彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!

普天間基地移転先の先送り、党益優先、国益無視の愚昧

 普天間基地の移転先決定の先送りが、15日、民主・国民新・社民の3党間で合意されたという。
「は〜っ?」というのが、正直なところである。移設先を今は決めないことを決めた? 「えぇ〜!」である。

 この連立政権は国民を馬鹿にしているのか? いったい何がやりたいのか。普天間問題は3党の足並みを乱すため、この難しい問題については先送りして、政権維持を最優先ということなのだろう。

 こんな無責任な政権はいらない。鳩山首相が「日米関係を重視する」と口先でいくら言おうが、「Trust me」と胸をたたいた日本の首相に対し、米国は今後、その言葉に信を置くことはないだろう。、「Trust me」の結果が先送りでは、「ふざけるんじゃない!」というのが、誰しも思うところではないだろうか。

馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。

これは米国が言うだけでなく、日本国民も同様に叫びたいのだ。

米国との関係悪化を見越したうえで、対等な日米関係の構築というのであれば、当然のこと、民主党は次の一手を用意しているのでしょうねと、ここで念を押しておきたい。普天間の移転先も決めないというのであれば、米国が「それなら国防は勝手にやれ」と言い出した時の、覚悟はしているのだろうねと、言いたいのである。

 この国が米国の核の傘に守られているという事実は重い。米国を怒らせたうえで対等というのであれば、核の傘から抜け出す覚悟があるということだと、考えるのが国際社会の常識である。

 民主党はその腹をどう決めているのか。鳩山首相は、その腹が固まっているのか。ここまでの首相や同党の言動を見ていて、そんな腹など何も決まっていないと考えるのが普通である。

 そして、社民党も政権与党である。普天間基地の具体的移転先も未検討なまま、ただ反対、県外、海外と叫ぶのも、あまりにも無責任。政権の一角を占める党としての責任感の希薄さに、あいた口は開いたままである。

 国民はこの連立政権の行く末にもう、期待することをやめねばならぬ。とくに民主党の党益、政局のみに意を用いた政治運営に、早過ぎるというかも知れぬが、駄目だしをするしかない。政権与党は将来にわたる国益について重大な責任をもっているのだという、当たり前のことを知らねばならぬ。

恫喝で天皇を政治利用した小沢一郎=独裁者が正体を現わした!

 以下に記すのは14日の天皇特例会見にかかる小沢一郎民主党幹事長の記者会見での発言の抜粋である。

 

「何とかという宮内庁の役人(羽毛田信吾宮内庁長官)が、どうだこうだといったそうだが、日本国憲法民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。どうしても反対なら、辞表を提出した後にいうべきだ。当たり前でしょ、役人なんだもん」

 

「天皇陛下のお体、体調がすぐれないというならば、それよりも優位性の低い行事はお休みになればいいことじゃないですか」

 

天皇陛下ご自身に聞いてみたら『手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思うよ」

 

天皇陛下国事行為は内閣の助言と承認で行うことだ。それを政治利用だとかいったら天皇陛下、何もできないじゃない。内閣に助言も承認も求めない天皇陛下が勝手にやんの?」

 

 一方で、以下は、天皇陛下がご結婚満50年に際する記者会見(H.21.4.8)でのご発言である。


日本国憲法にある『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』であるという規定に心を致しつつ、国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています」

 

「象徴」とはどうあるべきなのかを求道者のように追求してこられた陛下の筆舌に尽くせぬご苦労を思うと、正直、胸が熱くなる。

 

 そのお言葉から窺い知れるご心労を思ったとき、「天皇陛下が勝手にやんの?」という小沢一郎の思い上がりとも取れる無礼なひと言に、「日本国民統合の象徴」に対する尊敬の念の一欠けらも感じられない。逆に権力に驕り高ぶった独裁者の恫喝を聴くようで、とても気分が悪い。そしてこんな為政者を野放しにさせておくのは非常に危険であると強く思った。小沢一郎という人物がとうとうその正体を国民の前に現わしたと言ってよい。恫喝を武器とする独裁者としての素顔を・・・。

習近平副主席、天皇陛下との会見、あからさまな政治利用!

習近平(シー・チンピン)国家副主席の天皇陛下との特例会見のセットについて、その反応の代表的例があるので、紹介する。

 

それは、お隣り、大韓民国で最も購読数の多い新聞である「朝鮮日報」が伝えたものである。同紙は1214日に訪日する習近平副主席が天皇陛下との会見をセットされたことに関し、「鳩山政権、中国には破格の待遇」のタイトルで記事を流した。そのなかで「日米同盟を決裂の一歩寸前にまで追い込みつつある日本の民主党政権が、中国に対しては破格の待遇を用意しつつ接近を図っている」と述べている。

 

 その「破格の待遇」とは、次の経緯を言う。

 

今月7日に平野博文官房長官は電話で、中華人民共和国の習近平副主席来日の際に、天皇陛下への会見をセットするよう羽毛田信吾宮内庁長官に要請した。この時、羽毛田長官は「(天皇との会見は1ヶ月前までに申請する)ルールは政府内で重視されており、尊重されるべきだ」と、これまでのルールを盾にその要請を拒絶した。

 ところが、この10日に再度電話で、平野長官が羽毛田長官に会見セットを要請。平野長官はこの会見が鳩山由紀夫首相の強い意向であるという理由で会見をセットするよう迫り、特例的に認めざるを得なかったという。

 

そこで、羽毛田長官は11日、異例の緊急会見を開き、「(1カ月ルールは)国の大小、政治的重要性で差を付けずに適用してきた。単なるルールではなく、現憲法下の陛下の役割にかかわることだ」と、天皇の政治利用について強い不快感を示した。

 

10日の小沢訪中と合せるように特例扱いで天皇陛下との会見がセットされたとなれば、鳩山首相の強い意向であると釈明するものの、その蔭に小沢幹事長の強引な指示がなかったと思う方が不自然で、無理な話である。

 

小沢の一声でさまざまなことが強引に決められる。民主党政権になってから、しばしば目にし、強く感じることである。そして、今回のことで、小沢一郎衆議院議員が実質的な最高権力者であることが、白日の下に曝されたと言ってよい。

 

それはそうとして、天皇と政治の距離の問題である。

 

天皇陛下はご結婚満50年に際する記者会見(H.21.4.8)において、「日本国憲法にある『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴』であるという規定に心を致しつつ、国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」と、ずいぶん直截に政治との距離感についてご自身のお考えを述べられた。

 

 皇后陛下も、天皇陛下ご即位二十年に際しての宮殿での記者会見(H21.11.6)において「戦後新憲法により、天皇のご存在が「象徴」という、私にとっては不思議な言葉で示された昭和22年、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を、ただそのままに受け止めておりました。御所に上がって50年がたちますが、『象徴』の意味は、今も言葉には表し難く、ただ、陛下が『国の象徴』また『国民統合の象徴』としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます」と述べられた。

 

 このように両陛下が象徴天皇の意味を問い続け、真剣に心を砕いてこられたご様子を知る国民として、今回の暴挙と言ってよい「政治利用」は、これまでの両陛下の血の滲むようなご努力と国民への御心を踏みにじるものであり、断じてこれを許すことはできない。

 

 14日の鳩山由紀夫首相の「天皇陛下のお体が一番大事だが、その中で許す限りお会いになっていただく。日中関係をさらに未来的に発展させるために大変大きな意味があると思うから、判断は間違っていなかった」との発言は、「日中関係をさらに未来的に発展させる」によって「外交」としての意味合いが濃いことを心ならずも吐露し、会見が政治利用であることを物語っている。

 

 さらに、こんな無理強いをしておきながら、陛下の健康を気遣うなどと、よくも言えたものだと思う。鳩山由紀夫という人物の言葉の「軽さ」、「空虚さ」を思わざるを得ない。

 

そもそも天皇と政治の距離感は常に細心の注意をもって見極めていかねばならない。天皇皇后両陛下がこれまでの会見で天皇の役割について述べられた深い思いを一顧だにせぬ今回の判断を「間違っていなかった」と言い切る鳩山首相の無思慮と小沢一郎幹事長の「力づくの権力」を「わたくし」するような行為に、わたしは憤りを隠すことはできない。

 

そして、この問題は、羽毛田信吾宮内庁長官が言うように「憲法に規程されている天皇の役割にかかわる」ものであり、慎重なうえにも慎重な対応が求められるものだと考える。

 

民主党政権の権力の乱用が、国の根幹を危うくするものに本当にならねばよいと感じた「事件」である。

万両・千両・百両・十両、もういくつ寝るとお正月♪♪

万両・千両・百両・十両、もういくつ寝るとお正月♪♪

 

 赤い実がことに鮮やかな千両やお正月の生花に使われる万両のほかに、百両、十両というのがあるの知ってますか? 


