彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!

京都そば茶寮「澤正」の創作そば会席を試した

京都市東山区今熊野剣宮町33-22

電話:075-561-4786

澤正暖簾
澤正玄関の紫暖簾

 

  山科方面の勧修寺(かじゅうじ)や随心院を訪ねるに際し、お昼を「澤正」でいただいた。「澤正」は明治42年創業のそば菓子処で「そばぼうろ」は当店の商標登録だそうだ。今回、訪れたそば茶寮は数年前に菓子処から5、6分のところに昭和初期に建てられた和風家屋を舞台装置として始めたという。

 

 店の前まで車で乗り付けることはできない。足元が少々不如意のわたしにはアクセスにやや難があったことと、その後、入店した建物の造りと車から店までのアプローチの無粋さに正直、落差を禁じ得なかった。

 

しかし、店の前に立つと鮮やかな紫色の暖簾が美しい。暖簾をくぐり屋内へ一歩、足を踏み入れれば、昭和初期のハイカラとはまさにこうした造りとインテリアだったのだろうと思わせる演出であり、これはこれでよいのだと思った。


窓際の席でした
窓際の席で景色も楽しめました

澤正ご用達の陶芸の皿はいかが
澤正用達の陶芸皿も売っています

作務衣姿で料理の説明
作務衣姿で料理の説明をしてくれます

 

 

 今回は家内とわたしの二人旅であったので、事前に3800円の創作そば会席を予約していた(そば会席は二人から。前日までの予約が必要)。われわれの席は窓際の縁側風のところにあり、外の竹藪が見えてなかなかの風情であった。また、懐かしい硝子戸でクルクル回す折れ曲がる真鍮製の鍵に気づいた時には、料理への期待よりもこの硝子戸に強烈な郷愁を感じたものである。

窓から竹藪の風情
硝子戸越しに竹藪を見る

豊穣月のお献立
テーブルには豊穣月のお献立が

 

 
 さて、そば会席はその名の通り、「創作」尽くしの目新しいものであった。蕎麦を素材にしたにも関わらず、和風ではなく、この館がかつて迎賓館として使用されたことを想起させるような、洋風会席を創り上げた料理人に敬意を表したい。
とくに、八寸に代表される一品ごとの色づかいと、細かい手作業、蕎麦という素材を存分に駆使した料理には、本当に頭が下がった。蕎麦の出来は腰もしっかりとし、わたしの好みに入るものであった。


八寸の図
八寸の図が美しい

八寸人参の和スープ
八寸:人参の和スープ

林檎と鳴門金時の甘酢漬・カナッペ・春巻き
蕎麦パンのカナッペ・野菜の春巻き・林檎と鳴門金時の甘酢漬

銀杏と松の実と葡萄の白和え
銀杏と松の実と葡萄の白和え

茸と山東白菜菜のお浸し
木の子と山東白菜菜のお浸し

匠の技
南瓜のニョッキ:柿のヘタや紅葉もそば粉で作る匠の技

温鉢
温鉢:小芋と紫ずきんの揚げ饅頭(そば餡仕立て)

小鉢・更級変わりそば
小鉢:更級変わりそば(そばの実の芯の白い部分)・白葱のマリネ

揚物
揚げ物:椎茸のクリームコロッケ

手打二八そば
手打ち二八そば

腰がしっかり、喉越しがよい
腰があっておいしい

温かいそば(選択可)
温かい汁そばもあります(選択可)

蕎麦ごはん
ちょっと重い蕎麦ごはん

そばの栗餅
そばの栗餅:おいしかった!!

 

 

 まぁ、若い人であればお昼でもこれぐらいの量は何ともないのだろうが、そば会席というには、やはり少々、胃に重すぎる献立であった。また、わたしには揚げ物の椎茸のクリームコロッケは不要であった。いつも思うことだが、天麩羅とは異なりこの手の洋風油ものはどうも、蕎麦料理にしっくりこない気がするのである。

 
 さらに、あえて難を申せば、お昼のメニューとしては3800円のコースでも量が多過ぎて(他に5700円のコースがあった。夜は5500円と7600円の2コース)、かなり後半は半分くらいしか口に入らず、また蕎麦の後の御飯は余計である。それと、旅行客には二時間という昼食の時間は、少々、長すぎたというのが正直なところである。逆にそのことは、それくらいゆっくりと時間をかけて堪能すべき料理であったということである。

 お昼は、単品物が注文できるというので、今度は純粋に蕎麦を楽しみに行ってみるのもよいと思った。


 何はともあれ、前日の夜を軽めにするなり、朝食を超軽めにするといった工夫が必要であったと、このたびは反省したところである。

 


またのお越しを!
また、お越しやす!!(表札:澤田正三氏) 

 
 でも、昭和レトロの空間で作務衣の従業員に料理の内容の説明を受けながら、木枠の硝子戸越しに竹藪を眺めての昼食は、それなりに京都の風情が楽しめて良ろしおしたえ!!最寄りのお寺の泉涌寺や東福寺へ参拝する際、時間に余裕のある方は、ぜひ、一度、お試しになってはいかがでしょうか。

 

小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 弐

小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 壱

随心院・小町和歌石碑

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

さて、いよいよ随心院所縁の小野小町の話題に入ることにする。

 

小野小町は、言わずと知れた六歌仙や三十六歌仙に名を連ねる才色兼備の天才歌人である。また、古今集仮名序において「(小町は)いにしへの衣通姫(そとおりのいらつめ)の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と、美女を輩出する家系の末裔といった紹介がなされている。【衣通姫:日本書紀に「(応神天皇の孫にあたり)容姿絶妙で、その美しさは衣を透して輝いた」とある美女】

 

だが、それほどの人物でありながら、生没年や素性において確かな記録が残っておらず、その一生は謎に包まれている。逆にその薄絹に覆われたような小町の一生だからこそ、深草少将(四位少将)の「百夜通(ももよがよい)」や「髑髏小町」など諸々の伝説を生み、古来、浪漫の心を掻き立て、魅惑的な女性、人の世のはかなさを具現する人間として日本人の心のなかに生き続けているとも言える。


 この随心院には小町縁の化粧井戸や文塚などがあり、物語性豊かな山科の小野の郷を堪能できる。邸内を出て、外塀をぐるりと一周することになるが、小町の謎めいた一生に少しでも触れられたような気になるので、ぜひ、時間に余裕をもって廻ってみられることをお勧めする。

化粧の井戸案内板
小町の化粧井戸への案内板(この辺りが小町の屋敷跡と伝わる)

化粧井戸石柱
化粧井戸の石碑

小野小町化粧井戸
思ったより大きく深い井戸でした。ここの水が小町の美貌を作った

随心院外周・先に小町文塚
随心院の南外塀の小道(この先、左に曲がると文塚)

随心院外壁・斜め前に文塚
外塀を東に廻り込むと、趣のある土壁となる。斜め対面に文塚

正面に文塚
正面に文塚がある

文塚説明書き
文塚の説明書き

文塚
文塚:この下に千束の恋文が埋められ、供養されているという

金堂跡地宝搭
文塚手前にある、かつての金堂跡に建つ宝筺印塔(ほうきょういんとう)

 

 そして、こうした小野小町を身近に感じたのち、「能」の世界に目を向けて見ると、物語では華麗な前半生と対極にある老残の小町が描かれているのみである。「卒都婆小町」、「通小町」、「関寺小町」など老婆となった小町が題材としてなっている。絶世の美女の時代を中心に扱ってはいないのである。 

 それは、そうした小町を描くことで「明」から「幽」へ、「幽」から「明」へとその「裁面」・「境」はないのだということを、愚かなるわたしに教えてくれるようである。また小町という絶世の美女の老残と落魄を舞台で見せることで、形あるものは必ず「無」となることを、目で実感させてくれるとも言える。

 

 こう理詰めで考えて見れば、「能」の世界に生きる小野小町とは、「幽明」両界は薄絹一枚ほどの堺もないのだということを伝えるのに最適な人物の一人なのであろう。

 

しかし、凡夫のわたしは随心院を紹介するにあたって、あえて冒頭で、次の歌を紹介した。

 

あかつきの 榻(しじ)の端書き 百夜書き 

君の来ぬ夜は われぞ数書く

 

この歌は上の句を深草少将が、下の句を小町が詠んだという伝承が残るものである。深草の少将が誰かもハッキリしていないのに、こんな歌があるものかと頭では分かるのだが、やはり心ではこんなことがあってもいいんじゃないのかと、思ってみたくなるのである。


百夜通の榧の実
院内に飾られる99個の榧の実(数を数えるため数珠にした穴があいている)

小町榧(かや・古木)切株
小町榧の古木の切り株


 

何とも、ロマンに満ちた心の通った言い伝えではないか。

 

ちなみに、この歌の本歌というより、元歌は古今集の巻15に収録されている。詠み人知らずで、「暁の鴫(しぎ)の羽がき百羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく」という歌である。冒頭の和歌は、その異伝であり、「奥義抄」「袖中抄」などに引用されているという。

 

 また、この歌を信じてみたい方は、深草の少将の住まいだったと伝わる墨染欣浄寺(ごんじょうじ)(京都市伏見区西桝屋町1038)から随心院までは距離にして5、6キロ、徒歩で1時間半ほど。ぜひ、一度は「少将の通い路」を歩いて、「百夜通」の恋の路をお試しになってはいかがであろうか。

 

小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 壱


小野小町ゆかりの随心院門跡を歩く 弐

随心院・小町和歌石碑

随心院庫裡前の小町歌碑

薬医門
随心院門跡薬医門・築地塀の五本の定規筋が美しい

京都市山科区小野御霊町
35

 

あかつきの 榻の端書き 百夜書き 君の来ぬ夜は われぞ数書く

 

 

 随心院は、そもそも平安時代正暦二年(991年)、弘法大師第八代の法孫である仁海僧正が一条天皇からこの小野の郷に寺地を下賜され、建立した牛皮山曼荼羅寺をその前身とする。

 

 その牛皮山曼荼羅という古名は、仁海僧正が亡き母が牛に生まれ変わったことを夢見し、鳥羽の辺りに牛を探し求め、孝行を尽くした。その牛が亡くなり、供養として牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描き、本尊として祀ったことに由来する。

 

その後、当山第五世の増俊阿闍梨が塔頭として随心院を建立した。さらに第七世親厳大僧正が後堀河天皇より門跡の宣旨を賜り(1229年)、爾来、随心院門跡と称されることとなった。最盛期には七堂伽藍を擁するほど隆盛を誇ったが、承久應仁の兵乱(14671477年)の最中にそのすべてを灰燼に帰した。その後、百二十年程の歳月を経て、慶長四年(1599年)に本堂が再建され、以後、九条、二条の両宮家より門跡が入山することとなり、その支援の下、再興のみを歩み現在に至る。


