

その海柘榴市は五世紀後半、三輪山をめぐる山の辺の道、北へ淡海へと通じる上ツ道、磐余や飛鳥へ南西する安倍山田道、西に羽曳野・堺、東に長谷、伊勢へと至る横大路など幹線道路が交錯する陸路の要衝であった。


しかも、それぞれの道路は正味の路面幅で18mから35mにおよぶ大幹線道路であった。ちなみに現在の高速道路の一車線の標準車線幅は3・5mであるので、5車線から10車線の道路というとてつもなく大規模な道路網であったことが、最近の発掘調査によって徐々に明らかになってきている。


さらに古代物流の大動脈であった海路においても、三輪山南麓に沿って流れる初瀬川の河港として海柘榴市は大きな役割を担っていた。


初瀬川は下流で三輪山の北裾を流れる纏向川と合流、さらに下って飛鳥川や佐保川など奈良盆地を巡る支流を束ねて大和川となり、難波津において瀬戸内海へ出ることになる。

14・近鉄・新大宮駅国道369号線から佐保川の下流を見る
奈良市役所付近を流れる佐保川

そして、その潮路は遠く外洋へと続いており、その意味で海柘榴市は、唐、天竺など国際社会と繋がる古代シーレーンのまさに起点であり、異国文化との交流も盛んな国際色豊かな地であった。


日本書紀の推古紀15年(607)7月に小野妹子が隋へ遣わされたことが記されている。この時の国書がかの有名な聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」である。

15・日本書紀
日本書紀(明日香村埋蔵文化村展示室・個人蔵)

その翌年4月に遣隋使は隋の使者・裴世清を伴ない帰国、8月に明日香に到着。


紀の推古紀16年8月条に、「唐客(裴世清一行)、京に入る。是の日に、飾馬七十五匹を遣して、唐客を海柘榴市の衢(ちまた)に迎ふ。額田部連比羅夫、以ちて礼辞を告(まを)す」とあり、推古天皇の住まう小墾田宮から北東5・5kmにある海柘榴市に儀典用の飾馬75匹を引き連れて額田部連比羅夫が向かっている。


この記述から海柘榴市が7世紀初頭において海外からの賓客を迎える河港であったことがわかり、シルクロードの起点といって過言ではない殷賑を極めた市場でもあったことが容易に想像される。


2015年、すべてが遅れついでのお正月・・・でも・・・

年末、年始を風邪に見まわれ、文字通りの寝正月となったわが家も、ここに来て、遅ればせのお正月気分を味わっている。


お腹の調子がようやく復した8日に一日遅れの七草粥をいただいた。

一日遅れの七草粥
七草粥は胃に優しいと本当に感じたひつじ年

ムカムカしていた胸にこの胃腸に優しい粥はやはり優れもの。何だか例年にない幸せを感じたものである。


そして、誰かが熱を出していたお正月。初詣などとても無理。外気を吸ったのは年賀状を取りに玄関を出たほんの10数秒というのだから、大変な正月であった。


そんな私たちも、やはり、初詣には行きたいねと、9日、地元の高幡不動尊へ久しぶりに出かけた。

高幡不動・初詣
高幡不動尊金剛寺

遅い遅い初詣であったが、人出は多くなく、ゆっくりとお参りが出来た。

不動堂・参拝
不動堂も9日ともなるとゆっくりお参りができます

お不動さんの三ヶ日は延々と参道に行列が出来て、とても私のような足の悪い人間はお詣りはむずかしい。またお年寄りも寒い中、一時間、二時間と行列に並ぶのは至難の業である。

五重塔
五重塔

そこで、ここ数年は人出の多いお不動さんを避けて、やはり近間にある武蔵国一宮・小野神社へ初参りするのが恒例となっていた。

2009年初詣
武蔵一之宮 小野神社

静かな境内に鈴の音が響く初詣は清々しい気分となり、一年の始まりに相応しい場所ではある。


ただ、根が食いしん坊の私どもにとって、惜しむらくは屋台が出ていないこと。

ここも年々、初詣客が増えてはいるが、屋台がでるほどの人出ではない。


ということで、お参りを済ませてから、境内をゆっくりと散策し、風が冷たい中、甘酒を二人ですすった。

屋台がまだ出ていました
境内にはまだ屋台が出ていました・・・ラッキー!!