万両
万両の赤い実

千両
鮮やかな千両の実

 

 

5、6年前に大原の実光院を訪ねた際に、門を入ってすぐの所の庭石にしがみつくようにして植わっている木を見つけた。赤い実をつけた可愛らしい木というより植物と言ったほうがいい。「十両」という木であった。お寺さんに伺うと「百両」の木もあるとのことで、百両の木も教えていただいた。


百両
百両の赤い実と色づかぬ実

十両
申し訳なさそうに実をつけた十両

 

 

その後、我が家の庭にも順次、種類を増やし、最後に百両が加わり、全種類の揃い踏みとなった。いま、お正月を飾るべく赤や黄色の実をつけているので、ご紹介することにする。

 

万両、百両、十両が薮柑子(やぶこうじ)科で千両のみ千両(せんりょう)科ということである。なるほど、千両のみ実が上に向けてついている。百両の別名は「唐橘(からたちばな)」といい、十両は「藪柑子(やぶこうじ)」とも呼ばれているそうだ。

 

そして調べているうちに、ツツジ科の「一両」(アカモノ)とアカネ科の「蟻通」(アリドオシ)が、この一連の植物に関連するものとしてあることがわかった。とくに、「千両、万両、有り通し」といってお金持ちになるおまじないのような縁起物として、語られたこともあったという。

 

それでわたしにお金が身に付かなかったのだと得心した。こうなりゃ、来年は是非とも「蟻通」を植えなければなるまい。

 

そう決心した次第であります・・・とさ!!

 

小沢訪中団、屈辱の一日=いつこの国は中国の属国になったのか

1210日はある意味、国辱の日である。

 

今回の林間学校、いや、訪中に小沢先生に引率されて143名もの国会議員が中国を訪れた光景を見せられると、この国はいつの間に中華人民共和国の一属国になり果てたのかと思ってしまったのである。小沢一郎民主党幹事長が胡錦涛(こきんとう)中国国家主席と会談する様子などは、国内であれだけ横柄な態度で終始する姿との対比において、見るに忍びないというのが正直な感想である。

 

小沢一郎民主党幹事長の訪中はまさに国辱ものである。総勢600名を超すという中国訪問団。とくに143名におよぶ小沢氏に引率された民主党国会議員の幼児脳と自分のおかれた国会議員という立場に対する意識の希薄さに唖然とするのである。

 

校長先生に引率された小・中学生じゃあるまい。中国側が用意した巨大な黒塗りのリムジン車に小沢氏が乗り、添乗員の掲げる旗に従った同行議員らが番号のふられたマイクロバに分乗し、長い車列をつくって市中心街へ向かう光景を、中国人民はどのように見ただろうか。どう見たって、言うがままに動きまわる修学旅行、そのものである。

 

この光景を見れば、日本は中国の属国となり、朝貢貿易ではないが皇帝に膝間づきにいった植民地の使節としか見えぬ。小沢一郎だけが属国の王として浩然と胸を張り、人民公会堂を歩む姿を見ると、属国の小心翼々とする為政者が、己の自尊心の満足のために国益という国民そのものの将来にわたる財産を「わたくし」する卑しい姿を見るようで、吐き気がしたのである。

 

実に、今日の訪中の大デレゲーションを見て、日本はいつの間に中国の属国になり果て、いつの間に国会議員は中学生、いや小学生のレベルの扱いを受けるようになったのかと、嘆かざるを得ない。国民の代表である国会議員はひとりひとり、小沢一郎と同じ権限を国民の一代表、代理人として行使する権限を与えられているのだという、民主主義の原理原則をもう一度国民は問い直す時機に来たのではないか。本当によく民主党の代議士は考えてもらいたいと憤りをもって思うのである。国民は中国に膝下することを期待して、政権交代など望んだのではない。どうも結論を急ぎ過ぎるが、民主党首脳に政権交代の国民の真意をもう一度、思い知らさなければならぬと思った一日である。

 

何度も言うが、今日一日、小沢一郎率いる民主党訪中の仰々しさを見て、日本国民として本当に恥ずかしい思いをしているのである。

 

国会議員は国民が平等の権利を行使し選んだ代表である。そのひとりひとりは本質的に同じ権限を有すはずである。国民の意思をひとりひとりの議員が体現するのが本来の姿である。民主党議員は小沢一郎の部下になったのではなく、国民の代表になっているのだということを、真剣に考え直してほしい。

 

信州の鎌倉 その6=龍光院

上田市前山553

 

 龍光院の正式名称は宝珠山龍光院、本尊は釈迦如来である。当院の由緒は寺伝によれば、鎌倉時代の弘安5年(1282)に塩田北条氏の二代目北条国時が開基、月湲(げっけい)和尚を開山として創立されたとある。塩田城跡より600mほど西方に位置し、塩田北条氏の菩提寺となっていた。城の鬼門に位置し塩田城を護る役割を担っていた前山寺とともに塩田北条氏とはとくに縁の深い寺である。

 

龍光院宝珠山扁額
山門の山号「宝珠山」の扁額

塩田北条氏菩提寺石碑
塩田北条氏の菩提寺をあらわす石碑 

 

 

当院は初め仙乗寺と称する鎌倉建長寺の末寺であったが、後に更埴市小島の曹洞宗萬照寺の末寺となった。慶長六年(1601)萬照寺六世瑞応が龍光院と改めた。

境内の百日紅の花
大きな百日紅の赤い花が咲く境内


 境内には大きな百日紅(さるすべり)の木に赤い花が咲き、その百日紅を支点にして直角に本堂と座禅堂が配置されている。

本堂
正面が本堂

座禅堂
本堂と直角の位置に座禅堂

龍光禅院扁額
本堂の扁額

御本尊
御本尊



そして観世音堂のある山肌には地蔵仏がたくさん祀られており、当院が今でも人々の篤い信仰心を集めていることがよくわかる。

観世音堂
観世音堂

境内の地蔵仏
境内にたくさん祀られる地蔵仏

観世音堂と石塔
観世音堂と石塔

普天間飛行場移設問題、鳩山首相迷走にダメ出し!!

鳩山由紀夫首相は127、米軍普天間飛行場移設問題に関する、公邸前での記者団のぶら下がり取材において「政府としての考え方を、最終的にどういう風に米国に対して申し上げるかを決めるときが来たと思っている」と述べた。

 

 それを受けた大手メディアは、「<普天間移設>首相、近く最終方針…米国側に提示へ」(毎日)・「普天間方針、米側に近く伝える意向…首相」(読売)・「首相、普天間問題で『最終方針決める時期』」(産経)・「普天間移設で首相『政府として考え方、決めるとき』」(朝日)・「普天間移設『考え決める時』 首相、米に近く提示」(日経)というタイトル記事を配信している。

 

普天間飛行場移設問題について日本政府の最終方針」を米側に伝える方にニュアンスを置いたタイトルから「政府の考え方を決める時がきた」の方にニュアンスを置いたタイトルまで、首相発言の捉え方に微妙な差が生じている。

 

 これまでの普天間基地移転に対する鳩山首相の発言のブレが尋常でないことを考えると、タイトルを曖昧にせざるを得ない大手メディアの苦労も分かる気がする。冒頭の首相発言を慎重に再度、読み返して見ると、「最終的にどういう風に米国に対して申し上げるかを決めるときが来た」である。

 

 鳩山首相は「どういう風に言うか」を決める時がきたと言っている。要は「政府としての考え方」を「どういう風に」言うか、米国の怒りを見たので、早く「決め」ないといけない、と言っているに過ぎない。もっと言うと、「(移転問題を)どうしたらよいかわからなくなった」という鳩山首相の気持ちを「Trust me」と言ってしまった自分自身に傷がつかぬよう「どういう風に」米国に伝えたらよいか、「先延ばしの仕方」を決めないと、相手が本当に怒ってしまうと、言ったに過ぎないのである。