庫裡入口
唐風庇の庫裡玄関

庫裡内
庫裡の太い柱と素朴な梁

 

 当院の拝観者は庫裡より入るが、この建物は1753年に二条家より、その政所が寄進、移築されたもので、切り妻の大屋根と唐風造りの庇が特徴的で面白い。また中へ入ると重厚な柱や素朴で太い梁にまず目を奪われる。そこに随心院やそこに帰依する宮家の、ながくて浮沈の多い歴史の重みを感じずにはいられない。


大玄関から薬医門を


 

本堂へ向かう途中、薄暗い大玄関式台から秋の陽射の注ぐ薬医門が真直線に見えるが、その穏やかな様子が心地よい。そして表書院の廊下へ出ると、ふくよかな緑色の大杉苔を一面にまとう庭園が目の前に広がる。その視線の先、長い廊下を直角に右へ曲がった処に本堂が見える。

書院四季花鳥図
能の間「四季花鳥図」(随心院HPより)

 襖絵に四季花鳥図を描く表書院を覗き、次の間となる「能の間」で腰を下ろす。緋毛氈の敷かれた廻廊越しに観る庭は、漆喰壁の白を背景とした霧島ツツジやモミジの緑、塀瓦の鼠色の先に広がる真っ青な秋空・・・、その色彩のコントラストにおいてわたしが好む景観のひとつである。



表書院より本堂を望む
表書院廊下より本堂を望む

洛巽の苔寺と呼ばれる大杉苔
洛巽の苔寺と称される見事な大杉苔

能の間より庭園を観る
能の間から庭園を眺める

 

 本堂には護摩壇正面に本尊の如意輪観世音菩薩坐像(鎌倉時代の作)が鎮座する。その両脇に重要文化財に指定される阿弥陀如来坐像(定朝作)、金剛薩捶坐像(快慶作)らが並び、真言密教の世界が堂内の空間に密やかに存在する。折しもその日のお勤めが始まろうとしていた。われわれは堂内から三段に分かれる前廊へ出て、突き当たりから池泉を眺めた。池には鯉がなぜか一直線に粛々と泳いでいたのが印象的である。山科の静かなお寺には心鎮まる時の流れがふさわしいとつくづくと感じた光景であった。


本堂より能の間・書院を
本堂前廊から表書院、能の間を見る

本堂廊下より池を望む
一列に泳ぐ鯉、一途な深草少将の恋の想いか・・・

民主党政権が政権交代でやるべきことは何であったか?

八ッ場(やんば)ダム建設中止の大きな意義(2009.9.24)
  
民主党、政権交代=静かなる革命は成就するか?(2009.9.5)

政権交代! Yes or No?(2009.8.14)
  
  民主党への期待が心の中で急速にしぼみ始めている。政権交代でわたしが望んだのは、長年の自民党政治、官僚支配政治による利権構造の洗い出しとその解体にあり、無駄遣いをなくし、国民の幸せの向上のため効率的に税金を使う政治を行うことである。

 

 然るに最近の民主党政府の発言を見ると、どうもその根本のところが違ってきているように見える。もう一度、政権交代を求めた国民の真意を再確認して欲しいのである。

 

 最近の報道各社の世論調査では、マニフェスト実現よりも赤字国債増発を慎重にすべきだとの回答が多数を占めている。マニフェストに書いてあるからと言って、直ぐにすべてを行なわねばならぬ訳ではなく、また、すべての政策を国民が容認したわけでもないことを、民主党は理解すべきである。

 

 それは民主党がこれだけの大勝をしたのは、加藤紘一自民党元幹事長がいみじくも予算委員会で語ったように「民主党が総選挙で勝ったのはマニフェストのためではなく、自民党のオウンゴールだった」のだから。

 

 そしてマニフェストは、高速道路の原則無料化(1.3兆円)や子ども手当ての創設(5.3兆円)、農家等の戸別所得補償制度の導入(1.4兆円)、公立高校の実質無償化と私立高校生の学費支援(0.9兆円)など、さまざまな分野での無料化や手当の支給を謳っていた。

 

ただ総選挙前から自民党や国民もその財源についてはどうするのか、現実的なものを示せと問い質してきた。それに対し「埋蔵金や行政の無駄遣いを洗い出すことで可能だ」と、民主党は反駁してきた。

 

実際にマニフェストでは、子ども手当、公立高校の無償化など民主党の新政策実行に、平成25年度までに16.8兆円の所要財源に対し、「国の総予算207兆円を徹底的に効率化。ムダ遣い、不要不急な事業の根絶」で9.1兆円(以下、平成25年度までに目標値実現)、「埋蔵金の活用や政府資産の売却」で5.0兆円(同)、「すべての租税特別措置法の見直しと配偶者控除・扶養控除の廃止による公平で透明な税制を創る」で2.7兆円の合計16.8兆円を充当できるとした。

平成25年度までで新政策の実施による支出増は、赤字国債なしで行財政の見直しにより帳尻が合う形となっているのである。

 

これからの4年間で政策を実施するのに際し、財源の大宗(84%)は徹底的な行財政改革によって捻出する形となっていた。税制改正による財源捻出は、租税特別措置の見直しや配偶者控除による16%であったのである。消費税はあらたな年金制度の設計議論のなかで行われるというのが、わたしの理解であった。

 

自民党政治の利権構造の下で行われていた税金の不公平な使用を抜本的に見直し、税金の無駄遣いをやめさせるのでどうか政権を取らせてくれ、民主党はそう主張していたのである。だから、国民も、「そうだな、自民党では難しかろう」と、政権交代を認めたのだ。

 

 しかし、来年度予算の95兆円にものぼる概算要求といった政権運営を見ていると、マニフェストの諸策を盛り込む予算作成を急ぐあまり、そもそもの国民との約束がなおざりにされ始めていることに危惧を表明せざるを得ないのである。

 

わたしは膨大な財政赤字をなくしてゆくのに奇策はないと考える。経済の早急な回復と、民主党の言うようにまずは税金の無駄遣いの徹底的な排除を行うべきである。最初に手をつけるべきは、行政の無駄遣いに大ナタを振るい、乾いた雑巾を絞り込むようにそれをトコトンまでやるのが、民主党政権に期待された責務であったはずである。

 

その無駄遣い排除の進捗を見ながら、政策ごとに優先順位をつけ、逐次、マニフェストに謳った諸施策を、再度、国会で本当に必要かどうかを議論しながら実施してゆくのが、筋と言うものではなかろうか。

 

そして、本当に必要な政策を遂行するに際し、最後に財源が足りないとなって初めて「公平で透明な税制を創る」の2.7兆円の財源手当ての議論になるのではないのか。わたしは財源捻出の手順もそのように理解していた。

 

そう思っていたところが、現在の予算議論は、消費税はさすがに俎上に上らぬが、税の見直し議論の方が次から次へと湧き上がり、活発化しており、正直、戸惑いが隠せないでいる。いまの時期は、まさに民主党あげて自民党政治の無駄を次から次に暴いていっている最中ではなかったのか。

 

まだ政権発足というより政権交代後、わずかに50日弱である。何も政権公約を急ぐ必要はない。「民主党政権が政権交代でやるべきことは何か」を、再度、足元を見つめ直して欲しいのである。国民がまず求めたことは何かを。

 

それを真摯に、誠実に、愚直にやってゆけば支持率は後から必ずついてゆくのである。

 

173回臨時国会がいよいよ1026日に召集され、112日から衆議院予算委員会が始まった。その討論のなかでもよい、民主党には、もう一度、政権交代の本来の意味を問い直して欲しいと切に願うのである。

 

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参

次に、六条河原院の実際にあった場所の一画であるとされるのが、地名に塩竈の名を残す一帯である。そこに本覚寺(下京区富小路通五条下る本塩竈町558)があるが、六条河原院の「塩竈の第(だい=邸宅)」があったところだと云われている。所縁の塩竈は宮城県の方に移されたのではとお寺さんは説明されていた。

 

本覚寺石碑
本覚寺石碑

本覚寺立て札
本覚寺立札

本覚寺
本覚寺(もう閉っていました)

そしてその対面に上徳寺(
下京区富小路通五条下ル本塩竈町556)が建つが、現在では境内の世継地蔵の方が有名であるという。


上徳寺立て札
上徳寺立札

上徳寺本殿
上徳寺本殿

2009_10160910月14日厳島・京都0980
上徳寺境内
 

 

両寺とも拝観時間を過ぎてしまい、内部を見せていただけなかったのが残念であるが、門前の立札に由緒書きがあったが、「通り」の景色に融の霊を感じる風情は一片もなかった。兎にも角にも、本塩竈(もとしおがま)という地名と上徳寺の山号「塩竈山(えんそうざん)」にわずかにその縁(よすが)が偲ばれるのみである。

 

 最後に訪ねたのが、能「融」のなかで「あれこそ籬ヶ島(まがきがしま)候よ、融の大臣(おとど)常は御舟(みふね)を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし」、「籬ヶ島の森の梢」と謡われた籬ヶ島である。

 

もちろん、現在、京都市内にそんな島など存在しない(実際の籬島は、現在は塩竃湾の埋め立ての影響で陸地から20mほどの至近の距離に浮かび、往時の絶景の名残はない)。

 

源融の死後、院は放置され、荒れ果てた。そして、鴨川の氾濫の際に籬ヶ島が水没し、三千本植わっていたと伝わる榎が森として残り、その後も明治時代初期あたりまで「籬の森」と呼ばれていたという(「昭和京都名所圖會」竹村俊則著)。そして、今にただ一本残っているのが、高瀬川沿い、五条小橋の袂に立つ榎の大樹である(下京区木屋町通五条下ル)。何の変哲もないというより、路傍にその榎は忘れ去られたように立っていた。その大きな枝ぶりを見上げれば、歴史を感じさせてまことに豪壮、見事であるが、そこだけが周囲の景色から浮き上がっているようでおさまりが悪く見え、「雅び」という歴史の退化を感じずにはいられなかった。


跡地の縁を探すのが難しい
「籬の森」で一本残ったといわれる榎の根元に立札と石碑が

河原院跡の榎の立て札
六条河原院跡を示す立札

院跡地石碑
わびしさの募る石碑

周囲に迫る建物
近隣の景色から浮き上がる榎

マガキの森の榎の大樹
頭上の枝ぶりに往時の鬱蒼とした「籬の森」を偲ぶ

 