最近の甘酒が美味しくなっていたのには驚いた。

甘酒 境内に建つ土方歳三像
高幡不動は土方歳三の菩提寺でもあります

もちろん、その前に、ちゃんとご本尊のお不動さんにも手を合わせてまいりました。

不動明王
奥殿に安置される不動明王

五重塔内に安置された観音様にもお賽銭をあげて、一年の家内安全家族の健康を祈願したので、何も食い意地だけではありません。

五重塔内・観音様にお参り

そして、冬の日もあっという間に傾いてきたので、三ヶ日の人出が引いたなかでの遅ればせの初詣もこれはこれで落ち着いていて、いいもんだなと感想を述べ合いながら、お持ち帰りの大きなたこ焼きを大事に懐に抱いて家路へと急いだ。


そして、この三連休に弟家族、息子夫婦もわが家へ押し寄せ、恒例の玄関にての記念写真を10日遅れで撮ったり、いつも通りのワイワイガヤガヤのお正月がやってきました。
そして、餡餅入りのお雑煮もまたいただきました。

餡餅入り雑煮
具の底に丸い餡餅があるのです・・・

胃腸も回復してのお雑煮、やはり、一味も二味も違う格別に美味しいお雑煮でした。


我が家も孫なども増えていつしか総勢10名となり、2015年も、まぁ、すべてが遅ればせではあったが、結果としてはいつも通りのお正月風景となりました。


健康第一!! 


それを肝に銘じて今年一年、楽しまねばと決意を新たにしたところであります。

散々なお正月でしたが、彦左の正眼、今年もよろしく

2016年のNHK交響楽団の「第9・合唱」はブラボー!!(2016.12.25)

我が夫婦の2014年はN響のニューイヤーで始まり、

3 N響ニューイヤーコンサート

そして、N響の第九演奏会で〆た・・・と悦に入った途端・・・

N響第九演奏会

散々な新年を迎える羽目となりました。


年末、フランソワ・グザヴィエ・ロト指揮によるN響の第九は圧巻であった。

NHKホール

2012年のロジャー・ノリントン指揮による何とも味気ない第九に失望していたわれわれとしては、今回の第九こそ、年末を締めくくるに相応しい演奏会であったと互いに満足して、代々木公園の夜道を家路へと急いだものである。


そんな翌々日、グループホームから一時帰宅した娘が急に体調を崩し、嘔吐。
O157ではないかと心配し、年末最終日の診察となった金曜日に病院へと駆け込む羽目に。


幸い、急性胃腸炎とのことでまずはひと安心。娘は2日間は絶食、その後も重湯からお粥と、徐々に平常食へと移行するようにとの指示。


そうしているうちに、今度、家内が具合が悪くなった。熱があるなかお節の用意を頑張るも、苦しそうで明日病院へ行こうとリタイア。


そして、30日、31日と病院通い。
これも幸いインフルエンザではなく、ほっとするも胸のむかつきが止まらず、熱も簡単には下がらない。急遽、年末年始をわが家で過ごす予定の息子夫婦、弟夫婦に断りの電話を入れる。


そして、久方ぶりの静かだが、ちょっと寂しい正月を迎えることとなった。

2014年正月
今年の鏡餅は手造りではありません・・・

元旦、簡単なお節でたった三人のお正月を祝うが、先の二人もまだ体調は十分には戻らず、今度はわたしが胸がむかつき、微熱が出てきて、こりゃ、大変と、元旦は昼過ぎに早々に床に就く始末。


箱根駅伝を毛布にくるまりながら応援したが、例年のように弟や息子とワイワイ言いながらの観戦ではなく、何とも味気ないし、食欲も、呑み気もまったくもようさない。


そして、ようやく、本日になり、体調も回復。家内も娘も平常に戻り、これから久方ぶりの御馳走をいただく。


昨年は旅行にコンサートに、美術展にと、忙しくも充実した日々を過ごしてきたが、最後の最後になって、全員ダウンといった惨状。


好事魔多しとはこのことである。そんな諺(ことわざ)を思い知らされた年末年始であった。


そんなこんな大忙し、気苦労の多い年越しではあったが、2015年が始まった。

今年、わたしも64歳になる。健康に人一倍気をつけて、でも、大好きな寺社巡りは、やはり、続けてゆきたい。


また、一年間、時折の躰のチューニングを怠ること無しにそろりそろりと人生を過ごしてゆこうと思っている。


今年も彦左の正眼をどうかご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。



平成26年12月22日、今年は朔旦冬至というのだそうだ

朔旦冬至(さくたんとうじ)とは陰暦11月1日(朔日)が冬至の日にあたることをいうのだそうだ。

柚子湯
香りがふわっと・・・朔旦冬至の日の柚子湯

冬至の日は、古代、弱まった太陽の力が復活する一年の始まり、つまり元旦を意味していた。

 