 

 決して移転問題の最終方針が彼の頭の中にあるわけではないことをわれわれは理解しておかねばならない。来年7月まで連立政権を崩す覚悟がないのであれば、「県外、できれば国外」という党是を掲げ、「重大な決意」を表明した福島瑞穂党首率いる社民党の主張を袖にすることはできない。これまでの様々な問題への対処、指示のあり方を見ていると、どうも鳩山首相の脳内思考は、すべて決断を好まず先送りする、抽象的な「言葉力」で物事をしのごうとする傾向がきわめて強いことが窺われる。

 

だから、のらりくらりで年越しし、そうこうするうちに何とかなるのではないか。そんな気持ちでいたに違いないと思えてくるのである。

 

しかし4日にルース在日米国大使が岡田外相、北沢防衛相の会談で、「鳩山政権がオバマ大統領の顔に泥を塗った。先月の日米首脳会談当時、鳩山首相がオバマ大統領に『信じてほしい』と早期に結論を出すことを約束しながら、危機を免れるとこのような態度を取るのか」と顔を赤くして、2人に怒声を上げたという。

 

そこで、鳩山首相は驚いて何か年内に米国に言わねばならぬと考えた。

 

その気持ちが「どういう風に」という表現に表れている。最終方針が定まっており、それを伝えるのであれば、「はっきり最終方針を申し上げる」でよいのである。表現方法で方針が変わるような最終方針など、外交の世界で受入れられるはずはない。玉虫色の表現とは、行なわれるべき事実はひとつであるが、その事実の解釈を両国国民にとって互いによいように理解させるための政治的テクニックである。決して、やるべき事実が決まっていないときに、表現の仕方で最終方針を曖昧にするなどということではない。そんなことは、外交上、許されることではないし、そんな言葉で「YES」というような米国ではない。

 

甘えるのもいい加減にしろと鳩山由紀夫首相には申し上げたい。こんな不誠実な態度をとり続けるかぎり、この国の国益はどんどん損なわれ、国際社会からの信用も失ってゆくことは確実である。

 

いまは、出来ることと出来ないことをはっきり内外に言うべきであろう。とくにこれは国の安全保障にかかわる問題である。表現力の巧拙で済ます話ではなく、決断力・政治力がまさに問われる問題なのである。

 

 こんな外交姿勢で「日米両国の対等な相互信頼関係」を築くなどとよくも言えたものである。米国の核の傘に守られて平和を享受している現実を直視し、対等な関係にある「新時代の日米同盟の確立」のためには、いざとなればその「核の傘」をなくすことも視野に入れた重い判断をしていなければ、「対等」な外交を標榜するのもおこがましいと言わざるを得ない。その覚悟を国民に求めるからには、自らがその覚悟をしているのは当然のはずである。それが為政者の最低限の責務、資格である。しかし、どうもこの鳩山由紀夫という人物の腹のなかに「肝」というものはそもそも存在しないようである。

そう言えば、同氏は政治家の前は学者であった。それを称して「口舌の徒」と揶揄した政治家がかつていたことを思い出した。

信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺

信州の鎌倉 その1=塩田平

信州の鎌倉 その2=北向観音堂

信州の鎌倉 その3=安楽寺

信州の鎌倉 その4=常楽寺


長野県上田市前山300


本堂俯瞰

前山寺・寄棟茅葺・唐破風向拝の本堂
 

 

前山寺(ぜんさんじ)は平安時代の弘仁三年(812)、護摩修行の霊場として空海上人が開創したと伝えられる古刹であり、ご本尊は大日如来である。奥の院が独鈷山に祀られていることから山号を独鈷山と称し、奥の院の場所には弘法大師が独鈷(とっこ)を埋めたという伝説が残り、大師が修行したあとと言われる岩窟も存在する。

 

薬医門独鈷山扁額
薬医門に山号「独鈷山」扁額 

 

当寺は独鈷山の一支脈となった弘法山(旧独鈷山)麓にある塩田城跡から東に100mのところ、塩田城の鬼門の方角に位置する。そのため塩田城の祈願寺として塩田北条氏や村上氏など歴代城主からの信仰が厚かったという。前山寺からは眼下に塩田平が一望でき、やや西南の端には別所温泉の賑わいと北向観音を遠望するなど、塩田城とほぼ同一の位置関係にあることから、戦略的場所に建っているともいえる。そのためか前山寺が建つ石垣は遠くから眺めると、城壁のように見え、しかも寺を囲う白い漆喰壁に穿たれた通風孔も、心なしか銃眼のように見えた。ひょっとしたら戦国時代には出城として利用されたのではないかと思ったものである。それほどに外観はお城の威容を感じさせるものであった。

 

前山寺全景
前山寺全景

城塞
城塞のような石垣と銃眼を備えたような漆喰塀

 

 

黒門(冠木門)をくぐって200mほどの長い参道を抜けてゆくのが本来の前山寺への参拝のあり方ということであったが、われわれは薬医門より逆に黒門のある参道の方を眺めた。なるほど一見しても、なかなかに風情のありそうな参拝道であった。

 

 前山寺参道
参道の入り口には冠木門(黒門)

薬医門
参道の正面に薬医門

 

さて薬医門を抜けて境内に入ると左手に本堂がある。その本堂の南西の小高い丘、薬医門正面に「未完成の完成の塔」と呼ばれる美しく簡素な三重塔がある。

 

 大銀杏と三重塔
薬医門正面の高みに三重塔


 

まず本堂は間口十間、奥行き八間の堂々とした建物である。そしてびっくりするのが手入れの行き届いた分厚い茅葺の大屋根である。正面の向拝(ごはい)に「本」の刻み文字があるが、寺務所が閉ざされていたのでその意味を問うことが出来なかった。魔除けか厄除けのお札のような意味を持つのかも知れぬなどと思ったが、今度、訪ねる機会があればご住職に伺ってみたいと考えている。

 

本堂全景
本堂

前山寺向拝正面
唐破風向拝に「本」の字

本尊・大日如来
御本尊の大日如来 

 

三重塔へ登る石段の下には、胎蔵界大日如来の真言が梵字で「アビラウンケン」と書かれた石碑が建っている。階段の上には宝経印塔が建ち、横に銀杏の樹が植わる。その大樹と競うようにして三重塔が青空をバックに聳えて見え、美しい。国の重要文化財に指定された「未完成の完成の塔」である。

 


明王堂
明王堂


「アビラウンケン」の石碑と宝経印塔
 アビラウンケン石碑

 

この塔が「未完成の完成の塔」と言われるのは、二層、三層に窓や扉、縁や勾欄といった通常であれば、当然、存在するものがないことで、簡素な三重塔の単純さがかえって「造形の美」を生み出し、「未完成の完成」というアンビヴァレンツな形容詞が冠されたものである。

 

 三重塔全景
未完成の完成の塔

窓・勾覧がない二層、三層
二層は貫が4本突き出たまま・窓や扉もない

二層・三層


三重塔一層


釈迦如来扁額

 

それほどにざっと見には完成された三重塔に見えるのだから、工事中断といっても、室町時代初期の建立と推定される当時の職人たちの並外れた技能と美意識には脱帽するしかない。是非一度、ご自身の目で確かめられるとよい。騙し絵を見せられたようで、「あっ!」と叫ぶこと請け合いである。

 

 

信州の鎌倉 その4=常楽寺

信州の鎌倉 その1=塩田平

信州の鎌倉 その2=北向観音堂

信州の鎌倉 その3=安楽寺

信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺

別所温泉 旅館 「花屋」に行ってきました!