 
豪気で野心的な融の栄華の時代とその後の世を厭うた寂寥の時代が、その見事な枝ぶりの榎の大樹と路傍に六条河原院の由緒を記す小さな石碑を残すだけというアンマッチな情景に、その対比が象徴されているようで、悠久の時間の流れのなかで、人間の小ささや人の一生の栄枯盛衰をことさらに感じさせられた一日であった。(了)

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐


能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐

枳殻邸の池
   枳殻邸印月池より右に南大島と大樟、左に北大島と縮遠亭を見る


 鴨川から水を引き、陸奥塩竃の風景をそっくり模した広壮な六条河原院には、在原業平をはじめとした平安の文人、雅人たちが多く訪れ、邸内の塩竈で藻塩を焼く際に立ち昇る紫色の煙に雅びを感じ、ともに心を和ませたのであろうか。

 

 しかし、冒頭の融の政界での動きをみると、藤原基経との政争に敗れたのち、それを眺める日々、融の心情が到底、穏やかであったと考えることはできない。湾内で藻塩を焼く大自然の景色をそっくり自分の邸宅の庭に再現させるとは、財力だけでなく、胆力も必要とする。ただ、おだやかな心情でその風雅を愛でていたとはとても思えないのである。

 

難波津、敷津、高津の三つの浦から一日三千人の人足を使い、海水を運ばせ、六条河原院ではまた三千人の人に塩を焼かせ、汐屋から立ち昇る紫煙を愉しんだという。その様は目に浮かべるだけで豪気といえば豪気だが、見方によればその行状は世を恨む狂気と紙一重の所作と言えなくもない。容姿端麗で才能に満ちた男が最高権力者の座を争い、その栄光の座が永遠に遠のいたのち、そのエネルギーを持て余し、世の中を怨み、さらに馬鹿げた世界を演出したのではないのか。

 

そう考えてみると、世阿弥が能の傑作といわれる「融」を物したのも、現世の栄華を最後まで忘れることのできなかった源融の霊が、世阿弥という希代の天才に筆をとらせ、命の限り、その現世への迸る想いを書かせたのかも知れないと想像してみたもするのである。


 

君まさで煙たえにし塩竈のうらさびしくも見え渡るかな
(紀貫之:古今和歌集巻16)


 

 

 そうしたことを脳裡に思い浮かべては打ち消したりしながら、六条河原院に縁の場所を訪ねてみた。

 

 まず、東本願寺の飛び地にある渉成園(しょうせいえん)、通称「枳殻邸(きこく)」(下京区烏丸通七条上る)を訪ねた。枳殻邸は1641(寛永18)年、徳川家光によって現在の地が寄進され、1653年に石川丈山によって作庭されたと言われている。


枳殻邸の入り口
渉成園入口脇の尾花

紅葉の映る池
丹楓渓から印月池を

回棹廊と縮遠亭を望む
回棹廊と右上に縮遠亭を望む

回棹廊
回棹廊

北大島と縮遠亭
北大島に建つ縮遠亭

侵雪橋から遠くに漱枕居を望む
侵雪橋から遠くに漱枕居(茶室)を望む

侵雪橋
北大島に渡る侵雪橋

傍花閣
石川丈山が天体観測をしたと伝わる二層の傍花閣(ぼうかかく)

印月池からロウ風亭を望む
印月池からロウ風亭を望む

漱枕居
茶室の漱枕居(そうちんきょ)

キンモクセイ
園内のキンモクセイ 

 この地は、六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)の遺蹟と伝えられていたが、その後の調査(1994年京都市埋蔵文化財研究所)で庭園の池の跡とされる一部が
左京六条四坊十一町(現在の五条通富小路の北側)で発掘されている。そのため、枳殻邸よりわずか北方に位置する上徳寺・本覚寺の辺りが宏大な院の跡地であろうとされている。


しかし、洛中のど真ん中にこんな閑静な庭園があることに驚くとともに、印月池に浮かぶ南大島が六条河原院にあったというマガキガ島を想起させて、しばし、時間の流れが止まったように感じた。そして静謐の時空がわたしを包み、能の「融」の幽玄の世界の息遣いを耳元に感じた。

そして、枳殻邸を後にしようとしたとき、わたしを足止めするかのようにキンモクセイの香りがほのかに匂って来た。


能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱


友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

能・発祥の地、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を訪ねた

国宝の北能舞台(西本願寺)を拝観しました!

中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩



陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

(河原左大臣:小倉百人一首)

 

塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ

(業平朝臣:続後拾遺和歌集)
 

印月池に架かる侵雪橋
六条河原跡地といわれた枳殻(きこく)亭、印月池に架かる侵雪橋 


 源融(
822895)は嵯峨天皇の第8皇子として、後宮・大原全子(おおはらのまたこ)との間に生まれ、838年に臣籍降下し、正四位下、源朝臣姓を賜った(17歳)。藤原道長の舅である源高明(たかあきら)とともに、源氏物語の光源氏のモデルと目される人物としても名高く、また世阿弥の傑作の呼び声高い「融」はまさに彼の栄枯盛衰の人生を描いたものである。

 

融は872年、51歳で左大臣にまで昇りつめたが、子どものいない陽成天皇の皇位継承の資格があるとして、その後嗣を狙った。しかし、時の実力者であった太政大臣藤原基経が、第54代仁明天皇の第三子で、時に55才となる時康親王を推し、結果として同親王が第58代光孝天皇として即位した(在位884887年)。

 

その時の基経とのやり取りが「大鏡」に次のように記されている。

 

 融「近き皇胤をたずねば、融らも侍るは」。基経「皇胤なれど、姓賜ひてただ人にて仕へて、位につきたるためしやある」

 

 つまり、藤原基経は「臣下になって、皇位に戻った例がこれまであったか、ないであろう」と、云って融の野心を打ち砕いたというものである。

 

 ところがその三年後、光孝天皇の病が重篤になった際、基経は臣籍降下した第7皇子の源定省(さだみ)を皇嗣に推挙。定省は基経の異母妹の尚侍藤原淑子の猶子で、その意味で基経との関係は深かったものの、融を廃除した理由と首尾一貫する話ではなかった。基経は天皇の崩御後、形式を整えるために定省を親王へ復し東宮となしたうえで、即座に即位させ宇多天皇として擁立した。その時の融の心境がいかばかりであったかは、想像に難くない。

 

そうした藤原氏との抗争に敗れてからは、世を厭い、隠棲、風流を友として一生を過ごすことになる。

 

六条河原院がいつ頃に造営されたかは定かでないが、貞観6年(864)に中納言、陸奥出羽按察使(あぜちし)に任ぜられて(43歳)陸奥との関わりができたことを考えると、それ以降に造られたとするのが自然であろう。ただ、「続日本後紀」などの記述から、任国へ赴任することを免除された「遥任(ようにん)」であったと言われており、塩竃の絶景を実際に一度も目にしたことがないのかどうかははっきりしない。

 

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに

 

河原左大臣(源融)が詠み人のこの小倉百人一首は、陸奥国信夫(しのぶ)郡(福島県北部、福島盆地の西半分)の信夫山辺りにちなむ短歌である。

 

また多賀城市の浮島には、「大臣宮(おとどのみや)」の跡(JR東北本線高平踏切の南東に、かつて「大臣宮(おとどのみや)」と呼ばれる小高い丘があり、「大臣宮」と刻まれた石柱が立っていた。大臣とは源融との伝承があった)が、存在していたことや、別名、源融神社と称する浮嶋神社(ご祭神:奥塩老翁神・奥塩老女神)など、塩竃への道筋に源融にまつわる神社や伝承が残っている。

 

そうした事柄を総じて見たとき、源融が千賀の浦にたたずみ、湾内に浮かぶ籬島を遠景に、藻塩を焼く紫煙がたなびく光景を目にしたに違いないと思うのが、いかにも風雅であり、また興趣が増すと考えるがロマンがあって心地よい。

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参

能・発祥の地、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を訪ねた

友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

国宝の北能舞台(西本願寺)を拝観しました!

中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩


新熊野神社(いまくまのじんじゃ)=
東山区今熊野椥ノ森町42

能が貴人の素養として確立してゆくスタートの地となったのが、ここ新熊野(いまくまの)神社です。境内には「能楽大成、機縁の地」として「謡曲史跡保存会」の立札があり、りっぱな「能」という字が刻まれた石碑が建立されている。


能大成の地
謡曲史跡保存会の説明書き

能の石碑
「能」の字の刻まれた石碑 



場所は東福寺から東大路通りへ出て東山五条方向へ500m、泉湧寺道交差点からは東大路通りをやはり北方向、東山五条方向へ200mほどゆくと道路に面し左手にある。当神社を創建(1160年)された後白河上皇のお手植えといわれる樹齢900年の「影向(ようごう)の大樟(おおくすのき)」の巨木が見えるので、それを目印に行くとよい。


大樟
樹齢900年の影向の大樟

大樟の石碑
大樟の石碑(京都市天然記念物)



「謡曲史跡保存会」の立札には『当地は能楽の大成者世阿弥が、まだ藤若丸と称していた文中三年(1374)のころ父の観世清次と共に大和の猿楽結崎座を率い勧進興行を行なったところで、「世に今熊野勧進猿楽」と呼ばれ、見物していた室町幕府第三代将軍足利義満が、その至芸に感激、二人を同朋集衆に加え、父子を、それぞれ観阿弥・世阿弥と名乗らせた機縁の地である。時の将軍の援助をうけた世阿弥は父の志をつぎ後顧の憂いなく猿楽の芸術性を高めるため日夜、研究努力を重ね、これを今日の能楽に大成させた』と説明されている。要は猿楽という芸能が能という一段高い芸術性をもった芸能に変成する機縁となった場所が、この新熊野神社なのである。

今回の旅は、厳島の観月能に始まり、京都の能に所縁のあるところを巡るものであったが、この新熊野神社は観阿弥の「卒都婆小町」など能の題材となる小野小町ゆかりの随心院拝観の後に偶然、その道筋に立ち寄ったもので、世阿弥に引き寄せられたような気がして、それこそ不思議な機縁を感じたのである。