一方で、陰暦では、新月が現れる日がその月の最初の日(朔日)とされている。

 

太陽と月がそれぞれ復活する日が重なる時が19年に1回廻って来る。いわば、蘇りの力が倍増する日が19年に一度の朔旦冬至ということになる。

 

それゆえに、古来、宮中では、この朔旦冬至を瑞祥吉日として盛大にお祝いしたのだという。

冬至のカボチャ
甘いカボチャでした

我が家では、そうは言っても、いつも通りの柚子湯と南瓜で蘇りの儀式を慎ましく行いました。



日本書紀をたどり明日香を歩く=1・磐余(いわれ)の池・磐余宮

日本書紀において神武天皇(漢風諡号=しごう)の国風諡号(死後の贈り名)は、“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”という長〜いお名前である。因みに古事記では、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”と“磐余”“伊波礼”となっている。

1・2005年11月 橿原神宮・外拝殿と畝傍山
橿原神宮と畝傍山(神武天皇橿原宮の跡)

漢風諡号は大宝律令(701年制定)に続く養老律令(757年施行)体制の下、養老律令(全三十編)の第二十一編・公式令(くうじきりょう・全89条)・平出(*へいしゅつ)条(の第十二)で、「天皇諡〔てんおうのし〕(=天皇の、生前の行迹を累ねた死後の称号。)」が定められているが、それに基づき天平宝字六〜八(762〜4)年に神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された事が漢風諡号を奉られた初見といわれている。

〔*平出(ひょうしゅつ=平頭抄出)とは文中に貴人の名や称号を記す時に敬意を表わす意味で改行しその名や称号を行頭に書くこと〕


つまり、それ以前に神武天皇といった呼び名(諡号)はなく、和風の“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”なり、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”が、大和王朝の初代天皇に贈られた諡号であったということになる。


古代天皇制において天皇が死去した際、王権は一時的に群臣に委ねられ、新たな天皇が決まるとそこで王権を返上するという形であった。その王位継承の正統性を担保する儀式として諡号贈呈があった。そして、その国風諡号は崩御された天皇の生前の功績評価を群臣が行いその諡号を定め奉ったのだそうだ。


ということで、神武天皇の国風諡号の話に戻るが、そのなかに“磐余(いわれ)”という文字が入っている。王朝の初代の諡号に与えられた“磐余”という文字がその功績、王権の権威を知らしめるためにどのような意味、価値を持っているのだろうか。


日本書紀のなかに、神武天皇が大和侵攻の際にその地の首魁・長髄彦を討伐する前に、配下の兄磯城(えしき)が陣を布いていたのが磐余邑(いわれむら)という地であるとの記述が出て来る。

2・2005年11月 葛城山から大和三山
大和三山 中央・畝傍山の右上の低い山が香久山、その向こう側が磐余の地

その磐余の地は旧名を片居といっていたが、長髄彦軍を征伐し、天皇軍がその地に満ちあふれていた〔満(いは)めり〕ので、名を改めて“磐余(いはれ)”としたとある。


さらに日本書紀の神功皇后3年1月(202年)、誉田別皇子(ほむたわけのみこ=応神天皇)を立てて、皇太子としたので磐余に都をつくり、これを若桜宮と謂うとある。


さらにずっと時代は下り、履中天皇2年10月(401年)に、磐余に磐余稚櫻宮を造営し、さらに11月には磐余池を作るとある。

3・式内稚櫻神社・石柱
式内・稚櫻神社

最近、稚櫻神社(桜井市大字池之内字宮地1000)の西北西200mほどのところ、橿原市との境界あたりに、六世紀後半以前に人工的に造られた堤の遺跡が発掘された。

4・丘の頂上に稚櫻神社・北東から見る
右の小高い丘の頂上に稚櫻神社 北東より見る

現在、磐余という地名は字名(あざな)にも残っておらず、桜井市の南西部にある池之内の稚櫻神社の周囲一帯を磐余の地と呼んだのであろうと推定されている。

5・稚櫻神社・拝殿  6・稚櫻神社本殿
稚櫻神社 左:拝殿            右:本殿

履中天皇の宮に稚櫻とあることと、その名を冠する稚櫻神社は「池之内」にあり、辺り一帯に現在でも「池尻」(橿原市)、「橋本」(桜井市)など池に関する地名が多く残り、所在について諸説はあるものの、先の堤の遺構の発見などともあわせ、この一帯が磐余と呼ばれたことは確からしい。