常楽寺は正式には天台宗金剛山照明院常楽寺といい、北向観音(北向山常楽寺)を護る本坊として観音堂の真北
300mの地に寄り添うようにして建っている。当山は天長二年(825)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により北向観音堂が開創された際に、別所三楽寺のひとつとして建立されたのを始まりとする。


常楽台寺

本堂

 

 

現在の本堂は江戸時代の享保年間(17161736)に建立されたもので、茅葺、寄棟造りで正面中央に唐破風の向拝(ごはい)の突き出たどっしりとした建物である。そして本堂前には地面を這うように四方に枝を張る樹齢300年の「御船の松」と称する老松が植わるが、その老松すらまだ新参者といった、別所温泉の由来にまで通じる古い歴史をこの寺院は有しているのである。


御船ノ松2

御船ノ松

 

 

 本堂裏に弘長2(1262)の銘が記された重文・石造多宝塔が建っている。その場所は、北向観音堂の本尊である千手観音菩薩が大地を割って現れ出でたところといわれ、別所三楽寺(常楽寺・安楽寺・長楽寺)と北向観音との深い因縁を伝えている。

 

 そもそも北向観音の本坊は長楽寺であったという。しかし、長楽寺は江戸時代の正徳四年(1714に観音堂の火災とともに焼失し、以後、再興は果たされず現存していない。さらに焼失する20年前の元禄7年(1694)に、すでに観音堂の本坊が常楽寺へ移っている事実は不可解であり、その経緯をわたしは詳らかにできない。


本堂屋根

石像群

 

その謎の長楽寺は北向観音の階段を下りてすぐ左手に、同寺跡を示す石碑を残すのみである。本坊跡の位置や真っ直ぐの参道突き当りが観音堂という伽藍配置、長楽寺の山号が「北向山」であったと古文書にあることなどから、かつて同寺が観音堂の本坊であったことは確かであろう。石碑の裏面には「長楽寺は、常楽寺・安楽寺と共に別所三楽寺の一寺にして北向観音堂有縁の古刹なりしが、正徳四年(1714)北向観音堂火災によって惜しくも消失、以来再建の挙なく寺跡をとどむるのみ、今ここに碑を建立してその遺跡を永世に伝えるものなり」と記されている。

 

さて、常楽寺には塩田北条氏の二代目である北条国時が、鎌倉への出陣を前に自ら彫ったと伝えられる自身の肖像彫刻が残されているが、当日は常楽寺美術館が閉館になっており、残念ながら拝観することはかなわなかった。

 

つづいて、本堂を左側に回り込んだ山道を上ってゆくと、鬱蒼とした杉木立の森閑とした空間に入る。わたしは一瞬、聖域に足を踏み入れたようなそんな清浄感に襲われた。その昼なお暗い杉木立の突き当りのわずかな高みに鉄柵で囲われて、多宝塔と呼ばれる石塔が建っている。この多宝塔の建つ箇所から千手観音が現われ出でたのかと思うと、ひんやりとした山気を漂わせる静謐な山のなか、自然とおごそかで敬虔な気分になってゆく。



杉木立

石造多宝塔

 

多宝塔に係わる北向観音出現の詳しいことは次のように伝えられる。

 

若竹屋紬店ホームページ総合御案内HPより引用

北向観音出現の話(常楽寺の石造多宝塔)

『今から千百年ほど前の天長二年(825)のころ「七久里の里」とよばれていた別所の東北の山の麓から、毎夜あやしい光がたちのぼりはじめました。やがて、にわかに地の底がうねり出して火の炎は黒煙となって空高く燃え上がり、日増しにはげしくなって人や家畜まで倒れてしまうほどでした。村を治めていた眞庭朝臣(まにはあそん)はこのことを天皇に申し上げました。天皇は大変御心配になり天文博士の安部泰能(やすよし)に命じて占わせましたところ、「奇怪のことなれど、仏縁による兆しあり」との易断が下されました。そこで勅使として良岑安世(よしずみやすよ)と比叡山の円仁慈覚大師とを「七久里の里」につかわされ、百日余の間安鎮の御祈祷を修めさせると、ふしぎなことに坑中から紫の雲が空中にたちのぼり、まぶしいばかりの金の光がさっと南の方へ移っていきました。勅使と円仁は紫雲のたなびいていった方向に行って見たが何も見えません。そこで慈覚大師は深禅定(しんぜんじょう)に入っていると空中に微妙な声がします。耳をすますと、「吾は万民救済を待って今この火坑に出現せる観世音なり、吾が像をとどめ、北に向って安置せよ。あまねく衆生を済度せん」という声と共にみ仏の影は紫の雲と共に大空に上りました。大師は一刀三礼して霊像をほり、その声のあがった場所にお堂を建てました。そして天長三年十月二十五日遷座式(せんざしき)を行い、新しい御堂に尊影を安置しました。そのとき観兜・蓮華・最勝・妙乗の四つの寺もいっしょに建て、観音様を中心とした霊場をつくったと伝えます。なお不思議なことに、このときから別所のここかしこに温泉が湧き出て、人々の病をなおしたのだと申します。この観音様が火坑から現われた霊場は、別所温泉の字大門の山麓にある、常楽寺の境内にありまして、大変神聖視されておりましたが、約七百年前に、頼眞(らいしん)という僧が一石一字の一切経を金銀泥で書き、火坑出現の跡へ納め、後世に石造り多宝塔を建立して火坑出現の跡を後世に伝えたのだと言われております。これが有名な常楽寺の「石造多宝塔」(重要文化財)であります。』

 

 こうした伝承を胸にして杉木立のなかに佇み、苔むしたあまりに簡素な多宝塔を眺めていると、昔の人々の幸せあれかしと信心した心根の豊かさや世の安寧を祈る健やかな心持ちが思われ、殺伐とした現代に生きる者として、ある種の羨望を覚えざるを得なかった。


蓮池

ハギ 


 また、

常楽寺の前住職の半田孝淳大僧正(別所温泉生まれ)は平成192月に天台宗総本山延暦寺の第256世座主に上任された。また、座主の師父である故半田孝海常楽寺元住職は第一回の原水禁世界会議の議長を務めており、核廃絶、平和問題に深い関心を持っていることで著名である。

小豆島・寒霞渓(かんかけい)の紅葉

高速フェリー
高松・草壁港を40分で結ぶ高速フェリー

古名アズキ島の所縁
古名をしのぶ「阿豆枳(あずき)島神社」

小豆島オリーブの実
小豆島の名産・オリーブの実

日本書紀にも記述がある日本の三大奇勝のひとつ、寒霞渓(かんかけい)の紅葉は素晴らしい。頂上付近の紅葉の盛りは過ぎ、中腹辺りが絶景であったとのこと(妻の言)。談山神社ともどもわたしは、今年、写真で紅葉狩りを楽しむことにした。


天下の奇勝
天下の奇勝

岩山に張り付く紅葉
岩山を紅葉が彩る

屹立する岩山の紅葉
紅葉が攻め上る

狭隘な渓谷
狭隘な渓谷

渓谷を埋め尽くす紅葉
眼下に展開する紅葉の海

ロープーウェイから
ロープーウェイより

紅葉を見上げる
紅葉

一面の紅葉
一面の紅葉


2009年・談山神社の紅葉、黄葉

奈良の紅葉
奈良・若草山の紅葉
本殿への階段下鳥居
談山神社鳥居

本殿への階段に紅葉のトンネル
本殿へ黄葉のトンネル


黄葉満開
談山神社の黄葉

十三重塔と紅葉
十三重塔と神廟拝所


今年の紅葉はきれいだという。ここ奈良・多武峰にある談山神社(たんざんじんじゃ)の紅葉はことに有名である。家内が1130日に友人と紅葉狩りをしてきたので、その写真を拝借し、目の保養をしたいと思い、UPした。もちろん、写真の掲載については当人の了解を得ている。30日にはすでに神社の頂上付近の紅葉はもう盛りを過ぎていたとのことであったが、なお、都会の人間には自然が織りなす雅の小世界は、写真ですら、とてもうつくしく、心がいやされる。

 

 それでは、すばらしい紅葉をゆっくりとご堪能いただきたい。

なお、123日現在の談山神社のHP情報では落葉が始まっているとのことである。



黄葉

黄葉満開

十三重塔
十三重塔

神廟拝所
拝殿を望む

神廟拝所を見上げる
拝殿への階段を覆う黄葉

黄葉に緑
黄葉

鳩山由紀夫首相、偽装献金問題=実母から資金提供は相続税逃れ

 政治資金規正法は、「同一の者に対する寄附の制限」について、5章「寄付等に関する制限」のなかの第222項において「個人のする政治活動に関する寄附は、各年中において、政党及び政治資金団体以外の同一の者に対しては、150万円を超えることができない」と規程している。