新熊野神社扁額
新熊野神社鳥居扁額

新熊野神社本殿
本殿

本殿内部
本殿内部

新熊野神社
新熊野神社鳥居正面


最後にこの新熊野神社は、熊野信仰に篤かった後白河上皇が熊野神社の新宮・別宮として創建し、「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する今の熊野という当時の都人の認識がその由来となっていると、当社の「御由緒」にある。当地の現在の地名は「今熊野」といい、町名の「椥(ナギ)ノ森」の「椥」は櫟科の常緑樹で、熊野の御神木となっているものである。そうしたことから推し、しかも古来、この社が「椥(なぎ)の宮」とも呼ばれていたとの言い伝えもあり、この地が大昔は熊野神社の御神木である椥の木が鬱蒼と茂った厳粛な森であったことが容易に窺い知れる。だから、この小さな本殿の後背には中四社や若宮社、下四社が祀られており、本殿をぐるりと一周すれば、熊野詣に匹敵する御利益に与れるという。

熊野詣でが出来ます
本殿を一周すれば熊野詣と一緒の御利益があります

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能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱


京都、西本願寺で10月12日〜16日にかけて「大谷本廟 親鸞聖人750回大遠忌法要」にともない、通常は非公開である対面所・白書院(国宝)や虎渓の庭(特別名勝)など書院内部の拝観が許された。


書院入口
                書院入口
御影堂
         平成の大修復を終えた御影堂
 
わたしは、最後の16日午前9時から11時までの拝観時間に訪ねることができた。いつも京都にゆくとお願いしているMKタクシーの運転手さんが、教えてくれたのである。その日、わたしがお能の「融」所縁の源融の六条河原院の跡を見にゆくつもりだということを事前に伝えていたので、当日、国宝の能舞台が公開されていることを教えてくれた。 早速に、予定を変更し、まずは西本願寺へ向かうことになった。この3月31日に平成の大修復(平成11年から改修スタート)を完了した御影堂はいずれ寄ってみたいと思っていたので、良い機会と思い軽い気持ちで訪ねてみたのである。

ところが、二百三畳もあるとんでもなく絢爛豪華な対面所や三の間まである贅を尽くした白書院、御影堂の屋根を廬山に見立てた虎渓の庭などを見学し、その間に通る「対面所東狭屋の間」と呼ばれる細長い畳敷きの部屋の天井画の素晴らしさにも素直に驚愕した。「八方睨みの猫」も数多ある天井画の中から絵巻物の上にちょこんと坐る可愛らしい子猫を見つけ出して、はしたなくも「アソコにいた!」などとはしゃぎまわってしまう次第。何しろその桁はずれな豪華さに度肝を抜かれたというのが正直なところである。館内が撮影禁止であるため、写真でご紹介できぬのが残念であるが、次の公開の機会を、是非、見逃さずにトライされることを祈ります。

そして、書院の北側に出て、お目当ての北能舞台に対面したのである。入母屋造りの見事に簡素な舞台である。橋懸りの弓形にしなった欄干も珍しく、目を引いた。懸魚に天正九年(1581年)の銘があったとされ、わが国で最も古い能舞台として国宝に指定されているものである。
国宝・北能舞台
        北能舞台(国宝・西本願寺HPより)
南能舞台
     南能舞台(重要文化財・西本願寺HPより)

そこは、これまでの金色に彩られた対面所や白書院とは正反対のあまりにも簡素で静寂なモノトーンの世界であった。わたしは一瞬、心が動じるとともに、なぜか厳粛な気分に陥っていったのである。 じっとそこにたたずみ、この舞台の上でかつて能が演じられたであろう情景を瞼に浮かべた。どこか森閑とした山深い神社にいるような気がしていた。それまでの「絢爛豪華の美」とこの「単純の美」の落差が、そうした厳粛な気分に一気にもってゆく効果を果たしているのかもしれない。 そしてこの光景と厳粛さをどこかで体験したことがあると感じた。(「国宝能舞台のデジタル復元とその応用」に北能舞台の考察が詳しい)

北能舞台の白州はこぶし大の丸石が敷き詰められていた。その異様な景色は、係員の説明では音響効果を高めるためではないかと言われているとのことであった。
出雲大社八足門
           出雲大社の八足門

本殿千木
            出雲大社御本殿の千木

しかし、わたしはその時、すでにある酷似した光景と雰囲気を、目に浮かべ心に感じていた。それは数年前に出雲大社を詣でた際に、八足門から神域内に入り御本殿をじかに拝観させていただく(「お庭踏み」の)機会を得たが、その時に御本殿の周囲に丸石が敷き詰められていたのを思い出したのである。そして森閑とした清浄な雰囲気の中、お神酒をいただき自然と厳粛な気持ちになっていった、あの情景とよく似ていると感じたのである。 霊と現世の掛け合いを基本にする能の世界と、あの「お庭踏み」において感じた太古の霊の世界とが、どこかで相通じているような、そんな非日常の体験を味わった瞬間であった。

「もみじまんじゅう」の由来と本当の老舗はどこ?

 いまや広島のお土産と言えば「もみじ饅頭」というぐらいに全国的知名度の高い饅頭である。その表記も「もみじまんじゅう」、「もみじ饅頭」、「もみぢ饅頭」といろいろです。そこで、そもそもどこのお店が本物? 誰が発案したのと、紅葉は日本中にあるのになぜ、広島だけのお土産になっているの、で、一体、どこのがおいしいの?といった疑問を、これまで持ったことありません?

 

う〜ん、そんなのどうでもよい、興味ないという方は、この記事飛ばしてクダサ〜イ!今回の厳島観月能を観にゆくに際し、その疑問に少しでも答えるべく個人的ミッションを携え行って参りました。以下その調査並びに「おいしさ」結果につき、レポートさせていただきます。調査対象は、

 

「藤い屋」【廿日市市宮島町1129 電話:0829-44-2221

     【創業大正14年】

 「岩村もみじ屋」【(有)岩村もみじ屋 廿日市市宮島町中江     
          電話:0829-44-0207

        【創業明治末期】

 「高津堂」【廿日市市宮島口西2-6-25 電話:0829-56-0234

     【紅葉饅頭商標登録明治43年】 


の三社三製品である。現在約200社を数えるというもみじ饅頭製造会社があるなかで、わずか三社における比較である。だから、他にこの方が一番という方がおられるのは当然であるが、私なりの選考基準で選んだ次第である。三社の選考理由は、下記に紹介する旅館「岩惣」お勧めの二品に、私がこだわった高津堂を加えた、いわば「もみじ饅頭」に所縁の深いお店のもみじ饅頭の食べ較べということにした次第である。

 

 もみじ饅頭の誕生は宮島の老舗旅館「岩惣」HP150年の歴史」のなかの「もみじ谷と岩惣」第一章に以下の記載があるので、紹介する。


旅館「岩惣」
創業1854年の老舗旅館「岩惣」
 


お茶菓子生まれる・明治39年(筆者注:西暦1906年)頃

当時の女将栄子は「なにかお客様に岩惣でしか味わえないお茶菓子をお出ししたい。」と、カステラ生地の中にこしあんを入れたまんじゅうを考案、高津堂の御主人に制作を依頼して「もみじまんじゅう」が誕生しました。時代を超え漫才ブームのネタにまでなり、国内外でご愛顧を頂けておりますことは、栄子も予想だにしなかったことと思います。

 

 また、そこに名前が出てくる「高津堂」が長らく生産を止めていた「もみぢ饅頭」を、今年の7月から生産再開し、その説明書きに「もみぢ饅頭」誕生の話が詳しく記載されているので、以下それを引用させてもらう。

 

常助、紅葉谷入口で茶店を開く

高津常助は、明治19510日生まれ。大阪で菓子職人となり、大阪名物岩おこし等の卸し商として宮島にやって来て、紅葉谷入口近くに茶店を開き、岩惣旅館へ茶菓子の納入を手がける。

道路は見物人でいっぱいだった

紅葉谷公園入り口に店舗を構え、製造販売した。間口の大きな店で、大きな木製横看板には、元祖もみぢ饅頭、高津堂と書かれていた。入ると二間幅の焼きかまど、横には道具掛や商品を並べる棚、包装台などあり、道路からも見え、焼き立てが買える魅力で大盛況だった。

焼形の型を考えては図面を持って何度となく大阪に出向く

「高津堂」の常助は、もみぢを形どったもみぢ饅頭を明治43年頃に完成。味は、小豆を大釜でたきジャッキで締めて濾(こ)した餡は甘さが口に残らないため、二つ目につい手が出るほど好評。饅頭は、経木に包み、上にラベルを貼った。ラベルには元祖「もみぢ饅頭」と墨書きのシンプルなもので、明治43718日には、商標登録「紅葉形焼饅頭」を獲得。製造販売も軌道に乗り、職人養成にも力を注ぎ後、宮島菓子組合長をも務める。

伊藤博文のひとことから生まれたもみじ饅頭

博文公は、紅葉谷に遊ばれることがしばしばあった。或る日、茶店の可愛いい娘が、お茶を差出した手を見て「このもみぢのように可愛いい手を食べてみたい」と冗談を言うのをきいた「岩惣」の女将から、客に出す饅頭作りの依頼を受けた常助はもみぢの葉形をしたもみぢ饅頭を考案。

紅葉饅頭の元祖は高津常助

常助は、紅葉谷にある旅館「岩惣」の女将からもみぢを形どった饅頭作りの依頼を受け、菓子店「高津堂」が明治43年頃に完成。その後、岩惣とコンビで販売。常助が亡くなるとほぼ同時期に高津堂と、元祖もみぢ饅頭は一代で終わってしまった。

 

 以上でわかるように、厳島の旅館「岩惣」へ菓子を納めていた高津堂の高津常助氏が現在の「もみじまんじゅう」の祖形となるものを製造したことがわかる。そして、岩惣の女将栄子さんが常助さんに企画を持ち込んだということになる。その契機は何と明治の元勲、伊藤博文であったという。

 

ところで、常助さんに紅葉饅頭のアイデアを持ちかけたのは、岩惣の仲居の「おまん」さんだという別伝もあるが、それが女将さんか仲居さんか、そんなことをいろいろと詮索するのも無粋であり、もみじ饅頭を愛する人、各人がその見ぬ女への想いを各々、巡らすのが一興というものであろう。わたし好みで言えば、「もみじのような小さな可愛いい手」の持ち主が、あの朱塗りの紅葉橋の上にたたずむ姿を思い描いて、パクリと「もみじまんじゅう」を口にするのがその甘みが倍加するように思うが、そこはみなさんのお好み次第。生誕100周年もみじ饅頭誕生の歴史に高津堂の歴史が詳しい)

 

 そこで「もみじまんじゅう」を今回は、3種類買い込んで食べ較べをして見た。「にしき堂」のもみじまんじゅうは、これまで、いやと言うほど土産で食べさせられており(生地がパサパサしていて、私は好きではない)、食傷気味なので今回は比較からはずすことにした。

 