7・拝殿内と奥に本殿・本殿左が天満神社、右が高麗神社
拝殿内から本殿 本殿左:天満神社 右:高麗神社

稚櫻神社の北北東700mほどにある吉備池廃寺・吉備池の畔には、天武天皇の第三皇子である大津皇子の辞世の句である歌碑、“ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”が建てられている。

0・稚櫻神社由緒書き
稚櫻神社・由緒書き

日本書紀で磐余に営まれた宮は神功皇后の磐余・若桜宮を嚆矢として、履中天皇(在位400−405)が401年10月に磐余稚櫻宮を造営、清寧天皇(在位480−484)が480年1月に磐余・甕栗(みかくり)で即位し、その地に宮を定めている。

8・南東から稚櫻神社を見る
稚櫻神社を南東側から見る

次いで継体天皇(在位507―531)が即位後20年目にして、磐余・玉穂に遷った(526年9月)とある。河内・楠葉宮で即位(507月1月)したのち、山背・筒城(511年5月)、山城国・乙訓(518年3月)と転々とし、大和へ入るのに20年もの歳月を要した理由は誠に興味深いところであるが、その大和の地として磐余を選んだことも、この地が王の地として人民が認識していた、王の居る聖なる地の証なのではなかろうか。

9・この辺りに市磯池(いちしのいけ)があったのかも・・・
稚櫻神社の東側 この辺りに市磯池があったのだろうか

最後に聖徳太子の父、用明天皇(在位586−587)が586年9月に磐余に宮を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と名づけたとある。磐余の池のまさに畔に宮殿を構えているのである。


神武天皇紀に初出の、この“磐余”の土地は、神功皇后の御世を経て401年の履中にはじまり用明天皇の586年まで、時々の抜けはあるにせよ数百年の間、王家の宮殿を擁する聖なる地として特別な崇敬を集めていた場所であったといえる。

10・稚櫻神社の南裾、東から西を見通す
神社の南裾 東側から西を見通す

それから千数百年後の現在、この磐余の地には、小高い丘にぽつんと取り残されたようにして稚櫻神社が鎮座するのみで、周辺は田地と人家が散在する鄙びた何の変哲もない場所となっている。

11・境内階段上から西(磐余の池)方向を見る
稚櫻神社の階段から神社西方向、磐余池の辺りか

哀しいかな、稚櫻神社の丘をめぐる一帯には磐余の池や市磯池の痕跡はもちろんない。往時の栄華を偲ばせる縁(よすが)は微塵もないのである。




STAP細胞はありません!! STAP細胞再現実験取り止め=理研記者会見

19日午前10時半から理化学研究所は検証実験チームの相沢慎一リーダーや、STAP細胞論文の共著者だった丹羽仁史副リーダーらが出席の下、東京都内で記者会見を開き、すべてのSTAP細胞の再現実験を打ち切ると発表した。


4月から始まった丹羽仁史氏の検証チームによる再現実験と7月から始めた小保方晴子研究員本人による再現実験共に、これまでにSTAP細胞の再現ができず、これ以上の検証は無意味との判断から、本日、実験の取り止めを発表した。


ねつ造疑惑が噴出して4月に小保方晴子氏出席のもと記者会見が開催されたが、その席上、同氏は「これまで200回作製に成功した」、「作製には独特のレシピーがある、コツがある」、「名前は言えないが、第三者がSTAP細胞の作製に成功している」と強弁し、STAP細胞は存在するという点では徹底抗戦の構えであった。


その後、小保方氏のネーチャー論文作成の指導に当たった笹井芳樹CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長が自殺するなど、学問の世界の話とは思えぬスキャンダラスな展開を見せてきた。