 

 そして、それに違反する者は「1年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する」との罰則が規程されている。

 

 要は、個人の政治家が指定する資金管理団体(鳩山首相の場合は資金管理団体「友愛政経懇話会がそれに該当)への個人A(実母=鳩山安子)の同一者(鳩山由紀夫首相)への寄付の限度額は、年間で150万円ということであり、それに違反する者(寄付した者・寄付を受けた者)には1年以下の禁錮または50万円以下の罰則が科されるということである。

 

 鳩山首相の実母は弟の邦夫氏にも同様に、同額の150万円を同氏の資金管理団体「新声会」へ寄付している(06年〜08年)ことも分かっている。

 

 その範囲内での政治献金であれば正当な政治活動に対する寄付であるので、何ら後ろ指を指される話ではない。しかし、今回の話は150万円などというちっぽけな(庶民にとっては大金だが・・・)話ではなく、今現在、明らかにされているだけで、月1500万円ずつ、年間で18千万円、5年間で何と9億円という目の玉の飛び出るような金が、鳩山兄弟の資金管理団体にそれぞれ提供されていたというのである。

 

 今回の図式はある意味、単純なものである。政治家と企業や業界団体との癒着といった問題ではなく、鳩山一族の財産分与問題であるという点である。そしてそのあり方に税の問題から見て、非常におかしいところが多いということである。

 

 はっきり言えばこうした定額で継続的に資金移動を行なうことは、資金管理団体を隠れ蓑に相続税逃れを確信的に行なっている気配がかなり濃厚であると言わざるを得ないのである。

 

1130日の参院本会議において、自民党の秋元司参院議員が鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる偽装献金問題について、首相の実母からの多額の資金提供は贈与税支払いの対象であると指摘したことに対し、「仮に母親から資金提供があったとすれば、検察の解明を待ち、法に照らして適切な対応を取りたい」と首相は答えた。さらに「母親から何も聞いていなかったから『親族から資金提供はなかったと信じている』と言ってきた。納税義務を果たさなければならないのは当然のことだ」として、税法上の問題点が指摘されれば、修正申告などに応じるという。

 

 首相はこれまでも「すべて検察の捜査に任せている」とか「報道に大変驚いている。まったく私の知らないところで、何が行われていたのか。事実かどうかを含め大変驚いている。私はないと信じていたし、今でもないと信じていたい」と述べるなど、どこか第三者的で被害者面をして、洞ヶ峠を決め込んでいるように見える。

 

2002年3月、鳩山首相(当時、民主党代表)加藤紘一自民党元幹事長の元事務所代表の脱税事件について、こう放言した。「金庫番だった人の不祥事は、(政治家本人も)共同正犯だ。即、議員辞職すべきだ」と。

 

「友愛」政治の理念を説き、「透明性」を声高に述べ、国民目線の政治を行なうと「義の政治」を宣言する蔭で、こっそりと姑息な税金逃れ、それもとても国民目線では信じられぬ金額を行なう。

 

いや、「恵まれた環境にある」から年間1億8千万円程度のみみっちい小金など分かるはずがない、秘書と母親の間の話で自分は与り知らぬと開き直るのであれば、「友愛」の理念が泣くというものである。そして「透明性」などという目くらましの言葉など多用してもらいたくはない。

 

見つかったら税金払えばいいんでしょう、で、世の中収まると思ったら大甘もいいところである。ここは自民党もしっかりと追及の手を緩めず、元与党の意地を見せて欲しい。また検察庁も不起訴などと弱腰になることなくトコトン、事の詳細を明らかにして欲しい。

 

そして鳩山由紀夫首相には「政治家にとって言葉は命」であることを初心に帰り、問い直して欲しい。一度、口にした言葉は決して消えぬし、国民はそれを忘れない。加藤紘一議員の資金管理団体からの資金流用疑惑について「議員辞職を」とまで迫った鳩山議員である。そして、加藤紘一議員は政治不信の念を国民に抱かせたとして、そのとき、衆議院議員を辞職している。鳩山首相が洞ヶ峠を決め込むなどと考えているとすれば、彼の政治家としての言葉に命はないと、今後、国民は考えるだけである。

 

信州の鎌倉 その3=安楽寺

信州の鎌倉 その1=塩田平

信州の鎌倉 その2=北向観音堂

信州の鎌倉 その4=常楽寺

信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺



上田市別所温泉2361

 

 崇福山安楽寺は別所温泉の北端のあたり、北向観音堂から北西に300mほどの至近に位置する。そして、古来、常楽寺、長楽寺(現存せず)とともに別所三楽寺と称されてきた。

 その沿革を探ると、奈良時代の
天平年間(729749行基建立したとも、いや天長年間(824834)に開かれたといった伝承が残る古刹であるが、その詳細は不明である。歴史上の記録としては、臨済宗をこの寺にもたらした樵谷惟仙[しょうこくいせん]の絡みで寺名が出てくるのが初めてである。惟仙1246年、宋より帰国し、安楽寺を臨済宗の禅寺として開山した。宋から同じ船で入国した鎌倉の建長寺の開基(1253年)である蘭渓道隆との交流により、その名が歴史に記されるところとなった。

 

安楽寺参道
参道から山門を見る

山門扁額
山門に掲げられた山号の扁額

安楽寺本堂
安楽寺本堂

本堂玄関
本堂玄関

御本尊釈迦牟尼仏
御本尊釈迦牟尼像 

 

安楽寺は信州では最古の禅寺である。日本最古の本格的禅寺といわれる京都の建仁寺が1202年の開創であるので(実際の本邦最古の禅寺は、建仁寺の開基でもある栄西が、南宋より帰国し、1195年に開山した福岡市博多区の「聖福寺」である)、それに遅れることわずか44年で、この信州塩田平という小さな盆地に禅寺が営まれたことになる。

 

木曾五木の高野槇
木曾の五木の高野槇の大樹

和洋禅様折衷袴腰鐘楼
明和6年建立の和様・禅宗様折衷の腰袴鐘楼
 

 

 そして、禅寺としての安楽寺が開かれた時代の塩田平は、すでに当ブログ「信州の鎌倉 その1=塩田平」で述べたように、「信州の学海」と称される学問と文化の中心地として栄えていたのである。

 

 したがって樵谷惟仙は、人も通わぬような草深い土地で荒れた廃寺を再興したのではなく、遠隔地から学問を志す若者たちが集ってくる文化の薫り高い、賑わいの地で、「禅」という新しい学問の息吹を伝える講座を既存の寺・学問所、すなわち安楽寺で開いたとするのが、実際のイメージに近いのではないかと考える。

 

樵谷惟仙和尚像
右が安楽寺中興の祖、樵谷和尚像・左は二世の幼牛恵仁和尚像 

 

 蘭渓道隆遺著大覚禅師語録の一節にある建長(鎌倉の建長寺)と塩田(安楽寺)とは各々一刹により、或は百余衆或は五十衆、皆これ聚頭して仏法を学び、道を学ばんことを要す云々」が、往時の塩田平の繁栄を表わしていることも、そう考える重要な要因である。

 

のように安楽寺は、その後の塩田北条氏保護とも相俟って、鎌倉時代中期には相当規模禅寺であったことがうかがえ、しかも別所三楽寺と呼ばれたように、信州学海の巨塔のひとつであったと言ってよいのではなかろうか

 

さらに鎌倉末期から室町初期の間に、当時ではハイカラな禅宗様式の八角三重塔という最新式建築物が建立されたことも、往時における安楽寺の格式の高さを表わす証であると考える。

山腹に聳える八角三重塔
山腹に聳える八角三重塔

詰組の見える三重塔
一番下は裳階(もこし)

八角三重塔
国宝八角三重塔
 

 

そういう想いでこの三重塔を仰ぎ見ると、明治時代におけるレンガ造りの大学の講堂建築の威容がある種、権威の象徴として若者たちの目に映っていたように、この塩田平が勉学に励む若者たちのエネルギーに溢れた学生の街であった頃、若い学僧たちは、塩田平の西方のちょっと小高い山腹に聳え立つこのハイカラな塔を望見しては、先進文化への強烈な憧れを覚えていたのかも知れないと思った。