 まず本家本元の高津堂は、実は1960年後半に宮島から現在の宮島口へ海を渡り、お店も酒類販売業に業種転換をしていた。常助氏の孫の加藤宏明さんがこの7月に、まさに元祖「紅葉形焼饅頭」を復刻した。まるで、わたしの「厳島もみじまんじゅう探行」を待っていたかのようにである。お店を探して行かずにいられない。何か本当に運命的なものを感じたのである(かなり、大仰!!)。

 

 お店はJR宮島口の西側、線路を北へ越えた細い道路が二股に分かれる場所に「多加津堂」という名で、酒類販売業を営んでいる。そのお店前の小道を挟んだ所のプレハブ造りの小屋で二人の職人さんが、一生懸命に饅頭を焼いていた。生地と餡は宏明氏のご子息、現在、広島市の和菓子店で働く加藤友和さんが用意しているという。

 

 高津堂の味は、いま、私たちがもみじまんじゅうと考えるものとは少々、異なり、もち米を使ったモチモチ感があり、食感はどちらかというと京菓子の「阿闍梨餅」に似ている。餡も常助氏の時代と異なり、いまはつぶ餡のみを販売している。そして常助氏のときの紅葉饅頭はもみじ形の中に鹿が二頭描かれていたが、現在の包装袋に往時の絵柄を残すのみである。


 まだ、復刻3ヶ月目の製品であったので、これから常助氏の幻の味へとますます洗練化されてゆくものと思われる。東京へ戻って、食べ較べをした20代の若い人はこの高津堂が一番おいしいと感想を述べた。

 

高津堂もみぢ饅頭
高津堂もみぢ饅頭

高津堂もみぢ饅頭1高津堂もみぢ饅頭2
葉が七つ折りで葉柄がはっきりしている(原型に近い)

高津堂のつぶ餡

二社のもみじ饅頭と比べ生地が薄いのが特徴・つぶ餡
 
 

 私は「岩惣」がお土産として現在、提供している「藤い屋」が、カステラ生地のしっとり感、藤色のこし餡の上品な味わいが格別で、好みに合った



藤い屋
藤い屋の上品な包装

藤い屋1藤い屋2

藤い屋の紫色のこし餡

藤色のこし餡が上品

 家内は「岩村もみじ屋」のつぶ餡、「藤い屋」のこし餡、どちらにもそれぞれ上品でそれぞれの味わいがあり、軍配団扇をあげた。


また「岩村もみじ屋」を食べた人は、つぶ餡のもみじまんじゅうは初めてだと、「おいしい」と語っていた。。(「岩村もみじ屋」は岩惣に頼むと翌日に旅館に届けてもらえる。岩惣の披露宴などでは「岩村もみじ屋」を用意する人も多いそうだ)


岩村もみじ屋
岩村もみじ屋

岩村もみじ屋岩村もみじ屋1

岩村のつぶ餡

岩村のつぶ餡も上品で美味しい

 それほど、年齢、好み、その日の体調などで、もちろん評価は異なって当然である。実際に皆さんがご自身で宮島を訪ね、そこで焼きたての「もみじまんじゅう」を食して、そのおいしさに覚醒していただけたらと、切に願うものである。

 

たかが土産のもみじまんじゅうと、言うなかれ。斯様に「もみじまんじゅう」には何とも100年前の浪漫の馨りがただよってくるではないか。そして、今回、食べ較べをした結果、誰が何と言おうと、私は、「もみじまんじゅう」は宮島の「銘菓」であると呼ぶことに決めたのである。BBの島田洋七ではないが、私は、世界の中心で「もみじまんじゅう〜!!」と、叫びたいのである。

 

それから、ここで「岩村もみじ屋」を紹介したが、宮島口フェリー乗り場にある「岩むら」は「(株)みせん本舗」という別の会社であり(ここのも一つ食したが、若者向きで、まずくはないですよ)、まぁ、いろいろ、種類があるので、あなた好みのもみじ饅頭という「銘菓」を探し出して欲しいと、衷心より願い奉る次第である。

友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜

 初春の厳島神社(2008.3)

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能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 壱

中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩

 10
14日、喜多流能楽師で人間国宝である友枝昭世氏の厳島観月能を観た。午後6時開場、6時半の開演であった。一年半前に厳島神社を初めて訪ね、大鳥居を遠望し、廻廊を巡った。しかしそこは一見さん、この厳島神社はいつでも海上に浮かんでいるわけでなく、われわれ家族が行った正午直後は引き潮の時間帯であり、厳島の大伽藍は海草のだらしなくへばりつく無惨な砂浜に立っていた。もちろん、あのあまりにも有名な海中にあるはずの朱塗りの大鳥居も重石が剥き出しになっていた。

 廻廊の下にひたひたと打ち寄せる波の音とは、いかなかったのである。神社の詳しいことは、開場前に厳島神社の権禰宜の方に社内を特別にご案内いただいたので、その話は別途することにしたい。

大鳥居

重石が見える干潮時(2008.3)


能舞台

干潮時には白州は本物の白い砂(2008.3)
 
さて、当日の夕刻の開演前には汐はすでに神社の奥深くまで満ちていた。重要文化財に指定されている切妻造りの能舞台(
1680年、4代広島藩主浅野綱長造立)も、腰板の裾を瀬戸内の青海波に洗わせていた。幅4m、長さ275mの朱塗りの廻廊をめぐらす厳島神社はまさに海上に浮かぶ壮大かつ幻想的な劇場と化していたのである。

 満潮の平舞台
平舞台もすぐそこに海面が


 檜皮で葺かれた古寂びた能舞台の前方には、廻廊の外側に三列ほど張り出して仮の「見所(けんしょ)」が設けられていた。その直ぐ後ろの廻廊内にもほぼ一杯となる椅子席(緊急用の通路分は空けていた)が設えられていた。われわれの座席は仮設の「見所」の最前列にあったが、鏡板を真正面にというわけにいかず、脇柱が少々邪魔になる右よりの場所にあった。平清盛ならぬ芸州浅野のお殿様がご覧になったであろう席より微妙に四、五人ほど脇にずれていた。まぁ、贅沢は言えぬ、新参者なのだから・・・。


 昼間の激しい一時の雨も開演前には上がり、ちょっと肌寒い気温ではあったが、観劇に支障はなかった(但し、ホカホカ懐炉がパンフレットと共に配布されていたので、使用する方がよい)。午後
6時半、すでにあたりは暗がりとなり、月の上がる東の空には雲がかかっていた。観月はどうも難しそうな気配であったが、上空にはじっと動かぬ北極星が輝き、観月ならぬ、観星能は期待できた。

開演前に一杯の廻廊の観客

廻廊まで満員の見所

廻廊外に張り出した手前三列が坐り席
仮設の見所
 

夕刻前は舞台上まで1/3ほどの潮位であったが、開演の時分には満ち潮が進み、腰板の半分ほどの高さまで波打つようになった。舞台を照らす照明の光が白洲のさざなみに乱反射し、照り返しが能舞台の天井や鏡板、目付柱さらには能楽師に陽炎のように映じる。
海中に浮かぶ能舞台
海面に映る能舞台と照明の光が天井に照り映える
 
その様は、秋の陽光を浴びた「もみぢ葉」が光芒と陰翳で織りなす「移ろい」の叙情を演出するかのようで、幻燈機の小世界が海の上で蜃気楼のように揺らいで見えた。

紅葉狩友枝昭世氏
上ろうたちの紅葉狩り

友枝昭世氏と森常好氏
シテ友枝昭世・ワキ森常好

シテ森常好氏
平維茂が馬を下りて通りかかる


 人間国宝のシテ・友枝昭世氏演じる上臈(戸隠山鬼神)が海原にぼんやり浮かぶ舞台上で序の舞を踊る姿は気品に満ち、中の舞に転じる頃には妖しげな艶やかさがただよう。そして鬼女に変じてから森常好演ずる平維茂と絡む「急の舞」は、まさに息をもつかせぬものである。
鬼女
鬼に変じた急之舞

鬼女に変身
鬼女に変身

平維茂と鬼女
平維茂が鬼女を成敗
 
 その転々変化の舞踊と巧みに絡み交錯する、笛の掠れた高い音色と小鼓や大鼓の乾いた音が、弥山(みせん)降ろしの清冽の大気をおごそかに揺るがせ海上を越えてとどいてくる。

 

鬼女が討ち取られ、舞いが終わった瞬間、一転して神の静謐があたり一帯を支配した。

 

幽玄の世界にゆったりと身も心をゆだねていたわたしはしばらく腰を上げることもなく、夜空を仰ぎ、海面に目を凝らし、沖合いにくっきりと浮かぶ朱塗りの大鳥居に目を転じた。すると、あの鬼女が海上を突っ走り、暗闇に乗じて戸隠山の岩屋を目指し逃げ去るのがこの目に映じた。それは幻などではなかった。確かにはっきりと見えたのである。

終演
海上を逃げ去る鬼女が見えた・・・

余韻とともに帰路につく
さぁ、晩餐へ 


 家内の「寒くない?」の言葉で我に返り、紅葉谷に位置する今宵の宿「岩惣」の遅い晩餐へと想いは一挙に現実へと引き戻されて行った。

社民党・国民新党が次期参議院選挙の民主党躍進の推進役に

1018日放送のフジテレビ「新報道2001」の「今週の調査(10.15調査)」で「あなたは来年夏の参院選でどの党の候補に投票したいですか」の質問の結果が、民主党38.8%(108調査39.6%・101 38.8%)、自民党9.2%(同13.2%・14,2%)となり、とうとう自民党が10%台を切った。

 

わずか二週間の短い期間の動きではあるが、916日の民主党政権発足後から1ヶ月後の数字の変動である。民主党はほぼ数字は横這いといってよい。それに対し自民党の数字の急落ぶりが目立つのである。

 

原因のひとつは党再生をかけた自民党総裁選にある。自民党は選挙前の300議席から119議席(▲181)へと大幅に議席数を減らした。自民党はその歴史的大敗北の原因を分析し、敗北に至ったこれまでの政治手法の総括をおこなうべきであった。そのうえで、解党的出直しを図るべく、一時の浮ついた人気などに惑わされることなく、強いリーダーの下で再生を期すのが当然の道筋であるとわたしは期待していた。おそらく大方の国民がそう思っていたのではなかろうか。

 

しかし、総裁選には谷垣禎一・河野太郎・西村康稔の三衆議院議員が立候補した。その顔ぶれに国民は自民党の解党的出直しの決死の覚悟を読み取ることはできなかった。相変わらずの党内力学、自身の損得に右顧左眄し立候補を見送った議員がいるとしか考えられない。これまでいつも自民党は言っていたのではないのか。「党内には人材がたくさんいる」のだと。