その本人による11月末とする再現実験の期限に到達、それを受けての本日の記者会見である。小保方研究員は体調不良のため同記者会見には欠席であった。


この再現実験取り止めにより今年1月からの一連のSTAP細胞騒動は一応の決着を見せたことになるが、何とも後味の悪い事件?であった。


そのひとつが小保方氏の言動から一度たりとも科学者としての精神、スピリッツを感じることができなかったことである。演繹、帰納であれ、客観的な現象からある結論を導くことは科学に限らず、ひとつの説を他人や社会に納得させるには必須の手続き、約束事である。


然るに、そうした思索回路を同氏の言動からまったく認めることが出来なかったことは、本当に残念である。


さらに、理研自体の組織としての問題である。問題と言う点ではこちらの方が重大であるし、ここに至ってもその疑念はひとつとして晴れてはいない。


すなわち、これほどやっても再現できなかったSTAP細胞を存在するとして作成された論文がなぜ、日本を代表する研究機関である理研で承認され、しかも世界的な学術雑誌であるネイチャーに掲載されたのか、ここに至った経緯、意思決定システムなどの説明がなんら成されていないことは、今後の日本の研究開発、科学の発展にとってもっとも大切な事柄であり、その点については文科省をはじめメディア、学会などでさらなる解析が必要とされる。




今こそ憲法を論ずる時、思考停止に陥る“九条教”からの解脱を

今回の選挙結果を受けた感想を、JT生命誌研究館館長の中村桂子氏があるNPO法人の会報のコラムで、


「投票率が史上最低という形で終ったのは気になります。ここでしか意志を伝えることはできないのに。」

「その結果、安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」


と書いておられた。


前段の、戦後最低の投票率となった点はおっしゃる通りであるが、引っかかるのは後段の部分である。


中村桂子氏といえば生命科学分野で専門的業績は言うに及ばないが、難解な生命科学の世界を世の中にわかりやすく紹介、啓蒙された功績でも評価されている人物である。


そうしたいわゆる知識人と呼称される人たちは、どうしてこうも現行憲法について語る時に一瞬にして思考停止の状態になってしまうのか、不思議でしようがない。


日本の言論界(そんなインテリジェンスな世界がこの国にあったとしたら)やメディア、そして知識人と総称される中村先生のような聡明な方々が何故にこうも憲法改正を頭から否定し、改正は悪だと与件として語るのか。


わたしにはそこがいつも分らず、理解に苦しむところである。


特に、他の様々な分野のお話において非常に見識の高さを示される人物が、こと9条問題や憲法改正問題について話される時に、決まってその脳軟化症といおうか脳硬化症という方が適切だと思われる病状に陥るのか。


中村先生ももちろん色んなことは分ったうえで、小さなコラムにちょっと書かれた感想であるから、いちいち目くじら立てて云うんじゃないとお叱りを受けるのは覚悟の上で、少々、やはり申し上げるべきと思い、愚考するところを述べることとする。


今後、2017年の参議院議員選挙において議席の2/3以上を確保し、衆参両院で与党がその条件を満たすことになったとしても、中村先生がおっしゃるような「安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」になるわけではない。


国会は憲法改正案を国民に対し発議することができることになるだけで、その後の国民投票において国民の過半数の賛成を得て初めて憲法改正は成る。


憲法第96条は、現在、その発議に必要な2/3を1/2に改正したいという自民党内の動きで注目を浴びたが、この条項自体は日本国憲法のなかで第9章“改正”とわざわざ章立てがなされて規定されているものである。


次にその第9章を記載するが、第9章は第96条の1条(二項)のみで成り立っており、第2章の“戦争の放棄”が第9条の1条(二項)のみで成り立っていることと同じ扱いであるともいえる。


第九十六条

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」


申すまでもないことだが、憲法改正の是非は主権者たる国民(2007年5月成立の「憲法改正手続法(国民投票法)」で18歳以上の日本国民)が判断するのである。


飽くまでも主権者たる国民が最終的に裁可するのであって、少なくとも、「安倍さんが思うままに」などはできないことは確かなことである。


もし、「思うままに」とおっしゃることが本音であるとしたら、それは国民主権というそもそも憲法の前文ならびに第一条で規定されている文言を信用されておらぬということになるし、また、国会で決められたことを国民は鵜呑みで賛成する、日本国民は愚かにも自己判断能力を持たぬということを言っておられることとなる。