各層扇垂木
八方に伸びる美しい扇垂木(たるき)

つめぐみ
詰組と呼ばれる木組み

弓形連子
1階部分上部の弓形連子(れんじ)

相輪
相輪の宝珠と水煙と九輪 

 

北条氏滅亡(1333年)後の安楽寺は一番の庇護者を失うことで寺運も傾き、正確な記録も残っていないというが、室町時代天正8年(1580年)頃高山順京(こうざんじゅんきょう)によ再興され、それ以降、曹洞宗寺院となり、現在に至っている


極彩色の扁額
極彩色の扁額

庫裡
庫裡の一風変わった屋根の形
 

 そして、安楽寺の本堂の扁額を見て、「あれっ」と思われた方も多いのではなかろうか。わたしは、その禅寺に似つかわしくない極彩色の色遣いに、即座に宇治の黄檗山萬福寺を想い起したのである。信州の盆地に何故か中華の色合いの濃さに触れたようで、奇異な感じに捉われたのである。


蓮池のアメンボ
蓮池のアメンボ
 

そこで境内の奥に足を踏み入れてみて、得心をしたわけである。八角三重塔へ向かう本堂の脇に経蔵があったが、方三間のぬりこめ、宝形造り、銅版葺きの建物のなかに、八角形の朱塗りの輪蔵(回転式の経典書棚)が収められていた。その経典こそが、寛政5年(1783)に、宇治の萬福寺から購入した黄檗版鉄眼の一切経というではないか。

経蔵説明書き
経蔵の説明書き

輪蔵
回転する朱塗りの輪蔵(中に経典が入っている)

 

したがって当山は曹洞宗というものの黄檗宗の色合いの濃い禅寺とみなすこともできるのではないかと、思ってみたりしたのである。庫裡の一風変わった屋根型、そして山道を少し登ったところに屹立する八角三重塔の純粋な禅様式を見るにおよび、この寺はやはり遠い鎌倉の時代から中華の先進文化を貪欲に吸収するDNAのようなものを、そもそも身内に内在させた不思議な寺なのだと思ったのである。

 

信州の鎌倉 その1=塩田平

信州の鎌倉 その2=北向観音堂

信州の鎌倉 その3=安楽寺

信州の鎌倉 その4=常楽寺

信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺


「信州の鎌倉」は長野県上田市の南西に位置する、東西5キロ、南北2キロ四方の「塩田平」と呼ばれる盆地のことを指す。江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。

 

そしてこの地域は鎌倉・室町時代の文化財の密集地域としてよく知られている。

 

具体的には、日本で唯一の八角の三重塔(安楽寺・国宝)をはじめ、中部日本で最古といわれる中禅寺の薬師堂(重文)、さらに重要文化財としては全国に二つしか指定されていない石造多宝塔(常楽寺)、「未完成の完成塔」と名高い三重塔(前山寺・重文)など、この小さな盆地には鎌倉時代から室町初期の国宝・重文級文化財が集積しているのである。

 

京都・鎌倉以外で中世の文化財がこれほど密集しているところは全国でも珍しい。そのためこの塩田平は「信州の鎌倉」と呼ばれるようになったという。

 

しかし、それではなぜ、信濃国で松本や諏訪という大きな盆地ではなく、この塩田平という小さな盆地に鎌倉文化が密集しているのかという疑問が湧いてくるのだが、解説は以下の通りである。

 

まず、鎌倉幕府と塩田との関係について見ることとする。鎌倉に幕府を開府した源頼朝は、その統治方式として諸国の要衝地に地頭をおき、地頭にその仕置きをさせることで鎌倉からの威令を徹底させ、中央集権政治を確立することとした。したがってその重要な鎌倉の手足となる地頭には、頼朝の信頼の篤い腹心の家臣を任命した。そしてこの塩田地方にも要衝の地として地頭がおかれることになった。

 

塩田地方は平安時代には「塩田庄」と言われ、京都の東寺を別当とする最勝光院【後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺】の庄園であった。その荘園主の格式を考えれば、この地が以前より豊かな土地であることが中央において認識されていたことが分かる。頼朝もその重要性を十分理解し、己れのもっとも信頼する惟宗忠久(後に島津忠久と改姓、薩摩島津氏の祖)を塩田庄の地頭に任命した。ここに塩田平と鎌倉の最初の関係が生まれることとなった。

 

そして、幕府の実権が北条執権家に移るとともに、塩田平を含める信濃国の守護職には、二代執権である義時自らが就任し、信濃国は頼朝以上に重んじられることになった。その証に、義時の後の守護職にも、「連署」(執権に次ぐNO2)の任にある義時の三男、重時が就いている。この塩田がいかに軍略・交通上の要衝であり、穀倉地帯といった地勢状の理由からも、ここを領有するその戦略的・経済的意味は大きかったものと思われる。

 

そして、重時の五男であり、時の「連署」の任にあった義政が1278年、突然、職を辞しこの塩田へ隠遁することになった。義時・重時の守護職の時代から因縁は始まっていたとは言え、とくに義政がこの地に移住し、塩田城を構え、子の国時、孫の俊時と三代、56年間に亙り塩田の地を繁栄させたところから、この塩田平は鎌倉との絆をより深め、信州の鎌倉と称されるような鎌倉文化の色濃い地域に育ったのではなかろうか。

 

北条義政の隠棲の理由はいろいろ言われているが、いまだ本当のところは定かではない。執権時宗との確執も取り沙汰されるが、病気のため要職を辞し、隠遁したというのが妥当ではないかと考える。なぜなら得宗家との確執を抱えた実力者に、幕府が要衝の地とする場所の領有を許すはずがないからである。また国時、俊時もその後も、ちゃんと幕府の要職に就いていることも、塩田北条家が得宗家から疎んじられていないことを証するものである。さらに北条氏一族の滅亡の際(1333年)には、国時、俊時は「いざ鎌倉」と、軍勢を引き連れ奮戦し、鎌倉東勝寺にて北条高時と一緒に壮烈な自害を遂げていることも、北条家の中枢にいつづけた家系であったことが強く推測される。

 

 その一方で、この塩田平は、北条氏との関係が深まる以前から「信州の学海」と呼ばれ、信濃の学問・文化の中心地であった事実も見逃すことはできない。

 

「信州の学海」と呼ばれていた証左が、京都・南禅寺の開祖である無関普門(むかんふもん・生没1212-1292年)の塔銘(高僧の経歴)の一文に残っている。それによると信濃生まれの普門は十代の数年間をこの塩田の地で勉学に励んでいた。その塔銘には「信州に却回して塩田に館す。乃ち信州の学海なり。凡そ経論に渉るの学者とうを担ひ、笈を負ひ、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし」と、当時の学問を志す若者はこの「信州の学海」たる塩田へ遠方地からも集まっていたことが記されているのである。
 

 無関普門が講席に列した1230年前後において、すでに塩田は「信州の学海」と呼称されていた。塩田北条氏の初代北条義政が連署を辞し、この地に隠遁したのは1278年である。その半世紀前にこの地になぜそうした評価がなされていたのかという謎解きは、別途、「生島足島(いくしまたるしま)神社」や「塩野神社」などの考察とあわせ考えねばならぬことである。


 また、安楽寺に臨済宗をもたらした樵谷惟仙も、この地の別所三楽寺のひとつ常楽寺にて16歳まで学んだという記録が残されている。その後、南宋へ留学した樵谷惟仙が1246年に帰朝したのとほぼ同時に安楽寺に入っていることを考慮すると、やはり鎌倉時代の当初にはすでにこの地が信州の学海と呼ばれる高い評価が確立していたと考えるのが妥当である。
 

 いずれにせよ、以上の理由においてこの信州塩田には鎌倉時代の匂いが色濃く残り、その史跡が密集しているのである。以降、数回にわたって「信州の鎌倉巡り」を行なうことにしたい。

秋の京割烹「やました」、行って参りました=京都グルメ


割烹「やました」天下の珍味を堪能!(上)(09.1.16)

割烹「やました」天下の珍味を堪能!(下)――京都グルメ

割烹「やました」・・・京都グルメ編(08.3.14)

葵祭りの日、割烹やましたへ(08.5.21)

食欲の秋!! 京都の「やました」で満喫しました。確実に体重計の針は右に振り切れました。そして翌日のお昼のそば会席「澤正」で食が進まなかった原因は、何と「やました」にありました。写真を見ていたら、こんなに食べているんだから、そりゃ、お昼は会席はないでしょう。そば一枚程度でよかったのだと深く反省しています。


突き当りが「やました」
この押小路の突当り明るい処が「やました」です

やました
やましたの表です 

 

それはそうと、今回の御奨めは二品です。

 

一品目が、何と、十月にも拘わらず鱧(はも)であります。花島氏によれば、秋鱧は脂がのっておいしいんだと言うのです。京都→夏→鱧という単純脳の持ち主には、うん?という感じでしたが、松岡さんの「今日あたりで最後です」のひと言で、「もちろん、お願いします」でした。



脂ののった秋鱧です
脂ののった肉厚の秋鱧

秋鱧の炙り
さっと炙ります
 

 

 そしてお味はというと、これは、またなんという美味!!