 

然るにこの顔ぶれであった。従来の自民党の殻を打ち破る気魄を、申し訳ないが、この三候補に感じることはできなかった。このことで、国民の自民党に対する期待は地に落ちたと言わざるを得ず、そうした思いが冒頭の数字につながっているのだと推測される。

 

その一方で、次の理由こそが実は小沢一郎民主党幹事長がいま、最もほくそ笑んでる事象なのではないかと考えるのである。

 

連立を組んだ社民党の福島瑞穂消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当大臣と国民新党の郵政改革・金融担当大臣の自儘とも言える閣僚としての発言である。

 

先の第45回総選挙における各党別の得票率は次の通りである(得票率は各党別の小選挙区と比例代表の獲得得票数の合計を、全党会派等の総得票の合計数で除したものである)。民主党44.9%・自民党32.7%・社民党3.1%・国民新党1.4%となっている。

 

議席数よりもより民意に近い数字と言ってもよい得票率で、3.1%の社民党と1.4%の国民新党の党首が発言を繰り返すたびに、国民の気持ちが早く次の参議院選挙で、民主党に過半数を取らせねばならぬとの思いを強くして行っているという事実である。

 

とりわけ社民党の福島大臣が連立合意書で日米地位協定の改定提起を明記したことで、国の安全保障という国政の要諦に関わる問題について教条主義的な発言を繰り返すことが、あの大臣就任の時の異様なハシャギぶりの様子とダブってしまい、どうにもちょっとご自分の立ち位置、立場がよくお分かりなっていないのではないかと思ってしまうのである。

 

理屈から言えば、まぁ連立合意書においてサインしたのだから、社民党の党是に触れる問題について反駁なり意見を言うことはある意味、当然な部分もあるにはあるのだが、改定提起の詳細は「米軍基地問題について沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定する」と、明記されているのであって、合意しているのは基地問題においてのみである。それ以外は連立の中で協議することになるというのがわたしの理解である。

 ところが、福島大臣のこれまでの安全保障に関する発言は、協議の前に社民党の党是を主張しており、内閣を構成する大臣の発言としては、まだはっきりと合意もされていないことを勝手に言っている、堅苦しく言えば閣内不一致以前の、閣外勝手発言を放置するようなおかしなことになっているのである。

 

そのおかしな状況に、どうもついてゆけず、社民党の有する参議院5議席の重みを早いところ解消せねば、国政の要諦において、民意3.1%の党に鼻づらを引きずり回されるという滑稽な政治状況が続いてしまうという強迫観念が、日に日に強まっているというのが、今の国民の偽らざる心境なのではなかろうか。

 

 その結果、次の参議院選挙にはどうしても民主党に過半数を与えねば、本来の民意を反映した政治が行なわれないと、次回参議院選挙は民主党の候補へ、逆に自民党の候補への投票は控えようと考える人々が多くなっているのではないのかと思えて来たのである。

 だから小沢一郎幹事長は、福島瑞穂大臣にはもっとはしゃいでもらって、民主党躍進の推進役になって欲しいぐらいのことを、本気で思っているのではないのだろうかと邪推もしたくなったというわけである。

 

 健全な二大政党政治を確立するには自民党の再生が通常の有り様であると考える。しかし、この3.1%の党首の発言によって、そのシナリオがどんどん遠のいて行くようで、このフジテレビ「新報道2001の世論調査の数字の傾向には、正直、「参ったな!」と、感じた次第なのである。

107名の命を二度奪うJR西日本=命を軽んじる企業体質

もう28か月前になるが、JR福知山線脱線事故の航空・鉄道事故調査委員会は、遺族・被害者3名を含む13名を公述人とした意見聴取会(2007.2.1)を開催した。その中で公述人たる丸尾和明JR西日本副社長(当時)を初めとする経営陣の発言等を知り、「107人の命を奪ったJR西日本の原罪意識を問う!2007.2.21付)を記述した。そのなかで「JR西日本という企業は『自分が加害者である』という重大な原罪意識に欠けているのではないか」と企業体質を厳しく糾弾した。

 

 JR西日本は線区福知山線塚口駅―尼崎駅間において、2005425日午前918分頃、塚口駅を通過した直後の半径304mの右曲線を走行中に脱線、死者107名、負傷者562名という未曽有の大惨事を引き起こした。

 

 そうした大惨事であるにもかかわらず、事故原因の究明、事故に遭われた被害者のご遺族や当事者の方々への謝罪姿勢や補償問題等で、罪の重さを衷心から反省し、悔いているのか甚だ疑問に思うと、ブログのなかで同社の姿勢と企業体質を厳しく批判したのである。その批判こそ、現在、事前の働きかけ等で問題となっている公述人による意見聴取会の様子が伝えられたからのことである。その閉会後に被害者や遺族の方たちは、公述人たる丸尾副社長(20087月日本旅行社長就任)の意見陳述に対し、「企業防衛や自らの保身に終始した公述だ」と批判したことに如実に表れているが、JR西日本の大量交通機関としての使命感と責任に重大な欠陥があると強い憤りを覚えたのである。

 

 ここ連日、発覚しているJR西日本の山崎正夫前社長等による航空・鉄道事故調査委員会への情報漏洩・接待などの働きかけや兵庫県警や大阪地検による事情聴取社員への事前資料配布等の画策は、どう言い訳しようが、107名の尊い命を奪ったJR西日本という鉄道会社は事故直後からこれまで一貫して、旅客の命の重さより企業防衛に全力を挙げて来たと断ずるしかない。

 

 そして事故調査委員会側にも、事故当事者との公式の場以外での接触・情報漏洩など看過できぬ重大な不始末がある。それも旧国鉄時代に同僚であった人物たちが、加害者と、その事故原因の究明に当たる委員側にも入っているという考えられぬ委員構成であった事実もJRの監督官庁であり、委員会の当局でもある国土交通省の責任もきわめて大きく、なぜ、そうした人事を行なったかも今後、詳しく究明していかねばならない。

 

17日に兵庫県伊丹市で開かれた「おわびの会」で、佐々木隆之社長は「調査報告書に対する思いを裏切り、深く反省しています」と遺族らに謝罪したが、事故後に次々発覚する一連の画策の動きを見ると、とてもではないが言葉通りに受け取ることはできない。

会場で「誠心誠意と言いながら、裏切るようなことをしていた」、「JR西は組織と人の命のどちらが大事なのか」と被害者が激しい口調で詰め寄ったと言うが、関係者の怒りは想像を絶するものがあるに違いない。事故発生からすでに46か月が経過しているのである。

 

 JR西日本が掲げる「企業理念」には六項目ある。その第一項には「私たちは、お客様のかけがえのない尊い命をお預かりしている責任を自覚し、安全第一を積み重ね、お客様から安心、信頼していただける鉄道を築きあげます」とある。

また、第六項には「私たちは、法令の精神に則り、誠実かつ公正に行動するとともに、企業倫理の向上に努めることにより、地域、社会から信頼される企業となることを目指します」とある。企業理念はその企業の存在使命と価値を社会に対し約束するものである。その約束の少なくとも13は見事に反故にされたと言ってよい。

 

 そして、福知山線事故を踏まえて作成された5項目からなる「安全憲章」の前書きにある「お客様のかけがえのない尊い命をお預かりしている責任を自覚し、安全の確保こそ最大の使命であるとの決意」がまったく白々しい嘘八百であり、急場をしのぐお題目を経営陣が先頭になって作成させたものであると、断罪できる。場合によっては自己の「地位保全」のために、敢えて心にもない文章を作らせたのかもしれぬと、邪推したくなる。それほどに、このJR西日本の事故後の対応は、大量の命を預かる大量輸送機関としての企業適性が欠如していると判断せざるを得ない状況なのである。

 

 企業理念、安全憲章からすれば、当然のことであるが、なぜあのような大惨事を引き起こしたのか、技術的問題、企業体質の問題、組織の問題等、洗いざらい、真摯に見直しを行ない、その原因をなんとか究明し、今後の対応策と併せて、社会に対し公にすることで、今後の事故防止につなげることになるのではないのか。それでこそ、公共機関としての義務を果たすことになるのではなかったのかと、思うのである。

 

にも拘らず、今回、航空・鉄道事故調査委員会(後藤昇弘委員長)が公表した最終報告書(2007.6.28)の中立性に重大な疑念が生じたことになる。

 

前原国土交通大臣は928日に佐々木社長を呼び「前原国交相は佐々木社長に対し「今回の情報漏えいは、被害者の方々や国民への背信行為で言語道断。重く受け止めてもらい、再発防止に努めてもらいたい」と要請した。

 

事故後の同社の対応は107名にもおよぶ人命を一度ならず、二度奪ったのだと言ってもよく、私は、命を命とも思わぬこのJR西日本という企業の今後の対応に、厳しい監視の目と猜疑心の視線を注ぎ続けねばならぬと、強く思った次第である。

 

玄そば(くろそば)の店、三駒(みつこま)=蓼科グルメ19

長野県茅野市米沢7682

TEL 0266-73-5455 FAX 73-5286

営業時間 11002300 定休日(水)

 

 改装工事を終えた三駒(みつこま)を本当に久しぶりに訪れた。ビーナスライン沿いのあの強烈なオレンジ屋根のお店である。


 三駒正面

 
  最近は八ヶ岳農園で新鮮な野菜を購入するため、小淵沢
ICを利用することがほとんどで、ビーナスラインには芹ヶ沢交差点から入る。そのため、その下(茅野市街方向)に位置する三駒の脇を通ることが少なくなった。

玄関

 

 20年以上前の昔はビーナスライン沿いの蕎麦店も少なく、チェーン展開する「そば蔵」や「三駒」と「そば庄」、そして当時新しいところで「登美」ぐらいが目立った蕎麦店であった。まだ競争が激しくなかった頃である。そんな時代からこの三駒はオレンジ色のトタン屋根で頑張っていた。

 

 三駒は玄そばと信州ほうとうで有名であるが、鉄板焼きなども楽しめるお店でもあり、今どきの「蕎麦」専心を謳い文句にする蕎麦屋とは明らかに一線を画している。お店のコンセプトは昔から変わっていないのだと、久しぶりの往訪でも感じたものである。


囲炉裏の間
囲炉裏の間

民芸風
民芸風の天井
 

 玄関を入ると大きな囲炉裏の間があるが(改装で大きくなったような気がするが)、その囲炉裏を囲む団欒が醸し出す肩の凝らない、暖かなおもてなしのお店である。昔もそう感じたが、今回も同様の思いを持った。素敵に歳を重ねるお店である。