もちろんそんなことを聡明な中村先生が考えておられるわけではないし、おっしゃるわけはない。


だから、憲法問題については丁寧な議論、言い回しが必要となるのではないかと愚考するのである。


1946年11月3日に公布された日本国憲法は、その後68年間にわたり改正は行われていない。


戦後70年目となる来年、その間に国際社会の構造やわが国を巡る周辺環境は大きく変化した。さらに民主主義に対する国民の理解も深まり、最近では税金の使い道といった視点でも、国民主権という考え方は、われわれ国民の血肉となってきたとも感じられる。


そうした歴史認識、現状認識に立ったところで、現行憲法を素直に読むと、この憲法が作られた70年前とは大きく国際情勢、国内情勢、そしてわが国国民の民度が変わって来ている。色々と現実にそぐわぬ、これは国の存亡にかかわるという点が多々、出てきているなというふうに正直に思うのである。


ひとつ、例えば憲法前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と赤字の部分など、現下の竹島情勢、尖閣諸島情勢、小笠原諸島での珊瑚乱獲に見る領海侵犯の問題、北朝鮮の核ミサイル開発問題等を列挙するまでもなく、“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して”、国民の生命と財産を守ることなど危なくてしようがないと考えるがどうであろうか。


第2章第9条の「戦争の放棄」も、もちろん第二次世界大戦を惹起した枢軸国の一員として大きな反省に立ってのものであることは否定しないが、前文の赤字部分の理想的な国際情勢認識といおうか願望を前提にしたものであることも否めぬのである。


現実にこの国は激変を重ねる国際情勢のなかで日米安保条約という軍事同盟を背景に戦後の経済発展を享受し、経済大国としての地位を確立してきた。


しかし、それは米国の核の傘があっての、日米地位協定という不平等で屈辱的な条件下での、平和の享受、経済繁栄の享受であったということも冷厳なる事実である。


真の独立国家とは何か。


この一点で戦後70年となる2015年、その目指すべき国家像を議論し、若者たちが誇りをもって生きていける国造りをなすために議論を尽くし、深めてゆくべき時機(とき)が来たと考える。


その詰まるところが憲法議論である。現行憲法を所与のものとする思考回路はもう棄てなければならぬ。硬直的な思索、いや、宗教ともいってよい“九条教”をまずは脇に置いて、誇りある真に自立した独立国家たるにはどういった課題を解決しなければならぬのか、核や国防軍など安全保障の問題を含めどういった国家としての構えが必要なのかを、真摯にかつ冷静に議論を進めてゆくべきである。


そう考えた時に、その“とば口”で、憲法改正は悪である、戦争国家への道だと決めつけて、憲法議論を脳内で封殺することだけは勘弁してほしいと思うのである。


安倍晋三が右寄りで怖いと考えるのはもちろん自由である。しかし、二一世紀の“複雑怪奇なる国際情勢”のなかで真の独立国家として生きてゆく道筋は何か、これからの誇りある日本人、若者たちのためにも、憲法議論に真正面から取り組んでいく覚悟が必要であり、その義務、責任がわれわれ大人にはあるのだと考える。


 


 



第47回総選挙・自公大勝の先に見たい景色

2014年11月21日の奇襲的な衆議院解散。12月2日に公示を受け、12月14日に施行された第47回総選挙は、自公の政権与党が全議席(475議席)の2/3(317議席)を上回る326議席を獲得する大勝利で終わった。

議事堂

大義なき解散とか税金の無駄遣いといった悲鳴のような声が野党側から挙がった今回の解散総選挙。


衆議院の2/3超という圧倒的議席数を誇っていた自公連立内閣が小渕経産大臣と松島法相のダブル辞任というスキャンダルにまみれ坂道を転がり落ちてゆく危機に直面、そのなかで勝負に出た解散・総選挙。


今回、解散を決断した時は、「自民は過半数確保、公明は現状維持、民主は伸び悩み」という情勢判断であったという。


自民党総裁室
自民党総裁室

内閣支持率をジリ貧に降下させてゆき、結果として政権交代という麻生内閣の悪夢を再来してはならぬというトラウマも今回の不意打ち解散の大きな要因であったと考える。


さらに、解散直前のサンプル調査では「自民は多くて30議席減、民主が85〜95議席で三桁に届かず」という数字。


そして、いよいよ14日の開票結果である。投票率は戦後これまでの最低であった2012年の前回衆院選を6・66%下回る52・66%(小選挙区)という低水準となった。


その投票結果を下の通りである。


         *( )内数字は(公示前議席比増減・前回選挙時獲得議席比増減)