肉厚の炙り鱧
炙った秋鱧、美味でした!!
 

 

本当に脂がのった肉厚の鱧を思いがけずにいただいた気持ちは、もう、正月と盆が一緒に来た気分。ちょっと古すぎる表現ですが、古都京都の秋の夜です。許してください。

 

 もう一品が、京都には鯖街道なんて名前があるように、鯖鮨(これホテルにお持ち帰りしちゃったんだよね。食べ過ぎダ!!)・・・ではなく、鯖の刺身でした。これまたビックリ!! 関サバではない、若狭?の鯖でした。いやぁ、張り切って食べちゃいました。おいしかった。


鯖の刺身
鯖のお刺身
 

 

 今年最後の「やました」の夜は、いつもどおり賑やかに看板まで長居をしてしまいました。こうやって写真を見ると、またまた食い意地の張った一夜でありました。


付き出し

岩牡蠣
岩牡蠣でした・・・
松岡氏頑張るの図
松岡さんの包丁さばき
松岡氏の包丁さばき
丁寧にオコゼをさばきます

オコゼの骨抜き
花島さんがオコゼの骨抜きを念入りにやります
オコゼの薄造り
そして、オコゼの薄造りが目の前に
オコゼの骨の唐揚
残った骨もコンガリ唐揚げ、これ絶品!!
花島さんの笑顔
やったぜ、花島さんの破顔一笑!!
焼き物
これも食べてたんだ!!
新人川飛君です!
笑顔の松岡さん、新入りの川飛君をよろしくね!! 

 

そして残念だったのは、大将の山下茂氏がわれわれの訪れた日から骨折した足のボルトを抜くため入院したとのことで、一年間のお礼が言えなかったことでありました。また来年、元気になった大将の包丁でおいしい料理をいただくのを楽しみに「やましたレポート」を終わります。


番菜亭(ばんさいてい)=西麻布グルメ・地酒「元文」

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黒龍しずく=日本酒の旅人

港区西麻布1-4-40

電話:03-5411-1070

 

 番菜亭は六本木の東京ミッドタウンから国立新美術館へ向かう星条旗通りをずっと下り、外苑西通りに出る少し前、左手にある。正面が米軍施設の星条旗新聞社である。


看板

番菜亭暖簾

板長篠宮信之氏
板長の篠宮信之氏

 

 当店は流山で「京料理かねき」(流山市流山5-19-4)を経営する渡辺昭一郎氏(月曜日のみ当店に)がオーナーであるが、大宗は篠宮信之氏が板長として包丁を振るう。料理は「かねき」の流れで、京料理を主体とする美しい盛り付けと品のよい味付けが特徴である。


鳥籠
名物の鳥籠

鳥籠の料理
鳥籠の料理

お造り

あぶり・お造り
お造りに炙りが入る心憎い演出

焼き物

揚げシンジョウ

ご飯お汁

 

 それに左党にうれしいのが、京料理にマッチした「元文」という独特の風味のある地酒が呑めることだ。「元文」は岐阜県郡上市白鳥町の「布屋 原酒造場」が蔵元であるが、その創業が元文五年(1740年)となるところからの命名である。

 

 料理はお品書から一品ごとアラカルトで頼むもよし、ズボラなわたしのようなにお任せでその日の旬のものを適宜、出してもらうのもよい。それでも会計時はリーズナブルな請求額となるので、心配はいらない。西麻布という好立地で上品で粋な料理と旨い地酒で、一万円を少し出るくらいである。

 

カウンターで旨い料理をつまみながら郡上八幡の地酒「元文」を呑む、ちょっとおしゃれで小粋な感じのお店である。そして、たまにはいい女がすっと横にいる・・・などと妄想を逞しくさせる店でもある。

 

黒龍しずく=日本酒の旅人

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「黒龍」は、霊峰白山山系から流れ出る雪解け水が濾過され、名水として湧き出る土地で造られる越前の銘酒である。その黒龍のなかでもこだわりの一本に数えられるのが、限定品の「黒龍しずく」である。


黒龍しずく

 

黒龍酒造?のHPで、その「しずく」は「酒袋より自然に滴り落ちる一滴から『しずく』と名付けられた大寒造りの大吟醸酒。透き通るように綺麗な味わいをお楽しみ下さい」とある。一献というより、まさに、その「ひと滴」に籠められた杜氏・畑山浩氏らの日本酒への想いが伝わる、雪消水(ゆきげみず)のひんやりとした透明感あふれる口触りである。



番菜亭(ばんさいてい)=西麻布グルメ・地酒「元文」
 

西麻布にある「番菜亭(ばんさいてい)」(港区西麻布1-4-40篠ビル1F)で、オーナーの渡辺昭一郎氏(「京料理かねき」の店主:流山市流山5-19-4)から薦められたレアものの銘酒であった。

 

酒造?福井県吉田郡永平寺町松岡春日1-38】は、創業が文化元年(1804年)と二百年もの歴史を有する造り酒屋である。

株式市場(TOPIX)の年初来変化率が日本のみマイナスへ

 菅直人副総理(経済財政担当)が20日の記者会見で、日本経済は「デフレ状況という認識だ」と発言した。しかし、「日銀と協力して・・・」といった発言に、現下の経済の深刻な事態に対する今後の対応を語る様子はまるで評論家のようで他人ごとであった。

 

 いま、事業仕分けで予算の絞り込みが行われている。ムダを省くのは当然のことであるが、その一方で経済がここまで落ち込んでいるなかで、早急な景気刺激策が求められていることも事実である。

 

そうしたなか、政権中枢の副総理が、しかも国家戦略を任された経済財政担当大臣が、デフレ脱却を日銀の金融政策に任せるだけで、財政面で何ら具体的な施策、方針も打ち出さないとは驚きを越えて、この人は経済の実態が肌身で分かっているのだろうかと、政治家としての資質を疑わざるを得ない。こうした宣言をするときには、具体的対応策を同時に提示し、市場の動揺を抑えるということなど、危機管理のイロハ中のイロハであろうと考えるが。

 

菅副総理はなるほど国会論戦における舌鋒には鋭いものがあるが、経済政策は口先だけでどうにかなるものではない。政権発足後2カ月を超えた今、TOPIXが年初来の変化率でマイナスになったという。G7各国の株式市場がほぼ20%から30%の伸び率を示すなかで、日本のみ▲1.07%である。それもここひと月ほどで一段と落ち込みがひどくなっている。成長地域と言われるアジア市場を見ても、中国の81.42%、韓国の42.64%、インドの76.20%、台湾の69.16%と、軒並みの大幅な伸び率に較べ、わが国の体たらくぶりが際立っているのである。

 

民主党政権発足後のTOPIXの動きを見ると、9/16931.4310/19905.8011/19837.71と直近までに9/24950.20の発足後の最高値を記録したものの、大勢は右肩下がりで下落している。発足後わずか2カ月の間でも11.2%のマイナス、特にこのひと月で8.1%もの大幅マイナスとなっているのである。

 

 市場は民主党政権の経済政策を好感していないことは明らかである。ここひと月の市場の冷たさはとくに気味が悪い。そのうえでの20日の菅副総理の他人ごとの「デフレ宣言」である。また、一段と市場心理が冷え込んでゆくことは確かである。口先の説明はもういい加減にして欲しい。無駄な公共工事を止めるのはよいが、その削った資金で経済をそれこそ自律回復させる「玄人の景気刺激策」を早急に打ち出すべきである。もう、国民と新政権とのハネムーン期間も終わりである。金の切れ目が縁の切れ目と昔の人は、よくぞ言ったものである。

宝塚花組公演「外伝ベルサイユのばら―アンドレ編」見ちゃいました!!