 

 さらにこの店の良い点は、お客によって「ほうとう」や「鉄板焼き」や「玄そば」といった、それぞれの贔屓があることである。殊更に蘊蓄(うんちく)をひけらかすそば屋が増えた昨今、肩も凝らず、庶民的で、多様な使い方のできる「三駒」は逆に貴重な存在となったと言える。

 

 今回は生後3ヶ月半の赤ん坊も一緒であったので、広い畳みにゆっくりゴロンとさせられ、大助かりであった。さらに改装後だと思うが、ドア付きの2畳の畳間(絨毯敷き・遊具有り)が授乳室となっており、乳幼児の授乳やオシメ替えが可能で、幼子を抱えた若い家族連れにはもってこいのお店である。こうした心遣いにも今回は本当に感心させられた。

畳間よりテーブル席と囲炉裏間を

テーブル席と囲炉裏の間を見る
 
ゆったりした畳の間
ゆったりとした畳の間


 最後になったが、味の方だが、わたしは精製しきっていないそばの実を石臼で碾き粉(ひきこ)にした素朴な味の「玄そば」(くろそば)が大好きである。そして以前より麺が太くなったのも、また喉越しの旨味を引き出してくれるようでわたしには好評であった。


玄そば ざる
玄そばのザル
太麺で素朴な玄そば
素朴でおいしい太麺
とろろ蕎麦
とろろそば
 

 これからもちょっと逆戻りにはなるが、もっと「三駒」を利用しなければと思った次第である。



ありがとうございます

補正予算2兆5000億円削減の裏で旧態依然の地方自治体(日野市)

 前政権党の自民党の組んだ2009年度補正予算の切り込みが、まさにいま胸突き八丁のところにある。この6日、政府はその削減額の一次集計数字を公表した。補正予算総額146630億円に対し、執行停止がかけられたのは25169億円であった。17.2%の切り込みである。これまでの政治手法、利権構造からすると、各省庁が分捕った予算を返上することなど考えられないことであった。その意味でも無駄をなくす政治の大きな第一歩が踏み出されたのだと、政権交代の意義を実感する。

 

 この一次集計の削減率17.2%という数字は、これまでの自民党政治を前提とすれば、とてつもなく大きいものだと言えるが、民主党のいう新規政策の財源目標である3兆円にはまだ足りない数字であることも明らかである。

 

 再度の積み上げに必死に努める国政の大きな変革の動きを好感する一方で、正直者が損をする社会にしてはならぬというそんな事例を目にしたので、ここに怒りとともに告発することとする。

 

それは中央の補助金行政にタカル、これまでの意識を変えられぬ地方自治体の実態である。国の財政危機の実情を知りながら、相変わらず土建国家の利権構造にどっぷりとつかり、箱もの行政を姑息に遂行する地方自治体が今なお存在することである。無駄をなくす政治の貫徹には、ひとつひとつの地方自治体もこれまでの意識を根本から変えてゆかねばならぬことは言うまでもない。

 

 しかし、ここに紹介する事例はその真逆の行政行為であり、地方議会の実態である。

 

 日野市の広報「ひの」(10/1付)の一面に「平成23年度完成に向けて(仮称)市民の森ふれあいホールの建設に着手」というヘッドラインで、建設費約25億円の箱もの着工が謳われている。そのなかで建設費「約25億円」の調達について「国や都などの補助金約12億円、基金(預金)約3億円、起債その他約10億円」と記載されている。国が補助金削減に躍起になっている最中の出来事である。

 

 この箱ものは平成2012月に「昨今の経済不況の影響から、法人市民税等の減収が見込まれるため、20年度に予定していた建設工事発注を取りやめ、休止を決定」と建設休止宣言が行なわれていた事案であった。それを市の行政側は「市税収の落ち込みは変わらず、補助金の見通しは未だはっきりせず、景気動向についても厳しいまま」と財政窮乏の現状を語りながらも、「今建設を始めなければ、補助金をもらえなくなる」と答弁し、議会最終日の928日に建設着工を与党賛成多数で可決したという。それも議案上程期限直前に市長が突然に提案、わずか数時間の議論がなされただけである。(「」内の引用等は大高哲史日野市議会議員の市政報告冊子No178より参照)。

 

 この「今建設を始めなければ、補助金をもらえなくなる」という行政側の答弁にこそ、そして強行採決にも似た議会運営で可決した「箱もの行政」にこそ、今の日本の地方自治体の実態が表れていると言える。地方自治体すなわち、地方議会・与党議員の意識改革は、国政が大きな変革の波の中にあるというのに、なんら旧来の意識を変えようとしていない、そう思えるのである。もちろん、変革を標榜する首長を戴く自治体が職員の意識変革をはじめ、「チェンジ」に苦闘している事実はあるが、大概の地方自治体は依然、旧来の思考回路にあるのではないかと、日野市の事例を見て思わざるを得ない。

 

そしてこうした無駄な公共事業が監視の目をかいくぐり強行される一方で、削られた予算の中に、国民の命にかかわるものも含まれていることを知ると、正直者が損をするというか、公平な社会に早くしなければならぬという思いを強くしたのである。

 

 例えば優先すべき公共事業とは、9日に執行停止された阪和自動車道御坊IC―南紀田辺IC間(27キロ)の4車線化である。現在、この御坊南紀田辺間は上下2車線での暫定供用で、対面通行の中央線上にはポールが立つだけで、正面衝突など3件の死亡事故が発生しているという。補正予算規模は745億円と先の日野市の25億円とは大きく隔たりのある大規模工事であるが、本当に必要な公共工事はもちろんのことだが、今後も実施すべきであることは言を俟たない。

 

 だからこそ、この4車線事業化の執行が停止された田辺市(和歌山県)がある一方で、姑息に「補助金」目当てに不要不急の箱もの建設を急いだ日野市のような地方政治がいまだ跋扈していることが許せぬのである。

 

 国政を変革するには、まず、国民自身が日々の生活を営む社会基盤である共同体の政治を変えなければならぬ。それがなくて、「地方分権」などという大層な歴史的大事業の成就などとても覚束ない。その意味で地方選挙への国民の投票行動、投票率の低さは問題と言わざるを得ない。まず、投票所へ足を運び、地方自治の主権者たる自分の意見を投票という行為で表すことが、この国を本当に変革してゆく大事な一歩であり、地に足の着いた「チェンジ」への一歩なのだとわれわれ自身が再度、自覚する必要がある。革命は「地方」から「中央」へ。これは、これまでのわが国の、いや世界の歴史が示してきたことである。

蓼科の秋

蓼科に春の訪れ=滝の湯で渓谷の初春を満喫(2009.5.6)

別荘地より八ヶ岳を
澄み切った秋気に八ヶ岳の稜線がクッキリ

蓼科の秋は足早にやって来る。すこしのんびりした夏の落し物を追い越してやって来る。

秋桜
路傍の秋桜

野苺
夏の落し物、野苺

秋の花

高原では秋の草々が思い思いに季節の移ろいを演じてみせる。

車山肩の秋草
車山肩の秋草の饗宴

雲と田園風景
田園に夕暮れの翳が

田園では秋の実りの稲穂がタテシナを金色に染め変えてゆく。

蓼科の稲穂
金色に染めあげられた田園

その金色の稲穂の海原にこの日、夕日が射した。
稲穂の輝き

金色の波をまばゆい夕日の光彩がこれでもかと照らし出す。

稲穂に夕日

夕暮れが近づくと光の妖精たちも、ひとり、またひとり、姿を消してゆく・・・

夕日

蓼科に秋の宵闇が迫って来る。八ヶ岳からの秋風だろう、肌寒さという薄いヴェールがあっという間に全身にまとわりついてくる。

さあ、早く、立ち去ろう。秋の闇にのみ込まれぬうちに・・・

あたたかいスープの待つ、わが家へと・・・・・

信州の鎌倉 北向観音堂=神社・仏閣巡り5

信州の鎌倉 北向観音神社・仏閣巡り

 

長野県上田市別所温泉1666


別所温泉「花屋」へ行ってきました(^∀^)
 

 今回が初めてのお参りとなった北向観音は、信州の鎌倉といわれる別所温泉の中央、宿泊した旅館「花屋」から約300mほど、歩いて数分の所にあった。長野市の善光寺には以前、二度、足を運んだが、北向観音が善光寺と一対となる厄除け観音であり、片方だけお参りするのでは「片詣り」となり、来世のご利益をもたらす善光寺と現世のご利益をもたらす北向観音の両方をお参りするのがよいとされる。そのことをこれまで浅学にしてわたしは知らなかった。

 観音堂階段
北向観音堂正面階段

北向観音堂

観音堂

観音堂内
観音堂内

観音堂に飾られた絵馬
堂内に飾られた江戸時代の絵馬

 行って見てびっくりとはこのことで、創建は825年と古く、善光寺と相対面するように北面して建てられた大きな観音堂で、正式名が北向山常楽寺といい、別名「裏善光寺」とも呼ばれている。

 

  そしてお堂のすぐ西に川口松太郎の「愛染かつら」のモデルといわれる樹齢1200年の愛染桂の22mの大樹が植わっている。

愛染桂の碑
 愛染かつらの碑

 

 愛染桂の樹
愛染かつらの巨木

 

そのさらに西の懸崖に張りつくようにして京都の清水の舞台のような医王尊瑠璃殿が聳え立っている。興味の尽きぬ場所であった。
 

医王尊瑠璃殿

医王尊瑠璃殿


聳える瑠璃殿

瑠璃殿下には文人たちの石碑がいっぱい


夕焼け小焼けの石碑
夕焼け小焼けの石碑

  

観音堂東より

北向観音堂を東より

 

境内東側の山手に仏像群が

お堂東側裏山手の仏像群
 

 医王尊の高覧の下には松尾芭蕉の句碑「観音のいらか見やりつつ はなの雲」や信州松代出身の草川信が作曲した「夕焼け小焼け」の歌碑(作詞は東京八王子出身の中村雨紅)があったり、島崎藤村や北原白秋を始めとする文人たちも多数訪れていたことにも驚いた。

 

ゆうやけこやけでひがくれて

やまのおてらのかねがなる

おててつないでみなかえろ

からすといっしょにかえりましょう

 

こどもがかえったあとからは

まるいおおきなおつきさま

ことりがゆめをみるころは

そらにはきらきらきんのほし

 

夕暮れ時にこの医王尊瑠璃殿の下にたたずむと、自然と「夕焼け小焼け」の歌詞が口をついて出てくる、そんな日本の原風景が丘の下そして上に広がる一面の空に見えてくるようであった。 

 

雨と造形家による作品=蜘蛛の巣5

雨と造形家による「湿感」という芸術

 蜘蛛の造形

 朝、庭に出た。

 細雨を落とす空に視線を向けようとした。

 白鼠色の空にシルクスクリーンをかけたような光景が目に飛び込む

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 白露のパールをまとったような大きなリング・・・・・

 クレオパトラはこんな胸飾りをしていたのかしら・・・

 白露と銀糸の織りなす宙空の胸飾りだ

 透ける空から微雨がきらきらとその胸飾りのうえに舞い降りる

 雪の日でもないのに・・・、しんしんと・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 空の造形の神がわたしのためにつかわしたアーティスト

造形家

不思議の空中


 

 

 

 

 

 

 

 

別所温泉 旅館 「花屋」に行ってきました!5

別所温泉 旅館 「花屋」に行ってきました!