自民党 291 (−2・−3)

公明党  35 (+4・+4)

民主党  73 (+11・+16)

維新会  41 (−1・−13)

共産党  21 (+13・+13)

次世代   2 (−17・+2)

みんな   0 (0・−18)

その他  12 (−12・−6)

合計数 475 (−4・−5)


総議席数 475 与党 326 野党 149  与党比率 68・6%

公示前時 479 与党 324 野党 155  与党比率 67・6%

前回選挙 480 与党 325 野党 155  与党比率 67・7%


上表の数字からその選挙結果が語るところをまとめてみた。


まず結論であるが、自公両党の獲得議席数は解散時比+2、前回選挙獲得議席数比+1と総議席が0増5減するなか絶対数を微増ながら増やし、与党比率という点でいえば公示前より1%アップの68・6%を占めるに至った。


逆に野党は解散時比、前回選挙獲得議席数比ともに−6議席と議員定数の削減の影響以上に議席数を減らした形となっている。


野党共闘という掛け声のもと小選挙区での野党一本化という画策もあったものの、結果を見る限り、その効果は限定的で、逆に野党同士のつぶし合い、足の引っ張り合いであったというのが今回の選挙結果の数字に表れているといえる。


すなわち、日本維新の会から分派した次世代の党がどう転んだか。

さらに、結の党への分派(衆院9)と最終的に解党に追い込まれたみんなの党(衆院9)の票がどこへ行ったか。


その議席合計37議席をどう野党で取り込めたかということであろう。


みんなの党からは維新と結いの党との合流で、9名が移動。


さらにみんなの党からは選挙前の駆け込み寺として民主へ3名。残りは無所属などでの選挙対応。


民主は他にも生活の党から2、新党大地から1、無所属から1の転籍があり、不意打ち解散の焼け太りで、みんなの党の3名を含め7名の議席増となっていた。


そうした野党の選挙前のドタバタを経て、臨んだ選挙。


結局、政策の摺り合わせなどを無視しての離合集散を重ねた野党陣営で、自民批判票の受け皿として国民の負託を受け得る党は出現しなかった。


そこで政権党になりうる政党としては認識されておらぬ日本共産党が、消極的な自民批判票の受け皿となった結果、13議席増と単独で議案提出が可能となる20議席を一議席超える21議席を獲得するという、いわば小さな漁夫の利を得た形となった。


こうして安倍総理も想定外の大勝利を得た国会であるが、今回の選挙でひとつ国民にとってひと筋ではあるが、今後の政治をわかり易くする道筋がほのかに見えてきたようにも思える。


左翼陣営から見てゆくと、社民・共産につづいて大きく左から右翼も包含する民主の右に、公明、維新、そして自民が並んだポリティカル・マップが見えてきた。


欲を言えば、自民の右に次世代のような自主憲法を掲げる20名程度の議員を抱える政党が必要であるが、この時点で多くを望むまい。


こうしたマップにおいて、今後、どうしても政党内外で整理してもらいたいのが、明確な政党綱領の改定、提示である。


民主党で言えば、たとえば集団的自衛権についての政党としての意見集約である。国の安全保障、現行憲法の扱いにおいて根幹となる国家観が決定的に異なる議員集団がひとつの政党の旗の下にいることが、この党の言うことが国民に信頼されない最大、致命的な欠陥である。


野党第一党がこういう一貫性を欠く主義主張のその場凌ぎの態度をとり続ける限り、せっかくのバブル政党の整理が進むなかで、自民党の対立軸の受け皿たる政党は出現しないというしかない。


是非、再来年の参議院選挙へ向けて真摯な政策協議を成し、明快な政党綱領を作り上げる作業に着手して欲しい。


対立軸はやはり護憲、改憲、自主憲法という国家観の相違点に着眼したものが国民にとってはわかり易い。


昨今、日々、周辺情勢が緊張度を増している国際情勢の真っただ中において、そうした視点、問題意識での政権選択を国民に可能とさせることが、いま、日本の政治家、政党に強く求められることである。


今回の選挙結果を糧に、そうしたクリアーな景色を見せて欲しいと切に願うところである。


 


 



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