 東京宝塚劇場に初めて足を踏み入れた。いやぁ、この歳になってなんですが、世の中、やはり百聞は一見に如かずで、食わず嫌いは駄目ということをトコトン知らされた一晩でした。宝塚の組の名前もよく知らぬ人間が、「ベルばら」を見に行くとは、時代も変われば変わるもんだと、自分ながら感心している。


東京宝塚劇場
東京宝塚劇場

演目
外伝ベルサイユのばら

劇場大階段
劇場内大階段
 

 

 今回は「外伝ベルサイユのばら―アンドレ編」ということで、昨年初演のものであった。これからの宝塚情報はすべて、後に自宅でWikipediaで調べたものである。何せ、役者、いや「生徒」の名前すらまったく知らぬ人間だったのだから。アンドレ役の真飛聖(まとび・せい)やアラン役の壮一帆(そう・かずほ)の絡むくさいセリフや気障な演技も、最初から宝塚はそういうものだと覚悟して観ると、実は結構ズッポリはまってしまうのに正直、自分で驚いている。マリーズ役の桜乃彩音(さくらの・あやね)も美しくてよい、なんて、なってしまう・・・。何しろこうあって欲しいと観客が思う筋立てが、その通りに用意されているのが、何といっても心地よい。その見る者を裏切らぬ安心感が、特に昨今の不安定な社会情勢のなかでは、とてつもなく貴重なものに思えてくるから不思議だ。


exciter開演前
EXCITER!!レヴュー開演前

 

 

 またレヴューも華やかだと聞かされてはいたが、当日の「EXCITER!!★」の舞台美術の派手さや衣装のド派手さもここまで究めれば、これまた演じる者と観客の約束事であるので、それはそれで十分な納得感があった。横の家内も娘も、大勢の観客と一緒になって手拍子を打っていたのだから(さすがに私は手拍子はグッと堪えたが・・・)。

 

いやぁ、暗い世の中にもこんなに華やかで明るい世界が存在したとは、本当にビックリである。永田町の先生方もぜひ一度、宝塚へ足を運んでいただき、観劇後に劇場を後にする庶民の「安心と納得」の表情とは、こういうものなのだということを見てもらいたい。そして、そうした顔に国民がなる「安心と納得」の政治を行なって欲しいと心から願う。


終演
終演後の場内
 

 

 それはそうと、こうなると「外伝」ではなく「ベルサイユのばら」の本編を観たいと思うのは人情というものである。しかしスケジュールを調べてみて、2006年を最後にその後の公演がないことを知った。歌舞伎のように当り狂言はいつでもやるといったものではないと分かって、ガックリ!! 仕様がないから「BOOKOFFで漫画本から始めるか」と、家内と話し合ったところである。


  それにしても真飛聖って、なかなか、いいんじゃない?

ちょっと待て、強行採決、話が違うぞ民主党!!=「返済猶予法案」たった一日の審議

最近の民主党の遣り口には、率直に疑問を呈せざるを得ない。それもこれまで同党が自民党政治揶揄してきた政治の透明性という問題だけでなく、悪質性の高い隠蔽の気配なり、嘘で誤魔化そうといった国民に対する不誠実な態度が目につくのである。

 

 「中小企業等金融円滑化法案」(返済猶予法案)が衆議院財務金融委員会で審議入りしたのは18日である。その翌日の19日には、同委員会で自民・公明両党欠席のまま採決が強行された。それにつづく20日未明の衆議院本会議でも、自民・公明党などが退席するなか強行採決が行なわれた。

 

 審議日数がたった一日の強行採決にはさすがに呆れたが、その採決を強行したことについて民主党の国対委員長が「何といわれても、国民生活を守ることが大事」と語り、鳩山由紀夫総理が「強行採決というより、審議拒否だ。審議拒否みたいなこと、お互いにやるべきではない」と答えるにいたっては、もう何をか況やである。こんなやり方で国民の生活を守ってくれと、われわれは民主党に頼んだ覚えはないし、一見、誠実に見える鳩山総理の口からこんな詭弁が飛び出すなど思ってもみなかった。

 

 野党時代の言動と較べて、今回の強行採決という国会運営は呆れ返るものの、官房機密費についての平野博文官房長官の説明は、国民に嘘にも等しい不誠実で稚拙対応を行なったという意味で、悪質性高いと言わざるを得ない

 

 平野官房長官は政権発足直後の917日の記者会見では機密費について「そんなものあるんですか。全く承知していないからコメントできない」と語ったが、1ヵ月半後の115日の会見では、政権発足前後に河村建夫前官房長官から引き継ぎを受けていたことを認めた。

 

このことを好意的に見れば、野党時代の2001年に機密費支払記録作成や公表の義務化を謳った「機密費改革法案」を提出したことやその後も使途の公表を迫っていたことなどとの整合性に苦慮したことは想像に難くない。

 

しかし政権の座につくや否や「そんなものあるんですか」では、これまで同党が言ってきた透明性の高い政治とは真逆の言動であると断じざるを得ないのである。機密費に関する一連の官房長の発言は「おとぼけ」という表現ですます話とは自ずから性質が異なるというものだ。

 

国益に反するものを公開する必要のないことは、われわれでも分かる。だから正直に最初から「野党時代の機密費公開という主張は言い過ぎであった。政権を取ってみて分かった部分は大きい。国益に関する機密性が高いものについては、公開等透明性の確保については「機密費改革法案」の精神を生かしつつ、国益の担保を前提に然るべく対応する」と言えばよかったのだ。「そんなものあるんですか」は、腐った政権党の辞書にしか掲載されていない言葉であることを、平野官房長官は知るべきである。

 

 さて、政権を民主党へ、二大政党政治を選択したいとするのは、小沢一郎民主党幹事長でも、鳩山由紀夫総理の思いでもない。ほかならぬ国民がそうあって欲しいと願ったから、その一歩として政権交代が実現できたのである。しか、それはあくまでも民意を反映する透明性の高い政治を国民が期待してのことであることを民主党は忘れてはならない

 

 然るに、今、われわれが目にしている国会の状態は、自民党政権時代と何ら変わることのない光景である。野党時代から強行採決は国会軽視だと憤慨し、数による暴挙は許せぬと拳を振り上げていた政党が与党になった途端、全く同じ行動をとったさらに、来週には各委員会で短時日の審議を行い、すべての法案を一斉に通すと息巻いているという。これは、判然言って、国民に対する裏切り行為である。いやそれ以上に、声高に自民党の政治手法を非難してきた分だけ、一層、罪は重いと言わざるを得ない。攻守処を替えた山岡国対委員長が強行採決という国会運営について「国民生活を守ることが大事」と嘯(うそぶ)いたなどは、笑止千万と言うものである。

 

 さらに、小沢幹事長、鳩山総理にかけられ政治献金疑惑に絡、この強引な国会審議日程のごり押しがあるのだと言われるのも、実際に疑惑隠しと言われても致し方ないところである。

 

 政府・与党の実質的なNO1の人物に対する献金疑惑である。あらぬ嫌疑であるというのなら、堂々と国会の場、国民の目の前で説明すればよい。現在の審議時間もないような国会運営では、疑惑の目が向けられていることを何とか糊塗しようとしているとしか見えぬのは、「普通の国民」の「普通の感想」である。

 

 また、鳩山総理の、日々その傾向は強まっているようだが、暖簾に腕押し的な態度が気になる。総理のそうした言動が、国民が期待した透明で分かりやすい政治とは対極にあるものだからである。支持率が低迷を続けたかつての自民党政治のと変わらぬのである。そして、それ以上に革新を期待した分だけ、その失望感と怒りは限りなく大きなものとなってゆく。

 

 このままでは、国民の期待する自民党政治の大掃除は出来ず仕舞いで、尻切れトンボのままこの政権交代劇は水泡に帰してしまう。もう一度、民主党は目覚めて欲しい。国民目線の政治への回帰を・・・。

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