 

長野県上田市別所温泉169

0268-38-3131


信州の鎌倉 北向観音堂=神社・仏閣めぐり
 

 

 大正浪漫の建築で有名な旅館「花屋」にようやく泊ることができた。「ようやく」というのも、昨年の夏にこの大正浪漫溢れる旅館をネットで見つけ、予約を入れようとしたが、生憎、満室で断念した経緯があった。だから今年は3ヶ月ほど前から早々と予約を入れ、万全を期した。

 

 「花屋」のHPを開くと分かるのだが、わたしは大正時代の宮大工が腕によりをかけて造作したという本館の21番か23番の部屋に泊りたいと思い、旅行代理店を通じて申し込んだが、家族3人では部屋が大きすぎる(定員が6〜8名)うえ、そもそも予約で一杯との回答であった。人数と予算の問題もあり、仕方がないので別の部屋でもよいと当日を迎えることになった。

 

花屋

 

正面玄関

シックな正面玄関

 

花屋の正面から玄関ははさすがに老舗の風格があった。そして館内へ上がり、部屋へと案内されるのだが、建物を結ぶ良質の栂(つが)を使用した渡り廊下と釣り灯篭という風情が「大正浪漫」をいやがおうにも掻きたてる。

渡り廊下

栂の渡り廊下
 

 宵闇が迫る頃、温泉へと向かった。その渡り廊下の途中から見える水車が回る日本庭園は幻想的で、気持ちは一挙に大正浪漫の世界へ飛んで行った。

 

水車のある中庭

中庭に水車
中庭の赤石
中庭の赤石

談話室
談話室

 

 温泉はすべて源泉掛け流しで3種類ある。わたしは大理石造りの室内温泉風呂に入った。そこのステンドグラスがお目当てだったからである。温泉の質はさすがに老舗だけあってよい。黄色や赤、青色のステンドグラスと大理石造りの造形がよくマッチし、湯船に浸かった気分は最高である。

 

大理石風呂

大理石とステンドグラスの温泉

温泉のステンドグラス
意匠を凝らしたステンドグラス

 

 そして部屋での夕食となった。この部屋の造作はまぁ、普通の旅館とあまり変わりはなく、HPで見た21番や23番の部屋の匠の技を見出すことは難しかった。また、室内のトイレ・洗面の配置がどうにも窮屈。そして洗面の設備は古過ぎていただけない。アメニィティ・グッズも大きく見劣りするので、今後の改善を期待。

 

料理は部屋に順番に仲居が運んでくれるので、温かく味わえる。ただ、わたしには料理の皿数が多すぎて、種類を減らして質を高めてくれる方がよいと感じた。それは家内も同意見であった。

 

前菜

前菜

鯛しゃぶ鍋

鯛のしゃぶ鍋

 

信州和牛ローストビーフ

信州牛のローストビーフ

千曲川産鮎の塩焼き

千曲川産の鮎の塩焼き

 

 翌朝は大正浪漫溢れる木造りの食堂で朝食を取った。

食堂

 大正浪漫溢れるダイニングルーム

 その後のチェックアウトまでの時間、前日にお願いしていた
21番の部屋を見せていただくことになった。部屋へ足を踏み入れ、天井板に描かれた色鮮やかな絵柄を目にしてびっくり。障子に細工された細やかな桟の造作。床の間の床柱も素晴らしい。ひっそりとした座敷で仲居さんが「ご家族でお写真を撮りましょうか」というので、床の間を背にして三人、座布団に坐って、ひと時、大正時代の匠の技の部屋の空気を吸わせていただいた。広々としてゆったりとした贅沢な空間と時間であった。

 

絵天上

21番の部屋の天井の絵

 

明かり窓障子の造作

障子の桟の匠の技

 

次の間の変わった床の間

 

 ただ、家内はこの天井絵の下に寝るのは、何とも落ち着かないかも・・・、なぞと身の程知らずのことを言っておりましたが、わたしは機会があれば、もう一度、人数を募り、この部屋であれば泊ってみたいと思ったものである。 

黒姫高原、夏のホーム・コンサート(8月26日)5

黒姫高原の夏の一日、ウッズ・コンサートを堪能(2008年晩夏)

 

 

 もうあれから一年。この歳になると本当に時間が経つのが早いと実感しきりの今日この頃である。そしてこのブログを物するのにコンサートからひと月も経ってしまったことに、体力・智力・気力の衰えという加齢・三拍子を感じてしまい、まさに心中を秋風が吹きぬけてゆくようで、寂寥感が募る・・・。まぁ、そんな下らぬ前置きはそれぐらいにして、当日の楽しかった思い出を綴ろう。

 

 今年ももちろん会場は陶芸家の山中恵介氏(和子氏のご主人)の森に囲まれた素敵な山荘である。メンバーも昨年のピアノ:山中和子・加藤孝子氏、サックス:中川美和・藤澤聡子氏に加え、留学先のウィーンよりサマーホリデーで帰国していたバイオリニスト細川奈津子氏が参加してくれた。

 

 演奏者5名に対し、観客8名というまことに贅沢なコンサートである。

 まずはコンサート。いや本来の目的であるコンサートについて述べよう。今年の曲目はバイオリンが入ったことで、一段と多彩で楽しい演目となっていた。ホームコンサートということで、耳に心地よい、ゆったりとした気分に浸れるものを山中和子氏以下、演奏者の方々で選んでくれた。その心づくしが本当に観客冥利につくのである。

 

 加藤孝子

加藤孝子氏(手前)

細川奈津子氏

ヴァイオリン細川奈津子氏

藤澤聡子(左)・中川美和氏
サックスとピアノの協演(左:藤澤聡子・右:中川美和氏)

 

Program

Piano duo(山中和子・加藤孝子氏)

ピアノソナタ Cdur K.545 第二楽章(モーツァルト)

トルコ行進曲(モーツァルト)

組曲第二番opus17 ?.ワルツ(ラフマニノフ)

月の光「ベウガマスク」組曲より(ドビュッシー)

スカラムーシュ? ブラジリア(ミヨー)

 

ViolinPiano duo(細川奈津子・山中和子氏)

ラ・フォリア(コレルリ)

ロマンス Adur(シューマン)

タイスの瞑想曲(マスネー)

チャルダッシュ(モンティ)

 

Saxophone duo(中川美和・藤澤聡子氏・ピアノ山中和子氏)

アヴェ マリア(バッハーグノー)

アヴェ マリア(カッチーニ)

おとうさまお願い 歌劇「ジャンニ スキッキ」より(プッチーニ)

2本のサクソフォンの為のDuo Concertant 第?楽章(サンジュレ)

アンダンテとロンド(ドプラー)

 

 午後3時半開演となった高原コンサートは、昨年に増して演者に力がこもっているように感じた。音楽に対する愛情が聴く人の心に伝わってくるのに違いない。一メートルという間近で楽器が奏でられる。演奏者の息づかいや細やかな指の動き、演奏の喜びの溢れる表情などその臨場感が、あたかも自分もその演者の一員であるかのような錯覚に陥らせる。実際に♪が漣のように一連の波動としてわれわれの胸に心地よく届いてくるのである。

 

 そして、気がつけば、浅田真央ちゃんの「チャルダッシュ」に単純に感激するわたしがそこにいた。ホームコンサートって、こうした感じががいいのかなぁ〜♪♪♪

 

 うっすらと森が暮れなずむ頃、音楽の宵は、(わたしが密かに)メインイベントと見なしているディナーへと移ってゆく。

 

今年は黒姫高原でイタリア料理のお店「TRATTORIALA TERLA」(長野県上水内郡信濃町大字野尻3884-682 ロン都 イーストプラザ1F・?:026-255-4553)の若きオーナー・シェフ朝賀輝昌氏にじきじきお出でいただき、熱々の手料理をいただくことになった。

 

 キッチンから届くイタリアン!! いやぁ〜、次から次へと用意される料理がわたしの喉を特急列車で通過する。あまりのおいしさに我を忘れ、喉を一度詰まらせて目を白黒させる醜態まで演じてしまったなぁ〜。あぁ、美味しいイタリアンに絶品のワイン・・・。余は満足であった!! そして、ワイワイ! ガヤガヤ! そこここで会話が弾む。その笑い声を聴きながら、ホームコンサートって、楽しい会話も音楽の一部なんだなぁと独りで感じ入ったのである。 

おいしそうでしょう!

おいしそだゾ!!

 

もう、なくなってるゾ!!

もう、なくなってるぞ・・・、イソゲ〜!!

 

生ハムだ〜

おいしそ〜だ、生ハム

 

楽しみなイタリアンを取り皿に

自分の取り皿にまずは、確保。ひと安心、エヘヘ(´∀`*)

 

そして今年、新たな出会いも・・・。バイリニストの細川さん、シェフの朝倉さんに加えて、宴たけなわの頃においしい黄金桃を持って現れた藤沢農園(長野県須坂市新田町2588・電話:026-245-8721)の藤沢英明・道子ご夫妻。お若い二人が果物を愛しておられることが、言葉の端々から伝わってきた。素敵な健康的な笑顔でした。そのおいしい黄金桃とプルーンを後日、宅配していただいたが、本当においしかった。新たな食との出会いであった。本当に来年もまた色々な意味で、タ・ノ・シ・ミ♪♪なコンサートである。

朝賀輝昌シェフ

朝賀輝昌シェフ of TRATTORIA ”LA TERLA”

スパークリングワイン

スターターのスパークリングワイン!!

サックスの競演

サックスの競演

ピアノ連弾
余興でピアノの連弾を・・・

山中和子氏

山中和子氏

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